『マイディア・オールドレディ』     

                               小野行雄

                   1                   

 クレアは、聞かされていたほどに偏屈でも意地悪でもなかった。

 クレアは日本人が嫌いだ。金に汚い。いつでも命令口調だ。クレアはとにかく横柄だ。トミコに聞かされていたのはそんなことばかりだったから、清孝も覚悟を決めて出かけてきた。もしもひどい言い方をされたら、とりあえず英語が分からない振りをしてしまおう。横柄さが我慢できないくらいだったら、こちらとしても笑顔など一切浮かべずに能面のような顔をして仕事だけこなそう。ビジネスはビジネス、やるだけのことをやってさっさと退散すればいい。清孝はマギーに借りた63年型フォルクスワーゲンバンを運転しながらあれこれ対策を練ってきたのだった。

 とにかく仕事をしなくてはならなかった。この北カリフォルニアの町・チコは典型的なカレッジタウンで、人口の三分の一が学生だ。生き生きしていて気に入ってはいるのだが、一方アルバイト探しに関しては絶望的だ。ぜいたくをいっているひまはない、口が見つかっただけでも万歳だ。どんな仕事でも文句を言うわけにはいかなかった。

 このままではあと数カ月もすれば日本から持って来た金が尽きる。金が尽きたら日本に帰るしかない。日本に帰るとどうなるか、・・・その先の見通しはまったく無かった。ただ、音をたてて流れ落ちてゆく滝のように、恐ろしいものが待ち受けているような気がするだけだ。日本にいられなくなって逃げて来たのだ。ここにもいられなくなったらもう行き場がない。清孝はそんな風に思っていた。

 しかしクレアは愛想がよかった。ドアのところに現れたクレアは、精一杯の笑みを浮かべてウェルカム、ウェルカムと繰り返した。真っ赤なワンピースにシルバーグレイの髪、気は強そうだったけれど、上品で人あたりのいいおばあさんだった。

 ――いらっしゃい、私はクレア・ブリード。クレアと呼んでくれていいわ。クレアは少しかすれた声で一気にそう言った。そして満足そうに溜め息をついた。――よかった、うまく言えたわ。ほら、なにしろ私は去年、えーと、去年、そう、脳卒中で倒れて、それから言葉が不自由なのよ。

 その言葉に清孝は大きく頷いた。その件は、もちろんトミコから聞いている。クレアが倒れた時彼女を病院へ連れていったのは、トミコとボーイフレンドのジョンだったのだ。クレアは寝込み、一時は半身不随になるかと危ぶまれた。かなり回復したけれども、単語が思い出せなくてなかなか言葉が出ない。特に興奮するとよくない。勘を働かせてすぐに分かってやらなくてはならない。元留学生で今はジョンと結婚し、市民権も得ているトミコから、清孝は細かく注意されて来たのだ。

 ――こんにちは。僕はキヨタカ・サイトウ。トミコ・ナガイに紹介されて来ました。清孝は分かりやすいようにゆっくりと言う。これもトミコに言われたことのひとつだった。――僕はこの間電話でお話しましたが、日本から・・・

 ――もちろん、もちろん。しかしクレアはそれをさえぎるように大きくかぶりを振った。――分かってるわ、キヨテク。来てくれるのを楽しみにしてたんだから。あんまり楽しみで、昨夜は眠れなかったくらいよハッハッハッ。

クレアの笑いは歳の割には豪快に聞こえたが、それはあるいはそうしてみせたのかもしれなかった。深い湖のような青い目が小刻みに揺れていた。アメリカ人としても珍しいきれいな色だ。ブルーアイズというのは何を考えているのか分からなくて清孝はいささか苦手なのだが、それすら忘れて見つめたくなるくらいの透明な瞳だった。

 ――ああ、僕もあなたに会うのが楽しみで・・・。清孝は少し口ごもりながらそう言った。

 ――まあ、ありがとう。とにかく中に入ってちょうだい。クレアはドアのわきに立って、大袈裟な身振りで清孝を迎え入れた。彼女が体をひるがえすと、それにつれて甘い香水の香りが広がった。

 エントランスの中は、日本式に言えば三十畳くらいのリビングルームになっていた。反対側の壁には煉瓦の暖炉がある豪華な部屋だ。薄暗い室内の装飾はよく言えばヴィクトリア調の雰囲気だった。ただ、ソファと椅子が多すぎた。ざっと見回して三・四十人位座れそうだ。リビングというよりは、えーと、なんだろう?

 清孝はやがて思い出した。恭子と行った、古いボーリング場を会場にした家具の展示即売会だ。売れるのだかどうだか、大して気のなさそうな女性が一人で応対している、日本の小さな町外れの「家具大廉売」。清孝と恭子はそこへベッドを買いに行ったのだった。うれしくて、恥ずかしかった。結婚する直前のことだ。

 あの時二人で買ったものは、それだけだった。他はすべて、独り暮らしをしていた清孝の持ち物を流用した。テーブルも椅子も、炊飯器も鍋も、食器すらそうだ。味噌汁用の碗は一個しかなかったが、それも新しく買うことはしなかった。二人で一つの碗があれば食事が出来た。そんな結婚生活だったのだ。

 ――家具はジャンクばっかりよ。クレアが清孝の追想を断ち切るように強い調子で言った。――あれもジャンク、これもジャンク。昔は旅行するのが趣味でね、そのたびに買い集めたんだけど、これらのえーと、フルーツ、違うわ、えーと、ファイナンスじゃない、・・・

――ファニチュア?

――そう、その通り。なんてスマートなの、えーと、カィヨ・・・

――キヨタカ。

――そうそう、キヨタカ。ああ、もう、いやんなっちゃう。こういう風になっちゃうと人間も情けないわよね・・・。クレアは目をつぶり、Damn! と言って首を振った。

 ――それで、この家具は、あちこちから?清孝は気が付かない振りをして、部屋の隅を指した。それなりには気を使ったつもりだ。――そういえばあれは、日本の座卓みたいだね。

 清孝が指差した方には、小さな、黒ずんだ素塗りの台が置かれ、その上には真鍮製らしい古びた電気スタンドが乗っていた。直線と曲線の微妙なミックス具合は、中国でもヨーロッパでもない、いかにも日本風だ。

 ――ザタク?ああ、そう。ザタクっていうの。クレアは頷き、それからその言葉を繰り返した。――小さくて可愛いわね。ザタク、ザタク。ザタクね?あれは日本で買ったのよ、ほんの数日だけど日本にも行ったの。えーと、なんて言ったかしらね、ほら、お寺や神社が一杯ある古い町、えーと、えーと・・・

――京都?

――そう、その通り。なんてスマートなのかしら、えーと、えーと、・・・

――キヨタカ。でも、キヨって呼んで下さい、アメリカの友達はみんなそう呼ぶから。清孝はそう言った。今までに何度も言ってきたセリフだ。実際、子音四つに母音四つという組合せはアメリカ人の記憶容量を超えるらしい。キヨという音自体は嫌いだったが、カヨトコとかカユトクよりはずっと良かった。僕の名前なんて、と清孝は思う。そんなものどうだっていいんだ。

――キヨ。分かったわ、キヨ、キヨね。OK,キヨ。あなたの名前はキヨ。クレアは頭を叩きながら繰り返した。――キヨ、キヨ。いやね、それでも絶対覚えないんだから。こんなに大事な名前なのに。

 クレアはなおも彼の名前を頭に入れようというように、キヨ、キヨとつぶやいた。下を向くと、きれいにまとめたシルバーグレーの髪が見事だった。

 やげてクレアは思い出したように顔を挙げた。そして急に勢いづいて言い出した。

――あらあら、暑いでしょ、暑いわよね、きょうは。とにかく何か飲みなさい。コーラでいい?ダイエットコークしかないけど。それともミルクにする?ビールをあげたいところだけど、私が飲まないから置いてないのよ。

 ――コーラを下さい。

 ――コーラね、分かったわ。ウィン、ウィン!

 クレアは隣の部屋へ通じるドアを開けた。清孝もそれに続く。

 そこも日本の基準でいえば相当に広いダイニングキッチンだった。前の部屋よりは少し明るい、しかしアメリカの家としてはやはりやや暗めで古くさい。誰もいないのかと思ったが、真ん中のシンクの前に、痩せて背の高いおばあさんが立っていた。グレーのパンツをはき、小花模様のブラウスにエプロンをかけている。クレアとは対照的な、地味な格好だ。この人がウィンと呼ばれた人に違いなかった。動作がとてもゆっくりしている。振り向いたところをみると、クレアと同じくらいの歳らしかった。

――イエシュ、クレア。ウィンはyes のs音をゆっくりとした〔sh〕音で発音した。歯が抜けているのか入れ歯が合わないのか、とても老人じみた発音に聞こえた。

――コークを出してあげてちょうだい、私にもね。こちらは、えーと、・・・トミコの紹介で来てくれた、えーと・・・。

――キヨタカ。キヨって呼んで下さい。清孝はウィンに向かってそう言った。

――キヨタカ。ね、キヨタカよ、ウィン。覚えてちょうだい、私のためにも。私はすぐ忘れちゃうから。クレアは清孝に向かってウィンクしてみせる。――キヨ、こちらがウィン。

――初めまして、キヨタカ。ウィンはていねいにうなずき、エプロンで拭いた手を伸ばしてくる。女性から手を伸ばしてくるのはやや珍しい。気の強い人なのか、女性解放論者なのか。どうもそのどちらでもないようだ。自分が女性だとは思ってないのかもしれない、と清孝はちょっと思った。

 ――こんにちは、初めましてウィン。清孝もウィンに合わせて会釈しながら慌てて歩み寄り、その手を握った。手は鳥ガラのように細く、かさかさしていた。

――じゃ、ちょっと待っててね。コーク出すから。

 ウィン少し足を引きずりながら冷蔵庫の方へ移動する。冷蔵庫は清孝のいるところからたった三歩の距離だ。清孝はとっさにウィンを手で制した。

――あ、ここでしょ。いいよウィン、僕がやります。

ゼネラルエレクトリック社製の、かなり古いタイプの冷蔵庫だ。外見が大きい割りには中が小さいが、それでも普通の日本の冷蔵庫の二倍くらいはある。開けると五人家族が一週間は食べられそうな量の食料品が整然と入れられていて、ドアの側にはダイエットコークのビンが一杯に押し込まれていた。

 清孝はそれを一本取り出して古い、厚い板で出来たテーブルについた。イスは黒くススが染み込んだようなベンチタイプの椅子。いわゆるアーリーアメリカンのタイプで、世界中で家具を買い集めたというクレアにしては、飾り気のない素朴なセットだ。しかし隣の部屋へ通じるドアのわきには、一転して中国風の食器棚。破風屋根風の飾りまでついている。中の飾り皿はよく分からないがスペインあたりのものかも知れない。

――えーと、それで、あなたにやって欲しいことの話なんだけど・・・。クレアはウィンが差し出したコップにコーラを注ぎながら言った。清孝も同じように自分で注ぐ。泡がシューシューと音をたてた。

――はい。

――週に一回、私を買い物に連れて行って欲しいの。見ての通り、私は一人では買い物にも行けないのよ。私、一年前に卒中で倒れて、ああ、それは言ったわよね、damn、とにかくあの、えーと、マイ・ディア、えーと、( 「キヨ。」) そうだわ、キヨ、あなたが連れていってくれないと私たちは飢え死にしちゃうのよ。・・・それで、車は私のを使って。見たでしょ、おもてに停まってるフォード。週に一回ぐらい動かさないと錆びちゃうわ。そうだ、あれ乗っていいわよ、いつでも。とは言っても、あなたの方がずっといい車に乗ってるでしょうけど・・・。

――いいや、63年型フォルクスワーゲンだから。二十年もたってる。

――いいじゃない、アメリカ製でなければ。アメリカ製は古くなったらただのポンコツよ。私みたいに。クレアはハハッと笑った。――・・・とにかく、使いたい時はいつでも使ってちょうだい。・・・で、それから週にもう一・二回来て、庭掃除をして欲しいの。それはもう、あなたが出来る限りでいいわ。来られたらもっと来てもいいし、駄目ならしょうがないし。あとで見てきてちょうだい、広いことは広いから、やることはいくらでもあるのよ。そして働いてくれただけチェックであげるわ。一時間に、えーと、トミコは3ドル75でやってくれてたのだけれど・・・。

――それでいいです、清孝は言った。3ドル75セントというのは法律上の最低賃金だそうだが、このあたりの学生アルバイトの相場でもある。芝刈りやペンキ塗りの仕事はみなその額だった。

――そうね・・・。ま、少ししたら上げることにして、最初はそれでやってもらえるかしら。

――いいですよ、清孝は言った。

――そう?うれしいわ。クレアは満足そうにうなずいた。――あなたみたいないい人が来てくれれば、ほんとにうれしいわ、えーと、マイ・ディア。それで、今日はどう?買い物に、出掛けられる?

