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渡来人研究会掲示板ログ10

金星会合周期
2005年10月17日 8:12:55 管理人
下の紀氏さんとの問答の続きですが、紀氏さんが出してきた中国一里582.8kmは、もしかして金星会合周期584日では。
紀氏さんご指摘のエラストテネスの割り出した地球の円周4万6500kmを、金星の会合周期584日で割ると、79.4kmが出ること、それは飛鳥→伊勢間の距離になるとすると、彼らは緯度・経度測定を金星の会合周期から割り出したのでしょうか。どちらにしても79.4KMを一単位として、富士山→諏訪間、諏訪→鹿島間、諏訪→伊勢間を割り出したことは確かです。
金星食の際に、緯度が違うと、月と金星との重なりの位置が相当違ってくるようです。以下HP参照http://www.astroarts.co.jp/special/20030529ven/index-j.html
ヒッパルコスの経度測定は、月食時の各地点での視差によるものでした。金星食ならもっと正確に経度測定できたでしょう。すでに天武紀あたりになると、月が星を食する記載があり、高度な測量を有していた可能性がありますね。金星食がいつ起こるか、金星の軌道面の角度なども計算して、どのくらい予測ついたでしょうか。
この辺もうすこし今度の研究会あたりで詰めてみたいですね。
例のキトラ古墳の星図の制度もかなり高いようですが、以下のHPなどもご参照ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/jpnkitorazze.htm
それにしても4000年前には金星がなかったという説もかなり有力になってきましたね。木星から2000年前から爆発して生まれて、当初の記録にはかなりまちまちな周期で回っており、だんだん彗星の尾が取れて、木星と分離したそうです。木星の神ゼウスと金星の牛?神とは、かなり混同されていたそうで、日本では金星と木星はどう捉えられていたのでしょうね。
http://www.fitweb.or.jp/~entity/uchuu/kinsei.html



お久しぶりです
2005年10月15日 4:40:16 かわかつ WEB
八幡古要神社のくぐつ舞いアップしました。
http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/kamizumou.html
今回、動画のアップに挑戦しました。なかなかうまくいかず四苦八苦しましたがなんとか貼り付けましたのでどうぞ合わせてご覧下さい。


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ビデオ映像
2005年10月16日 2:01:07 管理人
かわかつさんこんばんは。さっそくHP拝見しました。いいですね、ページ開くと同時に祭りの太鼓の音色が・・。人形の相撲はなかなか迫力ありますね。貴重な模様見せていただき、大変勉強になります。祭られている神功皇后の妹というのは、確かに重要な視点ですね。住吉様が出てくる点もそうですし、まさに神代の伝承世界ですね。九州宇佐にやはり起源があるんですね。隼人退治、阿多の隼人は意外と遅くまで抵抗していたんですね。奈良初期までとは・・・。大隈隼人と阿多の隼人だと、確かに朝廷からの見方も違いますが、関係ありなのかな??それでは、どうにも忙しくお返事するのがやっとですが、いろいろありがとうございます。


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今度福岡の
2005年10月17日 0:49:57 かわかつ WEB
全国4番目にできた国立博物館(九博)へ行きたいと思っています。太宰府なのでついでに天満宮と鸛廬館跡もまた行きたいですね。
例の志賀島の金印が展示されているそうです。
ついでに高良大社まで脚を伸ばそうかな。


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九州
2005年10月17日 4:08:42 管理人
かわかつさん、こんばんは。九博なかなか、最新の設備満載でおもしろいところですよ。鸛廬館跡もよく復元されていました。高良神社は知りませんでした。ぜひ、写真等でお教えくださいね。



一里=580m(600mに近いです!)
2005年10月14日 11:15:40 いばらの紀氏

中国の地図史
漢代の地理学
領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者とされています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図ですが、中国では西洋科学がもたらされるまで、大地が平らであると考えられていたため、投影法が考案されることはありませんでした
http://homepage1.nifty.com/ptolemy/history/history.htm
参考HP
天文学年表
http://wwwsoc.nii.ac.jp/icic/08_MUSEUM/03_HISTRY_ROOM/ERASTO/ERA.html
エラトステネスはこうやって地球の大きさを測った      4万6250kmと計算した
エラトステネスは実際には「ノーモン」という円柱で太陽高度を測りました。また7.2°は円周の50分の1ですから50×5000スタジア=25万スタジア=4万6250kmと計算したともいわれます。

古代中国に一里580mで古代の地球の円周4万6250kmを割った数=582.49  582.49で4万6250kmを割った数=79.400
79.4・・・・・79.4km・・・・ビンゴでしょうか?偶然でしょうか?
「奈良→伊勢間の距離が80キロであり、伊勢→白山仲居社までは80*2の160キロの単位である。三春→一関も160キロであり、三春は旧百済のソウルに、一関は旧高句麗・平壌と同緯度である。80キロの尺単位が、ソウル→平壌間の緯度差にあるとすると、レイラインの基礎単位が大陸起源の可能性もあるだろう。」・・・・・・・
・・レイラインの基礎単位が大陸起源  でした?


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訂正です。
2005年10月14日 11:35:02 いばらの紀氏
一里580mで古代の地球の円周4万6250kmを割った数=582.49 では無く
「80キロの尺単位が、ソウル→平壌間の緯度差」の80キロの尺単位
80キロ=(79.4)の「79.4キロで地球の円周4万6250kmを割った数=582.49  です。


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参考
2005年10月14日 12:17:02 いばらの紀氏
「神々の発見−超歴史学ノート」 より
(約6000年前の「ピリ・レイス地図が存在?)
「ピリ・レイス地図は全地球的ネットワーク文明の存在を証明した」(1983年11月初出)
 ピリ・レイス地図に関する書誌学的な説明と、その作図法の解説から約6000年前に
栄えた太古文明ネットワークの可能性に説き及ぶものである。地図の作成年代が16世紀
であること、複数の地図を組み合わせたものであることなど、基本的な情報はきちんと紹
介されている。

 斎藤氏は、地図から割り出される地球の大きさが実際よりも4・5パーセント大きいこ
と、その誤差が無意味なものではなく古代ギリシアのエラトステネスが行った有名な地球
計測の算定値と一致することを指摘した上で次のように論じる。
「ピリ・レイス地図では、経度の驚くべき正確さにくらべ、緯度の誤差は北に向かって増
加し、また赤道から南へ向かって増加する。ところがこれにエラトステネスの算定値を当
てはめ補正すると、その誤差を大きく減少させることができる。(中略)太古の原地図製
作者は、それとは別個に地球の円周を算出した。エラトステネスの犯した誤差によらず、
いまのわれわれとまさしく同じ正確な地球円周値を知っていた!そう考えるほかにない」
(本書39ページ)


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参考2
2005年10月14日 12:18:55 いばらの紀氏
 しかし、考えてみれば、この問題はギリシア文明の遺産と十七世紀のイスラム文明の知
識が共にピリ・レイス地図に生かされているとするだけで解けるものであり、何も「太古
の原地図製作者」を持ち出す必要がない。また斎藤氏は「ピリ・レイス地図では、南極大
陸はやや北すぎる。そのため南米南端のホーン岬から地続きで南極海岸線が長く伸びてい
る。つまり緯度にして25度の誤差となる」と指摘しながら、緯度を補正すれば誤差を5
パーセント以内に抑えられるとしている(本書44ページ)。だが、その一見、南極大陸
に見えるものを南米大陸の海岸線として見直せば、大幅な補正を加えるまでもなくリアル
な地図になってしまうのだ。斎藤氏はピリ・レイス地図に南極大陸が描かれているという
ハプグッドの解釈に引きずられたようである。

 しかし、斎藤氏は「ロス海のコア・サンプリング(海底をボーリングして堆積者の粒状
資料を採集する)によると、ここ何十万年かの間、南極大陸には四回の温暖期があり、そ
の前後の寒冷な氷河期堆積物と互層している」として、その最後の温暖期、今から600
0年前に南極を開拓した人々がピリ・レイス地図の原地図を残したのだろうとしている(
本書44〜45ページ)。

 それだけでも南極の氷がほんの一万二千年ほど前に一気にできたなどというハプグッド
#NAME?

地図の「南極」に大蛇が描かれている (蛇・・・・海人?)
 斎藤氏はピリ・レイス地図の「南極」に大蛇が描かれていることから、その開拓者は同
時代の日本の縄文土器に蛇の装飾モチーフを残したのと同じ蛇トーテム族であろうとする
(本書48ページ)。しかし、ピリ・レイス地図の「南極」が南米大陸の一部だとすれば
、そこに大蛇が描かれることは必ずしも不思議ではない(もっとも問題の「南極」は南米
大陸南端に近く、そこには現在、大蛇はいないという疑問はある)。

 紀元前4000年の温暖期、ピリ・レイス地図の「南極」(南米大陸南端)から日本列
島までかけめぐった蛇トーテム族という仮説は魅力的である。斎藤氏には、こうして批判
を踏まえた上でぜひその仮説を発展させるようにお願いする次第である。


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参考
2005年10月14日 12:19:24 いばらの紀氏
太古日本のピラミッド”
 エジプトの大ピラミッドはほぼ北緯30度の位置にあるが、斎藤氏はそこから地球を北
緯30〜50度の「大ピラミッド・ベルト」が廻り、そこに世界のほとんどすべてのピラ
ミッド遺跡がある(本書65ページ)として、日本列島もベルト内に収まる以上、そこに
ピラミッドが見つかる可能性が高い(本書66ページ)と説き進み、日本各地のピラミッ
ドの噂がある山々を紹介するものである(広島県のうが高原・葦嶽山、秋田県黒又山、岐
阜県位山、徳島県剣山、奈良県三輪山など)。


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レイライン 完結近し
2005年10月15日 13:27:36 いばらの紀氏

 日本を東西に横切るラインの大別すると二種類在りました。
私が銘々しました。
「出雲系ライン」     ・主に海上から陸上の目印を定め測量 (北極星を北の基準としたらしく北が約33度 東にずれる。)
「高千穂ライン」            ・(北の位置が 30度東にずれる。)
                 役行者ライン    (北の位置が 約28度東にずれる。山頂からの測量 ほぼ正確 後の修正が重ねられた可能性有り。)
                    A 鹿嶋ライン   (北の位置が 約28度東にずれる。)
                      B 空海ライン     (高千穂ラインの吉野までの角度2度修正 北の位置が 約28度東にずれる。)

 講評       磁石の存在が危い古代に北極星を北と定め(縄文期 夏の禹の時代)長い年月での地球の歳差運動での誤差は、当時の天文知識では仕方が無かったと思われます。
           山頂からの測量の精度は∴史蹟などから寺社に移り変わり精度が増した。(寺社の位置が∴史蹟の位置を参考に誤差が修正されたからと診られる
            「行基図にみられる不正確さは狭い範囲での作図では影響は感じられないが九州〜関東までの地図を描くとなると地球が球体で在ることでの平面図への縮図では角度の誤差が影響したものと思われる。
           江戸時代の「長久保赤水」(大日本史の地理志編纂に関係した儒者)の「改正日本興地路程全図」などは、修験者や僧侶などにより極秘に行なわれた測量史料をまとめた図と思われます。
           古くから言い伝えらえた民話やお伽話の動物や妖怪などに測量に従事した「役」に縛られた「籠の中のとり」の殉教を感じます。


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世界地図
2005年10月16日 1:55:37 管理人
79.4キロにそんな秘密があるとは知りませんでした。確か、電子地図を開き、パソコンの画面上で飛鳥→伊勢間が10センチになったので、縮尺を見ると画面上3センチで24キロメートルをさしていたので、そのまま24キロ×3.33で79.4キロメートルが出てきたと記憶しています。とすると、紀氏さんのご指摘にそうと、彼らはギリシア人のエラストテネス地球の円周と、中国の一里を知っていたわけですね。景教徒とか、ローマ系の知識を持っていたのでしょうか??
つまり、紀氏さんの計算だと、1単位79.4キロが582個集まると4万6000キロの地球の円周になるというわけですね。伊勢飛鳥間の距離1単位を582個つなげると、ちょうど地球を1周する。582キロで中国の1里というのはおもしろいですね。不思議ですね。解明楽しみです。



いっぱいでしたので、
2005年10月12日 15:42:31 いばらの紀氏
 これまでで一番のお奨めHPです。
「2 扶余系民族が日本に来た可能性」・・・・充実した内容でしたが現在 記載されていませんでした (外圧に遭ったみたいです。)残念です、次のHPいかがでしょうか。
鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/hatareisei/hata1.htm

これで、測量士 鳥トーテムたちの国造の存在を証明出来たでしょうか?
山梨県の鳳凰山 確認しました。鳳凰山から北東に福島・栃木・茨城の県境「八溝山」 鳳凰山から南東に 千葉県 房総半島の 「愛宕山」  繋がりました 「鳳凰山」から北東・南東に内角60度「八溝山」「愛宕山」が鎮座していました。さらに「鳳凰山」から「八溝山」から南方「愛宕山」への内角は「45度」でした、これで念願の古代からの地図作りの測量士 国造の存在を証明出来たでしょうか?
童歌「かごめかごめ」の謎解き   より
詞の前半にある「籠の中の鳥」は鳳凰の「鳳」という字を表していると考えます。「鳥」という字が「几」という“籠”の中におさまっているからです。
日本国内の鳳凰山を地図上で探したところ、山梨県と秋田県の二ヶ所にしかありませんでした。この二点を直線で結んだほぼ線上に出羽三山の月山があります。月山にある月山神社には月読尊(つきよみのみこと)という神様が祭られています。これらもまた「月」を指しています。「籠の中の鳥が出やる」とは、この二つの鳳凰山を結ぶことだと考えます。

 この事実、何方に承認していただけば宜しいのでしょうか?
東北の探索地とレイラインの関連見させていただきます。
 野田の愛宕神社の西に鶴 角と亀 規が滑って(事が順調に進む)出合った「万年橋」は在ります。篭目の謎解きでした。


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高麗尺??
2005年10月13日 9:05:38 管理人
紀氏さんさっそく貴重な情報ありがとうございます。秦氏の伝来から、中世の子孫たちまで、まとまって調べてあるので助かります。
鳳凰の名前の山とレイライン、カゴメの歌と関係してくるとすると、籠の解明が重要ですね。紀氏さんの著書にすでにその辺書かれていたと思いますが、どうも古墳のこころと地図作り、間違いない線で証明されてくるように感じました。今回の探索日記のまとめは以下のとおりです。それにしてもレイラインにはどうも80KMの尺がありますね。
母方の祖の地一関はピョンヤンに、父方の祖の地三春弥栄はソウルと同緯度です。だんだん尺と1対2の直角三角形の起源がわかってきました。

☆天智期から奈良時代にかけての渡来人移動・配置、席田郡、高麗郡、新座郡、矢板、大子等にみられるごとく、東西南北レイライン上に配置されたことがわかる。さらに払田柵など、渡来系の坂上田村麻呂遠征等の関連、藤原秀郷および秀衡系統の東北諸氏族の拠点もレイライン上にあり、彼ら軍事・開拓を通して、レイラインの作成に携わっていた可能性があるだろう。80キロメートルを1つの尺の単位としており、1対2の直角二等辺三角形を基本とする。奈良→伊勢間の距離が80キロであり、伊勢→白山仲居社までは80*2の160キロの単位である。三春→一関も160キロであり、三春は旧百済のソウルに、一関は旧高句麗・平壌と同緯度である。80キロの尺単位が、ソウル→平壌間の緯度差にあるとすると、レイラインの基礎単位が大陸起源の可能性もあるだろう。渡来人研究とは欠かせない課題である


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高麗尺??=600メートル?(一里? 
2005年10月13日 10:43:04 いばらの紀氏
「古墳のこころと地図作り、間違いない線で証明されてくるように感じました。」・・・・ありがとう御座います・背中に鳥疲れた方の荷が下りた気持ちです 秋風のような清清しさです。
高麗尺??=600メートル?(一里? 経験から古くからの道路を行きましと、寺社・石仏・橋・祠・・・などなど 区切り境 道祖神 境神・地蔵・馬頭観音の石碑・・・)
「80キロメートルを1つの尺の単位としており、1対2の直角二等辺三角形を基本とする」
1:2:√3  √3=80  6:12:√24 2:6:√9(6も高麗尺??に関係しますよネ?)
 メカにも数字にも弱い   紀氏でした。


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訂正です。
2005年10月13日 11:01:26 いばらの紀氏
2:6:√9を訂正します
3:6:√9です。削除キー*****忘れました。

 管理人さん 他の******も????です・
すみません お手数でもお教えください・
記憶にも弱い    紀氏でした。


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79.4KM=??
2005年10月13日 11:02:18 管理人
紀氏さんさっそく数字データありがとうございます。紀氏さんの著作にあろご指摘600メートルスポット説の延長で80キロまでたどり着くといいのですが・・・。


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この辺
2005年10月13日 11:04:02 管理人
今度の11月18日の京都での渡来人研究会オフ会改め、勉強学会でやりましょうか。会員制もそのときまとめて申し込みとかどうでしょう。場所が問題ですね。


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龍りゅう: 調べました。
2005年10月13日 14:43:28 いばらの紀氏
「籠の解明が重要ですね。」・・・調べました。
龍りゅう: 留りゅうからきているらしい、留める(駐留?根)・閉じ込める(魔法陣?)篭る(修験者の修行?)・土を盛る器(古墳?造り)だいぶ主観が入りました。
「かごの中の鳥」で・・・「役の行者」を思い浮べました、【役】やく・えだち(枝?) :えだち(夫役):公の土木工事などに使われること。
【役】:字解すると「道」(タオ?)+武器(竹の杖が???「杖」山伏の?:錫上・・僧侶)をもって巡り歩く警備の意味(測量のポールをもって巡り歩く(狩!将軍の鷹狩は測量の名残では?)警備員(測量士・禹の兵士+役夫)
えだち(枝?木き+支し)「支」は手に十字架?Ψ(測量の道具・)干支えと?(兄と弟・・・・測量でのパートナー・計算・)・・・・切りが無い・・トホホ
木=岐=枝道(レイラインから30・45・60・75・90度角にのびる枝道・ユダヤの祭器 ロウソク立て???)
管理人さんにも見えて来たと思います・・・・・!・・・勉強会ですか・・・苦手です・・・同席することでお許しください。


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物見山(種山)
2005年10月13日 23:09:54 いばらの紀氏
東北の地図でライン三昧、物見山中心での対角線に∴ラインの数が沢山現われた西南西には国見山が・・・・しかしネットでの情報は少なし。
物見山(種山)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hisaya/hamananbu.htm
安倍貞任
皮膚肥白なり・・・・白人?でしょうか。
http://www.jomon.com/~emisi/semi/10semi/kadoya-2.htm
 『陸奥話記』には安倍貞任の最期を、「貞任は剣を抜いて官軍を斬る。官軍は鋒をもってこれを刺し大楯に載せ六人でこれをかつぎ将軍の前に置く。その長さ六尺有余。腰の囲は七尺四寸。容貌魁偉、皮膚肥白なり。将軍、罪を責む。貞任は一面して死す。」と記している。
遠野三山
http://toraneko.cside.com/newpage64.htm

物見塚には縄文時代の遺跡が
 また城郭のあった台地平坦部からは、時代をさかのぼって縄文時代の竪(たて)穴住居跡も発掘調査で発見されています。周辺にも同時代の遺跡があり、古代より早川城一帯は住みやすい場所だったことがうかがえます。

