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かわかつ様 教えてたもれ。
2005年12月31日 1:25:26 いばらの紀氏

 古代日本いや世界2大派閥「法」Vs「豊穣」・・・・「楚」(蘇民将来)VS「秦」
「楚」(蘇民将来)VS「秦」(秦の始皇帝系)?
「宇佐八幡」は「ウ」を助ける(八幡」(8方の旗)
「幡」(8方の旗)と「秦」(秦の始皇帝系)と「秦氏」(中臣 藤原氏)との関係?・・仰せ下さい。

世界2大派閥「法」Vs「豊穣」 「YHWH」(火の神?)VS「バール神」牛トーテム(禹氏?)・ミリバール(雨神?へび・龍?)
「風神?雷神?」もお教え頂ければ 幸いな紀氏です。


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訂正
2005年12月31日 1:28:42 いばらの紀氏
「法」Vs「豊穣」・・・・「楚」(蘇民将来)VS「秦」
「法」「秦」Vs「豊穣」楚」(蘇民将来)です。


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チョッピリの訂正。
2005年12月31日 1:57:45 いばらの紀氏
 蘇民の「蘇」=「++」(にほんのクロス)+「魚」(キリスト系)
+「ノ木 禾(カ ワ いね のぎ)・・・カ=夏  
ワ=倭 和 羽 輪 我 窪(久保)吾(胡 呉 午)琶 杷 把
    あらためまして漢字は奥が深いですね。



旧年中はいろいろとお世話になりました。
2005年12月30日 17:10:02 かわかつ WEB
鶏が飛び立ち、犬が駈けて参ります。
今年は酉年の母が往生し、来年早々に一周忌。新年挨拶や、お歳暮などすべて省略いたしました。
おせち料理はそこそこに、高い買い物も控え、結局、先ほど煮物を2種類、トンポーロー、あとは簡単な総菜を15種ほどこじんまりと魚菜の精進などを作り終え、庭の掃除などで、かれこれ4時間ほどの行程をすませたところ。
明日朝、施設に父を迎えに参り、市街のラーメン屋で買った、本格ラーメンを食べさせ・・・父はこれが死ぬほど好きでございます・・・あとは近くの100野菜で雑煮の菜を手に入れ、柚のお風呂に入れ、背中のひとつも洗ってやり、落ち着いたところで柔らかいじぶ煮で一献。老いた父とひねたせがれの二人酒盛りといったところでしょうか。
お重は煮物を省くと、2段。
市販のものは手を入れ直して味を整え、昼過ぎからつめていきます。
まあひまがあれば、明日、写真をアップできるかと思っております。
では皆様、来年お会いしましょう。   かわかつ亭主敬白


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こちらこそ来年もよろしく
2005年12月30日 20:52:51 タックン
今年はかわかつさんや、管理人様と合えて有意義な一年を過ごしました。
オフ会では勉強になる事ばかり、まだまだ勉強不足を自分自身痛感して、考古学ばかりに終始して拘っていてはいけないと感じました。
正月は、溜まっている本を読みふけようと思っております。
今年のオフ会でもまた、皆さんにご教示くださいますよう御願いいたします。
ところで来年2月中旬頃に、若狭の美浜町で面白いシンポが行われます。
一回目は興道寺廃寺、二回目は興道寺遺跡(製塩遺跡)のシンポです。
私はこの一回目の、廃寺のほうのシンポに行ってきます。
最近美浜町では発掘調査が盛んに行われていて、興味ある遺跡や古墳が発表されて今後若狭地域の考古に新しい資料が増えつつあります。
これまで纏まった資料が少なかった地域でしたが、今後の調査でこの地域の歴史に光が当たってくる事と思います。
来年も皆さん、宜しく御願いいたします。


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古代史を学ぶ楽しさ
2005年12月30日 22:29:06 とみた
齢をとると加速度的に一年が過ぎ行きます。

私は古代史に興味を抱いて丸二年になります。今年は南九州、中国とシルクロード、そして北関東の古墳、最後に皆さんと飛鳥を訪ねることができました。

皆さんは十年xnで勉強されておられますが、私はたった二年それでも本も沢山読んで、毎日が充実しております。

もっと若いときから興味を抱いておればと少し悔やんでおりますが

これも仕方ありません。

皆様には沢山の時間が残されております。オリジナルな古代史の地平を見つけてください。

私は、おかげで健康ですから来年も研鑽を積むつもりです。
妙な発言をするやも知れませんが、自分なりに納得できるように本格的な専門書を多角的に読み続けるつもりでおります。

シュメールの本も読み終え、今は日本の神々、日本の古代語を探る、シルクロード全史、DNAから見た日本人を読んでおります。

来年もよろしくご厚誼ご指導のほどお願いします。


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今年もお世話になりました。
2005年12月30日 23:46:47 管理人
今年も一年みなさんお世話になりました。
振り返ると、去年から私もバイクで探索に行き始め、地に足がつく形ではじめて全国に展開しはじめたのですが、今年は全国各地の常連さんがたくさん増えて、深い交流がはじまり、ついには2回もオフ会が開かれました。研究会としても格段とステップアップした年であったと感じます。
来年は、さらにステップアップして、勉強会・発表会?・・・・と、重要な機会にも遭遇するような予感がしておりますが、みなさんとの交流とても楽しみにしています。来年もよろしくお願いいたします。

管理人


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皆様のお陰で充実の一年(一念)でした。
2005年12月31日 1:41:23 いばらの紀氏
 毎年 お世話るお邪魔ム氏ですが今後ともよろしく御願いモウ氏あげます。 
 ウ氏=牛=丑=牛頭=禹氏=バール   
(う禹胡鵜烏兎雨宇羽菟芋右卯・・・に拘る 紀氏でした。



ヤマトタケルライン
2005年12月30日 9:22:34 管理人
原稿集との関連で、ヤマトタケル伝承に関するレイラインを作成してみました。
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/chizu02.htm
白鳥陵→伊勢能褒墓→熱田神宮→信濃坂→碓氷坂 斜め西南→東北ラインが出てきていますのでご確認ください。
原稿集のヤマトタケル部分の記載も大幅修正しました。
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kyuyaku.htm

なお、岩波の日本書紀の注釈を主に参考にしています。
今原稿を書く上で、問題となっているのは、このライン上に伊勢(鈴鹿市)の能褒墓や白鳥陵という後期大型古墳?が介入してきていることです。
だから、ただのレイラインにもとづく人為的神話伝承とは片付けられず、その軍事支配背景があった可能性があるかどうか今悩んでいます。そもそも雄略はいたのでしょうか?ヤマトタケルは雄略でしょうか??ただ、雄略でも日本武尊伝承でも神と戦っており、その戦い方が旧約とかなり類似性がつよいことは原稿集に書きましたので、ご参照ください。
原稿では葛城一言主社と雄略の関係がつよいのに対し、一言主社とヤマトタケル伝承との関係はレイライン以外に出てきておらず、かなり論理が弱いのがネックです。アドバイスお待ちしています。



地名の由来
2005年12月29日 20:07:56 タックン
神社の本を読んでいると、地名の由来がその地に鎮座しているのに大きく関係していることが最近わかってきました。
以前からこの事は気になっていたんですが、古墳・遺跡に重視し偏重な目で見ていて、此処の周辺に存在している神社などは見過ごしていた感がありました。
確かに弥生時代の祭祀遺跡などは、近隣やその遺跡自体の上に神社などが祀られており、その遺跡から出土した銅剣・銅矛などが神宝や御神体などになってしまっているなども多々あります。
話が少しそれてしまいましたが、地名の由来はそこかしこにありますが、元を辿っていくと少なからず神社の存在というのにぶつかってくる感があり、その地の由来というのも神社の名前などからつけられたというのが多そうです。
志賀剛博士は、この式内社の研究の知名考証の中で、アイヌ語の語源を活用して考証されており、かなり私自身興味のある研究で個人的には以前から注目しています。
ただ全ての語源がアイヌ語から来ているとは言えませんが、かなり先住民族或いは後からの移住した氏族が、元々のアイヌ語を使って私用していてその呼び名で通用していた土地の名前を、音を変化させていって後には人知れずこの現在の呼び名に自然に変化して行ったのではないか?と考えています。


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縄文人
2005年12月30日 1:35:49 管理人
タックンさん、情報ありがとうございます。渡来人研究会、非渡来人を明らかにするために、まず、アイヌ語を使用している人々と、そうでない渡来系?言語、地名に由来する人々を明確化できるとと感じました。神社も縄文・アイヌ系、渡来系、と分離できるかな??



銅鐸と三角点
2005年12月29日 17:41:17 いばらの紀氏
銅鐸と三角点

 私は 巨石 銅鐸は禹 出雲系の測量士が測量のポイントに置いた(設置)と考えています。
古墳時代の古墳は始皇帝系の物部と秦氏系?と考えています。
「銅鐸」と「三角点」で検索しましたので、御覧下さい。

柚津(3等三角点 269m)に至る尾根上に野々野南城館があり、更に北に向い260m峰から西へ延びる尾根末端が塩谷集落に落ち込みますが、其の長い尾根上にも野々野北城館の遺構が点々と残るようです。その丘陵部突端の塩谷には、丹波では珍しい銅鐸が出土した野ノ間遺跡があって、今まで不明だった銅鐸の埋納状況が発掘で明らかになった事が特筆されるようです。
http://www.ne.jp/asahi/tanba/kirinosato/TANBA-jyougakosi-siro-docu.htm
野々間遺跡(銅鐸出土地)
愛宕山の常夜燈の横から中腹に登と、役行者を祀る祠があります。地元では・ご神体の銅鐸が何時の頃か山麓へズレ落ちて埋まったものか、発見箇所に埋められのではと云われているようですが、この説では無理があるようですね。
丘陵を東の山頂部に向う途中に一箇所平坦地があるだけで、斜面は急になってきたが程なく三角点標石を朱色にスプレーされた点名:多利(4等三角点 222m)が本の丸とも思える小広い平坦地です。

。 ... の「桜ヶ丘遺跡」に行った。 ここは弥生時代の銅鐸が大量に発 見された場所である。 ...
http://inoues.net/ruins/uguisuduka.html

神奈備掲示板の案内とログ 掲示板のログ(平成十六年 六月)お名前の敬称は省略しています ... (日本の装飾古墳や銅鐸の紋様と同じ、蛇の象徴とみています) ... (地名に三国(ミクニ・サンゴク)・見国・国見が付く地名や山・峠・半島などは特別な三角点と考えられます。) 天皇陵(はんぜい ...

銅鐸銅剣出土地分岐点8:02~05 ... 4月に早朝山行した武田山といい、最近中世山城づいている。 三等三角点が設置されている。
http://www.erde.co.jp/yama/yamaML/chugoku/hirosima/kinomune/kinomune.htm

「国宝・桜ヶ丘銅鐸・銅戈」出土の地の標識が ... 銅鐸は全部で14個と銅戈7本(桜ヶ丘で土砂採集作業中に一ヶ所から出土した)。 油こぶし 油こぶし 三等三角点(625 ...
http://www.hi-ho.ne.jp/ookit/om2005/omoide05024/om050320.htm


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2005年12月29日 17:42:09 いばらの紀氏
どうたく 【銅鐸】 [歴]弥生式時代の日本特有の青銅 ... 近くにある標 高271メートルの山。 . 山頂には三等三角点があり、近くに経塚がある ...
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/japanese/touta.htm

三角点が広い広場の真ん中に立っている。 ... 振り返ると山頂が望め「広島県史跡銅鐸銅剣出土地」の案内標識があり、真っ直ぐの ...
http://kouchi-hi.web.infoseek.co.jp/yamaaruki-repo/350-kinomuneyama/350-kinomuneyama.htm

ここは一等三角点。 滋賀県の一等三角点は9山あり、伊吹山 ... は日野さんの案内で三上山の北、銅鐸博物館(野洲市歴史民族博物館)に立ち寄り、2,000 ...
雪野山は古墳の山である(注1)。山頂は古墳を調査して埋め戻した跡らしく、周囲に土嚢が置かれており、前方後円墳の円に当たるところは平坦にならしてある。説明によれば次のとおり。
http://www.globetown.net/~kinoko1/h20050211.html

銅鐸・多鈕細文鏡が伴出。 古墳では古墳中期の代表的なものが存在し ... 標高・海抜(三角点)1112m、最高点1125m、古くは葛城山・高天(高間)山とも呼ばれ、山頂部は ...
http://www.asukanet.gr.jp/katuragi/gose.html

一等三角点を撮影して日出ガ岳を後にした。 ... 台地に到着する。 神武天皇の銅鐸や魔物を封じ込めたという牛石や御手洗池がある。 ...
「神武天皇像」が建っている「牛石ガ原」の台地に到着する。神武天皇の銅鐸や魔物を封じ込めたという牛石や御手洗池がある。
http://www.mtweb.jp/yamatabi/hyaku/odaigahara/odaigahara.htm


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2005年12月29日 17:44:45 いばらの紀氏
... 林の中の道の脇に三角点がある。 祠はなく見過ごしてしまう山頂である。 ... 柏原市大県地方は縄文期の鋳鉄や鉄斧、弥生期の銅鐸、鏡、古墳時代の鍛冶工房が発掘された。 ...
、天暦9年(790)参議阿部是雄が邂逅山に一寺を建立し、19の坊舎のある巨刹であった。平安時代三井寺で修行した千観が、三井寺は西に山を控えているので「日想観」ができないと、土地を求めてここに来て、「金色の雲が湧く山がある・・・・・・」とこの寺を再興した。
山頂に新しい木彫の山の神が祀られている。祠はない。昔は水神の宇賀御魂神が祀られていた。山麓の奈佐原の雨乞い神事では、宇賀神が少女に降臨し、御輿を山頂に担ぎ上げると、渓谷に水が湧き出て長くかれることがなかったという。この木彫は宇賀神であろうか。それとも宇賀神が降臨した少女であろうか。
 「貴人の墓」といわれる古墳は、高く伸びたウバメガシの列植に囲まれて、小さい石碑があるだけで

奈良県の多武峰(談山あるいは御破裂山)に登ったとき藤原鎌足の塚があった。その塚は鎌足の子の僧定恵が摂津国安威(阿武)山から多武峰に移したものだ、と多武峰縁起に書かれているという。そういうことから阿武山の古墳は藤原の鎌足の墓であろうといわれる
三角点があり、熊野権現の石祠がある。隣に大きな反射板がある。かっては山岳霊場であった。湯谷という名前については、湯谷村の東、万願寺村に行く路傍に湯壺といわれる石舟があり、温泉が湧いていたと伝えられる。湯舟は今万願寺にある。
 登山口の玉依神社に回ってみるが、神武天皇の母堂玉依比売を祀っているのか詳細は分からない
猪名川不動尊は鎌倉の不動さんと呼んでいた
山頂に9:50着く。雪は数センチあり、樹木の中に三角点がある。隣に高圧電線路鉄塔が立つ。祠はない。
この山は昔は美奴売山といい、美奴売の神がおられた。神功皇后の三韓遠征の船材を供給したと伝える。源平合戦の古戦場となり、清山寺があったが元亀2年(1571)清山寺合戦で焼失し、山麓の神山の地に再建された。
行者山からの下りたくさんの巨岩が連続する。それぞれに仏が祀られている。とび岩、のぼり岩、天の川(岩面に縞模様)、理源大師座像、弥勒菩薩、達磨大師、大日如来などである。 
巨大な仏像が幾つも立っている
寛永の頃牛頭天王を勧請し、背後の岩屋には守護神として身延山七面天女を祀った


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2005年12月29日 17:45:55 いばらの紀氏
行基が開山。為楽山大空寺(真言宗)であった。天正の頃この地方の領主能勢頼次は日蓮宗に帰依しており、領内の寺院を日蓮宗に改宗させた。そして大空寺跡に大空寺城を築城し、その守護神に妙見大菩薩を祀った。これが妙見宮の始まりという。
マリアの墓、高札場跡などがある。高山西方寺(真宗)は、ルイス・フロイス著「日本史」に、飛騨高山守の母が小さい寺を持って、キリシタン改宗後、そこでミサや説教を行っていたと書かれているが、その寺でないかといわれる
源氏の滝は交野山が山岳霊場であった頃、行場で、滝の籠もり堂があり不動明王が祀られていた。天平年間開かれた開元寺があったので開元寺滝といった。いつしか源氏滝となった。開元寺は鎌倉時代交野山の山上に移った
御机神社がある。素戔嗚尊を祀る牛頭天王社で三好長慶が飯盛山に居城していた頃に鎮守社として祀ったものである
蘇我馬子が鎮護国家を念じて建立したと伝える。その時境内の池に悪龍が棲み寺僧や住民に危害を加えるので蘇我馬子が戒めたら立ち去ったという。9世紀の頃この池が枯渇したが、空海が祈祷したところ清泉が湧き出したので、これを寺名とした
三つ辻・五つ辻と十五丁石地蔵分岐に来て行き過ぎと気づく。そして槇尾山という山頂はなく、山体の総称とガイドブックにあり

新羅から飛来した雷神を祀った
神社は雨山竜王社跡で闇オカミを祭神とする。闇オカミは先の神於山の意賀美神社の闇意賀美神(くらおかみ)と同じ雨乞いの神である。
だんじり祭りの功労者が祀られている
小富士山 小さい平場に三角点がある
本尊倶利伽羅不動明王(秘仏)を刻んで開山したと伝え、葛城修験道場の中心行場であった。
鍛冶の神、鐸比古を祀る
山頂に弥生期の古墳があり、祭祀が行われていた。高尾山は神奈備山で、山頂の大岩、岩場は磐坐として信仰され、高尾大明神、比売御前と呼ばれていた。雨乞いの神で里人は松明を持って登山し祈願した。こうした神奈備信仰と習合したものといわれる
http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/oosaka.htm


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四ッ池遺跡と古墳物語
2005年12月29日 17:47:23 いばらの紀氏
  四ッ池遺跡と古墳物語
浜寺中学校は「四ッ池遺跡」の中に建っています

三叉路(現在は5又路)には、奈良の石舞台
のような巨大な岩室がありました。
天井の岩盤の上には土がその当時はまだ残っていて、やゝ小振りの松の木が生えていました。
道の三角点にデンとこの岩室は構えていましたので、リャカー(今や死語)などは窮屈そうに、
その脇を通っていたものです。

道路の十字マーク付近が岩室の有った地点
http://www.sakai.zaq.ne.jp/plaza_hoso/hamadera/konjak%202.html

全国一の銅剣、銅鐸の出土数を誇る島根県には、大国主命、須佐之男命など神話ゆかりの山、出雲風土記にも記された山、石見銀山 ... モリブデン鉱山のあった山で一等三角点からの眺望が良い。 ...
http://www.d3.dion.ne.jp/~maki_sr/shimane.htm


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紀氏さん
2005年12月30日 1:45:37 管理人
巨石文化と海面上昇時の山への石の運搬については、どうでしょう。



二線の交わるところ。
2005年12月29日 12:16:37 いばらの紀氏
【點(点)】てん:黒+占う(調べるの意も有る。) ある場所や箇所を示す語。二線の交わるところ。
【測點】と刻字のついた標石があります。
    三角点から屋根つきの休憩所をはさんで反対側の高さ1メートル程度のマウンド上に「明治廿九年 宮古村」と刻字された雷神塔や方位盤などと一緒に設置されています。
偶然とは思いますが共通した環境です。
文化財史跡「甲山第一号古墳 甲山寺」になっていますが、奈良市若草山にある奈良市の「大三角点」も近くに古墳や国土地理院の三等三角点があり偶然とは思いますが共通した環境です。
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s300sonotafurui.html
鶯塚古墳には現行の341.8メートルの三等三角点「三笠山」
http://inoues.net/ruins/uguisuduka.html
野田山三角点古墳(金沢市) 西方寺2・3号窯試掘(珠洲市) ...
http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/ishikawa4.htm
見晴らしの良い丘や山頂、神社やお寺、学校や古墳等で中心に十字のある花崗岩(御影石)を見かけたことがあると思います。これが三角点です
この三角点があるのはお寺の墓地の隅なのですが
http://www.arai-chosa.com/sub02.html
高塚山古墳 (桑名市大字北別所字高塚)
後円部墳頂に標高88.8mの三角点があります。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~ito/arctakatukayama.htm


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古墳と一等三角点
2005年12月29日 12:17:43 いばらの紀氏

http://homepage1.nifty.com/kibojin/chu_en/1999a/kyomi.html
芝公園の芝丸山古墳の北頂部 伊能忠敬の墓 遺言で師の至時 ... 横山町? 日本で最初の三角点標石? 三角測量によって設置された標石の最初は、 ...
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/mapsuv200/shiseki/tokyo.htm
一等三角点「東京」があり、ロシア大使館の西角の警視庁の警備ボックス脇には平面に「不」記号が刻まれた標石があり、桜田通り西側の八幡神社を登った鳥居の左柱には、几号高低測量の水準点がある。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/mapsuv200/shiseki/tokyo/to19.htm
日本で最初の三角点標石
皇居東御苑の天守閣跡石垣の東南端には、三等三角点「本丸」(明治35年10月設置)が確認できるが
標石のルーツや、「米山」、「雲取山」にある大小二つの石の役割などについては解明できなかったものの、対角線の刻みと錘形の類似が、いずれも内務省地理局測点の流れを汲むものであることを暗示している
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/mapsuv200/shiseki/kinki/kk6.htm
内務省地理局測点
現在、米山(新潟県)と雲取山(東京都)の現存が確認されている。
 ついさきごろ、群馬県赤久縄山の西北西にある白髪岩に同測点標石の存在が確認された
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/mapsuv200/shiseki/etc/et4.htm
古墳はその南側寄りに占地し、墳丘頂部には、標高52.02mを示す三角点が据えられている。
http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0803.htm


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住吉墓苑南古墳
2005年12月29日 12:18:42 いばらの紀氏

三角点とは見晴らしのよい小高い丘や山の頂上などに設置され、距離や方位などを割り出す点として、三角測量に使われます ...
http://www.city.hamamatsu-szo.ed.jp/takadai-j/up12/shakai/shak.htm
五塚原(い つかはら)古墳です
部の頂上には標高69.7メートルの三角点が設 置されています ...
http://www.paw.hi-ho.ne.jp/ookit2/yama_3kaku/t5kinki/p52kyoto/p3_itukahara/itukahara.htm
http://www.city.muko.kyoto.jp/media/muko2004/040915h/04091504.pdf#search='三角点%20%20測量%20古墳'
「山王塚」または「三ノ塚」といわれる古墳のような小さな盛土の上に標石が
山王台は当時の三角網図から第2号測点の位置であることと蓋石の大きさ、形状から遊歩規程標石であることがあきらかです。山頂から60メートルほど下に位置し、またそばの樹木にしめ飾りがあることから後年この位置に移設されたことが推定できます。
蓋石は元位置に「山の神」として祀っているが本体はどうなったか覚えていないとのことでした。
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s060yuuho.html
三角点分岐の東の鞍部は「瞑想の撓(たわ)」と名前が付けられている。由来は分からない。
傾斜が緩やかになり、小さめの古墳の石室が現れた。二つ目の古墳には「国有林」のアングル杭が立てられている。
11:24
岩見坂に下り立った。町界よりもかなり南だ。下山口には「御津山脈縦走路 Y山 登山口」の案内板がある。
東側のX山(175m標高点の山)への上り口はさらに南にある。取り付けはアスファルト舗装の脇道だが、車が登れるか怪しいぐらい急だ。「御津山脈縦走路 X山 登山口」の案内板がある。
道路はすぐ行き止まりで、その先には天井石の残った古墳がある。
シダの茂った急坂を登って行くと、頂上近くに南の展望が良いポイントがあり、岩見港がよく見える。
11:43
X山頂上には表示はなく、古墳の石室が崩れた石が散乱している。
http://bansyu.com/0312mitsu/mitsu.htm

未だ大分有りそうなのでここまでにします。



土人の生活
2005年12月29日 11:03:51 とみた
ケーブルテレビで、土人の生活を見た。

ミツバチの蜜を樹上からとり、トーモロコシを作って(採集?して)暮らす生活。

道具は鉄の斧だけです。

大きな木を斧で倒し、木を叩いて半分に割いて乾かして箱を作り半年干し、ミツバチの巣箱にするのか?。

蜜を求めて、雨宿りのにわか作りの小屋で雨を凌ぎながら二人ずれで進む。食事は妻に作らせたトーモロコシを焼いた薄い食パン風の代物。

樹上高く上り、ミツバチの巣を発見して火煙でミツバチを追い出して、蜜の巣と幼虫を取る。もちろんミツバチに刺されながら・・・

蜜の酒を作る。余った蜜は売る。

誰かが死ぬと、葬式をみんな集まってやる。

土を掘って、穴を開けて、埋める。埋めるとき樹皮を剥いだ長い布を死体に巻きそれを木弦で編んだハンモック状の台に載せて墓穴に埋める。

泣き女みたいに泣く。子供が死ぬと下半身を植物の葉っぱで作った腰巻をつけてみんなで踊る。

結婚には、金が要る(土地を売ったりして捻出する)。男は女を殴るので女は嫌がる。男は女を奪うこともある。逃げて別の夫と暮らす。でも激しい奪い合いの闘いは見られず平穏な村の暮らしに思えた。


男は子供を欲しがる。労働力として一緒に働きたいのだ。

小さな川と山があった。アフリカではなさそうです。

夜になると寒いなんていっていた。

土器は簡単に作る。粘土で練った長い紐をぐるぐる巻いて行けば形はできる。それをへらみたいなものでなでれば土器の原型ができる。

数センチの板を曲げてそれを土器の上層部にあてぐるぐる回してゆけば縄紋ができた。

それを竪穴住居みたいな茅の屋根の屋内で何日間乾かし、それを外に出し木灰の火で焼けば出来上がり。これは女性の仕事だ。

海の民ではなさそう。山の民かな?

日本では、木の実も縄文時代は食べていた。

魚と、獣は出てこなかった。

葬式と結婚と、土器つくりが参考になりました。

民俗学的に、少し面白かった。


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縄文人
2005年12月30日 1:33:44 管理人
とみたさん、土人のご紹介ありがとうございます。渡来人研究会も、渡来人の存在を明らかにするため。非渡来系なる縄文人の実態を明らかにして、比較をしてみたいですね。すくなくとも、縄文人と渡来人、ここが違うを定義できれば??と感じます。



来年はコンをつめず
2005年12月29日 4:46:28 かわかつ WEB
研究家ではなく、「作家」ですので、きら〜くにわがままに、つまりいつもと同じ、ちんたらちんたらやる所存です。
皆さんも、仕事の合間の趣味なんだと、それぞれのスタンスで、あまり細部にこだわらず、のびやかにやってちょうだいね。
あんまり「これは俺の独自の考えなんだ阿〜なんて気張らずに、またあまり机にへばりつかず、そこそこにしましょう。
特に年長者の皆様。あ、俺もか。
コンを積めると目まで三角になるぞ!
さよなら三角、また来て四角。


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すこしづつ
2005年12月29日 5:31:20 管理人
そうですね、私も先ほどおもってましたが、なかなか元気にみえて年齢や気力体力もあるでしょうし、タックンさんとかは仕事の休みの時間を惜しんで書いてくださっていますし、私もこうみえて仕事中、なかなか一気に根詰めるというわけには行きませんね。できる範囲で、無駄なく、気楽にリラックスして、来年もすこしづつすすめていきましょう。かわかつさんのおっしゃるとおり、方向がまちまちでなくまとまってくると、スムーズに進みそうですね。また、作家と芸術家はどうしても、わがままさや頑固さなど必要なことも考慮したいですし、もっとお互いのやり方や能力の方向性、方向性を尊重していけるよう、頭の中を整理していければいいかなと感じます。ではではまた。

自然の力を借りて
2005年12月29日 0:51:23 タックン
古代の鹿島地方の干拓は、半分は自然の力を借りて行われていたのではないでしょうか?
然し私自身、この広大な平野?を干拓が行われていたとは、あまり物的証拠が少ないので少しだけ賛同はできない部分があります。
確かに古墳などの遺跡は、台地上の地形に分布しており低地地帯にはあまり遺跡の分布が見受けられないので、そういう裏付けはできるかもしれませんが、如何せんあまり茨城県内の発掘が進んでいないということもあって、実態は不明なところです。
ただ広大な干拓が行われたとするならば、古墳時代以降の技術がより発達するころに行われたと見るほうが無難な感じがいたします。
河内平野なども、古代河内湖の名残で近世まで、深野池という遊水地や、京都南郊に近年まであった巨椋池なども、大型河川の遊水地的な名残で此処を徐々に干拓して、農地に変えていったという履歴があります。
ただ河内湖の場合は、元々海であった名残で、他の畿内の地域とは少し事情が違いますが・・・・
地形状によって、干拓が容易な地域とそうでない、干拓が無理な地域とがありそういう場所は、河川の水を導水して池状にわざと残して、此処に農業用水の拠点的な場所にしていったという所もあります。
ただ古代の灌漑事業が、何処まで高度な事業をやっていたかが問題となってきますが、近畿の狭山池・讃岐の満濃池などは、かなり高度な綿密に設計が行われており、今日の時代でも充分機能に耐えうる貯水池的な役割を果たしています。
ただ海が相手となると、古代の技術で何処までやれたかが問題ですね。


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遠浅の
2005年12月29日 3:49:30 かわかつ WEB
大陸棚・・・いや、遠浅の浜だったそうです。
海だったというのは先史時代の話ですよ。息栖神社はもともとこの波をかぶる浜に建てられていたのです。つまり今の宮島みたいな格好でしょう。
それが後に内陸に立て替えられているのです。社伝

おそらく縄文時代の頭くらいまで海岸線はかなり遠かったのではありませんか。徐々に後退を始めていたところへ埋め立てたのでしょう。
地元の部民を使って。誰が指示したかというと、当然、その必要のあった者。古墳を削ってまで埋めたとなると、地元の豪族じゃないとしか思えないでしょう?神社を建てた氏族でしょうね。地元の人だったら先祖のお墓をつぶしたりできませんでしょ。
ということは鹿島を建てた藤原氏はあそこの人じゃないって事になりませんか。。三段論法ていうのかな?こういうの。それはまあ、ある程度歴史を読んでる人なら気づくのではないかと・・・管理人さんとともに回った摂社ですけど。ああいうのの中に必ず地元の神様が「協力した功績で」と冠をかぶせられて祭られてますが、その実態は蛇であるなんていうのは、まず、やられた人たちです。建てちゃったらあとはぽいだったんじゃないですか?あるいは人柱なんかにね。殉死などというと格好がいいですが、ピラミッドだって奴隷はやられちゃったのは事実ですから。
フレイザーの王殺しの民間バージョンですな。

私の文章は少し扇情的部分もありますが、ちゃんと読んでもらえばそうなってるはずですから。わかりきってるなと思うことは書きません。私のはロンじゃない。作品ですから。部分の研究は参考にするだけです。

有明海なんかも埋め立ててあります。ここはちゃんと溝が残っていました。鹿島もBassで言った海岸通りなんか新しい時代の境目くさかったです。
ただ、こういう遠浅の状態からの埋め立ては非常に多いはずです。大阪湾も今の半分は埋め立てですしね。新地開発、新地というのはどこにでもある江戸期の埋め立て地ですね。ま、そんなことは皆知ってますね?吉備もかなり海岸線が中まで入っていたですから。

盆地は各地に同じ伝承がありますね。
これも先史時代でしょうね。


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あのう私そこまで
2005年12月29日 3:54:33 かわかつ WEB
誇張してはいないですよ。
あれ全部が一辺に埋め立てられたなんて書いていませんので、お願いします。どこからそうなったの?
下のレスなどで一時的な行きがかり上の書き込みを読まれたのなら、誤解ですから。


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社伝では
2005年12月29日 4:10:17 かわかつ WEB
息栖神社創祀沿革

・・常陸国風土記によれば香島神郡ができたのは大化五年であり、下総の海上の部内軽野の南一里、那珂・・これ福岡の那珂郡と同字、那の津・・・郡内の部内寒田の・・これ私と同字、読みはさむた・・北五里をさいて云々・・・香島丘陵の南は、今の鹿島町国末で終わり、それからは大昔沖州であったものが、ようやく陸続きとなり・・・一段と低く延びていたことがわかる。・・・このような沖州に建てられていたものが・・大同二年・・806年!・・四月十三日に現在地に移されたと言われている

沖須は陸地とは言いませんよ。どっちかといえば満潮なら海になる。それは「海だった」ということじゃないでしょうか?


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こんなに大変なことを
2005年12月29日 4:14:11 かわかつ WEB
いちいち書き込めって、私はもう50になって目がかすむのに、こんなことは作品だけにしたいし、自分のサイトだけにしたいね。
若いものはがんばりゃあいいけどね。ぷんぷん。
としを考えてね。管理人さんと私じゃ二十歳もちがうのよ。特にこの写して書くのはしんどいし、おもしろくない。。、;


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沖州
2005年12月29日 4:23:27 管理人
かわかつさん、丁寧にご説明ありがとうございます。なるほど、中臣氏があそこ出身かどうか、よくわかりませんが、大きな論争だそうですね。かわかつさんのそのあたりの手法から攻めてみるのは、とても斬新で重要だと感じます。あのときは確かにいろいろ変わった神社もありましたね。かわかつさんの出身地とあそこの土地との問題、まったくかわかつさんの運命?的なテーマではないかと感じます。
それにしても、今日で息栖からきた女の子が仕事やめて去ってしまったのは、いやはや寂しいですな・・・。なんかのご縁だったのかな。ではでは。


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波の日の玉造町沖須付近
2005年12月29日 9:02:03 いばらの紀氏
http://www.kasumigaura.net/usr/mizukusa/Kasumigaura/pager2/040819-IMG_1640.html

鹿島南部取水樋門・沖の州地区
http://www.kasumigaura.net/usr/mizukusa/Kasumigaura/page/A0220.html

玉造町沖洲
http://www.kasumigaura.net/usr/mizukusa/Kasumigaura/page/A0182.html

九州の地名が全国に・・・茨城にも・・・・「中 那珂 」気になります。


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伝説 
2005年12月29日 9:16:58 いばらの紀氏
中世に至っては中央の王公貴族の荘園となり、古渡、阿波の地域は東条の荘に属し、浮島のみが   信太  の荘に属した。

 信太  (ノブタでは有りません。)信太の狐 晴明の母
 あべのせいめい 伝説 鹿島  旧 協和町 猫島(根子?) にもあります。


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晴明の出生地
2005年12月29日 9:54:11 いばらの紀氏
晴明の出生地 出生地については、茨城、大阪、香川など、諸説あり
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/9301/tanzyou.htm
安倍晴明のプロフィール
http://homepage1.nifty.com/haruakira/seimei/f_01.html

http://mito.cool.ne.jp/chatora27/diary/diaryseimei.htm
漢字の書き方は、阿部清明、阿倍晴明、阿部晴明とも。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%C2%C7%DC%C0%B2%CC%C0
晴明神社(茨城県明野町)
http://members.jcom.home.ne.jp/outo/ryokou/akeno.htm
さらに驚くべき事に稲敷郡八代村の古名は「和泉」
「藤代」「取手」は稲敷郡のすぐ南にあたり、将門の母は取手を支配していた犬養春枝の娘なのである。
安倍晴明陰陽師ツアー
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0wd.htm

茨城県那珂市菅谷2345
鹿島神社(菅谷鹿島神社)
祭  神: 武甕槌大神(タケミカツチノオオカミ)
http://sugakasima.ftw.jp/

安部晴明がその霊地に応神・仲哀・神功の三神をまつり地方の氏神としたと伝えられる。
http://www.kcv.ne.jp/~ooura-j/yuisho.html

晴明神社
御祭神:安倍晴明(あべのせいめい)
http://www.kidajinjya.or.jp/top.html



大「物」主 「物」考
2005年12月29日 0:32:57 いばらの紀氏

「物」=「牛」+「勿」
「牛」うし・偶蹄目(禹?)・彦星・牽牛(生贄の牛)
「勿」ブツ なかれ:三の旗・集める・非・努める・するな。
「物」もの:雑色の牛・みる・みたてる。・しるし旗・比べる・物色(生贄の動物の色)・物・品・もののけ・たね・體(からだ)・理・長さ幅高さによって空間を満たしているもの。
【物忌み】・・・・伊勢 香取 鹿島 春日 賀茂 その他の諸大社で、神事に奉仕した燃焼の男女の称。
【物具】もののぐ:道具 調度 ・鎧 弓 矢 槍・・などの武器の称
【物候】ぶっこう:・・秋になると鴻雁(かり)が来て玄鳥(つばめ)がさるといった類。
「玄」ケン くろ:糸 (糸の人?)
【物部】もののべ:軍事 刑罰をつかさどった。

紀氏の考え・・・品作りの部民  後に軍事・測量の連・・・=【物部】
「牛」うし=グウ遇寓隅宮偶・・・・・禹
「勿」ブツ なかれ:三の旗・集める・非・努める・するな。・・・・ハタ?秦氏(旗)・・・・風 邪 ?
「物」もの:物・品・もののけ・たね・體(からだ)・理・「長さ幅高さ」によって空間を満たしているもの。・・・・計測・・・測量。
【物忌み】・・・・伊勢 香取 鹿島 春日 賀茂・・・同族?
【物候】ぶっこう:鴻雁(かり)「狩」(測量の隠語?刈り・・・下草刈り)が来て玄鳥(つばめ)・・・「糸」メイジャー(距離を計測)がさるといった類。
玄鳥(「つばめ」)乙禽(禹?):つばめ 乙オツ(2・木・きしる・ひとつ・太一=太乙・魚(景教)のはら(原?)わた(綿? 和田?) あご(安居?)の骨・おわり(尾張?)
【物部】もののべ:軍事(狩 測量を兼ねる。) 刑罰(禹は鼎カナエを刑罰・測量に利用」をつかさ(司)どった。
「司」:古い字形で「口」(禹の父の鯀コン・塚・・・丘・岡?)二の旗?の字形。


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訂正
2005年12月29日 0:37:39 いばらの紀氏
燃焼→年少   でした。


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たしかに
2005年12月29日 5:21:18 管理人
物部と大物主、物つながり、かわかつさんも説明されていましたが、ぜひ解明できるとすごいですね。よく漢氏と秦氏については、ずいぶん漢と秦の語源で論争がありました。でも物部については、どんな説があるのか、よく知りません。部については、朝鮮の五部制度にもとづく部、伴造部民制度の部、その後民衆にも適用された部などがありますね。主についてはどうでしょう?渡来系の氏族の族長などに「使主」でオミと読ませていることがあり、これも朝鮮系の何かの呼称と考えられますが、「主」という事例は他にはどの辺にありましたっけ。主って紀氏さん前におっしゃっていました?


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「主」 新たなる考
2005年12月29日 13:06:25 いばらの紀氏
「主」燭台(メノーラ?七枝?)
「主」:古い字形では「木」「大」らしき上に「牛」(禹氏・牛頭?)の古字形の上と同じ「Ψ」などと「・」「Ο」「陰部?」(「Ψが「山」なら「光」)
他に 「土」形の上に「Ψ」
シュ・・主(王の上) 首(かなめ) 種(胤・多根子?) 朱(赤色・・・) 取(生贄?) 手(取手?) 守(かみ:官人) 腫(いぼ?揖保?) 狩(測量?) 諏 繻 撞 株・・・・
(新たな「主」の考でした。)


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訂正
2005年12月29日 13:12:36 いばらの紀氏
取(生贄?) 耳を取る (倒した敵の数?) とりで 酉で 砦 塞 執りで?(意見を耳で聞く?)


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これは・・・
2005年12月30日 7:58:17 管理人
主(王の上)という意味が、ほんとに6世紀渡来人が王の上という意味で、自身の先祖を呼称していたら、これは王にしたがわない渡来人??がみえてきませんか??考えすぎかな??



分析しましょうか
2005年12月28日 23:43:59 かわかつ WEB
まず管理人さんのレイラインについて私が「どういう理論なのか?最初からあきらかにせよ」と問いただしたのに対し、管理人さんはそれに答えず、いきなり逆に細かい質問を私に切り返した。総論を問うているのに、一切無視し、逆にこちらに怒りを表したのかどうか、部分の質問をした。これは掟破りではありますまいか、皆様いかが?
まずここでこっちも売り言葉に買い言葉、むかっときた。
それだけですが?
なにかあればうちのBBSへどうぞ。ここでこれ以上のいわれなき侮辱を受ける気もなければ、皆様にもご迷惑でしょう。
ことの発端は紀氏さんの言葉足らず、こまぎれの思いつきの断片なのだと思うよ。
紀氏さん、ちゃんと収集するのはあなたの役目じゃないでしょうか?
いかがですか。紀氏さん。
たしか座右の銘は「丸く丸く」でしたよね。長いこと生きてるんだし、こういうトキの調停役やってくださいね。


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それと
2005年12月28日 23:40:51 かわかつ WEB
いくら気を悪くしたとはいえ、年長者に対する言葉遣いとしてはちょっといただけない。ま、こちらも決して丁寧な言い回しではなかったですが。それはお詫びせねばなるまいと思います。


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沈思や陳謝デス。
2005年12月29日 0:51:48 いばらの紀氏
発端は私し紀氏の言葉足らずですのでお詫び申しあげます。(つくずく自分が情けなく頭の無さを嘆きます。)
かわかつ様のご気分を害しながら管理人さんの所に居候 心苦しいかぎりです。
ここのHPが私の命の糧かと甘えること今後とも平に平に顧慮謝御願い奉ります。


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レイライン定義
2005年12月29日 1:52:01 管理人
そうですね。レイライン定義ですが、レイラインの語自体は、まず百瀬氏のHpを参考にしています。何度か読んでいますので、後日注釈に百瀬氏のレイライン研究については、必ず明記しなければなりませんね。
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/LL-SuwaKashima.html
彼も冒頭で以下のように説明されていますが、わたしも同意見でレイラインの語を使用させていただいています。
「英国のアルフレッド・ワトキンスは、複数の教会や古代から聖地とされている場所が一直線上に配置されていたり、またある種の幾何学的形を形成することに気づき、それをレイラインと命名した。
日本では、神社など昔から聖地とされている場所が一直線上に並んでいたり、三角形などの神秘的な形をつくることに早くから気づいた人々がいて、それらもレイラインと呼ばれることがある。
個人的には、必ずしもレイラインという言葉が適当ではないと思う部分もあるが、それに代わる適当な言葉が今のところ見出せないため、本稿を含めた一連の小論では、レイラインという言葉を流用することにする。」
レイラインについては、聖マイケルライン、およびその研究史、荒俣氏の論説については、以下のページを半年暗い前に紀氏さんからお教えいただき、なんども読み返しています。
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai09.htm
もちろん、研究史事態については、仮に出版まで持っていくとしたら、国会図書館を含めて、少なくとも日本関係者のそれはすべて洗い出さなければならないでしょう。


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つづき
2005年12月29日 1:53:00 管理人
その上でレイラインの用語をしようすべきかどうかですが、現状では「仮に」ということであります。別に紀氏ラインでも、しもラインでも、北極星ラインでも、日の出ラインでも、いろいろ区別つけてみてもいいのですが、いまいちまとまりがない。そこで前提的にレイラインを使用しているわけです。おそらくはイギリスなどの長古代のそれと、日本の物部?がかかわったそれとは、まるで性質もも時代も違うと思いますので、日本独特のライン名をつけてもいいかもしれません。問題は、そのラインがどういう手段でどういう目的で誰によっていつ作られたか?これが明確にできないと、名称も的確な表現ができないということになります。そこで、まずは名称はさておき、レイラインの分析を進めているわけですが、ある種の法則性はわかってきていますので、あとはそれをどう一般の方々にもわかるように表現できるか、ここにかかっていると思います。
図で示すか数字でしめすか、文章でしめすか、最善の手段を選ばねばならず、そのラインがそして古代史にどう表現され、どう影響を与えたのか?これを今度の勉強会までにみなさんでまとめてみてはどうかと考えています。おそらくは、かわかつさんの海人、物部、蘇我論、ともどうしても日本のレイラインの存在は、関係してくるはず。たとえば、二上山と三輪山との間でのかわかつさんの日の出の理論。これはもっと正確に日の出の角度、遺跡の位置、時期、明確にしなければ、ならないことはかわかつさんが一番しっておられ、あえてここを非難してくれ!!と、討論掲示板に書いてくださったんでしょう?わざわざ。そう討論掲示板でかわかつさんは、もとつっこんでくれ!!と叫んでいるんです、そうでなければあんなところに堂々と討論してくれってかかきませんよ!(汗)と冗談ですが、ぜひ今度の勉強会まで、みなさんで協力して、その辺を明らかにしてみましょうね。


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やはりまとめ役がほしいですね
2005年12月29日 3:01:42 かわかつ WEB
どうもみんなばらばらですから、・・まあ、サイトのレス仲間なんてそんなものですが・・研究会という形にしたいのでしょうが、これまで2会のオフ会もまあ飲み会の雰囲気でした。
しかし現実的にはやはりみんながあっちこっち向いてやっている。前向きに考えればまとまるのは難しいです。またあまりに同人的になってしまうと、新興宗教みたいにとりつくしまもなくなってしまう。

私も人の意見を聞くのは苦手。自分のことだけ大好き人間ですから。とてもまとめ役にはなれない。幹事は好きだけどね。^^
まあ、私の意見が注目されればほかのなんて・・・みたいなタイプ。私のばやい「わがまま」ですから。
もう適当にやりましょ。疲れたから。
ただ知らん顔して人のいいとこどりはやらせてもらいます。

こういうトキはお互いがあやまるのが一番よろしいようで。悪かったね。
PS 討論会形式じゃなく、発表会にしたほうがいいでしょう。その方がけんかにならない。ではよいお年を!