冷蔵庫にはあんなに入ってるのに、とは言わずに清孝はただうなずいた。クレアが束ねられた色刷りのスーパーマーケットの広告に手を伸ばしたのをみたからだ。もう、どこへ行って何を買うかは研究済みらしかった。

――よかったわ。じゃ、これから着替えるけど、その前にもう一つやって欲しいことがあるの。あの壁の絵ね、ほこりをかぶっててずっと気になってたのよ。あの、階段を持って来て、・・・違うわね、階段じゃないけど、ほら、こういう、半分に折れて、上に登れる・・・。

――脚立だね。

――そう、それよ。なんてスマートなの、マイ・ディア。それがおもてにあるから、持ってきて絵を拭いてちょうだいな。雑巾はウィンに聞いて。でも気を付けてね、落ちたりしたら大変だわ。

クレアはそう言いながら立ち上がった。スマートというのは痩せているという意味ではなく、賢い、という意味だ。なんだか学校の先生にでもほめられてるようだが、悪い気はしない。

クレアやがて自分のベッドルームへ入って行った。トミコが言うほど悪い人じゃない、清孝は言われた通りに絵を拭きながら思った。まだ僕に気を使ってるからそうなのだろうか。それとも、トミコとは気が合わなかったということなのだろうか。確かにクレアとトミコでは合わないこともあるかもしれない。神戸出身だというトミコは、なかなか本心を見せない。人の気持ちの裏をあまり考えない清孝は、時としてびっくりさせられることがある。そのトミコと社交的な態度を身につけたクレアでは、いつか腹の探り合いのようになってしまったとしても不思議ではない。たとえ双方が善意であったとしてもだ。

日本で一度離婚を経験してきているというトミコは、確かにオトナだった。ひそかに恋心を抱いたこともあったのだけれど、清孝はまるでかなわなかった。というよりは、清孝が子供なのだ。人の言うことを額面通りに受け止め、どんな人もいい人だと思ってしまう。

人の気持ちの裏が分からない。人の悪意に耐えられない。清孝が日本にいられなくなったのも、結局はそのせいだった。情けない話だ。裏切られた、そう思った途端、清孝はもう何も出来なくなってしまった。ただ悲しかった。本当はそこで踏み止まるべきだったのだろう。やるべきことはあった。清孝を応援してくれる人もいたはずだ。でも、駄目だった。彼にはもう、そんなエネルギーはなかった。『教団』なんて、清孝にはもともと向いていなかったのだ。

クレアがベッドルームから出てきた。黒地に赤と黄色の花柄のワンピース、白いベルト。頭にはつばの広い、羽飾りのついた赤い帽子。シルバーグレーの髪によく映えるが、相当に派手な恰好だ。

――素敵に見える、清孝は言った。

――あら、どうもありがとう。クレアはちょっと気取ってそう言った。――さあ、いつでもいいわよ。

                   2

 ――その人、スペインでは結構有名な画家だったらしいよ。なにしろ美術館の中にその人の作品だけを展示する部屋があったっていうくらいだから。そう、その人になんだ。クレアは作品の中でどれが好きかって聞かれたんだって。アメリカに帰る数カ月前にね。スペインに?3・4年はいたのかな、その辺はよく聞かなかった。・・・とにかくそれで、何気なく美術館のあの絵が一番好きだと言ったんだ。それをクレアがアメリカに帰るという前の日に持ってきてくれたというわけ。もちろん美術館に飾ってある絵をくれるわけはないから、その実物ではないけど。つまり、クレアのために同じような絵をもう一枚描いてくれたんだ。絵を描くのって、時間かかるだろう?大きな絵だよ。どういう関係だったのかは知らないけど、それをわざわざクレアのために無料で描いてくれたっていうんだから。

 ――クレアは人気があったのね。きっと楽しい時期だったんでしょうね、マギーが言った。――それで、どんな絵なの?

 ――ピエロみたいな感じの人が真ん中で大きなボトルからワインを飲んでるんだ。こんな把手のついた、変なボトルなんだけど。クレアはそのボトルの名前を思い出そうとしてたけど分からなかった。知ってる?ま、どうでもいいけど、ワインを飲むための特別なボトルなんだって。それからバックの方では人物が踊ってたり。葡萄の収穫祭という感じだね。いかにもスペインらしい雰囲気で。マギーも行ったら見てごらんよ、ダイニングの上にかかってるから。きれいになってね。

 ――でも、そんな大きな絵じゃ、持ち込むのが大変だったでしょうね。

 ――そうだろうね。ただ、絵も家具も、運賃は全然かかってないんだって。その頃船のファーストクラス客はいくらでも荷物が持ち込めたっていうんだ。いつのことだろう?今でもそうなのかな。

 ――相当昔の話じゃないかしら。そんな気がするわ。・・・それで、庭の方はどうだったの。仕事になりそう?

 ――広かったね。とにかく広かった。

 ――どのくらい?

 ――よく分からない、今日は結局全貌をつかめなかった。だって、途中で迷っちゃったくらいだから。

 ――迷った?マギーが大袈裟に驚いてみせた。

 ――だってほとんど森なんだから。リスも、ノウサギもいるし、スカンクまで住んでるっていうんだ。その森の中に、貸家が五つあるわけ。『カバーニャ』とか『ツリーハウス』とか、それぞれに名が付けられててね。その真ん中にクレアの『メインハウス』があるんだ。そして、それぞれの家から他の家はまったく見えない。そこに芝生の広場が全部で七箇所あるんだ。ブランコのあるところや、バーベキューができる炉のあるところとかね。

 ――すごいね。そんなところに住んでみたい。・・・でも、それじゃとてもじゃないけどキヨ一人じゃ手入れできないでしょ。

 ――出来ないだろうね。なにしろ、前は住み込みの庭師がいたっていうんだから。・・・でも、だから仕事はいくらでもあるわけ。出来る限りのことを出来る時にすればいいっていうことみたいだよ。

 ――いいじゃない。随分都合のいいアルバイトじゃない。

 ――まあね・・・。さて、僕の方はおしまい。マギーの番だよ。

 定期的に交代で出来事を報告する、それはマギーが提案したことだ。彼女は資格を持ったカウンセラーで、一緒に住んで人間関係を良好に保つにはそれしかないと言い張った。ルームメイトになる時からの約束だ。お互いに話をすること。もしも問題が起きたら、落ち着くまで待って、それから二人で冷静に問題を分析すること。クライアントのプライバシーに関わること以外は話す、ということでスタートしているのだが、聞いているうちにはいろいろな人の事情も分かってきた。

 ――私の方はね・・・。つらいことがあったわ。覚えてるかしら、離婚したいけどそう言うだけで夫に殴られるっていった人の話。そう、メキシコ系のクライアントね。今度はその人じゃなくて、その人の娘の方が家出しちゃったのよ。まだ十二才。どこへ行っちゃったのか、まだ見つかってないの。ただ、・・・これが普通の家出じゃなかったの。今日初めて分かったんだけど、どうもその子に対するセクシャル・アビューズがあったみたいなのよ。それこそクライアントのプライバシーだから、あまり言っちゃいけないんだけど、・・・私としてもショックが大きいのね、これは。

 ――・・・セクシャル・アビューズっていうと、・・・父親・・・だよね?

 ――そうなの。マギーは両目をつぶり、唇を固く閉じた。それから深呼吸して言った。――どうもあの様子じゃ、結構以前からあったみたい。二年は前だわね。ほんとにうかつだった。二年前といえば、十才の時からよ。その子には会ったことはなかったけど、それにしても母親から何度も話を聞いてたんだから、気がつくべきだった。完全に私の落ち度だわ。

 ――そう自分を責めてもしょうがないんじゃないの。マギーはソーシャル・ワーカーじゃないんだし、そんなことがそうそうどこにでもあるわけじゃないんだから、気が付かなくたって・・・

 ――それがそうじゃないから残念なの、マギーはちょっと声を強めた。――私は知識としては充分知ってたのよ。サンタ・ロサにいた時にもそういう例には会ってるし。私のような立場のカウンセラーは、同時にソーシャル・ワーカーにもならなくちゃいけないのよ。だから、ほんとに、私がうかつだったの。・・・まあ、とにかく今となっては一刻も早くその子を見つけ出すことなんだけど。

 ――警察には?

 ――もちろん連絡はしてある。町のソーシャル・ワーカーの方にも連絡したから、とりあえずは他にどうしようもないんだけど。それにしてもね・・・。

 ――危険はあるわけ?

 ――ないとはとても言えない。どこにいるかにもよるけど、サンタモニカでは、三日ストリートで過ごせば七割が売春に走るっていう統計もあるくらいだし。十才だって充分売春はできるわ。まして性体験のある子なんだから、すてばちになればそんなのすぐよ。

 ――売春て・・・してしまったら、もう取り返しがつかないというようなもの?

 ――簡単に言えばそうよ。もちろん立ち直ることはいくらでも出来るけど、とにかく十才でしょ。今までだって、父親の相手を喜んでしてたわけはないし、それを外でやればお金がもらえるということになれば、かなり難しい。そして、精神的な傷はひどく深いものになるわ・・・。

 ――でもまあ、まだどこにいるかも分からないんだし、この町にいるのならそう問題もないだろう?アーモンド畑の間で寝てるくらいのものかもしれないし、案外友達の家かもしれないし。

 ――そう願いたいわ・・・。

 ――十才の子どもがこの町から外に出るのも結構難しいよ。まあ、元気出して。マギー、君らしくないよ。大丈夫、君はやるべきことはやってるよ。

 ――うん、そうね。分かってるわ。・・・まあとにかくおめでとう、キヨ。仕事が見つかるのは、なんにしてもいいことだわ。

 ――そうだね、ありがとう。

 マーガレット・ニキタ・ブラウン、マギーは清孝のガールフレンドではない。少なくとも二ヵ月ほど前までは、一緒に住んでいてもガールフレンドではなかった。いい友達ではあったけれど、単なるルームメイトに過ぎなかった。その二ヵ月前のある晩以後はいささか微妙だ。今はガールフレンドなのか、清孝にはよく分からない。他の人にはどう紹介したらいいのか、迷うところだ。

 三十三才になるマギーは、清孝の九才年上ということになる。トミコのところのパーティで会ったのが最初で、『チコ・ウーマンズ・センター』のカウンセラーだと紹介されたから、かなり警戒した。なにしろそのセンターというのはフェミニストの活動拠点で、反堕胎派の標的にされているようなところだったのだ。

 しかしマギーは、フェミニストというような感じではなかった。それまで清孝のイメージでは、あまり笑わない、鋭いが面白味の少ないタイプがフェミニストだったのだが、マギーはそれとは正反対だった。話してみれば確かに考えていることはフェミニストなのだけれど、それも理屈をあとでつけたようなものではない。自然に、当然のようにフェミニストなのだった。

 始めて会ったマギーは、陽気で元気がよくて開放的だった。そばかすだらけの顔に、人なつこいえくぼ。頭の上の方まで大きく膨らんだヘアは、一昔前のロックシンガーを思わせた。赤っぽいブロンドのジャニス・ジョプリンだ。手入れをしてもいうことを聞かない髪質なのだそうだが、ちょっと時代遅れのヘアスタイルも白いTシャツにナチュラル・ウォッシュアウトのジーンズも、カレッジタウンのチコにはよく合う。背はそれほど高くないが、体格はよく言えば堂々としている。体をひねった時に確かめたら、リーバイスのサイズは三十二インチだった。

 立派な尻だ、と彼は思った。そして親しみを感じた。二十八インチをはいている清孝にとって、なんでも受け入れてくれそうなお尻だった。

 話してみると、さらに楽しかった。マギーは知ったかぶりでも教え諭すようでもなかった。言葉が不自由な外国人として特に優しくしてくれるということもなく、要するに、とても自然に友達になれた。

 ――アイビーストリートに住んでるんですってね。それがマギーが清孝に話かけた最初だった。低くて優しい声だった。

 ――そうなんだ。トミコに聞いた?知らなかったんだよね、どういうとこだか。

 ――どういうとこだったの、マギーは微笑みながら眉毛を吊り上げて動かした。

 ――とっても、楽しいところだったよ。清孝は、楽しい、という語を強調して言った。マギーが笑いを押し隠した顔でうなずいた。薄い茶色の目がくるくると動いた。――なにしろ5thストリートとの交差点だからね、裏がフラタニティ、向かいがソロリティ、斜め前にクレイジーな「マジソン・ベア・ガーデン」。すごいと思うでしょう。

 ――うーん、それは楽しそう。

 ――すごいよ。土曜の夜なんか、パーティ会場のど真ん中に寝ているようなものだから、まさに『ファン・ファン・ファン』だね。

 ――『カリフォルニア・ガールズ』が一杯で。

 ――そう、その通り。ついでに『サーフィン・USA』だったりして。僕は「アウトサイド・USA」だものね。

 キャハハ、マギーが頭を左右にゆすっておおげさに笑った。――あなたって面白い。私と気が合いそうよ。

 ――そう?でも、面白いのはチコの学生だよ。この前のパイオニア・デイズの夜。夜中の一時近くに誰か来たんだ。ガタガタドア揺すってさ。誰だと思う?裏のソロリティの連中だったんだ。両手にビールのアルミ樽かついだのと一緒にさ、いい加減酔っぱらったのが五・六人、泥のボールを持って立ってるの。なんだか分かる?その泥のボールを、買えって言うんだよね。

 ――泥のボール?!

 ――そうなんだ。一個50セントとか言ったかな。それをみんなで突き出してね。買わないとどうなるとは言わなかったけど・・・

 ――分かったわ。買わないと窓ガラスに投げつけるのね。それともこすりつけるのかしら。ひどいわ。子供がやることよね。マギーはそう言いながらもおかしくてたまらないというように笑い続けた。――・・・それで?買わされたの?

 ――ううん、ごまかしたんだ。英語が分からない振りして。こう、合掌して言ったんだ。コンニチハ、ハウ・アー・ユー。ボクハ、エイゴガワカラナイフリヲシテイルダケダ、ケドヨッパライニアゲルオカネナンテナイヨ。ハヤクカエリナサイ。清孝はそれから両手を合わせて合掌のポーズをとって見せた。

 ――うまくやったわね! マギーが飛び上がった。座っていた椅子が音を立てて、分からないままに後ろの人が微笑んだ。――それ、どういう意味?ほんとはバカにしたんでしょ。そうよね、そうよね。それもやったわけ?両手を合わせて?やったわね。それでどうしたのグリークの連中、そのまま引き下がった?