伊太祁曾の神は「るりヒタキ(鳥名)」のヒタキ



緊急依頼です。
2005年10月10日 21:27:38 いばらの紀氏
緊急依頼です。
レイラインを考える「鹿嶋」 タケミカッズチと「香取」フッツヌシが思い浮びます。
鹿島神宮(タケミカッズチ)のレイラインはみなさん御存知と思います。
では、フッツヌシのラインは?千葉に富津市が在ります。富津市から香取神宮・鹿島神宮には古代の道が存在したそうです。(確認していません。丑寅・鬼門の方角 鬼門ラインですね。)

「∴」 史蹟 (古墳?) が古代の測量台との証明が出来そうです、千葉の鴨川 「愛宕山」〜富津市「鋸山」〜浦賀水道を越え〜横須賀市の「武山」「富士山」あたりが人工の山・丘・古墳?だとしたら「ビンゴー」です。この掲示板を御覧の方々で横須賀市「武山」「富士山」の情報をお知らせください 御願いいたします。


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ここまでは調べました。
2005年10月11日 0:14:38 いばらの紀氏
逗子市略年表
古墳時代
新宿、山の根、沼間に横穴古墳群が確認されている
http://www.city.zushi.kanagawa.jp/second/zusisi/toukei/contents/P_files/H12toukei18_01.htm
98年 (景行28年)
日本武尊、東征に際し、本市通過の伝あり

        三浦半島百景・・・一騎塚  一覧 戻る
 穏やかな峰が連なる武山(標高202m)。山頂には三浦不動尊の一つとして知られる武山不動院が建つ。この登山口の近くに一騎塚(横須賀市武)がある。
 鎌倉時代建暦3年(1213)の和田合戦で、和田義盛に加勢した武次郎義国が、ただ一騎この地から鎌倉にはせ参じて戦い、討ち死にしたのを里人が哀れんで、塚を築き霊を弔ったという伝承に由来する。
 塚の中腹のがけには三基のいかめしい青面金剛(庚申供養塔)が立っている。階段の上には不動明王像、聖徳太子塔、そして富士登山信仰地蔵尊像なだが散在している。庶民信仰を物語るこれらは、同市指定史跡および有形民俗文化財に指定されている。佐島石工の作品として、地域文化を後世に伝えている。(あし)JR衣笠駅より京急バス横須賀市民病院行きで一騎塚下車、徒歩3分。(横須賀支社・山田信次)平成13年6月5日 神奈川新聞

逗子市披露山公園の七曲坂古東海道
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/mukasino_Folder/zusi_folder/zusi-na01.html

猿島
http://www.geocities.jp/sakingno13122/rekisi/sarusima.htm

古墳とその周辺の地理的環境
http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/syougaigakusyu/shuhen.html
富士山は日本国 測量のON1ポイント。(富士見の地名)

 新丸子に富士山はありません
http://www2s.biglobe.ne.jp/~fuke/meisho.html

富士見塚古墳公園
http://www.kasumigaura.net/mapping/page/l-970504a-04.html

三浦半島最大の前方後円墳は古久里浜湾を望む丘の上
http://members.jcom.home.ne.jp/3372442101/kaze-kohun-ootuka.html

縄文人が暮らした丘と三浦水軍の拠点・怒田(ぬた)城
http://members.jcom.home.ne.jp/3372442101/kaze-kohun-yosii.html

三浦富士
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/takeyama_hike.html

19 経塚
長井中央の高台に、こんもり木の茂った塚があります。
最近の調査では、経文は出ず、前方後円墳ではないかと考えられています。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/6663/m_rtanken/html/y_nagai.html


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さすがは
2005年10月11日 8:55:04 管理人
紀氏サン、だいたい私の感じるところと同じ線でイメージ着いてきておられるようですね。ぜひ、千葉、三浦、富士山ラインのほうの調査証明よろしくお願いします。やはり富士山ですよね。南北ラインは、東西ラインと目安がちがって北極星を必要とするのではないかと感じます。東西ラインが太陽信仰とすると、南北ラインは星辰信仰にならざるを得ない感じですね。その辺古代史ではあまり解明されてないですが、民俗学関連だとそうとう研究すすんでいるんでしょうね。忙しくてなかなか論文も読めないのが残念ですが、読書の秋にすべきですかな。会員ページはいまだできてないです。はやく作らねばと思いつつ。


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地図ソフト
2005年10月11日 8:56:59 管理人
これはゼンリンの無料地図ソフトで15日間の使用期限ありますが、かなり使いやすいので、ぜひインストールして使ってみてください。
https://secure.zmap.net/entry/navi?CID=ZRZMMB1001


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儀意見 下さい。
2005年10月11日 22:59:42 いばらの紀氏
管理人さんお世話に成ります、御心使い 感謝しております。
地図へのライン・・気が重いです、メカに弱いのと・・敬遠ぎみ トホホ・・
いずれはチャレンジせねば・・・と、嘆く紀氏でした。
地図上で説明なら理解していただき易いですが、以前 県の文化課の二人の方に地図にラインを引き説明しましたところ お一人は関心を示し学者先生探しにご尽力いただけましたが 既成概念の強い方々には 偶然・そんな 在り得ない 自らの目で見た事実をも信じようとしませんでした。
私の説は、古代人の文化は遅れていたはず の概念の方々には理解不能です ガリレオと同じ気持ちです 渡来人研究会の掲示板をごらんの皆様は、いかがでしょうか?   考えをお聞かせいただければ幸いです 御願いいたすます。
          さまよえる 紀氏でした。
 例    私の尊敬する方の場合。
「古代地図でも同じだと思います。
ある目標とある目標のおおざっぱな位置関係がわかればそれでよかった。
どれだけ正確な位置関係が必要か。
弥生時代では? 古墳時代では? 江戸時代では? 現代では?

隣家との関係では? 隣村との関係では? 隣国との関係では?
どの時代でも、どの関係でも、川は常に明確なポインタ(ライン)になっていると思います。
角度ではなく地形(地勢)です。これは古代でも現代でも同じだと考えています。
(地形や環境を無視した事務的な線引き、これはトラブルの源になると思います)」
 理解していただく事の難しさを感じました。


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K2は世界測量の目印 
2005年10月12日 4:16:35 いばらの紀氏
K2は世界測量の目印 大いなるポイントです。
シルクロード タカラマカン砂漠に かつて繁栄を極めた幻の都 ∴楼欄 
かってユダヤの商人たちは東から西の貿易にタカラマカン砂漠を横断してホータンを目指した。
360度 砂砂砂の中、目指すは「チョゴリ山」(K2・ゴットウインオースチン山)
この山を風水で祀るなら北を「玄武」祖先として位置する南方の国 インド
古代インダス川流域に繁栄したインダス文明が存在した。
「チョゴリ山」は∴モヘンジョダロの遺跡の南東に聳える
∴モヘンジョダロから「チョゴリ山」から西 30度の方向に∴ガンダーラ仏跡が在る。
∴ガンダーラ仏跡から「チョゴリ山」から南西45度に ∴ハラッパ
∴ハラッパから「チョゴリ山」から南30度に ∴アジャンタ
「チョゴリ山」から東南には「チョモランマ」エベレスト
「チョモランマ」から「チョゴリ山」から南30度に ∴サーチー
∴サーチーから「チョゴリ山」からから「チョゴリ山」から南30度に ∴釈迦誕生地さらに先に ∴ブッダガヤ
南北∴アジャンタ〜「チョゴリ山」(K2・ゴットウインオースチン山)
東西∴釈迦誕生地〜∴モヘンジョダロ
この二つが90度角でクロス 東西南北の十字が現われる。
ユネスコの世界遺産に失われた十部族の足跡が見えてくる。
足跡と言えば漢字は鳥の足跡から生まれたとの言い伝え、酉は地図つくり 測量士の隠語? 漢字は夏の禹 烏ウ鵜ウ羽ウの測量での足跡ソクセキから。

管理人さん かわかつさん、私の著書のなかの「ゴットウインオースチン山」が現われました。
「光」の古字形は人らしき頭の上の火の字形です、私の想像ではヤウエーは山の神 光は山頂の雷雲か噴火口のマグマの明りではと思います。
 メールに参加できない不器用な紀氏でしたIDを忘れてしまいましたトホホ・・・・


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東北レイライン
2005年10月12日 10:27:51 管理人
紀氏さんのレイラインなかなか研究者の方には理解してもらえなかったのですね。でも、応仁→仁徳天皇陵、伊勢→飛鳥とか、諏訪→鹿島とか、学者の間でも認められている有名レイラインもあり、その辺知らないで考古や古代史やるのはかなり片手落ちではと感じます。紀氏さんのおっしゃるとおり、地図測量は軍事上欠かせない作業ですし、奈良前後の渡来人の移動配置もレイライン上にあるのは、意図的であることが研究会の報告でも明らかになってきています。古代史でも渡来人の採掘と軍事との関連は必須な知識ですし。
そこでわかりやすいように、地図で東北の探索地とレイラインの関連まとめてみました。以下のとおりです。ご確認くださいね。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/aomoriyamagata050920.htm

青森・山形・栃木探索
2005年10月9日 8:27:20 管理人
先日の青森・山形・栃木探索をアップいたしました。以下のページです。ぜひごらんになってみてくださいね。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/aomoriyamagata050920.htm
掲示板で話題になった藤原秀郷やレイラインなど、いろいろ書いてみました。後で写真は加えていく予定ですが、なんせパソコンが立ち上がったりあがらなかったりかなり不安定で、やっとのことで仕上げています。ではでは。



画像掲示板に閃きが
2005年10月8日 18:37:22 いばらの紀氏
「殷墟 」・・・・・「車」はヤ(矢)を一所に集める
殷墟は黄河の北、安陽市にあり、紀元前1300年ごろの墓の模様です。車は木製でしょう・・・・
とみたさんの「殷墟 」での車輪の画像に閃きが・・・・・ユダヤと車輪との繋がりに地図つくりが・・・
画像掲示板
http://8811.teacup.com/toraijin/bbs
「富士山」〜当時の首都「京都」〜九州の東西のライン(日本を描くには当然のライン)
しかし、現在の地図に東西のラインを描くと当時の首都「京都」より南の「吉野山」を
通過しているのです。(吉野と言えば日本の古代史史上、もつとも有名で秘密めい
た所です。)西の終点は、高千穂をぬけ水俣その先は甑島列島(甑こしきの漢字に
「轂こしき」を思い浮かべた、(轂:牛車の車輪の中央にある円木。車軸がつきぬけ、
輻ヤが四方に出ている。ヤを一所に集める・しめくくるの意味。)東から放たれた矢が
西の的に集まる・まさに日本の東西の車軸にふさわしい。(地名にも意味が隠されて
いる。)・・・(紀氏の原稿より)

神の戦車メルカバー
http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinpi/merukaba-.html
四つの車輪
「救いに至る門」ならば、回る炎の剣は「滅びに至る門」である。
四つの車輪はあくまでも「緑柱石のように輝いていた」のであって、緑柱石で造られていたのではない。輝く緑柱石とは、絶対神の周囲を覆うケルビムの炎の象徴であり、『ガルガリン=回転するもの』と呼ばれるように、くるくる回る炎のようなものと考えるのが一番よい。すなわち、創世記に記された“回る炎の剣”と同じものなのだ。ケルビムの脚が「救いに至る門」ならば、回る炎の剣は「滅びに至る門」である。救いに至る門は狭く、入る人も少ないが、滅びに至る門は大きく口を開き、入る人も多い。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせられた。(「創世記」第3章24節)
(回る炎の剣は仏教にも伝播?
大和=矢的=ヤを一所に集める・しめくくるの意味も?(矢と的の間はレイライン?)


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旧約とレイライン?
2005年10月9日 9:48:45 管理人
紀氏さんこんにちは。旧約聖書にも確かに、神殿の周囲四方を計ったりする記載ありますね。東西南北レイラインとのかかわりはどうなのでしょう。エルサレムと四方観念?、京都と四方観念との関連は有名ですが・・・。



管理人さんへ皆様へ
2005年10月5日 23:21:34 かわかつ WEB
1 とみたさんも再三忠告しておられますように、不必要な投稿を削除してください。
2 YAHOO!渡来人会員ページの再告知をそろそろしておくべきです。会員の増加は望ましいことです。
3 紀氏さんの的確なる要求にて、次回オフ会の予定日が〜月〜日と確定しそうです。今回これるかた、これないかた、早急にご連絡をYAHOO!メーリングへご連絡願います。
4 新しく会員になられたい方はとりあえずここへレスされたし。

錦秋の^^で早く飲みたしうまし酒!


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了解です。
2005年10月6日 6:57:48 管理人 MAIL
さっそく不必要な書き込みの件は削除いたしました。
会員についてですが、とりあえず、会員希望の方は、管理人までメールください。次のオフ会の件とあわせて新ページ作成したいと
思います。少々お待ちを。ではでは。



若宮さん、それ知ってます。
2005年10月3日 1:10:01 かわかつ WEB
下が一杯になりましたので。

ほうれん草など今はその方がいいそうですね。
あと冬の葉物などはわざとビニールハウスのおおいを開けて、寒波にさらした方が甘くなるそうです。そういう野菜は私もスーパーで見かけますが、肉厚で色も濃いです。
私、スーパーの青果部にいた兄がおりまして、よく一緒に市場にも行きましたのでけっこう野菜のこと詳しいですよ。^^
古代の畑作はどうなのか、ちょっと遺跡は残らないでしょうが、田んぼは草の種が沢山残ったのと、少ないのとが並んであって、いわゆる休耕田というものは古代もあったそうです。
もしや若宮さんも農家でしょうか?


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畑のことは
2005年10月3日 21:22:55 若宮
かわかつさん、こんばんは。
残念ながら農家ではありません。畑のことは、家族のものの方が詳しいし、うまいです(笑)。子供の頃から周りの者がなにかしらを育てているところを見てはいたのですが、ン年前に、自分にその技が受け継がれていないことに気付いて、非常ーーに危機感を憶えました。とはいえ、土いじりや虫の類に対しては抵抗はない方だと思います。
ただ、いわゆる薬漬け状態の作業や、専門用語ばかりの専用書籍(研究、分析の結果でしかたなくそうなるのでしょうが)には直感的に違和感をもっていましたので、その無・無・無の一見野放図に見えるやりかたに出会えて、かなりうれしかったのです。
もっとも、食いぶちがかかっていたら、おっかなくって出来ないかもしれませんがね。
遺跡にも休耕田らしきものがあったのですね。連作障害を経験則で知っていたのでしょうか。それと、いわゆる堆肥とか肥溜めのスペースがあったかどうかはご存じでしたら教えて下さい。(おおー質問攻めにしてしまいました。御迷惑だったらごめんなさい。)
余談になりますが、冬に作った小松菜はとおおーってもおいしかったです(笑)ところが何をどう間違ったか大根はおかしなものになりました。すりおろすと甘くて茹でると苦くて。せめておろしたら辛ければ使い物になったのですが・・。


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私は最近
2005年10月4日 1:34:59 かわかつ WEB
WEBでハーボットという子猫を飼い始めました。そいつが私の日記の中に種をまいて勝手に育てておるのです。
ちょうどよい暇つぶしですわ。ははは・・・


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WEB子猫ですか
2005年10月5日 21:39:19 若宮
バーチャル系はたまごっちさえ育てたことなくて(笑)。


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遊び方は簡単です
2005年10月6日 9:52:30 かわかつ WEB
時々相手になってやらないとすねていなくなったりするらしいんです。
皆様、たまにあそんでやってね!



宗像みあれ祭の動画サイト
2005年10月2日 15:06:01 かわかつ WEB
西日本新聞から大船団の迫力ある動画をどうぞ〜

http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/1001miare/


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ありがとうございます
2005年10月3日 0:34:30 管理人
かわかつさんさっそく動画紹介ありがとうございます。また帰ってから拝見させていただきます!


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とりあえず生きてます
2005年10月3日 1:12:59 泊瀬光延 WEB
ご心配有り難う御座います。親父の入院などもあってこちらに時々は伺いますがROMになってます。そんな中で自分のサイトぐらいはメンテしなきゃと歴史小説の書評などをしこしこ書いてます。
 みあれ祭はとても興味があるお祭りです。説明ではAD1250年ごろから始まったとありますが、誰が始めたのか興味がありますね。親父の関係で11月の予定も分からないですが、一度お会いしたいですね。


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父上がご病気とは
2005年10月3日 2:11:06 かわかつ WEB
それは大変でしょう。
去年の夏は私の父が入院し、やはりなんやかやと苦労しました。病気はどんなです?


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病気といいうか
2005年10月4日 12:19:23 泊瀬
老衰なのです。リューマチもあり介護が必要なのです。ご心配有難うございます。


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11月
2005年10月5日 7:59:07 管理人
お父様のリウマチ、大変ですね。お父様の病状がすこしでもよくなるようお祈りします。11月、急にいろいろ話がでてきましたね。ぜひ11月にオフ会やりましょう。


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うちの父は介護施設です
2005年10月5日 19:55:31 かわかつ WEB
すでに入って半年以上になります。介護度認定など面倒でしたが、母もはいっていたので、けいけんがありました。
介護度5でしたがリハビリの甲斐あって今度あがるでしょう。
ただ介護保険がまた変わるので申請があります。4人部屋で月6万ちょっとですね。一人部屋ですと10万越えちゃいます。


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どちら様も大変なんですね。
2005年10月5日 21:47:05 若宮
うちには、いつお呼びがかかってもおかしくない家族がおります。
生命あるものの宿命とはいえ、そのひとが抱えてきた時間をあれこれ想うとやはり胸にせまってくるものがあります。



中国・シルクロードの旅
2005年10月2日 9:20:39 とみた MAIL
皆様、久しぶりです。20日間も中国の古代史の現場と博物館およびシルクロードの民族移動の跡を追ってまいりました。
私のテーマは民族移動と日本への渡来ですので、知見を広げるためです。紀元前5000年の仰ショウ(ヤンシャオ)文明の故地、夏や殷(商)の王都の跡、西周や春秋戦国の小国の遺跡などです。

黄河流域に9つの古代の都が点在していました。
中山王国には牛の角の人がいました。この王国は狛てきです。狛はコーカソイド、”てき”は中国の北方系という意味です。それが中国の中原に逃れて戦国の時代に生き残っていた(紀元前500年代)。シルクロードには紀元前後に50の少数民族が居ました。

トルコ系イラン系の民族が多かったようです。チベット族はキョウ続ですが、青海省に多く居たようです。ここも行ってきました。チベット人の村落の門には牛の角が飾ってありました。

牛トーテムはどんな具合につながっているのでしょうか。

回族は中国のイスラム教徒ですが、これはアラビヤ人(ペルシャ人)が交易で中国に来て居座って漢人やモンゴル人と混血した民族のようでした。清の時代に反乱を起こしてシルクロードに追放された。

管理人さんが言っておられた建設技術集団のトカラ族も居たような気がしますが定かでありません。

いずれにせよ中国の地図が大体頭に入りました。


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やられた!
2005年10月2日 12:54:56 かわかつ WEB
なんと中国へ飛んでいたとは!飛んでるトミーの真骨頂ですなあ。^^
今度は江南に是非ご同行したいものです。
馬王堆や河姆渡にも行かれたんですか?
太公望の出たという説もある羌族まで出てきましたね。西域民族の渡来に迫られたことでしょうね。うあらまやし〜〜〜

こっちはしこしことイネの来た道を想像しております。おみやげ画像など期待しております。


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中国の旅の成果
2005年10月2日 15:55:38 とみた MAIL
黄河流域を挟んで南は、南方系の民が住んでいて、洛陽平野の南陽と長江の中流の武漢との間は漢水という川でつながっていて往来は自在だったんでしょう。黄河の下流は湖沼が多くそれを結べば水運は自在の筈です。黄河の北は殷の勢力がいた。殷は商というように黄河の南の民と商いをしていた。殷は東進する。或いは黄河を越えることもあった。

倭人は長江の中流から北へ進み山東半島のロウ邪あたりに進み遼河の北を越えて朝鮮半島を南下し、金官加羅に進む。倭人とは朝鮮の南部と日本の海峡に住む民族だったのでしょう。

北京の周口店の北京原人は50万年前の博物館をスタートし、バスで南下、殷の後半の都は安陽の殷墟。黄河を渡って鄭州の殷の前半の王都、二里崗遺跡、近くのエン師の夏の王都の二里頭遺跡。西へ進んで洛陽。ここは周の都が東に移った東周の都、後漢、三国志の魏、西晋、北魏、隋唐の都です。紀元前4000年前の仰ショウ文化の里を経て西安(長安)へ半波遺跡もあった。

西安の博物館では貴重なデータをディジカメに収めた。
後半はシルクロード・・・蘭州、青海、トルハン、カシュガルの西域回廊と天山南路を飛行機、バスで進みました。全行程5000kmの旅でした。

馬王堆は長江の中流の洞庭湖の長沙でしょう。前漢時代?の三大墓は、長沙王、満城王、南越王(広州)の墓だそうです。満城王の墓は見てきました。

3冊のノートにびっしり記録を取ってきました。


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闇の日本史で
2005年10月2日 22:52:05 かわかつ WEB
見ました。美しき峰です。


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おかえりなさい!
2005年10月3日 0:31:21 管理人
とみたさんもすばらしい探索なさっていたようですね。私は栃木にバイク修理の件等で来てまして、画像掲示板の件などまた帰ってからお返事いたします。こちらもいい探索になりそうです。



紀氏さんへおすすめ
2005年10月1日 20:25:05 かわかつ WEB
ご存じかとは思いますが、地球規模の視点からズームインできる地球儀です。下はインストールがむつかしいけれど、上はのまま使用できます。

http://maps.google.co.jp/

http://infoseek.amikai.com/amiweb/browser.jsp?url=http%3A%2F%2Fearth.google.com%2F&display=3&c_id=honyakuinfoseek&langpair=EN%2CJA



紀氏さん
2005年10月1日 11:36:42 かわかつ WEB
謡曲「高砂」を読み解いてください。
あれがなぜおめでたい婚姻の席で謡われるようになったのか?