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そうですね!
2005年12月29日 3:10:34 管理人
こちらこそ、なんだか地震電磁波の影響かわからないですけど、いささかいろいろ言ってしまってすいませんでした。かわかつさんの性格はよくわかってるつもりですので、ご安心ください。ともかく、かわかつさんなしには、まとまらないし、すすまない、しまりもない、人もあまり集まらないんですよ、ほんとに。ぜひ学集会形式でやりましょう。いろいろやり方考えていってみてもいいかもしれません。楽しみにしています。


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あ、もうひとつ
2005年12月29日 3:16:24 かわかつ WEB
ワトキンスのレイライン定義には時代の規定はないのでしょうか。
たとえば先土器とか。それが日本の弥生や古墳時代にあてはまるのかどうか教えて下さい。
西洋の古代と日本の古代では年代も事情がちがうでしょうから、もし日本のレイラインというものを言いたければ、やはり独自の規定が必要なのでは。

紀氏さん・・
紀氏さんの三角ラインはまたぜんぜん違うような・・?
タックンもいってるように、紀氏さんのまったく時代に無頓着な^^とらわれない、線の描き方には信憑性が感じられないのですが・・
この辺はタックンも、廃人さんも同意見では?
管理人さんのは実は私もちゃんと百瀬氏のところや、ハンティングサイトに出かけて知っていますが、なにか紀氏さんと同じ俎上にはないものであると思えます。


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総論を最初に書いてね。
2005年12月29日 4:19:03 かわかつ WEB
部分なんかどうでもいいから、一回限りの総論。総論のない理論はないのよね。紀氏さんじゃ無理かなあ。やっぱり・・・そうだね。あなたももういい年だよね。俺と一緒か。
私はどうやら弱視になりまして、眼鏡がまったくだめ、あわなくなった。
デジタルはやはり目に悪い。
でも痛風じゃなかった。ただの歩きすぎだって。


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総論
2005年12月29日 7:07:28 管理人
なんとか年末までには、ひととおりの筋を簡単にまとめてお知らせしたいですね。ともかく原稿後半部は、正直ぜんぜんすじがとおってなく、ただ適当にかきまぜただけの状態。これから年末まで、いかにわかりやすく整理するか、課題ですね。



干拓と開拓の時期
2005年12月28日 10:30:15 とみた
日本の古代語を探るという西郷信綱さんの本を読んでおります。
日本の古代語は、ポリネシア起源かアルタイ起源かで迷っておりますので、その辺りを確かめようと読みはじめましたが、少し面白い記事が出てましたので紹介します。

古代は、難波津にせよ茨城の霞ヶ浦にせよ葦の生える湿地帯でそこを開拓して新田となし稲を直播したようです。

常陸風土記によれば、継体天皇の御世に霞ヶ浦湖に北から突き出た半島状の地の今の行方(ナメカタ カタ=潟)郡を干拓し孝徳天皇の御世に谷を現地勢力から奪い取って壬生連麿に池の堤を作らせている。稲作にための用水に使ったでしょう。

茨城国道、那珂国造の壬生連麿という豪族に天智天皇時代に24-5階位を与えている。

古事記仁徳の段には畿内の水路工事に秦人が登場する。

秦人を使って茨田堤または茨田三宅を作りまた、ワニ池,依網池を作りまた難波堀江を掘りて海に通し、また小橋江を堀りまた墨江の
津を定む。とある。開発の規模が東国に比べてはるかに大きかった
。秦氏は多くの移住者を率いる伴造で山城国の葛野(カドノ)。紀伊両郡を拠点にし、松尾・稲荷(伏見)の両神を祀り殖産の術に長けた渡来族であった。

淀川下流の氾濫を防止するための工事で朝廷直轄の茨田三宅=屯倉の良田を造成したんでしょう。

秦氏のいつく稲荷社がウカノミタマつまり稲魂を祭神としていることに注目。イナリはイネナリ、稲を積んで富裕になった。

伏見に接する深草屯倉(皇極紀)なども秦氏の手で造成されたのであろう。

放水路を作って河を海に直通させ墨江の津つまり難波津の港を定めた。秦氏は蚕を飼い絹を織る技に長けており山のごとく積んで朝廷に貢したという。

秦氏は伴造つまり大和朝廷に仕える技術部民の長だった。

姓氏緑には秦始皇帝の三世の孫孝武王の苗江裔を称し応神の世に渡来。

応神紀には百済からやってきたとある。

秦氏はかわかつさんが専門で常識でしょう。私は葦原を干拓し稲作にしたことと年代に注目しています。豊葦原水穂国。

そして秦氏は苗裔つまり苗族これは長江の中下流域の民です。しかも長江は養蚕、蚕の発祥の地なんです。七夕も関係がありそうですよ。


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古代の開発
2005年12月28日 21:26:20 タックン
古代の開発は農業地の開発・確保で、それまでの住んでいた高燥な土地から、農業の技術の伝播と共に低湿地の土地の開発に乗り出し始めました。
前代までの狩猟採集経済に適していた、山麓の高燥地では農業の経営には不向きであったのです。
河内平野などの遺跡のあり方から見ても、弥生の高地性集落などは例外で、その他の遺跡などは海抜何メートルというような、かなりの低地地帯に弥生の遺跡が多く見られます。
特に注目されるのは、この低地の集落と共に古墳群が発掘された事で、古墳時代になっても連綿と集落が経営されていた事が判っています。
京都府内の、桂川沿いにある向日市周辺でも、かなり規模の大きい弥生の遺跡なども確認されており、当時は大きな河川或いは湖周辺に、大規模な遺跡が集中しています。
このように安易に水の確保ができうる土地、洪水などの多少のリスクを冒してまでもこのような土地に経営されていた事も、全て農業経営が根本にあったということでしょう。
伏見稲荷の地は、古来から開発が盛んに行われていた土地で、今の龍谷大学キャンパス(旧陸軍の土地)周辺は有名な弥生の深草遺跡があり、昭和初期から発掘が繰り返されてきています。
然し大きな遺跡は此処くらいで、周辺にはほかにこの遺跡に匹敵するような遺跡はまだあまり見つかっていないのも、少し不思議なのですが。
本格的にこの地が開発されだしたのは古墳時代以降からで、秦氏がこの深草に移住してからだと思っています。
それにしてもこの地に古墳の数が少ないのは、この地が墓域としてではなく移住区であった、葛野の地に住みついた秦氏は此処を自分たちの墓域としてではなく、墓所は西に離れた嵯峨野の地に求めた、という考えで今考えておりますが・・・・・


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干拓
2005年12月28日 22:51:18 管理人
とみたさん、タックンさん、古代の干拓のあり方について情報ありがとうございます。かわかつさんの討論掲示板のほうで、鹿島の干拓のお話があったのですが、まさかあの鹿島、香取周辺の広大な土地を古代に干拓できるとは、素人目には想像できませんですた。しかし、こうお話聞いてみると、あるいは鹿島周辺を古代に干拓したという仮説もなりたたせることも可能かもしれませんね。疑問がひとつ晴れてきたように感じます。すこし鹿島と干拓あたりの文献調べてみましょう。
タックンさんのお話だと、秦氏とその感慨技術とのかかわりが大きいようですが、その実例を挙げていただくと確かに納得いくものがあります。そこでどの氏族が鹿島香取周辺の干拓を請け負ったのか?そこに秦氏がどうにかしてかかわる余地があったのか、どうなのでしょうね。その辺の証明ができてくると、海上郡がなかったというかわかつさんの主張も、あるいは素人目にも一理あるかなと感じますね。

あと、紀氏さんの茨城南部で震度4大丈夫でしたか?
このサイトで昨日すでに茨城南部のほうに異常が示されていました。http://tsh.dip.jp/quake/

地震研究者ではなく、あくまでアマチュアのサイトなのですが、自身研究者が数百億欠けても明日の地震も予知できないのに対し、このサイトはすでに多くの地震を予知しています。こういうあきらかにプロの発想や技術を、素人経営で超えてるサイト、こういうのが
わたしは好きです。確かにそのサイトは多くの失敗もしていますが、徐々に改善し、全国ネットを広げつつある。いつも尊敬してみています。問題は膨大な資金をつぎ込むとか、巨大な組織をつくるとかではなく、奇抜な着想と根気といかに出てきた新成果をマスメディアで表現できるかだと思います。


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また千葉で2回も地震が。
2005年12月28日 23:18:27 管理人
28日23時03分頃地震がありました。
震源地は千葉県北西部 ( 北緯35.7°、東経140.2°)で震源の
深さは約80km、地震の規模(マグニチュード)は4.3

震源地 千葉県中部
発震時刻 2005/12/28 23:03:36.72
マグニチュード 4.5

上のサイトで千葉東京が今赤くなっているのがわかりますでしょう・・・。このサイト当たるんです・・。


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元気です三九
2005年12月29日 1:21:13 いばらの紀氏
「茨城南部で震度4」でしたか?
外食中に牡蠣鍋が煮えるのを、唾をのみながら待っているとグラグラ・・・ウエイトレスがきてガスコンロの火を消しました。
食べる事に夢中だつたのか?震度気になりませんでした。
手抜きマンションでの鍋・・・・きっと気がつかない紀氏でしょう。
おだやかな心で人生 たのしく生きましょうョ 気の持ちようです。
 鹿島神宮の要石 鯰(念=古文字で「A心」天から心への念動)
魚=景教徒(ユダヤ?)を押える頤使(タケミカズチ?)
フッツ主 「勿」ブツ 主・・・・物部 はたしテ?


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葦原雑感
2005年12月29日 8:16:35 とみた
皆さんの応援に感謝。私の今住んでいるのは昔の下総国。ここは葛飾郡なんです。ちょっと前まで東葛飾郡でした。東葛高校は有名校です。
東京都葛飾区これは寅さんの江戸川沿いなんです。

要するに、この辺りは昔は葦が茂っていて湿地帯だった。なぜって、香取湾だった名残です。

この前地元の古代史の仲間と近くの旧水戸街道をウォーキングしていたら、江戸時代まで人家なんてほとんどなかったそうです。その前は葦の原とのこと。

香取湾が広く台地に切り込んでいた。下総の国府台、国分寺も台地に侵食した葛飾にあります(千葉県市川市)。利根川沿いはいまは印旛郡で江戸時代に干拓した印旛沼があり水運が発達していた。

京都の南部の山城国も淀川の湿地帯であり葛葉、葛野も葦がいっぱい茂っていたのでしょう。

奈良盆地も奈良湖、大和弧の名残の湿地帯であった。淀川と大和川のもたらす沖積土が海に注ぐところに難波潟があった。そこもイネ科の多年草の葦が生えていた。そこを干拓して大和の中央政権は勢力を伸ばした。稲を直蒔し稲田にした。

茨城県は先住民がいて祀ろわぬものがいた。それを手なずけるための前線基地として香取神宮はあり、千葉県にはその分社がいっぱいあります。内陸に侵食していた霞ヶ浦の海も岸辺には葦の原があってそこの先住民を脅かしながら土地を奪い池を作っていったのが、常陸風土記の壬生蓮麿の国造の話です。これが継体天皇時代に発し孝徳天皇から天智天皇の御世に連なる話であることは感慨深い。

鹿島神宮は東国征討防備のの防人前進基地です。

その辺りに建雷命、建甕槌と建御名方(諏訪)、経津主(香取)と息栖が絡んでいる。

葦原中国を支配している大国主に向かってタケミカツチは国譲りを強要した。葦原水穂(瑞穂)国はこれわが子孫の王たる土地であるべき地なりと天照大神はいう(日本書紀)

時の支配者は湿地帯を開拓して大きな都を作る。ローマは一日にしてならず、古代ローマの凱旋門のあるフォロローマも昔は湿地帯でこれを水利工事で王都の中心地にした。ローマがゴート人に攻められ滅びると哀れ牧草地になってしまった。

千葉県のわれわれの地も江戸時代には牧になった。



さて今回は
2005年12月28日 1:34:47 かわかつ WEB
議論白熱。もっとも相変わらず自分の言葉で表現できずにいる方もおられるようですが、これだけ自分の意見をちょうちょうはっしできるサイトも少ないのでは?
実に有意義な時間を過ごしました。
さあ、もう一丁いきましょうか?


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討論掲示板
2005年12月28日 4:55:49 管理人
先ほどのかわかつさんと私の論議は、私的な話題で長文、みなさんの貴重な投稿を隠してしまうので、お知らせしましたように削除いたしました。悪くおもわないでください。また、お知らせしましたように、討論論議は討論掲示板で行いましょう。そこで、かわかつさんの討論掲示板での論点について、基本的な質問をさせていただきました。以下のとおりです。
討論掲示板
http://bbs1.nazca.co.jp/2/toraijin/index.html

かわかつさんももちろん、ここでの私からの質問については、いろいろ掲示板でも返答への準備をしておられるようですが、論を確実なものとするため、質問させていただきました。もちろん、これは、人間関係の平和を乱すものではないので、誤解しないでください。ルールに乗っ取ったサッカーと思ってくだされば、スポーツマンシップ?でいろいろ有意義な論議をしていただければと考えての質問です。ご返答よろしくです。そう、古代史の論議で人間関係悪くするのはやめましょうね。あくまで人間関係云々は別のところでの問題ですから。その辺くれぐれもよろしくお願いします。


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なんのことやら?
2005年12月28日 9:20:39 かわかつ WEB
人間関係が悪くなるというその考え方がダメだというておるのです。それなら私の所へ来て話せばよい。
そうすれば他の方に迷惑がかからない。そんな勇気がおありかな。


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人の理論にこまかいことを言う前に
2005年12月28日 9:24:51 かわかつ WEB
自分の論をまとめなさい。


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つまり
2005年12月28日 15:33:06 管理人
そのまま、かわかつさんにお返事お返しいたします・・ということなんですね。
つまり、いつもかわかつさんが紀氏さんに厳しくおっしゃっていることを、今回わたしがかわかつさんにちょっと言ってみているだけなんですよ。
つまり、紀氏さんに、何でも線引きゃラインになるだろ、もっと論理化せよ、とおっしゃっていますが、わたしからみると、なんでも海にいりゃ海人だろっていう、ことなんです。だからこそ、たとえ、歴史小説世界であったとしても、それなりに、あらゆる批判に耐えれるだけのものを、出版前に討論掲示板で批判されてあえて鍛錬しつくしてから、やってほしいとおもってあの掲示板をつくっているわけです。そして、なんでも海にいりゃ海人ではない!なんでも秦氏ではないんだ!ということを、普通の読者にも理解してもらえる、それを目指しています。もちろんわたしも、つねになんでも結局渡来人だろって批判されつづけて研究してきました。
そして、悪意とかではなく、おそらくはかわかつさんはもっとちゃんとお答えできるはずの質問、かわかつさんが答えられなくても、紀氏さんや研究会のみなさんが変わって代弁できるはずの質問を、討論掲示板に書いています。だから、しっかりもう一度読んで資料つきでお答えくださいね。わたしも、もうすこしで原稿まとまってくるので、討論掲示板にそのままそれをまわしますので、目一杯鍛錬してください。お待ちしています。あまりクリスチャンてきではないですが、時に相手の立場にたって逃げないで自身を見つめなおす、きっと討論の必要性、いつかかわかつさんにもわかっていただけると感じています。



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わたしのも
2005年12月28日 17:41:11 管理人
原稿集の前半ですが討論掲示板に掲載してあるのでどんどん批判して叩いてあげてくださるとかなり後々たすかります。


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厳しく言われているのは
2005年12月28日 21:52:28 かわかつ WEB
君の方だよ。あまえんぼ君。


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そのとおりです
2005年12月28日 23:28:19 管理人
そうです、かわかつさんが人の悪口をいればいうほど、かわかつさん自身を表現してしまっているんです・・・。わからないとおもうけど。



参考?HP?
2005年12月28日 0:20:49 いばらの紀氏
方位線について
http://home.s08.itscom.net/wtnb36/sugi2.html

『太陽の道』にこれだけの古代遺跡や神社が東西に一直線に並んでいる事実
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai10.htm
http://hw001.gate01.com/sangatu/houisen.htm
この桧原神社を中心に東西に直線を延ばすと、東に伊勢斎宮、西に淡路島の伊勢の森があり、線上には他にも卑弥呼の墓と言われる箸墓や室生寺、長谷寺の大石、倶留尊山のクルソ仏、神島等多くの寺社・古墳等の聖地が連なっている。
http://yanenoueno.seesaa.net/category/382690.html

房総巨石遺構探訪記
笠石は、周囲を取り巻く4つの峰、安房富士、元清澄山、峯岡浅間、愛宕山を東西南北に結ぶラインが交差する位置に存在する。また、北北東の大塚山から笠石を通過するラインは房総最高峰の愛宕山を通過し、房総最古の安房神社へ到達する。
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/bousou.htm
房総丘陵に笠石は確かに存在した。そして、房総半島の巨石ネットワークが解明されつつある。今回の調査でその一端が確認されたが、房総半島の奥の深さを改めて認識した旅であった。今後の調査が待たれる。

鳥見山の周辺に古墳の一つも無いのは、大正の末連隊が古墳調査を目的に次々に田畑に変えたと言う。
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/yamaichikoku/nara_kunimiyama4.htm
田部は古代皇室の料田を耕した役人農夫の職名である多分この田部は、日本最古の田部で後にこの田部を手本として諸国に田部屯倉を興したことが、景行紀に記されている。
額田部[ヌカタベ]は屯田につながり、諸県君等、朝廷制度で無かったが、その立場に見合うものは諸王、彦公、主、君の何れかを名前に取り入れ、王朝の皇子でも王公に封ぜられた。

峰ケ塚古墳 此の直線は山の頂点から頂点を結び、御陵と古墳の中心を貫通した直線である。 ...
景行天皇の第二子日本武尊の白鳥陵が大小二つが並んでいる。
曽爾村、国見山−榛原、鳥見山−景行天王御陵−日本武尊御陵−峰ケ塚古墳此の直線は山の頂点から頂点を結び、御陵と古墳の中心を貫通した直線である。峰ケ塚古墳は大阪府羽曳野市にあるが、此の古墳と百七十号線を挟んで東側に日本武尊御陵がある。

松尾大社、木島神社、内裏、下鴨神社(賀茂御祖神社)と比叡山は直線で結
ばれる。この線は、申寅の方角を示す。これが都を横切る第一のライン。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~paradoxical/raiden4.htm



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地図はやめたんじゃないですか
2005年12月28日 1:36:45 かわかつ WEB
好きなんですねえ、やっぱり。
もう真っ黒になったのでは?


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それより
2005年12月28日 1:40:42 かわかつ WEB
先ず理論だといってるのですが、わからないようですね。
人の手になる例を出す前に、大きな理論を提示せよと言ってるのです。
あなたのために言ってるんですよ。わからないのですか。
誰が好きこのんで相手になる物ですか。友人だから言っているのです。それが近道だと。なにもかも否定しているのではないのですよ。
方法論が間違ってると忠告してるのです。^^


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現在の紀氏です
2005年12月28日 9:24:32 いばらの紀氏
 「先ず理論だといってるのですが・・・」
まず「答え」(ライン)が存在しています。
論理付けしようとします。(測量が目的だった。ユートピア造り?
キリスト教系のカバラ?)
「測量が目的だった。」証明(記述された文献が見当たらない。)・・・
・・・「信憑性が無い」と判断される。・・・・(困る。)・・・・・
「状況証拠」を集める。(現状)「測量が目的だった。」教の布教活動・
・・・現在の紀氏です。(ラインの御題目を唱える。)
 「測量が目的だった。」教 と類似または、「それ以上の論理付け」教の出現を待ち望んでいる。



ここまで増殖!
2005年12月27日 9:50:46 いばらの紀氏
仁徳陵傾きの謎が簡単に解けます。それとともに古墳が国土計画の一環であることも解ります。★
五本の直線をクロスさせて造った五芒星図形
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/2005-07.html
奈良盆地は琵琶湖と同じく断層陥没地帯で、縄文期には湖でした。それが弥生期には水位が下がり湿地帯に。ここに大陸や半島から知恵者が入植し(徐福伝説、唐古・鍵遺跡)、


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やはりサッカーボール。
2005年12月27日 10:21:50 いばらの紀氏
やはりサッカーボール。
 管理人さん五芒星(☆)も有りました、球 鞠 作る五芒星+六芒星でした。

ペンタクロスデザインは、律令官僚に虐げられた先住民が抵抗し続けるシンボル
天皇制を支えた最後の神道
ビックリするような地理事実があります。(いずれ公開)
相撲が「国技」なのは天皇制以前からのこの国の成り立ちを証言しているからです。
おそらくペンタクロス土木技術を携えた土師氏集団の事業でしょう。
日本が世界に向けて宣言した「平和主義」「非核三原則」も破棄しようとしています
土俵に秘められた奈良盆地のペンタクロス構造
倭人伝の国々(広型銅矛圏)とペンタクロス
奈良朝の混乱と行基の活躍
ペンタクロス(五芒星)図形を使うと巨大古墳も簡単に
経済至上主義は文化を破壊します。
九州西都原のメサホ塚古墳は星マーク(五茫星)2つで設計されていました。(図面)


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わすれもの   HP
2005年12月27日 10:26:39 いばらの紀氏
古代 ペンタクロス文化:学問
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_118169.html


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八角墳
2005年12月27日 10:46:55 管理人
すごいですね。やはり天武八角墳の背景には、八角形以外にも、多角形とその意味付けの文化がいつごろからか芽生え始めていたようですね。古墳にそろ、円墳と方墳にも多角形思想があるのは当然ですが、円を描こうという時点で多角形は必要ですし、鏡に出てくるミクロな多角形も、そして古墳よりさらにマクロな古墳群、遺跡群との間にも多角形があったとすると、ミクロからマクロへ、そもそも彼らにとってミクロとマクロの感覚、そして多角形への意味合いとの観念を、体感しながら再度認識を改めていかないと、なかなか古代人の感覚にはついていけないのかもしれませんね。ミクロもマクロも現代人のように明らかに科学的に分離しようとする教育を受けていない彼らにとって、どうだったのでしょうねー。瞑想かな??・・・ではでは。


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天武は鬼
2005年12月27日 14:01:43 かわかつ WEB
やあ、紀氏さん、少しは文章になってるじゃないですか。
しかし、五芒星や六芒星の説明なら、いくらでもサイトも本もあります。
そんなことよりあなたの三角形は、結局、しいたげられた先住民民衆のなにがわかるのですか?ようするに私が追いかけてる被差別民などの系譜が出雲系氏族から出てきているということを証明してくれている訳ですね。
つまり、行き着くところは同じであると仰るのだね?

天武天皇は蘇我王朝・・・いや出雲氏族の代表者と言えまいか。
スサノオから始まってヤマトタケル、大国主、大物主、八重事代主、建御名方、物部、蘇我、秦・・・彼らすべてが出雲に祭られた。これすなわち藤原政権確立のための権力闘争の産物。怨霊信仰はその史実の上に成り立っている。それがトキを経て弓削の行基の三角に込められていると、そう言いたい訳ね?

早く言えよ!

鬼ですね。まさしく権力に背を向け、漂泊しつつ、反駁するものを民間に伝承して行かんとする、さすらう御霊ですな。反骨か、流浪の民、彼らが永遠とも言うべきさすらいと解脱を求めて全国を逍遙した。
うむ!解けたね。

しかし、それならあなたも、管理人さんのように全国を確認して歩いて、自説を説いて歩きなさいな。托鉢でもして。そうだ二人して僧になりなさい。いつしか我々もさすらう漂泊の鬼となるのだろうか?
解脱は56億7000万年後です。マイトレーヤは待っていても現れない。行脚しますか。


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王朝は二つあった
2005年12月27日 14:14:56 かわかつ WEB
かつて王朝は二つあった。今の天智系天皇家と出雲系天皇家。
これが解けると南北朝動乱にまで至る、反乱の相克の歴史に気づかされます。鬼となり、山々をさまようさすらいびとたちが、しきりに長屋や早良、そしてアジスキタカヒコネの子孫であるなどとうそぶいてきた理由もゆえなきものではなかったのか?
サンカたちが菊の御紋を使っていたのを知っていますか?そういう長い長い「怨念」がいわゆる「荒御霊」「怨霊」「鬼」「神」となって祭を引き継いでいった。結局、われわれ一般の民衆の間にも、彼らの言葉と習慣は無意識のうちに残されていった。差別は常に「似ているモノ」にこそ激しく向けられるのです。

つまり我々の関係と同じ。
しかし、こっちも大声で立ち向かううちに相手のことが理解できるようになるものです。喧噪はまだまだ続く・・・


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久々に
2005年12月27日 17:52:38 かわかつ WEB
お宅の画像掲示板に画像レスしてます。


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何か誤解しているようですネ!
2005年12月27日 18:16:39 いばらの紀氏
 かわかつさん、何か誤解しているようですネ!
上記のHPは私では有りません、言いたいことが同じ・・・・だから増殖している 古墳のこころ なのです。
はやく古代史の教科書が変ることが楽しみな紀氏でした。


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HP?
2005年12月27日 18:58:05 かわかつ WEB
私はあなたの紹介のHPなんか見てませんよ?
紀氏さんはそう考えていないって事かいな?


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実証的主義
2005年12月27日 20:35:24 タックン
私は、考古学をやっているせいなのか?物的資料にもとずいて考えるほうです。(超現実主義)
半分は出土品にもとずいて考えるんですが、空想事も多いですが・・・・
然し紀氏さんの言われている考えは、かなり飛躍しすぎている感があります。
オフ会でも話したと思いますが、古墳の築造はそんな広範囲に築造の計画をしたとは、私自身は思っておりません。
ただその一族の墓域には、ある程度の築造計画をしていたと思いますが、他所の地域を越えての計画をしていたとはあまり考えられません。
ただ後世の藤原京の時代頃には、墓域の設定を京から延ばしての都市計画の一環で行われていたようですが、これとてこの地域の狭い範囲での計画です。
当時の北関東が、そこまでの計画で古墳の築造をしていたというならば、古墳に限らず他の同時代の遺跡なども、この計画に従っていなければいけないと思いますが、現時点ではそのような物的証拠は見つかっておりません。
特に茨城県の場合は、前方後方墳・後円墳の築造されている地域が、重複している地域が多く見られ、お隣の栃木県内の古墳の分布状態と似通った感じです。
千葉県ほど古い古墳は、今のところまだあまり見つかっておりませんが、前方後方墳のなかにはかなり古い古墳もありそうです。
この各古墳に、お互い線を引くとなると見えてくるとおっしゃいましたが、中には築造時期が100年・150年と離れている古墳も、線を引くことになってしまいます。
霞ヶ浦沿岸のこの地域に、古墳時代中期初頭の頃このような計画性を持って、各古墳が築造されていったとは到底私には考えられないのです。
古墳の築造は畿内の大王墓以外は、地域地域の部族の領域内で築造されていったと考えれるということです。


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紀氏の歴史感
2005年12月28日 10:10:30 いばらの紀氏
王朝は二つあった
古代(縄文の頃) 禹の測量目的の集団の渡来。(禹は蛇系 豊穣神系?)
「大和は豪族間の合議・共和制で、天皇家専制は記紀の世界だけ」との見解
秦の始皇帝の手先「徐福」集団の渡来・・・・出雲体制成立。(徐福は「景教系」
国(古代中国)を追われた「秦の末裔」が九州に渡来。(秦はユダヤの商人系)
「ユダヤの商人系」には中臣(藤原)
物部(出雲徐福系と始皇帝系など・・・ヤタガラスは徐福系?)
宗教による国家支配(禹系は道教系 始皇帝はユダヤ教から道教系に改宗)
(卑弥呼は道教系)
蘇我(祖が・夏)氏は 秦系(ユダヤ系道教)に指導権を奪われ、対抗策に「大乗仏教」(キリスト教系)を導入(裏に新しい土木技術や測量知識が存在)
中世のキリスト教を嫌ったのは「世界征服・植民地拡大政策」を宗教を利用する「商人」が裏に存在していたからと考えます。

以上   紀氏の歴史感でした オソマツでした。



今度のオフ会で
2005年12月27日 4:43:15 かわかつ WEB
じっくりと聞かせて貰いますので、納得いくよう説明願いますね!



了解!
2005年12月27日 3:31:04 かわかつ WEB
了解しました。


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そういえば
2005年12月27日 4:13:36 管理人
討論掲示板のほうに、かわかつさん「海上郡はなかった」「日本書紀の構造 蘇我氏・物部氏、聖徳太子そして香取と鹿島」との命題で書いておられましたね。なかなか掲示板もよくみてないことが多く・・・。
http://bbs1.nazca.co.jp/2/toraijin/
特に、後者の7番、興味深く思います。蘇我と物部はどういう関係にあったのか?重要ですね。


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書いてますように・・
2005年12月27日 4:40:53 かわかつ WEB
蘇我尾興は物部氏と協力して大伴氏を鎮圧し、権力を手にしたわけでしょ?少なくとも馬子以前には物部「本宗家」と蘇我氏は武士と為政者の良好な同盟関係だった。それが突然、すでにあったはずの仏教を持って、国家の祭祀に介入してくる聖徳太子。
出雲大社の北側にあるスサノオを祭る神社は素鵞神社。「そが」神社。
これは関祐二も書いている。
これは崇神と物部大物主の関係に対応しているのではないか?
蘇我と物部は「少名彦名と大国主」の関係に似ていませんか。どっちがどっちか知りませんがね。ま、どっかにいなくなっちゃう・・かむさり・・のはどっちも同じだね。


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穂積と屯倉
2005年12月27日 6:38:00 管理人
そこですね、やはり屯倉制度の研究を進展させる上で、蘇我と渡来人との関係だけでは不十分で、蘇我とニギハヤヒ系(物部系?)穂積磐弓臣が同時に屯倉に使わされている点をどう捉えるかが屯倉のレイラインを説く上で課題となりそうです。とかわかつさんもその辺は重々理解のことでしょうけど、つまりここで言えることは、朝廷側として、蘇我と物部の双方をどうして使わす必要があったのか、そこですね。普通に考えると当時は大臣、大連の時代で、両者の権益を屯倉の支配という観点からも、平等分配する必要があったか。もしくは、両者は対立関係にあったから、いよいよそうせざるを得なかった。あるいはかわかつさんの主張としては、両者はある種の協力関係にあり、両者の協力が屯倉の支配に必要だったから。
同じ屯倉派遣でも、蘇我氏+○氏の関係がありレイラインとも関係してきそうですが、その○氏や物部氏と蘇我氏との全国支配に向けての関係をかわかつさんにぜひ明らかにしていただかないと、先に論が進まないような気がしてきました。穂積、屯倉(田令)、つまり稲を積む場、磐弓、磐船信仰、紀氏三滴には東からはなった測量の弓矢、矢伝承という連携になりそうですが、ぜひ討論掲示板の物部と蘇我との関係、研究お願いしますね!


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全国支配?
2005年12月27日 23:03:17 かわかつ WEB
全国を統一しようとしたのは藤原氏が最初です。
蘇我、物部はそこまで行く前にやられてる。

レイラインの説明が先でしょうね。


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屯倉とは
2005年12月27日 23:16:06 かわかつ WEB
蘇我、物部の時代からあるのですか?
それは日本府と同じように幻想ではないのですか?西の国はそんなものを認めていないのでは?
東の、「藤原政権に押しつけられた」関東地方という一部の地方の話ではないのですか。
南も北もそんなものを受け入れていませんよ。ある時期まで。

東京にいてなにがわかるのですか。藤原以降にやっつけられた人々が武士になって、何度も何度も取り返そうとした政権への淡い夢。おそらく七世紀以降の痕跡からなにがわかるというのですか。3万年の日本人の歴史が。


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やることをちゃんとやってもらわなきゃ
2005年12月27日 23:18:53 かわかつ WEB
レイラインの説明、すぐやってください。


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出雲の謎まで
2005年12月27日 23:23:30 かわかつ WEB
30年もかかったのです。
物部と蘇我を説明、すでにHPをちゃんと読めばわかるはずですが・・・
この上なんの説明を上乗せせよと?



レイライン地図について
2005年12月26日 11:04:12 管理人
レイライン地図についてですが、紀氏さんレイライン地図(行基レイライン地図+全国レイライン地図)と私のレイライン地図を統合したく感じているのですが、紀氏+管理人合作という形で著作権を発行して見る件、紀氏さんのほうではいかがでしょう。正確には荒俣氏や百瀬氏などの飛鳥・諏訪・鹿嶋・伊勢関連のラインの著作権とも注記していく必要があるのですが、とりあえずラインを著作者ごとに色分けしてみようと思っています。そして紀氏さんの行基図の原稿と私のほうの記紀文献の原稿とで共用させていただくと助かります。双方のレイライン地図を合わせると、驚くべきものが出てくることに気づきました。私のほうでは今後は基本的に物部・高麗レイラインのみに焦点を当てて分析して行く予定でいます。


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 RE 賛成。
2005年12月26日 13:41:44 いばらの紀氏
 大賛成です、紀氏だけでは力不足を感じてまして 良きパートナー探し
閃きで 渡来人研究会 管理人さんに目をつけたのです。
失礼   まとまった文章 内容 挿絵や図なども大切・・・・」
かわかつさんが詳しいですね、兎に角 読者に喜んでいただきたいです。
お任せします 実は私 活字を読み返すのが 大の苦手なのです。
私のほうが記紀文献の原稿と共用させていただければ助かります。
(キーを打つのも苦手な 紀氏なのでした。)


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ありがとうございます
2005年12月26日 18:28:06 管理人
早速、色分けしながら作って見ます!


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あたしゃあがっくりだ
2005年12月26日 18:30:26 かわかつ WEB
ノーコメント食らってへこんでますし。当分お休みだ。


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はてな??
2005年12月27日 0:28:05 管理人
あれ、どこかでコメントし忘れてました???ううむ、文章っていうのは難しいですね。どこでどうしてどうなっているのか???かわかつさんあまり細かいこと気にしないでください。


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もしかして
2005年12月27日 1:16:30 管理人
この辺が・・・。「もっとも私は蘇我、物部、海人の移動や抗争とかの視点はまったくないので・・・」と書きましたが、そうではなく、かわかつさんのそのあたりの視点を参考にさせていただきながらも、かわかつさんとは別の角度から私なりに屯倉制度あたりから捉えていければと考えているところです。というのも、かわかつさんのように、その辺の複雑な民俗学や人間の心理にもかかわる論証は、わたしにはとてもできないですから・・・。各人の賜物にしたがって無理のないやり方で事実を明らかにしていければと感じます。そう、はたして自身はどの方面、どの視点に特化すべきか、私自身まだ見出せていないのが現状ですが、逆に人のそれはよく見えるものですね。


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続日本紀のようには
2005年12月27日 3:57:25 かわかつ WEB
日本書紀が正確な歴史書ではないため多くの歴史好事家たちは迷路にはまってしまい、結局放り出してしまいます。けれどこの難解な「小説」を解かずに置くと次の歴史に踏み込めない。
そしてそれを解くためには、日本人の来た道もちゃんと理解しとかないとと感じます。歴史はつながっています。
当然それに関わる方法論のすべてが、基本は歴史書なのでは?やみくもに銭を引いても、それが歴史書のなににあたるかを述べられなくては、誰も見ませんよ。ちゃんと整合性のあるつなぎ論を展開しなければ線も三角も無駄になりかねません。順序立てて基礎を学びましょう。もちろん私もです。
で、レイラインの定義をまず公表してくれませんか。
私の認識では、確かイギリスのなんたらいうおじさんが、遺跡への踏み分け道をとぼとぼ歩いているときに偶然思いついた・・・見えてきた?・・・もので、遺跡と遺跡をつなぐとラインが・・・だったと思いますが。あってますかねえ。
そもそも西洋のラインが東洋に適合するという理屈から説明願います。

それと紀氏さんのラインって、単に遺跡、古墳、遺跡らしき痕跡などをつないでいるみたいですが、それはちゃんと規則と方程式があるのですか?

夏至、冬至、春秋節分の日の出、日の入りのラインというのは時代によって変化したはずでは?
それと古墳、神社自体があとから場所を移したということわかってますか?特に海岸線の神社は神様も代わっていて、そのとき、藤原氏の指示で場所も変えられたはず。それはどの時代の誰が計画したのですか。そしてどの時代の座標で、どの時代の場所を計っているのでしょうか。
29.35度とか微妙にずれてるとか書いておられますが、それが歳差運動による差異だとすれば皆一定の差異にならないとおかしいのじゃないですか?
そしてそんなことをしたのはなんのためなのですか?
意味がわからんです。日本中の異なる時代、異なる為政者の時代の遺跡や神社、遺物などがみんな同じ法則でつくられたなんてことが、ほんとにあると思ってるのですか?それともあとからみんな都合よく立て替えたりしたのかな?すごいことですよ。それは。


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とにかく一度
2005年12月27日 4:02:25 かわかつ WEB
理論を明確に示して下さい。ご両人けして同じモノを作っているとも思えないので。それぞれの線引きの理論を先に提示してもらえませんか。
申し訳ナインだけど、今の私には「たぶれ心」の行為にしか見えないのですが^^;
そして最後にそれでなにがわかるんですか?それもお願いしますよ。


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先に理論があって
2005年12月27日 4:09:00 かわかつ WEB
何度、何分の角度で、一辺が一定の比率の三角形のここにはこれがあるはずだ。調べた、ほら、やっぱり遺物がでてきたじゃないか!というのならまだわかります。


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しつこいけど
2005年12月27日 4:19:27 かわかつ WEB
そんな測量技術があったなら、どうして正確な地図がないのですか。うちの大学にあった昆一うんぬん地図など、日本が逆さま。それも12世紀のものですよ。日本人だけがそんな正確な地図がかけていたのでしょうか?

行基を考えるなら、私なら、弓削道教が弓削の物部氏だったのでは?などと考える方がよっぽど有益なんですがねえ。
そんな私に、理論化して文章にして欲しいなど迷惑な考え。言葉にできないのなら、自分で文章の勉強してくださいね。考え方が間違ってます。失礼ながら時間の無駄ではないでしょうか。


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なんだってつなぎゃあ
2005年12月27日 4:23:05 かわかつ WEB
線になるにきまってらい。


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点と線と面
2005年12月28日 0:07:23 廃人
かわかつさんのおっしゃる通り、理論が先に出て、
何かしら実証する内容を伴って初めて、線を引けるのではないでしょうか?
個人的には、別の系譜から関東平野と紀伊に連なるラインを
渡来人とは別のアプローチの中で見出した事はありましたが、
全て下地になる理論を持っていたから、点を見つけ、
点と点を結び、線と線が自然と繋がっていきましたよ。



六芒星からの流れ
2005年12月26日 2:10:00 かわかつ WEB
もしかして管理人さん、若狭や出雲、気比などの日本海文化圏についてあまり知らないでしょ?どうも前から、話がそっちへ行かないようなので違和感があったのです。実はここが一番肝心なのですよ。

特に潮流についての認識がどうもね。
日本人の来た道を考えるなら、絶対に!!潮流と船の構造、そして潮流の沿岸都市については知らなきゃならんですよね。

話ははるかインド洋から。
インドシナ半島のタイ(ミャオ族の故郷)、ベトナム(越人の故郷)をするりと抜けて上海の九龍なんかを横目に見ながら江南、黄河と揚子江の土砂を吸い込んで渤海へ、ここで急に狭くなった対馬海峡から玄界灘の宗像を抜けると勢いを増して一気に出雲、松江半島は大きな汽水湖で巨大な港です。
このあたりでもう日本海流は列島側に沿っている。もちろん大陸側にも分かれて沿ってゆく。
出雲から急流は天の日ボコの出石を経て若狭のリアス式海岸、宮津、ここに大きな砂州が海に向かって延びる。これが天橋立。ここに海部氏の祭る籠神社は建っている。近くには機織り小屋の下に船のガレージになった特徴的な伊根のちりめん屋敷。若狭湾をぐるりとえぐるように海流がまわってそこが気比。波多氏が祭る気比大神とツヌガアラシトガ造った敦賀がある。能登半島をのりこえればもうそこは高志の国、富山県から姫川、越後から糸魚川が中部地方へと入り込む。
海流はここから出羽を過ぎ一気に関門海峡へ。周りもめばもうそこあ太平洋。
いかがですか?出雲ラインの旅です。
レイラインもいいけど、潮流ラインはもっと壮大ですよ。


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この潮流こそ
2005年12月26日 2:19:52 かわかつ WEB
日本人のはるかなる旅の道。つまり海のシルクロードなのです。
私が海人にこだわるのは、彼らがこの路に沿ってやってきた。多くの文化と品物をたずさえて。
だからこそ貴重な遺跡が残っている。以前書いたけつ状耳飾りもこうしてやってきて、高志の国から諏訪、尾張まで行った。
尾張氏と海部氏は同族だ。そして出雲から大和へ入った物部氏も。
ニギハヤヒの来た道です。
その途中、様々な文化と稲作、製鉄、信仰が混合されつつやってきた。
列島は東の果て。ここは文化と人種の吹きだまり。海に浮かんでやってくる椰子の実やゴミの山。それが日本人です。


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日本海流
2005年12月26日 2:31:50 管理人
ほんとに、若狭方面まったく天の日矛がどうこうということ以外、知識もなければ行ったこともないですね。あえて出雲→若狭方面となると、行ったのは出雲くらいでしょうか。出雲→若狭の海流の流れ、なるほどその強い流れがあるからこそ、それにそった信仰の流れもあるんですね。九州北部もこの海流はかするわけですね。海人族おそるべしです!


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重要なのは
2005年12月26日 2:36:21 かわかつ WEB
出雲なのです。出雲だけ。

伊勢は最後の最後に創作した。それも出雲神のためにです。


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と同時に
2005年12月26日 2:52:37 かわかつ WEB
伊勢は女帝の正当性を気づきあげるための仮も屋なのです。出雲神を女にしたてあげたのです。だから伊勢内宮の千木は男切りにきってあるのに、女神だと言ったのです。あそこにいるのはニギハヤヒ=大物主なのです。
ゆえに後から、巫女である活玉依比売=豊比売=やまとととびももそ比売=豊受神=比売大神が必要になる。
天照御霊神社すべてをまわってみればわかります。地図上で25ヶ所さがしてご覧なさい。出雲神をお宅で頼むという朝廷の希望に各所の有力者が答えているでしょ?彼らは皆共通性があるでしょ?
物部氏のいる大和笠縫邑から始まって、河内、海部・・・伊勢の猿田彦、太田命、度会・・・・すべて海人族の管理者でしょ?
出雲神は物部と蘇我から始まるすべての怨霊の集積場ですよ。彼らの怨霊があるかぎり、藤原氏はおちおち眠れない。
初めての女帝・・・天智系の女帝・・・持統天皇を女神にしていいか?とお伺いしたのです。大物主の眷属に!


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ヘルプ
2005年12月26日 14:27:58 いばらの紀氏
「伊勢は女帝の正当性を気づきあげるための仮も屋なのです。」
 なるほど〜神も♂V♀太陽神に月(星)神(陰陽白黒穴 相対性原理?)
甲(黄帝?)Vs乙(禹) 雷神Vs風神 火神Vs水神 
バチカンYHWH天子Vsバールへび悪魔 ゼウスVsポセイドン 
景教?神仙?アフロデーテ?禹バール神?秦氏? 徐福(秦)?????
アレキサンダーVs禹系 始皇帝Vs禹系 出雲Vs天孫
 宇宙の創造主は雌雄両具? 
光は漢字では山頂の火の形・影 (景は太陽の光だがしだいに影 陰にされた。)・・古代神道は景教(駄天子?)ローマカトリックは(商人・)
キリスト教=YHWH+豊穣神マリア?
イスラエル十二部族=YHWH派2 牛(禹氏)バール神10
古代中国神話 10の太陽の内9の太陽が射落とされた・・残りの1つは?
禹が中国を9つの州に・・・・日本の関八州・・・漢?
 だれかーまとめてください。


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日本海文化
2005年12月26日 21:34:47 タックン
出雲から日本海岸沿いの遺跡を見ていくと、どこか必ず共通点が見てきます。
出雲特有といわれている、四隅突出がた墳丘墓や弥生時代の大型の巨木を使ったストンサークルと見まごうばかりの遺跡。
特に四隅突出型の墳墓は最近富山県内で発見されだして、類例が増えつつあります。
かわかつさんの言われている潮流はおおいに関係があり、文化は対馬海流に乗っていったと考えられるのです。
出雲の古墳には、北部九州系統の様式がそこかしこに見え、それを旨く出雲流にアレンジして築造されています。
事実敦賀の気比、城崎近郊の気比という共通地名も地形の似通っているという意味合いだけではなく、文化が西から東に流れていったと考えられるのです。
因みに気比という意味は、風の強い土地という意味だそうで、実際この陵土地を訪れてみると風が強いという意味がよく判る土地で、この説も頷けます。
ただ若狭の古墳は、他の土地よりも畿内性が強く山を越えたら畿内なので、他の北陸・丹後の古墳とは一線を画す様相です。
ただ敦賀辺りから、かなり北陸的になってくるので、この辺りから北陸・畿内の境界?かなと思っております。
ただ敦賀地方にはあまり古墳の築造数が少ないので、ハッキリした事は現時点では判りませんが・・・・・
一部の人は、敦賀は若狭地方に入れておられる方がおられますが、私はこの地方は北陸に入れてもいいのではないか?と思っております。


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出雲といえば
2005年12月26日 23:33:35 廃人
思い出すのは神迎え祭の当日の事。
神の使者(海蛇)が、浜辺に上がってきます。
これを、内宮のお祭りする祭壇まで運びこんでから、儀式が始まります。
4年前の11月に参加したが、偶然とはいえ,
この一連の儀式に参加したのも、何かの導きかと思いました。
もし、神迎え〜神送りの儀式に参加される方は、
早めに予約しないと付近の宿が一杯で泊まれないですよ。


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出雲→若狭
2005年12月27日 9:29:13 管理人
出雲、若狭間の海流と文化、神事の関係、興味深いですね。ちょっと海流地図を探してみました。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/index.html
どうも、出雲→若狭までは、海岸と平行に直線的な流れがあるようです。新潟方面に向かうと流れがかなり蛇行しているようですよ。



由について
2005年12月25日 20:56:09 タックン
神社などの名前の中に、由と言う文字が入っている名前が多いのに、最近気づきました。
古代から由というのは、清涼な泉が湧いている場所を指して、ュと名づけられたそうですが、古代からュ→湯→由と変化していると、言葉が変化しているそうです。
泉が湧いている場所は、ひっくるめてこのュという言葉が用いられたようです。
特にこの由の文字が、神社の名前の中に入っているのが多いようで、泉湧く所に神社が創建されていったとも考えられます。
地中からの、底知れぬパワーを古代人は、驚愕の目で見ていたのか?、ただそれだけではないかとも思われますが、かなり関係はありと思います。


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たとえば由布岳
2005年12月26日 0:55:22 かわかつ WEB
「風のハルカ」で放映中の大分県由布市湯布院町は元、由布院という表記でした。お隣の湯平町と合併して今は湯布院と書きますが、本来は由布岳から。
この「由布」というのは、木綿のことを指すというのが一般的なのですが、実は由布岳にはこうぞ・みつまたが自生し、かつては山の民の紙漉が行われていた可能性があります。つまり由布紙ということで、和紙をあらわしていたのではないか、というのが私の考えです。紙漉には大量の湧水を使います。熊本の白水村湧水群などでも和紙造りはさかんなのです。
美濃の美濃和紙は非常に有名ですが、あそこも山の民による様々な工芸が根付いている。
神社というモノが国の祭祀に関わる反面、常に裏側に地元のもともとの祭祀者たちを押しやった節が感じられるのは、彼らが山の民となって山岳地帯へ逃げ込んでいったのではあるまいかと思います。

実を申すと、こんなことはあまり書きたくないのだけれど、豊後国中部は山の民の国であったと言ってもいいのです。
井の姓のある竹田市は木地師の多かったところ。さらに関祐二が邪馬台国だと書いた日田市から玖珠町にかける装飾古墳文化のある盆地は、穴井という姓が多く、葛の民がいた形跡があります。ここは久住山の西の麓にあり、朝敵・五馬姫の退治されたところ。久住も玖珠も「くずう」葛生ではないか。
湯布院が温泉でつとに有名なように、タックンの言う水の涌くとうのは正しい。実際、ここに宇奈伎比売神社などの水の涌く社があります。
このあたりにはまた熊本阿蘇の国造の祖神、建磐龍命を祭る神社が多く、どうやら有明文化圏と筑紫文化圏のはさまになるようなのです。
私は日田市が記紀に言う「天の八街」であろうと空想しています。


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追補
2005年12月26日 1:07:50 かわかつ WEB
「由」は「ユウ」と伸ばした発音だったらしいです。
ユウは布をあらわす古語?同時に「油」を出し酢も出す柑橘は柚。
この柚の栽培地を調べると、古くからの栽培地が実に多く、柚の字がつくところは大概、山間の奥まった隠れ里が多いのです。
トゲが非常に長く収穫に手間のかかる柚は一般の農家でいやがられたようで、今でも栽培農家は山の中腹の忘れられたようなところで造られる。
正月間近になると彼らが降りてきて、木椀や蓑などとともに商いにきたのではないか。そんな気がします。昔の人は柚の強い芳香に神聖な何かを感じていたのかも知れません。
いちどお近くの柚栽培分布を調べてみると面白いかも。


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2005年12月26日 10:57:50 管理人
確かに、諏訪前宮もそばに小川が山地から流れていますし(わざと引いた??)、伊勢だと禊の場となる五十鈴側の側でした。清水というと、やまとたける伝承に出てくる伊吹山から湧き出てくる泉のそばにある神社も去年は行きました。由に関しても多いですね。


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「由」(ユ・よし)   を考える。
2005年12月26日 13:16:26 いばらの紀氏

【由旬】ユジュン;距離の単位 四十里 三十里 一六里 など諸説有り。
「由」ユ・よし:出所を示す。用いる 行なう。実効する。「なお」(副詞 状態が終わったのに相変わらず続ける・・・・・・「田」・一里四方の土地の測量から「更」こ(古文字の形には方形の角?に「T」型の定規をあてる形。)「由」=田から上に伸ばす形。
「旬」ジュン:音はめぐる意の「巡」からきている。「隼・准・遵・盾・閏・・・」なども 「ジュン」
「甸」デン・テン・カリ(狩?)・・・・・・田(地図)と狩(測量)  「狩」の古字形では、「獣」偏=(ツ(三方)+田(一里四方)+口(塚・台+「犬」=隼人?)  「甲」の形の上の二の丸を線で結んだ形。 
「田」デン=「甸」デン・テン・カリ(狩?):周時代、国都の周囲5百里の土地。天子に直属した。畿内。周時代の税法で「六十四井」(一井は一里四方の田地。これを八家で耕作する。)の称。兵車一台(車の単位が「台」?)兵士の数75人を出す。(「邰」(台+阝」タイ:周の先祖(禹?)の皇后が封じられた国名。)
以上からも「漢字」の元が禹の測量だと覗い知ることが出来ないでしょうか?御意見ご感想をよろしく御願い致します。


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続    「由」 考
2005年12月26日 13:17:34 いばらの紀氏
ヤ 考
やし 「椰子」・「木+邪」ヤ・ 琊ヤ
邪馬台国の「ヤ」が、「耳」と「牙」+「阝」が南方の植物の「琊」と「椰子」他に「香具師」「野師」更に「師」も「ヤシ」なのでした。
「琊」やし・・・解りません が・・・「牙」の意に「才取」:売買をとりついで口銭(牙銭)を取る者・天子または、大将の立てる旗。本営。 とありました。
「牙」や「爪」には手先の者 の意が・・・「社」やしろの「古文四声韻」の字形の中に「爪」の字が存在(だれ?の手先の者?)
「邪」ヤ・カ:よこしま(中国の横の島?)不正(父性?YHWH?)
「耶」ヤ:疑問(魏 者? 耶蘇ヤソ?)