 ――後ろではなんのかんの言ってるのもいたけどね、僕が笑わずにそれをやってじっとしてたら帰っていったよ。興を醒ましてかわいそうな気もしたけど。

 ――うまいわね。キヨ、あなたロイヤルシェークスピアの俳優になれるわよ。マギーは大声で笑い、oh,ohと繰り返して顔の前で手を振った。――それとも、(「キャハハハ」)、ニホンのカブキ・アクターかな。

 ――ドウモアリガトウ、サンク・ユー、ブッダ・ブレス・ユー。清孝はおかしな発音のまま、マギーに向かっても合掌した。

 ――ああ、キヨ、あなたってとてもおかしいわ、マギーは首を振って笑いころげた。――私おかしくって泣いちゃうわ。

 ――アリガト、清孝は言った。――僕のために泣け。

 マギーはさらに笑った。なんだか分からなかったが、清孝は妙に幸福であるような気がした。

 清孝がマギーの家に引っ越したのはその数日後のことだった。

 マギーはルームメイトを求めていた。それまで家を共同でシェアしていた女性二人が相次いで出てしまい、それまで三人で割っていた家賃五〇〇ドルを一人で払っていたのだ。大きな居間のある古いビクトリア調の家は、裏庭も広くて理想的な家だった。公園に近くて環境もいい。ただスリーベッドルームの家に一人で住むというのはいかにももったいない。こんな時家賃をシェアする仲間を探すのは、チコのような学生町ではごく一般的なことだった。

 それでも最初誘われた時、清孝は本気だとは思っていなかった。男女のルームメイトというのもないわけではないが、女性が会ったばかりの外国人の男を家に入れるとは思えなかった。

 しかしマギーはごく真面目だった。家賃も安くなるし、環境はいいし、私も助かる。是非引っ越してきなさいよ、とマギーは言った。横で聞いていたマギーの友人も、よかったじゃない、これでマギーも少し助かるわね、と言った。引っ越すことに特に問題はなさそうだった。

 そして清孝にとっても非常に好都合なことがあった。マギーが宗教に理解を示していたことだ。マギーはゼンにはとても興味がある、と言った。私自身はプロテシタントとして育ってるけれど、「瞑想」のパワーは信じている、いつか「サトリ」を追求してみたい、と真面目に言ったのだ。ゲストたちの大半が帰り、妙に静かに、落ち着いた時間だった。――まだ人間が見つけていないパワーみたいなものってあると思うのよね。ダウジングって知ってる?私の祖父はロシア出身だけれど、ダウジングの能力を持ってたの。Y字型の木の枝を使って地下の水脈を見つけることが出来たのよ。なんにも特別のことなんかない、と祖父は言ってたわ。こんなの誰にもある能力だって。

 清孝はさすがにすぐに「光輪」の話は出来なかったけれど、しかしとても安心した。マギーならば大丈夫そうだった。パーティが終わり、車に乗り込んだ時にはもう、ルームメイトの話は決まったことになっていた。

                   3                   

 清孝が最初に『神』に会ったのは、小学校三年の春のことだった。晴れた土曜日の午後、『神』は乾物屋の脇で清孝を待っていた。

 何故彼を待っていたのだろう。いささか変わったところはあったにしても、清孝は少なくとも宗教的な子供ではなかった。素直ではあったが妙に頑固なところもあり、心根は優しかったけれど、善意のかたまりというわけでもなかった。一言で言えば、やや神経質な、しかし普通の子供だったのだ。

読書が好きだった。それだけが多少変わっていたかもしれない。土曜日の放課後空きっ腹を我慢しながら図書室で本を選び、道々読みながら帰るのが楽しみだった。友達は校庭で野球をしたり鉄棒をしたりしていたけれど、清孝は加わらなかった。そんな時清孝は、独りで普段の三倍くらいの時間をかけて歩いて帰った。電信柱にぶつかりそうになったり、車を避けて塀に張り付いたりしながらも本から目を上げようとはしなかった。

 『神』に会ったのは、そんな帰り道でのことだった。

 その日読んでいたのは、『屋根裏部屋の街灯』という本だ。清孝は今でもその表紙の絵をよく覚えている。ガス灯らしい街灯の下に犬がポツンと座っている絵で、ずっと気にかかっていながらいざとなるとなかなか読めない、そんな種類の本だった。名前は忘れたが日本人作家のもので、今考えるとルイスの『ナルニア国物語』の街灯のイメージによく似ている。話は古い屋敷に男の子と一匹の犬が迷い込んでしまうところから始まっていた。男の子と犬は、たまたま開いていたドアから中に入り、暖炉の部屋やじゅうたんの廊下を歩いているうちに出口がわからなくなる。屋敷内には誰もいない。二人は高い所に上がって方向を見定めようと階段を上り、梯子段を上がる。ところが、その屋根裏部屋の窓からは、彼らの見知った町ではなく、暗い広場にポツンと立った街灯だけが見えた。昼間のはずなのに、他は真っ暗闇でしんと静まりかえっている。町は向こうの方に広がっているようなのだけれど、人のいる気配がまるでない。男の子は怖くなって下に下りようとした、その時犬ががタンスの裏に別のドアがあるのを発見した・・。

 知っているのはそこまでだ。その先は読まなかった。『神』に会ったからだ。

 清孝は電柱につきあたり、避けようとして一歩それ、立っていた人にぶつかって本を落とした。「あ」。清孝は口の中でつぶやき、かがんで本を拾おうとした。すべては一瞬の出来事だった。

 本は、目の前にあった。白い服を着た老人が、何も言わずに差し出していた。

 白い服といっても、特に変わったものではない。つまり、体操服にいわゆるトレパンといういでたちで、学校の先生がよくしている服装だ。しかし顔には見覚えがなかった。白髪、とがった鼻、そして目は緑色に近かった。日本人ではないようだったが、体つきは普通の日本人並みだった。

 「ありがとう。」清孝はその人の顔を見ながら、勇気をだしてそう言った。落とした筈のものが老人の手にあるのはいかにも不思議だったが、いつでもお礼はちゃんといいなさい、という母親の言葉がとりあえず清孝の頭にうかんだのだった。しかし、それから清孝は、口を開くことができなくなってしまった。魔法にかけられたわけではない。魔法を見たからだ。清孝は口を開け放したまま、数秒間、呼吸の仕方さえ忘れてしまった。

 老人の姿が消えたのだった。清孝の目の前には、本だけが浮いていた。本の向こうには電柱があり、その向こうには乾物屋の古びた板塀があった。見慣れた風景だ。ただ、そこに本だけが浮いているのは、見たことのない光景だった。

 老人は、清孝が苦しくなってきた頃にようやく現れた。

 「びっくりしなくていい。私は神だ。」と老人は言った。

 「・・・・・・」清孝はそう言われてもびっくりしないわけにもいかなかったので答えなかった。

 「私は君に、やってもらいたいことがある。」老人はそう言って彼の顔をのぞきこんだ。「聞こえるかい?」

 聞こえはしたが、喋れなかった。喋ろうとすることも忘れていた。生まれて初めて消える人を見たというのに、しかもその人が自分は神だと言っているのに何か言えといわれても、それは無理というものだ。普段でも無口な子供だったのだから。

 神は咳払いをして続けた。

 「私はこれからいくつかのことを言う。みんな大事なことだ。キミはそれを、人々に伝えるのだ。神からの伝言だと言ってな。」

 「・・・。」

 「メモノートを出しなさい。下敷きもだ。そして言うことを書きとめなさい。」

 言われて清孝は、ランドセルを下ろし、中からライオンのノートと王選手の下敷を出し、ついでにドナルドダックの筆箱も出した。先生にメモを取れと言われた時の反射作用だ。清孝はランドセルを机替わりに、その前に正座し、老人を見上げた。老人はうなずくかわりに、電灯のようにパチパチと点いたり消えたりした。

 「それでは、一、体を鍛えること。」

 (一、体をきたえること。)清孝はマス目のノートに縦に書き取った。

 「よしよし。二、肉はなるべく食べないこと。」

 (にんにくはなるべく・・)

 「にんにくじゃない。一の次の二、肉は、だ。」

 清孝は消しゴムで二行目をすべて消し、最初から書き直した。

 「三、世界を清潔にすること。」

 (三、世界をせいけつにすること。)

 「四、困難は自分達の力で切り抜けること。」

 (四、こんなんはじぶんたちの力できりぬけること。)

 「これらを守ったものは、至福を見るであろう。」

 (五、これらを・・・)

 「これは五じゃない。なんでもない。付け加えだ。おまけだ。」

 清孝はまた、五を最初から消して書き直した。「至福」が聞き取れなかったために何度か繰り返して消し、最後にはノートが破けてしまったけれど、ようやく終わった時には、神は満足したようにパチパチとやって見せてくれた。

 「ではこれからキミは、その伝言を人々に伝えて歩くのだ。私はそのための道具として、キミに光輪を授ける。いいかい、キミの頭の上には、虹色の光輪が輝くのだ。この私のようにだ。」彼は消えるかわりに、今度は一瞬頭の上に輪を光らせた。それはとても魅力的だった。

 「これは聖なる印だ。人々に確実に見える。効果的だ。これを見せ、そして伝言を伝えるのだ。分かったかい。・・では、伝言を最初から読んでごらん。」

 「一、体をきたえること、二、にくはなるべく食べないこと・・・」

 清孝が乾いた喉でボソボソと読み終わった頃には、神はもういなかった。

 一体あれはなんだったのだろう。本当にあったことだったのだろうか。『神』というのは本当にいたのだろうか。本好きの子供の空想ではなかったのだろうか。清孝には分からない。まして、それにどういう意味があったのか、十五年経った今になっても見当がつかない。

 しかし生活は意外に変わらなかった。もっと変わるべきだったと思うのだけれど、結果的には驚くほどかわらなかった。テレビに出たり大学で調べられたりもしたのだが、それはそれだけのことだった。

                                         その頃まだ二十代半ばだった母親が清孝の光輪を見て最初にしたのは、近所の人に見せて回ることだった。普段なら当然嫌がったに違いないが、なにしろ清孝は言葉を失い、ほとんどもうろうとした状態だったのだ。その状態はそれから一ヵ月以上続いたのだけれど、母親は特に心配している様子はなかった。清孝は普段からぼーっとした子供だったのだ。

 母親のいない時には夕食を世話になり、そのまま泊まらせてもらう「お向かいのおばちゃん」を始めとして、行くべきところはいくらでもあった。下町的な雰囲気の強いところだったから、行けば上がり込み、お茶に梅干しとかニッキの飴とかをふるまわれるのが普通だった。清孝は文句も言わずに――なにしろ喋れなかったのだ――半日母親と歩き回り、ポケットを紙に包まれたお菓子で一杯にして歩いた。

 カラスを何羽も飼っている老女は、これはもうすぐ天に召される印だ、と母親に言った。彼女の妹が死ぬ前に――戦時中の話だ――同じことがあったのだそうだ。また、惣菜の仕出しをやっていた家では、こりゃきれいだ、店の宣伝にお借りできないもんかねえ、と言われた。そしてまた別の家では、膝から下が無くて内職で生計を立てているおじさんが、プリズム現象だ、と言って清孝の頭に水の入ったコップを乗せたり、スプーンをかざしてみたりした。

 光輪が鏡には映らない、ということを最初に発見したのはその人だ。おじさんは真剣な顔で一時間以上調べた末、これは「しんきろう」の一種である、と結論した。逃げ水と同じもので、春になって髪の毛が暖まったから出て来たのだ、とおじさんは言った。

 「じゃ、少しすると消えちゃうのかしら」と、母親はやや残念そうに言ったものだ。

 一通りの近所回りが済むと、今度は町の公設市場でやらされることになった。

 「はい、じゃおねえちゃんの番。なんにする?」と威勢のいい八百屋のおやじは言った。母親が結婚してこの町に来て、清孝が生まれた直後に父が無くなって、といった経緯は多くの人が知っていたはずだけれど、「おねえちゃん」は変わらなかった。魚屋でも乾物屋でも、「奥さん」でも、一部のおばさん達が呼ばれているような「おかあさん」でもなく、やはり「おねえちゃん」だった。清孝が「おかあさん」と呼べなかったのももっともだ。

 「おじさん、ちょっと面白いものがあるんだけど、見てくれる?」母親はきゅうりを注文しながら言った。

 「はいよ、なんだい」がらがら声のおやじは、他の客を同時に相手にしながらもあいそよく返事した。

 「ちょっと、ね。この子なんだけどね、見てくれる?」

 「いやあ、大きくなったねえ。もう入学かい?」

 「いえ、もう二年生なんですけど、(「おっとっと、失敗失敗」)、いえ、そうじゃなくて、ちょっと、これ。ほら。(はい、キヨタカ。)」

 つつかれて清孝は光輪を出した。指のパチンという音を合図に芸を始めるアシカのようなものだ。清孝は口のなかでもごもごと『伝言』を唱える。こうすれば、ボーッとはしていても、出さない方がはるかに難しい。

 「ひええ、こりゃおったまげた」とおやじは言った。「こりゃきれいだ。きれいだけど、一体なんだい?どうしたんだ?」

 「不思議でしょう。なんだと思う?」

 「んなことわかるわけねえや。おい、よし、ちっと見てみろや。」おやじさんはおかみさんに声をかけたが、彼女はもうとっくに清孝の頭の上をじっと見つめていた。おかみさんだけではない。辺りにいた人達は、一人残らず清孝の頭上三十センチほどのところを見つめていた。