高砂や〜
このうら船に帆を上げて〜
月もろともに船出して〜

海人族の船出の日には「月の名前」がついていたそうです。月夜には30日分すべて名前があったそうです。新月から16日目を十六夜いざよいというのは今も残っていますね。
船出はたいがい22日目とか23日目の夜という説もあり、ちゃんと遠洋漁に出る日が決まっていたんですとさ。


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正確な歌詞は
2005年10月1日 13:20:30 かわかつ WEB
http://www.city.takasago.hyogo.jp/main/rekisi/yokyoku/yokyoku.htm
こちらへ


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高砂の松は「相生の松」結ばれるライン?
2005年10月2日 3:30:49 いばらの紀氏
 かわかつさん いつもながらの 御心使い感謝いたします。

 なぜなのか経緯は解りませんが「松」には「横」の意味が有るそうです、「竹」は「縦」、これは【竹経松緯】ちくけいしょうい:竹と松が縦横にいり交じりはえること。経は縦糸、緯は横糸。・・・いつもの辞書から(秦織りから経度・緯度・・・地図作り)
「梅」はいばら科の落葉喬木・・・・高い木・・・高木?神?
喬木の「喬」は橋の「喬」?橋なら「境」地図作りのポイント。
【喬松之壽】長命長寿の意味。喬は王子喬、松は赤松子で、共に不老不死の仙人〔秦策〕
ばら科と言えば「棘」イバラ【棘門】きょくもん:鉾や槍を立て並べた門(鳥居と関係?)【棘矢】きょくし:いばらの木で作った矢。桃の弓と共に災いた悪気を払うもの。
【棘鬛(たてがみ)魚】きょうりょうぎょ):鯛(泰?)の別名 【魚】はキリスト系。「魚」+「神」=幡多旗羽田旗波田秦ハタハタ
「薔薇十字騎士団」もキリスト系?・・・・・禹の父は「魚」+「系」コン!!!!!バラモンは薔薇紋?鹿も豕=獅子4X4=16菊花紋・・・・
鹿も豕(いのこ)も木の枝の古い字形に共通点が酉・鳥・進-しんにょう=とり=測量士の隠語 烏カラスは牧師(墨子)は黒ーい。
角川の「漢和中辞典」とマール社の「古代文字字典」から古代が見えてきます、お試しください漢字は禹が関係しています。
まだまだ葛藤(葛木と藤原?)が続きそうな秦色の黄士でした・・・・・

今日は姪の結婚式を笠間の秦氏ゆかりの神社で行ないます、「高砂の舞」が見たいけど無理かなー。
おやすみなさい。


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神式
2005年10月2日 3:44:38 管理人
結婚式を秦氏関連の神社で・・、どこか不思議な感じですね。神式の結婚式も見たことないので、ぜひ今度いろいろ聞かせてください。ではでは。


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RE 神式の結婚式
2005年10月7日 2:23:31 いばらの紀氏

管理人さんが神式の結婚式を見たことがないそうなのでお話しさせていただきます。
2005年10月2日笠間郷 稲荷の社(モリ)神前にて あきひこ のぶこ 若いふたりの挙式でした。
大太鼓 小太鼓 手打鉦 笛 の演奏に短歌形式の歌がおごそかに流れる中、神前に向い中央に新郎新婦が並び後に両家が向かい会い座ります。
演奏が止み 神官が神前の四方を清め神前に山海の供物をし斉主が祝詞をあげます。幣束による御祓いを受けます。
三献の儀(三三九度の杯:大中小の杯を小から新郎新婦なたがいに飲み合います。)
指輪の交換
誓いの詞(言葉)
玉串奉奠(たまぐしほうてん:受けとった榊を時計の針方向にまわし、枝先を神前に向けて供える。)二拝、二拍手 一拝の後互いに向き合うように内回りに回り席にもどる。
親族固めの杯:親戚一同起立しお神酒を三度に分け飲み干す。
「浦安の舞」の奉納:冠に美しいころもの女子二名が扇の舞・鈴などで大太鼓 小太鼓 手打鉦 笛 の演奏で舞う。
古代の演奏に神秘を感じ、「山海の供物」・「清め」・「誓いの詞(言葉)契約?」にユダヤの儀式を「舞い」と「稲荷」に秦氏を感じました。(妄想?)
 村の社は古代の集会所、各の高い寺社が講中・氏子の陳情を受け朝廷の諮る・・・・太子講・フリーメイソンなどの組合組織?(またまた妄想?)
 姪の花嫁姿に亡き妻の面影を・・・・・・・・・涙・ルイの紀氏でした。


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すごいですね!
2005年10月7日 5:47:31 管理人
紀氏さん、さっそく神前式についてお教えくださりありがとうございます。舞楽まであるなんて、感動的ですごいです。古代からいつもかならず結婚式はあったはずですが、儀式書でみた覚えがなく・・・。いつか潮来花嫁のそれも見てみたいとも思っているんですが、ぜひいつかオフ会でも、いろいろ儀式とかみれたらいいですね。いつも貴重な情報ありがとうございます。



前田憲二「渡来の祭り渡来の芸能」
2005年10月1日 8:37:53 かわかつ WEB
ようやく同好の志を見つけたようです。
お勧め本、お勧め映画です。

柳田國夫、折口信夫〜芸能、差別、怨念、俗謡、祭り、傀儡、漂白、梁塵秘抄、謡い、海と山の民、非国民、・・・・様々なヒントがそこにあります。是非ご一読を。岩波書店刊


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ご意見総覧を読み返す
2005年10月1日 9:06:08 かわかつ WEB
かなり同じ事が繰り返し、様々な人々によって議論されてもいるけれど、それぞれ当たらずとも遠からずのそこそこいいところをついてきてますよね。
しかし、曲学の徒さんとか秦義則さんなどは今はどうしているのだろうか。
そういえば泊瀬さん、とみたさんは最近どうしておられるのだろうか。とみたさんなどはご高齢であられるから、病気などめされていないだろうかと気にかかる今日この頃です。


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明日は
2005年10月1日 9:24:18 かわかつ WEB
宗像大社の「みあれ祭」です。玄界灘を大漁船が何十隻も突っ走る勇壮な祭り。あわせて沖の島で祭りが、陸の社では放生会が執り行われます。


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ぜひぜひ
2005年10月1日 10:04:29 管理人
もし行かれるなら、ビデオか、写真か撮ってきてください。ビデオなら、HPへの掲載方法についてお教えいたします。それにしても、みあれ祭りというと京都秦氏ばかり気にしていましたが、九州がやはり本家なのでしょうね。


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いや行ってもね・・・
2005年10月1日 11:17:02 かわかつ WEB
まずはこういう祭なので、行っても船を借り切るか、セスナ、ヘリじゃないと多分わかんないと・・・
http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/miaresai/miaresai.htm
http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/miaresai/miaresai.htm


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海の祭り
2005年10月2日 3:41:20 管理人
なるほど、海の船の祭りすごい壮大なスケールで迫力ありますね。これは確かに普通には撮影できるスケールではないですね。みあれ祭りというと、そういう海のイメージなかったんですが・・・・。放丈会も、海の魚と関係深く、でも一方で拝火教の儀式も入っているとか、陸から海から、どうなってるんでしょう??



推古期と地震記載
2005年9月30日 5:13:05 管理人
地震史掲示板のほうに、推古・天武期の地震記載とその地震周期と信憑性について記載してみましたので、読んでみてくださいね。
推古期は聖徳太子伝承など後代の挿入と考えられる部分と、それとは別の古い記載とがミックスされているのですが、推古7年の大地震記載や9年の飛鳥の洪水記載は、前者は大地震の周期から、後者は河川に関する地形学面から、それぞれ、おそらく近い将来考古面を含めて、立証される可能性を持っていると感じます。もしかすると聖徳太子の実在の是非もその辺から明らかにされてくるかもしれません。地震史掲示板ぜひぜひご参照ください。レイラインと地学関連の書き込みもOKです。
http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/


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昨日やってましたよ
2005年10月1日 9:09:18 かわかつ WEB
地震雲のこと。
タテにのびる奴は「もうすぐ地震」なんですな。なかなか参考になりました。しかしドイツが一番地震が少ないとはね。管理人さんも東京なんかに住んでる場合じゃないですぞ。^^


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日光男体山
2005年10月1日 10:01:27 管理人
東京ほんとにまずいと感じます。空を見上げると普通の雲が出てないんです。毎日ほとんどの雲が磁気帯びてる。でも1000万人住んでいて、空を見上げて歩いている人はほとんどいないでしょうね。空の様子が半年でずいぶん変わってしまっていることに気づく人も1000万人いて、せいぜい100人位では。ほとんどの人はなにかに追い立てられるように下を向いて歩いているんですね。
さて、ちょうど先日青森からの帰りに栃木でバイクがパンクしたのいで、栃木に修理に出しているバイクを取りに行かねばならんのです。そこで東京から栃木へバイクを取りに行き、日光を見てこようとか考えはじめました。それで日光男体山を検索していたら、こんなサイトをみつけました。レイラインとカゴメの歌とユダヤの話、まさに紀氏さんの世界ですが、ぜひぜひごらんになってみてくださいな。
http://www32.ocn.ne.jp/~yoshihito/kagome.html
この辺ほんと栃木の太平から、日光にかけて地震の巣みたいですが、関東の下の台形プレートの角地にあることも関係しているようですね。不思議なところです。


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なにしろ郊外へ
2005年10月1日 11:28:13 かわかつ WEB
移住をお勧めしますね。スペースの多いところほど危険度がそれだけ低くなりますから。

鶴亀ですねえ。後ろの正面、天武天皇でしょうか?
森浩一・門脇禎治編「渡来人」の中に細矢藤策さんが書いておられますが、ヤマトタケルは天武天皇がモデルらしいですよ。
聖徳太子=天武天皇=ヤマトタケルっていうのはいかがです?


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天武天皇
2005年10月2日 3:38:05 管理人
その渡来人の本まだ読んでないのでぜひ読んでみますね。倭武の伝承、やはり天武と関係ありですか。天武というと、確かに先の信濃、つまりたぶん諏訪に都を建てようとした話と倭武伝承が一致してきますね。天武と東国は縁が深いですね。諏訪まで彼が逃亡先として行ったわけではないのでしょうけど。図面を作らせに三野王を諏訪に派遣していますね。都城や都は2,3あるべきという彼の発言もよく注意すべきと感じます。それにしても諏訪→鹿嶋レイラインは縄文人がつくったのかな・・・・。



安曇族?
2005年9月30日 2:32:13 若宮
先達日はお世話になりました。昔々の稲作に興味があります、と書き込みました者です。まだまだ∞未熟者ですのであえて無知をさらす覚悟で(汗)皆様のご意見を伺いたいと思います。
現在は長野県に在住していまして、各所を気の向くままに走り回るうちに、こんな山の中に、どういうわけか海にまつわる伝説があることに驚いています。景勝地・寝覚ノ床に残る浦島太郎伝説と、それに呼応するかのような隣接県岐阜中津川市にある乙姫岩、ほかにも、海に通じている、と信じられている洞窟が何処かにあるとも聞きました。そして、御船祭が先日行われた安曇野。こちらでは安曇族を題材にした新作能も近日披露されたそうです。
そこで、安曇族について書かれた方のHPを偶然見つけることが出来ましたので読みすすめてみたところ、海人だという記述に気付いてオドロき、更に原始的水田稲作の適地が棚田だとする点が、ますます目ウロコでした!なるほど水は高いところから低いところへ流れるのが自然だし。私が今まで想像していたものとは全然逆で、かえってそれが小気味よいくらいでした・・。
それと、最近知ったのですが、山岳信仰の地でもある御嶽山の麓の村には若宮(!)遺跡もありました。これも縄文期〜弥生期のもののようです。


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長野
2005年9月30日 4:56:30 管理人
若宮さんこんばんは。山の中での海にまつわる話、長野や岐阜にあるんですね。最近行った諏訪博物館の展示に、諏訪あたりの海にまつわる浦島太郎の変形バージョンみたいな話のコーナーがあったのがおもしろかったです。海の人と山の人との川を通しての交流についても、諏訪湖から流れ出る天竜川の下流と上流でいろいろ交流があった話も神社の方から聞きました。長野って不思議なところですね。安曇族の勉強がんばってくださいね。


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若宮さんよろしく
2005年9月30日 18:43:01 かわかつ WEB
イネの種類は日本では、縄文期の米である熱帯ジャポニカ種と、弥生期の米である温帯ジャポニカ種があります。
長野県は多くの縄文遺跡や稲作遺構があるそうですね。
縄文時代中期から日本に稲作があったというのが最近の説ですが、最も古い稲作遺構が見つかっているのは九州北西部の長崎県、鹿児島県、岡山県、青森県などが今のところ確認されています。これらはすべて熱帯ジャポニカ種です。
最近の京都新聞によりますと、京都府八幡市で段々畑の遺構が見つかっておりますが、これは中世のものでした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050929-00000051-kyt-l26

縄文時代の東国の人々はほとんど東南アジア系の人々でした。この中には出雲神話にあるように西国からしめだされたアイヌや海からやってきた海人族がいました。この海人族は宗像氏の一派といわれる安曇族でした。
安曇にまつわる地名では、若宮さんのいわれる長野県の安曇野、愛知県渥美半島、熱海・・・などなどで、地名が中部地方を横断します。このほか諏訪地方や岐阜県高山ちほうなどにも海に関する地名は点在しています。
けつ状耳飾りのレスでも書いたとおり、この海人族には中国黄河流域から東シナ海、朝鮮半島南岸経由の白水郎系と、インドシナ半島からの島づたいににきた隼人系があります。このほかにも色々ありましょうが今のところ、彼等ともっと古く3万年前からの先住陸封縄文人はDNAが同じです。
棚田をつかった稲作は東南アジアや江南地方にも多く、彼等が熱帯ジャポニカ種を持ってきた人々であろうかと思えます。
洞窟伝説は出雲神話の加賀の久下戸にも見えるように海の民の伝承です。長野にも甲賀三郎の伝説があります。近江の甲賀ある人穴に落ちて諏訪に蛇体となって現れる神道集の「諏訪三郎頼方
のこと」です。この人物は諏訪大社の「諏訪大神画詞」に諏訪大神として祭られています。
近江の国は神功皇后のふるさとでもあり、息長氏の本拠地でもありました。
これは海人伝承と渡来人の伝承が混交してできあがっています。
また海人の道は同時に鉄の道、武器の道、文化の道、宗教の道でもあります。


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高山族
2005年9月30日 18:56:43 かわかつ WEB
世界的に海の民が陸封され、山に上がって行く現象は珍しくないそうです。藤川不二雄教授はこれを「海人のおかあがり」と呼んでおられます。
先日大分の君さんのレスから発展して出てきた台湾の高砂族もまったく同じで、海から山へ上がった高山族です。
それにしてもその後、海水面が上がっても同族の海人達がやってきたというのも凄いことです。一体どんな船でやってきたんでしょう。

温帯ジャポニカは弥生期になって同じ黄河中行きの北部から半島を経てやってきたものです。水耕栽培はこの時になってようやく列島に到着します。しかし江戸時代まで、水耕栽培のいわゆる水稲は日本人の主食ではありませんでした。つい最近まで日本人は雑穀やイモ、麦を主食とし、ほとんどは相変わらず狩猟採集生活であったのだそうで、これもまた驚きです。


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ありがとうございます!
2005年10月1日 21:23:39 若宮
管理人様、興味深いお話の伺える場所をご提供いただき、感謝しています。改めて、よろしくおねがいいたします。
かわかつ様、「海人のおかあがり」が決して珍しくない現象だとのことで、ますます驚いています。安曇族は新潟側から上がってきたようで、南下していったのでしょうか?その足跡を想起させるように地名が中部地方を縦断しているとは。
このあたりは源平期の落人伝説が多いので、せいぜいその時期に開墾したのかと漠然と考えていましたが、浅はかでした(笑)。
また、この辺は、年貢米も木材に替えて納めていたほどの痩せ地であったらしいのに、過去に何度もあった飢饉にも、餓死者の記録がないそうです。山の恵みが枯れることがなかった、もとい山の恵みについての知識が受け継がれていた事も挙がるのでしょうね。何が食べられて、何が駄目かという知識は残念ながら途絶えつつありますが。(こちらも教わっている最中です。)
まだ他にも気になっていることはありますが、考えがまとまったらまたお願いいたします。


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ついでに
2005年10月2日 0:31:43 かわかつ WEB
縄文中期から焼き畑稲作遺構があった場所は・・・
1長崎県〜有明海沿岸=つまり装飾古墳と石人文化がやがて栄えた海人=筑紫の君たちがいた場所。菜畑遺跡など。
2鹿児島県=阿田の隼人がいたところ。
3岡山県=吉備津彦が出てくる場所。大古墳がやがて造られる。
4青森県=亀ヶ岡などの縄文後期晩期遺跡のでるところ。
ですから、そんな昔からちゃんといい場所だったのでしょうね。
岡山県などは古代米・赤磐小町が今でも栽培されています。