「社」  考
「社」=(示+土)の古字形は殆どが「土」(一の上に菱形)と同様ですが二つの「点」が有るものが在り測量のポイント(一の上ノクロス)と考えます。「社」=(示+土)示す土=社 デス。
「社」は古代中国では二十五家の組合・同士の集まるところ・・・・・ギルド?ロッジ?講?教会?
ろ 鷺 「鹵」ロ・しおつち・・・・塩土扇は「岩塩の地」(中国西北地方の出身デハ?)「鹵」と「由」の古字形が似ている(酒を搾る「籠」型のところ。)
鷺 ろ ロ(くち?から・・)さぎ(詐偽)・・・(信長も桶狭間に行く前に「社」で祈願「鷺」が飛び立ち「吉兆」と・・・・あれは 詐偽?

【社鼠】しゃそ:神殿に巣食うねずみは人がかってに手が出せぬように、覗くことのできない・・・?や 君主のそばにいる悪臣 官?
・・・・・辞書に潜む裏側の真実・・・・妄想が楽しい 紀氏でした。


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水は加茂氏 鴨
2005年12月26日 14:42:33 いばらの紀氏
ヤマトタケルは井戸(緯度)掘りが好きなので「穴師」かと?
古代の井戸・泉・滝・池などの中にも測量のポイントが隠されていると考えております。
有力政治家の胡 泉 官(漢?) 羽田(秦?) 海部 武部 ・・・・わすれた。
鳩山(ハート キリスト系・)伊藤 森 ・・・妄想でした。



「小子部」考
2005年12月25日 8:36:08 いばらの紀氏
「小子部雷率大隈隼人]の「小子部」をコシベと考え「越・古志・輿・虎視・鼓し・・・・・越人?・鼓鐸・鼓行・鼓舞・・・・などをイメージ・・・・
「コシキ」が閃き、甑(釜の上に載せて湯気で「※」(米)などを蒸す道具。・・・・二段の鼎?・・・アリダード!) 甑島・・・・「高千穂をぬけ水俣その先は甑島列島(甑こしきの漢字に「轂 こしき」を思い浮かべた、(轂:牛車の車輪の中央にある円木。車軸がつきぬけ、輻ヤが四方に出ている。ヤを一所に集める・しめくくるの意味。)東から放たれた矢が西の的に集まる・まさに日本の東西の車軸にふさわしい地名です。」(紀氏の原稿より)
【坐甑】そう(「輳・(車+奏)」:車の輻ヤが「轂こしき」集まる)にざす:「夏」のきびしい暑さの形容。・・・・・「夏」=禹=測量・・・・妄想デシタ。
【堕甑不願】そうをおとしてかえりみず:久しく炊事をしないので こしきに ちりが積もり、かまに魚がわく意。
こしきに ちり(アダムの素・祖)が積(目論見)もり、かま(缶・瓶・・・甕棺?)に魚(キリスト教徒?)がわく意。?
こしき(甑・鼎・アリダード)に ちり(地理)が積(目論見モクロミ)もり、かま(缶・瓶・・・甕棺?・・・・古墳?)に魚(キリスト教徒?・・・・・測量士?)がわく意。?

「小子部」は「轂 こしき」はケルビムの神の戦車メルカバー・・・測量用の車両?(東西南北に移動・・・製図機?)
製図機 ドラフター
http://www.smzkurasawa.com/1ban0.htm
   紀氏の妄想・・・・ここまで記増した。


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メルカバー
2005年12月25日 8:37:22 いばらの紀氏
神の戦車メルカバー
http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinpi/merukaba-.html
「、四つの車輪が、ケルビムの傍らにあるではないか。一つの車輪が、ひとりのケルビムの傍らに、また一つの車輪が、1人のケルビムの傍らにというように、それぞれの傍らにあって、それらの車輪の有様は緑柱石のように輝いていた。それぞれの形の有様は、四つとも同じで、一つの車輪がもう一つの車輪の中にあるかのようであった。」
「 それらが移動するときは、四つの方向に進み、移動するときに、向きを変えることはなかった。先頭のケルビムが向かうところに他のものも従って進み、向きを変えなかったからである。ケルビムの全身、すなわち、背中、両手、翼と、車輪にはその周囲一面に目がつけられていた。ケルビムの車輪は四つともそうであった。それらの車輪は『回転するもの』と呼ばれているのが、わたしの耳に聞こえた。(「エゼキエル書」第10章9〜13節)」

「フタの上にある二つのケルビムの一つが磁石の役割を果たしたとすれば・・・・」
神々の戦車 エーリッヒ・フォン・デニケン
http://kubota.cside.com/library/daniken/index09.html
「どうもこの箱は電気を帯びていたらしい!」 古代エジプトに電池の祖が存在。

聖書, Bible, 新共同訳, 詩編 ... スコトの野を測量しよう。
http://www.fsinet.or.jp/~yoyoue/bible/psa50_99.htm

重戦車マウス. 世界最強のハリボテ戦車。 ... の柱であり、西海の深さを測るための測量棒だった。 ... この扇は、ケルビムの持つ炎の剣ラハト・ケレブ(直訳すると魔法 ...
myth.bbs.thebbs.jp/1104912138 - このサイト内で検索


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ちいさこべ
2005年12月25日 9:30:41 かわかつ WEB
ちいさこべはどうしたってちいさこべでしょうなあ・・・ーー;


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聖書と測量
2005年12月25日 10:00:04 管理人
今日は、おはやいですね。さて、紀氏さんご指摘、聖書と測量記載、そういわれてみると、聖書に土地領域を測量する記載多いですね。新約にも黙示録あたりに多くあったような。旧約預言書あたりにも土地測量記載があったし、中東文化で土地測量ってどういう意味があったのでしょうね。
あと、小子部、なるほどご指摘のとおり、大隈隼人系とも受け取れますね。隼人は国々の境を鎮魂する祭りやりませんでしたか。はてさて謎が謎を呼び・・・。


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小人と大人
2005年12月25日 11:24:10 かわかつ WEB
どうも小子部すがると大生部多が混同しちゃうんですよ。この二人なんか似てませんか。
方や笑われた方で、方や叱られた方。ちいさいのと大きいの。
すがるは蜂の腹が黄色と黒の雷でいかづち。
多は大きくて多い・・・こりゃまるで太田田根古ですな。

方言で、大分ではずるい奴のことを「コシキイ奴」。これはこすいからか。関係なかった。
高志からは石油が出る。
瀝青アスファルトは?


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ラいんきん増殖中。
2005年12月25日 21:08:02 いばらの紀氏

[6887] みんな思い出せないの?  先祖
http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi

紀氏 感激!



眞名井神社
2005年12月25日 2:22:33 管理人
下の続きですが、紀氏さんのご紹介HPをみていて思い出したんですが、籠神社って六芒星(ダビデの星・カゴメ)で有名な神社でしたね。宮中から転々としたという元伊勢の中でこのカゴメ紋があるのはここだけでしょうか。
あと、加茂ですが、うちの父方の祖母の姓は榊田といいますが、上鴨に榊田という地名ありますね。ここあたり関係ありかと見ています。宮中の榊については、宮中八神が祭られているようですが、この八神と元伊勢の転々とした伝承とはどう関係するでしょう。


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伊雑宮と真清田神社
2005年12月25日 8:53:53 管理人
元伊勢・伊雑宮とかわかつさんご指摘の穂積氏関連?の尾張一ノ宮の真清田神社は136度48分の南北ラインですね。
穂積氏については、神奈川の子之神社の宮司さんも穂積だそうです。子之は籠(この)でしたね。
http://www.neno.net/guuji.htm
眞名井神社は延喜式に記す出雲国意宇郡眞名井神社と関連あり、出雲からでしょうか。出雲→摂津→鴨というと御影信仰ともかさなりそうですが、はてさて。御影信仰と榊の宮中八神と忌寸姓の畿内豪族の祭祀については、昨日ふと見ていた修士論文PDF版で書いていたの思い出しました。


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原稿集アップ
2005年12月25日 8:22:20 管理人
先の雄略紀と旧約伝承とに関する原稿集後半をアップしました。最近のみなさんとのヤマトタケル伝承などのやりとりの中で見出されてきたことを加筆しています。
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kyuyaku.htm


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クールオンラインのパスワード!
2005年12月25日 11:13:35 かわかつ WEB
わからなくなりました。ここへうちからリンクさせようと思ったけど、会員制だったこと忘れてました。後半部分へじゃなくて、HPへのリンクにしておこうかな。


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受け取りました
2005年12月25日 16:31:39 かわかつ WEB
パスワードありがとう。


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あのぉ
2005年12月26日 23:24:43 廃人
5芒星は、ユダヤの世界で、ダビデの星という異称を持ってるよ。
篭目紋は、6芒星だよ。
管理人さん、間違ってるっすよ。
ちなみに、7芒星という永遠という意味を持った図形もありますね。
大英帝国博物館に所蔵されていました。
渡来人には関係ないですけどね。


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8角形
2005年12月27日 0:57:05 管理人
かわかつさん、パスワード行ったみたいで安心しました!!!
確か天武の墓は八角形だったっけ。八って??


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廃人さん感謝いたします。
2005年12月27日 9:53:57 いばらの紀氏
エノク語について
天使ウリエルだった。ウリエルから以降の通信のために必要な道具、七芒星の円盤の作成法などを教わった彼らは、以降その円盤を使い、複数の天使や精霊から数々のメッセージを受け取っていく事になる。
http://homepage3.nifty.com/know-thyself/imn/knowledge/knowle10.html

七芒星はヨルダンの人民の統一を表す ...
ヨルダンのドメイン名とその説明
7角星はコーランの「アラーのほかに神はなし。マホメット
はアラーの預言者なり」の7語を象徴したもので
ヨルダン川はヨハネがキリストを洗礼した川
http://www.h3.dion.ne.jp/~pekochan/kokkikokka/kokkiasia/kokkijordan.htm

続幾何図形論 -太陽神のシンボル七芒星- 木村俊晃((叶管理工学研究所) .

黄金比の基本的性質;平面図形に関する幾何的問題;空間図形に関する幾何的問題;フィボナッチ数;ルカ数と一般化されたフィボナッチ数;連分数と有理数近似;一般化されたフィボナッチ数の表現定理;最適な間隔と検索アルゴリズム;等間隔および非等間隔な射影;ペンローズの充填;擬似結晶学;生物学への応用


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7芒星
2005年12月27日 23:55:16 廃人
紀氏さんへ、
7芒星は、エノク語に密接な関係を持っていますが、
この掲示板の論旨とはずれてる内容になりませんか?
それに、7芒星と7角形は、厳密な違いがありますよ。
こんな瑣末な内容よりも、本筋の内容に対して考証する必要がありませんか?



なぜ天照大神はうろうろしたか
2005年12月24日 13:12:44 かわかつ WEB
元伊勢の謎はそのまま「坐す」の謎でもあります。
「ます」とは滞在したという意味でしょうか。20年に一度の式内遷宮で天照大神の神霊は25カ所もの場所を放浪のすえ、ようやく伊雑宮から今の五十鈴川の奥に遷座されました。

これはこの神が藤原氏にとってどうやら都合が悪かった。つまり物部氏の大物主を鎮護せんとして反って祟られてしまうという大失策を犯した巫女神の神霊だからではないか?

1 干支一巡の22年であるべき遷宮が20年の不思議
2 女神であるはずの内宮の神殿千木の切り方が男神の様式の不思議
3 なぜわざわざ後から豊受という稲荷霊の名を持つ籠神社の神を、しかも別の敷地に作ったのかの不思議
4 それほど各地で落ち着かず、結局伊勢に落ち着いたのかという不思議5 なぜ六芒星という判呪文で封じられているのかの不思議

こうしたすべての謎は日本書紀にヒントが氾濫しています。これはこれまで私が書いてきた、藤原と出雲勢力の対峙という史実の反映。そしてそこに隠された九州の卑弥呼と豊のイメージを上乗せしてある。
それで理解できるはずです。
これが説けますと、「大和に邪馬台国があった」という仮説は粉砕されてしまいます。
なんども申すように、大和はあまりに新しい。大和盆地には人の手が入りすぎている。あそこは藤原氏のテーマパークです。そこに真実の陰は薄い、というしかありません。 


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籠神社
2005年12月24日 17:34:27 管理人
なるほど、海部氏の籠神社経由で伊勢に入ってきているという説あったんですね。確かにあの辺はかわかつさんの海人と九州の世界の名前がたくさんありますね。不思議ですね。気比でいつかぜひオフ会をしなければなりませんね。


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元伊勢
2005年12月24日 21:12:22 タックン
丹後の大江山の麓に、豊受の外宮の元伊勢といわれている所在地があります。
丹波といってもことの土地は、山を越えたらすぐ丹後の地に近い土地柄で、籠神社の海部氏などや大江山を越えたすぐ地は、加悦という土地に入ります。
加悦→伽耶?古来からこの加悦谷を抜ける峠路は重要な交通路として様々な伝説がありますし、丹後から上陸してこのルートを、渡来人たちは都へ辿って行ったと思われるほど、各地に神社などが散見されるのです。
加悦には、有名な作り山古墳など大型の前方後円墳が多く築造されていますが、此処にある大型の古墳の時期は大体4〜5世紀ごろの古墳で、この頃に渡来人が渡ってきたとは考えておりませんが、後の時代古墳時代後期の古墳の古墳が、圧倒的にこの加悦谷に分布している事は、こういった背景を物語っているように思います。
神社の事を調べていると、必ず付近には清水の沸き出ていることが多いことに気づきました。
古墳が築造されている土地も、大体付近に湧水が出ている場所が多いのも、何か神聖な土地というのを選んでいるように思ってくるのです。


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加悦、与謝
2005年12月25日 9:04:52 管理人
タックンさんご指摘の加悦谷、ほんとに今まで考えたこともない地域ですが、伊勢→鴨ラインを伸ばすとこの辺に出ますね。と、地図をみてみると、ほんとにすぐ丹波に出るんですね。瀬戸内に出るには最短距離のように見えますが、日本海からダイレクトで瀬戸内にでる意味っていったい・・・。


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六芒星について
2005年12月25日 23:05:39 廃人
ユダヤのカッバーラにおけるある一面での解釈なら説明できますが、
それが、伊勢に当てはまる理由が判りませんね。
ご存知だと思いますが、一応簡単に説明を・・。
「芒星六角形の紋章は、別名”ソロモン王の封印”という名を持つ。
上象の3角形(火と風とそれに呼応する象徴△)と
下象の3角形(水と土とそれに呼応する象徴▽)を重ねて、
上下のバランスをとった形の図形を、対象紋章とする。
意義としては、”安定”を意味し、その紋章を刻んだ場所に霊的な安定をもたらす効果を持つが、刻むもの・人・意思に左右される。

安定を必要とするのは、神威を必要以上に外界に出さないようにしているのかな?


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六芒星追補
2005年12月26日 1:20:31 かわかつ WEB
私は日本の六芒星は連続三角紋・・・蛇のうろこ・・・を幾何学模様に止揚させたもんだと考えています。
脱皮する蛇の再生能力を示す文様は広く東南アジアに分布・・ロッコーン・・します。インドのナーガ信仰の痕跡?
だから紀氏さんの三角形による測量という幾何的発想につながるのかもと期待はしています。ただし、そういう即物的至便性にはなかなか日本人の着想は行かないモノだとも感じます。むしろ怨霊信仰などの情念的な霊信仰が先にあったと思いますね。
カッバーラ自体もインドからの伝播とは考えられないでしょうか。ふとまになどの動物骨の亀卜からの発展か?呪術の伝播ならば洋の東西の謎は払拭されないか。信仰の類似は人種を越えますから。


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ただし
2005年12月26日 1:26:37 かわかつ WEB
六芒星の形状の着想はあとから西から伝わったのかも知れませんが。こりゃいい形だと言って、日本独自の信仰を上乗せ?
いつ伝わったのでしょう、この永遠性のある丸い形状は。5世紀の装飾古墳時代にはまだ横一列、あるいは王塚古墳のように無限に広がってゆく幾何学模様でしかありません。
六芒星になると、もう一目で表現でき、実にコンパクトな「マーク」「アイキャッチャー」へと進化していますね。


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許可願い
2005年12月26日 1:29:27 かわかつ WEB
この一連のレス群は重要なので、当サイトに転載します。よろしいか?


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よろしいのでは?
2005年12月26日 2:42:32 管理人
特に常連さんの間での書き込みについては大丈夫だと思いますし、問題あれば直接連絡してあげてください。常連さんたちの書き込みについてはどうしてもテーマが重なってくる部分もありますが、同じテーマでも視点が異なるので、その辺の折り合いもついてくると思います。レイラインについては、紀氏さんは古墳中心、私は神社中心という傾向ありますが、視点をお互い明確に認識しながらやっていくことも、お互いの賜物を尊重していく上で重要なことですね。もっとも私は蘇我、物部、海人の移動や抗争とかの視点はまったくないので・・・視点にそって、どんどん遠慮せずかわかつさん考察していってみてください。考古等の視点はタックンさんたちでどうぞ、いろいろ過去の掲示板を参考に好きにご考察ください。


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3角形
2005年12月26日 23:09:48 廃人
印章から解くと、3角形は、最小の面構成となりますね。
面は、何かを形作る最小の形であり、形とは、無から有を切り出す行為になります。
そこに意味を見出す事も出来るとは思いますが、意味のない線を引いても何も出ませんよ・・・。
芒星の根源は、どこで発生したのか不明ですね。
イスラエルの話は有名ですね(6芒星、5芒星共)・・・。
イスラエルが元だとすると、シルクロード経由で景教の中の一部として
中国に伝わった中にあったのじゃないかな?(推測ですが)
景教自身は、結構古くから中国に伝わっていたようですよ。

しかし、寡聞にして、ヘビの鱗が3角形とは知りませんでした。
1つ知識が増えました。感謝


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足利氏の紋が
2005年12月27日 3:30:00 かわかつ WEB
確か三角を三つ重ねた紋ですが、これも蛇です。

六芒星はhexagramですからヘキサ=6=ダビデの星です。
五芒星はペンタグラム。



安倍晴明
2005年12月23日 18:25:30 かわかつ WEB
姫さんのコメント、少し編集して当サイトの「論説集2」に転載しております。http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/ronsetu2.html

清明を晴明に
加茂を賀茂に、それぞれ訂正してあります。晴明に詳しい竹内さんに確認して、こちらの文字が好ましいとのことで勝手ながら手を入れてあります。ご了承下さい。


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おなじものだけど
2005年12月23日 20:15:48 かわかつ WEB
物部氏関連ほりこんでおきます。

http://bbs1.nazca.co.jp/2/toraijin/index.html


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うっかり姫で!
2005年12月24日 10:21:09 姫 MAIL
かわかつさん、ありがとうございました。
全然気が付かなくて、お恥ずかしい限りです。晴明でしたね。
加茂の方は「安倍晴明物語」では、加茂になっていたのですよ。
それから宿曜経ですが、晴明がいつも根拠としていたは、「文殊師利菩薩及諸仙諸説吉凶時日善悪宿曜経」だそうです。

また、加茂保憲から陰陽第一人者と認められた晴明は、保憲から「金烏玉兎集」と言う巻物を授かりました。 これは唐の伯道上人が表したもので、文殊宿曜経に中国伝来の説や己の説を書き加えたものだそうです。 これは唐国でも珍重されていた書物でしたが、安倍仲麻呂が、帰国する吉備真備に託して、日本に到来したものでした。 金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)は、吉備氏から加茂氏に譲られ、結局は仲麻呂の子孫の、晴明の手許に戻ったと言うことになります。 


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江戸期には
2005年12月24日 21:52:15 かわかつ WEB
清明という表記もあるそうですから決して間違いではないそうです。
賀茂表記はそれが一般的だというだけでしょうから、加茂でもかまわないようです。
あまり気にされないでください。晴明は私もあまり詳しくないので、どうじかこれからもいろいろ教えて下さい。


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晴明
2005年12月27日 2:52:12 いばらの紀氏
異説晴明誕生 吉志編1
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0wk.htm

その後鬼となった壬生忠見がひっそりと出てきます ...
http://www4.ocn.ne.jp/~eclipse/books/Yumemakura.htm


捜しています
2005年12月22日 20:21:31 タックン
かわかつさま、現在「大分県史・古代編1」という本を捜していますが、なかなかこの一冊だけ単体で売られている古書店はありません。
以前、大分市内の古書店であったということで、買おうとしていたんですがその時は事情が悪くて購入できず、タイミングを逃してしまいました。
かわかつさまなら地元、どこか知り合いの古書店などで、この本を持っておられる方はご存じないでしょうか?
ご教示下さい。


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大分県史
2005年12月23日 0:18:10 かわかつ WEB
全21巻ありまして、通常価格で45万円!もいたしますので、一冊換算でも2万円!位するようですね。下が注文フォームです。

http://www2d.biglobe.ne.jp/~jobundou/ooita.htm

大分県立図書館ならそろっていますが古書となると、さて?近くに別府大学があるので聞いてみましょう。古書店にあるかなあ。調べてもらいます。暫時お待ちを。



安倍清明
2005年12月22日 12:43:24 姫 MAIL
桜井の安倍寺は、大化元年に、安倍倉橋麻呂が安倍の本拠地に創建した寺です。ここに、清明は安倍の頭領、益材の嫡男として誕生。母は吉志氏の葛の葉姫です。吉志と安倍は古くから婚姻関係が結ばれ、屋敷も傍であったため、強い繋がりが続いていました。この縁で、渡来した吉志が
持ってきた「吉志舞」も安倍に伝えられ、皇居の大嘗祭に
「久米舞」と共に毎年安倍が演じました。清明は幼少より利発であったため、葛の葉は吉志の秘伝であった陰陽道を教えました。安倍寺の隣には吉備氏の屋敷があり、吉備氏からの分家が、当時陰陽第一人者であった加茂忠行でしたので、12歳の清明は吉備氏の強い薦めで、加茂家に学ぶべく京へ出ます。加茂忠行は清明の尋常ならざるを悟り、長子保憲とともに、陰陽道全般と天文学暦学を伝授しました。後、加茂家を継いだ保憲は、清明に陰陽道全般と天文学を譲り、実子の光栄には、陰陽道と暦学を相続させました。それまで加茂家独占であった陰陽道は、こうして二派に分かれることになります。清明は唐にも3年の留学を果たし、ますます名を挙げることとなり、清明の11代の孫、有宣の時、朝廷から土御門の名前を賜りました。天文学を能くした清明の因ったところは、文殊宿曜経でこれは文殊菩薩が天地陰陽の理を諭した経です。このため、人々は清明を文殊菩薩と同一視するに至り、後、仏師快慶が文殊菩薩像を二体彫り、それぞれ安倍寺と、阿倍野の安倍寺へ安置されることとなりました。
阿倍野の地は、孝徳天皇の難波遷都に伴い、安倍家も従って難波に移りましたが、寺を建てるために選んだのが、現在の阿倍野です。孝徳天皇崩御後、明日香に京が戻った後も、安倍家は阿倍野から引き払うことはせず、一族をずっと残しておいたのです。この阿倍野の寺と、若狭の「納田終」(ノタオイ)の天社宮とが、桜井の安倍寺とともに、清明陰陽道の三箇所の、重要な里となっています。納田終は、清明9代の孫、有弘が帝から若狭に所領を賜った時、寺を建立した土地です。

清明の葬られているのは、京都嵯峨野の菩提寺ですが分骨は、安倍一族の祖、大彦王の墓とされる艸墓古墳の石棺に納められました。艸墓古墳の頂にあった高屋安倍神社は何時の頃か不明ですが、地滑りのため倒壊し、現在は神功皇后の宮かもしれないと言われている、若桜神社に合祀されています。
以上、「安倍清明物語」東快応著 よりの抜粋です。 


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ちょっと訂正です
2005年12月22日 20:31:52 姫 MAIL
安倍氏の祖と伝承されている大彦王の墓は、艸墓古墳ではなく、メスリ山古墳でした。 艸墓古墳も安倍の祖先の一人には間違いないと思いますが、だれであるかはわかっていません。艸墓古墳の横穴式石室には大きな家型の石棺が安置されていたのだそうで、安倍の頭領が亡くなると、分骨して、必ずこの艸墓古墳の石棺に納めると言う風習が伝わっていたのだそうです。

従って、安倍の氏神である高屋安倍神社が、艸墓古墳の上に鎮座していたものでしょう。

また、文殊院の本堂の直ぐ東に位置する、文殊院西古墳は倉橋麻呂の墓所であると伝えられています。 西古墳は横穴式で、その石組みが切り石で美しく造成されていることで大変有名ですが、この石組みは安倍寺を建てた工人の手によるものであろうと推察されていますので、墓の主も安倍寺を創建した、倉橋麻呂であってもおかしくありません。

友史会でメスリ山古墳や、文殊西古墳へ現地見学をしたときには、このような話は聞きませんでした。  私が聞いたのは、安倍寺の東事務長からですが、代々安倍寺に伝承されてきた一族の言い伝えであろうかと、思います。

安倍寺の近在には物部、蘇我、吉志、吉備などの豪族達の屋敷がたくさんありました。  それぞれ経済を支える基盤は、頭領の住む屋敷の傍ではなく、その荘園にあったものと、思えます。 安倍氏の荘園は、紀国紀ノ本の庄で、面積は百町歩ほどもあったそうです。


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吉志に関して大いに役立ちます。
2005年12月23日 0:10:06 かわかつ WEB
姫さん、いつもながら詳細な情報ありがとうございます。安部寺の近在に蘇我氏、吉志氏、吉備氏などの屋敷があったというのは、そこが後の言葉で言えば、いわゆる武家屋敷街のようなもので、有力氏族は一カ所に集められたということかも知れないですね。中央集権が一応整ってきたということでしょうか。
文殊宿曜教は興味深いです。一度調査いたします。
奈良は雪はいかがですか。寒中、ご自愛ください。


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8世紀インド仏教僧
2005年12月23日 0:31:31 かわかつ WEB
http://home2.highway.ne.jp/miiboat/HP_Mithraism_History_EastProp.html
皆様にわかりやすく申しますと、いわゆる占星術とでも申しましょうか。
宿曜教は星座を用いた預言書と言ってもよいのかと。
ここには修験道、役小角も関係してきます。安倍晴明研究者には重要な教義です。


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秦氏の
2005年12月23日 1:02:06 かわかつ WEB
弥勒信仰や陰陽道のみならず伎楽・芸能とも大いに結びついてきます。もちろん後の妙見信仰にも。また大分県国東の山岳密教、天台、真言密教にも大きく影響したようです。重要!

「参は猛悪にして血を好み、羅喉は災害を呼ぶ」
参は「しん」と読みオリオン座のこと、羅喉は「らごう」で天輪、あるいはミトラ=マイトレーヤ=弥勒。ふつう頭上に九匹の蛇を乗せた仏像で表されます。清明が九尾の狐・葛葉くずのは・・から生まれたという逸話に隠されたこの数字、いったい何を示すのでしょうか。


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吉志氏
2005年12月23日 4:17:30 管理人
というのは、吉志部神社とも関連し、吉士集団の中でも、吉志の名前を確かカバネなしで伝承している、特殊な祭祀家?、芸能家だったはずです。後代の儀式所にも吉志氏はでてきますが、吉志舞を伝承し、その舞は四天王寺で舞われ、宮中の舞楽の大元となったそうです。その特殊な家柄の母親から清明生まれている、かなり重要ですね。


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東儀さんと関係ありかな?
2005年12月23日 6:34:36 かわかつ WEB
秦氏出身という東儀家は伎楽楽器奏者ですが、どこかでつながりそうですねえ。


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東儀家って
2005年12月23日 8:29:42 管理人
そんなに由緒ある家柄だったんですね。人のご縁は深いものです。伎楽ほど、長く伝承され続けているものも確かに珍しいですね。秘められた意味を伝承するという点では、伎楽は最適だったのかも。


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安倍晴明と保田
2005年12月27日 2:29:05 いばらの紀氏
大阪市阿倍野区 安倍晴明(あべのせいめい)神社 その2
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/osaka/temple/abenoseimei-shrine02.htm

安部晴明神社
http://inoues.net/club/sakai_seimei.html

阿倍氏族概観
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/abe1g.htm



冬至ですね
2005年12月22日 9:12:13 かわかつ WEB
日の入り、日の出に注目しましょう。


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日の入り日の出
2005年12月22日 9:16:46 管理人
みつけました。下記の流れに・・・。あとは、骨組みを造る人と肉付けする人、霊を吹き込む人が論証には必要かと・・・。私は枝のように幹を作って骨を固める運命でしょう・・・。船に鏡を載せるってところでどういう意味でしょう。


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奈良県五山の国見山岳
2005年12月23日 0:30:29 いばらの紀氏
邪馬壱国 奈良県五山の国見山岳
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/yamaichikoku/nara_kunimiyama2.htm
東吉野の深山の他の名山には目もくれず、国見岳に従う八百万の神々の姿が、天空の直線の前に現れた。
統率された神々の足跡は、神秘の陰を漂わせながら、構図の中に並び立った。
国見岳大峰、一六五五、四号を使って、神々が互いに働く姿を天空の直線により示して見る。


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直線を結び鉛直線に墳墓を埋めた
2005年12月23日 0:38:10 いばらの紀氏
見山か或いは物体と直線を結び鉛直線に墳墓を埋めた。

 奈良の場合、権力者が認めた物体とは、申石、亀石、酒船石、益田の岩船、岡の酒船石、

鬼の立石、須弥山、岡の立石、祝戸のマラ石等、幾つもある。
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/yamaichikoku/nara_kunimiyama1.htm


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吉備、白猪
2005年12月23日 1:21:40 かわかつ WEB
「吉備の田部では10歳を過ぎても丁をはらわず・・・それで屯倉をもうけてよろしく丁を納めさせるため戸籍を作った」という奴ですな。
以前、和気清麻呂が豊前の八面山で遭難し、白い猪に云々という紀氏さんの記事がありましたが、白猪氏との関わりありやなしや?
「猪」という字は?猟師、食肉関連?TOSATU業。
清麻呂という名には逆説的意味合いが含まれてはいないか。宇佐神宮神託事件の際には斉明さんが一度は穢麻呂・・きたなまろ・・という不名誉なののしりの名前を付けて九州へ左遷。その途次に白猪が出てきます。宇佐神宮では清麻呂の神霊は「大尾山」中腹に祭ってあります。「尾」は動物の尻尾を表すのかも。和気氏怪し。
なぜ屯倉にこだわるのか・・・その辺にヒントありでしょうか?


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夏至のみならず
2005年12月23日 1:32:57 かわかつ WEB
冬至、秋分、春分の日の出のラインをも含めた結果として必然の三角形は生まれたのではありませんか?その辺から攻めてくれると好きになるかも。
90度のラインは正三角形を二分する南北の垂線?玄武を起点にして朱雀への南北直線からではなく、夏至の日の出ラインと日の入りラインは三角形の中心で交差し、その交点から30度の垂線をたらすと南北を指す。
それぞれに目印を作っておけば最重要の建築物を中心に建設できる。ちゃうか・・・しろうと考えか。


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23.4度
2005年12月23日 2:51:57 管理人
そうですね、どうも23.4度の斜めラインが出てきていますから、おそらく春分、秋分の日の出ラインでしょう。90度は北極星。ライン図はこちらです。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/chizu1.htm
とすると、やはりかわかつさん(たぶん紀氏さん)もお気づきのとおり、成務5年の9月「諸国の令して国郡に造長をたて・・・たてよこの道にしたがって邑里を定めた。こうして東西を日の縦とし、南北を日の横とした。」との記載に関係してきますね。まさにレイラインで支配の拠点や地域を区切ったのでしょうね。この天皇のしたことはこれだけですが、前天皇の全国の屯倉と田部の設置とリンクしていますね。総じてヤマト武伝承から、児島屯倉設置まで、物部穂積臣の記載が多くでてきます。この氏族はなにものでどういう目的で動いていたのでしょう。いろいろな論説期待しお待ちしています。


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鈴木(穂積)は熊野の聖?
2005年12月23日 9:34:27 いばらの紀氏
穂積 鈴木
  饒速日命の後裔という。熊野本宮神職の和田氏とは祖神を同じくしている。真津のとき穂積臣の姓を賜ったと系図に記されている
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/k_suzuki.html
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/suzuki.html
石工?雑賀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%B0%8F
http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/magoichi/suzukikeifu.htm

龍爪権現・穂積神社をめぐる謎の数々である
http://f9.aaa.livedoor.jp/~ryuso/n/n033_037.htm

聖武天皇が玉津島行幸に際し、当社に僧行基を詣らせ、熊野三山に皇子誕生を祈らせたところ、高野皇女( こうやのひめみこ )ご誕生によって御母光明皇后は神域を広め、整え、熊野三山の御祭神を勧請し、ここを末代皇妃夫人の熊野遙拝所と定められたことから、子授け、安産。子育ての守護神として崇められるようになった。
孝昭天皇のとき熊野権現が竜に乗って千穂の峯に降臨した。そのとき迎えに出た三人の兄弟のうち、真俊は十二本の榎の木を勧請したので榎本姓を、次男基成は餅を供えて丸子(宇井)姓を、三男基行は稲を献上したので穂積姓を賜わった」とある。
http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/suzukisaika/fujisiro.htm

「古文書には”技術で貢献した”と必ず書いてある」と兼田さん。かつての忍者たちや石組みの穴太衆(あのうしゅう)、鉄砲の雑賀(さいが)党のように、「技術は売るが支配はされぬ」自主性と誇りを持つ技能集団的歴史を感じる。
対馬・壱岐・小川島(佐賀)・宇久島(五島)に存在する田島漁師の墓石15基を確認
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/081/


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測量軍団を率いた?
2005年12月23日 10:05:51 いばらの紀氏
穂積朝臣老 ・・・・・(測量軍団を率いた?熊野のカラス?)
元日朝賀の際、左将軍大伴旅人のもと、副将軍として騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いて行進する。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/oyu_h.html

「穂」の意に穂先=槍(測量の道具?)
「積」の意に累積(集め重なる)数 二つ以上の数を掛け合はせて得る数 かさ。容積?(傘・笠・瘡・嵩・・・)ひろさ面積?


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籠神社の籠は
2005年12月23日 13:37:12 かわかつ WEB
かごめ紋を表すのではないかとも言われますね。
ここは元伊勢ですし、天照御霊神社でもあるのかと。


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この弁才天・・・・マリア鴨。
2005年12月23日 14:25:30 いばらの紀氏
この弁才天は七世紀初頭、役小角が大峯の峰々に修験道場を開いた時出現したもので、真言宗開祖・空海も天河神社を拠点に三年間の大峯修行をしたという。祭神の市杵島姫命は宗像三神の中の一神で弁才天と同一視されている神である
神殿の下には古代の磐座(いわくら)があり・・・・磐座・・・・「座」クラ!!!
豊鋤入姫は日本各地を21年間に渡り巡幸・・・・・・ナゼ?
巡幸地は東は岐阜から西は兵庫まで網羅されており、この周辺には今も太陽崇拝の痕跡が
豊受大神(伊勢神宮・外宮の祭神)・・・・外宮はカゴメカゴメ!
眞名井神社の境内の石碑(写真左上)に刻まれている六芒星(ダビデの星・カゴメ)でした

突然ですが「胡」=「古」(口+クロス)+月(月は陰?YHWH=♂ バール神(禹?)=♀ キリスト=(♂+♀)・・・胡 古(♀を逆さ?両具?太陽+月+?)
韓国の国旗は陰陽 白黒=西北=胡?
アメリカは、星・・・・・・・陰・・・・メイソン?
日本は太陽・・・・・ラー・・・・・あラー?


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忘れ者デス。
2005年12月23日 14:43:12 いばらの紀氏
六芒星が刻まれた岩(写真右)からその六芒星が消えていたり
不思議の空間−神社
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ikeike/sub1-1.htm
以下 上記デス スンマセン。


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保積氏と尾張氏と海人
2005年12月23日 19:21:45 かわかつ WEB
物部氏の別れとしての氏族には天香語山命という異母兄弟。いわゆる高倉下ですが、この一族となにかありかも。
それと「賀夜奈留美命」これがくせ者ですなあ。
出雲神代詞に筆頭で出てくる”出雲神”。
丹後の浦島太郎伝説があるのが京都府宮津町市の浦島神社。ここの手前に与謝町、加悦町があります。大江山の裏側になります。浦島のウラ、吉備のウラ、大江山の鬼、桃太郎の鬼、さてさて御伽草子はすべて古代史起源か?これについては神一行氏の著書があって面白いですよ。
宮津の先に峰山町がって、ここには竹野姫の古墳がありまっせ。間人・・たいざ・・という交差点を左折です。丹後半島への道の途中。野村克也の出身校・峰山高校の近くに古墳。
間人は間人王女が滞在したところだから「たいざ」ですって?
間人という諱を持つのは舒明天皇。
「はしひと」とは「箸」「橋」「梯」と同意語でしょ?
宮津市と言えば天橋立です。これは天への「はしご」。そして「天の羽衣」これは神の・・・鬼の衣装で、天の日ボコの神寳。いわゆるヒレですな。
ヒレとくれば「・・・白栲の 衣干したり天の香具山」
尾張氏は熱田神宮。草薙剱。穂積氏は真清田神社に関連?じゃなかったっけ?


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穂積氏
2005年12月24日 8:57:01 管理人
すごいですね、後でゆっくり分析してみます。



とみたさん、ありがとうございます。
2005年12月21日 19:30:22 かわかつ WEB
この正月は7,8冊の歴史本で過ごします。勉強しときますわ。

管理人さん、今年は忌中なのでNET年賀状はお送りしません。
一度、若狭の籠神社(このじんじゃ)と気比神宮、出雲大社あたりの山陰方面〜弥彦神社調査してみてはいかがですか。気比にも弥彦神社がありますよ。ここはたぶん物部、蘇我関係ではないかと・・・

紀氏さん、土地売れましたか。漢字ばかり眺めていると老眼がひどくなりまっせ。リンゴを食べるとおなかが引っ込むそうですよ。志の輔がそう言ってました。


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一度敦賀方面に
2005年12月21日 20:48:14 タックン
かわかつさんの言われている、敦賀あたりの日本海の例会って言うのも良いかもしれませんね!
敦賀は私に母親の故郷でもあって、今でも用事があるとよく行く用事があります。
敦賀半島の原子力発電所に行く途中に、常宮神社という有名な神社があり、此処に朝鮮鐘が保存されております。
此処の祭神は、ナント神宮皇后!有名な気比神宮は応神!これもなんかの因果かなぁ〜と時々思いますが、強ちこの地にこの二人が祀られていても、不思議ではないかもしれません。
毎年何月かはちょっと忘れましたが、この常宮神社の神事で、船に乗った御輿が気比の松原までお船渡りと言う神事があるそうです。
まさに海に面した民の祭りではないでしょうか!!!
この神社周辺の半島部には、後期の横穴式石室を持った古墳が、数はそんなにはないんですが、石棚を持ったこの地には珍しい古墳や、幾つかの後期古墳が点在しており、半島裏側の美浜町域にも幾つかの古墳が点在していて、最近美浜町でこの中の古墳が最近調査されました。
然し対岸の、東側の海岸部には殆ど古墳は見つかっておりません。
これも海流等かなんらかの関係か、この敦賀半島自体に何らかの要因があったか?まだ詳しく調べていないのでなんともいえません。
天の日矛の伝説と絡めて、この地は渡来人との関係上見逃せない地域の一つなんですが、地形の制約上からかあまり古墳・遺跡が多く発見されていないのがちょっと不思議で、単なる通過点に過ぎなかったのかとも思っております。


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新年会?
2005年12月21日 21:47:12 かわかつ WEB
ということでしょうか・・・いいですねえ。敦賀、若狭。


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本当に御存知? 
2005年12月21日 22:42:23 いばらの紀氏
「紀氏さん、土地売れましたか。」・・・・驚き・・でも勘違いカモ。
http://www.stepon.co.jp/staff/yasuda_atsushi.html
ですか?
それとも本当に御存知? ならばナゼ?お教えください かわかつ様。  


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籠神社
2005年12月21日 23:05:38 管理人
ご指摘の若狭の籠神社は特に興味深いですね。諏訪方面へ流れる高麗人関連の動きでも入り口になりそうですし。若狭はバイクで行くと雪に出会うことになるでしょうかな・・。1月半ばあたりがいい時期ですね。ぜひタックンさんにご案内いただきたいものです。いや、今度は新年会+勉強会にしましょう。若狭で学会というのはどうでしょう・・。ではでは。


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紀氏さんは土地持ち
2005年12月22日 0:08:36 かわかつ WEB
白妙町の1980万はゆったり間取りでいいなあ。下がコンビニっていうのもよさそう。でもこんなの乗せない方がいいかも。
あなたが土地持ってることは知ってましたよ。だってこないだ電話がいっぱいかかってきてたじゃあ〜りませんか。^^
しかしこんなに持ってたとは!耐震構造ですかねえ?

今度は場所を借りてやりたいですね、管理人さん。あっちこち歩き回って実は今膝が痛いんですよ。


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綾部
2005年12月22日 1:14:14 管理人
紀氏さん、それにしても若いころのスマートな写真を載せてしまってどうしたんですか?
そうですね、どこか別荘でも借りてやりましょうか。籠神社のHP見てますが、そうか海部氏系図のあるところでしたね。元伊勢とかいわれていて。綾部という地名も不思議ですが、ここは海人かわかつさんの世界じゃないですか!