 「学校の先生はなんて言ってた?」

 「まだ見せてないんですけど、内山のおじさんは、しんきろう現象と同じで、春先に起こる現象だ、って。体には心配ないだろうって言うんですけど。」

 「内山が?ふうん、あの人あ物知りだからなあ、なに現象だか、おりゃ知りゃしないけど」おやじは清孝の頭の上で手を振った。「それにしても、なあ。よし、こんなの見たことあったかい。」

 「そんなもったいない。ありゃしませんよ。まあありがたい。」

 本当にこりゃ有り難い、わきで老女が清孝に手を合わせた。「これは仏さんの生まれ変わりだよ、ありがたやありがたや。」

 「でも、ムサシのおばあさんは、天に召される印だって・・・」

 「そんなめっそうもない、ああもう、こんな尊い、ありがたやありがたや・・・」

 「でもあんた、これはやっぱり、一度大学の先生にでも見てもらった方がいいんじゃないの」と、別のおばさんが言った。「私のいとこで大学の先生やってるのがいるからそれに・・・」

 「おやまあ、熱くないわこれ」わきから手を伸ばした人が言った。どれどれ、いくつもの手が清孝の頭の上に伸びて来てゆらゆら揺れた。

 「ちょっとちょっと、大変よ大変」

 「まあまあ、きれいだねえきれい」

 「どうもどうも、これはこれは」

 清孝は段々とふくれあがる人込みに取り囲まれ、いつの間にか抱き上げられてみかん箱に乗せられていた。普段なら卒倒していたかもしれないけれど、ぼんやりとしていた清孝は、ただ、ゴムでつるされた釣り銭入れのザルに魅了されていただけだった。

 清孝は学校でもすぐに有名になった。

職員室では先生達に取り囲まれた。担任の先生は、清孝の頭にヘルメットをかぶせたり、厚紙のボール紙をあててみたりした。保健室の先生は体温を計り、口の中を調べた。知らない人達も現れ、清孝は授業中に保健室に行かされて複雑な計器の前で裸にされ、電極をはりつけて調べられた。保健室だけでは足りず、大学病院へ行けとも言われた。ただしこれは母親が断った。体のどこもおかしいわけではないのだからそんなところへ行く必要はない、と母親は言った。

 「しかしお母さん、現にキヨタカ君は、神様がどうのと言っているんですよ。これが異常でなくてなんですか。」先生は、母親を、半ば馬鹿にしたような、半ばは困惑した調子で諭した。

 「キヨタカは神様に光輪をもらったのです。あったことをあったと言っているのに異常扱いしないでいただきたいと思います。」母親は断固として言い放った。その態度はいつになく立派だった。今考えてもいわゆる母親らしいところのほとんどない母だったが、その時の彼女は、いつになく息子を守る気概に満ちていて、先生もそれ以上なにもいえなかったほどだ。

 清孝はといえばしかし、困ったことになったと漠然と思ってるだけだった。本当に神にあったのか、清孝自身、よくわからなかった。母親まで共犯にしてしまっていいものかどうかという不安もあった。清孝は清孝なりに、それまで母親を外敵から護ってきていたのだ。少なくとも心のどこかでそんな風に思ってきていた。

 新聞やテレビも取材にやって来た。しかし清孝は、彼らにとっては悩みの種だったらしい。なにしろ光輪は、鏡ばかりでなく、写真にもビデオにも映らないのだ。新聞の記事には絵が出ていたけれども、白黒ではまるで迫力がなかった。

 テレビも事情はほぼ同じだ。スタジオに清孝が行き、三人の漫画家に絵を描かせる、という企画もあったけれど、これなどはアイデア倒れという方が当たっていた。だいたい、小学生の頭の上に光輪が輝いている、という図をリアルに描けという方が無理といるものだろう。一人の漫画家がサービスのつもりで背中に翼までつけてくれたものだから、生放送だったその番組は、最後には冗談大会に終わってしまった。

 クラスでも、清孝の立場はかなり変わってきた。

 それまでは目立たない存在だったのだが、クラスのボスに目をかけられ、おかげで清孝はいわば別格の扱いを受けるようになった。それまで清孝は入れなかった「アポロ団」に、清孝は「コモン」として入団を認められた。「コモン」の仕事は、隊長に言われた時に「虹」を出すことだ。それさえ守れば六年生も一目置く隊長から相談役としての庇護を受けられるのだから、清孝もうれしかった。

 隊長は砂場の前で、一・二年生を集めての演説会まで催した。予め日時を定めての演説会だ。

 半分地面に埋まったタイヤの遊具の上に立ち、彼は後輩のするべきことを説く。先輩を尊敬すること、特に「コモン」は特別な人なのだから大尊敬すること。忘れものはしないこと。体を鍛えること。そして、しふくをみるであろうこと。

 拍手で迎えられて登場した清孝がそこでおもむろに「伝言」を唱え、光輪を現し、そして感嘆の声に包まれるという手順だ。それだけのことだったが、隊長は気にいっていて、何度も繰り返して催された。ついには学校から禁止されてしまったほどだ。ただしその理由は、演説そのものにあったわけではない。隊長が「ケンキン」と称してキャラクター消しゴムやその他文房具やらを取り上げて歩いていたのが発覚したからだった。

 ある日清孝は、校長室へ行くようにと言いつけられた。授業中のことだ。校長先生とは何度か会って話をし、友人になろうという申し出をうけていたところでもあったからそれ自体は不思議ではなかったが、授業中というのはいささか変な具合だった。校長先生の注意の第一は、とにかく学校の勉強はおろそかにしないこと、というものだったのだ。

 校長室のドアを開けると、目に入ったのは、ソファに座った黒服の人達だった。そのような格好をした人を見るのは初めてだったけれど、どういう人達であるかはすぐに分かった。宗教家だ。それにしても、いつものままの校長先生と、黒い服の外国人はいかにも奇妙だった。清孝には殆ど冗談のように見えた。なにやら化粧水のような匂いもまた、清孝には校長室の冗談だった。普段はかび臭い匂いか、せいぜい校長先生の煙草の匂い、あるいは天どんの匂いがする部屋なのだ。

 清孝を見ると、校長先生は立ち上がり、いつもより若干優しい調子で手招きした。「やあ、斉藤君。元気かい。」

 はい、清孝は全部で四人の大人の視線に体を縮こまらせながら小声で答えた。

 「勉強はしっかりやってるかな。ははは。」

 はい。

 「勉強する時はする、遊ぶ時は遊ぶ、なにごとにもけじめをつけて一生懸命にやることが大切だよ。いつも先生が言っているように、な。」

 はい。

 それから校長先生は、黒服の人々の一人になにやら話しかけた。それは清孝が思ったような英語ではなく、ただの日本語だった。

 話しかけられた人が立ち上がった。立ってみると、その人は、校長先生よりも頭二つ分くらい高かった。それと同時に他の三人も立ち上がる。清孝は突然尿意を覚えた。緊張するといつもそうだ。

 最初の人が清孝の前に来て、手を差し出した。清孝も自動的に手を伸ばした。テレビで見たことのあるポーズだ。清孝は自分がドラマの主人公になったような気がした。

 化粧水のような匂いは、この人からしてくるようだった。緑色に近い目をしていて、清孝は一瞬あの『神』がもうお仕置きにきたのかと思ったものだったが、よく見ると、『神』の目よりももう少し青に近かった。あの『神』の目は、ほとんど森の若葉のような緑だった。

 「私はホルヘ神父です。」

 こんにちは。清孝は手を握ったまま頭を下げた。長い僧服の下から来客用と書かれたスリッパがのぞいていて、清孝はなにやら懐かしいような気がした。なんのことはない、隣家の飼犬だ。ショウという黒犬の、青い首輪と同じ取り合わせだったのだ。しかしその考えは清孝をかなり落ち着かせてくれた。気がついてみると、清孝はそれまで両手を握りしめ、形に思い切り力を入れていたのだったが、ようやく少し落ち着いた。それまでの緊張は、なぜか分からないがテレビ局にいた時よりもはるかに強かった。

 「この方達は、サイトウ君の話に興味があられて、お話を伺いに来られました方達です。○○神父、○○なんとか、○○なんとか。」

 ホルヘ神父は、かなりなまりのある日本語でそう紹介した。「なんとか」は「神父」ではなかったが、要するにそういう人達だ。清孝はお辞儀を繰り返した。

 「どうぞ、お座ってください。」ホルヘ神父が言った。校長先生はニコニコしているだけだったので、清孝は勧められるままに神父さん達の真向かいのソファに座った。ひじ付のソファで、背もたれによりかかろうとすると足が浮いてしまうので、座り心地はあまりよくはなかった。

 清孝が落ち着くのを見計らって、ホルヘ神父は言った。

 「サイトウ君は、神様に会ったそうですね。」

 「はい。」

 「それは、いつのことですか。」

 「二年生の時の、四月のときです。」

 「どうして神様だとわかったのですか。」

 「神様だって言いました。点いたり消えたりして、・・・それからわっかも見せてくれました。」

 わっかというのは例の光輪のことです、校長先生が注釈した。ホルヘ神父はうなずいて、

 「神様は、どんな格好をしていましたか。」

 「体操服にトレパンをはいていました。」

 トレパンというのはトレーニングパンツのことです、うまく発音できませんが・・・白い、木綿のズボンです。

 「その時のことを、もっと詳しく教えてください。」

 別に新しいこともなかったが――もう既に、なんどもテレビでも話しているのだ――、清孝はいつものように説明した。ただし、話がうそっぽくならないように、「神様の声は優しくて」とか「後で考えると時間が止まっていたような気がしました」などというコメントは差し控えた。清孝自身が言ったのかどうか覚えはないのだけれど、「神様の足は無かったような気がします」などという話が広まっていて、これ以上おかしな話ばかり広がるのは避けた方がいい、と清孝自身思っていた。

「それではその、光輪を見せてもらえますか。」

 ホルヘ神父が言うと、それまでじっとしていた他の神父さんは一斉に動いた。一人は鏡を手に持ち、鳥のようなしわだらけの顔をした人はその頃まだ珍しかったポラロイドカメラを構え、なぜかもう一人は黒い布を出してかざした。予め打ち合わせてあったらしかった。

 清孝は光輪を出す。ほどなく、四人の口から、ウウともアアともつかない溜息がもれた。日本語じゃない、と清孝は思った。校長先生が満足そうにうなずいて見せた。清孝が伝言を唱えている間、うめき声の他はだれも声を出さなかった。

 終わると、やはり何も写っていないポラロイド写真をみながらホルヘ神父が言った。

 「その、光輪の色とか大きさとかは変わりますか。」

 この質問も初めてではなかったので、自分ではみえないにしても、答えは知っていた。変わらない、が正解だ。母親を相手に何度も試していた。

 「伝言を唱えないと光輪はでないのですか。」

 これは難しい質問だった。一種の癖のようなもので、たとえ口の中ででも一通り言わないわけにはいかない。できそうな気がするのだけれど、うまくいかないようにも思える。言わないでやってみようと思っても、結局いつも唱えてしまうのだ。例えばお風呂に入るとどうしてもおしっこをしてしまうのと同じだ。清孝がそうこたえると、四人の神父さんは顔を見合わせてちょっと変な顔をしていたが、なにも言わなかった。

 「それでは、伝言だけで光輪を出さないことはできますか。」

 それは可能だった。

 「その伝言は、神様がその通りに言われたのですか。」

 「はい。」

 斉藤君は言われた通りに目の前でメモを取らされたと言っています、と校長先生が言った。

 「肉をなるべく食べないこと、というのはどういうことですか。」

 「分かりません。」

 「世界を汚さないこと、というのも分かりませんか。」

 「分かりません。」

 それから、四人の神父さんはかなり長いこと話しあっていた。清孝はまた、ソファの上でモゾモゾと腰を動かし始めていた。レザーにあたる半ズボンのももの汗も一つの原因だが、もうひとつ原因があった。小便がしたかったのだ。風呂に入ったときだけでなく、緊張してもしたくなる。当然の生理だ。清孝は手で自分の股の間を押さえた。おちんちんが固くなっていた。もちろん、性的に興奮していたわけはない。つまり、清孝がかなり緊張していたのだ。

 しばらくそうしていて、顔を上げるとホルヘ神父が清孝をじっと見ていた。清孝は顔が赤くなるのを感じた。神父はそんな清孝には構わず、

 「これを胸に抱いてみて下さい。」と言った。

 差し出されたのは、高さ二十センチほどもある十字架だった。持ってみるとずっしりと重かった。思わずとり落としそうになり、清孝は慌てて膝でささえた。神父さんたちがじっと見つめているのを感じながら、清孝はそれを抱いてみせ、十数えた。十かぞえたのは、余裕を見せるためだ。この儀式が何を意味しているのか、清孝にはなんとなく分かっていた。だてに本を読みながら帰ったわけではない。

 十字架を引き取ったホルヘ神父は、他の三人の顔を見、それから自分の胸にかけていた小さな十字架を清孝の首にかけた。彼は口の中でなにかつぶやき、それから十字を切った。銀色の、小さな、しかしきれいな十字架だった。 

 三人の神父さんたちもまた十字を切った。清孝はそのまま立ちつくしていた。

 一週間の後、清孝はもう一度校長室に呼ばれ、神父さんに会った。今度はホルヘ神父だけだった。彼は、清孝がもらった十字架をちゃんとかけているのを見て――隊長がしているように言ったからだったが――小さく微笑み、