イネは栽培場所を選ぶ植物で、交配がなければ死滅したでしょう。ですから縄文人の熱帯ジャポニカも急には駆逐されなかったのだろうと思います。
主食だった雑穀は畑でつくられますし、ドングリはあく抜きするための土器が必要。日本人が今でも食事に箸や食器をkちんと自分用にしているのは土器の発明が世界で最も早かったことと大いに関係しているのでしょう。またそれが実用を越えて独特なデザインだったのも、平安や江戸期同様、他国人と国交がなかったせいです。
また毎日風呂に入る潔癖性は東南アジア、インドなどの禊ぎの風習でしょうし、トイレも川に流していたのはアジア人だけだったのです。
西洋人はなななんと18世紀まで野具蘇です。あのマリーアントワネットでさえ、大きなスカートでしゃがみ込んで、ベルサイユをフンまみれ・・・失礼!・・・にしていたんですぞ。ヨーロッパの土壌は人間が造りあげた^^;
ついでに京都の土壌は飛鳥のやんごとなき方々のかぐわしきものを、秦氏が運んで開墾した!京野菜は京都北部の葛野でしかおいしくならんのです。
話が尾籠になったのでこの辺で。


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肥やしの話になったところで(笑)
2005年10月2日 22:54:16 若宮
かわかつ様、私がもう一度昔の稲作について考えて見ようと思ったきっかけは、無耕耘・無除草・無肥料で育てられた野菜の記述を見てからです。それはまさに近代農法の常識をひっくり返していました。雑草の根がつねに土を耕し、有機物が自然に蓄積されてよい土が生まれ、無耕耘(ひっくりかえさない)が土壌の酸性化を防ぐ、ということだそうです。この本の著者も、はじめはたまたま移り住んだところの空き地に、ただなんとなく軽い気持ちで種をまいたのがきっかけだったとか。もっとも、雑草が野菜の背丈よりも高く伸びるとさすがに光を遮ってしまうので、鎌で刈り取ったほうがいいそうです。作物の病気発生や害虫(もっとも人間の都合からの呼び名でしょうが)の爆発的な繁殖は、自然であるべきバランスがくずれたときに起きるというのも理解出来ました。肥やしも完熟でないと発酵熱で根がやられてしまうそうで。
それにしても今年は雑草(これも人間の都合上の)の勢いがすごくて(笑)草刈り機を何度ブン回したことか・・。これも遺伝的潔癖性のなせる業かも。手がかけられなくて今年の夏はあきらめていましたが、去年のプチトマトとシソが勝手に大きくなってました。
そんなところから、昔々は耕作の有り様が違っていたのではと思ったのです。



RE;高砂族はエビス
2005年9月29日 16:58:03 かわかつ WEB
紀氏さん、Amazonにレビュー書いておきました。そのうち表示されるでしょう。お互い著書の売れ行きは気になりますよね。

高砂族ですが、実はかつて首狩りの風習がありました。敵を倒した後、首を切り取って持ち帰るのです。それは野蛮と言うよりむしろ彼等独自の慰霊ではなかったかと思います。共に戦った勇者の魂に畏敬の念を持つからこそ、首級を刈り取ることで死者の霊を慰めたのでしょう。
さて、しかしこの風習は彼等だけのものではありませんでした。日本でも中世の武士はいくさで倒した相手の首を持ち帰ったのです。それはランクが上の相手ほどそうされたのです。
また江戸期でも、切腹には必ず介錯がつきました。
それもこれもどうやら高砂族と同様の理由からではないでしょうか?!
私は高砂族と日本の縄文人とが同じ南方アジアの血を引くという遺伝子分析に大いに納得しました。
武士は縄文人、それも弥生時代の東国先住民=東国弥生人だったといえましょう。
まさにエビスでありましょうか。事白主が海へ消えて行くのも当たり前でしょうな。エビスも海へ流される、薦に包まれて。
薦こもや真床御襖に包まれて・・・というのは海人族の伝承ですし、さらに奥地へ追いやられるという通過儀礼でもあり、そのまま追いやられっぱなしと言う場合もあったでしょうね。諏訪のタケミナカタとかヒルコとかね。


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 かわかつさんレビューありがとう御座います。
2005年9月30日 1:29:09 いばらの紀氏

「ドラマチックな臨場感, 2005/09/29
レビュアー: かわかつ   大分市
行基図をながめていたら、古代の測量が見えてきた?!
独自の視点で漢字を解析する作者が、地上の三角形を探して地図と格闘の末辿り着いた、古代レイラインの謎。
さあ、ここから日本人が来た道がわかるのか?いよいよ気になる紀氏ワールド。紀氏出身の作者はたったひとりで古代の謎に立ち向かって行く!! 」
【アマゾン カスタマーレビュー】より
 私はひとりでは在りまシェン、渡来人研究会の仲間がいます、仲間と供に古代の謎の解明・・・行く行くは世界平和への妄想・・・・実現をめざし日々情報の分析に仲間と共に励んでいるのです。
現在Amazon.co.jp 売上ランキング: 本で563,076位 の「古墳のこころ」・・・・難解ですがスルメの如く亀めば読むほど古代が解き明かされるヒントが隠されています。
管理人さんも何度も何度も読み返したそうです、・・・・・・・「そうですよネ」   管理人さん?
あなたは、とても 「ス」・「テ」・「キ」 な「方」です ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡・・・・➶ (♡♡♡♡♡♡の無い様に願う 紀氏でした。)?????


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出版
2005年9月30日 5:08:15 管理人
紀氏さん、かわかつさん、本の販売がんばってくださいね。紀氏さんの本は、いろんな意味で何度も読みかえさせていただきました。きっと日本の七割が地震が水没しても、紀氏さんの本は全国のどこかで読み語られていくことでしょう・・・。と最近日本沈没の話題が地震サイトで出てきています。山に海ができる??山の海人??
東海、南海、関東大震災、宮城沖・・・の大連動の可能性もあり、どれかが起こったら、すぐ高い山地に避難するべきかなと最近考えはじめています。
考えてみると高砂族も最終的には日本の山に登った海人だったのでしょうね。その習慣が日本に伝わっている、かわかつさんご指摘の首狩の風習と武士道のつながり、とてもおもしろい視点だと感じました。首といえば、いろいろ連想思い浮かびますが、かわかつさんの研究に期待です。



レイラインと古墳で検索のHP
2005年9月27日 13:50:00 いばらの紀氏

阿久津 淳教授のとってもアブない教室    (たどり着くところは同じかも?)
四大文明は不思議にも北緯20〜40度の枠内に位置しており、ワールド・グリッドというエネルギーラインにちょうど収まっている。そして文明の発祥地や巨石文明・古墳・遺跡などはレイラインが交差した地球のパワースポットにあたっているのだ。このパワースポットを結んでゆくと、地球規模ではワールドグリッド(世界格子)というエネルギー網になるのである。四大文明を初め、失われた大陸アトランティス・レムリア・ムー更に南米の黄金郷パイティティの存在はそういったワールド・グリッドの観点から新たに調査・探検されるべきではないか?
http://www.marginal.com/abunai016.html
もっと早く検索しておけばー・・・・・・トホホの紀氏でした。


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北緯34度32分・太陽の道
2005年9月27日 14:04:47 いばらの紀氏
北緯34度32分の線上、「太陽の道」の一番西の端にあるいわくら、舟木石神座を紹介・・・・HP
境「内はそんなに大きくはないけれど、女陰型に組んであるのや、「三角形をした岩」のまわりにたくさんの「矢を突き刺した」珍しい岩くらの形を見ることが出来る
「三角形をした岩」のまわりにたくさんの「矢を突き刺した」・・・・・・三角に矢  (壁画やハニワなどの文様「三角」に落ちたり流れ着いた「矢」の話に測量が関係することに疑いは有るのでしょうか?)
北緯34度32分・太陽の道
http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/iwakura/awajiishigami.html


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道君首名 ?
2005年9月27日 14:11:46 いばらの紀氏
熊本城はぴったりレイラインの直線上にのる
天社神社という摂社(末社)がある。
祀神は不明であるが近所の社がいつのころか併合されたという話だ。
宮司は「伝承で『おふどうさん』と呼ばれていました。」と教えてくれた。
おふどうさんといえば、不動明王を想像するが、そんな訳がない。
実は後になってこの天社神社の祀神に導かれて
今回の調査が始まったんだと言うことに気づかされた。
この熊本市西に高橋東神社というのがある。
筆者の自宅からは車で5分の距離である。
ここに樹齢1300年の楠木(くすのき)があり
市指定の天然記念物となっている。
ここの正式な名称は天社宮と呼ばれ
前述の肥後国司道君首名を祀っている。
この道君首名は713/8/26 和銅6年に筑後肥後守となっている。
http://www.ne.jp/asahi/japan/love/P2.htm


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こんどは、レイライン 銅鐸 です。
2005年9月27日 14:42:47 いばらの紀氏
日本で「レイライン」を探そうと地図を見ても、これはダメです。森総理大臣ではありませんが日本は神の国で、数キロ四方に1つぐらいの神社・仏閣が必ずあり、地図上の何処に直線を引いても必ずいくつかの神社・仏閣に当たってしまいます。
 そこで別の方法を考えます。まず活断層を先に調べ、その上にある土地の名前を調べます。古くからある地名で神の付く所、例えば「皆神山」たくさんの銅鐸・銅矛・銅剣が出土した出雲の「荒神谷」、神岡宇宙素粒子研究施設(スーパカミオカンデ)で有名な「神岡山」、神様の住むという「御室山」などです。で・・、これらを直線で結んで、この直線上にある神社、仏閣、遺跡などを調べると、神社・仏閣が創建される以前から何らかの祭祀場だった事が分かる、てなぐあいです
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/gotaku/rei.htm

銅鐸出土予測地
銅鐸出土予測地 ・・・・・(やはり銅鐸も出雲測量士の地図作りのポイント!)
今回銅鐸出土予測をしてみました。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/yosokuti.html
第一候補
石川県津幡町加茂から富山県福岡町加茂のライン。
その延長線上にある二上山、城山あたり。
もしくは氷見市神代。
富山県に銅鐸が出土しないはずは無い。必ず新潟県弥彦神社まではあるはず。


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アドバイス ください。
2005年9月27日 15:31:56 いばらの紀氏
いのちのきずな
原初の神 正三角形=太陽の道[夏至線と冬至線そして伊勢、白山、富士で正三角形(すこしズレがあるかも、ですが)ができそうということと、そのちょうど真ん中に「恵那」がくるのかもしれない、という思いにいたったのです。
ゴトビキ岩のゴトビキはヒキガエルを意味するんだとか ... ように配されており、その延長線上には、皇居さらに鹿島がライン上に乗るのだそうです。 ...
http://ultra3040.exblog.jp/i8

 私ごと
新聞の折込に千葉茨城の一部の地図が入りました(パチンコ店の地図です)、以前の経験からマタ「名勝・遺跡」の∴や山などを「東西」から「鬼門ライン」から60度・・・・・綺麗な正三角形が沢山描けました。
万博での日本館を包む竹の日よけ?カゴメの紋(ダビデの星型)    これまでの渡来人研究会での結果として縄文時代からの禹からスサノオ ヤタガラス 鴨氏(秦氏 )役小角 行基 円仁・・・・・・・水戸黄門・長久保赤水 伊能忠敬まで続いた「㊙の日本の地図作り」が存在したとの認定をしてはいただけないでしょうか?
世界地図は16世紀までにユダヤ・キリスト系教徒(クロー・牧師・やたがらすなど)によりほぼ完成しました。今後の私の身の振り方は「モーセ・出エジプト記時代の神?からの密命」を明らかに出来ればと考えておりますが・・・・・・行き先を見失い途方にくれる   迷える紀氏ですアドバイスのほど宜しく御願いします。


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私ごとでごめんなさい。
2005年9月27日 16:15:22 いばらの紀氏
 
 今朝 アマゾンの本屋さんを覗いたら
行基関する書籍の売れ筋ランキング (最終更新日=2005年9月20日 情報源;Amazonデータベース)
以前の8位から13位に落ちていました。
これが原因だとしたら良いのですが、
「現在、在庫切れです。このページは在庫状況に応じて更新されますので、購入をお考えの方は定期的にご覧ください」との記載、
 出版社に問い合わせますと「他の専門業者に依頼しているので解らない」のことでしたが「すぐに補充する」とのことです。
行基関する書籍の売れ筋ランキング13位、これも渡来人研究会の管理人さんのお奨めのお陰様と感謝しております。
アマゾンの在庫切れ、まもなく解消されると思います この掲示板を借りまして「紀氏より謹んでご迷惑のほどをおわび致します」。  


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パワースポットとレイライン
2005年9月28日 4:26:39 管理人
紀氏さん、いろいろ情報ありがとうございます。ご紹介のHPを拝見していて感じたのは、どうも古代人はパワースポットを知っており、そこに祭祀の場を立て、パワースポット同士をラインで結んでいった、それが後代の神社などの位置とも関係してくる、その辺が紀氏さんの新視点とつながってくるのでしょうね。
パワースポットと関係するかどうかわかりませんが、地震サイトでは、よく地震の来る前に体で震源や断層から出てくる電磁波とかを感じる人や、耳鳴りが聞こえてくる人がおり、どうも私も地震前にそういうものをよく感じるようになりました。とすると古代人はさらに感性が鋭かったでしょうから、そういう電磁気の流れみたいなものを敏感に感じ取って、祭祀の場所を選んでいたのかもしれませんね。そして縄文遺跡にもみられる高度な天文学も有していた。もっと古代人の感覚に近づかないと古代史は解けませんね。

紀氏さんのご本売れ行き順調とのこと本当によかったですね。うちのサイトのほうでも、またなにかお手伝いできることありましたら、お知らせください。短い案内文章や、見開きのページ写真などを入れてみるのも手ですし、よい視聴者に理解しやすく伝えるようにできればと考えております。ではでは。



なるほど
2005年9月26日 23:38:23 大分君
管理人さん、ことらこそよろしくお願いします。

かわかつさん、ありがとうございます。私は朝鮮半島との関係を中心に勉強してきたので、かわかつさんの研究されている「海人」のことや、「高砂族」のことについては、まったく無知でした。勉強になりましたし、大変、興味深く感じています。教えていただいた参考文献は、ぜひ、読んでみたいと思います。

ただ、『隋書』の記事についてですが、かわかつさんは「秦王国」が小野妹子らが隋使に紹介した、と解釈しているようですが、隋書の記事からそのように解釈できるでしょうか? あくまでも隋使の見聞をもとに書かれた記事のように感じます。 

【参考】
また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以て夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す。
※訓読は石原道博編訳『魏志倭人伝 他三編』(岩波文庫 1951年)

「秦王国」「華夏」「夷洲」の問題は、大変面白いですね。かわかつさんのお話をうかがって、改めて実感しました。もう少し考えてみたいと思います。



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そうかもね
2005年9月27日 1:08:11 かわかつ WEB
外国の使者はまず筑紫で下船し太宰府に行きます。太宰府は弥生時代から外国の客をもてなす場所でしたが、470年に倭王・武によって施設ができあがっています。鴻魯臚館ができたのは688年です。したがってここで噂を聞いた可能性は確かにありますね。
ただ、大和岩雄氏は船上から陸地を見ながら同行の日本人使節から直接聞いて興味を示したと判断しています。それに従ったまでです。
ただし小野妹子は当時のインテリなわけですし、彼自身近江の小野氏・・和迩氏出身の渡来人ですから、秦王国に関して興味を持っていたとは思いますね。
これはいらん世話ですが(私、入らぬ世話が大好きでして^^;)岩波文庫の石原さんのお書きになっている内容はちと古すぎるので、もっと最新の説なども広くお読みになる方が広がりが出ておもしろくなると思いますよ。ホント、いらん世話ですな、こりゃ。
ところで大分君さんは大分のどこいらへんの方でしょうか?私は大分市の医大の近くです。


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確かに
2005年9月27日 9:45:55 大分君
岩波は古いですよね。それは前々から自覚していました。色々と参考文献は探してみたのですが、見つからず、石原氏の見解に従ったまでです。自己弁護しているようで恥かしいのですが。今回のやりとりの中で、遣隋使や対外交通(特に瀬戸内交通)の研究などに関する研究などで、ひょっとしてふれている人がいるのではないか、と思うようになりましたので、少しそちらの研究も見てみたいとお思います。

あと、私が住んでいる地域は市内の滝尾という地区です。しかし大分の歴史についてはほとんど無知なので、暇を見つけては調べていきたいですね。現在、私事で多忙なため、落ち着いたら、ゆっくりと勉強をしたいと考えています。


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石原先生に
2005年10月1日 2:37:31 かわかつ WEB
私、教わったことがあります。^^;昔々のはなし。



秦王国
2005年9月26日 18:35:38 管理人
大分君さん、はじめてまして。今後ともよろしくお願いします。かわかつさん、こんばんは。隋使が立ち寄った場所をあらかじめ数箇所に絞って仮定してしまうのもひとつの手ですね。たぶん沿岸の港でしょうし、筑紫の港とは習俗もまるでちがう、予想もしなかった中国風な場所どこだったのでしょう。台湾経由での遺伝子の流れは、前に話題にあがったとおり、5から6世紀の流入との数値が出ているそうです。朝鮮南部も短期間経由した可能性もあり、秦氏や海人の流入時期を予想する上で重要です。たしか高砂族も遺伝子解析でいろいろ調査されていたような気がします。


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そうそう
2005年9月27日 1:15:35 かわかつ WEB
遺伝子解析はホントにすごいですねえ。
田名部雄一教授などは日本の古い犬の遺伝子からも、人間と同様、東西分布があって、琉球犬と北海道犬が同じ遺伝子を持っていて、中間の南西地域にいた柴犬は北東アジアの遺伝子を持っているんだそうです。
高砂族も東南アジア系DNAですから、東日本の人やアイヌ、沖縄人と近いのかも。

ありがとうございます
2005年9月26日 11:22:14 大分君
かわかつさん、ありがとうございます。「秦王国」のみではなく、「夏華」や「夷洲」についてのご指摘は、大変興味深く、参考になりました。

ちなみに隋書では、竹斯国→秦王国→「また十余国を経て海岸(難波津でしょうか?)に達す」とあります。古代の瀬戸内交通なども考えながら、「秦王国」の場所を考えるのも手ではないですかね。

あと、私が参考にしたのは石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝』(岩波文庫 1951年初版)です。

もうひとつ、質問なのですが、不勉強で申し訳ありません。「高砂族」について教えていただきたいのですが。


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高砂族
2005年9月26日 17:49:24 かわかつ WEB
日本軍占領下時代の台湾先住民9部族の総称です。昨今、靖国問題で来日し参拝したことが報道されましたが、本来親日的な人々です。先の大戦では日本軍に協力した経緯があります。

http://www.tabiken.com/history/doc/L/L152C200.HTM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%97%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91