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気比宮
2005年12月22日 9:14:19 管理人
景行紀のヤマト武の白鳥陵記載→屯倉記載→天皇死亡から、成務の国県記載→成務死亡→仲哀の白鳥陵記載→越から白鳥→敦賀の気比宮・淡路屯倉記載→神功皇后への一連の流れを、今度研究会で読んでみませんか?レイライン面、考古面、論証面、朝鮮・東洋面、越地域史面、万葉面あたりから各自ごレジュメを用意しながら意見を述べあうというのはどうでしょう。


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息子さんでしょ?
2005年12月22日 13:34:40 かわかつ WEB
紀氏さんは篤也じゃなかったっけ?男前だね。


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うちも、モチュ〜です。
2005年12月22日 18:07:22 いばらの紀氏
モウ〜止めましょうョご冗談は、老眼もですが 痛風になりました。
]歩くのムムム・・・とデス。
大好きな 酒 肉 休んでます つらかァ〜とデス。
忘年会に新年会・・・・・かなしィ〜とデス。
   紀氏デス。


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あ!?痛風・・・
2005年12月23日 13:39:43 かわかつ WEB
じゃあ私の膝が痛いのもひょっとして・・・今日から干物にしよう。



葛城一言主→日本武尊の白鳥陵→伊勢内宮ライン
2005年12月21日 4:14:54 管理人
紀氏さんご指摘のHP「古代日本とヘブライ・・」http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage57.htm
抜粋、仁徳紀の記載にある日本武尊の白鳥陵が空である件についてですが、かわかつさんご指摘の二上山周辺域に目を向けているうちに、葛木一言主神社とのライン、つまり葛城一言主→日本武尊の白鳥陵ラインが緯度34度36分32秒で同一東西ライン上にあることがわかりました。このラインをさらに東に伸ばすと伊勢内宮領域の南端にぶつかります。途中白鳥居の地名を通過します。そこで、仁徳紀の記載を考えると、ヤマト武が葬られたのち、伊勢から白鳥となって白鳥陵に入ったという説話の裏が取れるわけです。
そもそも研究会でも明らかにしてきたように、ヤマト武伝承の東征ラインは、諏訪→関東・・とレイライン作成と深く関係しています。そこで、やはりここで白鳥陵、物部領域にある一言主神社のレイラインが出てくることもかかわりがあるだろうと感じます。そして一言主神社から北に伸ばすと物部の拠点である磐船神社に出会います。ライン詳細は以下レイライン地図をご参照ください。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/chizu1.htm
また、この葛木一言主伝承は、旧約ベヌエル条と対応あることへ原稿集に記載したとおりですが、その白鳥陵伝承にある衣服だけ残して遺骸がなかったという伝承、聖徳太子伝承と酷似し、聖書のキリストの衣服だけ残して遺骸がなくなったとの伝承と関連性が考えられます。
そこで、この葛木一言主神社→白鳥陵→伊勢内宮ラインにおいて、書紀と旧約と新約とが物部を経由して接点を保つように見えてきました。この辺、原稿集でとりあげ出版目指して、渡来人研究会での出版原稿を練り上げましょう。


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小野神社とヤマトタケル
2005年12月21日 23:35:25 いばらの紀氏
多摩丘陵探検隊29 厚木・小野神社と発見した高松山の前方後円墳
集合: 本厚木駅東口(わかりにくいので確認してください) 9:40AM
ヤマトタケルの東征伝説で知られる厚木の里は、町田市や多摩市や府中市の小野神社と一本の古道で繋がっていました。小野小町伝説や源頼朝が寵愛した幼馴染の丹後局ゆかりの神社や360度大展望の高松山山頂の前方後円墳、謎の古代測量台など興味尽きない厚木の歴史ロマンの数々です。
http://www.jf.ws27.arena.ne.jp/event/e050618-1.htm
 管理人さん・・・・如何でしょうか「小野」以前より重要なネーミングと考えておりました。


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ヤマト武と屯倉
2005年12月22日 2:28:30 管理人
小野・・・というと、確か葛木西山麓でも、地図でなにかそんな感じの目標物を見かけたような・・・。多摩丘陵、近いので一度いってみます。多摩丘陵から高尾山、もすこし探索せねば。
ヤマト武の伝承は、紀によると、征伐し終えて、なくなり白鳥伝説が記載されて、すぐその後の景行57年十月条に、諸国に令して田部と屯倉を置くとありますね。つまり征伐が終わって、あるいは征伐していく最中に屯倉が作られていったのでしょう。そしてその征伐拠点の中でレイライン上に屯倉を作って行った。軍事目的のような気がしますが、中国とか西域の兵法や地理学に地図作成と軍事拠点に関する記載ないでしょうか。紀氏さんの測量と地図の目的、東洋の文献から出てくるとおもしろいんですが、どうでしょう。
この辺今度の勉強会でやりましょうね。あと、今紀氏さんの地図PDF化をしようとしているところです。もうすこしお待ちを。


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参考HP
2005年12月22日 9:05:38 いばらの紀氏

魏志倭人伝 記事は「地理志」
塞曹掾史張政の地理調査隊は奴国から進路を変更して、内陸部の不彌国(宇美町)へ入国したのか?
甑島列島の西岸を上甑島⇒鹿島へと移動。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/www/ocn/g/n/gengomushi/friends.html

すべての道はローマに通ず
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/html2/shiono_shohyo3.html

軍団の百人隊から選抜された測量隊
ヨセフスのユダヤ戦記に記述があるというローマ軍の行軍隊形。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1046862617/l50

サイフォンの原理を応用しながら水を流していた

屯倉?AC300−DC150の間
軍隊の駐屯地(カストルム)を各地に造り退役兵を屯田・・・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~rh2y-kkc/adachi/adachiken.htm

閃いたのですが、高い柱の長さが解っていれば、角度(三平方の定理)の測定でおよその距離が解ります(御柱やオベリスク・ピラミッドなど)


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屯す
2005年12月22日 10:29:12 管理人
ローマの測量部隊、ぜひ詳しく調べていきましょう。ローマの屯田兵というのは、退役兵だったんですね。おもしろいです。屯倉の屯については、いろいろ意見があるようですが、景行紀での用法は、蝦夷が竹水門に屯(たむろ)して防ごうとするとあり、「屯す」が本来の屯倉の意味だとすると、やはり軍隊と関係してきますね。田は紀氏さんの得意分野ですが、これやはり紀氏さんてきには以前測量の字として田をあげておられましたよね。はてさて


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険しく進み難
2005年12月22日 23:16:51 いばらの紀氏
屯 たむろする・多数集まる・悩む・苦しむ・険しく進み難い・・・・・・・だから、屯田兵になり村をつくり居住しながら戦う?・・・(何?と戦う?)屯倉周辺の地形は?(測量がし難い地形デハ?)・・・それとも都市造りの為に長期滞在?(まさか、敵の守りが厳しいカラ?・・・)
倉 四角につくったモノ・・・・四角(方形)を起点に「米」の方角に四方八方に・・・・苗(米の祖)=++&田(方形)・・(ナンノコッチャ)
 知らない人が??????の紀氏でした、管理人さん通訳を御願い致します。


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2005年12月23日 4:10:47 管理人
紀氏さんご調査ありがとうございます。倉には方形の意味があるんですね。先の成務紀では「王城」を守る垣根としての国の長、郡の首がいることになっています。長と首には盾と矛を印として与えており、後代の節刀との関係もいわれていますが、この流れの中に屯倉設置がくるとなると、王城に対して、倉がその当時(6世紀か??)がどういう意味をもっていたのかが、ひとつ観念論として重要ですね。紀氏さんの文字観念の解釈は重要です。


 


 

葛城一言主→日本武尊の白鳥陵→伊勢内宮ライン
2005年12月21日 4:14:54 管理人
紀氏さんご指摘のHP「古代日本とヘブライ・・」http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage57.htm
抜粋、仁徳紀の記載にある日本武尊の白鳥陵が空である件についてですが、かわかつさんご指摘の二上山周辺域に目を向けているうちに、葛木一言主神社とのライン、つまり葛城一言主→日本武尊の白鳥陵ラインが緯度34度36分32秒で同一東西ライン上にあることがわかりました。このラインをさらに東に伸ばすと伊勢内宮領域の南端にぶつかります。途中白鳥居の地名を通過します。そこで、仁徳紀の記載を考えると、ヤマト武が葬られたのち、伊勢から白鳥となって白鳥陵に入ったという説話の裏が取れるわけです。
そもそも研究会でも明らかにしてきたように、ヤマト武伝承の東征ラインは、諏訪→関東・・とレイライン作成と深く関係しています。そこで、やはりここで白鳥陵、物部領域にある一言主神社のレイラインが出てくることもかかわりがあるだろうと感じます。そして一言主神社から北に伸ばすと物部の拠点である磐船神社に出会います。ライン詳細は以下レイライン地図をご参照ください。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/chizu1.htm
また、この葛木一言主伝承は、旧約ベヌエル条と対応あることへ原稿集に記載したとおりですが、その白鳥陵伝承にある衣服だけ残して遺骸がなかったという伝承、聖徳太子伝承と酷似し、聖書のキリストの衣服だけ残して遺骸がなくなったとの伝承と関連性が考えられます。
そこで、この葛木一言主神社→白鳥陵→伊勢内宮ラインにおいて、書紀と旧約と新約とが物部を経由して接点を保つように見えてきました。この辺、原稿集でとりあげ出版目指して、渡来人研究会での出版原稿を練り上げましょう。


とみたさんへ
2005年12月20日 12:37:41 かわかつ WEB
とみたさん推薦の関祐二。最近また読み返し始めています。彼の「図解古代史」PHP出版は非常にわかりやすく古代史の謎をポイントアップして提示しています。どうやら、彼は私の考えに非常に近いようです。
その中でいくつかの難点が出てきましたのでひとつ教えてくれませんか。

二上山の西側に舒明天皇の墳墓があり、周辺に蘇我氏の墳墓群があるらしいと関祐二が書いている。本当なら、舒明と蘇我氏の関係が深かったということになる。
藤原不比等は日本書紀を利して、天智朝の正当性を主張し、それに反発した天武、蘇我、物部宗家が滅ぼされるのが大儀がある行いだったとして、自らの正当性を納得させようとしたのだろうか。

確かに天武のあとに皇太子を廃してまで女帝の座についた持統天皇は天智の娘である。そして例の

春過ぎて夏きにけらし白妙の 衣干したり天の香具山

の歌には「私の時代がついに来た!」という趣旨があるとは思っていた。
以前はそれが天武のめざした親新羅の時代が来たということだと思っていたが、どうもその後の藤原氏の方向性には百済重視があるように見えてきた。
藤原不比等はどうもとことん新羅をきらっているようなのだ。ということは先代中臣鎌足が百済王・豊璋と同一人物であったと仮定すればその訳も理解できるのは確かだ。そして鎌足と中大江皇子が手を組むのも納得できる。
蘇我氏が新羅系木氏だったという説は小林惠子が書いているが、ならばなにゆえ蘇我氏の下に殺し屋集団だと思える東漢駒がいたのかがちとわからない。



風納里
2005年12月19日 22:22:30 うら
ソウルの漢江流域の南にある風納里に行ってきました。
私はここが、帯方郡の郡都と考えていましたので、女王卑弥呼の遣使の訪れた場所と思い、感動しました。
ところが、近くに在る夢村土城の博物館でボランテアで案内をしている老人の話しによると、韓国の学者の多くは北朝鮮の海州との意見が多いとのことでした。
風納里は、一部が河川の氾濫で流されていますが、四分の三位は中国風の土城が残っていて、囲いの中には建物がギッシリでした。
発掘調査をされないまま開発された場所が多いようでがっかりですが現在少し残された部分が発掘調査中で大いに期待をしています。

ソウルの博物館は、新設されたばかりで、今年いっぱいは入場料無料とのことでしたが、広すぎて一日ではとても見学できませんでした。

吉備の屯倉ですが、備後の屯倉と児島の屯倉は、古墳の存在や出土品からも前回指摘した場所にほぼ間違いないと私も思いますが、白猪屯倉は私も納得する意見に出会っていません。


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帯方郡、児島屯倉
2005年12月20日 9:19:36 管理人
うらさんおはようございます。韓国探索の報告ありがとうございます。帯方郡は北朝鮮かとずっと思っていましたが、ソウル説があるなんて新鮮です。風納里の発掘興味深いですね。漢氏の伝承では帯方郡を経由して日本に渡ってきていることになっているので、漢氏と風納里になんらかの共通した文化が出てくるとおもしろいのですが。韓国はかなり考古方面では特に、研究が盛んだそうで、博物館や大学の規模や設備とかもすごいそうですね。

児島屯倉、やはりご指摘の児島半島の「郡」地域説ででてくる「郡」にて南北レイラインが出てきそうです。白猪屯倉は考察中ですが、白猪屯倉→真庭市東部との説については、もしレイライン上にあるとすると、北の山地部美作国の作楽神社あたりになりますが、この辺に戸島神社というのがありますね。つまり133.57分の南北ラインで先の児島の「郡」とこの児島神社がぶつかります。ここから逆算して児島屯倉の位置をこの郡にもってこれないかとも感じますが、どちらにせよ、白猪は地名も残ってない模様でむずかしそうですが、研究していきましょう。



三輪山祭祀の変遷
2005年12月19日 17:30:36 とみた
小田富士雄氏の三輪山に関する論究です。

@大和の河内連合政権時代は、王・大王自らが三輪山の神を祭っていた。
 a)雨を降らせる蛇体の雷神=自然紳 
 b)三輪山麓の大和地域の守護神
 c)王権支配下にある地域の守護神、軍神といった神格を帯びる
 
  a)→b)→c)
A雄略天皇に時代は、伊勢神宮が創祀されると三輪山祭祀は一時衰退する

B欽明天皇時代には、神君(三輪君)により三輪山祭祀が
再開されるが、三輪山の神の性格が大きく変化し祟り神として登場する

C7世紀後半、律令国家祭祀が開始されると大神神社とその摂社である狭井神社では、3月には鎮花祭が官祭として行われるようになった。それは疫病の流行を防ぐための祭りで、神君がそれを担う。祭神は国家神から祟りの神へ変化した。


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伊勢神宮創始
2005年12月20日 8:57:14 管理人
とみたさんおはようございます。三輪祭祀にもいろいろ盛衰があったのですね。特に気になるのは伊勢神宮の創始、これを天武期にもってくるか、雄略期にもってくるか、いろいろ意見がわかれるようですが、伊勢神宮→諏訪→鹿島のレイラインの作成年代を明らかにしたいので、その辺気になっています。欽明期は、例のごとく屯倉支配で全国各地の豪族から屯倉を謙譲させたり、蘇我、物部?が屯倉支配に乗りだていた時期ですね。任那との抗争もありましたし。そこでこの時期の祟神、なんなんでしょうね。



急変する地球
2005年12月18日 9:40:20 いばらの紀氏
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nshzwtc/sub-p2.htm


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この陵はもとから空であった。
2005年12月18日 10:13:18 いばらの紀氏
天皇は詔して、「この陵はもとから空であった。それでその陵守をやめさせようと思って、始めて遥役にあてた。いまこの不思議を見ると、はなはだ畏れ多い。陵守は動かしてはいけない」と。
再び土師連らに授けられた。》(日本書紀)

日本武尊の白鳥陵がもともと空であったのは、分かりきった話であったのです。
ここで敢えて天皇の詔の形を取って、墓が空であると言わしめているのは、仁徳天皇陵をも含めてのことであったからです。空であったというのは、埋葬者がなく、遺跡としてなら存在していたということを表現したものであるのです。この点で、編者は正直に記しているのです。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage57.htm


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猪は太子の兵
2005年12月18日 10:24:00 いばらの紀氏
。(猪は太子の兵を指し、鮪の骸を掘り出さないで欲しいの意)(現代語訳)》(日本書紀)
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage16.htm


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東の山に御陵を作って葬り
2005年12月18日 10:28:24 いばらの紀氏
顕宗天皇の項―《この天皇がその父君イチノベノ王の御遺骸をさがし求められたとき、近江国に住む卑しい老婆が参上して、「イチノベノ王の御遺骸を埋めた場所は、私だけがよく存じております。またその御歯によってそのことは確認できましょう。御歯は三枝のような八重歯でいらっしゃった」と申し上げた。
そこで人民を動員して土を掘り、その御遺骸をおさがしになった。
そうしてその御遺骸を発見してその蚊屋野の東の山に御陵を作って葬り申し上げなさり、カラブクロの子たちにその御陵を守らせなさった。しかるのちにその御遺骸を持って大和へお上りになった


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三角形が成立しなかった。
2005年12月18日 10:38:34 いばらの紀氏
「大工の棟梁が、下手だからこそ、すみが傾いたのだ・・・」
大工の棟梁=図面を角測量士。
すみが傾いたのだ・=鬼門・・・「亜」の文字(すみに悪魔が住む。)


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測量の道具 縄
2005年12月18日 10:43:37 いばらの紀氏
「王子の御殿の柴垣は、たくさんの結び目を作って、しっかり縛り固めてめぐらしてある」の「たくさんの結び目」は測量の道具 縄(結び目で三平方の定理での角度30度・60度・45度を割り出した。)


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何故、人骨に文字が刻まれたのでしょうか?
2005年12月18日 23:15:37 いばらの紀氏
人骨に刻まれたヘブライ文字(キトラ古墳から発掘)

http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage15.htm


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三角形が成立しない
2005年12月19日 1:04:34 管理人
紀氏さんこんばんは。その後またレイライン地図作成していますがどうも紀氏さんの球体誤差理論が出てきました。高千穂→伊勢→鹿島間の直線がどうしてもまっすぐにならず、伊勢を基点に角度をずらした節がでてきています。この角度のずれを考慮すると、宇佐→岩船神社間も平行線として成立してくる模様です。詳細は以下作成中の精密レイライン地図をご参照ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/chizu1.htm
紀氏さんの球面誤差理論でこの誤差の角度がもうすこし正確にでてくるといいのですが、いずれ紀氏さんの誤差理論を研究会でも報告で、全面的にとりあえげてみる予定でいますので、調査進めてくださいね。


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上甑(甑島)〜鹿島ラインお試しを
2005年12月19日 15:59:33 いばらの紀氏
 「高千穂→伊勢→鹿島間の直線がどうしてもまっすぐにならず、伊勢を基点に角度をずらした節がでてきています」

球体誤差理論・・・と思います「行基図」の誤差もこの辺からとの想像です。
空海も係わっていたとの考えです、上甑〜高野山〜鹿島ラインお試し下さい。日本書紀からの「古墳測量台」説 も宜しく御願いします。


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図法と誤差
2005年12月20日 8:40:10 管理人
上甑(甑島)〜鹿島ライン、紀氏さんのレイライン地図の中にあるラインですね。今度紀氏さんのライン地図アップしてもいいですか?
さて、球体誤差理論ですが、現在私が使っている白地図も電子地図も、どうも図法の関係で、お盆形に緯線が歪んでいることにきづきました。そこで、もし鹿島→伊勢→高千穂ラインを正確に線を引くとすると、お盆状の曲線を白地図にひかねばならず、ちょっと困っています。その辺の現代地図の誤差を修正してから、さらに古代地図作りの誤差修正を見出さねばならない感じです。紀氏さんの使用している地図は、アルパルス正積円錐図法といい、面積が正しく、全体としてひずみが小さいと書いてありますね。確かにみた感じ、曲線に緯線がなっていないので、信憑度は高いと思います。わたしもこの図法の白地図で造ってみないと・・・・。古墳測量台説、古墳が測量台の条件をすべて満たしていることが必要となってきそうですね。やはり前方後円墳の向いてる方向とライン関係を明らかにしないといけないのではないでしょうか・・・・。ではでは。


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Re お役に立てれば幸いです
2005年12月20日 10:10:35 いばらの紀氏
「今度紀氏さんのライン地図アップしてもいいですか?」
お役に立てれば幸いです、渡来人研究会が更なる発展を遂げることが紀氏の本望です 管理人さんにお任せしますので宜しく御願い致します。


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地球磁場
2005年12月21日 2:14:09 管理人
紀氏さん、さっそく掲載許可ありがとうございます。これからスキャナを直して、原稿集の紀氏さんの論文に貼り付けさせていただきますね。それにしても紀氏さんご紹介の地球磁場のページみているんですが、ほんとにポールシフトって起こるんでしょうか。確かに磁場はここ数十年で0に近くなってきており、自転にも影響が出始めるそうですが・・・・。



お奨めHP
2005年12月15日 18:08:31 いばらの紀氏

中国、朝鮮史から見える日本     塚田敬章
ショオ族という呼称は近年のもので、自称はサンハ(山客)といいます。古代のヤオ族の一支と扱って問題なく、日本に移住したのは、現在、中国内陸西南部に居住するヤオ族ではなくこちらです。サンカという日本の山々を漂流した部族との関連を感じさせます。
http://olive.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_2.pdf#search='中国、朝鮮史から見える日本%20%20%20%20%20塚田敬章'
呉の民族とそのトーテム、言語、信仰
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_3.htm
補史記、三皇本紀」と日本の伝承、民俗行事の類似
http://olive.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_1.htm


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ミャオ族
2005年12月15日 18:35:36 管理人
が茨城の紀氏系の壁画古墳を残した氏族と関わるとする上記塚田氏のHP
http://olive.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_2.pdf#search='中国、朝鮮史から見える日本%20%20%20%20%20塚田敬章'
の説おもしろいですね。大部多の常世虫信仰が、アゲハ蝶信仰のミャオ族系で、秦氏の祖先がそれを取り締まったという記載、注目です。秦氏の深草伝承にある狼が二匹争うのをやはり秦氏の祖が仲介する伝承は、似ていますが、どこの系統の伝承って掲示板で論議したのでしたか?


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狼は大神では?
2005年12月16日 11:05:00 いばらの紀氏
大和山大神(ヤマトヤマオオカミ) 松緑神道
大和山
 松緑神道大和山で祀られている神。宇宙の権威であり、万物の創造主。 ・・・「大和」は「矢的」の当て字?「♂♀」和合の地を表す様です。


 「どこの系統の伝承って掲示板で論議したのでしたか?」???
  
 すみません、最近だいぶ疲れていますご迷惑をおかけします。          


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お疲れさまです。
2005年12月17日 0:32:56 管理人
そうそろそろ年末ですし、紀氏も今年一年本当にお疲れさまでした。みなさん、年末にむけて今年のまとめを準備の感じですし、年末ペースで紀氏さんも気楽にやってください。
私も年末報告にむけて、今レイライン地図に距離と緯度経度を入れて、大型地図を作成しています。誤差修正の中で、また新たな拠点がでてきています。以下のページで見れますので、ご参照ください。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/chizu1.htm



武装集団
2005年12月15日 2:07:08 管理人
下のレスですが、おととい読んでたのは、蘇我氏滅亡の際は、高向(漢人)臣が引きている漢氏が武具をつけて中大兄皇子に対抗しようとするのをとどめて、降参するよう説得した場面がありました。高向臣は、遣隋使でも行っていますが、文武両面で活躍していますね。あのころから漢氏は武装集団だったようですが、漢氏が持ち込んだ鉄の技術があってこその武装集団だったのでしょうね。鉄を制したものが多くの武具を製作し強力な武力を有すことができる、天武のころもそうだったのでしょう。漢氏と馬の関係もそれに加えて深く、さらに漢氏系の坂上氏時代に蕨手刀の技術を保有するとまさに、鬼に金棒ですね。蘇我に敗れて以降東北に勢力を広げたとされる物部氏や、後代の関東武士が強かったのはこの辺からでは・・・。


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1:1.618
2005年12月15日 5:39:41 管理人
東北物部氏の作った岩船信仰についてですが、村上市の1・岩舟社から、2・長野の中野市岩船まで、そして3・日光二荒神社までの直角三角形の各辺は、2→3の距離が99.8KM、1→3の距離は158.7KMです。つまり1:1.6→5:8の直角三角形なのですが、これは黄金比1:1.618に近いと感じます。

黄金比HPは以下のとおり
http://st-line.co.jp/kaen_tex.html
ちなみに99.8KM→100kMとは、地球の子午線の北極から赤道までの長さの100分の1であり、もしかするとそのことを知っていた可能性も?

もうひとつ調べているのは、香取→高麗(郡)神社→諏訪上宮の距離ですが、これは108KM間隔でまとまります。
飛鳥→伊勢→席田郡の直角三角形については、飛鳥→伊勢間が81KM、伊勢→席田の距離が108KMです。ここに108KMという測量単位が出てきます。ちなみに108/81=1.3333となります。つまり3:4であり、要するに3:4:5の直角三角形を彼らは作ろうとしたわけです。ここにも数学的な測量単位が出てきます。

物部氏と渡来人は、簡単な整数比の直角三角形をあらかじめ定規で引いて地図作成していたのではないでしょうか。




2005年12月13日 1:47:27 かわかつ WEB
箕は「みの」と読むのかと思っておりましたところ「み」が本来で、「みの」は蓑字が正しいようです。
「み」とはいかき・・笊の一種で米と籾殻を仕分けするための四角いざるだそうです。庭仕事をする方ならおわかりになりましょうが、丸っこいコの字型の、一方が開いた形のザルです。
「箕」は雨カッパの蓑とは全く別物なのだということがわかりました。漂泊の民であった箕造りたちは年末になると山から下り、こういった籠やムシロや箕や蓑などを持ち込み、里山の人々の作物や米などと交換あるいは金銭にしていたそうで、地方によってはポンと呼ばれていたそうです。
オフ会でお話ししました山里と山中の境とは、いわば結界といってよいようで、蓑造りたちは鬼とも神ともかんがえられていたようです。
日本の民話の中では神は蓑笠を着ており、祭で神を演じたり、日常雨降りの時帰宅した際には蓑笠は必ず戸口で脱がねばならなかった。でないと、家の中に鬼が入ってしまうからだそうです。
そういえば「なまはげ」も蓑を着ています。

山の民の中には木地師や炭焼きもおり、地域によっては竹細工、薪、獣肉なども商う者もおりました。炭焼き長者伝説は紀氏さんでもご存じの著名な伝説ですが、家の中に山ほど小判を持っているが、その価値を知らない炭焼きの話です。これは彼らが鉱山と深く関わったという逸話です。
漂泊の民には白人種のごとき色白、鼻高、長身、逆にこびと、かたわ、盲目、などが多かったようですが、これは彼らの婚姻がきわめて狭い世界で行われてきたからでしょう。名字はとても由緒ありそうなものが多く、女は総じて美人が多かったそうです。


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だいたいえびすの意味が
2005年12月13日 1:50:55 かわかつ WEB
把握できましたでしょうか。ひるこも同じかと思います。


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箕氏
2005年12月13日 2:10:26 管理人
紀氏さんの下記のお答え「いのこ=キ・・・・箕氏?」と関係が???
漂白の民はあまり下界と交わらず、族内婚が続いていたということになるでしょうか。遺伝的には奇形も多く・・・・。瀬戸内北部山地の猪にはそんな深い意味が・・・。ではでは。


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近親結婚100%
2005年12月13日 2:30:38 かわかつ WEB
と言っても過言ではないそうです。当然、白子などの奇形が生まれてきます。
紀氏さんの記事とはなんの関係もありません。歴史研究にはこんな知識もあるほうがいいよという話。もっとも日本の「歴史学」だけやるには無用の知識かも。
少なくとも明治時代あたりまでは、日本の文化交流は山塊や河川によって隔絶されており、漂泊の民はむしろ当時の文化の越境を担っていた部分もあったのでしょうね。つまり「まれびと」であって、棚田の石垣修理などで喜ばれもしたが、子供をさらったりするとも思われていた。
彼らが物部氏や秦氏の下にいたという話です。神社や寺などの建築にも関わっていたってことです。おそらく技術者というものは宗教観が希薄なので、彼らの管理に神職や住職が深くかかわっただろと思います。
今でも、失礼な話、コンピュータ技師などに哲学の希薄な人も多いんじゃない?自分まで機械化しちゃって、株価のこともわからなくなってる人がいたみたい。こないだのみずほの件ですが。片っ方の脳みそばっかり使ってるとあんなぽかをやりますな。


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この話のきっかけは
2005年12月13日 2:38:41 かわかつ WEB
管理人さんHPのえべっさん云々から出たものです。葛城山の一言主も出雲の事代主も、ありゃあ海や山のえびすですよ。


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葛木
2005年12月13日 3:21:18 管理人
瀬戸内のえびす信仰の話からですね。そういえば日本のミヨジノ分布でも、珍しい姓のそれは、恐ろしいほど長い間明治期まで今も動いてないのが、例のミヨジ分布のHPにありましたね。
物部や秦の下にいた技術者集団、その実態、明らかにできてくるとおもしろいですね。葛木は二上山はちょっと興味もっています。あの辺は古奈良湖の水の排水口だったそうな・・・。


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ということは
2005年12月13日 11:30:37 かわかつ WEB
巨椋池のような湿地帯が後世まで残っていたと考えられるわけですね。それなら歴史のお話ができますから、有史時代の資料などあるのでしょうね。教えてください。


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いえいえ
2005年12月13日 17:13:41 管理人
数百万年前の話です。「200万年ほど前、二上山の麓で起こった大規模な地すべりで川がせき止められ、古奈良湖の水位が上昇。湖の水は亀の瀬付近から流れ出ました。そこに大和川の原型が生まれたと想像できます。」ということらしいです。
http://www.yamato.moc.go.jp/YKNET/history/change_nar01.html

二上山というと、物部氏の祖にぎはやひが降った伝承がありますね。http://kamnavi.jp/as/katuragi/kznijou.htm
このHPの記載に、「「二上山が噴火した」ことが口碑に残っていたとのこと、 また二上山そのものが地下から盛り上がり、これを天磐船と称するとの伝承もあり(これは矢田坐久志玉比古神社にも磐船石の説明にあった)」という部分が気になっています。
ここにも磐船信仰が見えるのですね。あと、だんじりに関係ある恩智神社も物部関係でしょうか。葛木忌寸の拠点の1比定地です。
http://kamnavi.jp/mn/monohst.htm



井真成
2005年12月13日 0:07:52 かわかつ WEB
大阪・藤井寺出身でした。
大阪工科高校教諭、原先生がTVニュース23に出ておられました。藤井寺の寺、葛井寺と書いてふじいてらと読むところに、彼の碑があるようです。本名、葛井まなり。734年唐で客死。
秀才で玄宗皇帝より尚位奉書の地位を賜る。いのまなり。


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たしか
2005年12月13日 1:12:27 管理人
昨日のNHKの井真成、その「井」について、葛井か井上だったかで意見がわかれているそうですね。


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シルクロードに思う
2005年12月13日 10:51:16 とみた
新シルクロードも10回で終了。少し淋しくなります。新年早々3日から一週間ばかり連夜で再放送があるそうですよ。

この9月安部仲麻呂の碑を見てきました。日中友好のシンボルです。
井真成の墓碑は上野の博物館の展示で見ました。

安部の仲麻呂は出世したのに、井さんは任官歴はなし、入唐したばかりでまもなく客死したんでしょうね。死んだので名誉の追贈をされて従五品の尚衣奉御・・・皇帝の衣服を管理する役職・・・を賜った。

葛井氏は朝鮮(百済?)からの渡来人でしょう。

傾国の美人楊貴妃と現を抜かした玄宗皇帝から井さんは位を賜った。安部仲麻呂と李白という有名な詩人との親交にむしろ興味があります。

長安の玄宗皇帝は、北京の軍司令官(万里の長城の北側の防備のためにいた)の安禄山が長安を攻める反乱で、楊貴妃を失った。詩人杜甫の長恨歌=国破れて山河あり・・・に詠われる。

安禄山という男の安という姓はソグド人が中国へ来たときに名乗る姓。ロクサーンはソクド語で光の意味。父はイラン系のソグド人、母はトルコ系の突厥の女性であった。


それにしても唐の西安(長安)は、国際都市でした。
外国から優秀な人材を集めて優秀な人は自国の役職に取り立てて・・・今のアメリカもそうでしょう。優秀な人材を集めて国のために活用する。
井も安部も遣唐使で長安へ向かった。今ならニューヨークやボストンへ学びに行くんでしょうね。

北京から西安まで1200km 西安からシルクロード西端のカシュガルまで3800km 実に北京からカシュガルまで5000kmです。飛行機でも鉄道でも行けます。今は中国は
チベットのボタラ宮のあるラサまで鉄道を通しました。今年7月開通です。なんと2000kmの鉄路、平均標高は4600mを架設。

天山南路のクチャにはアーリア人のトカラ人が住んでいた。
タリム盆地のオアシス住民はアーリア人が多く仏教やゾロアスター教を信仰していた(梁書諸夷伝や魏書西域伝)。

斉明女帝が饗応したトカラ人、聖武天皇の作った正倉院の御物にシルクロードの宝が一杯。

天山北路のトルファンには漢人が入植していたため漢文文書が見つかった。それによると426年の戸籍の分類方法は家族の構成員を年齢によって分類していた。正倉院に残る、日本の8世紀の戸籍は西域の5世紀の戸籍に類似しているとのことです。日本の律令制度は必ずしも隋唐がモデルとは言い切れない。



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仲麻呂
2005年12月13日 11:00:58 かわかつ WEB
そう言えば奈良に行ったのに春日山も三笠山も見なかったですねえ。メジャーな観光地なのでいつでも行けるでしょうが。

天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

阿部仲麻呂です。仲麻呂は阿部一族ですねえ。
ところで春日という地名は兵庫県にもあり、例の春日の局の出身地で、銘酒・小鼓の産地なのですが、元の地名は滓香です。酒の香りから来たかとも思えますが、「春の日の滓香」という枕詞、なんで「春の日」なんだろうと昔から疑問。


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戸籍、屯倉
2005年12月14日 0:35:21 管理人
とみたさん貴重な情報ありがとうございます。特に日本の奈良時代の戸籍が西域5世紀のそれと類似しているとの点、きわめて重要です。もしよろしければ、その情報源お教え願えないでしょうか。
蘇我(物部??)氏や渡来人の屯倉進出は同時に戸籍の作成とも関わっており、特に吉備方面では、田令を遣わし、先の吉備津彦神社の神官には田令氏、藤井氏などが見えるそうです。戸籍作成には、田図のような地図作成も必要であり、屯倉作成はその延長線上の郡支配、いわゆるレイ?ラインによる地図作成、そしてその背後には朝廷の軍事支配という関係で結ばれてくるように感じます。ということで、この当時の戸籍作成が西域のそれに由来しているとすると、その技術部分では、地図、田図、レイライン関連も西域のそれと関係してくるとすると、紀氏さんの地図測量集団の西域渡来の予言どおりになってきてそれはそれでおもしろいのですがどうでしょう。かわかつさんの春の日って、春分点と関係ありですか???



吉備の屯倉
2005年12月12日 17:00:07 管理人
その後屯倉研究思い出しながらちょっと調べています。
欽明16年7月条の白猪屯倉には、蘇我と穂積(物部系)を遣わして、吉備五郡に屯倉を置いています。この比定地は美作国の白猪史の文献記載から吉備北部の真庭市東部が考えられているそうですが、いろいろ異説もありという感じでしょうか。真庭市東部から南にラインを引くと児島市に出ます。
次に17年7月条では蘇我、葛城直を遣わして児島屯倉をつくっているですが、備前の児島の「郡」につくっています。備前は天武以降の表記、この郡という場所について、おそらく間壁さんは児島半島東北部の児島湾南側の郡という地名を比定し、ほかの学者もそう考えているという感じですね。和妙抄に備前国児島郡三宅郷があり、その場所と関連するか。この説にしたがってラインを南に引くと、四国三加茂町、剣山、物部町に出ます。東西ラインは、古市、百舌鳥古墳郡から奈良大和神社方面へ34度34分ラインになります。
あと、先に報告のレイ?ライン岐阜県の席田郡のそばに物部郷が和妙抄にあることきづきました。物部氏の屯倉派遣とライン拠点の屯倉建設、その辺にひとつの屯倉制理解のかぎがあるのではと考えはじめていますがどうでしょう。



紀氏さんの冴え
2005年12月11日 12:00:45 とみた
紀氏さん 、ギョギョギョ これ戦後一時期の流行語大賞!
魚ぎょギョです。魚紋ね。

紀氏さんは時々鋭い話題を提供しますね。

盂蘭盆これも面白い。タカラ人も斉明女帝が須弥山の像を、飛鳥寺の西に作る。盂蘭盆会を設ける。そこでトカラ人を饗する。トカラ人は石工で須弥山を作ったでしょうね。

この行事はインドのものでなく、仏教が中国に伝播する間に起こった。

タジク人(多人あり得ますね)は中国新疆のシルクロードの西端カシュガルへ、ここへタジク人が交易のために入り込んでいる。

アーリア人です。多分、小乗仏教と景教が交じり合って大乗仏教に変わりながらシルクロードを東進して仏教が中国や日本へ伝来したんでしょう。

8世紀になるとシルクロードにアラビヤ人が入ってきます。ソグド人も8世紀にアラビヤ人に滅されます。

その後トルコ系のウィグル人がイスラム教を持ってシルクロードに入植するわけです。


一つ紀氏さんに情報を提供しましょう。


@南メソポタミヤの大洪水・・・紀元前3500年
 シュメールのウルクのギルガメシュ王の洪水物語→これから旧約聖書の ノアの方舟伝説に

A紀元前2000年
 夏王禹の頃、禹=シウク(ウルク)
 という真面目な方の世界史一覧を見ました。

 普通の説は、禹は良渚文明の後半、紀元前2200年長江が氾濫して国が滅び、河を北方へ遡って黄河沿いの河南の現地民と交わり夏王朝を拓いたとされている。禹禹・・ウウ

私は黄河を挟んで南方系の民と、北方系の民が戦いあるいは交わったと考えています。そこに西方の遊牧民がどんなかかわりを持っているか。

私はただいま、シュメール文明を勉強しています。

紀氏さんには、論理考証の努力をお願いしたいですね。(失礼)

直感も大切ですが分析も大切でしょう。


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西族流入
2005年12月11日 12:17:35 とみた
自己レスです。

A紀元前2000年
夏王禹の頃、西族流入す。禹=シウク(ウルク)

紀氏さん、欣喜雀躍!

これ真面目な方の年表に出ておりました。

鹿島昇さんの説では・・・アララット山の近くのウラルトゥ王国の民がスキタイに敗れて流民して東進した。これは紀元前6-8世紀の話

紀元前5世紀中国の趙で製鉄を行い、扶余経由で日本へ

日本では国東半島の東表国・・・・これかわかつさんの世界。水銀と蛇信仰。???

謎は深まるばかり


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大乗仏教は西の影響を受けていた。
2005年12月11日 16:29:29 いばらの紀氏
 とみたさん今日は、私の苦手にしている・・・・論理考証ですか?・・・ お助け 有難う御座います とみたさんの出現 予測 期待してました。
今晩のNHK「西安」、1300年ほど前、玄奘が出発した所ですね(さる=胡孫(胡人?)  カッパー=牧師(カラース) ぶた(豕)=箕氏(紀氏?)
玄奘が持って帰ったお経を翻訳したクマラジュウって翻訳家がいましたね。(サンスクリット語をそのまま翻訳・・・・私は、疑問です。)

上座部仏教は主にビルマ、タイ、カンボジアに広がり、大乗仏教は主にネパール、チベット、モンゴル、朝鮮、日本に広がったそうです。

アショーカ王のマウリヤ朝
クシャーナ朝という王国のカニシュカ王
西域独特の仏教
 このようにインドで起こった仏教は西域を経て中国に伝わるのですが、西域とは中国の西の関門である玉門、陽関以西の広大な地域を指します。この地方は交通の困難、風土の辛苦のため、西北インドから伝わった仏教(主に大乗仏教)も徐々に変化を受け、インド仏教とは異なる独特な仏教を誕生させました。
 西域仏教の特徴は、まず美術様式の多様性にあります。周りを中国、インド、イラン、ローマといった大国に囲まれ当然その影響を受けざるを得なかったのです。また弥勒信仰も盛んで、これは『大仏思想』と深い結び付きがあり、インドでは単に修行中の菩薩であった弥勒が、中央アジアでは聖俗両面にわたる救世主といった性格を表します。ここにも苛酷な自然と豊かなオアシスという環境が影響しているようで、特に、自己犠牲を強調した本生図などは、インドの生命尊重の思想とは著しく趣が異なっています。
 西暦1〜3世紀当時、政治的にはクシャーナ王朝がインドと中央アジアにまたがる大帝国を建設していたため、仏教はいよいよ中国に伝わっていきます。この時伝わった仏教はまさに西域独特の仏教でした。
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/001.html


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紀氏の妄想
2005年12月11日 17:04:22 いばらの紀氏

雉=キシュ  猿=サルゴン   犬=ウル(ウルフ・・・から?)
ユーフラテス上流で、 キシュ
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E163C100.HTM
ウル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB

            サルゴン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB

 とみたさん この辺とこ・・・如何でしょうか?


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メノラー 7 刀?
2005年12月12日 8:47:47 いばらの紀氏
犬=ウル(ウルフ・・・から?)・・・疑問デス。
カタカナの「ウ」+「ル」=「穴(穴は「ハ」デス・)「ハ」ホワイト穴
「ウ」う冠(宇宙・「ル」足(禹の足?)
幕屋(まくや)とその備品
http://dateiwao-id.hp.infoseek.co.jp/nazomenora.htm

世界各地で見つかるメノラー図形
http://dateiwao-id.hp.infoseek.co.jp/menora.htm
絵文字のルーツは、古代北方ツングース系の楔形文字に酷使しており、またシュメール系古拙楔形文字にあてはめても解読できると言う。「大地母神=ニンキ、司祭=パブラバール、日子=ピリギス、祈る=イルカガ、大王=パテシ、神殿=ラガール、神樹=ジャスラ、大地神=キムラ」と読めるという。
         すんません 休養です・・・???


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西族
2005年12月12日 16:46:14 管理人
私も昨日シルクロード事務所でたまたまみました。長安西市にあつまる世界の諸民族の様子、とてもスケールが大きく興味深いです。ゾロアスター教やゾグド人の日本古代への影響も重要ですね。中国というところはそれにしても人種の溜まり場でしょうか。昨日は上海方面出身の色白な中国人の方にたまたまお会いましたが、どうも日本にもいる人種で縄文人系と判別していたのですが、どうして上海に同じ系統の人種がいるのか不思議になりました。日本で色白=縄文系という図式は早とちりでしょうか。もちろん混血の過程で色白弥生人とか生まれてくる可能性は大ですが、その辺遺伝学ではどうでしょう。


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人麻呂死の謎
2005年12月15日 2:02:10 いばらの紀氏
人麻呂は柿本猿丸ではないかとも言われている。
猿という名は金属を思わせる名前である
猿地名は多くは産鉄地に関連する。
サヒ、サビ、などとの関連用語と思われる
http://www.geocities.jp/tyuou59/hitomaromain.html



多氏 タジシ 考
2005年12月11日 10:19:41 いばらの紀氏
多氏 タジシ ・・・タジク人?・・・・タジキスタン人?
タジキスタン(パミール高原)はクルディスタンとならぶミトラ教の本拠地で ...
ミトラ教は占星術の発祥地の宗教なので、年中行事は太陽が十二星座の中を運行していく筋道に沿っている。シュメール=バビロニアの宗教行事をそのまま引き継いでいる部分もかなりある。キリスト教アルメニア教会ならびにネストリウス派と共通するものも多い。☆印が付いているものは、東アジア固有の行事である。
日本風にいえば、素戔鳴尊祭といえよう
日本においては仏教伝来後まもない推古天皇一四年(606年)に最初に行われた。盂蘭盆[うらぼん]の語源はタジク語*(ソグド語)で魂を意味するウルヴァンUrvanとされる
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithra_Observances.htm
タジク人(ソグド人)はミトラ教を中国にもちこんだことで知られる
一月六日。東方から来た三人のマギがミトラの生まれ変わりであるイエスを訪ねた日を記念する。

 ゥオ・・オウ・・・魚ゥオ・・・魚紋…キリスト・・・・申す魚


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2005年12月15日 9:02:37 いばらの紀氏
昔の紀氏が出てました。
参考HP
http://www.asahi-net.or.jp/~RG1H-SMED/keijiban6.htm

現在の紀氏は疲れていまぁ〜す〜う〜。



四国探索
2005年12月11日 3:36:52 管理人
執筆中だった吉備・四国探索、四国部分も書き上げアップしました。鳴門って・・・。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm


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ちょっと気になる。
2005年12月11日 10:11:20 かわかつ WEB
九州人のイメージを取り違えておられますね。確かに南九州・・・と言っても鹿児島だけが南方系だと思っていただきたい。北部九州は渡来系が多く、コクもないし、西郷さんではありませんよ。むしろ一重まぶたで体毛も薄い。
西日本のことを関西と言われたり、そういう認識では歴史研究者に笑われかねません。
体毛が濃く、二重まぶたで、西郷さん風な人種はむしろ、関東人〜東北人なのではありませんか。九州人はむしろ関西系。瀬戸内地方は混血種ですが、これも瀬戸内地域をよく把握していないと混同します。
山陽、四国北部、関西沿岸、東九州は瀬戸内文化圏となりますが、その周囲の内陸部〜日本海、太平洋ではまた全然違います。
地理認識が少し希薄のようですので、あえて申しておきます。

HP、大変見やすく、また読みやすいです。写真も大きくなって見やすいです。
吉備中山の地図、拡大したら、会員登録画面に飛びました。



騎馬民族、遊牧民
2005年12月10日 23:43:10 かわかつ WEB
騎馬民族が馬を連れてくるかどうかの検証です。
1目隠しをしてつれてきたと言う説がある。
確かに馬に目隠しをすればおとなしくなります。今でも競馬馬を車で運んでいますが、そのとき車内は真っ暗です。
ところが、えさはどうしているか?船で数日分の牧草を積める船はあったでしょうか?
2 いったいなんつがいの馬が来たのでしょうか?
確かに一頭や二頭つれてきても環境になじめず死んでしまうでしょう。ならば何組ほどのつがいを連れてくれば、余所で繁殖できるでしょうか?少なくとも100組のつがいが必要でしょう。
3 ではそれだけの馬に食わせる牧草が船に積めたでしょうか。
無理です。少なくとも当時の船なら、一隻に1組〜2組が関の山でしょう。
4 たとえば運良く連れてこれたケースはあったでしょうか?
ありません。日本に当時牧草があったとも思えません。まさか馬がニンジンを常食としているとでもお思いでしょうか?ビタミンCはそれでは足りません。牧草が必要です。
5 では仮に一組の成功した大船があったとして、3組の馬のつがいが生き残ったとして、その生存の可能性は?
ありません。馬はデリケートで余所の馬とは同じサラブレット同士でもなかなかまぐわいません。全滅したでしょう。


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NEXT
2005年12月10日 23:44:10 かわかつ WEB
6 では遊牧民が日本に来た可能性は?
何しにくるといわれるのでしょうか??
羊もいないこの島国へ・・・?
7 連れてきたのでは?
何のために?遊牧民という者は決して羊をおろそかにはしません。なぜ危険な航海に「陸の民」が来る必要があるでしょう。
8 それでも請われて来ることもあったのでは?
誰がくさい羊をほしがるでしょう。そんな危険を押してまで連れてくるより日本には山羊がいたではありませんか?ジンギスカン鍋でもやろうというのでしょうか。第一、これも連れてきたとしてもえさはどうしたのでしょうか?日本に牧草はなかったのですよ。今あるものは西洋種です。
シロツメクサなどが日本に帰化するのは明治ですよ。これに代わる植物の化石でも種でもあるのなら見せてください。
9 しかし日本の古墳からは馬具などが出ていますよ。
馬具があれば馬もいるのでしょうか?あるいは百歩ゆづってい。2頭の馬が来たとして、それは古墳が作れるほどの高貴な方々の手慰みではありませんか。今でも外車をわざわざ購入する成金はいますから。第一、古墳の風俗がそのままこの国すべての風俗となり得るでしょうか?いったい古墳に埋葬された人間は総人口の何パーセントだったでしょうか?1パーセントにも満たなかったのでは?武士でさえ江戸時代にわずか数パーセントですよ・・・その数パーセントの古墳から当時の民衆のすべてがわかると思いますか?


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参考HP
2005年12月11日 9:38:32 いばらの紀氏
馬の家畜化は、紀元前3500年頃の中央アジアにはじまったといわれている。
http://www.hidaka.pref.hokkaido.jp/hd-tssku/umabunka/04-shiru/01-ningen-history/
在来馬(和種馬)
http://www.hidaka.pref.hokkaido.jp/hd-tssku/umabunka/04-shiru/01-ningen-history/02-zairai/index.html
日本に入ってきた馬の系統は大きく分けて3つあります。」
http://www.zoone.com/uma/kisouma.html
木曽馬のルーツは蒙古草原馬といわれています(注)。 木曽馬とモンゴルの馬とは兄弟なのです。ということは、開田とモンゴルとは遠い親戚みたいなもの。
http://www.ctk.ne.jp/~tositana/batokinnoheya.htm


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大陸とつながっていた
2005年12月11日 9:56:39 かわかつ WEB
そのころ列島に入り込んでいた北方系の原種を4,5世紀にやってきた渡来人が改良したと見ています。
特に東北地方、諏訪あたりに馬飼野氏が行っていると考えます。

鉄もそうですが、武器としての使用より、農耕馬として考えた方が現実的でしょう。諸種族が製鉄などにさかんに取り組むのは、武力の向上もさることながら、やはり生産性アップをめざしたことにあるとの見方の方が日本ではリアリティがあるでしょう。国境のない島国に武力はあまり必要なく、むしろ毎日の糧のほうが重要だったでしょう。
鉄や馬が戦争のために使われたのだという考えは、単なるイマジネーションの刷り込みに過ぎないとお考えください。


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刀のそり
2005年12月11日 10:30:44 いばらの紀氏
刀のそり は、馬上で使い易い進化したとの記憶です。
日本でも牙(騎馬)戦で刀は曲ったのデハ?


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騎馬民族と船の文化
2005年12月11日 11:09:43 とみた
かわかつさんの疑問の一つへの回答です。

江上波夫先生と森浩一先生が高句麗の古墳を調べられて著された本”騎馬民族の道はるか”より・・・かわかつさんの質問の一部にお答えします。

ご存知、高句麗は扶余の出ですね。中国の東北地域。日本海に接する地域は粛慎(マッカツ)その西が扶余です。

ここから出た朱蒙は桓仁に都し、さらに南下して集安に都を移した。ここは大河、鴨緑江の辺で水陸交通の要衝。古墳群(積石の前方後円墳とか四隅突出)がいっぱいあるので有名です(やがて、ここからさらに西南の平壤に移ります)。

好太王は自ら水軍を率いるという広開土王碑に書かれている。(これは4世紀後半でしょう)。鴨緑江の水軍を率いて西方の海に出た。

継体天皇の真陵とされる今城塚古墳に円筒埴輪を供給した窯跡は大阪の高槻市の新池の窯跡で、ここから出土した円筒埴輪は帆掛け船が描かれている。同じ埴輪は今城古墳にも使われている。それ以前の埴輪にある船はは丸木船だったようです(唐古鍵遺跡)。

冬には荒海となる日本海側で発達した性能のよい帆船が継体天皇によって大阪湾側に持ち込まれた可能性がありはしないか。継体天皇の時代に馬の文化が爆発的に広まると同時に、船の性能においても格段の発達があったのではなかろうか。

騎馬民族は海を渡れるかという疑念がありますが・・・
中央アジアの壁画には立派な船が描かれているし、北魏の雲崗石窟にも沢山の人が船に乗っている船の絵がある。北方系の民族が船の文化を併せ持っていた。

それ以外の質問には今のところおこたえできません。他の皆さんにバトンタッチします。



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とみたさん、お久です
2005年12月11日 11:19:26 かわかつ WEB
しばらくぶりの正当派のご意見、こころして受け取ります。
なに、モグラたたきのもぐらのようにちょくちょく出没する茨城あたりの大柄な方に、なんとか更正してもらいたくてね・・・^^;
しかしとみたさんが相変わらずお元気そうなコメントくれましたので、ほっとしましたよ。また外国へ行かれたのですか?


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古代の話
2005年12月13日 13:45:53 かわかつ WEB
紀氏さん、刀にそりが入るのはいつ頃かご存じですか?