 「めったな時以外、光輪も伝言も披露しない方がいいとおもいます」とだけ言った。

                                    

                  4                    

 クレアの住む人口五百人余りの小さな町デュラムからチコまでは約十五マイル、車で二十分。細い一本道の両側はずっとアーモンド畑だ。三月の初めにはこの延々と続く木のすべてに、桜の花によく似たアーモンドの花が咲く。

 清孝がここに花見に来たのが春だった。まだ友人もいなかったその時期、独りでピクニックをするつもりでででかけてきた。天気のいい朝、バックパックにビールと自分でつくったサンドイッチを入れて自転車で来たのだが、実際にはその計画はうまくいかなかった。木々の間は、肥料代わりの牛糞の臭いでのんびり座るところなど見つけられなかった。清孝は立ったままサンドイッチを頬張り、ビールで流し込んだ。

 苦い思い出だ。日本の人間関係から逃げ出して来たつもりだったのだから、友人がいないことは苦にはならないはずだったのだが、その割には妙に寂しかった。かつて日本で聞いた、人間は独りでは生きられない、といった意味の歌謡曲の歌詞が頭のなかを駆け巡っていた。アーモンドの花は延々と続き、時折農家のらしいピックアップトラックが行き来する他は車も通らない。暖かい風が運ぶ、髪の毛の一本一本にまで染み込んでくるような牛糞の臭い。少しぬるくなった缶ビール。これからどうなるのか、アルバイトも見つからず、苛々感だけが頭の中に積もっていったものだ。

 しかし今はもう、花はなく、牛糞の臭いも気にならない。時期が過ぎて臭わなくなったのか、それとも鼻が慣れてしまったのかもしれない。苛立ちもなくなった。それもきっと慣れだろう。それでもいい。苛々し続けるよりはずっといい。

 『チコ・シティ・リミット』という標識を通り越すとカリフォルニア州チコの町だ。とはいっても、風景が一変するというほどではない。このあたりは「世界のアーモンドキャピタル」と自称しているくらいだから、最初に目に入るのはやはりアーモンドの精製工場だ。倉庫やらなにやらの設備がしばらく続く。

 やがて広い土地を利用したディーラーの中古車が並び始め、コインランドリーやピザ・ショップ、その間の古い木造家屋が見えてくると本格的にチコの町中に入ってきたことになる。チコはもともとこの辺り、南側から発達した町で、カレッジは北のはじにあった。今ではそのカレッジのあたりが町の中心部になっているけれど、大学より北はこの三十年ほどで発達してきた区域なのだ。

 古い町並みの家は、あるものはヴィクトリア調、あるものはモダン調だがどれも古い。そしてそのうちの多くが内部を区切って学生向けのアパートになっている。ペンキ屋のアルバイトをしているときに知り合った空軍あがりの学生の家は、玄関を開けるとその中にまた三つのドアがあった。本来のリビングルームをたてに三つ割りしたのがこのアパートなのだ。そしてその三つのドアは青と白と赤に塗り分けられていた。トリコロールだ。その友人の部屋はそのうちの真ん中で、三つの中では一番まともな白だった。

 ほんとかどうか、建物のオーナーがフランス系なのだそうで、それ自体はいいのだが悲惨なのは部屋の中だった。たてに三つ割りということは、両側に窓が無いということなのだ。窓があるのは裏庭に面したやけに広いバスルームだけで、その友人はバスルームにソファを持ち込んで、生活の半分をそこで暮らしていた。いくら安いとはいえ、まともな住まいではない。しかしその友人も尋常の神経ではなかったようだから、ちょうどよかったのかもしれない。――便利だぜ、と彼は言った。――便器の上で食事して、ふたをあければ残り物はすべて流せるんだから。

 きょうのクレアのファッションはマニッシュな絹のブラウスに紺色のタイト気味のスカート。カレッジガールのように若々しい恰好だが、クレアによく似合っている。清孝は、助手席できょうの買い物メモを確認しているクレアに話しかけた。――クレア、この前話したバンドのインストラクターのこと、覚えてる?

 バンドというのはチコのカレッジのクラスのことだ。清孝はそのパーカッショニストになっている。。ザイラホン、つまり木琴やバイブラフォンの他、ありとあらゆるものを叩く。元々楽器の出来ない清孝がそんなことをやるようになったのは、インストラクターのラーソンの勧めだった。マギーの知り合いであるラーソンは友人をクラスに引っ張り込むのが得意だ。入ってみて気付いたことだが、もう一人のパーカッショニストもやはり、正式の学生ではなくて彼の個人的友人だった。

 ――ミスター・・・なんだったかしらね。クレアは首を傾げて懸命に思い出そうとしていた。思い出せという方が無理だ。清孝は言ってから思い出したのだが、彼のことはクレアに話したことはなかった。別の相手だったのだが、いまさらそれを説明するのも面倒でそのまま話を続けることにした。

 ――ミスター・ジェイムズ・ラーソン。僕とマギーはジェイと呼んでるけど。髪の毛が鳥のブルージェイみたいに立ってるんだ。

 ――オー、マイ・ディア。あなたは面白い表現を使うわ。

 ――そのジェイに招待されてね、ジェイと奥さんと・・・いや、奥さんじゃなかったな、結婚してないって言ってたから、とにかくその二人が以前住んでたっていう丘の上の家に招待してくれたんだ。そこでバーベキューをやったんだけどね。

 ――まあ。よかったじゃない。

 ――それがすごい場所でね。パレルモって、オロビルシティの南の方なんだけど、とにかくなんにもないところなんだ。丘の上で、電気もなければ水さえない。その野原の真ん中に・・・ええと、角が六つある、クレア、なんだっけそういう形、三角じゃなくて四角じゃなくて、五角がペンタゴンだよね。今度は清孝が失語症に陥る番だ。いや、失語症とは違う。思い出せないのではない。多分、単に知らないだけだ。

クレアも思い出せないのか、それとも清孝が何を言っているのか分からないのか、ニコニコとうなずいた。

 ――とにかく、その形をした木造の家と小型のモービルホームと野外トイレが建ってる、それだけなんだ。清孝は続けた。

 ――野外トイレ。それ思い出したわ。プライビィっていうのよ。そう、プライビィ。間違いないわ。開拓時代に外にあったの、プライビィ。クレアは、思い出した単語を忘れまいとして繰り返す。自分が忘れまいとしているだけで、念をおしているわけではない。

 ――五年間くらい、ずっとそこに暮らしてたんだって。清孝は続けた。――六つ角がある形の家も自分たちで建てて、水は下から汲んで来たんだって。ほんとになんにもないところなんだよ。コヨーテがすぐそこまで来たっていうし、ワシの巣がすぐそばの木の上にあったっていうし。

 ――そういう人たち、なんて言うか知ってるわ。

 ――何?

 ――ちょっと待ってちょうだい。えーっと、ちょっと待って、そういう人たちをね、ウィンピー・・・

 ――ヒッピー?

 ――そう!その通り、ヒッピーって言うのよ。以前、そういう連中がたくさんいたのよ、汚いかっこして、インディアンみたいな髪で山の中に住んでたの。

 ――うん・・・。そうだね。

 ――マギーも、一緒だったのね。クレアはちょっと心配そうに言った。清孝一人だと悪い影響を受けるのではないか、と思っている口振りだ。クレアは一度マギーに会ってから彼女をとても気に入ったようで、彼女がいれば安心といった口振りをよくする。しかしジェイに関しては心配心配することはない。マギーは、確かに一緒だった。もともとマギーの友人なのだ。

 ――そう。二人で招待されたから。喜んでた。そうだ、ジェイの犬も一緒だったんだ。牧羊犬で、普段はボーッとした犬なんだけど、大はしゃぎだった。

 ――マギーはいい子よ。マギーは、いい子だわ。

 ――うん。清孝は曖昧に答えた。グッド・ガールと言われるのにはいささか抵抗があった。マギーは男性にガールと呼ばれるのを好まない。年齢的にもガールではないのだが、それでもいささか侮蔑的にガールと呼ばれることがあるらしいのだ。しかしクレアにならいいだろうか。なんといってもクレアは女性だし、第一年齢も孫くらいには離れているのだから。

 メインストリートから徐々にダウンタウンに入っていく。ダウンタウンエリアは一辺三百メートルの正方形に収まるくらいの区域だから、店に寄らずに歩けば、ほんの数分で通過してしまう。しかしそのダウンタウンには、ドラッグストアがあり、家具屋があり、楽器屋があり、古本屋があり、小さなショッピングモールがある。そしてメキシカンレストランとイタリアンレストランとサンドイッチショップと、学生向きのいくつものバーが並ぶ。いつも活気のある一角だ。

 通りの両側にはパーキングメーターが並び、一時間二十五セントで停められる。せいぜい四十円、たとえ一ドル二百円で計算しても五十円なのだが、清孝は何人もから文句を聞いた。これでは都会並みだ、十セントがいいところだという。チコというのは、その程度に田舎町なのだ。

しかし今日は、ダウンタウンは通過。その先のショッピングセンターが目的地だ。

 スーパーマーケットに着くと、清孝はなるべく近くに車を停める。そこが腕のみせどころで、出てきそうな車を見つけ、早くパーキングを確保する。それからクレアを店の入口まで送り、カートを持たせて自分は車に戻る。

 車の中では大抵本を読む。ダウンタウンには『ペーパーバック・エクスチェンジ』という店があって、古本を正価の半額で売り、四分の一の値段で引き取る。期限のない貸本屋のようなものだ。SFやら推理小説やらを買って、おおまかなところだけ読み取る。細かいところが分からないから、雰囲気だけは味わえるが、肝心の謎解きが出来なかったりするのだが、それでもいい。読んでいるという気分が好きなのだ。

 時間を見計らってスーパーの中に入る。慣れてくると、クレアがどのくらいで出てくるか、大体の見当はつくようになる。もしまだでも、どこの売り場にいるかを見ておけばあと何分かは分かる。というのも、クレアには独特の買い物ルールがあって、その順番に回るからだ。フルーツ売り場は最初。少しでも早く行っていいものを探す。パン売り場が一番最後。その方が焼きたての手に入る率が高くなる。冷凍食品がその前。他にも理由があるのかないのか、決まった順番があるからそれで分かる。そうしてクレアがキャッシャーに並ぶ頃には近くに寄って待っている。小切手を切るのを手伝うのだ。クレアが自分でやるとひどく時間がかかるから、値段を書き入れ、それをその下の欄にスペルアウトするところまでやる。あとはサインをするだけだ。買ったものをカートに入れ、車のところまで押していって荷物を下ろす。もちろんクレアは何度も何度も「スマート」を連発する。

 二、三ヶ所で買い物を済ますと、次は美容院だ。行きつけの店があり、クレアを店に連れていくと、清孝はそのわきにある「デイリー・クイーン」でコーラを買って飲む。そうしろ、とクレアが言っていつもクオーター硬貨を二個くれるからだ。もちろん行かずに貯めてもいいのだけれど、申し訳ないような気がするから、清孝はいつでもコーラを飲む。クレアは、人は必ずコーラを飲むものだ、と決めているのだ。

 一時間弱の美容院での時間のあとは、昼食の時間だ。この時どこに行くかを決めるのは清孝の仕事で、いろいろな店にクレアを案内しなくてはならない。サンドイッチの店や、カントリー料理の店、シーフードの店や一度はトルコ料理の店など、クレアはなんでも喜んで食べるから清孝にも楽しい時間だ。

 クレアと話すのは楽しい。言葉が不自由とはいえ、頭の回転は早いから、慣れてくるとウィットに富んだ会話が交わせる。ヨーロッパの話は面白いし、クレアも清孝の学校の話や日本の話を喜んで聞く。お金をもらってデートしているようなものだ。そして帰ると、家の中の仕事などを少しして、それから清孝が自分で小切手を書き、クレアがサインをするのだ。

 この日はもう一ヵ所行くところがあった。どこへ行くのかと聞くと、クレアは急に不機嫌になった。――あー、モンローストリートのね、damn、モンローじゃないわ、なんだったかしら、damn,damn、メモがあるのよ、えーと、ああそう、モンゴメリーストリートの五○四。分かる?マイ・ディア。そこへ行くのよ。行きたくなんてないのだけれど、行かなくちゃいけないらしいから。

 ――五○四というと、北の方だね。

 ――そうかしら。ああ、私は何にも分からないわ。とにかくそこなの。モンゴメリーストリートの五○四。

 ――OK、分かった。

 クレアはいかにも憎々しげにその住所を発音した。そこがなんなのか分からなかったけれど、清孝は聞かない。相手が言おうとしないのならこちらからは聞かない、というのが清孝のルールだ。

 目的の住所は住宅地だった。新しくはないが高級なタイプの家が並んだ静かなストリートだ。清孝は一軒一軒住所を確認しながら走る。

 ――四八二・・・次のブロックだよ。あのあたりかな。

 ――ああ、そうよ。あそこだわ。あの白い建物。

 ――あれ?屋根が平らになってる家?

