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西漢氏について


西漢氏は5世紀末から6世紀前半に渡来してきた氏族で、おもに河内氏や山背氏、台氏を中心に構成された氏族集団である。韓半島でもカヤ地域から河内に渡来してきた氏族であり、物部氏と結びつきが深かったとの説がある。西漢氏の枝氏である河内氏は、欽明二年七月条に「安羅日本府」の倭臣としてみえており、同条所引の『百済本紀』にもこれを「加不至費直」と記している。カヤ(加羅)地域のうち特に安羅国からそれらの氏族が多く渡来したことが、後代の西・東漢氏の「漢=アヤ」の名称につながったとの説もある。東西漢氏の渡来については、5世紀末が考えられているが、西漢にみられるような東西「漢」氏の集団氏族名称およびその起源となったとされる伴造組織が成立したのはそれ以後と考えられている。河内氏の渡来が5世紀末と考えられ、加藤氏は西漢氏の伴造部民組織の成立を6世紀前半から中頃にもってくる。そして東漢氏の同組織の成立が5世紀末と考えられることから、まず東漢氏の支配組織が成立し、それに準ずる形で西漢氏の組織が成立していったことを指摘している。その後の東西漢氏は、屯倉経営などで全国展開し活躍していたと考えられているが、その西漢氏が全国的に展開したことは、豊後国戸籍や備中国の大税負死亡人帳にに同氏の同族と推定される氏族の痕跡がみられることから確かめられている。
官人制度面においては、従来東漢氏が後代宿禰などの高いのカバネや位階を賜りなど栄えたのに対し、西漢氏は文献が少なく状況が把握しにくかったこともあって、あまり活躍していなかったと考えられてきた。しかし近年では東漢氏同様に宿禰など高貴なカバネを後代賜っていることなどから、同様に栄えていたと考えられている。またかつては、後代の津氏や菅野真道を排出した菅野氏、船氏に分かれた辰孫王系の氏族を西漢氏と混同して論じられてきたが、近年は分離分類して研究されてきている。これら上記の河内・和泉地域の渡来人については、上田睦氏が考古学的側面からも詳細に論じており研究上貴重な視点を提示している。