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今来漢人について

秦氏、漢氏は5世紀初頭から中葉(応神・仁徳朝)に渡来したとされるが、そのうち漢氏はその後5世紀末(雄略朝)から6世紀初頭にかけて遅れて渡来してきた今来漢人を同族化して勢力をましていったとされる。(ただ、なおその秦・漢両氏の渡来時期については、秦・漢氏の渡来を『書紀』記載の重複性から5世紀末(雄略朝)にもってくる説もあり慎重に捉えなければならない。詳しくは平野・山尾氏の論説を参考にされたい。)
 渡来系氏族の一部は職業的部民として伴造ー部民制度に組織された。さらに直木氏の唱える人制にも組織されたであろう。
 そのことが後代、「漢人」「漢部」の記載を産んだものと考えられている。今来漢人の代表的氏族としては、忍海漢人・漢部氏が製鉄業に従事したことが確認されている。また新(イマキ)漢人としてみえ、外交関係に従事した氏族もみられる。小野妹子で有名な最初の遣隋使でもその新漢人氏がみられ、その使節にみられる氏族のうちほとんど「漢人」であることは、唐と外交をはじめた当時、イマキ漢人の言語知識による部分が大きかったことを物語っている。このようにイマキ漢人は大陸系先進技術を通して、王権に奉仕していったものと考えられている。奈良時代にはその一部は雑戸・品部として、官営工房などに配属されたようだ。
 宗教面においては、竈信仰との関わりが論じられている。京都平野社では古来から今木神、久度神、古開神、相殿比売神の四神が祀られてきた。その事は『延喜式』等に記されている。その今木神について、(今来・イマキ)漢人との語的共通性、百済系渡来人に民間で奉られていたらしいことなどから関連性が考えられている。今木神は平城京の田村後宮から、久度神は平安京遷都の時平野社に移されたとされる。平野祭は平安初期、桓武天皇の母和新笠が田村後宮(今木)にて祀っていた神を桓武天皇が祭り始めたことに起源があると考えられている。特に久度、古開神についてはかまどの神として知られている。そして当社が百済系渡来人の和氏と関係すること等から、朝鮮系のかまど信仰との関連が指摘されている。渡来系かまど信仰の起源について、その竈信仰は中国にもあり、漢代の文献にもみえる。そして現代までに朝鮮や台湾にその信仰が広まっている。また渡来系とは別の日本的かまど信仰の可能性も考えられている。 したがって、流入は中国とも朝鮮とも考えられ、またその伝来時期も不確定でいろいろ考えられる。それらの解決手段としては考古学的側面からの分析も必要だが、特に文献面からは先の今木神、久渡神、古開神、相殿比売神についての語源について分析することや、『延喜式』に載せられた神々の性格などから、当時の神祇・祭祀状況と照らしあわせて渡来人との関わりを考えていくことが解決の糸口になるだろう。
 詳しくは義江明子氏の『日本古代の氏の構造』吉川弘文館・1986や、同氏著『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館・1996を参考にされることをおすすめする。