 ――そうよ、マイ・ディア。あそこだわ。

 クレアが言った家の前には、なんという機種か分からないが大きなタイプのBMWが停まっている。清孝はその後ろにフォードをつけた。

 ――ありがとう、マイ・ディア。ここでいいわ。あなたは中で待ってて、一人で行けるから。

 ――OK、クレア。

 クレアはドアを開けて出ていく。見ると、車を見て気付いたのだろう、建物の玄関が開いて、女性がクレアを迎えに来た。いかにも親しげに手を広げているが、クレアはそれを断るようにして自分で階段をのぼった。玄関のところには、背の高い、頭のはげあがった男も待っている。顔見知りではあるらしいが、誰なのだろう。

 次にクレアが出てきたのは、十分ほどあとだった。緑の深い住宅地で、通り過ぎる風も気持ちがよい。聞こえるのは鳥の声ばかりだ。そうして清孝がぼんやりと外を眺めている時だった。帰りましょう、マイ・ディア。クレアの叫び声が聞こえた。いそいで振り向く。クレアは玄関のところだ。清孝は小走りにかけよった。

 ――やあ、こんにちは。君がクレアを連れてきてくれたんだね。さっきの男が精一杯の愛想笑いでそう言った。

 ――そうです。

 ――僕は弁護士で、トミー・・・

 ――いいのよ、マイ・ディア。さあ、行きましょ。クレアが足を踏み出す。男と、ブロンドのきれいな女性が手を伸ばしたが、クレアはそれを振り払って清孝につかまった。清孝は肩を貸すような恰好で階段を下りる。クレアがぎゅっと掴むので痛いほどだ。

 ――ああ、ミセス・ブリード、気をつけて・・・女性が声を出した。

 ――とにかく、クレア。弁護士だと言ったトミーなんとかがエントランスをかけ降りて、下からクレアを見上げた。――あなたに悪いようにはしないから・・・

 ――もう充分、クレアが声を震わせた。――もう充分よ。

 ――考えてみてくれないと・・・

 ――もう充分だって言ってるでしょ!

 damn、damn、damn!車に乗り込んでからも、クレアはそう繰り返した。――だから私は会いたくなかったのよ。あんなヤツ、あんな、あんな・・・。

 ――弁護士だっていってたね。

 ――ああ、弁護士なんて、弁護士なんて・・・。

 ――嫌いなんだね。

 ――嫌いよ、大嫌い!二度と会いたくないわ。

 ――そうだね・・・まあ終わったからいいね。帰ろうね。

 ――そうそう、帰りましょう、帰りましょう!

 クレアは相当興奮していて、その後もずっとひとりでぶつぶつ呟いていた。何か言い出すのなら、と思っていたのだが、クレアは自分の腹立ちに沈んでしまったようで、ついに清孝には話しかけなかった。誰なのだろう。弁護士とどういう関わりがあるのだろう。聞いてみたかったが、わざわざ聞き出したくはない。結局この事件が何なのかは分からなかった。

 ――気になるなら聞いてみればいいのに。

 ――いやなんだよね。本人が言いたくないのに聞き出すのって。

 ――でも、聞けば言ったかもしれないよ。そうすれば本人にとっては楽だってことは多いのに。

 ――そうかもしれない。でも、いやなんだよ。

 ――キヨは他人のことに関わろうとしないんだね。

 ――そう・・・多分。

 ――どうして?でも無関心じゃないのに。ほんとは気にしてるのに。それが日本人のやり方なの?

 ――どうかな。そうとは言えないと思うけど。イギリス人なんてそういう風だって聞いたことがあるけど。

 ――イギリス風か。そういう感じはするね。・・・でも、クレア興奮してたんでしょ。大丈夫かしら。

 ――そう、なにしろ以前脳卒中で倒れてるくらいだから僕も心配したけど。

 ――大丈夫だった?

 ――帰ってコーラがぶ飲みしてた。あれで落ち着いたみたいだった。

 ――コーラが鎮静剤なの?

 ――クレアにとってはね。

                   5

 忙しいマギーだったが、休みになると清孝を誘って自然の中に出た。チコの北東側はシェラ・ネバダ山脈につながる山が広がっていて、自然には事欠かない。町中のビッドウェルパークはそのまま山の中にまでつながっているから、ラフなドライブウェイを上っていくとかなりの山奥に入り込める。時にはサンドイッチを持ってハイキングをし、時には川沿いで一日泳いですごす。マギーはフェミニストであると同時に、ナチュラリストでもあるのだった。

マギーはついでに、パートタイム・ヌーディストでもあった。誰が決めたわけでもないらしいのだが、川の上流沿いの一角がヌーディストビーチになっていて、マギーはそこへ行くのも好きだった。デビルズ・ホールと呼ばれる深さ5メートルくらいの淵があるそこでは、だれもが素裸になっている。脱いでしまえばどうということもないのだが、最初は相当のためらいがあった。外で裸になるのにも抵抗はあったし、マギーの前でというのも恥ずかしかった。

――どうしたのよ、キヨ。手早く脱いでしまったマギーは、持参のビーチシートの上に横になって言った。――あ、わかった。恥ずかしいんだ。

――そういうわけじゃないけどさ。ちょっとはね。清孝はぶつぶつと言った。マギーの裸の胸が豊かに波打っている。外で、しかもマギーの前で裸になるという考えはそれだけで清孝を興奮させた。このまま裸になるわけにはいかなかった。

――だめ、脱ぎなさいよ。マギーは清孝の横に座り、ジーンズに手をかける。やめろよ、だめだってば。清孝はあわててその手を払い除けた。――分かったよ、自分で脱ぐからさ。

チコのあたりは、ノースバレイと呼ばれる盆地になっているので、夏は暑い。湿度が低いからまだ楽だが、気温では四十度を超えることもある。この日はそれほどには高くなかったが、日差しは強かった。観念して下着も脱ぎ、体を伸ばす。全身に太陽の光があたる。太陽の力で体が持ち上げられるような気がした。乾いた草の匂いが体を包む。目をつぶるとボオーッと風の通り過ぎていく音がした。

 ――どう、気持ちいいでしょ。マギーが言った。――初めまして、ミスター・ペニス。 ――初めてですか。

 ――今のはミスター・サンが言ったのよ。初めてでしょ。

 そう言われてみればその通りだ。もしかすると、生まれて初めてかもしれない。見たこともない陽の光に当たってペニスが所在なげにしている、と清孝は思った。こんな状態でリラックスしていることなどまずないのだ。

 ――やあ、こんにちは。全裸のカップルが歩いていく。男の足の間でもペニスが揺れている。キャホー、デビルズホールで声が聞こえる。ボシュッと水の音が聞こえた。

 乾いた風があちこちの木の葉を揺すっていく。枯れた草原が波のようにうねる。このあたりでは夏には草は枯れる。しかしそれが自然なのだ。生命がそこにある。

 空が青い。深くどこまでも続いていく。途方もない空の彼方を見つめていると、目が痛くなって涙が出てきてしまう。日本では決して見られない青さだ。いや、そうではないのかもしれない。日本ではこうして空を見た覚えがない。こうして寝転がる場所があっただろうか。寝転がって、はじからはじまで空が見えるような場所があっただろうか。

 リラックス。いい気持ちだ。こうしてずっと生きていけたらいい、と清孝は思う。チコの人たちはみなこうして生きている。太陽を浴びて眠ること。気が向いたら泳ぐこと。隣にはガールフレンドが裸で寝ていること。今も人間にまみれて生活している人々もいるのだろうか。今ごろ、日本で。満員電車で通勤していくサラリーマンも、『教団』の連中や、そして恭子も。

 リラックス。リラックスというのは、毎日緊張している人間が楽しむものなのかもしれない。しかしこういう生活はいい。マギーはどうだろう。いつも緊張しているのだろうか。そんなことはない。彼女はいつでも楽しんでいる。僕は?僕はどうだろう。楽しんでいるだろうか?

 ――キヨ、泳ごうよ。マギーが言った。

 ――OK。清孝も立ち上がった。

 どっしりしたマギーの尻が伸び縮みしながら行く。清孝がすぐそれに追いついた。

 ――どう、気持ちいいでしょ。

 ――そうだね。清孝はマギーの腰に腕を回した。肉のついたしっかりした感触。マギーも清孝の腰を抱き寄せる。なんだかくすぐったい。背は清孝の方が高いのだが、マギーに一方的に抱き抱えられているような気がした。

 別のカップルがすれ違った。――やあ、どうだい。

 ――最高よ、マギーが答えた。さ、泳ごう、キヨ。

 ――OK。返事をすると、マギーはすぐデビルズ・ホールの上に向かった。

 ――さあ、ここから飛び下りるの。一緒にね。

 ――ちょっと待ってよ、随分高いよ。

 ――怖い?

 ――そういうわけじゃないけど・・・

 じゃあいくわよ、ワン・ツー・スリー!キャッホーォ!

 ためらう間もなかった。マギーの喚声とともに、清孝はマギーに引きずられるようにして飛び込んだ。つないだ手を上にあげて落ちる。血液が一瞬逆流する。ダバーン、かなりの衝撃だ。目をつぶる。清孝は思わず手を離した。体が回る。手足を動かす。充分に息を吸い込んでなかった、苦しい。目を開けて見ると白い泡、泡。澄んだ青色。水面ははるかに上だ。水面が遠い。マギーは?清孝はもがく。口から息が出てしまう。泡、泡。苦しい、水面は、もう少し、水面・・・。

 ブファーッ!清孝はようやく顔を出して息をした。ハア、ハア。鼻の中が痛い。マギーは、と見回す間もなく後ろからマギーに抱き抱えられた。胸が柔らかくて暖かい。

 ――キヨ、大丈夫?マギーは笑いながらも心配そうにたずねた。――あわててたわね。 ――急に飛び込むから。

 ――アハハ、必死にもがいてるとこ見ちゃったわ。マギーはそういいながら清孝にキスした。抱きつかれて清孝はまた沈んでしまう。マギー、マギー、ちょっと待って!清孝は水の中で叫んだ。マギーの髪が広がって清孝にからんだ。マギーはなおも唇を押しつける。マギー、マギー!水の中で笑顔が広がる。マギー、マギー!

                   6                   

 今朝から思い出せなくて困ってる単語があるの。あのね、聞いてくれるかしら。クレアはそう言って清孝の顔を見た。もちろん。清孝は左右を確かめ、ショッピングセンターの駐車場を出た。ウィイン、パワーステアリングがうなった。エンジンがボオォォッと力強い音をたてる。しかし、音ほどにはスピードは出ない。すぐ脇を小型の日本車が追い越して行った。

 ――船の中でね・・・ちょっと待ってね、時間ちょうだい、順にゆっくり話すから。昔、貨物船で、えーと、パ、パ・・ナマ、そう、パナマ運河を渡った時のことなんだけど。そう、貨物船。客を十数人だけ乗せられるように造ってあるのよ。その時、私は唯一の女性客でね、みんなにちやほやされたわ。船長は私をブリッジに招待してくれて、あの、なんていうのかしら、ほら、大きなリング・・・こうやって、船長が回す、操縦する・・・そうよ、操縦するリング、ステアリング・リング。ちょっと違うわね、ステアリング・・・

 ――ステアリング・ホイール?ホイールの発音が難しかったが、クレアはそれで思い出したようだった。

 ――そうその通り、クレアは言った。――なんてスマートなのマイディア。ステアリングホイールね。とにかくそれを握らせてくれたりもしたのよ。楽しかったわ。食事の時にはいつも、正装して出るの。私はいつも食欲ないの、だって船の上で大して運動もしないでしょ、食べてばっかりで体動かさないし。メニューも凝ってはいるんだけど、大体いつも同じような感じのものばかりだし。それで、どうしようかと迷って、十分くらい遅れてダイニングへ行くでしょ。そうすると、なんだと思う?

――分からない。清孝はひと呼吸置いて調子よく答える。こういう機械的な、でも潤滑油的な言い回しというのは実に便利だ。タイミングさえうまくつかめれば、という意味だが。

――みんなじっと私のことを待ってるの。食事始めないで、来るかどうか分からない私のことをみんなで待っていてくれるのよ。そして、ようやく来ても、誰もいやな顔もしないで、さあ私たちのレディが来ました、それでは始めましょう、そう言って食事が始まるのよ。感激だったわ。私はまるで、まるで、えーっと、そう、クイーンみたいだったわ。 ――誇らしかっただろうね。

――そうよ。誇らしかった。その通りだった。それで、やっと本題ね、えー、その、パ・・・、そう、パナマ運河を通って、太平洋を走ってたある晩のこと。回りには島もなにも見えない海の真ん中。私がデッキで風にあたってた時、女性の悲鳴が聞こえたの。ヒーッ、ヒーッってすごい声で助けを求めてるようだったの。私はびっくりしてね、だって船に女性は私一人しかいないはずだったから。それで、これはきっと・・・そう、この単語が思いだせないのよ、彼女が『それ』で、それがだれかに見つけられたんだと思ったの。分かる?隠れてる人。船に勝手に乗ってきちゃう人。

――ああ・・・うん、分かった。清孝は言った。――分かったよ。船室にじゃなくて、荷物室なんかに隠れてただで航海する人。

――そう、それ!なんて言ったかしら、マイ・ディア。

――ごめん、だけど分からないや。僕は多分知らないと思うな。

 密航、密航者。シークレット・トラベラー?まさかそんな言葉はないだろう。清孝は頭の中の辞書をひっくり返し、そしてやはり見つけることは出来ない。

 ――いいわ、あなたには悪いことなんか、なにもないわ。私が思い出せないだけなんだから。クレアはうなずきながら言った。――でも、なんて言ったかしらね、その単語。ス・・・Sで始まったような気がするんだけど・・・。クレアは歯の間から息を吐き出して、ス、ス、・・・と考えている。それだけの音でも、やはりアメリカ人だ。不思議だけれど、清孝にはまねが出来ない。なにが違うのだろう。肺活量だろうか、舌の長さかなにかの問題なのだろうか。

