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13.8.26〜28 河内・奈良探索 

今年も関西での出張仕事に乗じて、河内・奈良方面の遺跡探索をしてきました。

まず尼崎での仕事を終えて、夕方に神戸は住吉駅そばの東求塚古墳に向かい、さらに西 灘駅そばの西求塚古墳を廻りました。前者は4世紀代で、古墳の一部が残っており、後者は3世紀代で邪馬台国時代の名残を残すものです。後代の古墳にくらべ て、やや高さが低くなだらかな様子は、九州西都原古墳群等にも見えるそれに近いものを感じました。この両古墳も、弥生末の方位ライン上に乗る重要渠底で あったことは、会報第4号で記したとおりです。

その後、翌27日になって、梅田東のホテルから、まず地下鉄で仁徳朝の難波高津宮跡地に向かいました。その後、一度四天王寺方面へ北上し、反正天皇の柴垣宮へと向かいます。歯にちなむ大王名に由来する伝承があります。

その後、二上山経由で、奈良方面へ向かい、尺度駅で乗り換えて、御所で降りて、タクシーで鴨津波古墳の出土遺物が展示してある病院へと向かいました。そばには鴨津波神社がありますが、この周辺一帯が遺跡だったとのことです。

それから、タクシーで秋津方面へ向かいました。ここは孝安朝の秋津宮があったところで、南に宮山古墳があります。この古墳は丘陵上を登ったところにあるのですが、埴輪列などもあり、石室を上から垣間みることができます。

そこから北上すると秋津小学校のそばをとおるのですが、この周辺から4世紀代の遺跡が出土しており、さらに北東へ向かうと孝安天皇陵へと至ります。この陵 墓も、丘陵上の奈良南部を見渡せる位置にあり、意図的に設定された測量・軍事・支配拠点であったろうことが理解できました。

その後、駅に戻って、北上して田原本町に向かいます。そこでタクシーに乗って、まず東側の鏡作神社へ向かいました。ここは、物部氏系の石凝姥女の鏡造りの 伝承が残されており、会報第4号で論じたように、ここにあった都城の宮殿そばに位置していた官営工房の跡だろうと予測しています。中国都城でいえば、三角 縁神獣鏡を製造した官営工房にあたる位置です。

そこから北東に唐子・鍵遺跡があります。ここには、宮殿風楼閣を描いた土器が出土したことから、その楼閣が復元されています。

そしてこの遺跡からまた西に向かうと孝霊朝の黒田庵戸宮に至るのですが、孝霊神社が残っています。ここが弥生末期から古墳初期にかけての奈良を支配した都城区画の宮殿域であったと考えている次第です。

この近くに宮古の地名があり、さらに後代の倭屯倉という皇室陵も継承されていたことからみても、マキムク方面へ向かう以前の奈良支配の中心地であったろうことが予想できます。

その後は、黒田駅から西へ向かい、馬見古墳群に向かいました。公園として整備されているのですが、その中に乙女塚古墳があります。未整備の状態で形状はよく確認できませんでしたが、箸墓古墳や西都原81号墳墓、男狭穂塚との形状的な共通性を持つを管理人が考えています。

この古墳群は、また奈良東部の柳本古墳群と先の黒田庵戸宮を挟んで対照位置にくることもあり、規模や構造も柳本古墳群と類似性をもつように見えました。お そらくは意図的に都城の東西に同時期に配備されたことに由来する古墳群でしょう。またナガレ山古墳は、河内の応神・仁徳陵そして柳本古墳群の崇神陵を結ぶ ライン上に構築された古墳で、今も整備されて上ることができます。

翌28日は、奈良新大宮駅のホテルから、歩いて佐紀盾列古墳群へと向かいました。この古墳群は東西にわかれており、東側の2つの古墳はよく整備されています。そこから西に2キロ前後歩くと垂仁天皇陵や日葉栖姫陵、称徳天皇陵、神功皇后陵などがあります。

そして、大和西大寺に戻り、そこから天理経由で巻向駅へと向かいました。駅から東に500mほど歩いて行くと、マキムク古墳群が見えてきます。3世紀代と いわれる初期の小型前方後円墳ですが、実際に登ってみると、本当に小さく扁平であることに気付きます。勝山・矢塚・ の3古墳は小学校そばに見え、そこか らやや南方に東田古墳があります。

さらに東南へ歩いて行くと、箸墓古墳が見えてきます。ヤマトトトビモモソヒメ陵とされており、卑弥呼や台与の墓とも推定されていることは有名です。

そこからまた踏切を超えて東に向かうと、ホケノ山古墳があります。この古墳もよく整備されていますが、初期古墳の扁平な形状を残していました。

そこから、少し歩くと、茅原大塚が見えてきます。そして丘陵沿いに登って行くと、桧原神社があり、山之辺の道沿いに景行天皇陵方面へと登って行くと、マキ向日代宮跡地をへて、穴師坐兵主神社へと行き着きます。

この神社と日代宮は景行天皇と位置づけられていますが、マキムク遺跡方面から5度偏角で東に伸ばした位置にあたり、元はマキムク遺跡やその延長線上にある先の黒田庵戸宮時代からの信仰渠底であったものと考えています。

穴師信仰は、大国主、大穴牟持の世界を示しており、そこに後代半島系の兵主神がもたらされたことによって、穴師という地域に坐す兵主神社の称号となっていったことでしょう。

また野見宿禰と当麻氏との間での相撲伝承が残っており、ここで葛城を支配していた南方海人系の在地集団と、3世紀後半にやってきた半島系集団との諍いの結果が推測できます。この件も詳細は会報第4号をご覧ください。

ここから巻向駅へと下って行く途中で、珠城山古墳群が右手に見えてくるのですが、5世紀代の群集墳で、半島系渡来人やその前の海人系集団の影響があったことを示しているのでしょう。

その後、桜井・橿原神宮経由で北上して、王子駅で降りて孝霊天皇陵へと最後に向かいました。すでに日が暮れていたのですが、この天皇陵の位置が、以前から 先の都城区画の西北隅にあたることがあり、ぜひその立地条件を確認したく感じて向かったのですが、案の定やはり奈良西部を一望できる丘陵上にあり、先の孝 安天皇陵等とともに、測量・軍事・支配拠点として、意図的にこれらの欠史陵墓が設置されていったであろうことが明らかになります。

今回の探索は、会報第4号で論じた邪馬台国時代から河内王朝時代にいたるまでの主要遺跡を廻る旅となりましたが、その時代毎に設定されていった方位区画・ 都城区画と、古墳や遺跡の立地とが、明らかな対応関係として意図的になされていったことを確認できたことは大きな収穫であったと言えそうです。