参考文献です。
http://www.fukyo.co.jp/02-naiyo/ISBN4-89489-066-6.html


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まず
2005年9月26日 17:52:35 かわかつ WEB
最近では歴史学も考古学のみならず文化人類学、生物人類学、DNA研究、民俗学、東洋史学、世界史なども取り込み始めておりますが、特に人類学者・埴原和夫氏のグループはつとに有名ですね。
埴原氏によれば、日本列島が大陸と繋がっていた3万年前ころ(ヴェルム氷期)から、日本には南方系DNAを持つ種族がすでに住んでいたそうです。沖縄の港川から出た最古の人骨と同じ東南アジア系モンゴロイドで、彼等こそが縄文人の祖先です。
やがて後氷期になって海面上昇にともない彼等は陸封されます。ゆえに独自の文化が形成されて行き、縄文式土器などを作り出しました。
この東南アジア系モンゴロイドのDNAは現在は主に日本列島の両端・・・東北北海道に多く、今の沖縄人やアイヌはその子孫であるそうです。彼等こそが縄文人であるわけです。
弥生時代、東北アジア系人種・・・つまり渡来人が入り込んできます。
当時は北部九州から本州西端にしかいなかった彼等は稲作の北上とともに
関西地方にまで広がって行きます。まさに弥生人とは彼等のことです。
では東北部はどうかというと、先住東南アジア系縄文人がいたわけです。
もちろん彼等も弥生時代の日本人ですからある意味「弥生人」です。弥生人には渡来系弥生人と先住弥生人がいたわけです。これは現在の日本の東西文化の相違と対応しているのです。中部山地を隔てて、今でも東西の血の融合は進みつつある段階で、未だに日本人は基本的に東西で人種が違っているのだそうです。
三内丸山などの稲作遺構を造っていた人々は東南アジアから稲作を持ち込んでいます。これは主に海人族が中国江南経由で持ち込んだケースと、東南アジアからダイレクトに持ち込んだケースとがあります。この南方系稲は前氷期から後氷期に移り変わる間に海人たちが持ち込んだものだと思われます。
陸封されていた時代に住み着いた原縄文人と同種の人々が、あとから日本に入り込んで来ているわけです。これは当然、船をたぐってやって来た人としか考えられない。
とても複雑ですが、つまり日本人というのは
1 陸封された原縄文人 =沖縄人、アイヌ、山の民
2 海を渡ってやって来た東南アジア人 =海人あま
3 江南経由で渡海してきた東南アジア人=白水郎
4 半島経由の東北アジア人・蒙古人  =弥生時代の渡来人
5 半島経由の西アジア人       =弥生時代の渡来人
などが煩雑にマジりっあった人種であるというわけです。 


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そこで
2005年9月26日 18:04:37 かわかつ WEB
聖徳太子の時代、列島の両端を除いた地域の西半分は主として渡来人が多くすんでいたことが明らかになりました。では、飛鳥の人々は渡来人だったと言うことです。その彼等が極めて珍しい、そして特殊な地域として秦王国を隋使に紹介したということは、秦王国が渡来人とは違う風俗を持った人々によって構成されていた国だったということになりはしますまいか。
では、上記の5つの人種のうち該当するのは1,2,3となります。
このうち1はすでに東北日本に移住しています。残っているのは僅かな山の民だけだったはずですから該当からはずれます。
隋書は「夏華に同じ」「夷州かと思えるが・・」と書いているのですから
2か3しかあり得ません。
では2と3のどちらだったか?
だから海人の研究を始めたわけです。
ところが未だにわからない。先は長そうです。大分君さんもご協力下さい。^^;



質問です
2005年9月25日 23:35:54 大分君
はじめまして。大学卒業後、地元の大分で働きつつ、日本と朝鮮半島との関係について、色々と調べている者です。渡来人の問題にも関心があり、このページを見つけました。ぜひ、お仲間に入れてもらいたいと思い、メールしました。

そこで質問があるのですが、『隋書 倭国伝』に隋使が大和に至る過程を記した箇所に、「又東至秦王国、其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也」という記事がります。この記事についての、ご意見をいただきたいのです。@岩波文庫の解説では、「秦王国」は「スオウ」と読むらしく、周防=山口のことを指すとしています。「其人同於華夏」ということは、山口に渡来人(中国系)がいた、あるいはいると隋使に勘違いさせた、ということを意味していると思うのですが、山口に渡来文化の痕跡は残っているのでしょうか? A「以為夷洲、疑不能明也」の「夷洲」は岩波文庫では「台湾」のことだそうです。意訳すれば「(山口に中国人に似た人がいたので)台湾だと疑ったが、明らかにすることはできなかった」と、なるのでしょうか? 仮にそうだとしても、おかしくありませんか? 隋使は小野妹子らに連れられて日本に来ているのですから。

少し気になったので、メールしてみました。もし、なにかご意見やご助言があればよろしくお願いします。


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不確定です。
2005年9月26日 2:34:45 かわかつ WEB
秦王国が周防か豊かという問題に関しては今のところ確定できません。
しかし可能性として「しんおう」あるいは「すおう」国という地名は豊前にはありません。また、周防も本来「さわ」「さは」で、隋書の時代に「すおう」と読んでいたかどうかは確定していません。
ただし夏華は、中国江南地方海岸部の呼称ですから、それに似るとはおそらく海人族の風俗を持っていたということでしょう。つまり白水郎と呼ばれる海人の住んだところと言うことですから、そんなところは日本の海岸部どこでも適応してしまいます。となると隋書の小野妹子の発言自体がとってつけたようで怪しいわけです。
周防国の確定するのはおそらく奈良時代だと思われますが、「さはのさばつ」という地名は日本書紀にあります。あるいは「さはのつぬ」もあります。正確に申しますと山口県という程の大きな地域ではなく、現在の宇部市周辺の地域名だったようです。
「夷州」というのは台湾ですが、現在の台湾人のことではなく、これは高砂族などの先住海人族を指します。
もっともここのセンテンスの介錯はそうではなく、
「野蛮だと言われてきた夷州とはここのことかいな?」という意味でしょう。蓬莱、扶桑などと同じく、当時の北部中国人にとって台湾も日本もどこにあるのか知れない最果ての地だと認識されていたということでしょう。

秦王国が豊前だという説は主に秦という氏族が多かったところから大和岩雄氏などが言い出したものです。しかし半島から渡来した秦氏の風俗が海人と同じとは考えられません。この場合は秦氏の下にいた先住民・海人族が秦の氏姓を名乗る「秦人」であったということです。

秦氏は「渡来人」ですが、先住した海人は渡来人とは呼びません。ご注意下さい。

以上、現在の処「秦王国」の所在地は確定されていません。どう介錯するかはあなたの自由です。
ちなみに私も大分県人ですが、周防も豊の一部だったと介錯しています。
なお、周防地域にも渡来人はたくさんいます。お調べ下さい。


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ついでですが
2005年9月26日 2:41:46 かわかつ WEB
岩波文庫っていつの時代に書かれたものですか?著者はどなたでしょうか。


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台湾の高砂族はえびすデス。
2005年9月28日 23:16:30 いばらの紀氏
 
「 えびす 」には、出エジプトの失われた10部族を感じますし「蛭」(虫(蛇)+「至」いたるは、糸の付いた矢)からは、測量士を 「戎」(武器の総称)からは「鉾」や糸の付いた「矢」・「盾」などの武器を兼ねた測量の道具を、
夷神           えびす+かみ?
胡(西域北方の異民族)えびす・コ・ゴ   胡人
蛭子(「至」いたるは、糸の付いた矢)  えびす・シツ・テツ・ひる+シ・ス・こ 蛭胡は、葦船で流される!
夷 (東方)       えびす・イ・えみし(字形は「矢」と「糸」から成る)
狄(犭+火)(北方) えびす・テキ・ジャク
夷狄(犭+火)(東方) いてき・野蛮人   位の低い菅史?
戎(西方)(武器の総称)えびす・ジュウ・ニュウ(丹生?)
羌 (中国西部の原住民)えびす・ああ・キョウ・コウ
蛮(蛇神信仰)(南方)えびす・バン・メン
蕃(南方)       えびす・バン・ハン  教化されない異民族
夷蛮戎狄 いばんじゅうてき (四方の未開人・上記)
蕃人          えびす・(台湾の高砂族)
恵比須         えびす 
恵比寿         えびす
 偶然に台湾の高砂族がえびす(ユダヤは、人種では無い)に繋がりましたので参考まで。



我々は海人族の子孫
2005年9月24日 22:52:33 かわかつ WEB
うちのBBSにこられた方に私が書いた返事です。

171. Re: 耳飾り かわかつ 2005/09/24 (土) 22:43

> けつ状耳飾って今の所、福井・宮崎と栃木の宇都宮で出土している様子。
> (他にもあるのかしら?)
三内丸山、徳島、富山湾姫川河口域、駿河湾一帯、諏訪、北海道、東北、出雲などひろく分布します。

> これって7000年前ほど前に長江で大流行したものだとか?
江南では河姆渡遺跡周辺。日本では4000年〜6000年前。


> 海人さんは、日本の地理には一番詳しい方ですね。
> でも海人って全然私には想像ができないんですけど・・・(^^;)
> 今の遠洋漁業の漁師さん風?
日本人すべてが海人の血をひいています。あなたも私も・・・
まず魏志倭人伝の海中に水没し・・・という倭人はこれです。
また松浦、伊予、宗像、安曇、熊野、太平洋岸の漁師はみな海人の子孫。またやたからすや鴨氏も海人。渡会氏、中臣氏、尾張氏、海部氏・・・物部氏、もちろんニギハヤヒもそうです。
天皇家も海人の血を引いた天武、宮津姫、間人、藤原宮子、聖武などは
大海部の血を引きます。中には隼人の血も当然混じっています。隼人は海人ですが、早くから朝廷とむすんだ阿田隼人などは平城京守護の役目を負っていました。
> それとも商業船の船乗りさん?
商業ももちろん、「南北に市てき」していました。彼等が持ち込んだ文化はエジプトからインド、中国、ローマ、中近東、ペルシャ、東南アジア、朝鮮、など広範囲にわたるそうです。図書館で「海人」の題名の書物をちょこちょこっと呼んだだけでまるで当然のようにそう書いてあります。目からウロコですけど、考えたら当然のことだと気がつかされますよ。

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栃木
2005年9月25日 12:49:32 管理人
けつ状耳飾りが福井栃木に出ているとのこと興味あります。バイクが栃木でパンクして栃木のバイクやってさんに修理に出しており、来週取りに行く予定なのでついでにその辺も調べてみます。一昨日山形鳴子にいったとき玉造という地名と轆轤回しの伝統について考えているのですが何かその辺関係ありそうですか?



紀氏さんへ
2005年9月24日 11:18:17 かわかつ WEB
DVDの「ゴッド・クローン」面白かったですよ!テンプル騎士団とフリーメーソンを扱っていて、キリストの十字架で造られた聖なる箱を争奪するサスペンス・ホラーでした。
同様の新作にジョン・レノのなんとかいう・・・う、思い出せない・・・なんとかトレジャーもお勧め。


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落語の桂一門
2005年9月24日 23:37:51 かわかつ WEB
の家紋が「結び柏」という一筆書きなんですが、どーもこのマークがヨーロッパにもあるらしいですね。「ゴッド・クローン」ではこのマークは出ていませんでしたが、ダビデの星の三角形を都市で結び、聖なる箱を隠す場所を特定しようとします。


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四国
2005年9月25日 12:40:17 管理人
先日ついに青森と山形に行ってしまったので、後は宇佐から四国を通って紀伊熊野のラインを個人的には冬行きたいと考えてます。四国というと何かかくされているそうですが○



しかし
2005年9月24日 11:12:18 かわかつ WEB
すごい瞬発力と行動力ですなあ。青森まで思い立ってすぐ行っちゃうとは!^^
画像掲示板に貼り付けた雲、怪しいと思ったけど、なんともないですか。


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やっと帰ってきました
2005年9月24日 22:35:14 管理人
いやはや、急に休みとれたので、寒くなる前に青森行ってきました。キリストの墓、山奥にあって、謎めいた民謡とともに、どうもやはり修験道っぽい神社がちらほらありました。帰りはこけしで有名な鳴子を通って、泊瀬さんから聞いていた山寺へ、ひとあしお先に行きました。岩に染み入る・・・すばらしいところですね。後でまた報告いたします。あと、地震雲拝見しました。かなりやばそうな境目ができていますね。九州方面もやばいでしょうか。パソコン故障中で今日も事務所から帰り際にメールしています。ではでは、


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っほう〜
2005年9月24日 23:40:32 かわかつ WEB
あそこへ行ったですか。
「おら、パライソさいくだ」
「じゅすへる様!おらもつれてってくだせえ」
ってなんだかわかりますか。



播磨の有年
2005年9月20日 21:25:48 タックン
先日、橿原の友史会の例会で、赤穂市の有年に行ってきました。
ここの近くの相生市は、秦河勝の伝承が残っており河勝がこの地で、亡くなったと今でも地元では言い伝えられています。
播磨国風土記にも、この周辺地域の記載は漏れており、寧ろあえてこの地域を無視して編纂されているきらいが私は感じています。
然し考古学的にはこの地域は無視が出来なく、古墳文化兆区全の墳丘墓などや新宮町にある、吉島古墳など前方後円墳の成立の鍵を握っている地域だと思っております。
それと河勝伝説に裏打ちされるように、後期の特色ある古墳がこの山間の小盆地に点在しており、相生市にある若狭野古墳などの大型の横穴式石室や、木虎谷古墳のような石棚つきの石室など見逃せない古墳があると言う事です。
あと私が注目しているのは、赤穂市内の坂越の海を臨んだ丘陵頂に大型の円墳である、みかんのへた山古墳というのが存在しており、どう観てもこの古墳の立地からして海による生業をしていたとしか考えられない人物の、奥津城なのです。
そこで私はこの地域古墳時代後期からの時代からですが、謂わば流人の地、流刑者の住まわされていた地域だったのではないか?と今考えております。
そう考えれば、風土記の記載欠如と言うのも、強ち否定できないかも?しれませんが・・・・???


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最果の地
2005年9月22日 22:03:35 管理人
タックンさん皆さんこんばんは。未だパソコン故障中の管理人です。急に休みになったので青森は戸来のキリストの墓見てきました。このはかは古墳が土台になっているそうです。今は十字架が立っています。タックンさんご指摘流刑者の土地はやはり最果の土地だったのでしょうか。個人的にはここの三岳神社が山を背後に諏訪前宮に似た構造だったのが気になっています。最果の地には流されてくる人と自ら征伐などで来る武士伝承や測量などをしに来る人とかがいるのかなとふと感じはじめています。


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戸来(へらい)
2005年9月26日 0:41:57 いばらの紀氏
 青森県新郷村戸来(へらい)にはキリストの墓とそんな伝承が残されている
http://fox.zero.ad.jp/notch/esseys/e13.htm


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戸来(へらい)
2005年9月26日 0:50:57 いばらの紀氏
http://www.ley-line.net/tohoku_ooyu/ooyu_05.html



海人のラインヒント
2005年9月20日 2:24:25 かわかつ WEB
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-jda1/k-jcq1/k-jsq2/IPA-san0980.htm
http://www.gunmaibun.org/osoretoinori/jomon/jomon06.html
http://mytown.asahi.com/aomori/news02.asp?c=16&kiji=6
http://www.tokushima-maibun.or.jp/siteshoukai/r55/yukitai2002.htm

たまには資料も提供しなきゃね。
PC早く治してね。


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感謝!感謝です。
2005年9月20日 14:11:31 いばらの紀氏
かわかつさん資料の提供ありがとう御座います。以前より気になる地名である「久保」「窪」と「玉斧」とが中国大陸と日本列島との間の交流の印で有ることを漢和辞典のなかに発見しました。
「窪」の文字ですが「ウ冠」は、宇宙・マクヤ・(ユダヤの礼拝所?) 「八」産出す・穴・播屋(子作りの寝所)などと考えます。
「川」の隣りには禹の父「口」が甕に入れられ黄河での測量のポイントとされた塚(古墳)に関係する意味の文字と考えられ「土」(十字架?)の重なる「圭」の文字の意味には、「諸侯がはじめて封ぜられるときに、そのしるしとして天子からいただく、上がとがって下が四角の玉の名。土を二つ重ねるのは土をはかる(土・度に同じ)意で天子からいただいた土地をはかり治めることを表す。【角川漢和中辞典】より 補足(上がとがって無い「玉斧」とおなじ形の図が記載されています。「しゃく」; (天子以下、公卿・士大夫が衣冠束帯するときに持つ板にも同様の意味が有るかも?)
やはり 中国を九つの州に定め測量し地図を作った「夏の禹王」の測量士たちが縄文の日本に渡来していたのです。歴史的、大発見です「かわかつさんに感謝!感謝です。」
http://www.tokushima-maibun.or.jp/siteshoukai/r55/yukitai2002.htm
地名である「久保」は低地を表す「窪」に由来するといわれているように、遺跡は浜堤(ひんてい)背後に形成された潟湖またはその名残である後背湿地に面しています。・・・・・(「久保」「窪」などの付く地名には、遺跡などが多く 穴信仰の祭儀を感じます。
http://www.gunmaibun.org/osoretoinori/jomon/jomon06.html
渡来人研究を代表しまして、管理人さんより「群馬県埋蔵文化財調査センター」へお知らせください。


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「圭」参考HP
2005年9月23日 14:20:27 いばらの紀氏
古玉 「圭」
“石斧”としていたが、形からしてもそれには納得できない。古玉の参考書を調べてみると、約三千年前の古代中国、殷・周時代に作られた「圭」にその形状が類似している。
台湾の故宮博物院が発行した『故宮玉器選萃』によると、玉で作られた器物は大別して三種、その内の一に、朝廷で使用される礼器があり、その重要なものに「六瑞」と「六器」があるという。「六瑞」とは、政府により規定された各種寸法の圭と壁をいい、国内最高の爵位を持つ人に授与され、彼等の権力を象徴するものである。天子、公爵、侯爵、伯爵が圭を所有する。形成は同じだが寸法の長短によって尊卑の順が分別される、ということであった。
http://www12.ocn.ne.jp/~hajime-1/note/hankacho/Beni/Hanka-B140.htm

「圭」や璋、方柱状で円孔が穿たれた祭祀用のj、有孔円盤状の璧があり、孔径が盤の1/3をこえるものは[王爰]と呼ばれた。璧は圭とともに最も重要で、服佩の器であるとともに富の象徴でもあった。また葬玉の類には死者の口に含ませる蝉型の含玉、両目に置く眼玉、鼻孔・耳孔をふさぐ[王真]玉、両手に把握させる豚玉などがあり、容器などを模した玉器も少数ながら存在する。中国玉製品の原産地としては陝西省藍田と新疆ウイグルのホータンが殊に著名だった。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html

中国における太陽と鳥の信仰(後編1)
軟玉製の璧や「圭」・璋(−大汶口文化以来の石斧の柄から転化した瑞玉)を依り代とした。
http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/fav/gyokusou2.html

玉について
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/students/99sasaki.html

2002年
10/30、島根県江津市の「青山古墳」から6世紀末から7世紀初頭のものとみられる「圭」頭大刀が出土した。出土した大刀は銅製の金具部分と鞘、鉄製の刀部分が3〜5センチ程度の断片と破片で見つかった。(2002.12.14)
http://homepage2.nifty.com/iitoma/PASTNEWS/JYOUMON/1shimane.html



川匂
2005年9月19日 10:43:00 かわかつ WEB
最近ここにこられた若宮さんのレスを拝見して、「かわわ」神社にゆけばよかったなと思い出しています。
川匂は元の字を「川曲」と書くそうですね。おそらく金目川が屈曲していたか、三日月湖のような地形だったのか・・・。
ご先祖様に波多野氏がおるもので寒田神社へ参りましたが、下流域の方へは行かずじまいでした。


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バソコン故障中
2005年9月20日 1:20:18 管理人
今日はパソコン壊れてるのでまた後で。



祭祀は国の中心的政策
2005年9月18日 1:56:21 かわかつ WEB
藤原氏は祭祀というものを統一して、国家統一のためのわかりやすい道具にしようとしたのだと思えます。それは為政者としては当時、当然の行為でしょう。思想統制というものは重要な国策です。
恵美押勝もそうですが、権力を手中にした藤原氏はあえて祭祀をつかさどる中臣氏と政治中枢としての藤原氏を別けています。
おそらく宗教統一のために、中臣氏は、全国に広大な渡来ネットを持つ秦氏を取り込んでいった。秦氏の下にさらに広範囲な海人ネットがあるからです。技術、芸能、民間伝承を広めて行けた秦氏の修験ネットワークは海人の渡航能力によって格段に早く広く全国へ拡販できるからです。
中臣神道は今でも天皇家の延喜式の筆頭に置かれています。これは本来、物部氏のものではなかったでしょうか?
宗教を通じて最古の物部神道は日の目をみたのでは?
全国神宮の次席に鹿嶋、香取があることを見ても、藤原氏は物部系の神道による宗教統一を画策したと見ていい。送り込む神官はおそらくすべて秦氏系の山城鴨氏から選んだのでは?