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蕨手刀
2005年12月14日 0:32:59 いばらの紀氏

http://www.geocities.jp/tyuou59/atwrui2warabi.htm
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ の 時代。
代表者名でいうと【坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)】だろう。
よく知られた【征夷大将軍】である。
昔の日本という国は今よりずーっと狭く、日本列島の西半分もなかったと思う。
征夷大将軍というのは、蝦夷地討伐のために編成された軍の大将つまり、海外遠征軍の将軍である。
(蝦夷は日本国じゃないよ)
と、いうわけで蕨手刀は蝦夷地から日本に伝わったということになる。
ちなみに、蝦夷地に蕨手刀を伝えたのは
大陸系の騎馬民族(たぶん蒙古人)。
蕨手刀の形状は、分厚くて、幅広くて、反り返ってるが特徴。
馬上から斬りおろした時、ショックを吸収できるような形になっている。
つまり、蝦夷の人たちは馬に乗って闘うのが得意だった。
一方、坂上軍、馬なんて乗りません。
馬に乗らないのだから、馬上で使いやすい刀なんか持ってません。


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2005年12月14日 2:34:25 管理人
紀氏さんご紹介のHP、かなり勉強になります。そうですか、母方の祖父の故郷の一関の舞草刀にはそんな由来があるとは・・・。アテルイが使用した蕨手刀を、渡来系坂上氏が征伐の過程で吸収?物部が蘇我氏に破れて東北に逃れたというのは興味深く、製鉄氏族物部氏と坂上氏等渡来系氏族とが、刀技術を受け取ったとすると、おもしろいですね。蕨手刀のルーツ、どこからか興味深いです。


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大海人皇子と吉野
2005年12月15日 1:50:14 いばらの紀氏
争乱を決するものそれは馬と武器
大海人皇子(天武天皇)が吉野を脱出したときは、一匹の馬もいなかったが、かなり早い時期に騎馬軍団をととのえていおり、大和方面の苦戦が伝えられると1000騎の援軍を送っています。
一方、近江軍側(大友皇子)側が騎馬を使用したという記録は、日本書紀をみるかぎり見られません。
壬申の乱は、辰砂等による資金をもとに、優れた武器と馬を調達したことによる勝利といえるだろう
http://www.geocities.jp/tyuou59/tennmuyosino.html


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軍事集団
2005年12月15日 2:04:18 管理人
お答えは上で



管理人さん
2005年12月10日 22:09:28 うら
白猪の屯倉は、吉備の南東部、現在の瀬戸内市付近というのが、真壁さんの主張です。

吉備後国の屯倉は、岡山県井原市から福山市北部にかけてと想像しています。

これらの地域では、いずれもそれまでの吉備の古墳とは様相が変わってきます。竜山石の石棺や陶棺が使われています。

かわかつさん、いくら古い古墳でも遠賀式土器はちょと無理だと思います。気にはしておきますが・・・・?

来週は風納里と夢村土城、そして最近新しくなったソウル博物館を見学してくるつもりです。
大韓航空のストライキが心配ですが・・・?


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そうでしたね^^
2005年12月10日 22:18:54 かわかつ WEB
古墳ではなく遺跡でした。


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なんと
2005年12月11日 0:17:54 管理人
白猪屯倉が吉備東南部という説もあるんですか!北にも碑文・・・。どっちが本物?いろんな説があるんですね。いやはやすこしその辺文献調査してみないと・・・。
いろいろ韓国の探索をなされているウラさん、いろいろ韓国の体験談も聞かせてくださいね。楽しみにお待ちしています。


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いのこ=キ・・・・箕氏?
2005年12月11日 10:47:49 いばらの紀氏
おおきな猪は、「 いのこ 」(豕+希)キ   です。紀氏デシタ。



否定的
2005年12月10日 19:43:38 タックン
私もかわかつさんの言われているように、大和湖は有史時代にあったとは考えられない考えのの一人です。
事実この盆地中央部からは、縄文時代の遺跡などが結構発見されていますし、島の山古墳周辺には時期はあまりはっきりとはしておりませんが、中小の古墳が分布しています。
ただもしこの湖が、存在していたとするならそれはもっと大昔?にあったと言う事になってきます。
それとこの湖自体の大きさが、どのくらいの規模で盆地内のどの辺りから、どの辺りくらいまで広がっていたかが問題となってきます。
紀氏さんの持ってこられた地図を見て、島の山古墳を中心にして描かれてていたのですが、この地図で見てみると島の山古墳周辺には陸地が殆どなく、恰も島の山古墳がもじ通り島のような感じで、浮かんでいるまさに島状になっていますが、この周辺には島の山古墳だけではなく、周囲にはほかに同時期の古墳が点在しています。
となると、他の古墳はこの地図上ではまさに湖の中、存在していないとなってしまいます。
紀氏さんの地図では、島の山を中心にしたかなりの広範囲の湖ということになってしまいますが、島の山周辺やその近隣の地域には、古墳だけではなく弥生頃の遺跡もまだ発掘は進んではいませんが、存在が確認されています。
ということで、この湖の存在は考古学的に見ても、物的証拠がない限り存在を賛同することは私は出来ません。
ただ島の山古墳のある地域は、古代から大型の河川が合流していた場所なので、かなり居住地としては盆地内では住みづらい場所で、周辺に存在している古墳は、僅かな微高地など場所に築造されていたと考えられますが、近くにある有名な川合大塚山周辺には、弥生時代頃の遺跡も確認されています。
当時は今よりも河川整備がなされておらず、この地域は網の目のような河川の流路が交錯していた地域であったと思われます。


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海面上昇
2005年12月11日 0:43:39 管理人
タックンさんご指摘のように、河川の流れがいろいろあったのかもしれませんね。海面上昇については、古奈良湖というのが、100万年前にあったそうですね。
http://www.yamato.moc.go.jp/YKNET/history/change_nar01.html

あと、海面上昇については、6000年前をピークに現在より5mほど海面が上昇していたそうです。その後数千年をかけて現在の水位にもどったそうですが、徐々に戻っていったのか、あるいは周期的な海面上昇と下降の周期を繰り返しながら下がっていったのか、不明だそうです。詳細は以下HPみつけました。
http://www.kobe-c.ed.jp/shizen/strata/oska_org/04060.html
この周期的というのがちょっと引っかかってます。数百年周期ということになるとおもうんですが、吉備津神社の例でも、ずいぶん海岸線が現在より中にあり、ちょっと干拓だけでは、あそこまでできるのかという疑問もあるんです。みなさんは、6世紀ごろの海岸線で不自然な場所など経験されたことないですか?


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参考HP
2005年12月11日 6:47:38 いばらの紀氏

奈良の神社には○○坐・・・神社、というのが多いですが、「坐」というのは何を表すのでしょうか。いつも疑問に思います。葛木坐・・・,飛鳥坐・・・いろいろあります。

大和川にかかわる交通路の謎 
http://homepage1.nifty.com/~hidaka/kodai/trafic.html#c2

古代河内の洪水・治水年表 
http://www.geocities.jp/iko_kan2/kawachi-kouzui.html

付替え前の大和川(水害、治水)
http://www.yamato300.jp/tukekae/tukekae.html

地域の中の大和川
http://www.mlit.go.jp/river/jiten/nihon_kawa/86061/86061-1_p2.html



物部氏
2005年12月10日 17:10:41 かわかつ WEB
HP「物部氏。禁断の土地を縦断する」をアップしました。写真ありがたく使わせていただきました。


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拝見しました。
2005年12月11日 0:13:38 管理人
かわかつさんの探訪記拝見しました。今回の探索も、やはりかわかつさんのような、その道の人に文章化して論理だてていただけると、開催した側としてもうれしい限りですね。
http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/mononobe.html
研究会で出てきた紀氏さんのレイラインもおんなじ感じで、かわかつさんに文章化していってくれると内容が濃くなって助かるんですが・・・。


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No thank you!
2005年12月11日 2:09:15 かわかつ WEB
Ray line?
Ray a drop of garden sun.Do you know this song?
Its "do-re-me"song from A movie"The sound of music".
Ray is a line of sun.Its a beam! You Know?
bye.



チーム研究
2005年12月10日 10:41:43 管理人
管理人帰宅しました。いろいろ白熱した議論で楽しみです。
考えていたのは、コンピュータ業界とかで製品開発するときは、個人プレイでは複雑難解な作業には限界があり、チームプレイでひとつの製作をなしていくことと思います。ところが考古は別として、文献史学のチームプレイというのは、あまりないのが現状です。もっとも特定のテーマに向けて、本や学会報告でも、確実に目的が果たされ、直列的な積み上げが起こるということがなく、並列的に別々なことを言って両者につながりが薄く、何が出てきたのかが曖昧なまま終わってしまうケースも多いようです。文系の特徴には、小説家のように、個人の視点や主張が強すぎるということもありそうです。理系やパソコン業界だとおそらくほとんど個人の主張、名誉、権威などという部分は、客観的効率的に進める上で、無駄な労力とまとまりのなさを生み出すもととなります。もっと客観的な能力と結果に考慮すべきではないかと感じます。そこで文献史学でもチームプレイをもっと取り入れる試みを本格的にすべきかもしれません。
まず構想やアイデアを出す開発部門を設けて、ドクター中松みたいな、靴にバネつけて飛んだり、水中もぐってひらめきを探す人がたくさんいる部門を設けます。アイデアや鋭い洞察は外れた考えの人から出てくるのでしょう。企画・構想を練る人、文章を書く人、過去の文献を調査する人、考古など他分野の専門家、論理・批評の専門家、図やイラストの専門家、出版・経営・営業の専門家、すべて各人の才能の合わせて、部門分けして権利を委ねて相互深く干渉しない、そうでありながら、ひとつのテーマに目的を絞って確実に結果を出していく、そういう仕組みがほしい気がします。
そこで見つかってきた渡来人研究会のレイラインも、レイラインそのものについての紀氏さんの誤差理論のようなアイデアの数々、そこからレイラインの遺跡の年代を調査する人、そして、その遺跡とその住人の移動を論理類推する人、さらに過去のその辺の研究を調査する人、考古、DNA関連からの多角的視点、各拠点の住んでおられる現場の専門家の視点・・そこから正確に修正して文章にまとめて出版まで持っていく人・・・、がチームワークを最大限に発揮して、短時間で確実に目的を達成していく、そんな感じが理想ではないでと感じますがどうでしょう・・・。


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2005年12月10日 13:14:05 廃人
フェルナンブローデルと地中海学派や、アナール学派等、文献・フィールドワークを共有化させていたような試みは以前からありましたよ。
まぁ、日本の歴史会ではあまり前例はないと思うけど・・。
ついでに、レイライン関連なら英国で専門研究学してる連中がいましたねぇ。
歴史的な裏付けを取るのは難しいと思うが、まぁ死なない程度に頑張って下さい。
追記:Ray-Lineというのは、本義ではないと思うので、言葉の定義辺りから考え直すべきでは?


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おっしゃるとおり
2005年12月10日 14:49:56 かわかつ WEB
レイラインのRayの意味も知らないで論議もなにもないですよ。紀氏さんのはレイラインではないですよ。


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それにつけても
2005年12月10日 19:53:01 かわかつ WEB
少し管理人さんを困らせてしまっているようです、紀氏さんとのウイット遊びが。
では少し軌道修正します。ごめんなさい。


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廃人さん
2005年12月11日 1:48:02 管理人
文献・フィールドワークを共有化、そのアイデアの権利も含めて共有化の仕組み、廃人さんの仕事業界ならお詳しいことでしょう。西欧では盛んなのかな。
レイライン、西欧のそれについてもぜひ情報交換したいですね。
かわかつさん、紀氏さんこの掲示板ではぜひ遊んでくださいね。共有化は別のところで。


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わるいjけどそれパス
2005年12月11日 1:54:24 かわかつ WEB
小難しいこと言ってくれるな、青年よ。



はっきりと大和湖の議論に
2005年12月10日 0:28:53 かわかつ
決別をつげます。
時代があまりに違います。全国のどのような盆地を眺めても、そこが湖水だった時代は、太古です。おそらく10万年前の話でしょう。
これは歴史、考古学、渡来、いずれの時代にも当てはまらない悠久の過去の話です。そこには誰もいないのです。いいいかげんにしなっさい。


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まだまだ、
2005年12月10日 1:38:41 管理人
かわかつさん、まだ大和湖の可能性には、いろいろ抜け道があるような感じですし、もうすこしいろいろ可能性を論議してみましょう。
タックンさん貴重な情報ありがとうございます。
大和湖については、紀氏さんの図をみただけですが、奈良盆地中部には古墳がなかったわけではなく、前期、中期のが多くあったのに加えて、副葬品に甲冑がなかったことが、先の盆地を囲むように渦中が分布している理由なのですね。
死後の観念も変わっていったとの点も注目ですね。
大和湖があったとすると、古墳時代前期、中期には古墳は奈良盆地の古墳は水に埋まってしまわなかったかとか、あるいは後期になってある時期、水の水位があがったとか、いろいろ仮説が想定できてくるような気がします。
なぜ、周辺部へ後期古墳が移動していったか?いろいろ観念論もあわせてみなさんアイデアだしてみてくださいね。


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干拓したと思うニャー
2005年12月10日 10:06:12 いばらの紀氏
大和湖の水は国造り部お得意の治水・土木事業で排水(干拓)したと考え(妄想)しておる紀氏でした。



面白い新刊
2005年12月9日 21:29:32 タックン
吉備の考古学を知るいい本が出ました。
吉備人出版というとこから、「石棺と陶棺」という本です。
まだ私も、ネット上で知ったばかりなので、購入しておりませんが明日にでも本屋に行って来ようと思ってます。
これを読めば、吉備における古墳時代の葬制を知る事ができると思います。
値段もそんなに高くはないので、皆さんご一読をお勧めします。


茨の紀氏どの
2005年12月9日 18:27:28 かわかつ WEB
四コマ漫画をたくさん読むと「起承転結」が身に付きますよ。性急な論理にはたくまぬウイットを含ませるゆとりも必要です。
瀬戸内寂聴の説法でもお聞きになればと思います。
かくゆう私はウイットに富みすぎ、かなり上滑りしてしまうことがあります。
最初に疑問を提示する方が導入はうまくいきます。そのあなたの疑問に聞く人が共感すれば、解説は手のひらを返すようにうまく運びます。
まあ、詐欺師や山師の語り口を少しは学ぶことです。お考えは決してわるくないのだから、あせらず日本人の琴線にふれる会話方法を、頭をやらかくして学習されるのが説得への早道かと。
若輩、僭越は承知の上で友に説く。です。


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それで思い出しました。
2005年12月9日 19:31:22 かわかつ WEB
今回のオフ会で紀氏さんには聞きたいことがあったのでした!
難波の吉志のことです。
吉志という、おそらく一部に被差別民を含んだ渡来系氏姓を持つ集団のことをさるブログで調査されている方がおられます。
「おそらく〜被差別民を〜」というのは、たいがいの渡来軽氏族が彼らを傘下に置きますので、決して誤解されないでほしいでのですが、以前からの私の持論ですが、奴婢という人々が必ず古代には出ています。この人たちがいなければ歴史は動かないと言っていい。
彼らが管理氏族の姓を名乗っていたことは諸処の記録にもあきらかです。
たとえばサンかや木地師たちも天皇家の菊の御紋を用い、あじすきたかひこねの子孫、あるいは早良親王、などの貴種の末裔を名乗っていたことは土橋寛氏や三角寛氏の著作に明記されていますし、彼らの明治期の姓が小椋、箕田など神職に関わる姓が多かったことも記録に残っています。
ひるがえって吉志も、朝鮮王族の呼称である「こにきし」から出ていると声高に吹聴しているにもかかわらず、その得意とする技術が「なめし革」加工という、動物解体に関わる特殊技能を持っていた者がふくまれていたことからも、これら渡来集団が、列島の先住民をいち早くとりこんでいたことの証明となろうかと思います。

さて吉志は大阪阿倍野、岸部、あついは九州小倉企救郡などに分住させられておったようです。彼らはどうも後に秦氏の参加に置かれたらしい。渡辺謙吉氏の著書にはそう書かれています。
彼らが阿倍野の安倍晴明を出した阿部氏の出身という説はちょっと認めがたいのですが、いかがおかんがえでしょうや。


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地名
2005年12月9日 21:02:11 タックン
吉志という言葉で思い出しましたが、大阪府内にはキシと言う言葉の音が付く地名が多いように見受けられますね。
特に私が最初に目にとまったのは、摂津の東海道本線にも駅名がある、岸部と言う場所です。
此処から西方に行くと摂津丘陵が横たわっており、この丘陵上や山麓には大規模な須恵器の窯跡群が分布しています。
同じ大阪府内にある、和泉の須恵邑など共に一大窯跡群として有名です。
ただ此処のは須恵邑よりも操業時期が若干時期がずれるという事もありますが、須恵邑は完全な官営の工房ですが、此処のは私的な操業場所だったが、後の時代には官営に切り替えられたかも?しれませんが。
大阪府内にこれだけの窯跡が見つかっている場所は、小規模な窯跡群は幾つかありますが、纏まって群をなしているのは、この千里丘陵と和泉の須恵邑くらいでこの2カ所の地域に、政治的な働きかけがあり操業場所として選ばれたのでは?と考えています。
勿論窯業を行うに際しては、材料・その燃料などの確保が出来うる地域と言うのが前提で、この2カ所の地域はその条件を満たしていたと思います。
摂津の吹田市周辺(岸部)は、この吉志の一族が居住していた場所、吉志一族の一派はこの窯業の仕事に従事していたのではないか?とも考えられるのです。
ただ千里の窯は、須恵邑のように政府独占の感じとは違い、一族の史的な窯だったのが近隣の諸豪族の要請に応えて、操業が拡大して言ったのではないか?とも考えております。


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サンかや木地 キ氏?
2005年12月9日 21:22:03 いばらの紀氏

朝鮮王族の呼称である「こにきし」から出ていると声高に吹聴しているにもかかわらず、その得意とする技術が「なめし革」加工という、動物解体に関わる特殊技能を持っていた者が・・・・・・・・「動物解体に関わる特殊技能」から「遊牧民」を感じます。
国技の相撲はモンゴル相撲にルーツを感じます。
日本の馬のルーツにもモンゴルを感じます・
古墳作りの労働者にも騎馬民族系を「醍醐」の文字にも渡来人を感じます。
ノミノスクネVSタイマノケハヤから先住渡来人出雲系VS神武を、物部(物作り部民)にも先住渡来人出雲系VS神武系の物部(師)の複数の系列が存在したとの考えです。
出エジプトのイスラエル十部族が日本に辿り着いても奴隷や職人が大多数で戦士がいても少数だったと考えられ先住民との争いは避けたはずです。
秦の始皇帝系の渡来人は後から渡来したのでしょう、その後からの渡来人・帰化人も 日本も中国・朝鮮と同じ多民族国家・「人類 皆 兄弟」なのです。(人類の祖がアフリカとすれば世界中が混血のはずです、競馬の血統の様に人間の理想種の交配を古代に行なった可能性も?頭脳明晰・色白・ナイスバディーなどなど・・)
「目くそ鼻くそを笑う」デス。(人間の性でしょうか競争・差別したがる・・・・選民になりたがる。)
サンカで思い出しました、「遊歴和算家」が戦前まで日本中に出没和算の発達と普及に務めていたそうです。 古代?からの土木工事の技術者の養成か?「算額」にして神社・仏閣に奉納したそうです、算家は慈善事業家?何者?御存知の方がおりましたらお教えください。
自然の循環社会を理想の社会と考えた古代人は、(伊勢神宮の20年周期の建て替えの様な)仕事(雇用)を創った。
世界征服を企んだ古代人は破壊と征服・軍需での仕事(雇用)を創った。
出雲の時代は八百万の神が仲良く共存していた。


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あなたは
2005年12月10日 0:14:50 かわかつ
現実に目を向けず、部屋にこもっているから遊牧民などろいう、きわめておぼっちゃんのような、もっといえばマリーアントワネットのごとき寝言をまだ言うのです。


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あらら
2005年12月10日 0:18:28 かわかつ
ろれつがまわらなくなっちゃったかも


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清明と阿部氏と吉志
2005年12月10日 1:05:01 かわかつ
その関係についてのみお答え願います。そのたの雑言に聞く耳は持ちませんぞ。質問にお答えを。


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先住渡来「秦氏」は徐福系?
2005年12月10日 10:19:10 いばらの紀氏
 清明と阿部氏と吉志
清明の母は信田のきつね、(きつねは稲荷=商売の神=秦氏系?)
阿部はアベ マリアで先住渡来人??
吉志(口の上の士=測量士・良い事を志す=キリスト)??キシ?
坐霊言デス。


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もうとりあわん
2005年12月10日 14:51:45 かわかつ WEB
・・・・



「そこですね」参考HP(八咫烏=鴨氏=秦氏=)
2005年12月9日 18:10:55 いばらの紀氏
すべて読んでほしいです。
八咫烏=鴨氏=秦氏=太古から大和朝廷に仕えた陰陽集団=忌部氏=聖徳太子に仕えた異能集団という図式も良いでしょう。が、しかし、藤原氏の陰湿な他氏排斥政治から何を読みとり、何を隠蔽、改竄したかを想像するに及んでは私は飛鳥氏の論調から大きく外れざるおえません。
正直言って不比等はだいっきらいなタイプです。 (^^)
注目すべきは徳川家の葵の御紋が鴨氏の紋であることですね。
 
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0027.html
その他 沢山あります。


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またまた飛躍するう・・^^
2005年12月9日 18:42:17 かわかつ WEB
飛鳥さんはとんでも屋さんですよ。久慈茂氏あたりの焼き直しをエキセントリックに仕立てているだけ。でも会話は上手だ。

葵の御紋。徳川家は三つ葉葵です。鴨氏は双葉葵。
ふたば葵の構図には葵の実が描かれています。これは暗に蓮、梶の木を連想させるようになっています。
徳川家は歴代為政者の中で唯一「五三の桐」を拒んでいます。武家社会を朝廷の魔手から完全に隔離せんとする織田信長にあやかってのことでしょう。

第一、上の文章、誰に向かって書き込んだの?
唐突なんです。誰が「大和朝廷に仕えた陰陽集団・・・という図式」を考えているのですか?どこにも書いてないでしょう。なにを読んでるの?


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飛鳥氏へ
2005年12月9日 18:48:25 かわかつ WEB
私はあなたを語り部、物語作家としては尊敬しております。あしからず。
しかし、歴史考証あまり信用しておりません。ごめんなさい。

紀氏さん、しゃれと現実は別物です。飛鳥氏などここに出してこざるを得ないのは理解できません。私のHP、著書にも飛鳥氏を認めた発言など一顧たりともないはずです。


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なにを
2005年12月9日 18:56:18 かわかつ WEB
「すべて読んで欲しい」のかを書いてください。主語述語くらいわかるでしょう?小学生じゃないんだから。いいかげんにしなっさい。


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バベルの塔-1
2005年12月9日 19:56:08 いばらの紀氏

 創世記11
1-世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
2-東の方から移動してきた人々はシンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
3-彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
4-彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
5-主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
6-言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
7-我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
8-主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
9-こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。


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バベルの塔-2
2005年12月9日 19:56:51 いばらの紀氏

バベルの塔 創世記11-4「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」の「全地に散らされることのないようにしよう」には「全地に散れ」の命令に恐れを懐いている事を覗えます。
4−の「彼らが何を企てても、妨げることはできない。」からYHWHが「東の方から移動してきた人々」に脅威を感じた事が覗われる。
9−「主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 結局 最初の「全地に散れ」の命令に従う事と成る。
最初の「全地に散れ」の命令は、2-「東の方から移動してきた人々はシンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」から読み取れるようにYHWHの命令では無い事が覗われる。
しかし、9-「主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」と成り、YHWHが「主」で在り 自分の力の偉大さをアピールしている。
9-「主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ」の「言葉を混乱」は、情報の伝達に嘘の情報を流し信頼を失わせた「策略」をYHWHが行なったことを読み取れます。
1-「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」の「同じ言葉」とは「シュメール語」では?
「東の方から移動してきた人々」が「全地に散らされ」無い様にするのに、「天まで届く塔のある町を建て」る事により「?」からの「命令」の目的が達成される。
「全地に散らされ」=「天まで届く塔」・・・・から「広く見る」=地上の「世界の地形を調査」が目的と考えられる。
仮説:「東の方から移動してきた人々」(「シュメール語」を話すイスラエル十部族系?)=夏国の測量士。では?
命令を出した「?」=禹帝
異常   紀氏の仮説です、いかがでしょうか?


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巫女さんかい
2005年12月9日 23:37:49 かわかつ
ある程度の知識があるからつきあうものの、他人が聞いたらなんじゃいな。のののののの・・・へのへのもへじ
という筒井康隆の狂気の世界。狂気、驚喜?ずいきのえっへっへ。わしゃあもう気が狂う田JAZZ大名〜〜〜〜〜〜



吉備の屯倉
2005年12月9日 15:52:39 うら
 児島の屯倉を求めて管理人さんは、瀬戸大橋線の児島駅周辺を探索されたようですが、児島の屯倉は、現在の岡山市郡(こおり)付近とされています。倉敷考古館の間壁さんは「古代吉備王国の謎」の中で次のように書いておられます.

・・・かって児島屯倉の地として中瀬戸に、にらみをきかせていたいたはずの良港は、姿を変じてしまってはいるが、この近くに、近世まで港として知られた所がある。そこは児島湾を湖とするためにつくられた閉め切り堤防が、海を区切って、児島側に取り付いた場所である。現在は岡山市郡であるが、岡山市合併前は児島郡甲浦村郡であった。この地は、袋のように入り込む児島湾の口に近く、北西に口を開いた小さな入江になっていた。この入江に、幕末や明治の頃まで、内海航路を走り、あるいは五島列島あたりまで足をのばす船の本拠地があった・・略・・この入江の北東にのびた丘は、八幡山と呼ばれており、その東は、岡山市北浦の集落である。北浦も古代には、北から南へ向いて入江が入っていた。この入江は西からの風波をさえぎることが出来た。郡と北浦の入江を利用すれば、どの方向から風が吹いても、安全に停泊できたのである。その北浦と郡の間で直接に海をのぞむ八幡山の一画には、数基の横穴式古墳が知られていた。・・略・・この八幡山の古墳は、わずかな耕地を対象としてつくられた古墳ではなく、何か特別な意味をもつと理解したいのである。おそらく、この古墳を作り得た人物は、内海航路としての、この地にかかわりがあった者であることが、容易に想像できるであろう。・・・・この地こそ、屯倉の中心地だったとしても、けっして先走った空想とばかりはいえない。しかも、ここで発見された石棺の石材はあの播磨の竜山石だった。・・・

現在、この古墳は完全に取り壊されて、八幡山の上には老人ホームがたっています。なお、ここの石棺は、八幡大塚古墳出土として、日本三名園で知られる後楽園の入り口付近に置かれています。
とりあえず、吉備の児島の屯倉についてお知らせしました。

最近も、吉備後国の二子塚古墳から、双竜環頭柄頭が出土して地元紙をにぎわせています。
地元の者として地理感はありますが、古代史と結びつけるとなると、想像に想像を重ねるしかありません。


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うらさんお久しぶりです。
2005年12月9日 19:41:52 かわかつ WEB
こまかい内容については管理人さんが帰ってきたら書き込むでしょうから、質問を一つだけさせてください。
吉備の古墳からは遠賀式土器は出ていませんか?竪穴敷石式の九州型古墳群から出ているのではないかと想像したのですが。


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白猪屯倉
2005年12月10日 1:15:20 管理人
管理人@夜勤中です。
ウラさん、貴重な情報ありがとうございます!いろいろ児島の屯倉の比定地にも論があるようで、岡山市郡という場所、今拝見しましたが、まさに児島湾の中心部にあり、拠点としては最高の立地ですね。間壁氏の論文読んだことないのでなんともいいかねますが、いろいろ根拠もあるのでしょうね。どの論説もいまいちぴたっとくるような証拠が出てこないのかもしれません。その辺は、私が先に書いた伊勢→飛鳥→児島ラインから屯倉を比定めようという件、いまいちその理由付けなり根拠がないのも確かであります。もし仮にレイラインと当時の蘇我氏などが開拓した屯倉が関係するならば、同時期の白猪屯倉もやはりレイライン上になければならないでしょう。そこで、白猪屯倉ですが、岡山県真庭市の五反という場所に碑文が建っているそうですね。http://www.jaja.co.jp/ts/iroiro/kuse/kuse.htm
それなりに根拠があるのかと感じますが、そこから真南にラインを引くと、先の児島市の背後の裏山から西海岸方面あたりに出くわすようです。もうすこし詰めていかねばなりませんが、いろいろ吉備地域も文献含めて調査せねばなりませんね。またいろいろ情報お待ちしています。


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猪は和気清麻呂を救った。
2005年12月10日 10:01:45 いばらの紀氏
 けさの毎日新聞12面の女性・女系天皇を考える渡部昇一氏のお話しの中に称徳天皇(女帝)が僧 道鏡を配偶者(天皇)にと考へ宇佐八幡の神託を清麻呂に聞きに行かせたがダメ、道鏡は怒り清麻呂を九州の大隈に流罪
途中 暗殺を企てたが、猪が300匹現われ清麻呂を救ったとの伝説。
猪=和気清麻呂派? 宇佐八幡=道鏡派閥との対立派?
猪の甲骨文字は「⊂」の中にI(禹の父「口」の甲骨文字を横にした形)
宇佐八幡は「禹さ」・「鵜さ」・「兎さ」
またまた紀氏の妄想でした。   ところで「猪」て何者?


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白猪
2005年12月10日 21:46:43 管理人
紀氏さんこんばんは。なるほど、山地を宇佐方面へ送られていく途中に猪がたくさん出てきて彼を救ったわけですね。白猪の管理者は王辰爾系の氏族、後代の吉備津神社の住職にも見られる藤井氏、確か吉備の西漢氏系ではなかったでしょうか。西漢氏は備中の死亡人帳にも見えますが、山地の有漢という地名があり、白猪屯倉の付近とどう関係するか。猪・・・謎です。

 



吉備探索アップしています。
2005年12月9日 3:42:06 管理人
吉備探索、アップ中です。新たなレイラインが。ご確認ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm



笠縫の地
2005年12月7日 21:42:02 タックン
奈良盆地中央部では、近年発掘が進んでいて多くの遺跡が見つかってきています。
特にその中でも、唐古・鍵は大規模な遺跡の全貌が段々と判ってきて、生活部分はもとより弥生工業地帯かと思われるほどの遺物が多く出土してきています。
私は、当時の弥生の大和における一大工業地帯、此処を中心として各中小規模の集落のネットワークを形成していたと考えております。
笠縫の地には三種の神器の製作伝承のある、鏡作神社や、天照大神を最初に祭祀したと言う伝承が残っている事からして、青銅製品を此処で製作していた痕跡の遺跡も発見されています。
ただこういった大型の鏡がこの地で製作されていたか?となると、確実ではありません。
確かに笠縫周辺には、庄内式くらいの遺物が出土している遺跡や、唐古などからは銅鐸溶氾等の遺物が出土していますが、鏡などの溶氾は今のところこれって言う遺物は出ていません。
ただ他所の地から来て、鏡などを持ち込まれたと言う考え方もありますが・・・・
生活環境からしても、当時のこの周辺はかなり湿地帯で、河川が網の目のように流れており、人々は僅かな微高地を選んで集落を形成していたようです。
ただネットワーク的な中心地であった、唐古・鍵は例外で盆地内外からの物流拠点で、様々な文物が他方から或いは外国?から持ち込まれていたのは否定できないと思います。
古墳時代になってからも、この周辺には大型の前方後円墳はあまり見受けられず、小規模な古墳が築造されていたくらいで、政治的な都市を作るには不向きな土地ではなかったのではないか?そこである程度の土地をこの周辺の河川の流域を遡り、上流域にある巻向の地に都市を移していったのではないか?とも考えています。


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甲冑
2005年12月7日 23:49:25 管理人
たっくんさんこんばんは。大和湖周辺については、甲冑の分布図でも、やはりどうも出土していないようですね。なんかその辺も関係ありでしょうか。



21世紀 古代史変貌への期待 
2005年12月7日 10:37:30 いばらの紀氏
参考HP
      (21世紀 古代史変貌への期待 ワクワク。)
方位線と歴史
http://hw001.gate01.com/sangatu/index.htm#houisentorekisi
神武東征と九州

宇佐からの方位線
  宮崎以前の神武
  東霧島神社
  東霧島神社と鬼の方位線
  日向三代と高千穂峯
  日向三代の山陵
  降臨神話と卵生神話
  隼人と高千穂峯
  韓国宇豆峯神社と隼人
  高千穂峯と巨石信仰
  鵜戸神社と開聞岳
  伝承の地域分布及び隼人
  王の山の玉璧

http://hw001.gate01.com/sangatu/jinmukyusyu.htm#jinmukyusyu


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方位船
2005年12月7日 17:42:42 管理人
おお、かなり本格的にレイラインやっているサイトですね。精度と計算、ううん考えさせられます。ところで紀氏さんのレイライン図は原稿集とかにアップしないんですか?


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のっけから
2005年12月7日 20:25:54 かわかつ WEB
何のための三角形なのか感じられませんね。言葉数ばかり多いが、最も大事な、それがなんのために測量に応用され、それがどういう歴史的事実と関わっていたのか。結局、渡来や歴史との深い関わりという琴線部分がないため、ただの雑音で終わってしまいがち。
やり方に問題があるんです。三角、レイライン、もっと上手に解説できなきゃ、誰も読まないのではないか。
その基本がダメなんですよねえ・・・
もっと現実的な実証が必要だし、そのためには日本書紀をさいしょっから読み直した方がいい。そしてここの記述はこうだから、ラインとこう関わっているのではなかろうか、という真摯な態度がなければ。
もったいない時間です。もったいない。反対なんだ、やり方が。レイラインも地図製作も歴史の本道ではないんだってことに早く気づいてくださいよ。今のままじゃ、あなたの言葉は外国語だ。


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惜しい。実に惜しい。
2005年12月7日 20:28:15 かわかつ WEB
そう思うから書いてるのです。またひきこもちゃだみよ。^^;;;


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スクラム
2005年12月7日 23:41:17 管理人
ともかく、紀氏さんレイラインはかわかつさんの歴史論証がないと、表に出なさそうですね。そうです、スクラムを組めば、怖いものなしでは。図形が得意な人と文章が得意な人が世の中二分しているもので、左利きのひとに右で投げろという現在の学問システムは、無理があるんですね。チームプレイにして確実な役割分担をして目的を遂行していったほうがいいのではと思いますが、そろそろ出版も考えはじめましょうか・・・。


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もったいないやり方の反対なのだ、?
2005年12月8日 2:16:36 いばらの紀氏
事実からの仮説。(アバウトです。)
二世紀ごろにプトレマイオスの世界地図が出来た事により判明した事実。地球が球体と考えられた。地球の大きさが測定されキュービッドやメートルの度量衡の単位が定められた。組織的な測量集団が世界中に派遣された。 キリスト教系の組織である。(イエスのキリスト教はユダヤ教のYHWHよりはバール神(豊穣神)よりの教義・神仙・中華思想が影響?だったとの予感。キリスト誕生の予言・東方の方師?占い師?YHWHよりは愛のマリア?(景教はイスラエルの2部族系?地域の土着信仰神仙と合体カバラ)(バチカンはユダヤ教的・表裏カバラの予感。イスラエルの2部族?YHWHは占いを否定)古代日本における測量に関係する記載。大和朝廷の成立以前に出雲では「田図」が作られていた。朝廷の命により測量は行なはれた。
古代中国における測量に関系する記載。夏の禹帝により中国の測量が行なはれた。北極星が北と考えられていた。地上は平と考えられていた。(田型の測量)
 古代ユーラシア大陸における宗教の流れと測量関連の記載
  秦の始皇帝。(豪商系・神仙思想に感化)
  キリスト教の教義では地上は平と考えられていた。
  鴨稲荷山古墳より「金銅製双魚佩」の出土(双魚紋様は十字架以前のキリスト教のシンボルなのでキリスト教徒の渡来の予感。)
  唐の時代の中国では「景教」盛んだった。
 考察モドキ
  世界地図はキリスト系の組織により完成された。
  二世紀ごろにプトレマイオスの世界地図が出来た事により判明した事実。
  疑問   「キリスト教の教義では地上は平と考えられていた。」のに球体でのキュービッドやメートルの度量衡の単位が定められた。
    仮説 
    キリスト教徒モドキのキリスト教系測量組織の存在。
    フリーメイソンの入会規定に宗教にかかわらず「神の存在を信じている者」と有り、似非キリスト教徒の存在を予感させる。
    漢代の伏犠女堝像はコンパスと差し金を手に持っていた。
    コンパスと差し金は地図作成の道具の可能性有り。
 以上から
  フリーメイソン(石工の組織?)は古代エジプトからモーセの民(イスラエル十二部族)が思い浮びます。
世界をYHWHを頂点とする経済・軍事・宗教での階層社会の樹立が目的、神に次ぐ高知能者(選民思想)よる支配。
かわかつさん異常の様なストリーなどで如何でしょうか?



紀氏さんの地図
2005年12月5日 22:52:41 姫 MAIL
昨日、奈良市内で会合があり、その席で藤原さんと言う80歳くらいの方とお話しました。  藤原さんは古代史に詳しくてときどきお会いするたびに、いろいろ教えて戴いています。

紀氏さんの地図を早速取り出しましてお見せしましたところ、大変関心を示され、熱心に見ておられました。 遂にはコピーを録らせて欲しいと言うことで、お貸ししました。  ところが、ところどころに地名が書き込まれていましたけれども、銅鐸のあった場所が、どこか書かれてはいませんでした。  例えば、B地点などです。  紀氏さん、すみませんが、各地点の、地名を教えていただけないでしょうか。

藤原さんは、島の山がラインの中心にあるのを見て、すっかり大感激でした。   と、申しますのも、藤原さんご自身、島の山が全ての始まりであろうと感じていたからだそうです。  この島は現在もありまして、天理市の結崎というところです。  田原本に近く、また近所に鏡作神社もあるそうで、言い伝えでは、三種の神器のひとつ、神鏡はこの神社で作られたものと言われているそうです。
田原本と言えば、唐古・鍵遺跡が有名ですが、鏡を作る工人も渡来していたのでしょう。

オフ会で石舞台へ行ったとき、案内の方がレイラインに詳しい人が奈良市内に居ると話しておられましたね? 藤原さんにお尋ねしましたら、それは小川こうぞうさんと言う方だそうです。  藤原さんにお貸しした地図が戻りましたら、小川さんにお見せしてみようと思っています。

大和湖のことですが、亀の瀬(背かもしれません)と言う場所に断層が出来て、ずれが大きくなったため、湖の水は大和川へ流れ出して、干上がったのだそうです。
それが何時のことであったのか、全く不明です。

この断層は現在もずれ続けているそうです。 場所は生駒市の三郷町と、大阪市の国分の間です。  もしズレが止まり、ここを堰き止めれば、再び大和盆地は湖に沈むのだそうです。

それから発掘調査の結果、現在の佐保川は、かつてはもっと東にあったことがわかりました。  川は移動するのですね。  約千年間で、数百mも西に流れが変わっていることが判明しました。


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姫さん、感謝してます。
2005年12月6日 0:25:36 いばらの紀氏
 姫さん今晩は、オフ会では大変御世話様に成りました お陰様で充実した時を過させて頂けましたこと感謝申しあげます。
また 御願いしていた件(奈良湖周辺の銅鐸などの分布図姫)、地元「奈良」の古代史家の藤原先生の目に泊めて頂けたに感激しております。
「銅鐸のあった場所が、どこか?」のお訪ねですが「奈良湖推定図」は、「神奈備掲示板・青草談話室」の「かたばみ」さんの「奈良湖推定図」を参考にさせて戴いたものです。
http://kamnavi.jp/index.htm

かたばみさんは「銅鐸が地図造りに関係していた・・・・」には残念ながら否定的ですが 私は、かたばみさんを尊敬申しあげておれます。
藤原先生が「地図に大変関心を示された」そうですが 詳しいことは「神奈備掲示板・青草談話室」の「かたばみ」さんお訪ねください、なを「神奈備掲示板」には とみたさんも居られます。
写真家は「小川こうぞう」さんとの事、小川さんなら地図との関連に興味を示して頂けるかと縋る思いです。
地元奈良の姫さんに御すがりする他にありません今後とも宜しく御願い致します。


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姫さん
2005年12月6日 20:17:44 かわかつ WEB
交流掲示板にたくさんの石像物の画像、貴重です。
多くのものを見たいと願っても、行ったところですべてが見られるはずもなく、ありがたいことと思います。


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写真
2005年12月6日 22:16:10 管理人
姫さんほんとに貴重なご写真ありがとうございました。飛鳥池の石像はあそこまで見ることができるんですね。ぜひ今度いかねば。



タックンさん
2005年12月5日 15:25:46 かわかつ WEB
年末でお忙しいところでしょうが、崇神天皇陵について知っておられることがあれば教えていただけないですか。
あれは古いのですか?250メートルくらいでしたっけ?


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崇神天皇陵
2005年12月5日 20:47:06 タックン
年末なのに、風邪をひいてしまい少し会社をお休みしておりましたが、今は回復しつつあります。
この古墳の正式な名前は、行燈山古墳と言い墳丘長242m・後円部径158m・後円部高31m・前方部幅100m・前方部高13・6mです。
元来幕末の御陵修陵時までは、元禄の頃には現在の景光陵と崇神陵が入れ替わっており、現在の崇神陵と考えられるようになったのは、谷森義臣の「蘭笠のしづく」で現在の治定が主張され、安政2年にはまた元禄の頃の治定に戻り、さらに慶応元年に至り正式に現在の治定に収まったようです。
現在見る、古墳の周壕は文久の修陵時によって、かなり拡張が行われており墳丘一段目が水没?している模様で、本来の墳丘の規模はもう少し大きかったと思われており、周壕もかなり改変されています。
このときの工事によって、周壕から長辺70cm・短辺約53・8cmの内部に内行花文が描かれた銅版が出土していますが、現在は宮内庁にも納められておらず、行方不明だそうですが地元にこの銅版の拓本が保存されていて、凡その確認はできているそうです。
特に有名なのは、この古墳の陪塚と言われている国道沿いの伊射那岐神社境内に存在している、大和天神山古墳です。
特にこの古墳を有名にしたのは、全部で23面の鏡が出土し画文帯神獣鏡・内行花文鏡・三角縁神獣鏡などが、人体埋葬の痕跡がない竪穴式石室出土した事からも、この古墳が行燈山古墳の陪塚の、遺物だけを納めた古墳と騒がれました。
天神山の出土鏡の組合せ、行燈山の埴輪の時期(円筒2期)墳形の年代からすると、崇神陵(行燈山)も天神山も、4世紀後半と現在考古学の間では言われております。
付け足しておくと大和天神山古墳は、行燈山古墳の(崇神陵)宝器・宝物を納めた御船の可能性のある古墳ではないかということです。
私もこの古墳は、記紀などや延喜式などの位置等の記載からの、考定等を考えると崇神陵でいいのではないか?と考えております。


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大和笠縫邑
2005年12月6日 19:42:14 かわかつ WEB
管理人さんの報告には紹介がなかったのであえて書きますが、宮中にあった天照大神の神霊を最初に移したのが大和の笠縫邑でした。そしてそこには天照大神の巫女であった倭比売を祭る桧原神社も建てられています。
これは崇神天皇の業績として書紀「崇神紀」にのっています。
そのまさしく麓にこの行燈山古墳は崇神陵として比定されているわけです。
ところが実際に行ってみてわかるのは、ここが肩野物部の本拠地の最も三輪に近いところ、はじっこにあるということ。
大三輪氏の鎮護する三輪というのは平家物語にある「苧環神話」からの銘々です。今の櫻井市巻向ですが、「おだまき神話」というのはご存じみもろ山・・三輪山・・馬騎山・・に住む蛇の変化である大物主の神婚伝説です。
活玉依売のもとへ夜な夜な通う美男を怪しんだ父親が、美男の袖に糸を針でさし、帰ったところを見極めようとする。糸をたどって美男のすみかに行ってみるとそこには岩鞍の中に暗渠があり、中には身の丈何十畳という大蛇がとぐろを巻いている。
これが鴨氏などの丹塗り矢伝承にも変化してゆき、蛇、矢、が男性自身・・・ひいては大物主の荒御霊であるというもの。
大物主は物部氏の神霊・ニギハヤヒであるというのが定説。
つまりこの蛇や矢、あるいは男根というのは、物部氏のよるところの出雲の神剣を示しているわけです。
なぜ出雲なのかといえば、物部氏が出雲の砂鉄を牛耳って朝廷以前から製鉄権を独占していたということになろうかと思います。
大和において最も先行した入植者・渡来人であった物部氏は、崇神天皇にとっては簒奪、調伏、さらに懐柔すべき対象だったでしょう。
その物部氏の奈良北部から櫻井、石上、生駒、信貴山、北河内、肩野、禁野、枚方の南北のラインの南の端に崇神天皇陵・行燈山古墳はあるわけです。
先日、私たちは奇しくもこの南北ラインを縦断した。
おわかりですか?崇神天皇陵は物部の再興を押さえるようにラインの南端に位置する場所に造営された。
地図をみれば、まさに彼らは崇神勢力に追いやられている。銅鐸を捨てたのもおそらくかれらでしょう。
だって出雲からも銅鐸が出ています。それは先住物部氏が列島の鉄をもって武器をもったもののふ達だったことを示します。


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今年の風邪は要注意
2005年12月6日 20:18:50 かわかつ WEB
ご自愛ください。


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物部氏とは
2005年12月7日 0:38:34 管理人
タックンさん、かわかつさん、貴重な情報ありがとうございます。あの辺はまったく土地勘もなく、お教えいただいて気づくことが多々あります。かわかつさんのおっしゃることは、つまり物部氏の領域は石上・三輪方面からだんだん枚方方面へ北上していったこということになるでしょうか。天皇家と物部氏と抗争対立があったのですね。蘇我と物部との対立も有名ですが、つまるところ、肩野物部氏の時代はあまり古くない、蘇我との対立前後の拠点となるでしょうか。レイライン的には、肩野あたりは新しいしっかりしたレイライン上にあるようです。石上は逆にレイライン面ではよくわからない。そこで、物部氏とはどういう氏族なのか、あらためて考えてみると、製鉄氏族、軍事氏族、神道の儀式の根本を作った氏族、レイライン拠点を作った修験道系の大本・石造物信仰・・。軍事氏族という面に注目してみると、石上神宮は、武器庫であったそうで、百済の七支刀もあるそうですね。百済王と系譜には多くの関連性があるのはご存知のとおりですね。ひさしぶりに本棚覗いて見つけたのが、田中晋作氏「古墳時代常備軍成立の可能性について」『大和王権と交流の諸相 古代王権と交流5』のコピーですが、どうも常甲冑の変遷年代が、気になりました。古市、百舌鳥つまり応神・仁徳陵に新式の甲冑の所有拠点があり、そこから畿内各地の豪族に配布された感じになっているようです。肩野、八幡方面にも新式のが出ているようですが、古式のもあるそうです。偶然?にも布留(期?)というのが一番古いらしく、布留というと石上神宮裏山の布留山を想起するのは関係あるのかな??風邪ぎみで頭痛いのでこの辺で・・・。


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一を聞いて十を知る
2005年12月7日 2:07:45 かわかつ WEB
孔子の愛弟子・顔回とはあなたのことですな!
物部氏はあなたの言われるとおり巻向から北へ北へと追いやられている節があります。
孔舎衛の方に今回いきませんでしたが、ニギハヤヒを祭る石切剱矢神社がある日下の上に鳥見があり、登美の長髄彦の本拠地だったということはすでに申しました。そして日下が生駒山の西側に位置し、ちょうど東からの太陽を臨む場所ゆえに「日のもとの草下」という枕詞も生まれた。すると大阪の四天王寺からもちょうど東の日の出が見えたのはどの山からだったか・・
これは聖徳太子「伝説」にも大きく関わってきます。聖徳太子が架空の人物であると仮定した場合、四天王寺が実は物部氏の霊魂を忌むためにあそこに建立されたのではないかという推理ができるのです。
もともと神社だった四天王寺。是非あそこから東へのレイラインを調査してみて欲しい。
物部氏の行った道はヤマトタケルともどこかで関係しているはず。ヤマトタケルは出雲猛をも滅ぼし剣を求めてさまよう鉄の探訪者だからです。これは大きな謎の解明へつながる、大いなる第一歩ですよ。
タックン、情報大いに役立ちます。やはり巻向、唐子・鍵あたりをもう一度調査したほうがよさそうですねえ。
管理人さん、布留、甲冑、大変参考になります。


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いえいえ
2005年12月7日 2:28:02 管理人
私は1を聞いても0.1くらしか覚えてない人物です。ただ、あんまり記憶力が悪いんで、学生時代いっそのこと、ひとつの情報についてのすべての周辺知識を無視して、1つか2つの知識からどのくら知識を引き出せるか訓練していたことがありますが、その辺が今になって役立っているのかもしれません。紀氏さんはそういう部分ではおそろしく卓越してますね。
日下というとやはり日下部なのでしょうね。
四天王寺懐かしいですね。正直、関西の伝承から地理まで、ほとんど私はわからないのがいよいよ当地に行って感じさせられてきていますが、ぜひかわかつさんに四天王寺に誰が祀られているのか、解いていただきたいですね。ただ、ご指摘物部氏の動きと、やまとたける伝承との関連はどうしてもやらなければならないでしょうね。葛城と物部とのかかわりがいまいちまだはっきりしないのですが・・・。
あと吉備・四国探索もアップしはじめています。http://www.asahi-net.or.jp/%7Erg1h-smed/kibisikoku0511.htm


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そこですね
2005年12月7日 2:46:29 かわかつ WEB
葛城、鴨、そして秦氏がどこでどうして物部氏とつながってくるのか・・・それがこの国の最大の歴史的イベントでしょうね。やがて中臣氏とのかかわりにまで発展してゆきますが、あなたも私も日本史の大きな潮流という点で同じ方向性を持っているようだ。
これからも調査のスクラムを組みましょう!