――翌朝船長に、昨夜の女性はどうしたかと聞いたの。そしたらマイ・ディア、なんて言ったと思う?『女性?どうしてそんなこと聞くんだ?』って。『悲鳴が聞こえた』って言ったら黙っちゃってね。なんだかやたら怖い顔してたの。それで、私もこれはあまり聞かない方がいいらしいと思って、それだけでやめたの。犯罪とか、そういうことがからんでたらいやでしょ。そう思ったの。それはそれでもう忘れてたんだけどね。ところが違ったのね。下りる前の日になって、ギリシャ人の航海士が教えてくれたんだけど、その女性の悲鳴を聞いた人は、何人もいたの。それまでに何人もっていう意味ね。何人もの人が聞いていて、でも誰も見たことがない、そういう女性の悲鳴なの。分かるでしょ、そういうのって。ああ、怖ろしい。思い出すだけで、ぞっとするわ・・・。

 チコの町を貫通しているインターステート・ハイウェイを越えて、ノースバレイと呼ばれる地域に入る。このあたりはチコで一番新しいショッピングエリアで、大きなショッピングモール、二軒のスーパーマーケット、一軒の衣料・雑貨の安売りデパートとドラッグストアがあり、五つのスクリーンを持つ映画館がある。クレアが行こうとしている『ショップン・セイブ』もこの一角だ。

 清孝は、青や赤で売り出し商品の値段が大きく張り出されている『ショップン・セイブ』の大きなウィンドウ前に車を停めた。残念ながら空きがない。――どうしようか、クレア。空いてないけど、ここで降りる?それとも、遠くから僕と一緒に歩こうか。

――降りるわ、マイディア。クレアは言った。――大丈夫、すぐそこだから、大丈夫よ。クレアはそう言った。こういうときのクレアはいさぎよい。すぐにドアを開けて外へ出る。いさぎよすぎて、時には危ないくらいだ。後ろから車が来ているかも知れないのに。しかし、実際にはそんなことはほとんどない。チコの町中には、他の車がぎりぎりに走っていくほど狭いところなんてまずないのだ。

――じゃあ、あのあたりに車停めるからね。清孝は駐車場の空いている一角を指した。 ――分かったわ。あとでね、マイディア。クレアはそう言って、一人で歩き出した。バッグを左の腕にかけ、ゆっくりゆっくり歩いていく。清孝はクレアが店に入ったのを見届けてから、車を回した。

 清孝が行ったのは、隣のショッピング・モールにあるブックストアだった。ベストセラーが入口付近に山積みされ、売れ筋のペーパーバックスがディスプレイ用カートンケースに並べられている、そんな種類の本屋で、全国規模のチェーン店だ。なんとかいうジェットパイロットの話が売れているらしく、ヘルメットを粋に抱えた等身大の写真がキャッシャーのわきに立っていた。その感じは日本でいえばレコード屋だろう。清孝は上に掲げられた表示を見ながら奥に進む。辞書のコーナーは、スポーツコーナーのわきにあった。

 密航者。清孝はその単語を調べにきたのだった。Sで始まる単語。和英辞典などあるわけないから、手掛かりはとりあえずそれだけだ。シークレットに関係がありそうだから、その近くを探してみよう、清孝はそう思っていた。それで駄目なら、大きな類義語辞典で『船』とか『荷物』とか『乗客』とかを調べてみる。絵入り辞典で船の絵を探すという手もある。あるいは船が出て来る小説などがいいかもしれない。たとえば『モビー・ディック』なんてどうだろうか。捕鯨船に密航者は、・・・いなかっただろうな。TV版『スタートレック』では、エンタープライズ号に密航者が乗っていて重量計算がうまくいかなくなるというエピソードを観た覚えがあるのだけれど、宇宙船の場合と船とでは違う単語だろうか。しかし考えてみると、宇宙での重量計算というのも奇妙な話だ・・・。

 清孝は小さな辞書を手にとった。紺色の、清孝の好きなタイプの辞書だ。ページの横が黄色くてとても鮮やかだ。青に黄色というのはアメリカ人がもっとも好む組み合わせの色だと聞いたことがある。いい感じだ。

 清孝はあたりを見回した。ちょうどいい。回りには誰もいず、店員もこちらを見てはいない。今ならいい。

 彼は注意深く息を吐き出した。身体からスッと力が抜ける。手足がほんの少し暖かくなる。頭から血が引いていく。立っているのに自分の姿勢がよく分からない。そうだ、これでいい。辞書を見つめ、手がさらに暖かくなるのを感じ、そのまま力を入れずに後半三分の二くらいのところをパタリと開いた。ほんの一瞬頭がくらっとした。S・・・stowaway。One who hides abroad a ship or other conveyance in order to obtain free passage 。船の上か、他のナントカに乗って隠れる。タダのパッセージを得るために。・・・ただで乗るために隠れて船等に乗る、ということ。

 『密航者』だった。探していた単語だった。これだ。まだ出来る。彼は安心して歩き出す。あたりを見回したが、彼に注目している者はいなかった。光輪もみつからなかったらしい。OKだ。

 『神』に会った時以来なんとなく意識していた能力ではあった。知りたいことが要領よく分かる。偶然にしてはそういうことが多かった。運がいいのだろうか、清孝はよくそう思った。

それがかなりコントロールできるようになったのは、『教団』の頃からだ。『隊長』と話している時ふとそのことを言うと、『隊長』は興味を持って、色々と試しだした。そこで分かってきたのがこの能力だった。

知りたいことが見つけられる。会いたい人に会える。相手を動かすことは出来ないはずけれど、結構な確率で出会うことができる。ただし、知りたい、会いたい、と思っていると出来るというわけではない。思ってはいけないのだ。能力のことは忘れていなくてはならない。だからと言って会いたいと思わなくてもよいというわけでもない。そのあたりが難しいところなのだ。

 『光輪』も問題だった。うまくいっている時には、かすかに『光輪』が出るらしい。このかすか、というのが問題で、見える場合もあるし、見えない場合もある。というよりは、ある人は見えると言い、ある人は見えないと言う。しかし、どちらにしても、人を驚かすことの多い『光輪』が出る行為は、人がたくさんいる場所ではできない。

 それに問題はもう一つあった。利害のからんでいる場合には決して使えないということだ。それはどうしてか分からない。『隊長』を怒らせたこともあり、『教団』を離れた理由の一つもそれだ。

あとから思うとばからしい限りだが、『隊長』は清孝に、宝くじが当たらなかったのはわざとなのだろうと腹立ちまぎれに言った。そんなことがあるわけがない。本当に当たるものならば、とっくに自分で買って大金持ちになっていただろう。『光輪』が出てしまうので売り場でゆっくり選んでいられないというのも理由の一つではあるが、しかし根本的にはそういうことではないようだった。自分の利益には使えない。利益に、と考えると出来ない。そういうことらしいのだ。

 『神』のくれた能力は、そんなものだった。大した役には立たなかった。清孝自身のこととして考えれば、いかなる意味でも役に立ったとは思えない。そして清孝も、他人のなんの役にも立たなかった。思い出せなかった単語を思い出させてあげる、という程度のこと以外には、だ。

 その後、清孝はストアに戻ってクレアに例の単語を報告した。クレアが喜んだのは言うまでもない。清孝は『ベリー』が頭に3つもつく『スマート』になった。それから銀行に寄り、サンドウィッチショップで昼食をとった。

 クレアの家に帰ったのは二時半頃だった。それから庭掃除をやって、全部で六時間半、二十一ドル八十セント。アパートに帰ったのは、五時過ぎだった。

 ――クレア、喜んだでしょう。

 ――そりゃね。喜ぶさ。

 ――良かったわね。うまく行って。

 ――まあね。

 ――でも、クレアはそれが清孝のパワーでだとは知らないわけ。

 ――パワーっていうのも気にかかるけど、まあとにかくクレアは知らない。どうせ説明しても分かってくれないだろうし。

 ――そうかしら。私は分かったでしょ。

 ――マギーは特別だよ。

 ――あら、そうかな。そういうのって、意外に多くの人が認めてると思うよ。色々な人にあることなんじゃない、本当は。

 ――そう?マギーにも?

 ――ううん。私にはないけどね。それは確実。私は何度か間違いの予言してるし。一度なんか、父が死んだ場面をすごくリアルに感じちゃってね、真っ昼間。これは死んだな、と思って、冷静に、冷静にと言い聞かせながら電話したわ。

 ――うん。

 ――生きてた。元気にね。それで、これはそれから先悪いことが起きるに違いないと思ったけど・・・。

 ――起きなかった?

 ――起きなかったわ。後で聞いてみたけど、特に危ないこともなかったって。かれこれ十年になるけど、いまだにピンピンしてるもの。

 ――まあ、それはよかったじゃない。・・・でも、それでもクレアは僕のことは理解しないと思うな。彼女は相当の合理主義者だよ。そう思わない?

 ――そうね。理屈に合わなければ、多分信じないでしょうね。・・・それで、そういうのって、どのくらいの確率で出来るわけ?

 ――それが難しいんだよ。自分でも、ほんとに出来ているのかどうかよく分からないくらいなんだから。たまたま、偶然にあたったような気がするだけなんだ。特になにかの能力を発揮したという感じはないんだよね。ただその確率がかなり高いんだ。例えば、昔のハードボイルド映画の主人公が疲れ切って自分の探偵事務所に帰ってきてさ、こう座りデスクに足を挙げ、そして自分の帽子を帽子掛けに投げるじゃない。そんな感じなんだよね。それって多分、意識したら出来ないと思わない?今は疲れている、もう二度と立ち上がりたくない、かっこよく掛かってくれ、なんて願ったらきっと外れる。何も考えないでさりげなくやるとピッとかかる。ね。

 ――うーん、分かるような気もするけど・・・。

 ――反省なんかしたらもっとだめなんだよ。出来たら、出来たことを当然のこととして受け止める。そうしておけば、次回もまた出来る。おっと、今度はうまくいったぞ、今の感じを維持すればいいんだ、なんて考えたら次の回にはきっと出来ない。そういうもんだよ。

 ――なるほど。そうなのか。

 ――そうなんだよ。

                   7                   

 ある日マギーが言った。――私のヴァギナ、見せてあげる。

 清孝はとまどった。晴れた日曜の午前中のことだ。大気は乾き、太陽の匂いで満ちていた。シャワーを浴びたばかりの体もすっきりしている。セクシーな気分にはほど遠い。三人目の住人は見つからないままだったから朝からセックスをしても特に不都合はないけれど、とてもそんな気分ではない。

――どう、見たい?

 うん。清孝は曖昧に答えた。そう面と向かって聞かれても困る。興味はある。しかし時間が不適当だ。見たくないわけでもないし、見たいわけでもない。――でも・・・どうして?

――どうして?マギーは清孝の言葉をそのまま真似て顔を覗き込む。目尻の深いしわ。日に焼けてそばかすだらけの皮膚。日本人にはまねができない、と清孝が思う不思議な目の色と表情。――どうして、見せるかって言うの?

 ――まあね。清孝はちょっと頬をふくらませる。

 ――だって興味あるでしょ。マギーはニヤッと笑って、かまわずカウチに座っている清孝の目の前で、ジーンズを脱ぎだした。清孝はどうしていいかわからずに体をもぞもぞと動かす。手を交差させて膝に置いた。急なことで、ジーンズの中がもうつっぱり始めて居心地が悪かった。

 浅黒い肌。体毛が肌の上で金色に光る。夕暮れ時の水面を思い出す。顔も腕も同じだが、表面の体毛の方が色が薄いというのは見ていてどうも不思議だ。マギーのセカンドネームはロシア系のそれだが、いわゆる白系ロシアではないからどことなく東洋的でもある。おじいさんはアメリカ人がジョージアと呼ぶグルジアあたりの出身だそうで、ロシアの中では少数民族の人種グループに属する。日本人と、遠い親戚関係くらいにはなるのかもしれない。

 マギーはTシャツとアンダーショーツ姿になり、それからなんのためらいもなくショーツも脱いだ。下腹がぷるぷると震え、立派な黒々とした陰毛がアクセントを作っている。丸々とした太ももが力強く張り出していて、清孝は昔教科書かなにかで見た土偶の写真を思い出す。柔らかく、強く、正しい。Tシャツ一枚で立っているマギーは幼女のようにも見え、そのまま古代彫刻のようにも見える。

 ――ちょっと待ってね。マギーはそう言うと、バスルームの方へ歩いてゆき、それから透明なプラスチックの器具を持ってきた。一方が鶴のくちばしのように伸び、もう一方がレバーになっている。産婦人科などで女性性器内を検視する時に使う器具だ。

 ――これね、スペキュレーターっていうの。自分の体なのに、ヴァギナの中って女性には見えないでしょ。だからこれで確かめるの。こうしてね。

 マギーは片足をソファに上げた。清孝のすぐ目の前にマギーのたくましい足が突き出される。独特の匂いがたちのぼる。マギーは体臭の強い方ではないが、しかしなんとなく動物臭い。恭子は植物臭かった。竹のような匂いがした。本当に竹の匂いかどうかわからないが、なんとなくそんな気がした。マギーは犬か猫か、とても親しい動物の匂いだ。

 ――ちょっと待ってよ、マギー。僕はどうすればいいんだい。清孝はマギーの足に手を触れてマギーを見上げた。押し退けるわけにもいかず、変に触ってもいけない気がしてことさらに指先を立てて膝を押す。

――どうもしなくていいよ。でも、触らないで。なにしろヴァギナはデリケートなんだから。マギーはそう言いながら更に足を開いた。盛り上がった肉の間から花が咲くように赤いひだが広がる。柔らかくそこだけが回りと隔絶した生物のように見える。初めて見るもののようだ。

 実際初めてと言ってよかった。清孝は女性の性器などまともに見たことはなかった。唇で触れたことはあっても、それでも見たことはない。恭子はセックスをする時は必ず明かりを消した。清孝自身もその方が好きだった。だから見たことがあるのはポルノマガジンでだけだ。

 しかし写真と実物はネコとライオンくらいには違っていた。あるいはトカゲとゴジラだ。あたりまえだけれど、実物は目の前で動く。性器が動くということ自体が清孝にはなんだか奇妙に思えたが、確かにそうだった。そこだけがマギーとは別に生きているようだ。中から外へ広がってくる赤い舌と、顔を出している小さな豆粒のようなものは、別の世界の生き物だ。

 マギーは片手でスペキュレーターを持つと、それをその舌の間にスッと差し入れた。手慣れた動作だ。たとえばうまい看護婦が血液検査の針を腕に刺す時のようで、見事なものだった。

 ――ほら。ヴァギナの中を見て。マギーはそう言って、レバーを押した。――中が見えるでしょう。暗い?もっと窓の方を向いた方がいいかな?