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衰弱ののち
2005年9月18日 2:11:25 かわかつ WEB
一時衰弱した藤原氏は称徳天皇以降復活します。そして宮子の子供を天皇にしようとします。聖武天皇です。この時弓削の道鏡事件が起こります。
道鏡は八尾市弓削の出身で、ここは行基の出身地でしたよね。
漁期の弟子が東大寺別当になる良弁です。その良弁の手はずで宇佐大神氏は金山のあることを予言し、八幡神は地方神から全国区にデビューしたのです。
大神氏は大三輪の出身で、大三輪氏はオオタタネコの子孫である。つまり出雲の秦氏なわけです。この辺に謎を解く鍵がありまして、おそらく7〜9世紀の間に、藤原氏と秦氏の陰のつながりが強化されていったようです。
天智系光仁・桓武の台頭はかなり秦氏に軋轢をもたらしたことでしょうが、ここで二派に別れてゆくきっかけがあったように思います。


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訂正
2005年9月18日 2:15:42 かわかつ WEB
漁期の弟子が良弁・・・行基の弟子が良弁


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尾張氏と海部氏は同族
2005年9月18日 2:35:10 かわかつ WEB
諏訪を挟んで天竜川と糸魚川を繋ぐ道があったと証拠に若狭の籠神社、敦賀の気比神宮、そして尾張の熱田神宮があります。いずれもアメノホアカリを祭る海人族と波多氏のイサザの神=ツヌガアラシト=アメノヒボコ=武内宿禰=隼人という構図です。
そして真ん中に祭られたのが出雲の海人族タケミナカタ=宗像一族。みんな海人系の神ばかりです。これと同族にしてしまうことで物部氏のニギハヤヒも海人系の神として縁がつながる。実際には、物部氏は海人族を傘下に置いた藤原以前の実力者。こうして復権させたのは中臣氏だったことがわかりますが、中臣は物部の協力者だった海人だったのではありませんか?鹿嶋神宮が息栖の浜に祭られた謎はこうして解けます。
伊勢の祭祀者は渡会氏でしたが、「わたらい」は海人です。
九世紀になって九州にも宇佐八幡宮という秦氏の出身地のど真ん中にも海人の荒御霊と秦氏の荒御霊が祭られ、最後に東北に弥彦神社という物部氏の神が祭られて中臣神道は全国を統一し終えるわけです。


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中臣氏
2005年9月18日 3:21:04 管理人
かわかつさんのご意見うかがっていると、藤原氏の権力をつかんでいく道筋は、非常に巧妙ですね。なるほど秦氏のネットワークをうまく利用していったわけなのですね。そして祭祀面は物部から・・・。どこかローマ皇帝みたいな氏族ですね。ローマ全国に放浪してネットワークをきづいていくユダヤ人を迫害しつつ、うまく取り込みつつ、一方でキリスト教を祭祀として導入して、権力を手中にしていく白人集団、そんな感じでしょうか。日本の場合は、10くらいの遺伝子集団が狭い日本地域カテゴリーに集住していて、それぞれの集団は遺伝子にしたがい、特有の行動をしていきます。あるものは、やはりユダヤ人のように全国を放浪してくものようにネットワークを気づいていくでしょうし、あるものは白人のようにうまく小山の大将としていろいろ人を利用して権力を手中にしていく、あるものは定住して農耕社会を形成していき、あるものはやはり狩猟ばかりしているのかもしれません。マクロでもミクロでも遺伝子?が同じなら、結局しばらく時間がたつと同じ社会構造を歴史づくっていくのではないでしょうか。そこでやはり天の日矛とつぬがあらひとと、そこから別れでた諏訪、鹿嶋集団と、白装束集団の流れ、ぜひぜひかわかつさんにご解明願いたいところです。鹿嶋の霊剣は奈良初期につくられた石上神宮のレプリカですから、その辺からも解けるかもしれませんよ。とするとやはり秦氏はかれらとは別遺伝子となってしまいますね。かわかつさんのお考えは正しいのかもしれません。私は東北に純粋種を追い求めて弥彦神社、調べてみます。




こんばんは、参考HPデス。
2005年9月17日 20:41:49 いばらの紀氏
参考HP
横5本、縦4本の網目・・・・三平方の定理?
蘇民将来の護符にも網目があるし、伊勢・志摩あたりの海女さんは、今でも魔除に「ドーマン・セーマン」つまり、網目と五芒星(安倍晴明判紋)を使っています。セーマンはもちろん晴明から、ドーマンは晴明のライバル、蘆屋道満からのネーミングだそうですが、これは「九字を切る」時に虚空に描く、横5本、縦4本の網目です。「九字」とは、護身の秘呪として用いる9個の文字、「臨兵闘者皆陣列在前」の9字の呪を唱え、手刀で空中に網目の線を書く時は、どんな強敵も恐れるに足りないという護身の法で、もと道家に行われ、のち陰陽道に用い、また、密教家・修験者・忍者などが用いた「九字護身法」のことです。つまりこれも「魔除」なんですね。因みに、蘆屋道満は播磨の出身だといわれています。播磨も天之日矛の遍歴地にあたり、海人色の濃い土地です。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/takekago.htm

武帝が考えた策は、「遠くの国と仲良くして近くの敵を攻める」という先達の兵法でした。その頃、西域にあった月氏(後の大月氏)が、匈奴に追われ西方への逃亡を余儀なくされていると聞き及んだ武帝は、まず月氏に使者を送って同盟を結び、匈奴を挟撃しようと謀りました
http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/column/jade/jade8sub1.html

ゆふづつ・・・・筒!
http://www.kjk.ne.jp/~states/log/ken12.htm


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護身術
2005年9月18日 0:21:57 管理人
紀氏さんこんばんは。安部清明に代表されるような陰陽道の幾何学文様を描くことによる護身術、興味深く感じます。
さきほど例の青森キリストの墓のHPを見ていて、どうもその戸来村の伝承には、こどもの額に十字を書くとか、しびれたとき3回指に十字を書くとか、ヘブライ語で解ける民謡踊りがあるそうです。岩手南部から青森北部にかけての文化と関連あるらしいのですが、先日行った岩手中部での修験道関連の流れの延長上にないかと感じ始めました。
そこでどうして青森まで修験道者が行かねばならないのか、ともかく測量をするということは、戦争でも極めて重要なことなのでしょうね。地理を制したほうが、早く迅速に動けますし、陣地もよいところを取れます。ということで測量と武術の関連も重要ですが、紀氏さんご指摘、月氏と中国との武力交渉でもなにかありそうですね。さばくや海の民の歩行はやはり紀氏さんのご紹介HPにみえるオリオンが目しるしだったのでしょうか。聖書にオリオンとすばるの記載があるのはおもしろいですね。


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参考
2005年9月18日 17:19:09 いばらの紀氏
日本・ユダヤ封印の古代史
聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史――失われた10部族の謎
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/tokehon.htm
日本史のブラックホール・四国   千乃裕子・・・・?
「大君の先祖は、南海の小さな島の上で、山猿のような暮らしをしていたのだそうな」という噂が流れたため、天皇家の本当の出自を隠すための政策が・・・・・・・
「九里きて、九里行って、九里戻る。」・・・・・・・正三角形?
「剣山という聖所を隠匿する為に、88カ所の礼所を定める様にと命じられていたかもしれない」・・・八十八=米=方位は「田」(地図の上)・・・・「米」と「田」の文字の関係が判明?
イエス誕生の時に現れた「東方の三博士」は・・・・・?教徒(ユダヤ教は占いが禁止では?)・・・・占いと言えば中国でしょう!
「昔、四国・剣山は「鶴亀山」と書いた。 」・・・・!!「鶴と亀が崩落した時、その中から大切なものが登場する。」・・大切なもの??
「契約の箱」の上には、金の打ち物作りで出来た翼を広げた二つの天使「ケルビム」があった。・・・・「ケルビム」・・・・・酉(天子)?回転?天体?方向?    車輪?「世界的発見となり、世界歴史を変える事になるだろうか。」・・・・なりそう!
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/black.htm

やはり 水戸黄門様は御存知だった!
徳川光圀は江戸に修史局を開き、元禄10年(1697)、突然徳島藩江戸留守居役であった老中土屋相模守を呼びつけ、覚書を手渡し、阿波及び淡路両国にある古代天皇葬場の調査が続けられたのであった(阿波国国史研究会編『道は阿波より始る』に詳しく述べられている)。
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/kenzan.htm


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沖縄の風習
2005年9月19日 0:24:28 管理人
紀氏さん、貴重なHP紹介ありがとうございます。ご紹介のhttp://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/tokehon.htm
のページにある、「これは災厄を家や村に入れないために、牛をほふり、その血をススキの穂や、桑の葉等の植物に浸して、家の門口や四隅、村の入り口等に塗るというものである。」との記載おもしろいですね。また、死者への穢れ祓いの儀式も最近も古代史ではかなり死者の穢れと祓いについて、興味もたれているようなので、やはり読んでみると、旧約聖書の穢れ祓いの儀式の箇所は、アカデミズムでも必ず比較対照して論文書いておかなければならない部分でしょうね。その辺理解、解説を加えないで研究論文書いたとして、西洋の学会へ出たときすぐに質問・追求されるでしょう。


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参考
2005年9月19日 12:27:16 いばらの紀氏
ライオンはダビデ王統を担うユダ族のシンボルであった。
ユダヤと日本の風習(3)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/usi1.html


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少しコメント
2005年9月19日 23:22:18 廃人
少しだけコメントを。
いばらの紀氏さんへ。
「9字の印」の業法のうち、早9字の事を指していますね?
本来の9字はもうちょっと別の業になりますよ。

管理人氏へ
しかし・・・、懐かしい話題ばかり続きますね。
失われた10氏族の件なら、
中東のハザール帝国にも手を伸ばす必要がありますよ。
(ハザールに関しては一般に手に入るレベルでの日本語書籍が出ています)
青森の辺来の件もそうですが、古歌や民謡に目を向けたほうが良いと思います。
あと、黄泉の道の話を探ると、かわかつ氏が記載されていた内容の一部がわかるかもしれませんよ。
鉄の件から、鉱脈に関わりが出てきます。
そこから神と人の動きを中心に派生させて行くと、面白い繋がりが出てくるでしょう。
Absolute-Purificationの性質を持つ神道という宗教の成立、
神を紙として扱う術を持つ陰陽道等、日本の宗教は面白いですよ。
調査をすればする程に美味しくなる、まるでスルメイカを噛むように。
では。


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関連参考HP
2005年9月22日 11:24:45 いばらの紀氏
「日本の宗教は面白いですよ。」関連参考HP
神を最高としない思想。
雲上での仙人の位置づけ
http://www.mirai.ne.jp/~sibucha/selfish/unjo/kurai.html

廃人さんコンニチハ、「ハザール帝国」勉強になりました、イスラエルの12部族の中に黄色・黒髪・黒の瞳の部族が存在していたとの認識でしたが「白人」のユダヤについて疑問でしたが、北欧との混血(宗教をふくむ)が生まれたと理解して宜しいでしょうか?「イスラエルの12部族」が南北に分かれ「カナン」の地に拘るシオニストと新天地にユートピアを築こうとする出エジプトの民?(モウセの民がカナンに着くまでの謎の40年が気になります。うしなわれた10部族への神?の「密命」が血の交わり「混血」による世界統一デハの妄想をいだきます。(ヤウエーには従はない民。?)
今後ともよろしく御願いします。


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仙人の地位は神々の上
2005年9月22日 11:35:09 いばらの紀氏
日本の神道も?
古代中国では、仙人の地位は神々の上に位置していたらしい。
道教では天界の下に仙界がある。さこで修業した仙人である真人や、生まれながらにして仙人の神人が不老長寿の世界を楽しんでいる。その下に神々の神界ある。
「取り上げられなかった神族」   より
http://www.digitaldevil.co.jp/dds-net/information/data/lost_of_god.pdf


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12氏族の件
2005年10月2日 23:25:48 廃人
モーゼに連れられてエジプトからの逃避行(出エジプト記)の下りの際は
12部族揃っています。
氏族が分割されたのは、バビロン捕囚前の南北に分割した際の話です。
その後、ローマに併合された際には、北の10氏族は忽然と消えてしまった
事から、「失われた10氏族」という扱いになります。
南の2氏族が現在のユダヤ人という見解です。(常識ですよね?)
両者共に、政治的な対立が主で分かれたのであって、
彼らの神への信仰についての相違は持っていませんよ。
神の密命?妄想ですね。
まぁ、失われたのには訳があるのですが・・・。
>北欧との混血(宗教をふくむ)が生まれたと理解して宜しいでしょうか?
北欧ではなく、地中海世界との間での混血によるものです。
又、カナンの地迄の40年に関しては、旧約聖書を読んで下さい。
牛の神様の時代はそろそろ終わって欲しいですけどね。
では。



秋の七つ森古墳
2005年9月17日 19:46:06 かわかつ WEB
画像掲示板に貼り付けておきます。
ここは阿蘇にほど近い内陸部ですが、この七つの古墳群は背後に先土器、縄文期の遺跡を多く持ちます。おそらく大野川河口から入った海人族に彼等は滅ぼされたのでしょう。
近くに景行天皇西征の伝説を伝える禰疑野神社を控え、そこから北上すると久住山の麓に物部神社、さらに北上すると中臣神社が、一直線に並んでいます。
HPに諏訪大社をアップしました。
諏訪下社は出雲大社と言ってよいかと思います。
フォッサマグナのど真ん中に、日本海の古志から太平洋側の東海地方へと抜けていった人々の遺物が点在し、その中に抉状耳飾りがあります。いわゆる古代の石のイヤリングですが、中国の河母渡遺跡から日本の出雲、そして富山湾、諏訪、伊豆、駿河などに出土します。
その道を辿るとタケミナカタの来た道にそのままあてはまり、海人族が糸魚川・静岡構造線を行き交っていたことがわかるのだそうです。
いかがですか?


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白鹿
2005年9月18日 0:11:32 管理人
かわかつさん、ちょっとだけおひさしぶりです。
先日の鹿嶋探索アップされていたんですね。詳細かわかつさんならではの視点ですね。鹿は海という意味なのですね。諏訪下社関連も拝見しました。荒御魂と和御魂別々に祀っているんですね。かわかつさんのこちらのページ、整理されてて見やすくてだんだんよくなってきましたね。
http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/kodaiindex.html
かわかつさんHPに白水朗って書いてありますけど、白であることになにか深い意味がありますか?というのも、倭武神話やその景行天皇記紀にやたら白鳥とか白鹿とか白が出てくるんです。白の生贄関連は後代朝廷の祭祀にも出てきますが、白の起源が知りたいように感じています。


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久々のレスでした
2005年9月18日 1:27:15 かわかつ WEB
白水郎は主に中国黄河以南の海岸部・・・いわゆる魏志倭人伝の記載にある会稽東冶周辺であり、彼等は自分たちを呉の太伯の子孫であると称していました。
習慣として水中に沈潜し魚介海草を採取するため鯨面文身していたといいます。
「白水」は太伯の「伯」にも関係しそうですが、実は「白」と「寒」には同じ意味があるのではないかと思われます。
冷たい水を「白水」と表現することは意外と多く、熊本県の名水の涌く村にも白水村があります。また白川などもやはり冷たい霊水の流れる河がある場合が多いのではないでしょうか。
ただし、半島系の白頭山や新羅からくる白木などの説もあり、かなり混同されてしまってきた観もあります。この辺りはきっちり分別しておく必要は感じますね。
日本に於ける白水郎の出典は「豊後風土記」です。また万葉集にも柿元人麻呂の和歌に詠まれており、その数はかなり多いのです。どうやら天皇家と海人にはかなり深いえにしがあるようです。
梅原猛は藤原不比等の長女・宮子は実は海人族から迎えた養女であったのではないかと説いていますね。

全国の白のつく地名など細かく分析して行くのも面白そうですね。
そういえば宇佐神宮神託事件の和気清麻呂が薩摩へ配流されたとき、中津の八面山で迷った彼を救うのも白いイノシシでした。鎌足神社の白蛇といい、ちょっと発想を飛ばして源氏の旗印の白旗なんかもどこかで絡んでくるのかも知れないですね。


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弥栄神社
2005年9月18日 1:55:36 管理人
かわかつさんいろいろお教えありがとうございます。なるほど、白山にも白川八幡がありましたね。やはりご指摘冷たい水の件など、白の意味としてなにか関係ありそうですね。
ぜんぜん飛躍するんですが、岩手のキリストの墓がある戸来村の近くに弥栄神社があるのをみつけました。この弥栄神社、例のごとくうちの母方の祖の地岩手一ノ関にもあるんですが、どうも弥栄神社の大本は大分にあるんですね。
http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/ooitasigaiti/iyasakaj/index.htm
岸和田にもあるそうで、別名祇園社、やさかの読みだそうです。岸和田の弥栄神社の中に白永神社がありますね。同じく摂社市杵島神社とともにかわかつさんのところ専門のところのようです。
http://www.tvk.zaq.ne.jp/yaeijinja/
おもうに弥栄神社、島根にもありますが、ちょっと白の地名とともに注目してみてはどうでしょうか。かわかつさんHPの隠れ八幡というのもその辺と関連するでしょうか・・・。
ではでは。


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いやさか神社
2005年9月18日 15:15:49 かわかつ WEB
上記HPにある大分の弥栄神社は当家の菩提寺のすぐ裏にありまして、私も掲示板などでも画像をアップしております。大友家の家紋が神門の真ん中に掲げられておりまして、藤原秀衡流大友氏が再建に尽力したことがわかります。
それ以前にはスサノウなどの神が祭られており、上野という台地が多くの横穴墓をもっていることと関連しているのだと思われます。

ところで藤原秀郷ですが、藤原不比等も秀里と呼ばれていたことが例の羊太夫の本にも書かれていますね。これは後世の作り話ではないかと思っていたのですが、どうなんでしょう。
藤原秀郷の方は俵藤太ですから、平将門を討った人物ですが、主にムカデ退治で知られるような勇猛の人だったらしく、こういう英雄にあやかりたいという武士はやはり多かったでしょうから、全国に氏姓が蔓延していますよね。私は彼のあざなである「俵」は田原からきているのかなとも考えています。田原氏は確か新羅関係だと思います。
白髭神社という国東地方の神社がありまして、そこは田原氏が建てたやしろなのです。
新羅関連では滋賀県の園城寺にある新羅神ですが、ここにも英雄が関わっていまして、八幡太郎義家(源義家)の弟である新羅三郎がここで産湯をつかったとか。どうも東国の武家にも新羅祖先伝承はあるようですね。