サカ人とトカラ人
2005年12月5日 0:50:42 とみた
シルクロードを旅して以来、インド・アーリア語族に関心を持ち、サカ族という民族とトカラ人について興味を持ちました。今までの報告では、サカ人=スキタイ人の一種で中央アジアを南下した民族。アフガニスタン北部にいたらしい。

トカラ人もサカ人と似ているかなあぐらいに考えておりました。

そこで専門書を読みました。楼蘭王国という中公新書の本です。著者は赤松明彦京大教授です。

サカ人はやはり塞人とも呼び、もとはアラル海沿いの川から天山山脈北路のイり川あたり迄の一帯の草原に住んでいた民族で匈奴が月氏を追いかけると月氏がサカ人の土地を奪い、仕方なく西へ移動してついにはパクトリアというギリシャの国(アレキサンダー大王が蹂躙した土地にはギリシャの国が建てられたパクトリア=大夏国)を襲ってそこに住んだ。その後

月氏はまたその土地を占領してしまった。サカ=スキタイ人の一種には違いない。

これは別の本に・・・トカラ人は、紀元前 大夏族、パクトリア王族を滅ぼすと出ている。月氏はトカラ人を腹服属させるとある。

この意味ではサカ人とトカラ人は同類かもしれない。

赤星先生のトカラ語の解説がありました。

小河墓出土の楼蘭の美女はコーカソイド(白人)で紀元前1800年前から紀元前2000年前の人であることは確からしいのですが、その民族はどこから来たか。楼蘭の美女のミイラとトカラ語は深い関係ありとのことです。

崑崙山脈沿いの西域南道の要衝の楼蘭(ローラン)は紀元前77年前、ゼン然という名の中国の前漢の属国の支配下になりますが、その地方の民はトカラ語を話していたということです。紀元後6世紀から8世紀の間にシルクロード=西域の天山南路のトルファンやクチャでもトカラ語の方言が話されていた。

トカラ語はインドアーリア語に属し、ケルト語やイタリア語に近いので、この言葉は一番大本の言語らしい。それはやはり紀元前3000年代に黒海あたりから発してステップ地帯沿いに南ロシアや中央アジアに向かったアファナシュヴォ文化の言葉であるようです。
ミイラは羊毛の毛織物と小麦と牛皮の遺物とエフェドラ(覚醒作用のある草)の小枝を副葬していた。
農耕と牧畜をする民だったようです。

トカラ人は7世紀後半、斉明女帝に酒船石の宴会に招かれた・・・この事実を追ってまた勉強を続けます。


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トカラ人って
2005年12月5日 3:12:28 管理人
月氏に従属して歴史があったんですね。月氏の習俗がトカラ人の習俗にどう影響を与えたのかとかまでわかってくるとおもしろいんですが・・。トカラ人は女帝の宴会で須弥山を作ることと明らかに関係しています。習俗に仏教が混入しながら、一方で高度な石造技術も有しているはずで、トカラ人の妻として出てくる舎衛人の女は日本に残っているので、その習俗は日本のどこかに残っていると思います。新漢氏が彼らの習俗を舞楽関連で伝承している可能性があり、福島横穴から出てくる多冶調つまりアラビア調の舞楽で使う楽具が正倉院のそれとも関連しており、タジ調というのは、剣舞で中国皇帝の面前でも踊っていたらしいです。多氏というのが、伝来しているそうで、そのタジの発音に独特に意味があるらしく、フェルト帽子とも深くその舞楽は関連しています。月氏は分裂後、一部は雲南のタイビルマの祖先と混合し、ミャオ族に。一部は朝鮮北部に移動したのち、行方不明??になっているそうで、月氏は朝鮮を南下したかどうかが気になっているところです。弓月城や月支国は朝鮮にあるのは有名なところで、その習俗と月氏とトカラ人の習俗、石造文化、舞楽、フェルト帽などが一致してくるとおもしろいんですが、如何せん、東洋史には縁が薄いので、いろいろとみたさん紀氏さんだよりであります。この辺斉明女帝の宴会について、特にトカラ人などは非常に研究史がまだうすいうので、いろいろ研究なされてみてはどうでしょう。



オフ会報告掲載中です
2005年12月4日 3:33:39 管理人
以下のページでオフ会の報告を掲載中です。なかなか長いので、ちょっとづつ仕上げていきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/0511offkai.htm
枚方・岡山・四国レイラインのほうも、ぜひご確認よろしくです。


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さすが管理人さん
2005年12月4日 9:41:57 とみた
管理人さんが、如何に古代史を愛しておられるか文面や地図で理解できました。

紀氏さんが難儀して地図に没頭され、漢字に拘っておられるかも承知していますが凡人には、理解不能なこともあり飛躍がある説法についていけないで困っておりました。

管理人さんのこの地図で、紀氏さんの意図が少しわかりました。

紀氏さんは惜しいな。

凡人にわかる説明をしてくださいよ。



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もうすこし
2005年12月4日 21:38:15 管理人
とみたさん、読んでいただきありがとうございます。もうすこしわかりやすい大きな地図を作成予定です。紀氏さんの奈良盆地の地図と、全国レイライン地図についても、もう一息なので、ぜひがんばってください。レイライン地図も、表記の基準とか方法をどうするかとか規定していくといいかもしれませんね。たとえば緯度と経度、各線分間の距離や方角、拠点となる遺跡の製作年代、角度などを必ず明記するようにしてみてはどうでしょう。この辺非常に手間のいる作業ですが、聖書でイエスがすべてたとえ話をもって、民衆に理解をほどこしたように、相手に可能な限り理解しやすく説明するのも愛し方の基本ですから忍耐してやらねばなりませんね。

あと、かわかつさんのHP表紙変わりましたね、ハードディスクの故障は専門の修理屋がいるので、下手にいじらずに2,3万で修理にだしたほうがいいかもしれませんよ。わたしは最近それで治しました。


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読みましたよ
2005年12月5日 15:21:36 かわかつ WEB
オフ会、その先が早くみたいですね。
ディスクの件は画像データだけのことですから、あきらめました。もっともHPに使ったデータですのでもう必要ないですから。
要するにバックアップの時に「大容量ディスクに移動する」を間違って選んでしまったため、ドキュメントがWindowsの大容量ディスクに移ってしまったようなんです。
これじゃなんのためにHDがあるのかわかりませんね^^;
HDは今使っていません。というか、使いたくても使えない。すでに二つのディスクがあるわけだから・・・
意味わかりますか?
大容量に移行したデータを戻す方法があれば教えてください。
しかし、すでにNPを出荷時の状態に戻し、すべてのソフトをインストールし直しちゃったので、今のところ支障はないのですが。
まあ、outlookあたりがまだつながってないけど、これもプロバイダのメールがあるから無用といえば無用ですかねえ。


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ブログ
2005年12月5日 15:33:30 かわかつ WEB
ブログで夕食を公開していますが、これってなかなか便利ですね。だれでも自由に書き込めて、簡単に公開できる。双方向性、専門的知識の詳細公開などはBBSやHPには劣りますが、なによりどんな人でも文章や画像を手軽に公開できます。
できればもうひとつもてれば、そこにHPの代わりにWEBサイトがつくれるかな。複数もとうとすると有料でしょうねえ。

ところで拙著、このところ急にアマゾン売り上げランクがあがりました。秦氏検索したら飛鳥昭雄を抜いて、なんと一位です!まさかあなたまとめて何十冊か買ってくれたとか・・・?そりゃないよね。^^;


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メールBK
2005年12月5日 17:05:31 管理人
HDの件は、大変でしたね。HDをノートが認識しないならハードの問題でしょうから修理業者行きだと思いますが、読み込んでいるなら、HDのデバイスの問題?とか、ほかのパソコンに接続してみるとか、詳しい人に頼んでDOSから入ってもらうとか、いろいろありそうです。アウトルックの保存法はご存知ですか?以下のサイトに載っています。そのとき、各フォルダウィンドウの上にある「ツール」→「フォルダオプション」→「ファイルとフォルダの表示」→「すべてのファイルとフォルダを表示」を選択して変更しておく必要があります。
http://www.atmarkit.co.jp/fwin2k/win2ktips/240oemrbkup/oemrbkup.html

それにしてもすごいですね。個人の出版で飛鳥さんの秦氏本を上回るとは、やはりカリスマの証明だろうと思います。いつもみている地震サイトもやはり個人サイトでは10位以内に入ったとか今朝書き込みしてありました。
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm

結局カリスマは、個人であろうと公的であろうと、どこからはじまろうと最終的にはその人の才にふさわしく行き着くところに行くものですね。時間はかかりますが。流れに任せて気楽にがんばりましょう。


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オフ会後半
2005年12月6日 2:20:27 管理人
あと、かわかつさんオフ会後半の報告、リンク貼りますので、よろしくお願いします。


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カリスマ?
2005年12月6日 22:19:57 かわかつ WEB
よろこんでもいいのでしょうか。
ラジカルなだけでは人を納得させられず、むしろタックンのようなマニアックな知識が欲しいと思うことがあります。
その意味で私はただの性急ないらちに過ぎないのだと思います。
outlookの保存法、ありがとうございます。



奈良湖推定図からの銅鐸の位置
2005年12月1日 15:41:31 いばらの紀氏
銅鐸は田の字形測量ポイント(予定では、)だったが、北極星(太一)を真北する古代中国の思想と地球の歳差運動でお誤差(約28度)と東西に異なる測量ポイントでの誤差と球体の地球での測量データを平面に写す場合に生ずる誤差が入り混じり田の字形測量は失敗した。(
以前より銅鐸〜古墳(仮のポイントには奇岩など)〜寺社へと発展した。(辻・橋・峠・滝・人工的な石や岩・温泉場の?山頂や岬など)
奈良湖推定図からの銅鐸の位置はまわりの山々と北極星の位置の北との角度が45度になるポインに銅鐸を埋めたつもりだったが四角形の四隅のポイントは合致しなかった。
 蘇我の馬子の墓と言われる石舞台古墳の位置はまわりの山々から30度や45度のポイントと考えられ、田の字(方形)形の測量と30・60・90・180度の三角測量の分岐点では?と考えられます。
 蘇我の馬子が先住渡来測量士(出雲系)の頭だったとすると□vs▲(アシヤドウマンvsアベノセイメイ)中臣・藤原との測量での争いも想像されます。
古墳造りから寺社での測量ポイントの作成には以前より山々を測量していた出雲系(鴨おう・烏オ・ウ)の役小角(エンノオズヌ)のデータは、中臣・藤原氏にとって咽喉から手の出るほどに欲しかったのでしょう・・・・役小角の母を人質にしてまでも。
 1100年後 役行者に神変大菩薩の諡号が授けられ、聖護院に勅書が下賜された。(その二十年前の安永8年 多くの資料だけで、経緯線も記入されている地図を水戸藩の「大日本史」の地理志編纂に関係した儒者 長久保赤水の「改正日本興地路程全図」が出来ている。
これにより、1300年以前より日本の地図造りは山伏や僧侶などの手により密かに作られていた事を裏付ける。(世界地図は2世紀ごろプトレマイオスの世界図が存在している。)


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役小角
2005年12月2日 3:15:48 管理人
といいますと、さっき思い出したんですが、倉敷児島からやや北方の山地に由加神社というのがあり、701年役小角の開山だそうです。児島はやはり測量拠点でしょう。


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役小角が開創したといわれる
2005年12月2日 12:36:46 いばらの紀氏
日本の寺院
(データは随時追加) 其の壱 東日本・中部 其の弐 中部 其の参 近畿1 其の肆 近畿2 其の伍 ... 境内に新熊野三社の一つである由加神社が鎮座し、阿弥陀如来、薬師如来と共に彦狭知命を合祀し、神仏混淆形態の堂宇 ... 役小角が開創したといわれる古刹で、阿波国修験道の基地として発展した。 ...
www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/6130/geographia/temple5.html - 2005年9月24日


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山々は「骨組測量」の基準点
2005年12月2日 13:12:23 いばらの紀氏
役小角と測量拠点との関係ですが、高い山を目印に東西南北が正確にわかれば目印となる複数の山々間の角度と距離がわかれば地図作成上のポイントには成りますが最終的な綺麗なラインが描けるライン上のポイントとは限りません。
 日本地図は長い時間と大勢の労力をかけると同時にその地域の発展にも寄与しています。橋や公共の建物を建てたり溜池や河川の造成・道路の整備などなど将来の観光目的の奇岩や滝・温泉なども国造りの一環として考えられていたのかも知れません、そう考えると人類の未来を地球規模でで考えた祖先の偉大さに「すごい・・・まさか・・・有りえない」・・・となり そんなことを想像する自分が変、間違い、吉外・・と言う事になり今後の活動は停止と成るでしょう・・・・ならない為にも皆様のご確認・ご支持を御待ちして下ります。   さまよえる紀氏でした。


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金比羅山
2005年12月3日 4:09:14 管理人
紀氏さんご紹介のHPに以下のようにありました。「讃岐の金比羅宮詣りと共に両詣りの地として知られ、瑜迦山として親しまれ、・・」そう、讃岐の金比羅さんも、拠点のようですね。今オフ会報告書いていますが、その辺もお楽しみにです。



かわかつさん&管理人さんへ!
2005年11月30日 23:29:25 うら
 先日は有難うございました。お礼が遅れましたがお許し下さい。

鬼退治伝説の原型・・吉備津彦の鬼(温羅)退治の伝説は、室町時代に今の話の原型が出来たものだそうです。
吉備津神社の社伝では、温羅は百済から渡来したと在りますが、阿曽に在る隋庵古墳は武具をはじめ多くの鍛冶用具を出土しております。五世紀後期の古墳だそうです。
日本書紀によると、この頃、吉備上道臣田狭は任那の国司とあります。雄略記仁ある吉備の反乱伝承は、吉備と加羅諸国の関係を暗示しているように思えます。つまりこの時代雄略は、吉備と加羅の鉄を抑えるために朝鮮半島まで力を及ぼしたのです。
それから一世紀後(六世紀の後半)には、阿曽の地で製鉄が盛んに行われる様になります。その頃、加羅諸国は全て新羅に併呑されてしまいますから相当数の渡来人がこの地にやって来たものとおもわれます。
阿曽の地で行われていた製鉄も八世紀の前半で衰えてしまいますし原料も鉄鉱石から砂鉄に変わります。

仕事もあって毎日は覗けませんが、吉備の国のこと又何か分かればお知らせします。


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ああ、うらさん、ありがとうございました!
2005年12月1日 1:28:17 かわかつ WEB
あの時は客として乗り、話がまだこれからというところでお別れしてしまい、心残りでした。よくおいでくださいました。管理人さんも歓ぶことでしょう。
5世紀後半・・・やはりあの時阿曽へゆけばよかった。雄略天皇の時代・・・つまり倭の五王の最終期、おそらく王朝の交代期に一言主など葛城の一族との確執が大和で起きていると思われますが、吉備〜半島の鉄を奪い合うことが大きく影響したのでしょうね!
時と場所をへだてて、グローバルな時代の波が日本にも押し寄せていたことがうかがえます。
またゆっくりとここで話しましょう!


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うらさんお世話になりました。
2005年12月1日 2:08:16 管理人
うらさん先日は吉備の探索で大変お世話になりました。うらさんの吉備周辺や韓国における豊富な古代史知識の深さ、実体験に基づく新説など、とても今後が楽しみです。倉敷考古館に先日寄りまして、岡山の鉄を用いた道具の数々を見てきました。やはり製鉄の技術は相当発展していたようですね。ぜひ次回は鉄はさみを出した随庵古墳、造山古墳など、ご一緒させていただきたく存じます。
そしてご指摘の百済と吉備と任那、雄略とのかかわりとても興味深く感じます。6世紀後半から7世紀における屯倉を通しての朝廷の進出展開については、新たなことがわかってきました。一端を申しますと、飛鳥→伊勢の東西同緯度ラインと吉備児島屯倉へは東西一直線上にあるようです。おそらくは飛鳥から吉備への展開が極めて計画的になされていたことがわかってきました。児島には三宅姓も多くいるそうです。その辺の詳細は後日オフ会報告でお知らせいたしますが、吉備から四国にかけての朝廷の展開がだれによって、どうなされていったのか?古代史を散々悩ませてきたテーマですが、解決の糸がでてきそうですので、今後ともうらさん、みなさんよろしくお願いします。


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うらさん はじめまして
2005年12月1日 9:32:49 とみた
久しぶりに、うれしい便りです。この会は、新しい血を入れないと

マンネリ化します。吉備の情報はありがたいです。

加羅と鉄がやはりポイントですね。古墳も変化しますね。

出雲との関係、出雲も東部の国造意宇氏が西部の杵築氏を攻め

て西部支配をしたのが6世紀と書いてありました。その後に急に方墳から前方後円墳が増えたらしい。

橿原考研の発表では、5世紀の前半は大和は加羅の遺物がほとんどで

5世紀後半から加羅と百済の遺物が多く出土するそうです。

関東の毛野氏(今の群馬・栃木)は大きな勢力で5世紀に栄えたんで

すが、北武蔵と南武蔵の国造争いに大和朝廷と対立して6世紀前半

衰える。

皆さんの知恵を集めあって、新しい古代史の地平を見たいものです。


森浩一さんの高句麗の話、騎馬民族との接点の本を通読しました。それによると・・・・

三次盆地には1世紀にタタラ製鉄があった。四隅突出古墳も1世紀に山陰地方で出現し日本海に広がった。

この事実をつないで想像されています。中国山地は日本で最初にタタラ製鉄が始まったところである。あるいは、技術を持った騎馬民族が出雲に渡来し製鉄にふさわしい土地を求めて川を遡り三次盆地にまでいたったのではなかろうか。鉄は当時の先進文化のシンボル。

うらさん お忙しいでしょうが、吉備の話と朝鮮の話をお伝えいただければありがたいです。

私は定年後にはじめた古代史勉強。まだかけだしですが濃密に勉強しております。関東の話その他を提供します。

私は現役時代よく岡山に出張し、土地の雰囲気を知っております。鷲羽山から見た瀬戸内海、倉敷の大原美術館など懐かしいです。

お仕事ご苦労様です。



児島、四国
2005年11月29日 8:43:09 管理人
昨日やっと広島方面から帰ってきました。広島で仕事して、倉敷から児島を経由して瀬戸大橋をわたって高松へ。高松から、徳島へ電車で行き、そこから鳴門大橋をわたって大阪経由で帰ってきました。あまり時間はなかったのですが、初の四国、いいところで、いろいろなぞが出てきました。もう一度近いうちバイクあたりで行こうかと思っています。四国を経由してそのまま大分へ。では報告は後日に。


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大分で
2005年11月30日 2:44:48 かわかつ WEB
時間があれば飲みましょう。


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ぜひ
2005年12月1日 1:54:56 管理人
大分ご案内よろしくお願いします。四国は物部村を経由していきたいところです。四国というと、徳島からやや南のかわかつさんのテーマの阿南町や海部町?は、海人族のテーマでも欠かせない地域ですね。高松→吉備児島ラインも重要ですし・・・。四国から吉備あたりで、次回のオフ会はどうかと。



鼎で煮る蒸す。
2005年11月29日 7:42:58 いばらの紀氏

鼎は古代の神器だそうです、人を煮たり蒸したりしたそうです。
かなえ=叶へ・・・・では   禹の軍隊も用いてた神器と成ったのは後の事で当時は炊事に使用していた筈です。
では何故煮たり焼いたりしたと伝わっているのでしょうか?
修験道に釜茹での儀式が在ります、火渡りなども これらはヨガの荒行と通じると考えます。
アーマ(毒素)テラピー(治療) 温・気による治療では、串刺しなどは針灸の針の事だったり・・・・。
修験道のには榊が使われますが榊に薬効有るのでは?(アロマテラピー)
かわかつさん以前底に穴が開いた甕の話をしていましたヨネ、穴の大きさはどれくらいでしょうか?小さければ「水時計」でなければ二段式の鼎(蒸し器)と考えます。
わたしは「鼎」をアリダード(測量器具)と考えております。三本の足=三脚 水を入れ使用=水準器(水平を見る) 二つの耳(穴)照準器 などなど「叶」=口+十・・・○  十  =照準器デス(蒸し器の鼎はセパレートで上部が回転でき便利です。)
禹は戦争の道具を平和での道具と兼ねて使用していたのです。

オハヨウ御座います、この三〜四日 風邪ぎみで今朝44度のお湯に長時間入りウイルスに温熱攻撃を仕掛けました。
湯上り汗だくでキーを打っています、また思い出しました!古代日本にオンドル(床下暖房が存在していた)ある寺にサウナ風呂が在ったなどなど・・・・・
冷えてきたので ここまで お後がよろしい様で 手手ン点点・・・・。


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測量機器
2005年11月30日 18:50:29 管理人
やはりあれだけ正確な測量をするにはご指摘のような機器が必要でしょうね。高松の歴史博物館で銅鐸鳴らしてきました。



がやっと現われました
2005年11月28日 17:27:17 いばらの紀氏
管理人さん ヘブライ語で古代を知らせて下さる方がやっと現われました!。
目次
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/mokuji.htm
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage46.htm
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage8.htm


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ヘブライ
2005年11月29日 8:39:40 管理人
紀氏さん貴重な情報ありがとうございます。キトラの人骨に刻まれた文字って特に興味深いです。死後、そばにいた親族とかが刻んだのでしょうか。そういう習慣はどの辺の国に??



貴船 石船
2005年11月27日 9:23:01 いばらの紀氏
「石造物の小判形(船形・後住渡来人・神武系)(後の源氏)が♂(陽)で亀形(月形・先住渡来人・出雲系)(後の平家)で♀(陰)との倭国の成立(合体)を現わしている」
 石造物の小判形=石船  亀形=亀=キ 葵 貴船神社は双葉葵紋
                  加茂氏賀茂氏=葵まつり
      石清水・・・同族同士?????
 き 紀 木 黄 規 幾 箕 埼 岐 旗 葵 亀(甕)船!
 岩 雁 眼 鴈 元 丸 巌   イワオトナリテ コケノムスマデ?



蘇我馬子の墓・・・うそ!
2005年11月27日 5:46:11 いばらの紀氏

石舞台古墳は横穴式石室ですのでエジプトのピラミッド同様「蘇えりの場」のはずです。
死者の霊を恐れた場合分割して竪穴の墓に逆さに埋葬し上から二度と出られない様に重い岩の蓋をしたはずです。
たとえ石舞台古墳が生前に馬子が造営させたポイントの古墳としても呪いを恐れたはずです。
蘇我馬子の墓・・・うそ!・・・・なぜ馬子の墓とされた、古墳の造営年代がただ近かっただけでは?
昔の学者さんの知識は現在のオタク以下だったのでは?
教科書にのせるなら再度検証してほしいです。
閃きの紀氏でした、おはよう御座います。


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漢字のこころ
2005年11月27日 8:51:19 いばらの紀氏

みなさん 日本の神々の名前は漢字で表わされています、音をあてた当て字とされる方々もおられます。
私は甲骨文字の字形から意味を見いだして来ました、酉(口+鳥居形)禽(ム=禹)摂り取り撮り(耳) トリのカラス烏(目に関係 臣?)鴉(牙=商人の隠語)狩らす(寸・長さの単位)嗄らす(口+夏)(口は禹の父 魚+系)(夏は夏王朝) カラスはたしかポルトガル語で牧師 黒い服に紐が三本足の烏を連想させる。
双魚文は迫害以前のキリスト教のシンボル、(口は禹の父 魚+系)コンや孔子の子「鯉」(伯魚)(佐伯?)のように魚の付く名はキリスト系「魯」なども。空海の幼名?真(秦)魚・・
日本の国字は秦氏が関係したと考えます。魚+神=ハタハタ (雷に関係)  魚+雷=はたはた 雷イカズチの宮は秦氏の宮?

かわかつさん すんません またぐちゃぐちゃでんな ほな よろしゅうに。


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天照の意味が解り・・・・
2005年11月28日 16:44:20 いばらの紀氏

アーマ(毒素)テラピー(治療)  ルテウス(光り輝く)の合成では?
すべての宗教は、ヨ-ガを源流にしてます、例えば正音が同じであると言うことです。
ヨ-ガではオ-ムを正音として、仏教ではナ-ム・キリストはア-メン・イスラムはア-ミン
神道ではア-マ(天照大神)です。
仏教ではアウンと言うこともあります。参考のために
合掌

体内に蓄積されたアーマ(毒素)
http://www.sheport.co.jp/relax-station/dictionary/ayurveda.html

、「テラピー」とは「治療」を意味しますので
ルテウスは「黄金の、光り輝く」という意味

ラテン語は古代のギリシャから派生したローマ帝国時代の言語であり、単語の響きからも想像できるように各種ヨーロッパ系言語の基のひとつになっている言語だがラテン語自体は現在公用語としては死語となっている。しかし死語であるがゆえに単語や文法がコレ以上変わることが無いため(ただし、発見者や発見された地名が入ることはある)生物学や解剖学においての学名はラテン語つかうのが通例となっており、またカトリックの上級職の人達の間では今でも使用されることがあるらしい。そのあたりのイメージからか、神がかった言葉、あるいは個体の名称ではなくあくまで種類の分類のための名前にすぎないという意味でもアンノウンを呼ぶに相応しい言葉なのかもしれない。
http://www.interq.or.jp/dry/nuja/peten/unword.htm

 私たちのイメージする日本の古代人と古代エジプトや古代ギリシャ人の服装が似ている・・・・古代はどの国でも同じ?カナン?



なんだかこんにゃく問答になっている
2005年11月26日 23:56:03 かわかつ WEB
どうもレスって言う奴はあきませんな。タックン、今度またお会いして話まひょ。もっとじっくりとね。Magical掲示板で話すも良し。ここだとちょっとkんがらがるので。


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そうですね!
2005年12月3日 19:09:04 タックン
此処ではやっぱり想いがあまり伝わらないですね。
また合ってじっくり話しまひょ・・・



吉備
2005年11月26日 19:35:19 タックン
今私たちが吉備と呼んでいる地域は、岡山県の造山・作山古墳のある総社市周辺の事が代表的で、古墳時代発展期の時期には西は高梁川東岸の山手から、東は吉井側東岸の長船の地域までの岡山平野の幾つかの地域に、10基くらいの100mの大型前方後円墳が点在しています。
吉備の各地に、ほぼ同程度の勢力を持った部族が互いに岡山平野の各地に割拠して互いに均衡を保っていた、これの状態が約四世紀。
ところが五世紀くらいになってくると、これらの中の超有力な勢力が吉備政権を代表する大首長と言われる勢力を持ち出し始め、地位を内外に誇示するために造山などの巨大古墳を築造するに至ったということです。
吉備の政権は一枚岩ではなく、大首長の選出は吉備の各地の首長が輪番制で受け持っていたと考えられています。
吉備の棺の中で注目されるのは、陶棺と呼ばれている埴製の棺が多く出土している事です。
近畿からもこの棺は幾つか出土していますが、最も多く出土している地域は今の岡山県北部地域の美作の地方が多く出土しており、他の地域から飛びぬけて多い地域です。
ところが面白い記事があり、岡山市西大寺一宮の地は、白猪史の祖とされた一族の活動時期の拠点である。
この白猪屯倉というのがこの陶棺の被葬者?と今の研究では言われています。
陶棺と家型石棺を結びつける線を、今一生懸命捜していますがあまり関係がないかも?と言う感じもいたします。
家型石棺そのものが、こうもり塚などの大型前方後円墳の埋葬に使用されていること、中小の群集墳の中にもこれが採用されている事、然し同時代に先に言った陶棺を埋葬施設の中に使用していることを考えてみると、石棺に埋葬されている人物と陶棺に埋葬された人物の身分或いは職業の違いではなかったのではないであろうか?と思うのです。
陶棺に埋葬された人たちは、窯業に携わっていた一族と考えられるのです。


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古墳の重要なのは位置関係
2005年11月26日 23:09:32 いばらの紀氏
タックン今晩は、「石棺に埋葬されている人物と陶棺に埋葬された人物の身分或いは職業の違いではなかったのではないであろうか?と思うのです」と言うことは、古墳の埋葬者がこれまでの説 埋葬地域の有力者では無いとお考えでしょうか?
私は予てより
古墳の重要なのは位置関係で有って埋葬(蘇えり)施設は後々まで不動のポイントとして残すことが目的だったと考えていました。
多くの古墳には空のものや馬具だけの古墳も存在してたと考えております。
たしか聖徳太子が愛馬を古墳に・・・・・蘇えりの私設が古墳(ピラミッドも同様)だから。
如何でしょうか?ご感想をお聞かせください。
 そろそろ結論を・・・・・紀氏でした。


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陶棺への埋葬者は
2005年11月26日 23:52:23 かわかつ WEB
まず間違いなく窯業にたづ触る一族の族長でしょうね。しかし私が知りたいのはそんなことじゃないのです。


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陶棺
2005年11月27日 10:45:59 管理人
タックンさん貴重な情報ありがとうございました。さっき倉敷考古館で陶棺見てきました。なかなか面白いですね。阿智神社も渡来系漢氏の祖阿智使主を祭っており、やはりそこにある岩が気になります。これから四国へ行ってきます。



紀氏さん、えらいこっちゃ!
2005年11月26日 15:53:06 かわかつ WEB
ここの竹内さんのレスを読んで!!

http://6014.teacup.com/granvia/bbs


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えらいこっちゃ?
2005年11月26日 22:52:27 いばらの紀氏
 かわかつさん今晩は。「亀型石造の前だったらお茶を飲みます。」の事でしょうか?
 やはり 酒船遺跡は御接待の施設と言う私説を竹内さんが支持された?
希望的観測の紀氏でした。


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下までちゃんと読んだ?
2005年11月26日 23:49:18 かわかつ WEB
おんや?意外と冷静じゃないの〜ン?酒船石が29度の角度うんぬんまで読んだの?


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感謝のこころ
2005年11月27日 5:58:39 いばらの紀氏
「酒船石が29度の角度うんぬん」はやはり地球の歳差運動での「太一」北極星? もしくは、冬至と夏至の太陽の昇る角度?いずれにしても磁石の無い時代 東西南北に誤差が存在していた時期が有ったと言うことです。しかしお陰様で鳥居や寺社の位置が重要だったことは立証されました。
 かわかつさん竹内さん たいへん有難うございました、今後ともよろしく御教授願います。感謝のこころの紀氏でした。



吉備
2005年11月26日 15:46:03 かわかつ WEB
HP吉備アップしました。


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URL
2005年11月26日 15:59:15 かわかつ WEB
http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/kibi.html
大きな大きな謎の扉が開きます!!


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温羅を解く
2005年11月27日 23:38:16 いばらの紀氏
おだやか・たずねる・死骸を乗せる・高く積み上げる・水草・納める
佐原・ローマ帝国・かずら(葛)・見回りの兵士・箕・銅鑼・
雲南・貴州・四川地方の異民族 苗族の一種
 以上から
死骸を納め高く積み上げる・・・関連
水草 葛 (水の見回り・・・関連)
苗族の一種
・・・・・葛城氏では?



そして吉備津彦神社
2005年11月26日 13:50:03 かわかつ WEB
夏至の日の出は吉備津彦神社の鳥居を抜けて神殿へ、そして背後の御神体山へ、この神社の鳥居は東北に向いている。そのハルカ先にはツヌガアラシトを祭る敦賀の気比神宮がありますよ。 画像掲示板へ位置図を載せておきます。


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吉備津彦神社の
2005年11月26日 14:01:09 かわかつ WEB
文書には吉備津彦神社祭神は別名「気比太大神」とあります!ツヌガアラシトですよ。



紀氏さまへ
2005年11月26日 13:45:28 かわかつ WEB
       北(磁石の北から東方向に14度偏向)
       |
             \−○
            29度\
西←====○========○→東
            29度/
             /−○
酒船石の二つの溝の角度です。石自体は現在、東に14度、なにかの原因で動いているようです。


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もうひとつ
2005年11月26日 13:58:00 かわかつ WEB
これは管理人さんへ
ひめこそ神社に関する姫島などは、国東の姫島、佐賀県、福岡県、吉備の秦原村、大阪東成区にあります。では同じ海人族と秦氏に関係する装飾古墳のある群馬にもあるはず。そしてそれを繋ぐラインにはなにかの意味があるはずです。
どうです、ヒマなときに群馬で調査しませんか?


水中の石棺 ありました。
2005年11月25日 0:10:47 いばらの紀氏

オシリスの墓が発見されたのはおよそ50年前、長い間ほとんど手つかずの状態だったが近年始まった本格的調査によ ... オシリスの墓は 最終地点が地下40メートル3層目の部屋には満々と水が湛えられていた!水中に沈む石棺 ... だったもので拝見させていただきました。 水中に沈む石棺とは、なんとも神秘的です! ...
http://www.yamaguchi.net/archives/001009.html
いっしょにオシリスの墓の内部に入りまひょ。
http://www13.plala.or.jp/rameses2/2005osiris.htm
周囲200mの岩の中央部に東西南北十字の水路を設け、その中心に石棺が納めらたという。水路は、海側の東水路から西側の水路へと、いつでも清い水が流れ抜けるようになっており、中心に設けられた広い空間の真ん中に大石を設置、遺骨はこの石の下に安置されたとされる。中の構造を覗くことは出来ないが、仏教を国の宗教としていただけに、釈迦の舎利※を安置した塔の形式を用いたと見られている。
http://www.khrs.org/kj03.html

船形石造物は、海水の満ち干にあわせて、石棺内部の地下水が上下する・・・・・・紀になります。


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吉備の
2005年11月25日 2:16:49 管理人
岩船石棺ですね、その地下水?の満ち引き、そんな遠い文化にもしかするとヒントがあるんですね。すごいかも!


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メイソン?
2005年11月25日 6:12:52 いばらの紀氏

ピラミッドの石棺と古墳の石棺 類似してるのも在りますヨネ!
再生目的は同じ・・・エジプトの石工が渡来?

文武大王陵は三角測量での選ばれしポイントでは?の妄想・・・・・


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日の京
2005年11月25日 22:00:26 いばらの紀氏
消えたイスラエル十部族
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0031.html
 古代エジプトと日本の冥土感が同じようです、景教の景は「日の京」です「ラー信仰」はメイソンが持ち込んだのでは・・・・・?


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バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る
2005年11月26日 5:49:19 いばらの紀氏
1969(昭和44)年6月12日読売新聞に、天竜川中流域の静岡県水窪町で、

紀元前600年頃と推定される、文字が刻まれた石(水窪石)が発見されたと報じ

られた。解読の結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれていること

がわかった。

http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/0-55.htm


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魔王 バール神
2005年11月26日 5:59:07 いばらの紀氏
魔王
カナーンの主神。雨と豊饒の神でしばしば太陽神とも見なされる。ただし後にキリスト教文化下で悪魔化して邪神とみなされた。
http://www.se-inst.com/lib/dds98ded48.htm


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バール神はY.H.V.H.によって悪魔バエル
2005年11月26日 6:01:53 いばらの紀氏
 バール神そのものはバビロニアの暴風神エンリルがその原形と目されるが、豊穣神タンムーズの性格も色濃く受け継いでいる。ユダヤの唯一神Y.H.V.H.もバールの影響をかなり強く受けており、元々はバール神群の一柱とする説もある。ユダヤの伝説的英雄ニムロッドの原形もバール神と推察される。ギリシャに伝わってオリオン、アドニス、ヘラクレス等の半神の原形となった他、前述の様に中世期には多くの悪魔の原形となった。女神転生においてはバール神はY.H.V.H.によって悪魔バエルとベルゼブブに引き裂かれたとの独自の解釈をしている。


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バール神は禹では・・・・
2005年11月26日 6:06:10 いばらの紀氏
前200年頃『士師記』第2章(日本聖書協会訳『聖書』より)
 イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖達の神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまづいて、主の怒りをひきおこした。
 紀元前1300年頃、エジプトが弱体化し、その属領カナンがの統治が弱まると、イスラエル人たちはカナンへ「侵攻」を始めた。そのカナン人たちが崇敬していたのが、バールである。民族が接触すると、その文化的影響を受けることになり、イスラエル人の中にも、バールとアシタロテを崇敬するものが出てくる。そんなバールとアシタロテを崇敬したイスラエル人に、激しくヤハウェが怒ったというのが、この記事。


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皆様の御意見をお寄せください。
2005年11月26日 6:16:26 いばらの紀氏

メソポタミアの多くの神々のひとりだったバール神(天候を司る)が大地の乾燥化とともに最高 ... (尭舜禹は、尭:BC2500頃、舜:BC2200頃、禹:BC2000頃の有力者を代表させたもの .
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kk07.html


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ダビデの子孫
2005年11月26日 6:28:37 いばらの紀氏
摩多羅神はどこから来たのか? 〜〜

http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/7_J.html



奈良の家型石棺
2005年11月24日 21:54:42 かわかつ WEB
これは時代によって変わっているのでしょうか?
天武系は家型、天智系は別なんていう大別は無理なのかな。タックンどうでしょう?


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吉備の古墳
2005年11月24日 21:57:15 かわかつ WEB
丹塗りと家型石棺、直弧紋遺物・・・そして秦原村とひめこそ神社・・・これはもう北部九州じゃないの?!
当画像が送れる掲示板に石棺などアップしています。ちょっと覗いてやって下され。


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家型石棺
2005年11月25日 21:34:11 タックン
この石棺の形式が出現するのは、古墳時代中期頃から出てきますが、本格的に埋葬施設に採用されだすのは古墳時代後期になってからです。
特に後期の古墳は、横穴式石室が大陸から伝わってきますので、中小の古墳にも横穴式石室が採用されて、それまで特定の身分しか古墳を築けませんでしたが、家父長制家族の確率と共に財力のある身分でも古墳を築造できる世になってきました。
家型石棺を石室内に置く古墳は全国各地に分布しており、畿内の古墳にと言う特別な事ではありません。
初期の家型石棺は、石棺の上部に左右についている縄掛突起と呼ばれるものがあまり顕著ではなく、前後に突起が付いているか左右についていても飾り程度の簡略化した程度でしたが、時代が下がってきてこの石棺の盛行期になってくると、この縄掛突起が石舞台の隅に復元されていた石棺のように、左右の突起が顕著になってきます。
ところが時代がもっと下がって古墳時代終末期頃になってくると、この縄掛突起そのものが簡略化されてきて、最後には全く無くなってついには家型の天井の形だけになってしまいます。
古墳時代終末期になると、この石棺から派生した形、所謂横口式石槨という形態が出現し、鬼の俎・雪隠の古墳のように、古墳そのものが家型石棺を模倣した形になり、様々な形態を持った特色ある古墳が築造されだします。
一方では、くり抜きの鬼の俎・雪隠のような横口式石槨、また高松塚・キトラ古墳の様な切石を組み合わせた横口式石槨、または河内にある有名なお亀石古墳のような、家型石棺の前に直接羨道状の施設を設けて、石棺そのものを石室代わりに利用した古墳もあります。
このように古墳時代終末期の頃になってくると、古墳此処の系譜に様々なバリエーションが派生してきて、一括りではなかなか説明が難しい問題です。
かわかつさまの言われている、天智・天武の時代は最早この古墳時代終末期にあたり、この説明の中の横口式石槨の時代に当たるのです。
天智の棺は、乾漆棺と呼ばれている棺で考古学では、キョウチョ棺(漢字が出ない)と言う、漆を何枚も塗り固めた特殊な棺で埋葬されています。
ということで、終末期の古墳にはこの天皇陵急の墓には、最早石棺はあまり採用されずこのような棺、もっと特殊なものは漆塗籠棺などというものがあります。
結論として、天智・天武と言う特別な使い分けはないと思いますが・・・・
多分、天智の棺もこのキョウチョ棺やろうと思っています。


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天武の棺が、キョウチョ棺
2005年11月25日 21:47:16 タックン
間違えてました、天武の棺がキョウチョ棺でした。
この古墳野口王墓は、鎌倉時代に盗掘されていてこの記録が、明治時代に京都のお寺で発見されています。
「阿不幾乃山陵記」と言う文書に事細かにこの盗掘の仔細が書かれていて、今ではこの古墳の年代がある程度判り、この古墳が天武・持統天皇の合葬陵として確実視されています。


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では吉備の古墳は
2005年11月26日 15:05:46 かわかつ WEB
中期でいいですか?私は大和はもういい。大和は終末期以外の古墳はないの?この分だと箸墓も終末期にあるかも?でも黒塚は割竹型ですね。あれは何期?
私は今、特に吉備が知りたいのです。



とみたさん感謝です
2005年11月24日 17:50:59 かわかつ WEB
大いに役立てます!今後ともよろしくお願いいたします!!


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わあ姫さんも
2005年11月24日 17:54:53 かわかつ WEB
画像掲示板の貴重な画像!おかりしますです。m==m


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お互い様
2005年11月24日 21:01:12 とみた
お互い様です。これでディジカメの写真が生きて、皆様に届きま

す。

この掲示板を、他では真似のできない良いものにして行きましょう。




旧霞ヶ浦町遺跡情報
2005年11月24日 8:14:56 いばらの紀氏
タックン、こんにちは。
 先日 関東の遺跡情報が少ないとの疑問に参考になればと以前古墳ラインを調べた「旧霞ヶ浦町」(旧 出島村・・・・でーじま  台島?)のデータをお知らせします。
    旧 出島村は霞ヶ浦(古代は海)の北、霞ヶ浦に突き出ている 筑波山を背にしている。石岡・玉里    土浦にはさまれ美JRA浦トレセンもの対岸に・・・・香取・伊能忠敬記念館の在る佐原の「台」が南の対岸に・・・・・・
縄文早期
   1)撚糸文系                  7遺跡
   2)沈線文系                  30遺跡
   3)貝殻条痕文系               15遺跡

縄文前期
   1)花積下層式期          住宅後  7軒
   2)関山式・黒浜式期              108遺跡
   3)浮島式・興津式・諸磯式期          73遺跡
 
縄文中期  
   1)五領が台式・下小野式期         4遺跡
   2)阿玉台式・勝坂式期            61遺跡
   3)加曾利E式・曾利式期          121遺跡

縄文後期
   1)安行3式・前浦式・千縄式・荒海式    16遺跡

弥生時代     総数  133遺跡
   1)弥生時代後期                79遺跡

古墳時代    221遺跡
   古墳(横穴を含む)   312基
前方後円墳(帆立貝形古墳を含む)          31基
前方後方墳                         2基
方墳                             10基
円墳(不明を含む)                    250基
横穴                             19基
   包蔵地   130遺跡

古墳(横穴を含む)   312基は一町村にしては多いのでは?と感じ
古墳による測量の訓練所だ在ったのではと妄想した次第です。


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北関東は遺跡の宝庫
2005年11月24日 20:32:43 タックン
紀氏さんご教示ありがとうございます。
茨城県内でもこの霞ヶ浦周辺は、かなりの遺跡が集中している地域の一つで、私も注目しております。
特に縄文の遺跡が多く、関東圏内でも研究が古くから進んでおり、有名な遺跡も多く著名な研究者が訪れて書かれています。
特に古墳も茨城県内では、この海岸部にあたる霞ヶ浦周辺に特に多く分布していて、内陸部にある古墳よりも数が多い?傾向があるようで、関東の他の県とは様相が少し違うようです。
同じ太平洋に面している千葉県などと比べると、大型の古墳の分布は茨城県とは反対の東京湾側に多く存在しています。
最も千葉県の場合は、半島と言う地形的なこともあり条件がだいぶん違いますが・・・・・
私が注目しているのは、この霞ヶ浦周辺に茨城県内で最古の古墳がこの地域から出現していると言う事で、しかもこの地域の前期の古墳は前方後方墳が主流である事、と言うことはこの地域の弥生時代後期の政治的な内容と、4世紀頃にすでに成立していた大和政権と野関係が重視されてくるのです。
関東各地に古墳の発生した時期には、前方後方墳が先に現れてくる地域が多い、弥生からの墓制である方形周壕墓や、前方後方形の周壕墓等の発掘例が最近各地で確認されてきています。
これらの発展してきた墓制が、前方後方墳が関東各地で築造されだしてきたが、中央政権が覇権をし始めるとそれまでの在地の首長たちは、中央政権から認められた一族には前方後円墳の築造を許していったのではないか?ある時期までは前方後方・前方後円墳が並行して築造していた時期があったが、次第に大和政権の覇権が確立していくと、次第に前方後方墳の築造が消えていったと言う事です。



わっちゃ〜
2005年11月23日 10:53:31 かわかつ WEB
17〜20までのSDカードのデータが消滅!
吉備津の釜の後でSDが満杯になり、交換。そのカードをとりあえず財布に入れて吉備路を詳細散策。民宿も最高で、翌日も稲荷タクシーの歴史愛好家・古森氏の案内で完全制覇。姫こそ神社に出逢い、海人族と秦氏の遺跡もあった。温羅伝説と桃太郎、四道将軍の関係も解明。そのまま岡山から帰宅。ところがSDカードの入った財布をず〜とお尻のポケットに入れていたためデータがぽしゃっ!!ぐあっ・・・


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カメラ
2005年11月23日 14:34:59 管理人
いろいろあるものですね、今回もカメラに泣かされてしまいそうですが、いろいろ写真おすそ分けいたします。みなさんもいろいろ写真交換いたしましょう。姫さんの現地写真も楽しみにしています。


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ありがとう
2005年11月23日 18:35:44 かわかつ WEB
まったくドジな話です。
初日にあなたと行った石上神宮、大神神社、大倭神社の大三輪鳥居、翌日の紀氏さんと3人で行った星田妙見宮、磐船神社、また清明神社、さらに飛鳥の各遺跡・・・あまりに多すぎて申し訳なく。特に二上山の遠景や亀型構造物が・・・もう一度行きますわ。そのうち・・・


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それにしても・・・
2005年11月24日 2:10:15 かわかつ WEB
石上の正面に祭られた出雲武雄の神はここが出雲神をも祭る社であることを証明します。
あなたと行った石上には布津の御魂が剣の神霊として祭られていますが、これは出雲國譲りで中臣の神、たけみかずちとともに最後に交渉に行った神です。中臣と物部がともに最後に出雲を手に入れることになっています。史学に詳しい管理人さんならおわかりでしょうが、日本書紀には多くの史実が記載されている。しかし多くの組み合わせによるカッバーラも組み込まれています。

いそのかみ 布留の社の太刀もがと 願うその子にそのたてまつる

という「年中行事秘抄」にある鎮魂祭歌と、

ひふみよいつむななやここのたり、ふるべゆらゆらとふるべ

と唱えながら振るニギハヤヒの十種の神寳・・・ひれ振り、御魂振りの秘儀はいずれも物部が最も古い奈良の祭祀者であったことを物語ってもいます。
また星田妙見宮の北辰信仰は、彼等が道教と海人の星信仰を共有し統一していたことを知らしめます。それが修験道をも産みだし、やがて後着の秦氏によって吸収されてゆく過程がそのまま現れていましたね。
香取がここを模して造られた古き倭人の御魂押さえの社であろうかと思えました。


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それに
2005年11月24日 2:11:22 かわかつ WEB
残念ながら東国はあまりに新しく、渡来は東国にない。
渡来者の後裔たちが東国に残した遺物は、あまりに新しい。やはり渡来の歴史は西日本のものでした。また海人の渡航も東国は遅れています。
なおかつ飛鳥の古墳もまた九州北部に比べ、終末期古墳ばかり。まったく古さを感じない。やはり文化は西から東へ行き、近畿で洗練されたと見るのが正しい。
吉備にも秦野村がありましたが、神奈川の秦野にそっくりの痩せた場所で、治水の痕跡がありました。
百済から来た鬼である温羅が、吉備津彦以前にいること自体、あの伝承は疑問です。百済から来たのならそれは渡来人であるはず。ならば海賊や盗賊になって山にこもるのはおかしい。それは海人の仕業であるはず。
どうみても中期の装飾古墳と直弧紋のある家型石棺を持つこれらの古墳が、百済や新羅とは関係なく、九州同族の海人族のものであるとしか考えられません。それが造山、作山などの大型前方後円墳の周辺に点在するのは、彼等が朝廷に滅ぼされた史実があった。それが温羅伝説に・・・
「うら」には浦の嶋の子の「うら」と同じ海人の匂いがしましたね。朝廷の四道将軍が、なぜ朝廷同族の百済人を攻めるでしょうか。
天智天皇の白村江の敗北による百済からの攻撃懸念が朝鮮式山城を造らせたというのは合っているのでしょうか?


