メニューを飛ばして本文へジャンプ

文氏について


応神朝に渡来した阿智使主の後裔氏族・東漢氏と王仁の後裔氏族((東)文氏)はともに漢王朝に祖先の由来をしめしている。
東漢氏系氏族にも文氏(文直・文忌寸)がみえ、その他文首という氏族も見えるが、その辺は関晃氏・加藤謙吉氏が両氏の混合について論じているので参照されたい。
王仁の渡来理由は百済から論語・千字文などの典籍などをもたらし天皇に教えることにあった。和爾吉士の吉士は新羅の官位である。それ以後文人を排出する家柄として文氏と称されるにいたったらしい。7世紀ごろには、東西文氏、東西文部として、それぞれ称されることとなった。官人制度面において、律令・学令には、東西文史が大学に優先的に入学できることが規定されており、『令集解』にもその東西文史についての解釈が載せられている。
東西文氏は文筆業を主としたことから、その呼称・氏族名が生じたものと考えられている。律令・神祇令、『延喜式』大祓・祝詞条にも東西文氏についての記載がみえる。宗教面では六月・十二月晦日の解除儀において、両氏は天皇に金刀を捧げるなど重要な役割を果たしている。平安期の「延喜式」には、毎年6月と12月の晦日に東・西文部が「解除」と呼ばれる大祓を行っていたことが記されている。この解除では、平安期に流行した人形を用いた祓い、天皇に金刀、壺、「荒世」・「和世」と呼ばれる衣服を奉る儀式がおこなわれた。このうち天皇が壺に息を吹きかける儀式については、平安期に流行した人面墨書土器を用いた祓いとの関係性が指摘されている。ただ、解除の語については、すでに日本書紀に現れており、天武朝頃の成立を私は考えている。解除が注目される理由の1つとしては、東西文部が刀を奉る儀式で唱える祝詞が道教的な漢文であることにある。祝詞の本文は次の通りである。


 「謹請皇天上帝。三極大君。日月星辰。八方諸神。司命司籍。左東王父。右西王母。五方五帝。四時四気。捧以銀人。請除禍災。捧以金刀。請延帝昨。呪曰。東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治万歳。万歳万歳。」(一部現代漢字に直す。)  

 この祝詞は漢語で唱えられ、祖先以来の伝承であること「延喜式」神祇令条に記されている。この解除にみられるような道教的儀式は平安期に流行したのであるが、道教思想に基づく儀式は奈良以前からあったものと考えられており、最近飛鳥で発掘された斎明天皇がつくったとされる水の祭祀場にも色濃くあらわれている。高松塚古墳の壁画なども道教による四神思想のあらわれであり、その伝播は必ずしも中国からではなく、高句麗など朝鮮半島が大きく関わっている。最近出土した北斗七星などを描いた壁画についても、中国的技法とは異なった金箔を使用している点なども、その思想観念の流入経路を伺わせるものであろう。古くは三角縁神獣鏡にも四神思想は色濃く反映されており、日本にも間接的に思想が流入していた可能性も指摘されている。雄略のものとされる倭王武の上表文なども、四方観念が確認され、五世紀後半においては漢字文化の伝播とその思想理解がなければそのような上表文が書かれることはない。五世紀後半代における朝廷中枢における漢字文化の広まりは、ある程度中枢における安定した状況の確立が前提になるか、もしくはもともとその文化を持っていた人々が重用されるかしなければならない。遣隋使の段階ではその構成員のほとんどが「漢人」という渡来系集団であったことからも、その時点までの渡来系氏族の漢語知識での役割を想定できるだろう。その東西文氏の漢語の祝詞を考えると、「皇天上帝・・」と複雑難解な思想が散見しており、桓武天皇の時代に流行った上帝祭祀の現れとも考えられるが、また渡来初期に遡る可能性も含んでおり謎に満ちた文書であることがわかる。下出氏の論文などの研究を参照されたい。
また西文氏については、西琳寺との関わりが深く考古学面からも分析が進んでいる。上田睦氏の文献を読むことをお勧めする。その他、『書紀』や、平安期の儀式書にも東西文氏の解除に関する記載が見える、大祓の儀式とはやや異なっていたことが考えられており、その具体的相違も課題となっている。