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高麗若光と白髭明神
2005年9月19日 0:54:37 管理人
かわかつさんご指摘羊太夫は、あの本だと藤原不比等とされていましたね。関東から都に通った伝説が残っており、あの関口さんの説では、確か失脚した不比等が多胡郡に拠点を敷いて、朝廷と闘った話でした。秀郷、秀里の一致はおもしろい視点ですね。どうつながってくるのか、楽しみにしています。
多胡郡より南高麗郡には高麗若光の英雄伝説があり、白髭明神となって関東に広がっているとのこと、高麗若光の話と羊太夫の話の接点探しているのですが、どこかありそうな気配がしてきました。ちなみに多胡郡設置は711年、高麗郡は715年です。ふたりの英雄、どこかで結びつけれないかなと感じますがどうでしょう。


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白水追加
2005年9月19日 18:38:44 かわかつ WEB
ものの本によりますと揚子江上流は白水川と地元ではいうそうです。



地学(地震)史掲示板を造りました。
2005年9月16日 0:55:25 管理人
先の資料掲示板を修正して、新たに地学・地震・地理関連の古代史の掲示板を作成しました。レイラインと地形構造とか、古代の地震やその地理観念についてなど、いろいろ書き込んでみてくださいね。
http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/



YHWH、Yahweh が嫌う 神 「バール」は「禹」では、の妄想。
2005年9月13日 14:13:38 いばらの紀氏

http://www.mengelberg.net/classic/fmbelias1.html

http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/0-55.htm

紀元前600年頃と推定される、文字が刻まれた石(水窪石)が発見されたと報じられた。解読の結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれていることがわかった。

バール
 カナーンの主神。雨と豊饒の神でしばしば太陽神とも見なされる。ただし後にキリスト教文化下で悪魔化して邪神とみなされた。バール(Baal)は「主」の意で神を示す一般名詞でもある。なお女性形はバーラト(Baalat)。この語はバビロニアで「主」の意を持ち主神の称号であったベル(Beel)に由来すると推察される。
http://www.se-inst.com/lib/dds98ded48.htm

霧の彼方の神々
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf07.html

カナンの地で信仰されたバール神の一柱、オシラー女神ではないか ...
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html

大天使ルシフェルが堕天した姿である魔王ルシファーとも同一視される。キリスト教では不吉とされる6の倍数の、4463万5569とも740万5926とも言われる悪魔の軍団をまとめあげているらしい。その姿は時代によって様々に描かれるが、おおよそこの世で最も恐ろしく、醜い姿で現されることが多い、まさに邪悪の化身である。因みにイスラム教のマホメットと、異教のバール神、そして仏教の仏のポーズを取り入れた悪魔バフォメットなどは本当によく考えられたものだと思う。(ヨーロッパ)
http://www.geocities.jp/yuzusenbei/test39.html


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ももたろう
2005年9月15日 6:52:10 管理人
キシサンこんにちは。いろいろ異教の神々が、悪鬼とみなされていく経緯興味ふかく拝見しました。ちょうど、今仕事関連で、「ももたろう」の物語の映像を編集しています。ももたろうって、外国への侵略神話みたいな内容ですね。倭武の征伐神話と共通点が多いですね。鬼が酒で酔っている隙に退治するとか。この両者には必ず同じ系統の筆者がいるでしょうね。さる、きじ、いぬは、西遊記みたいですね。聖書だとイエスについていった3人の弟子みたいな感じでしょうか。メソポタミアだと??



「大物主が櫛の箱に入った」には、暗号が?
2005年9月12日 3:54:20 いばらの紀氏
崇神9年条に、「大物主が櫛の箱に入った」とき、それをみて倭とと日百襲姫がびっくりして恥をかかせ、おこった神が「姫をホトを自身で突いて」死ぬように仕向ける話があります   [諏訪・府中〜鹿島(研究会オフ会)・御岳山 05.8〜9]より
「姫をホトを自身で突いて」と「美人の富登(ほと)を突きき」・・・は似ています、・・そこで下のHPです。

三輪山から放たれた矢
「渡辺豊和氏は、「大和に眠る太陽の都」において、
大和三山と三輪山・忌部山の位置関係(左図)が、
記紀の次のような記事と結びつくと指摘しています。
名はセヤダタラヒメ、それ容姿麗美かりければ、美和
(三輪山)の大物主の神、見感でて、その美人の大便
まる時に、丹塗矢に化りて、その大便まる溝より流れ
下りて、その「美人の富登(ほと)を突きき」。(神武記)
御陵は畝傍山の美富登(みほと)にあり。(安寧記)
(安寧)天皇を畝傍山の南の御陰(みほと)井上陵に
葬りまつった。(懿徳紀)」・・・・・・

「ところで、渡辺氏は、中大兄の三山の歌、「香久山は 畝火雄男志と 耳成と 相あらそいき……」
の「雄男志」を、「を愛し」と解釈しています。だから、畝傍山を「雄々しい(男々しい)」男性と見ずに、
香久山と耳成山とが相争った女性の山とし、
三輪山から放たれた矢の先に位置する「忌部」を女性畝傍山の「陰部」と受けとっています」・・・・・・
「日本古代遺跡の謎と驚異」について 2
http://www.geocities.jp/yasuko8787/kyoui2.htm

古墳と地図作りの参考?いや、そのものでしょうか?


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三輪山、コンパス、古墳
2005年9月13日 0:30:56 管理人
紀氏さんこんばんは。三輪山から忌部山へのライン、コンパスによる円上のラインと、各古代遺跡との関連おもしろいですね。先の三輪山伝承は箸墓古墳の造営につながっており、古墳造営と測量との関係を三輪山伝承を通して知ることができそうですね。コンパスによる円の作成について、あのような数キロにわたる巨大な円周を描き出すのに、どういう測量技術や計算式が必要なのか、興味深いですね。


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私の感が選んだHPです。
2005年9月13日 10:14:35 いばらの紀氏
私の感が選んだHPです。
難しいことは解りませんが 正多角形?(正三角形の∞ 無限大角形?)が円に最も近い形なのでダビデの星のように、直線と角度を使い巨大円を描けるのでは?と・・・・・
孤度法
【球面三角法】
球面において平面の直線に相当するものは大円(great circle)である。
これは球の中心を通過する平面と球との交わりであり、
2つの異なる大円は必ず対称な位置にある2点で交わる。
2つの大円の為す角度とは、交点における各大円を含む平面が為す角度である。
また、大円上の2点の距離とは、球の中心から2点を見たときに開いた角度である。
従って球面に出来た三角形では、角・辺の長さ共に角度の単位で表現される。
http://homepage2.nifty.com/4179/vb6_dx8/sin_09.htm

 

フォトンベルトへの突入とマヤの予言
http://homepage2.nifty.com/yahagioffice/whatnew02/h2692586.htm
「巨大 円 描 」での検索で偶然・・・・・
正しい魔法円の描き方
http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/magiccircle.htm

越 の 子 の 紀氏でした。


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多角形
2005年9月14日 7:48:45 管理人
紀氏さんお返事ありがとうございます。なるほど、多角形から円にもっていくわけですね。やはり古墳時代くらいになると、きっと三角形や四角形以外にも多角形やその線分を結んだいろんな形もしっていたのかもしれませんね。正確な八角形が出てくるのは、天武天皇陵とかでてくる7世紀くらいでしょうか。円が出てくる時期は??球が出てくるともうマヤ文明並ですね!!フォトンベルトしっていたマヤ文明おそるべしです。


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関東四方観念
2005年9月14日 7:55:03 管理人
四方観念に関連してですが、最近、関東の地下には四角形のプレートがあることがわかってきました。その四方の端は地震の巣であり、なにかその四方に囲まれた部分が地震から防護された領域になっているようです。紀氏さんところは地震の巣かな??そのあたり神社とか災害押さえのなにかありませんか??

新発見の台形プレートについてのHP
http://www.aist.go.jp/aist_j/new_research/nr20050610/nr20050610.html
 その台形プレートに四方からかかる太平洋プレートや つまり、足の関節にいろいろ衝撃を与える筋肉や筋・骨と四角い皿骨との関係ですね。足の皿骨が、各部からの動きの摩擦を吸収して、関節が滑らかに動くようにしている、まさに四角い台形プレートそのものが、神の偉大なるみ摂理でそういう皿骨の役割を果たしてしまっているのかもしれません。その四角い皿骨という防護壁の上で暮らしている東京人も不思議なところにいるものだと感じます。



はじめまして。
2005年9月9日 23:57:02 若宮
はじめて書き込みさせていただきます。
神奈川県で生まれ育ちましたので、(現在他県に移っています)“相模”の文字を見ると懐かしくなり、つい立ち寄ってしまいました。
古代史に興味はあるものの、たいして知識のある方ではありませんので、ご容赦くださいますよう御願い致します。
すでにご存じかもしれませんが、大磯町にある高麗神社では毎年相模の国の“一之宮”がどちらの神社であるかを問答するという、素人目には非常に不思議なお祭りがあります。一つは寒川町にある寒川神社、もう一つは大磯町に隣接する二宮町にある川匂神社です。川匂神社は、町名にもあるとおり、一応の格付けは“二之宮”となっていますが、このお祭りではどちらが“一之宮”であるかを毎年持ち越すという次第になっています。そのあいまいなあたりが何だかとても日本的、と思っていたのですが、“渡来人”のキーワードが加わると、それだけではない事情がみえてきそうですね。


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参考HP   
2005年9月10日 2:28:30 いばらの紀氏
若宮さん、紀氏ですよろしく御願いします。
神奈川県 二宮町 
相当数の古墳や横穴が発見されたことから,
二宮のこの地に人々が生活し始めたのは
8千年ほど昔の純文時代までさかのぼるといわれます。

相模国の式内社
http://home.s08.itscom.net/wtnb36/sagami.html
土屋の歴史 (古代〜平安時代)
縄文から近代にかけての「複合遺跡」が発見されている。
http://www5.ocn.ne.jp/~hurusato/rekisi1.htm

「御筒粥祭」・・・・[筒]から・・・ツツ・・・星・・占い・・覘く・・・妄想でしょうか?

「筒」ツツを検索しました。
意外な人たちと大工さんの関係
 とんでも説の類だろうけど、秦氏ネストリウス派キリスト教徒説というのがある。その根拠に、聖徳太子(秦氏と関係が深かったとされる)とイエス・キリストとの共通点をあげる。
http://kamosikamiti.air-nifty.com/
三角壔土製品の壔は「つつ」(筒)の意味で使われているとのことです。
三角壔土製品の壔(土偏に壽)。よみは「とう」意味は、@とりでAつかBつつみ。小さい城、一説につか。ゆえに土偏。(講談社『新大字典』)
(Aつか・・・・・古墳の意味もありそうですね!)つつ・・・つか・・・はか・・・墓穴・・・・穴・・・覘く(占い見る)・・・見る・・・国見?
鳥形埴輪の面白さに引きこまれそう…。
「 Kさんのお話を聞いていると、古代史の大きな鍵を握っていそうなのがやはりミソサザイとウグイスのようです。前からミソサザイには興味を持っていたのですが、なんとウグイスも古墳文化と深いかかわりがありそうなので、オドロキです。この謎を解明できれば、古墳の意味や名前についても一挙に解決できそうな予感が…?。」
・・・・お仲間の増殖の気配にワクワク。


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紀氏さん、はじめまして。
2005年9月10日 10:09:14 若宮
速レスありがとうございます!あまり頻繁にはお邪魔できそうにありませんが、これからも時々覗かせていただきます。
私が関心を持っているのは、昔の稲作はどんなんだったのだろう〜という素朴なものです。いわゆる縄文期から弥生期に移行する課程に当たるのでしょうか?稲作が広まったことで人々の生活様式が変化したのはなんとなく想像できますが、先日その頃の事に関して読売新聞に論説が載っていました。目ウロコだったのは稲作を広めた弥生人は渡来系の人々と考えられ、しかも縄文人と弥生人の間に争った形跡がない事、にもかかわらず集落は縄文人ごと、弥生人ごとと別になっていたこと等です。記憶違いだったらごめんなさいです。
二宮にも遺構が・・という箇所で思い出しましたが、現在県立高校が建っているところに出てましたね。(何かの用地にならなければ掘り返しませんからね〜)今でも資料だけは残っているはずです。
聖徳太子は天文学にも関心があった様な事を小耳にはさんだ覚えがあります。実際、筒(望遠鏡)で覗いていたかどうかは不明ですけどおもしろいですね。
伊勢神宮で行われる式年遷宮(神様の供物を納める倉の建て替え、というところか)は、なぜ20年ごとなのか?という謎の一説に米の備蓄限度の年数であるとか、昔の暦が20年に一度還ってくる現象を吉兆とした、という説もあるそうです。農耕と暦の関係も深そうですね。


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参考HPです。
2005年9月10日 12:01:02 いばらの紀氏
若宮さん今日は、
「昔の稲作はどんなんだったのだろう〜という素朴なものです。いわゆる縄文期から弥生期に移行する課程に当たるのでしょうか?」のRE
米と酒と鳥と貝
「日本の朝寝鼻貝塚(岡山市)から出土した日本最古の炭化米は6千年前(B.C.4,000年)のもので、日本のお米の方が遥かに古いことが分かりました。しかも、通説の様に弥生時代(紀元前4世紀頃〜後3世紀頃)ではなく、稲作伝来は、縄文時代(紀元前1万年前後から前4世紀頃)だったのです。」・・・・・こんなHPが在りました、歴史は変わります。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/sake-tori-kai.htm


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貴重な情報をありがとうございました。
2005年9月10日 19:45:52 若宮
早速開けてみましたら、知識の大海原が広がっていました!!
目ウロコ、と思っていた情報(稲作を広めた〜集落が分かれていた)が、またさらに根本から覆ってしまった訳ですね!他にも気になっていた項目がありましたのでDLしてじっくり読み込ませていただこうと思います。ありがとうございました。


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鹿
2005年9月11日 2:30:20 管理人
若宮さんはじめまして。いろいろ貴重な情報ありがとうございます。相模の神社の一宮を競う行事のお話、はじめて聞きました。今度は川匂神社にも行ってみたいと思います。
ところで、紀氏さん紹介のHPのひとつに、海人関連で鹿の神事をする氏族についての記載に、興味を持ちました。
海人の國(海人と彫金のページ)さんHP
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/fujiwara.htm

先日行った諏訪のみしゃくち神社においても、鹿の骨の占いがあり、「ふとまに」というらしいのですが、そのHPでは鹿は中臣をはじめ、阿曇氏の志賀島、久米氏の鹿児島神宮、中臣の鹿島神宮、そして藤原と関連する「春日「若宮」神社」とも関連するようです。

とそんなこんなですが、若宮さん今度ともよろしくお願いします。


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鹿の占い
2005年9月11日 5:26:31 管理人
ようやく探索日記ほぼ書き終えました。オフ会の様子もご覧ください。諏訪の酉の祭りや御岳山の太占(ふとまに)祭の鹿の肩骨についても、いろいろ考えてみました。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/suwaontake0508.htm


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鹿とレイライン
2005年9月12日 1:28:58 管理人
上記探索日記の最後の部分に倭武尊の征伐伝承とレイラインと鹿伝承について記載してみました。よかったらごらんになってみてください。鹿というと春日若宮ですが、若宮と聖徳太子、この辺ちょっと知りたいのですが、詳しい方いましたらお教えください。


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記憶違いがありましたので訂正いたします。
2005年9月12日 22:25:15 若宮
こんばんは。皆様にせっかくご親切にして頂きましたのに、9月9日に送信した分の内容に訂正が必要な箇所がありました。うろ憶えのものを安易に書き込んでしまい、申し訳ありませんでした。
相模の国の一之宮を詮議するお祭りは、毎年5月5日に大磯町の神揃山で行われる国府祭で、高麗神社改め→高来神社は同町にあるものの同一ではありませんでした。位置関係を図示すると以下のようになります。
←西                             東→
川匂神社       六所神社   神揃山      高麗山
(二之宮)       (総社)   (国府祭)   (高来神社)
               ↓相模湾
尚、高来神社では、御輿が山登りをする点が珍しいそうです。(4月)
ちなみに川匂神社はこじんまりとしたところが好きでした。(笑)余談になりますが、国道一号線から少しはずれたところにあるので、初詣のあとによく箱根駅伝を見に行っていました。
HNにしている「若宮」は、現在家の近くにある神社の名前です。自然災害封じかなにかに由来していたような??こちらももうちょっと調べてからにします。今回の件ではたいへん失礼いたしました。


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神輿と山のぼり
2005年9月13日 0:35:16 管理人
若宮さん詳細おしらせありがとうございます。私のほうで高来神社を高麗神社と書いていましたので、失礼しました。神輿が山を登るというのはぜひ見てみたいですね。確か葛城の山の上にある恩智神社や奈良春日神社にもそのような、神輿と山のぼり関係あったように記憶しています。なにか相模のそれにも「若宮」?関連でつながりありそうですね。



参考HP
2005年9月7日 22:38:49 いばらの紀氏

星座早見盤の使い方と機能
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/hayami/hayami-i.html#four
星座早見盤そっくりですが
水戸の測量家の長久保赤水(ながくぼ・せきすい:1717〜1801)という人で、彼がなぜこの様な物を作ったかは不明です。また江戸時代を通じて同様の物は他に見当たらないのも不思議です。

7.観測地点の経度を知る
 日本では、東経135度での地方時を中央標準時としているので、観測地点によると経度差の影響が出ます(経度1度で、15分の時差)。そこで、天体の出没や南中の表示時刻と、実際の観測時刻との差から135度との経度差を知ることもできます。

海神が何故山奥に、
神坂神社(住吉社)
神坂神社 祭神 海神「住吉の神」 底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命 筒は星・三神はオリオン星座の三つの星を指す。
http://www11.plala.or.jp/samma116/ubusuna/misaka.html
神坂神社にも御柱があると聞きました。

日本列島における聖石群の実例
神坂峠の「日本武尊の腰掛石(神坂神社境内)」、
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/nihonkokunai4.html

比例コンパス」に関して
http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=2609;id=noos

http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=2631;id=noos
メーソンと同じでは。
http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=2598;id=noos

【2636】シュメール、エジプト、インド、ブリトラ、クベラ
http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=2636;id=noos

住吉社と地図つくりが繋がればの検索でした。


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面白いですね
2005年9月8日 2:37:31 かわかつ WEB
役立つものばかり、ありがとさんどす。

ところで聖徳太子と神八井耳ですが、この二人同一人物だと思われます。
どうやら九州に大いに関連ありそうです。また天武天皇と聖徳太子もどこかで血が繋がっていそうな気がします。いかが?


