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秦氏について

秦氏は記紀の応神紀にみえる朝鮮からきた弓月君(融通王)を始祖をとする氏族集団である。秦と書いて「ハタ」と読ませるのであるが、朝鮮の海を表す「ハタ・ハダ」に語源を求める説、魏志に見える秦韓国に起源を求める説から大秦(ローマ)およびそこから中国唐代に伝来した景教徒(ネストリウス派キリスト教)などとの関連を考える説もある。 秦氏は弓月君に率いられて、日本側の援助もあって、九州への渡来を可能にした。その渡来理由は、しかしながら明らかでない。戦乱や高句麗の南下、飢饉などいろいろ考えられるが、海を渡るということ、そちらの方がかえって危険ではないかと思われること、当時の戦乱は奴隷制、虐殺を伴うようなものであったのかなど疑問も多い。渡来後は、九州北部に至った後、全国に広がっていたものと考えられている。秦氏に関する資料はは全国的に偏在しており、大規模な氏族集団であるが、特に九州北部の宇佐地域(隋書では秦王国、日本では周防国)や、山城地方に多く関係資料が残されている。現代に残る古代史全資料でその全氏族における秦氏の割合は、一番多いのではないかと思われる。その原因のひとつは、秦氏自体の構成員が多かったことに加え、その子孫が秦の姓から他の氏族のように改姓をしなかった、あるいはできなかったことにあるといえ、その辺の解明も課題である。
彼らがもたらしたとされる技術面では、新羅系の精銅技術が指摘されており、九州北部・近畿の銅山などとの関係も深い。記紀・古語拾遺の雄略天皇条、新撰姓氏録の伝承などから、秦氏と養蚕から絹織物との関わりも考える説もある。
また漢氏同様、大蔵・内蔵官人職との関わりが強く、文筆業・算術などにも長けていたものとおもわれる。
その他宮都建設に関する資料には秦氏が多く関わっていることがみえ、長岡・平安遷都には、山城に拠点をもった秦氏とその土木技術が大きく影響を及ぼしている。
宗教面では秦氏は宇佐八幡との関わりや、広隆寺との関わりなど、八幡信仰や仏教導入との関わりが指摘されている。また松尾大社は秦氏の氏社であり、およびその松尾大神は古事記に山末之大神として挿入されて見えることなども注目すべきである。また全国に広がる天の日矛伝承との関わりを考える説もある。あと雅楽との関わりも深く、中世の文献にも四天王寺などと関連して秦氏との関連が強くみられる。
官人制度面において、秦氏は渡来後、多くの官人を産出しているが、従五位以上の官人を排出した様子もなく、下級官人、在地の豪族として地道な活動をおこなっていたことが指摘されている。
秦氏の同族組織としては、忌寸姓をもつものの他に、勝や部などのカバネ、秦人などの姓をもつ氏族があり、豊前・豊後国戸籍などからこれら勝姓者が秦氏と関係をもち、その支配下にいたことが指摘されている。その勝姓者自身が在地の豪族か、渡来系集団なのかで意見が分かれている。また続紀のころになると、まったく関係ない氏族にも秦氏姓が賜られることがみえ、秦氏の血縁的実態がどのように当時認識されていたかは興味深い。すなわち秦氏という氏族が血縁的な集合体ではないことも考え得る。かつて漢氏について血縁的氏族ではなく伴造部民制にもとづく従属観念を伴う共同体を示すとの説が出されたが、同様「秦」についても、血縁的というよりは、他の奈良以降の伴造制崩壊後も続く従属観念、たとえば宗教的共同体への参加などによって、賜姓に至った可能性なども考慮していくべきであろう。後代秦氏は東漢氏が漢の皇帝に始祖を求めた如く、秦の始皇帝に始祖をもとめ系譜の権威づけを行っていった。この「秦」および漢氏の「漢」が、それぞれ中国歴代の帝国名を起源としているのか、あるいは加羅諸国の王国名を起源としているのか、あるいは漢→朝鮮北部の漢時代の植民地帯方郡方面、秦→西域諸国方面の起源を示すのか、その意味を説くことも課題である。さて記紀において、秦氏の伝承は多く混入しており、記紀作成への影響も考えられている。秦氏についての伝承は、最近話題の聖徳太子伝承にかかわるものもある。聖徳太子・推古天皇の時代に生きた秦河勝は、秦氏伝承の中心的・始祖的人物であり、推古十一年に聖徳太子が、仏像を得て、それを秦河勝が進んで奉斉ることを引き受けている。その仏像奉斉のためにつくられたのが後代の広隆寺とされる。秦氏はこのころ、蘇我氏との間に強い従属関係を有していた。またこのころ秦氏をはじめ有力渡来系氏族は、主に書紀では外来系使節の翻訳仲介者・導者あるいは、遣唐使など外国へ使節としてみられることが多い。外来系使節への仲介、外国使節などを通して、秦氏等の渡来系氏族は、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。当時蘇我氏の仏教導入のための造寺、儀式導入などが記紀に多く見いだされるが、また蘇我氏の元で働いていた秦氏においても「秦寺」および「蜂岡寺」(後代の広隆寺)建設など仏教との関連がみられている。