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吉備津彦
2005年11月24日 2:25:29 かわかつ WEB
四道将軍は崇神天皇の時代であるのだから、吉備津彦がやってきて、百済から来た鬼を退治するというのは時代が合いません。
白村江の敗北で百済が日本に追いかけてくるかもという緊迫感が朝鮮式山城を瀬戸内や九州に造らせていったというのは、これはもう天智天皇の時代です。鬼の城の造りはどうみても九州にも多い神護石などと同じ時代のものです。あれは熊本の久狛智城などと同じ山城です。つまり天智天皇時代のものに間違いない。
ならば温羅が百済の鬼というのは一見整合性があるように見えます。ところがそれを倒すのが吉備津彦ではおかしいわけです。
思いませんか?


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その前にも
2005年11月24日 11:58:04 かわかつ WEB
6世紀の神護石がありますが、これも百済様式の版築山城です。唐の時代に主に九州の女山などに築かれたもので、綺麗に築いた神護石列石の上に山城が建てられています。
どうしても百済が関わってきますが、人によっては高地性集落からの繋がりで、先住民が築き上げたものもあるらしいと、金達寿は書いてます。
おそらくこれが正しいのではないかと思えます。
どうやら温羅の正体は海賊のおかあがりかと思えます。


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姫さんが
2005年11月24日 12:06:42 かわかつ WEB
ここの画像掲示板へこのあいだの蘇我氏の居館跡の写真をアップしてくれています。姫さんこれ借りてもいいですか?
酒船石遺跡の亀型石造物遺構の画像は闇の日本史の竹内さんが貸してくれました。
管理人さん、申し訳ないのですが、やはり石上、磐船、機物、星田妙見、大神神社、大和神社あたりの写真、うちの画像掲示板へ少しおわけ願えませんか。
その他、京都の清明神社、下鴨神社の画像、とみたさんか紀氏さんおもちじゃないでしょうか?
ご協力願います。HPには協力者の紹介もいたしますので。m(__)m


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とりあえず
2005年11月25日 2:14:56 管理人
先ほど写真お送りしました。どうぞご自由もお使いください。写真は思い出があっていいですね。



みなさんありがとうございました
2005年11月22日 21:18:44 タックン
管理人様はじめ、かわかつさん紀氏さんtomitaさん姫さん、皆さんありがとうございました。
皆さんの知識が豊富な事で、改めて自分自身の不勉強さがわかってきました。
これからまた勉強して次のオフ会で、皆さんにまともな説明をいたしたいと思っております。
管理人さん、金曜日の夜しか合えませんでしたが、今度のオフ会では御一緒に意見を交換して話し合いたいと思っております。
かわかつさんの言っておられた、諏訪地方に今度のオフ会行きたいです。(吉備でも良いですが)

姫さんとは、友史会で御一緒する事があるので、その節は宜しく御願いいたします。
かわかつさん、tomitaさんには、これから古代史の事をみっちりとお教えくださいね!
ところで飛鳥の最後に行った、雷丘の発掘で雄略の伝説を裏付けるかのように、5世紀頃の円筒埴輪が多数出土したと、昨日に奈文研が発表していました。
此処に古墳があったことは確実で、雄略の伝説は強ち否定できないかも?雷神はともかくとして葬地が後の時代に変化して、雷神の伝説が付加されていったのではないか?あくまでも私の推測ですが・・・
雷丘のある場所は、飛鳥の中心部からは少し離れているので、丘の伝承と共に古墳が保存されていたのではないか?とも考えています。
でも見たところ、古墳と言う痕跡はあまり感じなかったですが・・・


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タックンさん もっと前へ
2005年11月23日 8:25:16 とみた
今回のオフ会、皆さんと合流して対面。Face to Faceはやはり大切ですね。

直感と分析のバランス、これも大切だと思いました。

私はグローバル視点からの分析屋、紀氏さんは直観力、かわかつさんは、ハイテンションの霊感力と文章力、
、管理人は冷静な分析力、タックンはフィールドワークの本格派で、真実を地道に追究されている。


姫さんは奈良の古代史探訪と知識に秀でて居られる。

皆さんは沢山の情報を持って居られることはありがたいことです。私は暇ですから勉強の密度は濃い筈です。まだ発展途上人です。

失礼な個人的な評価ですみません。申し上げたいのは

それぞれの特性を生かし直観力と分析力の相乗効果で渡来人研究会を立派なものに持っていけないかなと期待を持ったということで

す。私はもっとオフ会を開いて研鑽を積みたい。現場研修と研究にウエートを高めてほしい。酒の飲むのは当然好きだけれど、深酒は節度を持っていただきたい。

でも、10人程度がいいのでしょうか。オフ会の意義はやはり大きい。
特にタックンさんの潜在力と真摯な姿勢に感銘しました。プレゼンスをもっと出していただきたいですね。


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才能
2005年11月23日 14:33:09 管理人
タックンさんの大胆な新説、才能とても楽しみです。そしてとみたさんの中国古代史論、シルクロード体験談から、新説まで短い時間ですがいろいろお聞かせいただきありがとうございました。ご指摘のとおりどこか光る才能をみなさんがお持ちであって、私も含めて、その才能を生かすにはどうしたらよいか?、とみたさんのその辺に関する豊富な社会経験など、いろいろご教授いただきたいです。よろしくお願いします。


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雄略天皇古墳
2005年11月23日 23:38:34 姫 MAIL
タックンさん、 雷丘が雄略天皇の墓だったってこと、お知らせいただいて、ありがとうございました。 私は新聞を読まないので!!全く気がつきませんでした。 タックンさんの書き込みを見て、慌てて新聞の山をかき分けて探しましたが、その記事はどうしてもみつかりませんでした。 けれども、あの発掘の現場からは、とても大発見があったとは思えませんでしたねぇ。

その内、また新聞にでも詳しい情報が発表されることを期待しています。

ところで、吉備姫王墓で、猿石を見ましたが、石のあった場所は、欽明天皇の古墳の濠の堤辺りだったと、教えてくださったでしょう?  その時、苑地の端がこの辺りまであったのではないかと言うことでした。
この苑池というのは、有史会で行った磐余池が想定できるのでしょうか。 磐余池は、欽明天皇陵より、大分遠かったように思いますけど。  あの磐余池ではなく、このような施設は、いくつもあったことが考えられるのかもしれませんね。

初歩的なことをお尋ねして、すみません。



今帰り着きました。
2005年11月22日 21:09:40 かわかつ WEB
今回はいろんなことに出逢い、いろんなことに感謝です。詳細はまた明日・・・紀氏さんわざわざお電話ありがとうございました。年齢の近いあなたには思いのままを言ってしまいますが、それは親近感の裏腹です。悪趣味をお許しください。タックンありがとね。
姫さんお疲れでしょう。とみたさん、独自の手法心待ちです。
管理人さん、古森さん紹介ありがとう。おかげでここがもっと充実しそうです。彼はもう渡来人研究会を開けて見ておられました!


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出会い
2005年11月23日 14:28:51 管理人
そうでしたか、やはりかわかつさんにとっても、わたしにとってもこもりさんとの出会いは別々な古代史視点で、どこかとてつもなく重要なこことであったような気がします。こもりさんありがとうございました。今後ともよろしくおねがいします。



オフ会ありがとうございました
2005年11月22日 20:39:09 管理人
みなさん、今回のオフ会いろいろ本当にありがとうございました。
紀氏さん、タックンさんとの出会い、かわかつさん、とみたさんとの
再開、姫さんのご参加、本当に感動の連続です。今回こられなか
ったみなさんにもぜひ次回はお会いしたく感じます。

今回の旅は、17日、かわかつさんと石上神宮、三輪神宮、黒塚
古墳探索にはじまり、夜紀氏さんと合流、18日は磐船神社から、
伏見稲荷まで、神社の家系の歴史に詳しいタクシーの方の案内と
の出会いという幸運もあり、夜はとみたさん、タックンさんと合流、楽しい飲み会を過ごしましたね。かわかつさんの元地元ならではのいろいろ詳しいご案内、本当に助かりました。
その後19日は私は広島へ向かいました。広島では、ちょうど胡子神社のお祭りの真っ最中で、仕事を終えてからお祭りに参加しました。
20日はそのまま岡山吉備津に向かい、そこで古代渡来人研究
をしておられるタクシー運転手さんと出会い、3時間隅々鬼の城
までご案内いただきました。そしてみなさんは、京都・飛鳥方面で
すばらしいお時間をすごされていたようで、ほんとうに神の恵み
でいっぱいであったと確信できるたびでした。
そして、紀氏さんの奈良盆地の測量地図にも驚きでしたし、たっくんさんの詳細な考古知識と、だいたんな新説の展開も大きな期待を
感じます。
とても実り深い旅で感謝感激でして、この成果をぜひ生かしていきたいと感じている次第です。今回は本当にみなさんありがとうございました。

管理人



オフ会
2005年11月22日 17:02:29 姫 MAIL
とみたさん、かわかつさん、紀氏さん、たっくんさん、

オフ会のお仲間に入れていただいて、ありがとうございました。 大変楽しい一日を過ごさせていただきました。
最後に方向音痴ぶりを発揮し、皆さんにご迷惑をおかけしてしまいました。 どうも失礼しました。

とみたさん、お誘いいただきまして、ありがとうございました。
それにしてもたっくんさんの博識ぶりにはすっかり驚いてしまいました。 お蔭で明日香がよりよくわかりました。ありがとうございました。
これからも現地探索、交通関係など、よろしくご指導くださいますよう、お願いします。   

雷丘のてっぺんは、目下発掘調査中でしたが、掘った部分に白い砂が一面に撒かれていました。
私が思うに、埋め戻す段階であの砂を撒いておけば、次回掘り返したとき、ここまでは調査済みであることが
はっきりします。
そのための白砂ではないかと言うのが、私の迷推理です!
 
写真掲示板に甘樫丘の現地説明会の時の写真を掲載させていただきますので、ごらんください。



酒船石はパレットだった 施設 私説
2005年11月22日 1:12:19 いばらの紀氏
、小判型の石造物は♂を亀型の石造物は♀を。

[657年に都貨羅トカラ人 これを饗応したという記事がある。 
http://inoues.net/shoki/kojiki_shoki7.html

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tetsuzan/web/sakafune.htm

酒船石遺跡
http://www2.begin.or.jp/sakura/asuka6.htm

島崎由貴子のViewpoint. 7/2002
http://www.nifty.com/conpas-lib/pdf_2/cadcenter_2.pdf#search='酒船石遺%20斉明天皇'

オフ会での収穫・・・・タックン・姫さん大変お世話になりました、管理人さん・かたばみさん・とみたさん   迷える紀氏 無事 帰れました 皆さん有難うございました 次のオフ会にまたお会いできる事を楽しみにしております。


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「が」訂正「は」です
2005年11月22日 1:56:28 いばらの紀氏

酒船石遺跡は水を使った(都貨羅トカラ人などをもてなした)施設で酒船石で色を調合し、砂岩流水施設の砂岩は赤の色を磨ぎだした。(施設内を赤にする事は母の胎内を 精子を現わす白水には不老不死の霊薬とされた水銀粒を混ぜた水か乳(醍醐)(丹生ニュウでの変換)などを流したと考えます。
石棚に水を流しマイナスイオンを発生させ、色付きの水を変化させた 石造物の小判形(船形・後住渡来人・神武系)(後の源氏)が♂(陽)で亀形(月形・先住渡来人・出雲系)(後の平家)で♀(陰)との倭国の成立(合体)を現わしている。
斉明の造った施設と 同様の施設を秦の始皇帝が造っていた。


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消えてしまっていました。デス
2005年11月22日 1:59:09 いばらの紀氏
「が」訂正「は」です ・・・・は間違いです。


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船!亀!
2005年11月22日 3:31:24 いばらの紀氏

日本に盥タライの舟が在るように古代中国には甕の舟が存在した。
カチカチ山の話の泥の舟で有り浦島太郎の亀なのです。(カチ=夏カの地デハ?)
古代人の多くが舟形の埋葬をしたり舟があの世・異界への乗り物だったりします。
甕棺・棺桶=舟なのです。茨城県の大洗に伝わる話にUFO形の舟に美女が乗って流れ着いたと有りました。
うさぎ(兎鷺・禹先?)(鷺=路+鳥=カラス・測量士)と亀で先に辿り着いたのは亀(夏女カアメ)

大洗磯前神社 (おおあらいいそさきじんじゃ)
http://www.oyashiro.or.jp/link/0016.html

もともと「鹿島」の名も「甕島(みかしま)」だったとか。
http://www.g-k.gr.jp/~rei/Doodad/trip/memory/2%20kashima_kou%201.htm
高橋克彦先生の『竜の柩』祥伝社刊をお読みください。

鹿島神宮、香取神宮と大洗磯前神社、酒列磯前神社はそれぞれ2つの神社がペアを形成しているのと、いずれも神が海もしくは内海から来ているというのが特徴で、特に大洗磯前神社は江戸時代にUFOではないかというようなものが海から来ているという言い伝えもあり熊野の常世思想とはまた違った常世観があるみたいですね。
http://diviner.cocolog-nifty.com/holy/2005/03/post_1.html


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紀氏の呟き
2005年11月22日 17:32:04 いばらの紀氏
[土地の人々が言うのには、「雀が海中に入って魚になったものだから雀魚(すずみお)という名だ」ということです。]・・・・!
雀=鳥(初期のバチカン?)=黒衣の僧(カラース)=ヤウェー系の測量・伝道士
双魚=禹系(海蛇)+ヤウェー系(山の神・山岳の山羊)=測量・伝道士
海中に入って魚になった=パプテスマ=エホバの証人(商人)類・・・・・
鳥=天使類(僧)パプテスマ=エホバの証人(商人・石工)類=烏・・・・ヤタガラス
 
雷神=サンダー =後期バチカン類(ヤウェーの神官+ユダ)・・・・・モンゴル騎馬民族+北方の民(北方のユダヤ教徒)?

風神=水神(鯉が滝を登り龍と成る)=魚(海洋民・農民)が長江・黄河を上り(西域で)ドラゴンと成る。(蛇・魚・麒麟・ドラゴン)

とみたさん かわかつさん 管理人さん・・・・・救いの手(天使の羽)を・・・・(人の移動はかわかつさんの世界です・・・)


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磐船
2005年11月23日 14:26:19 管理人
酒船石不思議ですね。なにかを混ぜたのでしょうか。大洗磯前神社、酒列磯前神社はまだ行っていないのですが、海、特に内海から来る存在については、鬼の城から下流・内海方面について眺めながら、いろいろ運転手さんからお教え受けていたことを思い出します。内海の存在の重要性が伝承化するまでのプロセスが知りたいところです。磐船関連、たくさん吉備にもありました。岩船石棺というのが吉備津神社の裏山にあるんですが、この船形石造物は、海水の満ち干にあわせて、石棺内部の地下水が上下するそうで、どこか紀氏さんご指摘の酒船石と似てません??


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地下水が上下?
2005年11月24日 23:10:05 いばらの紀氏
「石棺内部の地下水が上下するそうで・・・・」
 石棺内部ですか?
たしか記憶ではエジプトのピラミッド?に水の中に石棺が置かれていた様な・・・・・調べてみます。


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断念 です。
2005年11月24日 23:46:33 いばらの紀氏
見つかりませんでしたので、赤い石へのこだわり 拾いました。

●大王のひつぎ実験航海プロジェクト終了&選挙
書きそびれていましたが、終わりましたねえ。
以前紹介したプロジェクトです。⇒7月30日の日記
一昨日、今城塚古墳にピンク石で出来た石棺が無事到着しますた。
漕ぎ手の皆さんお疲れ様ですだ。相当辛かったみたいっすね。
今城塚では、公募で集まった1500人が縄を引っ張ったんだそうですが
それでも動かなくて飛び入りで100人が参加して引っ張ったそうです。
九州から大阪まで、重い石を運搬することは一応可能ってことなのかな。
漕ぎ手や石棺運搬など大勢の人を動かせる強大な力があったんですかねぇ。
現在はテレビや電話とかがあって人を集められるけど、古代はそんなもん
ないんですからね。その中で大阪から遠く離れた九州の人間にまで
影響を及ぼすことが出来るというのは相当ですよね。
今回の実験航海に関する検証はこれからのようです。

 酒船遺跡も赤い水を流したのでは?



オフ会での収穫。
2005年11月22日 0:07:31 いばらの紀氏
暗号「山上憶良」目次 
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm

益田の岩船と三輪山の頂上を地図の上で直線に結ぶと、その線上に大和三山の一つ、
香久山がピタリとくる。つまり、三輪山も香久山も自然の地形だから、実際には、この二つを
結んだ線の延長に益田の岩船を作って置いたといいかえた方がいいだろう。

そして、この岩船を通る東西軸から30度の角度でもって西北へ直線を引くと、その線は
大和盆地の西のはしにそびえる二上山の雌岳の頂上にピタリとくるのである。

http://www.geocities.jp/yasuko8787/d-yoroku-1.htm

http://www.geocities.jp/yasuko8787/d-yoroku-2.htm

http://www.geocities.jp/yasuko8787/d-yoroku-3.htm


古代の測量に関連するページ
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0kodainosokuryou.htm

上賀茂神社の立砂
祭りで知られる京都の上賀茂神社の境内には、「立砂(たてすな)」(下の写真)と呼ばれる、陰(向かって右)陽(向かって左)一対の円錐形の盛り砂があります。
とんでもないことを言うようですが、これは、平安時代に、すでに一部の日本人が測量によって地球の大きさを正確に捉えていたことを確認できる貴重な手がかりになっているのです。

そのことを理解するためには、まず役小角に注目しなければなりません。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0tikyu-1.htm

上賀茂神社と古代史の暗号
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0tikyu-2.htm


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収穫の多い旅
2005年11月22日 9:39:47 とみた
紀氏さん 早速の情報をありがとう。
オフ会の旅の道中の失礼の段許してくだされ。高松塚古墳からバスで40分、橿原神宮駅へそして橿原考古学研究所へ、面白い記事をコピーできました。

トカラ人と饗宴、トカラ人はアーリア人、スキタイ人、サカ人とつながっている。

これがシルクロードのたびのあとの私の感想。今回の大和路の旅で、管理人さん説、斉明女帝時代に酒船石での饗宴にトカラ人が招かれた・・・これを追って見ます。北関東古墳群を見て大和路への旅、おかげで随分ネタが集まりました。食いついたら離れない。

頑張ってください。

それにしても大和路の旅館の庭で見た満天の星空、すばらしかった。明日香の冬の星座は美しいはずです。またいつか出かけます。

管理人さん、紀氏さん、かわかつさん、タックン、姫さん本当にお世話になりました。

タックン(クン=君=さん にて敬称略)本当に勉強されてますね。続々教えてください。教えることは学ぶこと・・・なんて都合の良いことを言っちゃってね、ハハハ。


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みなさんありがとうございました
2005年11月22日 12:26:39 管理人
みなさん、オフ会ありがとうございました。本当に楽しく、貴重な時間を共有できましたこと、ほんとに感謝です。
はじめてお会いした紀氏さんやタックンさんとの楽しい時間も交流の輪が一段と深まった感じがして今後が楽しみです。今回はお会いできなかった姫さんもみなさんと実り深い時間をすごされたようですね。今回お会いできなかったみなさんともぜひまた次回お会いできることを楽しみにしています。
あまりにいろんな出来事がありすぎて一言では言い切れないので、後日またオフ会の報告をさせていただきます。あの後は広島で仕事をしてから吉備に行き、古代史研究家のタクシー運転手Kさんにも大変お世話になりました。今後ともよろしくお願いします。ずっと恵みの連続でした。いろいろありがとうございました。



管理人さんお願いです。。。
2005年11月18日 17:09:23 霜門 輝
僕は今度の学習発表会で渡来人役をするのですが、渡来人はどんな人だったんですか?
そして、どんな服装ですか?


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渡来人の服装
2005年11月21日 4:36:13 管理人
霜門さん、はじめまして。しばらく仕事と研究会オフ会等で自宅を離れておりお返事おくれました。渡来人の服装についてですが、まずどの時代の渡来人、そして渡来人にも中国や朝鮮三国、さらには西域諸国などからもわたっているので、どの時代のどこの国の渡来人をテーマにするかをまず決めてみてくださいね。そしておそらくはその時代の出身国の服装をして、日本に渡ってきたことでしょう。もっとも、渡来人の服装の記載や渡来系と目される古墳からの服装関連遺物についても、調査しなければなりませんが、とりあえず参考になりそうなHPみつけたのでお知らせします。
http://contest2.thinkquest.jp/tqj2003/60130/ihuku.htm
それでは、学習発表会がんばってね。


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ありがとうございます。
2005年11月21日 16:23:12 霜門輝
早速グループで話し合いたいと思います。
学習発表会では一生懸命演技します。
本当にありがとうございました。



渡来人が古くからの地元民?
2005年11月16日 18:34:30 匿名希望

浅間山・筑波山・富士山を頂点とする三角形の真ん中(外心)に本物中山(蓬莱山)あり。本物がわかれば、各地の山(城として再利用含む)や条理の設計意図が明白となる!地球が平面ではなく球とわかっていた証拠がシビアな位置精度。中心からちょうど1000km(地球一周の四分の一のさらに十分の一)周辺もなにやら意図的な痕跡あり。測量技術が凄いということは天文・数学に優れていた証拠。きりがない。文字に頼らないから世界共通!

高天原・・・高ま・・・こま・・・・高麗(埼玉県日高市)
           たま・・・・玉、多摩
中津国・・・中心・・・・本物中山(日高市ではありません)
天岩戸・・・天体観測の知識があった学者が「月と太陽がぶつかる!」と予想して「天変地異が起きる」とびびって隠れた場所。だから入り口に蓋をした。しかし、何も起こらなかった。だから逃げなかった人々がお騒ぎ!その騒ぎ声をきいて外に学者がでていくと、ちょうど日食が終わり明るくなった。多くの人が想像したことですが私も同じことを考えてしまった。この天岩戸が飯能市の天文岩。その形があまりにも・・・・!
日高市から飯能・所沢・狭山法方面には「中津国に案内したサルタヒコ」を祭る白ひげ神社が多いそうだが、本当に渡来人なの?
すると、筑波大学教授の説(朝鮮半島南部が高天原)が正解?
中心・・核・・コア・・CORE・・KORE・・・KOREa・・KOREA?
外国から見れば朝鮮半島南部が中心と思えるかもしれませんね。
韓国式風水では日高市が中心だそうです。
東アジアからみれば日高市が中心と思えるかもしれませんね。
出雲大社の神殿内部は西向き。本物が背後に控えているから?
昔はこの方向が真西ではなく多少ずれていたことでしょう。


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はじめまして
2005年11月17日 8:50:14 管理人
匿名希望さん、はじめまして!貴重な情報ありがとうございます。大変勉強になります。日高市周辺きになりますね。今後ともよろしくお願いします!



ついでに鹿嶋と石切
2005年11月16日 4:16:31 かわかつ WEB
鹿嶋って古代には砂州だったというのをこの間の息栖神社で学習しましたが、その後の調査で砂州どころか影の形もなかったということがわかりました。
銚子から上は海ですよ!反対側の九十九里浜みたいだというイメージだったんですが、もっと深〜くえぐれていたらしい。なにかヒントになりますか?
鹿嶋神宮あるいは香取神宮から石上経由で真東に対して30度で直線を引いてみるとどこにいくか?有明海ですよ。七支刀人形がある瀬高町の女山ですよ。

石切劔矢神社がある東大阪市石切町は郷名が日下・・くさか・・です。当然ご存じでしょうが、孔舎衛です。
日の出の方向にあるから日下です。生駒山地から日が昇るというと、どこから見てそう言うので?難波津ですね。住吉大社のある住之江です。帝塚山ですよ。〜〜;意味わかりますか。

ちょっと今、私、ハイですよ。

石切の北に鳥見と書いて「とみ」がありますよ。とみたさん、ここがナガスネヒコがいたところです。そこから60度の角度の西北にあるのが磐船神社です。
交野市は今、かたのと読みます。これは「禁断の地」を意味しています。かつては「禁野」と書いて「しめの」です。今の交野市はしめので、「かたの」というのは枚方市〜樟葉までを含める広い郡名だったのです。その証拠に交野天神社(かたのあまつやしろ)は樟葉にあります。そこは自然公園で中に継体天皇樟葉宮跡の比定地があります。昔、私、そこで鞄盗まれた!いやな想い出。
禁猟地だったのです。天皇家の猟場ですから。物部氏のものを取ったんでしょうね。交野を流れる天野川あまのがわ・・・の中に巨大な岩倉群があってそこが磐船神社。ニギハヤヒが白肩しらかた・・から天の磐船で遡ったという、要するに遙拝ルートです。
さあ、楽しみですねえ。
いったいどうして奈良から見て日の入りの方角の生駒山が日下なのでしょうか?難波津からどうして、誰が日の出を見たのでしょう?
「にぎたづに・・・」「八十島かけて漕ぎ出でんと・・・」「住之江の吉志に寄る波寄るさえや」「人には告げよ天の鳥船」「虚満つ夜麻登の國は・・・」
わかりますか?この掛詞の意味が・・・


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出雲神話
2005年11月16日 4:17:42 かわかつ WEB
出雲神話。天の若日子は天の羽羽矢を打ち返されて死にました。見舞いに行った大国主の御子神・アジスキタカヒコネ(高鴨御祖の神=下鴨=葛城賀茂氏=やたのからす=修験者と山の民の神)は若日子にそっくりだったので一族の者が泣いて懐かしんだ。ところがアジスキタカヒコネはそれを嫌がって怒り出し、若日子のもがり屋をたたき壊した。
若日子とは物部神道、アジスキタカヒコネは渡来の信仰をそれぞれさしていませんか?そっくりだったらイヤですよ。あとから来たのが真似したみたいじゃないですか・・・


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おそらく四天王寺
2005年11月16日 4:36:08 かわかつ WEB
難波潟(大阪湾)の海岸線は当時、今の上町台地でした。相撲で有名な言葉で「たにまち」はこの台地にある谷町からきています。この台地にある巨大な寺・・・それが四天王寺。かつては神社で、聖徳太子建立です。大阪の人は「四」を忌んで「天王寺さん」と呼ぶのです。
大阪城もこの台地にあります。難波の宮跡も近く。
見晴らしがいいのです。眼下に埋め立て地である梅田や難波、心斎橋を見渡します。
秀吉が大坂と名付けるまでそこは摂津石山です。
今、この台地は夕陽丘というゆかしい名前で知られます。そこから大阪湾の夕日が「悲しい色やねん」とばかりに見えるからです。
振り返ると生駒山です。そこが日下。そこが太陽神・ニギハヤヒのいます場所。日の出が見える場所・・・それはこの上町台地なのです。四天王寺は生駒山から昇る太陽神・ニギハヤヒを拝む場所なのですよ。
大阪府の花は知ってますか?葦です。
「難波潟 短き葦のふみのまも・・・」の和歌からです。


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あたらしい
2005年11月17日 1:29:54 管理人
レイライン発見ですね、かわかつさん、オフカイで詳しいお話聞かせてください。ノートと地図ソフトもって行きますので、いろいろ携帯電話でネット検索しながら楽しみましょう。



自分のHPを眺めていたら
2005年11月16日 0:57:44 かわかつ WEB
天啓がひらめきました。
日本史で最も古くからあった一族・・・物部氏。
九州北部の企救郡に発祥し、海人族を使って大和を治めた一族。
曾神・ニギハヤヒと家臣・ナガスネヒコ一族を出雲に鎮められ、やがて蘇我氏に滅ぼされた物部宗家。
海人族・尾張氏、かいふ氏、波多氏と血で繋がる彼等が七支刀を石上に。
筑後に残る七支刀人形と五三の桐の御神紋を持つ人形たち。熊本に残るすがる伝説。そしてカムヤイミミ伝説。
石上こそ邪馬台国の謎を解く鍵になるかも!?
やはり石上にゆかねばなるまい・・・


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この方マニアック
2005年11月16日 2:52:48 かわかつ WEB
実に面白いのですが、実に読みにくい。もう少しなんとかならんかとは思いますが、つい読んでしまう。ご存じこの方です。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/

卑弥呼はひめたたらいすけよりひめ。
先へ読み進むと物部、秦氏、海人族との関連が出てくる。

話は飛びますが、難波の吉志は大阪の三嶋にいた。今の摂津の三島郡ですが、彼等は秦氏に使われた海人族です。吉志舞いの管理は大阪市阿倍野区の阿部一族がやっていたが、彼等は朝廷からの管理者で、秦氏と関連していますね。間違いなく。
吉志は福岡県企救郡にもいて、宗像大社の祭祀関係者です。彼等の得意な職業は・・・なめし革です。これは動物解体に関わりますから、加藤謙吉が書いているようにHininではないか?
九州では吉志がいわゆる秦人、秦部の中にいる。そして吉志の中にはどうやら先住日本人の血が流れていたようです。縄文です。
熊野が重要で、この熊野吉志は材木加工など木地師もやっている。で、やがて木氏となり、紀氏となってゆくんですが紀氏には紀貫之などのように管理者が名乗ったケースもある。下層民だった吉志直が調査されるべきです。

また話はとんで吉井郡の多胡、多古です。これは上方からおそらく平安以降に関東に移住した渡来人・・・秦人や秦部のようです。当然、吉志も含まれます。平安遷都で河原に盤踞していた彼等が追い立てられたか?
胡人が多かったからだという地名説話はあまりに短絡的。もともと「たこ」という音で呼ばれていたのは先ず間違いないでしょう。あとから漢字をあてるのは全国に類例が山ほどある。どっちにせよ、たこもたごもあまりいいイメージの涌かないネーミング。海の蛸やら、いぼいぼやら、こえやら田悟作区やら・・・怒らないでよ。ああ、またバカがほざいてる程度でいいんだ。どうせかわかつワールドなんだ。

石上から真東のラインから30度傾けて直線で出雲日御碕?これは無理かな。

三嶋は愛媛の大三島神社の神、御島のみぞくいとやはり関係していました。ここも吉志関連。鎌足が隠棲したところで、三つのしま(しまといのは縄張り、地域をさす隠語で、その手の業界用語に今はなっちゃった。)が一つになって三島郡。
ははあ、かぐや姫もこのあたりの豪族お娘か。これ卑弥呼なんだって。
海人族だから貴族にうらみがあるはずですわ。なるほど。これがひいては崇神王朝の交代劇へと・・・面白い。



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もうひとつ吉志
2005年11月16日 2:59:26 かわかつ WEB
吉志と吉備は大いに関係有りです。紀州ももちろん吉志からですね。「き」で始まる地名、名字。調査です。
あっと、国東半島の岐部も。木野、紀野など。岸辺、岸、岸部・・・などなど。
きっと石上にもありますね。

天理教の道場があるおかげで、あそこの地下は手つかずになっていますね。考古学者は掘りたいでしょうねえ。あそこが第二次邪馬台国かもね。


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四国
2005年11月16日 3:56:01 管理人
九州からの大胆な説ができてきましたね。今回の探索、かわかつさんにとっても、前回の鹿島探索とあわせて、貴重な機会になりそうですね。なるほど三嶋と四国の関連もあるのですね。四国まではさすがに今回は手が届かないかな?
今からでもオフカイ参加されたい方いらっしゃいましたら管理人までメールにてご連絡ください。



お奨めHP
2005年11月15日 16:38:35 いばらの紀氏

丹生 壬生で検索・・・
坂東千年王国  にたどり着きました。・・・・・凄くマトマッテイルらしい・・・・紀氏の感です。(まだ詳しく読んでませんトホホ・・・・)
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/tan/tan-5.htm

丹伝説外伝
武蔵と秩父の関係
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/tan/tan-11.htm
 武蔵・・・・新撰組・・・・壬生寺・不動  寺・・・不動ー円仁ー壬生氏で繋がるんですけど・・・


http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/index.htm

烏は仏が嫌い?
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/karas.htm
修験道はその始めから神道と仏教と道教の習合した第三の宗教でした。平安末期から鎌倉時代にかけて神仏習合したものより遥か以前に、役小角によって始まっていました。それが幕末に熊野山は仏が嫌いと噂されたとすれば、そこに何か作為を感じないわけにはいかない。

修験道は、ヤッホー(ヤウエー)をカバラ信仰していた。


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2005年11月16日 3:52:51 管理人
HP読ませていただきますに、丹、鉄、二荒山、宇都宮氏、古墳、三輪、物部、葛城一言主・・・。その辺のラインが重要とのことでしょうか。葛城と物部はどういう関係ありましたか?


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板東千年王国
2005年11月17日 3:17:07 かわかつ WEB
このサイト、かわかつワールドですね。それにバックが目に優しいグリーンなので読みやすいです。お気に入りにします。



蘇我邸発見
2005年11月13日 22:23:36 管理人 MAIL
蘇我氏の邸宅が発見されたそうです。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20051114k0000m040092000c.html


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奈良で考古学的な発見が相次ぐ
2005年11月14日 7:14:47 とみた
奈良オフ会で訪れたいところが次々と現れます。

@11月4日朝日新聞。最古の古墳が纏向の堂の後古墳と裁定。箸墓は紀元前4世紀と見られていたのが3世紀後半に。

ほけ山古墳は紀元前3世紀半ばと見られていたのが3世紀前半ー中葉に。後の堂古墳は6世紀後半と思われていたのが、レーダー探査でほけ山より下にあることが判明し、紀元前3世紀前半より古いことになった。

まさに卑弥呼の時代。卑弥呼247年没す。

ここは桜井市に近い。

A日経?年2月1日。箸墓古墳の周濠部から4世紀初期に使われた木製の馬具(輪鐙=アブミ)発見。これは中央アジアが起源の乗馬の習慣が朝鮮半島から伝わった。

ここは桜井市に近い。

B毎日新聞の11月13日の記事(管理人さんの上記サイト)
甘粕に蘇我入鹿、蝦夷の邸発見。スワ一大事

ここは飛鳥(明日香)

遺物の現場と博物館とどちらがよいかです。

橿原考古学研究所に博物館はありますか。

ここは橿原神宮・・・さて、紀氏さんは測量に関心あり。古代奈湖

を見渡せる銅鐸のありそうなところはどこにありましょうや。

みんなで早めに探して決めましょう。


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奈良オフ会 時間と費用
2005年11月14日 7:44:08 とみた
駅探り乗り換えのサイトで調べました。

@枚方市から丹波橋までは 京阪電車で30分 ¥320

A丹波橋から西大寺までは 近鉄京都線で 30分

B西大寺から橿原までは 近鉄橿原線 そこから飛鳥までは近鉄吉 野線で計45分

C西大寺から桜井までは近鉄?線で 計45分

桜井も飛鳥も電車で行くことにして・・・宿の 枚方市より時間は2時間 費用は1100円強

そこからはサイクリングになります。

ご参考までに

古代奈良湖の後を見渡せるのはどこかしらね?


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時間経路
2005年11月14日 23:41:44 管理人
とみたさん、さっそく時間お知らせいただありがとうございます。
個人的に気になっているのは、枚方のそれと、京都から奈良石上神宮、飛鳥までのそれです。
京都から近鉄奈良までは電車で40分、
近鉄天理から石上神宮まではバスで8分だそうです。

石上神宮
http://www.y-morimoto.com/jinja22/isonokami.html



地震
2005年11月12日 18:30:18 かわかつ WEB
だったそうですね。気をつけてくださいな。


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うちも掲示板を
2005年11月12日 18:35:19 かわかつ WEB
拙著作品集へのご意見掲示板を設置してみました。歴史もいいけど文学もね・・・って奴です。


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なるほど
2005年11月13日 1:28:04 管理人
掲示板設置了解しました。その前にかわかつさんの新作を読まなければなりませんね。そうかわかつさんって、小説家と歴史家どちらが本業なんですか??


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フッフッフ・・・
2005年11月13日 12:53:25 かわかつ WEB
フッフッフ・・・怪しいおじさんです。



かたばみさん(stanさん)のHP
2005年11月10日 9:49:54 とみた
紀氏さんの紹介の神奈備=青草掲示板で・・・かたばみさんとつながりました。よくしらべて居られますね。かわかつさんもstanさんをご存知のようです。

管理人さんが気にされているDNA(ミトコンドリアDNA)による民族移動分析についても・・・実によく研究なされているようです。(下のサイト参照)
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/dna/dna.html

私もミトコンドリアDNAとか染色体、30億の塩基対。RNAとかリポゾームとかの世界は昔は専門でしたので多少は心得があります。

人の起源に迫る人類進化の舞台としての西アジアという講演があるとかで東大の近藤修先生(生物科学)にメールを出しましたら、本を紹介いただきました。

朝日選書、ネアンデルタール人の正体 赤澤威 編書 ¥1400

話題転じます。やはり古代に大和湖はあったようです。古墳時代よりずーと古い時代です。古墳時代はその残影としてところどころに池があった。

この11月4日の朝日新聞ごらんになりましたか。

最古の古墳を学生がレーダー探査で発見。ほけ山古墳は3世紀前半、その隣に堂の後古墳これはそれより古い前方後円墳のようです。卑弥呼邪馬台国大和説につながるとか・・・

オフ会は喧々諤々の予感



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DNA
2005年11月11日 4:00:20 管理人
詳細についてのHPかなり興味深いですね。相当詳しく掲載されており、今度のオフ会でも、ノートパソコンもって行くので、いろいろ論議しあってみるのもどうでしょう。


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「奈良湖推定図」は如何で
2005年11月11日 10:07:40 いばらの紀氏
とみたさん今日は、かたばみさんのHPいかがでしたか?ミトコンドリアDNAによる民族移動分析 もよろしいですが「奈良湖推定図」は如何でしょう?
奈良湖推定図の「島の山」の古墳の記号、当然 人工島と考えられます では何故古墳なのでしょう「島の山」を中心に各ポイントに沢山の対角線が描けます。 
30度や45度でのポイントとの関係が明らかに成ります。
銅鐸(Uの反転・釣鐘型)8箇所在ります、
「島の山」の南西の銅鐸より各銅鐸に線を引いてください。(各 銅鐸間にそれぞれ線を引く。)
銅鐸間の辺から60度(45度)の角度が交わる「点」または・延長線上に位置するポイント(古墳)が三角鎖を広げます。
歳差運動での23度の角度も現れます。
(地図で銅鐸・古墳・史蹟∴山・橋・寺社が描く正三角形(直角三角形・三平方の定理)の存在が数多く存在する為に当然と思い込み謎解きの参考にしない方々の多い事に閉口・・・・・・現に地図が存在して測量法が理解されていても測量ポイントを明らかにしようとしない   銅鐸・古墳・寺社など・・・闇の権力からの圧力?でも存在している?)
やはり日本では
奈良湖推定図での測量。
 初期  山頂〜銅鐸 (出雲・禹系による測量)
 中期  古墳による誤差の修正(簡易定住型)
 晩期  寺社による居住型の長期測量。(データの集積が徳川での長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」を作成した。)

鹿島神宮は、出雲系から(タケミカズチ)中臣(藤原)に代ったとの自論?
香取神宮は、フッヌシ(後の壬生氏・・・・・丹生(タンニュウ・産む系)・・・・・秦氏系?(先=徐福系・後=始皇帝系?)

初期キリスト教は、陰(龍・星・月・兎鷺・禹・薬師・太一・蛇・農耕魚民・・・)と 陽(虎・太陽・トーラ・法)との2尾(双魚)合体との妄想です。
アレキサンダーの時代 獅子王(虎・狛を倒す)が参入(蛇系を悪魔とし迫害)との妄想です。
禹系(苗族?)+10部族(古代イスラエルの民)+2部族(ユダヤ?)=三位一体?

「苗」の文字は草冠(++)2本の十字架=鳥居の祖   「田」は口(禹の父)+「+」「甲骨文字では「七」(北斗七星・柄杓型=救う・すくう)
「口」+「+」=「叶」(夏の禹)・田・甲・由・古・♀?・・・陰は・・・・

姫様は奈良の方ですか、「奈良湖推定図」での銅鐸・古墳の測量ポイント論・・・・地元 奈良の学者さんなら関心をもっていただけるかも?     楽しみです。


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日本への渡来のタイミング
2005年11月13日 7:58:25 とみた
紀元前473年 呉越戦争で負けた呉からの難民
紀元前334年 楚に敗れた越からの難民
紀元前219年 秦の始皇帝から特命を受けた徐福が日本へ
紀元前154年 呉楚7国の乱で負けたのが日本へ
 遠くは紀元前2300年ごろ シュメールの民の難民が
    紀元前722年 新 アッシリアに滅ぼされたイスラエル    の民が
    紀元前597/587年 バビロニアに滅ぼされたユダヤの    民が
 春秋戦国の大動乱時代(紀元前771年〜紀元前221年)に長 江流域の苗族が雲南へ一部はボートピープルになって日本へ

他にどんな動機がありましょうか。

オフ会の検討テーマです


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銅鐸と測量のHP見つけました。
2005年11月13日 23:30:15 いばらの紀氏

「魏志倭人伝」の方位の記述である。
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を渡る千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。(中略)また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜うて居る。( 中略)東南陸行五百里にして、伊都国に到る。(中略)千余戸あり。(中略)東南奴国に至る百里。(中略)二万戸あり。(中略)東行不弥国に至る百里。(中略)千余家あり。(中略)南、投馬国に至る水行二十日。(中略)五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。(中略)七万余戸ばかり。(中略)その道里を計るに、当に会稽の東冶(今の浙江省から江蘇省のあたり)の東にあるべし」
この記述から方位、距離を計算していくと、日本は実際の位置をはみ出して南の海まで続いていることになる。このことから古代人は日本の位置を誤認していたのではないかと考えられてきた。その証拠として15世紀初めに李氏朝鮮で作られた地図「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」が引き合いに出される。この地図では日本列島が東を南に向けて描かれている。
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-5.html
神在祭の起源
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-5.html

九州では初めて銅鐸(どうたく)が出土
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/iseki/yoshino04.htm

アイヌ語による地名探訪
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kamide.html



ちょっと気づいたこと
2005年11月7日 22:48:27 かわかつ WEB
掲示板はたくさんあるのだが、気楽な話題や世間話のはないですねえ。ここもちょっと専門的過ぎるから、例えば、俺、落選してねえ・・・みたいなことが書き込める、チャット的なものはあってもいいな。
メーリングの方は会員近況とかにも使えるけれど、新しい人で、それほど歴史に興味ない、詳しくない人でも書き込める場所があったほうがよくないですか?画像掲示板があまり動いてないから、そこでもいいし。既存の掲示板を転用しないともったいないですよ。

ところで私はメーリングは公開して欲しくないです。なにしろメルアド、まんまですから。


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そうですね
2005年11月11日 3:53:59 管理人
交流掲示板を今度作成しましょう。メーリングリストについては非公開としますが、もしご参加希望の方いらっしゃいましたら、管理人までメールください。rg1h-smed@asahi-net.or.jp

諏訪と苗族の御柱祭り
2005年11月7日 19:06:33 とみた
オフ会も迫り、わくわくのトミタです。

諏訪と出雲論争も期待しております。

諏訪は苗族の御柱祭りと関係がありやなしや。

佐々木高明の照葉樹林文化帯で日本と雲南の文化には類似点あり。

苗族(ミャオ)の村の生命の木は楓の木で鼓社祭が13年毎に行われる。御柱は楓の木で作った蘆笙柱(柱の頭に鳥蛾とまり、柱の中ほどは水牛の角、柱に竜が巻くつく。柱には銅鼓を吊るす)を立て、男は蘆笙笛を吹き鳴らし、女は鳥の羽で着飾った衣装で踊る。水牛を楓の木に縛り付け犠牲にする。竜船祭やある。その他新嘗祭もあり高床式倉を有する。

諏訪の御柱はもみの木、御頭祭すなわち酉の祭りは鹿の頭を犠牲に
する。舟祭りもある。

果たして苗族の御柱祭りと諏訪の御柱祭りは関係がありやなしや。


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参考サイト
2005年11月7日 20:37:30 かわかつ WEB
とみたさんこんばんは。
その件、興味深いですね。ひとつだけ苗族と御柱の関係についてのサイトがありました。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-120.htm


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そって
2005年11月11日 4:03:38 管理人
諏訪、朝鮮南部、ソト、聖なる結界門、上のDNAの流れと比較すると、どの辺の人種のDNAになるのでしょうね。上のHPによると3種考えられるようですね。



雨だ・・・
2005年11月6日 6:58:04 かわかつ WEB
今日は別府の鬼の岩屋古墳のお祭りで石室解放の予定だったんですが、こりゃ中止だな。残念、装飾古墳がみたかったのに・・・
TVで見たけど、かなりクッキリと朱と黒の壁画が残っていました。


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わあ、しまった
2005年11月6日 7:07:19 かわかつ WEB
豊後大神氏の首魁だった緒形三郎惟栄ゆかりの穴森神社三百年祭も今日だったんだ。案内状までもらったのに雨かよ〜



緊急連絡!
2005年11月5日 18:14:32 かわかつ WEB
宿がなくなります。リストへメールしております。至急ご連絡を。



銅鐸 は、測量のポイントでした。
2005年11月5日 15:10:23 いばらの紀氏

 銅鐸は、やはり測量のポイントでした。
奈良湖推定図 (カシミール3D使用)で解明できました・かたばみさんに感謝申しあげます。
奈良盆地の湖沼推定図 かたばみさん図です。
 法隆寺の近く、のポイントより各 銅鐸の出土地点へのライン
ライン 銅鐸内角30度・60度のライン
正三角形にちかい形を描きます。(古代測量は、銅鐸〜古墳〜寺社へと誤差の修正が行はれた事を物語っています。
銅鐸は鐘を逆さにしたもので嘗ては舌が存在していたそうです。
銅鐸のモデルは甕棺です、そう自論 古代中国 夏カの禹ウ帝の父 鯀コン(魚+系)通称 「口」です。
白川静 氏は、「神への祈りの分である祝詞ノリトを入れる器の形とし 「人の口としての明確な使用例は無い」としました。
甲骨文字などの古代文字の「口」は「甘」(酒)「西」(口+鳥居)「酉」トリ(甘+鳥居)=測量士の隠語・・・・・・(甲骨文字は禹の測量の文字なのです。)
「口」は「口寄せ」の口なのです、異界(境・塞・斎なのです。)
禹は黄河の治水で父「口」の口寄せに頼ろうとしました・「叱」(父に背をむけた禹の形)「台」(父の塚の上の禹)[召](塚=測量台の上で招く形)「参」(ム=禹=私のもとに役夫として集められた形)・・・・・甲骨文字は禹の測量にかかわったのです。

 銅鐸は出雲(禹系」の測量士の「土」(十字架)且カツ(平行して存在するの意味)・・・・測量での「不動」のポイントなのです。
古墳は、秦(旗・風読み・諜報員・影?・カバラ)系   (余談:「役」の行者(小角) 角ツノ=「津」の=牛ウシ=禹氏ウシ)
秦氏はかわかつさんの十八番でした。


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妄想
2005年11月5日 15:23:04 いばらの紀氏
 江戸時代の関所をフリーパス・・・行者・山伏・修験者・・・役 行者?