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聖徳太子と天武天皇
2005年9月8日 10:46:22 とみた MAIL
関裕二さんの謎シリーズの聖徳太子の謎の本に出てました。

天武天皇が、天智天皇の弟という従来の説が疑問を持たれていますね。

関さんの本では・・・

皇極天皇(斉明天皇)−−と舒明天皇の間の子が天智天皇と天武天皇というのが通説ですが、皇極天皇と高向王(用命天皇の子か孫)の間に漢皇子という子供がおり、これが天武天皇と同一人物でないかと言う説です。したがって天武の同母異父の弟が天智になります。 聖徳太子は用命天皇の子供ですから、聖徳太子は天武の伯父か祖伯父になります。

法隆寺は梅原説の祟りを封じ込める寺を敷衍して、天武天皇、聖徳太子など親蘇我一族の祟りを封じ込める寺だと解釈しています。

蘇我入鹿、山背大兄、そして天武の孫の長屋王を滅ぼした祟りを封じ込める寺。

かわかつさんの仰せのように、関説を信奉はしていませんがこんな見方もありうると思っています。


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住吉神社
2005年9月8日 22:19:34 管理人
紀氏さん、いろいろ情報ありがとうございます。江戸時代の早見盤などおもしろいですね。住吉神社と測量関連、解明期待しています。確かにそこにきわめて重要なキーポイントがあるようなきがします。住吉というと、私も一度いったことはあるのですが、昔は港湾沿いにあたり海人関連になるでしょうね。鹿島や宇佐のそれとはどういうむすびつきがあるのでしょう。
天武天皇というと、さきほどから、天武13年684年の南海地震の記載を調べています。八姓のカバネを賜った11月の初めの日から半月後に大震災がおきているんですが、そのときの被害ときたら、伊豆大島では太鼓のような音とともに土地が海へひろがって新しい島ができ、高知では逆に田畑が海にうずもれてしまいました。船の流出も激しく、官舎や寺院もかなり崩壊したそうです。そこで、臨時的に諸国の課役を減らしたり、王卿に禄をたまわったりしているわけですが、奈良の官人の死亡記載はないので不思議です。予定どおり次の月には朝臣を賜り、さらにその次の月には宿禰を賜る。でも、その後忌寸は半年期間があき、結局稲置などの姓、つまり地方官クラスだと賜られないままで終わり、そのころ天武は病気になって死んでしまうんですね。当時の家の建築構造や、わらぶき、かやぶきなど、崩壊時に覆ってくる重さとか、その辺も関係あるのでしょう。祟りを封じ込めた法隆寺、丈夫な建築物ですね。


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よろしければどうぞ。
2005年9月10日 1:06:57 いばらの紀氏
参考HPです。
倭人 海人
http://www.google.co.jp/search?num=30&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=%98%60%90l%81@%8AC%90l&lr=
閼伽出甕 論考集「ムカデについて」(12)
『今昔物語』の舳倉島でのムカデ退治は、アズミ族(ヘビ)と江南の鍛冶技術者集団(ムカデ)が能登付近で衝突した事件をモチーフにしているのかもしれません。
http://members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/MUKADE/nip03607.htm
$5863 古代史】菊理媛:10》近年の解釈を調べる・1/アコ(74行)
$7175 古代史】復刻》「邪馬台国=仙台」説      アコ(76行)
$7645 古代史】九州王朝》倭人の婚姻儀礼〔1〕    アコ(94行)
$7660 古代史】九州王朝》倭人の婚姻儀礼〔2〕    アコ(123)
海人と俳優
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ama-wazaogi.htm
海人系豪族
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ama-top.htm
邪馬台国東遷/神武東征
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/jinm/jin1.htm
目次
1.五つの倭国
2.邪馬台国東遷説
3.神武の年代論
4.倭国と倭国造
5.倭国造の周辺
6.倭国魂の大物主神
7.倭国の磯城族
8.倭国と吉備氏
9.倭国の制海圏
10.卑弥呼の倭国
11.倭国の窓口
12.常世の倭国
13.倭国の鏡作り
14.倭国の鐸と鏡
15.神武の倭国
坂東千年王国
よろしければどうぞ。


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紀氏さんありがとうございます。
2005年9月11日 2:14:36 管理人
いろいろ情報ありがとうございます。ちょっと気になる点がひとつ。上のレスで。



今回の台風
2005年9月7日 14:01:26 かわかつ WEB
台風による河川の溢れる様をピンナップして画像掲示板に貼り付けておきます。今回は私もかなりびびらされました。
庭の荒れ方などは私の掲示板に貼り付けてあります。よければ台風の爪痕っていう奴をご覧下さい。
とみたさん、泊瀬さん、紀氏さん、そして管理人さんお見舞いありがとうございました。


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ブログで
2005年9月7日 15:25:13 かわかつ WEB
台風の詳細アップしております。

http://2004mmc-junsouda.cocolog-nifty.com/40sugitecpkayo/


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無事で
2005年9月7日 17:43:04 管理人
なによりです。いろいろ恐怖の2日間だったんですね。高台だったのはよかったですね。でも土砂崩れなどは気をつけてください。こちらは先ほど地震あり、まだくる可能性あるかもしれませんので、予断許さぬ状況です。



相模の古代史
2005年9月3日 21:42:39 タックン
ホームの探索の部分ちょっとだけ見ました。
この地は私もだいぶん前から注目していて、古墳時代の遺跡や古墳が結構存在している地域で、特に湘南と呼ばれている地域、大磯周辺などには古墳時代の墓制の一つである、横穴墓が特に神奈川県下でも集中している地域です。
横穴墓と言えば、近畿などでも南河内の地域に有名な高井田の横穴墓等があり、渡来人の墓制と古くから研究者などに指摘がなされています。
特に湘南の、平塚市周辺には渡来人関連の遺跡や、神社などが存在しており、この地域周辺には半島関連の古くからの地名なども残っており、早くから渡来人が住み着いていた証拠ともいえます。
特に私が注目しているのは、この地域には高塚の古墳もある程度ありますが、それと同等の基数で横穴墓が山の斜面に築造されている事です。
特に鎌倉市・横浜市・平塚市・藤沢市などの斜面には、横穴墓群と呼ばれているように何十基という感じで集中的に築造されている事です。
関東地方でも、これほど一定の地域にこのような横穴墓が造られている場所は、あまり無いといわれています。
他には、茨城県の海岸部・栃木県の内陸部。
ところが内陸部の、秦野市あたりになると殆ど高塚古墳が主流になっています。
関東の地だけに考えてみると、この横穴墓のある地域が海岸部の周辺の地域に多い事、相模湾周辺部の地域に集中している事で、これは海洋性のいわば漁業を生業としていた、渡来人系統の民族の奥津城だったんでは?と考えています。


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横穴墓
2005年9月3日 23:45:39 管理人
タックさん、大変貴重な情報ありがとうございます。横穴墓はとても渡来人の移住を知る上で重要なのですね。相模湾に多いというのは、とても興味深いです。先日行っていた鎌倉にもあったんですね。今度探ってみます。茨城、栃木、ほんとに渡来のにおいがする地域ですね。確か九州や福島にも横穴墓があり、その年代がどの辺になるのか、気になるところです。秦野の件も興味深いですね。川勝さん的にはその辺どうなのでしょう。


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鹿嶋の横穴
2005年9月4日 10:30:58 かわかつ WEB
やはり7世紀以降の、薄葬令以降の墳墓ではないかな?
九州北部は多くの横穴墓がありますが、昔は縄文時代のものと考えられていたらしいですね。
関東の場合、時代が下がるのかな?
しかし鹿嶋の砂州の上の方は埋め立てられてかなり古墳が削られたと、タクシーの運転手さんも言っておられましたね。それでも調べてみるとかなりの縄文、弥生、古墳時代の遺跡が残っているようです。今回いけなかったけれど管理人さんのほうで行く機会があれば是非アップしてみてください。
タックンも画像などお持ちなら、是非みたいですね。


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奈良初期
2005年9月5日 1:12:56 管理人
かわかつさんこんばんは。やはり喪葬令後とすると合点がいきますね。奈良初期の相模の高麗若光の渡来伝説とか、鹿島への開拓の動きとか、その辺に関連してきそうですね。そういえば、鹿島神宮近くの横穴墓の話もそうでしたね。今度行ったら発掘しているという神宮近くの遺跡跡とか、ちょっと考古的な部分も確かめてみましょう。結局今日は大分には行かず、埼玉のイベントへ。大分からはびビデオの録画だけ送ってもらうことになりました。やはり10月か11月になりそうです。


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録画って
2005年9月5日 13:03:08 かわかつ WEB
お祭りかなんかありましたっけ?最近・・・


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いえいえ
2005年9月5日 15:31:20 管理人
9月4日は祭りでなくて障害者関連のイベントで、先月はもしかするとそのイベントに取材しにいくこと予定があったので、大分いけるかもとお話していたんです。ではでは。


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横穴
2005年9月6日 20:43:54 タックン
管理人様がおっしゃるように、東北の一部福島県内にはこの横穴墓がかなりありますね!
特に有名な中田横穴などは、横穴内部に壁画などが書かれており、一見すると九州にある装飾古墳などに通じる絵?が描かれています。
前に、原島先生が書かれている著書を読んだ時、この東北にある横穴墓の装飾の手法は、九州に通じるとかかれていましたが、同様に山陰出雲地方に存在している横穴式石室・出雲特有の石棺式石室などもこれに通じるようで、九州特に北九州の古墳の伝播が、海伝いにに広がっていったと解釈して良いのではないか?と私は考えていますが・・・・・
大分県・熊本県内も九州内では、この横穴墓が多い地域と聞いています。
特に熊本県内の、菊池川周辺は装飾古墳の宝庫!と言われいますが、私はこの知の周辺をまだ歩いておりませんが、そのうち行ってみたい地域の一つです。
特に大分市周辺は、古宮古墳を筆頭に終末期・後期の特異な古墳が多く存在していて、興味をそそられる地域の一つで嘗て森先生などは、海部の集住地域の一つとおっしゃられていました。
特に佐賀関半島に存在している前方後円墳などは、海の近くにあってこれらの見解を彷彿させられると思っております。


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横穴墓探索
2005年9月7日 5:09:05 管理人
横穴墓、出雲方面にも見られるのですか。熊本が宝庫とのことですね。今度九州にかわかつさんのところに行くときは、そっちも見てみようかな。タックンさんも10月いらっしゃいますか?
遅くなりましたが、やっと府中から鹿島への渡来人研究会の第1回オフ会の探索日記をアップしています。まだ製作中ですが、結構おもしろいので、ぜひご期待を。以下ページアドレスです。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/suwaontake0508.htm
あとかわかつさん、水害大丈夫でしたか?


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大丈夫だァ〜〜^^
2005年9月7日 14:42:25 かわかつ WEB
続きの鹿嶋珍道中まだですかあ。
なかなかよく書けてましたよ。私のわがままぶりがよく出てる。でも、男前だったと一言ほしかったなあ^^+

紀氏さん、お見舞いありがとうがざいます。
風に乗って海を渡る。今回の台風は南から北へ右回りの烈風でしたが、これに乗るというのはちと無謀だとは思いますが、もおの本では季節風に乗って対馬海峡から一気に古志の国まで日本海を渡るルートがあったそうです。「東風吹かば・・・」じゃないが、モンスーンはかなり航海の助けになったそうです。
その証拠に糸魚川の翡翠が対馬には出土しているそうです。
海流の勉強をすると、風の道も知ることになって面白いですね。
これって縄文時代の話ですからねえ。海人って凄いですなあ。



御岳山
2005年9月2日 6:10:10 管理人
昨日は東京西端にある950メートルの御岳山の頂上にある御獄神社をみてきました。関東一円を見渡せる、修験道のメッカだったそうですが、すばらしい眺めでした。山頂での眺めのよい風呂に入りながら・・・。この神社、大穴貴や少彦名などを祭りつつ、下記でかわかつさんご指摘のやまとたける命、櫛眞智命など珍しい神を祀っています。延喜式だと「大麻止乃豆乃天神」を祀るとあり、「まち」「まと」「おおま」・・・と関連する神名が想定できそうです。神楽も盛んで中世の武将に相当信仰させていたようですが、1月3日に太占(ふとまに)祭という鹿の肩甲骨を焼いて占い神事があるそうです。鹿の神事というと先週行った諏訪前宮の洞窟での鹿の頭が並んだ風景を思い出しますが、はてさてルーツはどの辺に。信州にも御岳神社が。http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/j_ontake.html
下記かわかつさんのページによると出雲にも御獄神社あるんですね。
http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/sagami.html
詳細は探索報告を後日掲載しますのでご参照くださいませ。
御獄神社
http://members.jcom.home.ne.jp/nobish/mitake3.html


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いやいや
2005年9月5日 10:46:35 かわかつ WEB
御嶽神社の画像は秦野市で撮ったものなんです。
山岳信仰としての御嶽神社でしょうから、背後に大抵大きな美しい山があります。秦野の場合も大山おおやまと言う名山がちょうど後ろにありました。
出雲大社相模分廟はもともとのこの地の神社で、その隣に出雲からきた人々が分廟を建てているのです。
なお、ここには古いお社として八坂神社も建っています。
それにしても秦野ってこのあたりでは、最も痩せた土地なのに波多野氏はわざわざ開墾して、細々と蕎麦、大豆、サツマイモ、タバコなんかを育てて食いつないだんですねえ。今でも田んぼがなく、トウモロコシ、落花生が主力雑穀なんです。
やはりよい土地へ出て行きたい願望は強かったんでしょうね。大友氏が鎌倉に取り入った訳がよくりかいできましたよ。

おおまとのずのじんじゃ・・・と読むのでしょうか?
「的」でしょうかねえ。気になりますね。
「まと」というのは弓矢の的でしょうか。
的場、的矢、的井など各地に地名、名字で残っていますが、そういえば諏訪上社前宮にも的石があります。また熊本の阿蘇神社のご神紋は鷹の羽です。
考えてみると弓というのも古い武器のひとつですよね。
天皇即位の際には、弓の弦を鳴らす神事があるくらいです。


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対馬
2005年9月5日 11:26:38 かわかつ WEB
ちょっと思い出しました。
対馬には「豆酘」と書いて「つつ」と読ませる郷名があります。
この「つつ」が住吉三神の「底筒男神」などの「筒之男」の語源ではないかという説(田中卓「住吉大社史」)があるのをご存じですか。
「豆」という漢字でちょっと思い出しました。
漢字はあくまで当て字なんでしょうが、対馬の場合、やはり雑穀が主力なので、(島は狭いですからね)豆類に関する地名が残るのも当然かも知れません。
魏志の倭人伝の記載にある、「南北に市糴す」の「てき」というのは米などを買い入れるという意味らしい。逆に売る場合はつくりに「出る」の字を使って「糶」、「ちょう」と言うそうです。
「してき」とは商品を買うと言う意味の「市」に、栗を買うという意味の
「糴」で、穀物を交易するということだそうです。(永留久恵「海人たちの足跡」)貧しいから物々交換で違った栄養を養った訳ですね。

私自身は「つつ」は星の古語だと認識していましたから、田中氏の説なかなか現実的で面白かったです。
対馬には古墳時代に宗氏が入っていますが、平安以降、この領主はかなり和冦粛正に尽力したそうです。要するに勝手な貿易をさせないように取り締まるために宗という秦一族を送り込んだ訳ですが、この功績で宗氏は階位をもらったんです。
ただ対馬は本来、津嶋だったらしい。となると港になるが、「津」というのも堤や港のような入り込んだ地形を指しますから、筒のような形も「津」なんだと思います。大砲なんかも「つつ」ですよね。「おおづつ」ですから。銃口から根本までは筒状ですからね。「掲げつつ!」っていう軍隊の号令も、「銃口をあげろ」という意味なんです。
もしや「つの」というのも「角」が液体を入れる容器として使われたことから始まる言葉かもしれんですね。
いろいろ考えちゃいました。^^


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御岳信仰
2005年9月5日 19:14:33 管理人
御獄神社、秦野でしたか。出雲系なのですね。大山は確かに秦野の背後にありますね。御岳神社も山岳修験道のメッカらしく、伝説では天平年間行基ということになっているそうです。祀神の大麻止乃豆乃天神についてご指摘参考になります。豆はやはり豊穣神でしょうか。この神のほか豊穣神として大穴貴神が祀られていますからいい線ついているかもしれません。的はわかりませんね。諏訪に的石があったのはそうですね。諏訪前社との共通点としては、下記の鹿の占いの祭りが似ている点がありますが、先ほどしらべてみると、北緯35度57分に御岳神社があり、北緯35度59分が諏訪神社前宮です。緯度的に近く修験道関連の鹿島→諏訪レイラインの中間地にある指標とも受け取れますね。ちなみに先ほど調べたところでは、昨日行った浦和近くに大宮市があり大宮公園の氷川神社は北緯35度54分、高麗神社は35度53分です。この高麗神社からまっすぐ南に伸ばしたところに相模の高麗神社があるんです。相模から高麗郡への伝説における人民の流れは有名で、かわかつさんやたっくんさんご指摘の相模の研究は重要だと感じます。


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「矢」ヤ 「的」、マト を考えました。
2005年9月7日 12:28:34 いばらの紀氏

「行基図を最初の見たときの印象は、皆様と同じく「不正確な図面だな」でした。
しかし、みちのく(陸奥)は別ですが全体的なイメージは良く捕えていると感心もした。
そして、骨組みとなるラインを探し出した、当然ライン上には「富士山」が存在する。
東の端の地名に常陸と鹿島の文字が描かれた「行基図」から東「鹿島」より、西は
「富士山」〜当時の首都「京都」〜九州の東西のライン(日本を描くには当然のライン)
しかし、現在の地図に東西のラインを描くと当時の首都「京都」より南の「吉野山」を
通過しているのです。(吉野と言えば日本の古代史史上、もつとも有名で秘密めい
た所です。)西の終点は、高千穂をぬけ水俣その先は甑島列島(甑こしきの漢字に
「轂こしき」を思い浮かべた、(轂コク:牛車の車輪の中央にある円木。車軸がつきぬけ、
輻ヤが四方に出ている。ヤを一所に集める・しめくくるの意味。)東から放たれた矢が
西の的に集まる・まさに日本の東西の車軸にふさわしい。(地名にも意味が隠されて
いる。)しかし「行基図」では、 京都を通り〜九州の「壱岐」へ漢字の「壱」イッは集
まるの意味が「岐」キ・えだみちには「分岐」の意味があるのです。「分岐」えだみち、
古代人たちは「壱岐」でどの様な方向に分かれて行ったのでしょうか?」(古代海路の分岐点!)
・・・・・[合同出版予定の紀氏の下書きより。]

「牛車の車輪」の形は仏画や仏具に見られます。(私だけでしょうか?)
「轂 (こしき)」の「轂」(には「車」の意味も有り、古字形では「車」=「+」と「田」と「+」から
「轂」には(的の正中・「幅」フク=ヤ・矢のあつまる所)意味も有ります。
常連の皆様は既に御気付きと思います、
「轂」には(総・しめくくる)の意味も、「境サカイ」(川や峠・山頂など)国境のポイントより八方に「赤い矢」・「赤い糸」付き?鏑かぶら矢?を放ち等間隔に目印(祠など)・・・・・国造りによる古代の「国図(地図)」作りが行なはれていたのです。


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東西ライン
2005年9月7日 13:50:37 管理人
紀氏さんこんにちは。先ほど地震ありましたが大丈夫でしたか。だんだん紀氏さんの行基図分析もまとまってきましたね。吉野は不思議ですね。なるほど壱岐には枝分かれの意味があるんですね。これは重要な指摘です。矢と測量の思想紀氏さんお得意のところですね。矢といえば秦氏のそれが伝説にはありますが、関連あるのでしょうか。紀氏さんの原稿楽しみにしています。



帰りました。
2005年9月1日 1:23:38 管理人
やっと自宅に帰りました。しばらく掲示板、メールお返事できなくてすいませんでした。
先ほど読んでて面白かったのは、允恭天皇紀の玉田宿禰ともがりの部分です。地震の記載があり珍しいのですが、次の衣通郎姫と中臣の話、茅ぬ宮、藤原宮の話、続く海人の話、伊予の話、穴穂の話、吉士集団と大草香の関係、そして雄略にいたるまで、かなり読み直しておもしろかったです。かわかつさんもそうでしょうね。紀氏さんの下記ご指摘の藤原との関連するのでは。わたしはこの允恭紀の部分、たぶん藤原宮時代の時代背景と関連あると思います。そんなに古くないはずです。あと、武内宿禰の墓に逃げた話もおもしろいですね。