旅芸人・・・・役者

裏街道・・・からす・・・旅 からす=役 ヤクザ

くろう・・・・義経・・・・天狗は・・・・秦氏

源氏は秦氏がバックに?

かわかつさんの世界でした。


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奈良盆地に湖沼?
2005年11月5日 16:08:14 とみた
紀氏さんホント、古代の奈良盆地に湖沼があった。樋口さんの逆日本史に昔、大和湖という大きな湖があったという説が出ていた。

石器時代の終わりごろの遺跡は奈良県全体で300近く発見されていて、大和の吉野渓谷から始まり宇陀・三輪を通って大和平野に降りてくる平野の周辺部に広がっている。それは標高60mのほどの線までだそうです。つまり古代は今の60m線が湖水の水際であったという証拠立てです。

大きな湖から大和川に流れ出していた。

それで、先日大阪平野の古代の湖を探したら、河内湖はあったけれど、大和湖は特に書かれておらず、ただ大和川下流は古くからの農業が発達していたとだけ書かれていた。

大和川の上流に湖があったのですか。是非教えてください。
他のどなたか知っていたら是非是非・・・


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RE 奈良盆地に湖沼?
2005年11月5日 17:36:48 いばらの紀氏

RE
 とみたさん今晩は、オフ会 楽しみにしております。
「どなたか知っていたら是非是非・・・・」
「神奈備掲示板」の御尊敬申しあげます ハンドルネーム?「 かたばみ 」さんです。
「青草」でお訪ねください。
とみたさんの様な見識深い方です。


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あれ?
2005年11月6日 4:38:44 かわかつ WEB
古代で遊ぼのかたばみ川上さんは、私がリンクしているSTANさんともりんくしてらっしゃる・・・奇遇ですねえ


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奈良盆地の湖・・
2005年11月6日 7:04:34 かわかつ WEB
初耳です。でも盆地なら太古には湖沼だったとは思っていました。例えば京都筒木郡から木津にかけての巨大な湖沼だった巨椋池しかり、湯布院盆地の金鱗湖しかり。
化石や石灰が出るならそこは海底か陸封海水湖沼だったところですよね。


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南北ライン
2005年11月7日 9:49:03 いばらの紀氏

 奈良湖推定図(かたばみさんの図)の分析によりますと 3本の南北ラインが銅鐸・古墳・寺社の位置と関係していました。
(石上神宮〜大上神社の誤差は生駒山〜葛城山の南北の誤差約1度)
1) 生駒山〜葛城山
2) 生駒山〜二上山
3) 生駒山〜(葛城山と二上山の間) 精度1度以下の誤差。
 (1度以下の誤差でも縮尺図にすると精度が下がり、そのような縮尺図による計画の分割実行の末路が目に浮びます。)
 このラインの角度の差と各ポイントからの角度の誤差が古代の測量を困難としたと思われます。(直線の精度は高いです。)
葛城山と言えば役の行者(役小角・蔵王権現)ゆかりの山です、陰陽道のドウマン・芦屋ドウマンでしょうか?
 また、かわかつさんの世界でしょうか?
セーマンは対抗勢力の藤原氏・アベノセイメイ?



タックン
2005年11月4日 13:46:54 かわかつ WEB
オフ会きてね。メーリングリスト登録したら詳細わかります。



中国の斉の都は白人が多かった
2005年11月2日 9:01:38 とみた
東大人類学教室の植田信太郎氏と中国人の王歴氏が山東省の斉の都臨シの遺跡の人骨のDNAを調べた。
中国の2500年前といえば孔子の時代です。当時の人口のDNAはその大半がドイツ人やフィンランド人さらにはアイルランドの人々に近かった。白人がここまで移動していた証拠。ペンダントにはらくだの顔ご彫ってあった。

2000年前の漢民族の時代になると現在の中国人と同じDNAを持った人が大半になった。

鹿島昇さん説見たいなシュメール文明の棄民が海のルートをたどって中国へとかも否定しきれないですね。紀氏さんはシュメール・フリーメーソンに拘っていらっしゃる。

私はインド・アーリア人を追っかけていますが、それが先般訪れたシルクロードのタクラマカンのカシュガルやクチャに住んでいたらしい。アーリア人は今の南ロシアの黒海の北辺から紀元前2000年ごろ動き出した。西はギリシャへ東はインドやイランへ紀元前1500年-1000年ころから移動。寒冷化が原因かも知れません。

管理人さんが取り上げられるトカラ人はアフガニスタンの北に居ました。これはアーリア人の一種、スキタイ系のサカ人(塞人)の一種らしいです。


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サカ人
2005年11月2日 9:24:14 かわかつ WEB
サカ人は秦氏の中にもいたと・・・。
釈迦はサカ族出身ですか????


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黒海の北辺・・・
2005年11月2日 9:42:40 かわかつ WEB
というとカスピ海のあたりですね?この場合は砂漠化とは関係ないんですね。とすると彼等はシルクロード中央道からインドに入ったわけだ。
そりゃヒマラヤ山脈があるからか・・・なるほど!
シルクロードの北道・・つまり敦煌経由の西域コースも使えばアーリアンの西遊記もあり得るか。
失礼、今「西遊妖猿伝」諸星大二郎作を買い込んではまってますもんで・・・^^


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山東省
2005年11月3日 4:26:12 管理人
とみたさん、かわかつさんこんばんは。とみたさんの山東省への2500年前の北欧系のコーカソイド住民情報、かなり貴重ですね。今度詳しく教えてください。山東省はまた日本へもたらされた銅鏡などともつながりが深く、例の道教とも密接ですし、日本への間接的な影響もあるかもしれませんね。いろいろモンゴロイド一色で考えてきた通説がひっくり返されてきているようですが、斉明朝のトカラ人の渡来もそのひとつでしょうね。彼らと飛鳥の須弥山や石人像、サイフォン技術との関連はもういちど確かにいつか確かめにいかなければなりませんね。どうしても渡来人研究をしていく上で、人種問題は避けられないところですが、どこかの人種に偏ることなく、客観的な視点で冷静に分析していくことが大切だと感じています。科学を志す人は、絶対に時の権力や思想などに影響されず、むやみに決め付けず、冷静かつ客観的にありのままの真実をありのまま語る態度を修練していかねばならないですね。


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古代妄想
2005年11月3日 8:55:22 とみた
井上靖の楼蘭王国は紀元前2世紀ごろの、月氏(イラン系だと思われているが不明)系であるコーカソイド系のミイラが出てきましたね。
この国(オアシス都市)は匈奴の冒頓単干(ボクトツゼンウ)に滅ぼされた。
それと最近 ローラン近くの小河墓の遺跡で発掘されたミイラは超美人のコーカソイド系の女性であった。(NHK新シルクロード放映)息を呑むほど美しかった。これは4000年前とされている。黒海あたりから出て南シベリアに移り、さらに南下した。牛の角が棺にあった。

環境考古学の安田喜憲氏によれば4000年〜4200年前は地球は寒冷化して民族は移動せざるを得なかった。

サカ人は釈迦族ではありません。紀元前2世紀前半ごろ、匈奴に追われた月氏がアルタイ山脈の西麓=天山山脈の北麓のイリ地方仁居たサカ(塞人)を追い出した。それで北西インドに南下し侵入することになった種族がサカ族=スキタイ人のうちインドに定住した種族です。シャカ族は紀元前6世紀ごろインドの東ガンジス地方の民です。(沖縄の石垣島ではシャカ神(釈迦)とミルク神(弥勒)を祭りますが・・・)

スキタイはアーリア人でしょう。黒海北辺から南ロシアに紀元前7-8世紀に出て紀元前3世紀に滅びる。江上波夫先生は、匈奴は胡人である。スキタイに学んで騎馬民族として活躍できたとされる。パミールかタクラマカンで匈奴とスキタイは接触があったのでは(私説)匈奴は通説は紀元前4世紀に出て紀元後2世紀に衰える。

もっと古く紀元前8-9世紀に生まれたという説もあります。

スキタイも匈奴もシルクロードのステップ(草原)ルートを跋扈した。トカラ人もスキタイの一種で今のアフガニスタンの北部にいた。崑崙山の辺の玉の産地の都市ホータンにもいたようです。崑崙山の西王母は道教、??

斉明女帝の時代に交渉があったとは面白いですね。石上あたりに妙な堀を作って不評を買った。斉明時代は亀の遺物を作っているから道教、??

関係ないですね。


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西方シルクロード
2005年11月4日 3:33:53 管理人
トカラ人の故郷はどういうところだったのでしょうね。確かシルクロード西方の方面のDNA調査の資料をみてみると、白人系とモンゴロイド系とがかなり入り混じっており、その割合が半々位でした。あのあたりはほんとに、東西人種の交通が激しかったのでしょうね。山東半島も黄河を通しての東西の交通の拠点だったのだろうと思いますが、黄河というのは、どのくらい西方からの人種の流入を促進させたのでしょう。長江のケースだと四川方面上流から長江下流域への稲作などの流れがあるようですが、なんとなくかなり早い流れがあったようにも見えます。大河に西方の民族が着いたとき、船をそこで使用できるように変化すると、どうなるのか、可能性ですが、イメージできないでしょうか。



管理人さんへ
2005年11月2日 8:49:50 かわかつ WEB
ニギハヤヒは鏡を持っていたでしょうか?
神武も持っていなかったのかも?日本書紀は天照大神から三種の神器をさずかったと書いてたんだっけ・・・忘れたなあ。
天のはは矢はどんな的矢だったのでしょうか。おそらく鷹羽だと思いますね。た・か・は・・・・・・高羽・・・
神紋として使われる鷹羽・・・正月に買う的矢・・・阿蘇国造神社の神紋は鷹羽。諏訪大社の上社前宮の裏にあるのは的矢石。これは鎌倉時代に置かれた。阿蘇のすかるの滝に落ちた鹿は殿様の鷹羽の矢から逃げて滝に落ちた。細川家の家紋は鷹羽?
出雲系大注連縄のある神社と鷹の関係・・・
諏訪上社本宮のあるところに高部という地名があります。
ここは大きな岩がごろごろ出てくるところだったと、地元民が言っていました。事実、道ばたにでっかい岩倉の残骸があちこちに置きっぱなし?になっていましたよ。写真もあるから画像掲示板におくっときます。


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HPに追記しました。
2005年11月2日 9:21:58 かわかつ WEB
重要なポイントだったので上のレスと画像掲示板のレスをマイHPの「諏訪大社」ページにに追記しました。

昨夜、プロジェクトXの再放送でたたら造りやってました。
もう一回ちゃんとみてましたら、たたらでの製鉄は3日三晩休まず火と戦うのだといってました。たたら師はあの熱い火の真ん前で火を見つめ続け、音を聞き続けるのですね。
火に照らされたその鬼気迫る顔は、まさに”鬼”でした。
昔のふいごは足でふんだんですよ。大きな板戸を何人もで踏み続ける。ほら、宮崎駿の「もののけ姫」のワンシーンです。
あのアニメには鉱毒でやられたらい病の年寄り達・・・あれがたたら師の末路です・・・が大切にめんどうを見て貰っている。しかし置かれた場所は片隅の掘っ立て小屋に詰め込まれている。
これが「忌み」ですよ。神とは有り難い者ではなかった。それは鬼と不可分、二律背反の存在だったのです。キリスト教の悪魔と神もそうだったのではありませんか?
製鉄・・・それは当時最高の祭祀だったのではありますまいか?
ヤマトタケル・・・製鉄のために列島をはいずり回った人々の残照・・・


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砂鉄の道
2005年11月2日 10:37:50 かわかつ WEB
それはまさに蹉跌の道。
ではシルクロードにも砂鉄の道はあったのか?
鉄がすべての謎を解き明かす?!

スサノウーーー荒ぶる嵐の神、日と月を覆い隠し、毎年やってくる台風の化身・・・夜の雲、風、雷を引き連れて斐伊川の砂鉄を奪い取った出雲の暗黒神。天の叢雲のつるぎ。やまたのおろち。イネをふきたおし、田畑をめちゃくちゃにし、あたりにものをまき散らし、あげくに天のふち駒の皮をはぎとって投げ込み、大ひるめむちを死に追いやった。台風はしかし害虫を追い払ってくれもする。夏の祇園祭は虫祓いの厄よけ神事。
祇園の八坂神社の神は厄封じの牛頭大王。それは馬頭観音と混交してゆく。スサノウが投げ込んだふち駒の怨霊が観音に昇華したのだ。
すなわちこの時、天照大神は実際は死んでいたのです。
そこで再生神事として天の岩屋戸のたてこもりが必要となる。それは「大晦」「大つごもり」のこと。一年が終わり、すべての命が再生され、新しい春がやってくるのです。
ちょっと前まで、太陰暦の頃まで、田植えから刈り取りまでが一年だった。刈り入れが終わるとその日からが冬です。イネが実る頃が秋、田植えの頃が春です。梅雨の頃が夏。スサノウはこの頃からやってくる。刈り入れが終わり、冬になると今度は年神が鬼になってやってくる。節分。
その前に鬼をお祓いしておかねばならない。追名・・・ついな
だから10月から2月までについな行事が集中する。
真夏にはスサノウをついなするために祇園神事=厄払いが集中する。
悪霊は同時に神様であるから、払うとは言えないから替わりに病気やその原因となる虫祓いという名目で行うが、実際には悪霊=鬼の御魂祓いなのでしょう。
アーリアンたちにも、またコーカソイドたちにも同様の季節行事があるはず。怨霊信仰はひとり日本人だけのものではなかったはずです。キリスト教という一神教の教義観念中心の政治的に統一された機能を隠し持たされた宗教が定着する以前は。
失礼、キリスト教を揶揄して言ったのではありませんよ。

鉄から始まってすべてが人の道につながるってことです。


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鉄と銅
2005年11月3日 4:10:40 管理人
かわかつさんこんばんは。矢に関わる伝承があるんですね。確か装飾古墳にも盾と矢と船の組み合わせありましたし、阿蘇国造きになりますね。でも鷹も矢も狩猟関連でしょうか。鉄というと、漢氏、銅というと秦氏という通説がありますね。たたらは鉄、それ以前は銅、忌人はご指摘にしたがうと、鉄集団でも銅集団でも出ててきそうですが、逆にどちらかひとつだとまたおもしろそうです。
鉄を追い求める集団と式年遷宮の件を指摘されている方がいますが、先日いったもの部系の村上市の羽黒神社も遷宮するらしく、諏訪系は遷宮するのでしょうかね。宇佐は??シルクロードおもしろそうですね。


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宇佐は
2005年11月3日 6:11:23 かわかつ WEB
今はやってませんが、かつては22年・・・つまり干支一巡で遷宮。
現在の社殿の前庭部分にあとがあって100年に一度大改修の時、関係者だけが跡をみています。
現社殿の下に過去の柱跡と石棺?!もあるそうです。


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やはり
2005年11月4日 3:24:16 管理人
宇佐も遷宮するのですか。諏訪、伊勢、鹿島もそうだったかな?岩船・・・・遷宮の方式はヘブライの神殿もそうですし、そもそもの起源はどの変にあるのでしょう。仮に中東起源とすれば、その中間地にもたとえば中国などにも、遷宮の習慣とかあるはずですね。神輿の習慣は、例のビルマ、華南方面に見えますし、山東はどうでしょうね。



30度
2005年11月2日 8:33:56 かわかつ WEB
そもそも昔の人は真東と日の出の方角のずれがわかっていたのでしょうか?30度というのは一体なに?
紀氏さんどうぞ・・・


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かわかつさん今日は。
2005年11月2日 14:48:58 いばらの紀氏
明治政府の官吏は1,6,11,16・・・を休日とする5日制をとっていた。役人の「遅れて、休んで、仕事せず」を改めるために、7日に1回休みを入れる7曜日制にした。それまで1年で72日の休日が52日に減った
暦星
http://kazmiwa.web.infoseek.co.jp/miwajuku/kagakupage.htm
星の太陰暦
此れは木星(ジュピター)が全天360度の角度、及び1年360日の太陰暦に対して、12年で回帰(座)する目立った惑星
だった事から、人為的に全天を12方位に区分し、其の面に広がる星座に動物名を被せてエトとし、或いは黄道(獣帯)12星座としたもので
ある。従って木星は毎年1星座づつ進む事になり、よって歳星とも呼ばれた。此処からまた月の周期も1年12ヶ月、毎月30日として数える事とした。
ジュピター・・・・・・木星。例外的に「月」とする場合もある。??
12宮と12星座・・・・・
星座の側は年々微動して約2100年間には30度もズレてしまう。

1年毎に、角度にして30度づつ位置を変えて、12年目には丁度元の桟に回(座)する木星を確認し、また30年に一度土星が回(座)するので、此れも確認出来る仕掛けでした。其処から一周を360度とする度法、及び12×30で1年360日の太陰暦を作った。
経津主神は土星?
30年周期で回帰(座)する惑星であるため、先の木星が12年周期である事と掛け合わせると360年を数える事が出来たからだ。


答えは上のHPで如何でしょうか。
下のHPが見つかりません。
星読み3
http://www4.0038.net/~vyanepran「日知り事典・神々の歳時記」 101. 星読み3 星の太陰暦101 (未定稿) トップへ. 戻る. サ
www4.0038.net/~vyanepran/page114.html - 2005年8月27日 - 44k - キャッシュ - このサイト内で検索


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とすると・・・
2005年11月2日 18:28:40 かわかつ WEB
正三角形を二つ合わせて描かれる六芒星ダビデの星は一方の三角の頂点と今一方の頂点を結んだときその角度はやはり30度なんでしょうか?


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確かに30度だ
2005年11月2日 18:35:09 かわかつ WEB
いつの日の出の方角が真東から30度ずれるのですか?夏至ですか?
いや、そもそも30度もずれることがあるのかなあ???


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とりあえず参考HPを、
2005年11月2日 20:26:29 いばらの紀氏
かわかつさん今晩は
「混乱しています、調べ直します・・・出直しますのでお待ちください。


参考HP
月にはなぜウサギが棲んでいるのか--古代中国の太陽と月
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-70.html
 やっと見つけましたが、違うようでも有りデス。
日知り事典
http://www.a2.e-line.jp/~oni/index181.html
月読み3 
http://www.a2.e-line.jp/~oni/page031.html


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レイライン 本線?を紹介いたします。
2005年11月2日 21:34:35 いばらの紀氏
かわかつさん、
「高千穂ライン」 (北の位置が 30度東にずれる。)・・・・の事ですね、
訂正します、東でなく西でした。(御指摘 感謝いたします。)
 
 九州から関東・宮城へのレイライン 本線?を紹介いたします。
1) 壱岐  対馬の間(海上)〜出雲〜蔵王(役行者・蔵王権現)
2) 佐賀・鹿島〜英彦山〜岡山・総社〜八溝山
3)-1 高千穂〜吉野〜富士山〜蓬莱山〜鹿嶋
3)-2 甑島〜高野山〜富士山〜鹿嶋の?

高千穂〜出雲ライン・・・出雲から90度〜高野山〜白山の近く〜能登・上越の間 海上から90度〜壬生

西都原古墳群〜(佐賀・鹿島〜高千穂〜?)90度で交わる〜出雲ライン・・・・出雲〜吉野〜90度 白山〜90度〜富士山〜90度〜桐生(妙高山〜神栖ラインと90度で交わる)〜(日光)〜岩手方面・・・・

これだけ正確な測量データの存在が 長久保赤水の地図「改正日本輿地路程全図」を作れた。
http://www.jsdi.or.jp/~taka-lib/page010.html


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歳差運動の24度+
2005年11月2日 21:48:10 いばらの紀氏
歳差運動の24度+(たしか東西が6度・・・定かで無い 誤差)=30度
との考えです。(コジツケ)カナ・・・
地図でのレイラインが30度の誤差が現実なので・・・
行基図のなかに(複数存在)東西南北が反対に描かれている行基図が存在するそうです。
甲骨文字の「東」の字形は、十字に夏至・冬至のラインを現わしているとの自論です。
宜しいでしょうか。


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古墳と路
2005年11月2日 22:08:37 いばらの紀氏

<上ツ道>遺構を確認 奈良・古代の3幹線道路の一つ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051101-00000007-mai-soci
上ツ道とみられる盛り土遺構が確認された現場(写真中央の箸墓古墳の北東隅。点線は上ツ道の推定路)=奈良県桜井市で30日、本社ヘリから望月亮一移す
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/photojournal/news/20051101k0000m040138000c.html

古墳から南北に伸びる幹線道路(古代測量での幹から30・45・60・90・120・150度の枝な伸び三角測量が行なはれたのでしょう。


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ちょっと考えすぎでは?
2005年11月3日 2:18:05 かわかつ WEB
レイラインは私はしろうとです。ただ単純に30度の誤差を古代人がしっていたのなら、紀氏さんのいわれているように地図や航海に利用したと思います。そしてそれが聖なるものとして扱われただろうとも思います。
私は遠くからはなれた巨眼で歴史を俯瞰するスタンスにいますから、こまかい論証にはあまり興味はありません。
細部にわたりつぶさに分析してゆく論理は苦手なのです。ですから学者的なことをいくらきいてもちんぷんかんぷん。
聖なる30度も私にとっては歴史上の人間の生業の一考察としてとらえます。必要なのは論証、論功ではなく、アイデアなのです。
例えば卑近な例では、魏志倭人伝のあのどうみても勘違いとしか思えない方位問題。
もし彼等がいまだ正確な東の方位を知らず、夏至の日の出を東と仮定していたとすれば、あの記述は整合性を持つのかも知れません。
ダビデの星が30度たす30度=60度の角でつくられる正三角形の組み合わせによって出来ているのも、日の出を意識したものなのかと・・・
単純にお聞きしたいだけなのです。
難しい言葉はいりません。民衆に理解させるには、古代人も単純明快な説明を必要としたはずです。
ここの画像掲示板に三柱鳥居の三角形方位図をのせときます。日の出の方向はあれでいいんでしょうか?


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考え過ぎついでに、
2005年11月3日 14:18:16 いばらの紀氏
 参考 HP
太陽を使った方法を実際にやってみました(その1)
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Project1.htm
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Project2.htm
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Heiankyo.htm


阿倍仲麻呂の和歌の秘密
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0kodainosokuryou.htm

   よかったです   ホッ  17日 京都 着 予約しました。

http://www.kjk.ne.jp/~states/cgi-bin/ken1.cgi?page=110


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「三柱鳥居」で検索
2005年11月3日 19:11:32 いばらの紀氏
太子関連寺社の考察
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/8674/tera.html

松尾大社はほぼ葛城山の真北に位置しているそうです。
三柱鳥居は夏至の日の出、日の入りの方向に、四明山(比叡山)、松尾山、愛宕山、伏見の稲荷山があるとの事。
将門考記 飛んだ首の謎 岐阜編
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/tai_2_03.htm
平安夢幻紀行(壱)

オーパーツのないオーパーツ本
http://www2.plala.or.jp/daisinjitu/ooparts.html
賀茂探求(40)京都/木島神社(蚕の社)
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo38.htm
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo25.htm

景教と関わりをもった古代人秦氏と一族(13)
日本アッセンブリ教団
橿原キリスト教会
http://www007.upp.so-net.ne.jp/aikikai-nara/goodnews/church/kasiharakirisuto/2004/message2004.01.htm
http://www007.upp.so-net.ne.jp/aikikai-nara/goodnews/church/kasiharakirisuto/2004/message2004.04.htm
女王国周辺とその余遠絶国と神々

古代日本のクリスチャン
月刊『レムナント』第100号

摩多羅神はどこから来たのか? 〜ダビデの子孫〜
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html
第三章・・・・ Last updated on 09/03/2005 08:41:56.

木島坐天照御魂神社
http://heterosophia.j-fas.com/old_2002/contents/saint_topology/04/04.htm



古代船
2005年10月29日 11:01:03 とみた
古代史を科学的に捉える。

古代の船の考察は勉強になりました。

お裾分けします。
http://inoues.net/science/war.html

(hpが開かないときは、入力してください)


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鳥居の横木
2005年10月29日 12:51:47 かわかつ WEB
なんだか私ととみたさんは同じ方向を探しているような気がしますね^^

このサイトはよく開けていましたが、今回、見るとやはり船の外観と鳥居の横木はそっくりですね。


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三角
2005年10月30日 2:33:47 管理人
華南ミャオ族から台湾、琉球、宮崎・・・、丸木船という線がなにかとみたさんたちのご意見みながら思い浮かんでくるんですが、おもったより三角定規が必要そうな船であるというのは紀氏さん的でしょうか。ミャオ族とか雲南の民族に見える銅鼓に描かれたなぞの三角文様および、そこから派生してくるように思える三角縁神獣鏡とはなんだったのか、その三角文様が刻む角度に注目です。


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いいコラボレートです
2005年10月30日 3:01:51 かわかつ WEB
そこいら辺でみんなの疑問が一致しそうですね。
30度の正三角形?三柱?日の出の方角?風水、道鏡、製鉄、修験、天文遁行・・・そのキイワードは?
祭祀の統一に到る歴史の中での勢力争いといかに関わるか・・・


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鏡とにぎはやひ
2005年10月30日 22:47:26 管理人
ちょうど先ほどゼミの時に使った三角縁神獣鏡の銘文の表と、修論で使った新撰姓氏録の左京神別つまりにぎはやひの子孫が載っている部分の表を見つけたので、原稿集ページに掲載しておきます。
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/
中国に起源を持つ三角縁神獣鏡と物部氏の祖「にぎはやひ」、なにかつながるでしょうか??考えてみてくださいね


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世界遺産、ターナムの岩絵
2005年10月31日 0:05:11 いばらの紀氏

おどろきです、スエーデン西海岸の岩絵 「古代船 なみはや 」と同じ形の岩絵が・
青銅器時代だそうです、甲骨文字の祖に感じました。
それに、古墳? ○に+の壁画が、・・・・・


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磐船
2005年10月31日 2:13:43 管理人
またまた磐船神社にたどりついているんですが、どうも新撰姓氏録の中の物部肩野連という氏族、今度のオフ会で行く予定の交野の物部氏らしいです。物部の唯一本名で生き残っている氏族ですが、平安初期の姓氏録では、一族中でも最後に列記されています。こういう名前を変えない頑固な氏族は一族の中でも神祇をつかさどっているケースが多いようです。それで、磐船神社ですが、以下のHPを見ていますが
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/osaka/temple/iwafune-shrine-03.htm

ご祭神 天照国照彦天火明奇玉饒速日尊というのがおもしろいですね。アマテラスににぎはやひ、隼人系の火明神まで一緒になって摂社に住吉神が祭られている、まさにかわかつさんの世界です。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/osaka/temple/iwafune-shrine-04.htm
こちらのページを読んでいて思うのは、やはり神武天皇とにぎはやひの間で矢をみて同族であることを確認している点ですね。別に矢でなくても鏡でもよかったのでしょうけど、特徴のある矢の形状、文様が刻まれていたのでしょう。そして先祖からの伝来品、つまり神器としての継承品の習慣があったのかもしれないことを物が立ているのでしょうか。三角縁が、伝世鏡であり、製作年代と古墳埋葬年代には大きな時代差があるのもその辺の習慣によるのでしょうか。古墳時代になると実用度が薄れたのかもしれませんが、その辺は紀氏さんの古墳・測量と鏡の使用法実証に期待するところが大きく、そもそも伝世鏡は日本に来る以前から伝世なのか、日本に着てから伝世なのか、中国南方に由来する三角文様は三角縁と角度と天文トンコウはどうかかわるのかなど気になります。あとやはり石上神宮の霊剣がなぜ鹿嶋で模造されたのか、霊剣や神器の観念の起源は石上・物部かなど、ぜひ今度のオフ会は石上神宮にも行きたいところです。


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・・・あ!  蛇の岩絵も・・・
2005年10月31日 1:51:45 いばらの紀氏

蛇の岩絵で思い出しました・

「地図の「南極」に大蛇が描かれている (蛇・・・・海人?)
 斎藤氏はピリ・レイス地図の「南極」に大蛇が描かれていることから、その開拓者は同
時代の日本の縄文土器に蛇の装飾モチーフを残したのと同じ蛇トーテム族であろうとする
(本書48ページ)。」
 やはり、海蛇族が世界をめぐり地図作りをしていたようです。
岩絵には角の有る人?の絵も有りましたバイキングの様な。

  弓を射る人の絵も・・・

 オフ会ですが8日9日・・・・10日もでしょうか?
計画をお知らせください・・・     京都までの道のり・・・・・どのように???迷える紀氏でした。


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中国最古の岩絵文字
2005年10月31日 10:30:43 とみた
岩絵といえば1万5千年前のフランスのラスコー洞窟の岩絵ですが・・・
本年11月中国寧夏自治区で最古の絵文字が発見されました。

漢字の起源とされる殷代の甲骨文字より数千年以上遡るそうです。

図案化された太陽や月、狩猟、舞踊などがあり最も古いのは旧石器時代後期の1万6千年前に描かれたと想定されている。これはラスコーと同時期ですね。中国の原始文字と共通した要素があるそうですが・・・

中国の北京原人は50万年前だけれどその地層の一番上層部には1万8千年前の山頂胴人が発見されている。それにも近いかも知れません。

寧夏自治区は先般のシルクロードの旅で訪れた黄河が北上する蘭州の地からさらに北に行った銀川
というところです。紀元後13世紀に滅びた西夏の国です。今もチベット人や回族が住んでいます。

紀元前数世紀前は犬戎族が居たところに近い。匈奴はこのあたりから西域に侵入した。



犬と関連する民族
2005年10月28日 10:34:00 とみた
かわかつさん 民族移動に拘る冨田です。
中央アジア、中国の西北部に犬か狼が出てくる。
朝鮮では犬を食べる
習慣がありませんか。

犬戎は私の関心事です。西周は幽王のとき紀元前771年犬戎に攻められて滅んだ。犬戎の本拠は黄河が湾曲している黄土のオルドス地方の陝西省、寧夏自治区あたりでしょうか。その北方は今は内モンゴル。古代キョウ(チベット)族、犬戎や古代匈奴のトーテムは犬です.後には、高車、鮮卑、突厥、契丹なども犬のトーテムを崇拝している。

狼は犬、青き狼ジンギスハーン。 きょう族は白犬(白い狼)を崇拝。

下に妙な本を紹介します。

他者への畏れが生み出す神話・伝承の怪物たち
犬頭の聖人クリストフォロス、アウトカーストの犬食い族、辺境の蛮族……
西欧・インド・中国の神話や旅行記・史書には、
怪物種族の一たる犬人=ドッグマンが数多く登場する。
この異形のものたちは、どこから生まれたのか?
三大文化圏のはざまにあった中央アジア民族は、
それぞれの文化圏が抱く「異なるものへの怖れ」によって
怪物として語り継がれた。
異なる文化圏との出会いはまた、
自己と他者の相互認知から起こる融合、差別、排除の観念を生む。
そのシンボルがドッグマンだったのである。
 犬人族が渦巻く中央アジア ……………………………………………………………
1 インドの伝承における犬面人エフタル・フンと女人国
2 中国の史書が語る異民族と犬
3 三大文化圏から見た中央アジア民族の歴史
4 犬戎と犬祖伝説、狼祖伝説
第7章  中国の犬人伝承----槃瓠と犬戎 ………………………………………………………
1 『後漢書』の槃瓠神話
2 槃瓠と犬戎族、マン(蛮)族、ヤオ(瑤)族


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そうですね
2005年10月29日 2:56:25 かわかつ WEB
韓国と中国は今でもそうなのでしょうね。
以前ソウルオリンピックの時だったかワールドカップの時だったか、その食癖が問題になりましたね。
少なくともその習慣は弥生渡来人と共通しているようなのです。ということは???


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犬肉と人肉
2005年10月30日 22:46:49 とみた
高句麗も、鮮卑もツングース人ですね。鮮卑は東胡とも考えられていますが・・・

紀元前16世紀に中国は東北部(ロシア沿海州と中国東北部)にツングースの粛慎と(シュクシン、ジェジョン)という部族連合が居て弓の達人であった採取したテンの毛皮を交易に使う。当然ツングースは豚肉を食し豚皮を衣料にする。粛慎の東に扶余、その東は東胡。

この部族連合から各々の部族長が独立したのが扶余、高句麗,穢,沃そ、百済・・・百済と高句麗は扶余から分かれたといわれている。
若尊老卑の習性を有す。

孔子が生まれたのは春秋時代の紀元前500年代、当時は犬だけでなく、一般家庭の食卓に塩漬けの人肉が並べられ、戦争捕虜は歩く食肉とみなされていたそうです。

粛慎の末裔は靺鞨(マツカツ)人で紀元後6世紀ー13世紀のオーツック人でもある。樺太千島北海道オーツック海沿岸部に居て、擦文文化に融合する。

粛慎は弓の名人からコ矢=コシ=古志・・・裏日本にもつながっているそうです。中越震災は山古志村、長岡市古志郡、松江市古志原町、出雲市下古志町、富山県古志の松原、山形県古志田遺跡

出雲=高句麗説につながるかも・・・


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粛慎のこと
2005年10月30日 23:02:41 とみた
粛慎の東は日本海。粛慎の西が扶余、その西が東胡でした。

粛慎の南が北沃そ、扶余の南が高句麗

コシは楛矢(命中精度の高い弓矢)です。このコシを持って日本に来たのではないか。

7世紀阿倍比羅夫は大軍で北海道蝦夷征伐に出かけて、粛慎(みしはせ)という民族と激しく戦った。粛慎はマツカツのことか。


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管理人
2005年11月1日 18:47:28 粛慎と石弓と矢
粛慎と石弓と矢の習俗気になりますね。越の語源についてお知らせありがとうございます。蝦夷の地に和人が侵入したとき、どのような文化を取り入れていったのか、レイラインとの関係など気になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E6%85%8E#.E6.9B.B8.E7.B5.8C



気持ち悪い話ですが
2005年10月28日 1:25:15 かわかつ WEB
犬を食べる習慣を持つ民族のことを少し。
犬を食べる人々というのが大陸にはいました。(今も?)ああ、またかわかつの悪趣味かとお思いでしょうが、日本では犬の骨が沢山出ています。
縄文時代の犬の骨はきれいなままで皆部分がそろって出土しますが、弥生時代になると特に西日本ではばらばらで出てくるそうです。
どうやら縄文人は犬が死ぬと丁寧に埋葬していたらしく、狩猟の友として犬を認識していたらしいのです。
ところが弥生人はこれを食べていたらしい。犬は食料として認識していた、あるいは死んでから食料としていたらしいのです。
弥生の渡来人はどうやら犬食習慣があったというのです。
食習慣というのは容易に変化しませんから、犬を食べる人々が大陸からやってきた人々であったことがわかります。

ひるがえって牛ですが、これはやはり生け贄として捧げたあとどうしたのでしょうか。大陸で牛を神聖視する民族と言えば、インドやインドシナ、そして半島などですが、牛を食べていたでしょうか。


ヒンズー教徒は牛を食べません。


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まったく別の話です
2005年10月28日 1:49:41 かわかつ WEB
最近女帝容認の方向に政界動いていますが、天照大神を女神であるとする認識は元来、持統天皇以降に藤原政権が作り出した延喜式や神祇令によって確定され、まさにその後女帝の時代が続いてゆきます。
これは天皇の衣服などの規定がどうみても女性用の内容になっているところから想像できることです。
男子天皇が確定されるのは桓武以降なわけです。
太陽神である天照大神が本来、女神ではなく男神だったというのは間違いなく、女神というのは天照大神の巫女であったオオヒルメムチではなかったか。とすると伊勢の外宮の豊受大神こそがオオヒルメムチということになりましょう。では内宮の天照皇大神とは誰なのか。千木の切り口から見て男神と思われるこの神は、かつて話題になったようにニギハヤヒなのでしょうか?
女帝の正当化のために作られたとしか思えない、様々の条例がこの時期に初めて作られていった影に藤原不比等の策謀があったというのが最も明快な考え方であろうと思います。聖徳太子と推古天皇の関係が彦姫という安定政権形態を象徴している。そこにはどうも作為があったのではないか。
次の女帝・皇極(斉明)にしても最初の女帝天皇持統のためにエピソードとしてつくられたのではないのか。どうでしょうか?


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伊勢神宮は
2005年10月28日 2:12:03 かわかつ WEB
ひとり天皇のための宗廟であるわけで、これが持統以降それほど重視されてこなかったところには、どうもその後の男帝たちにとって居住まいの悪い信仰形態だったとしか思えません。
なぜ平安以降、天皇交代の勅使が伊勢でなく九州の宇佐だったか。これは大事なヒントでしょう。
宇佐が応神を主神、比売神を配神としたのは、男子天皇にとってそのほうがふさわしい形態となっていったからです。政治を取り仕切る男子天皇がいてそれを祭祀でバックアップする巫女神がいるという形こそが、中国の考え方にも合致し、整合性が出てきたからでしょう。女帝が政治する形が特殊なものであったと言わざるを得ません。事実それはあの時代だけのエポック的なもので、短期間で終わってしまいます。
最後の女帝であった斉明が道鏡という無冠の平民、いち僧侶に過ぎない彼に天皇位を譲ろうとしたところには、藤原フィクサー政権への反駁がありありと見受けられます。日本書紀を持統即位で終わらせたところにも、紋切り型の藤原氏の押しつけが現れていると思えます。
今となっては当たり前の理論ですが、ここに書き込むことで改めて確認しておきたいと思います。


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訂正
2005年10月28日 2:21:56 かわかつ WEB
斉明ではなく称徳


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女帝
2005年10月28日 3:34:45 管理人
かわかつさんこんばんは。昨日の女帝容認決議の件、いろいろ論議を呼びそうですね。中継ぎ論から、かわかつさんご指摘の藤原政権による意図によるとの説までいろいろですが、いずれにせよ、今も昔も前例主義というのがあったのは否めませんね。前例があったからこそ主張がとおるわけで、それを外国にもってくる説もあったりしますね。前例がよければよし、悪ければ悪しとなるかどうかはわかりませんが、古代史における女帝の歴史は今一番重要な指標でしょうね。伊勢、宇佐の男神・女神の信仰形態のお話おもしろいですね。天皇は、王であるとともに、祭祀家の長でもありますから、祭祀面での考察も欠かせないでしょう。女性が祭祀家の長であったケースも、そのまま女神と関連してくるのかどうかわかりませんが、前例として考えていく必要ありそうです。そういう意味では、仏僧・道鏡を天皇にもってこようとした彼女の祭祀思想はどうなっていたのかと首をかしげるところがあります。いや、首をかしげるのは現代人だけだったのか??ところで、神功皇后はどうして皇后のままだったのでしょう。皇后でなければならない思想的な根拠が背景にあったのでしょうか。宇佐の歴史は重要そうですね。



カシミール3D
2005年10月24日 9:40:07 かわかつ WEB
http://www.kashmir3d.com/
ご存じかとは思いますけれど、便利です。


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山全集
2005年10月27日 10:21:41 管理人
山並みが見えるのがいいですね。山はレイラインの拠点ですから。



双魚紋は十字架以前のキリスト教のシンボル
2005年10月23日 11:09:26 いばらの紀氏
古墳時代の渡来人(騎馬民族系?)はキリスト系?双魚佩(双魚紋は十字架以前のキリスト教のシンボル。)
双魚佩での検索

http://www.mahoron.fks.ed.jp/kiyou/2001_32_3.htm
写真8 真野20号噴出土魚佩(乙)部分(3)
60度の角度がさり気無く使われています。(古代の遺物にやく在ります。)
写真4 真野20号噴出土魚佩(甲)部分(1)

 「魚」についての記述を見ます。なぜ魚なのか?キリスト教にとって魚は特別な意味合いがあるからです。第4章19節にペテロとシモンがイエスに「私についてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言っています。第7章10節には「魚を求めるのに、蛇を与えるものがあろうか」とイエスは言っています。そして有名な奇跡の場面。第14章19節に「5つのパンと2匹の魚を手に取り」とあります。この奇跡の場面からキリスト教がまだ弾圧されていた時代から双魚の印はキリストを示すものになりました。一尾の魚であることもありますが、カタコンベに記された暗号としてのものはほとんど双魚です。ちなみにローマ教皇の帽子も魚の口が開いた形になっています。
魚座の双魚はアフロディーテとエロスの変身した姿を星座にした物です。そしてその変身時、魚に変身するのに失敗して星座になったのが山羊座だったりします…。
   [ 関連HPよりの抜粋 ]
 東北はキリスト系    魚 系?


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東北レイライン
2005年10月23日 15:30:49 管理人
紀氏さんこんにちは。双魚には深い意味がありそうですね。キリスト教でも確かにふたつの魚はよくしようされていますね。先の戸来村の十字をきるの習俗やヘブライ歌謡、やはりなにかありそうです。今回の新潟探索で、その戸来村と伊勢とを結ぶレイライン上に岩舟という地名二箇所を見つけました。以下探索日記に記しましたので、ご参照くださいね。まだ書きかけですが、どうもやはり紀氏さんの著書の主張とおり、地図測量を目的に進出していった集団がいることは間違いないようですね。ではでは。

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/niigatanagano0508.htm



Google
2005年10月18日 6:05:55 かわかつ WEB
http://infoseek.amikai.com/amiweb/browser.jsp?url=http%3A%2F%2Fearth.google.com%2F&display=3&c_id=honyakuinfoseek&langpair=EN%2CJA


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はてさて
2005年10月23日 5:03:37 管理人
上の地図のリンクの意味は??


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地球サイズで
2005年10月23日 18:16:59 かわかつ WEB
歴史をとらえる紀氏さんにプレゼントでした。無用なら消して下さい。


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了解です。
2005年10月23日 19:04:07 管理人 MAIL
わたしもちょっと使ってみます。どうも紀氏さんの世界が現実化して、地球規模の考察が必要になってくるような・・・。


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感謝のこころ
2005年10月25日 13:39:09 いばらの紀氏

 かわかつさん今日は「紀氏さんにプレゼント」ありがとう御座います。温かい御心使いに感謝!感謝!デス。
ロウテクも苦手な紀氏ですのでハイテクの「Google」・・・・トホホ・・・ですが、この掲示板を御覧の方々中には喜ばれるツールになるものと思います。

 管理人さん今日は、「紀氏さんの世界が現実化して、地球規模の考察が必要になってくるような・・・。 」・・・ここまで来られたにも、思慮深く御心の広い管理人さんに拾って頂けたからと感謝申しあげます。
レイラインへの関心が多くの方々に広まり、日本 いや世界の古代史に新たなる展開をスタートさせる起爆剤になれればとの妄想をいだくこの頃デス。

 陰と陽 月(豊穣神)に太陽(トーラ・法) 景教徒(商人?)にローマカトリック(イスラエルの12部族-10部族?) 農耕漁民に遊牧狩猟民 夏の禹に秦の始皇帝(商人?) 出雲(縄文+禹系?+弥生)+神武(ローマ系?)=初期大和 ・・・・・(紀氏の感デス)

「甲骨文字」には旧約聖書の字形と測量・禹を感じます(神代文字の中に甲骨文字が?)、古代文明の陰に超古代文明の存在?(とんでも本は読んでいません。)

オフお勉強会の予定が内定?致しましたらお知らせくださいマセ。
9日10日  私もOKです。


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参考HP です お奨めです。
2005年10月25日 20:12:55 いばらの紀氏

19  一つ目小僧、異形、異能
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/
カッパに関する考察
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/k-0003.html
ユダヤ教神秘主義カッバーラ
http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinpi/kabara.html
http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinpi/kabara2.html
鬼道はカバラ祭祀の変化形
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yuyumuso/uuhasso/okuhito/oku2/qbl-43d.html
一つ目小僧、釈迦とフリーメイソン
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/
 天文学と占い・・・そして『古事記』
http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime24.htm
黄帝と堯・舜・禹の伝説
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/16-goteidensetu.htm
甲骨文研究諸家群像
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/18-2syokagunzou.htm
殷墟の発掘T
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/18-3inkyohakutu.htm
二里頭文化(約B.C.2000〜約B.C.1600)
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/17-ka.htm
古事記正解 
http://www.neonet.to/kojiki/seikai/set-jobun01.htm
「知識が齎したもの」
http://www3.ocn.ne.jp/~x484kok8/tutikumo.html
特権的古代史からあたりまえの古代史へ
http://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/review/rv0513.htm
【 第7章 神話と歴史のはざま
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kk07.htm
漢字動物苑
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/8.htm
~代上
http://www.catholic-shinseikaikan.or.jp/seisho/shujitu/year_c/c52.htm
欠史時代再構築の試み6 骨格
http://www.dai3gen.net/kessi8-7.htm
三上山周辺の岩石祭祀事例(後編)
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/mikamiyamasaiseki2.html
シュメール民族 王朝国家 論
http://www.ani.gn.to/
Щ 1 イルガガ
http://www.ani.gn.to/new-page-46.htm
Щ 1-5  古代母権社会と母権王
http://www.ani.gn.to/new_page_28.htm


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wawawawa!
2005年10月26日 0:09:42 かわかつ WEB
こんなに沢山見れません〜〜〜
掲示板がパンクするんじゃないの?

イルガガは私には懐かしいです。
一つ目小僧は関連を今読んでいます。

Google earthは右のウィンドウにある「インストール」からコンプリートを選んでOKですよ。


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徐々に
2005年10月27日 10:22:17 管理人
拝見させていただいております・・・。


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紀氏さんへの応援歌
2005年11月4日 9:56:47 とみた
紀氏さん

下のHpを見ました。

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0kodainosokuryou.htm

意外や意外古代の謎解きは面白いですね。

笠沙と多胡碑の謎。

今年はじめ、笠沙を訪れ、11月16-17日は多胡碑を見に行きます。

笠沙は笠=竹+立・・・これ測量道具なるほどね。

多胡碑の3と4と5 そして品。三平方の定理。ピタゴラスも数字

を宗教的な意味合いで使っていたから古代の数字は意味ありです

ね。笠沙はボートピープルが漂着したところ。中国の江南や南方から苗族か呉越の倭人かですね。

彼らが、そんな数の不思議を知っていた。

多胡碑は新羅人の渡来人が住み着いたところでしょうか。

天平(766)上野国にいる新羅人子午足など193人に吉井連という姓を与えられた。

われわれ素人でも上記の例ならわかりますが、余りに多すぎると本当かななんて疑うのも事実です。

どうかわかりやすい素人向けのガイダンスを作って啓蒙してください。

興味がわけば自ずと詳しく知りたくなるものです。

本を二分割する。素人向けのわかりやすく面白風のガイダンス。専

門家向けの詳論です。

さすれば、古代人の測量技術のすばらしさについてもっと興味を盛ってくれる層が増えるような気がしますが・・・

いかがでしょうか。