――いや、大丈夫。清孝は間抜けた声を出した。なんだか声が震えた。

――どう、何が見える?

――何って・・・押さえつけられてるから・・・。しわが寄ってる。随分広い。中がぽっかり開いてる。

――奥の方に赤いふくらみが見えない?

――ふくらみ。あれかな。

――子宮の入口よ。盛り上がってるでしょ?そこから精子が入り込んでいって、卵子と合体すると受精になるわけよ。

――生物の授業みたいだね。

――そりゃそうよ。人間は生物なんだから。

 清孝はどきどきしながらマギーの押し広げられたマギーの性器を眺める。どきどきするのはなんとなく異常な気配があるからで、セクシーな気分はない。マギーの口調は男を誘う女の声ではなく、先生のそれだ。

 今は透明なプラスチックに押しつけられている、波のようなざわめき。結構皮膚が厚いように思える。三十何年生きて、マギーにも様々な歴史があったのだろう、それが積み重なっているような気がする。ネトッとした、しかし妙に乾いた感じもする奥の方。マギーが体を動かすとねじれるようにこの生物も動く。これが・・・男たちのほしいものなのだろうか。ここにオチンチンを入れると気持ちいい・・・のはどうしてだろう。ここに入れるために犯罪が行われ、数々の間抜けた行動が行われてきた。そして、この中から生命が生まれてくる。どうやって?ここを、赤ん坊の頭はどうやって出てくるのだろう・・・? ――はい、これでおしまい。マギーは言った。清孝は慌てて体を引き、マギーの顔を見上げた。自分がとても間の抜けた表情をしていると思った。マギーは首をかしげ、口を半分開けて微笑んだ。子供を見下ろす母親のスマイルだ。えくぼが出来て、あごの下には柔らかい脂肪が重なった。おっぱいあげようか、とでも言われそうな気がしたが、そんなことはなかった。当たり前だ。マギーはスペキュレーターを引き抜き、足を下ろした。魔法が解けたように、マギーの足の間の劇場が消えた。

 ――どう思う。マギーがそう聞いた時にはもう、彼女は手早く下着をつけ、ジーンズを引き上げていた。やっぱり誘っているわけではなかったんだ。セックスしたい気はなかったのに、それでもなんだかはぐらかされたような気になった。

――どうって・・・可愛かったよ。

――可愛い?ありがとう。他には?

――不思議だった。男性ならあるところに何もないって変だ。

――ない?そんなことないでしょう。なくないよ。あったでしょ。

――うん、そうだ。あった。複雑だった。

――ヴァギナの中が?

――そう。

――そうでしょ。色々あるのよね。

――うん。

 紅茶でもいれようか、マギーが立ち上がり、キッチンカウンターの向こう側に回りながら言った。――女性でもね、自分で見たことがない人って結構いるのよ。自分の体なのに。特に昔は抑圧が強かったでしょ。私はそう育てられた。手で触っちゃいけないと言われてね、デリケートで大事なところだからって。大事なところだからこそ、自分で知らなくちゃいけないのに。今でもそういう家って多いのよ。カソリックの家なんて厳しいみたい。セックス・レボリューションは随分色々なところを変えたけれど、家の中は意外に変わってなかったりするのよね。日本でもそうでしょ。

 ――そうかもね。

――だからね、ウーマンズ・センターでは女性に自分のヴァギナの見方を教えるの。今みたいにして。

――みんなでやるわけ?

――そうよ。まずインストラクターがやってみせるの。私もやることあるわ。私は本来は役割が違うからあまりやらないけど。自分のヴァギナを見るのって、自分を解放することにつながるのよね。

――見せるのは?

――解放ではあるんじゃない?

――今も自分を解放しようとしたわけ?

 ううん、マギーは舌を出して笑った。眉のはじが下がってアライグマみたいな顔になった。――今は違うわ。キヨが退屈そうだったから、いたずらしただけ。

                   8                   

 ――自分が本当は世界の中心だと思ったこと、ない?

 ――自分が中心?                                ――僕はよく思ったよ。今でも覚えてるけど、小学校の入学式の少し前、小学校に行ったら世界の秘密が明かされるんじゃないかと夢見てた。

 ――世界の秘密ね。大きな話。

 ――そう。その秘密はね、僕が実は世界の中心だっていうことさ。僕は父親がいなかったから、特に幼稚園時代、これは違うって感じてた。父親がいないこと自体は特に悲しいとかいう思いはなかったけど、そういう状態が自分の本当の姿だと思えなかった。・・・そこまで幼稚園の頃に思っていたのかはよく分からないけど、・・・とにかく、すべては仮の世界で、本当の世界はこれから明かされると思ったんだ。小学校へ行ったら、みんなが自分のことを見つめている。そして、この世界はみんなキミのために造られているのです、と紹介される。この学校も、この人間も、この先生も、みんなキミのためにできているのです、とね。

 ――この私もね。

 ――今はそんなこと思ってはいないけどさ。六歳の時の話だよ。ただ、その思いはその後も続いてた。だから、『神』が現れた時にはびっくりしたけど、根本的には当然だと思ってた。ようやく世界の秘密が明かされたって思ったんだ。

 ――なるほど。じゃ、『神』っていうのは比喩なのかしら。

 ――比喩?

 ――そう。あなたが世界の中心になりたがっていたっていう、比喩。

 ――僕の妄想だっていうわけ?

 ――必ずしもそうじゃないけど、考えていることが現実になるって、あると思うのよ。私は一応クリスチャンとして育てられたから、悪魔の存在というのはそれなりに信じるわけ。そうすると、悪魔っていうのはやっぱりいるのよ。でも、一方冷静に考えればそんなものいないの。神もね。

 ――きみの神がいないの?

 ――いるのだったらどうしてこんな悲惨な出来事があるんだろうって、思わない?なにかの超自然的な存在はあるのかもしれないけれど、人間が考える神っていうのは、それはやっぱり人間が考えたものなのよ。比喩っていうのはそういうこと。だから、それが妄想だとかそうでないとかいうのはあまり関係がないの。だから、私はクリスチャンでいるわけ。神を信じるからクリスチャンなんじゃなくて、逆なのね。クリスチャンでいれば神を信じていいから、クリスチャンでいるの。だから、クリスチャンだけど戒律は犯すし教会は行かないし、全然クリスチャンらしいことはしてないでしょ。それどころかブッダにも興味あるし、普通に考えればクリスチャンとは言えないのよね。でも、最終的にはクリスチャンでいたいと思うわけ。

 ――ふうん。よく分からないなあ。じゃあ、神はいないと思ってるわけ?

 ――ううん、そうじゃない。いると信じてる。

 ――じゃ、戒律を犯したら罰を受けるじゃない。

 ――そうかもしれないとは思ってるわよ。だけど、戒律なんて、神を信じることからみれば大したことじゃないのよ。

 ――そんなことないだろう。宗教っていうのは戒律から出来てると言ったっていいんじゃないの。

 ――そうかしら?戒律のない宗教だってあるでしょ。

 ――戒律のない宗教なんて・・・ああ、そうか。そういえば、日本の神道はそうかな。それに、仏教だって大した戒律はないわけだ。悪い人間こそ天国へ行ける、というのもあるくらいだし。

 ――そうでしょう。だから、いいのよ。神というのは、信じることが大事なのよ。

 ――そうかもしれない。・・・ただ、僕の『神』は、ちょっと違うんだ。『神』がいたんだよね。そっちの方が先だからよく分からないんだ。あれは夢じゃない。この僕の『光輪』が本当であるみたいにね。

 ――『光輪』は本当なの?

 ――だって、見えるでしょ。マギーだって見えるって言ったじゃない。

 ――確かに見えるわ。でも、見えたときには見えたって思うけど、だから本当にあるかどうかは分からないじゃない。第一、キヨは自分で見たことないんでしょ。

 ――それはずるい言い方だなあ。だって、それはしょうがないよ。自分の頭の上なんだし、写真には撮れないんだし。じゃあなに、マギーは、それが科学的に証明されないから実在しないって言うわけ?

 ――そういうわけじゃないんだけど、・・・そうだなあ。私にもよく分からないけど、・・・カウンセリングしてると時々不思議な感じにぶつかることがあるのよね。たとえば世界が掴めないって言う人があるの。今の話にもちょっと似てるけど、この世が本当にあるのかどうか不安だっていう疑問を持つ人って結構いるのよ。本当に精神病になってしまったら私たちの手には負えないから、そういう状態じゃなくて、一応理性は保っている状態ね。それでも、こうして物を手に取ってみても、これが本当にここにあるのかが分からない、これは本当にあるのでしょうか、と言うの。

 ――哲学の問題だね。

 ――そうでしょうね。だけど、それを哲学で説明してみても相手は納得しないでしょうね。そういう時は、相手にもよるけど、結構有効な方法があるのよ。

 ――何?

 ――ありますよ、って言うの。それだけ。

 ――だって、それじゃ納得しないでしょ。

 ――しない人もいるけど、そうですか、あるんですか、って安心する人もいるのよ。カウンセリングを受けにくる人って、何かにすがりたい人が多いの。それに対して、カウンセリングの主流は何も答えちゃいけないの。ただ、そうですね、って聞いてるだけなんだけど、これに関しては私は答えちゃう。

 ――邪道なんだね。

 ――そう。そうなんだけど、そういう時、私はそのクライアントの神様になってるのね。

 ――マギーが神だったのか。

 ――そうなのよ。だから、神って誰でもいいんじゃないかと思うことがあるわ。人間は誰かを信じたいでしょ。だから、信じるのよ。そう考えれば、科学も神の一種よね。だから、ものがあるかどうかっていうのは、結局は信じるかどうかにしかならないんじゃない?

 ――うーん、それは難しいなあ。そうすると僕は、どうなるんだ?でも、僕がそのじいさんに会ったのは、本当だったんだけどなあ。

 ――そうでしょ。それに、そのメッセージを書き移したのもほんとでしょ。『光輪』もほんとだし、キヨの不思議な能力だって認めるわ。それはそうなのよ。

 ――そうなの?

 ――そうでしょ。

 ――うん。そうだけど。・・・そうだなあ。

 ――それで、そのあなたが世界の中心だっていう話、続けてよ。

 ――ああ・・・それでつまり、『神』が現れたあとだね。・・・それで、僕はようやく世界の中心になったらしいとは思ったんだけど、でもそうはならなかった。

 ――中心じゃなかった?

 ――なかった。かえって、そうじゃないらしいということが分かった。すべてがうまくいかなかったからね。

 ――宗教家がうまくいかないっていうのは普通でしょ?迫害を受けるのが神の試練だったりするのは。

 ――僕は宗教家じゃないよ。・・・それが確かに失敗のもとだったんだけど。僕は中心になるはずだ、なるはずだと思い続けたんだけど、実際には何も変わらなかった。小学校のころの騒ぎは、多分一年間くらいだったんじゃないかな。それから先、僕はまた普通の生活に戻った。中学の時には、もう僕の『神』のことを知っている連中は回りにはいなかった。不思議だけどね、引っ越して少し離れたところの中学に入ったから、誰も知らなかったんだ。・・・今考えればそんなはずないんだから、きっと何人かの人は知ってたと思うんだけど、そういう風に感じたことは殆どなかったね。・・・それをもう一度思い出したのは、高校の二年になってからなんだ。小学校の時のともだちが、転校してきたんだ。アメリカからね。何年かアメリカに行ってて、偶然なんだけど、僕の学校に転入してきたんだよ。彼は当然知ってるから、あれをやれ、やれと言うわけ。それで、結局学校の文化祭でやったんだ。

 ――文化祭?

 ――学校を公開して遊ぶ日さ。そこで『光輪』と伝言の披露をやったんだ。最初は正式にやろうとしたから、宗教的な活動は認められないっていう学校と対立したんだけど、『隊長』って呼んでたそのともだちはそういうのが好きなヤツだったから、かえって燃えちゃってね、最後はゲリラ的にやったわけ。面白かったよ。クラスのテーマ自体はまったく関係ないものにして、・・・「アフリカ探検」というのでね、教室をジャングルの迷路にしたんだ。入口で生徒にマリファナクッキーを配る。結構複雑な迷路だから、抜けるのに十分以上かかるんだ。そこでそろそろもうろうとしたところでようやく迷路を抜けると、そこに僕がいて、『光輪』と伝言をやるの。先生が来た時にはもちろんクッキーと『伝言』はやらないから、学校側には分からない。

 ――マリファナクッキー。

 ――そう。前にも話したけど、日本ではマリファナ取締りはすごく厳しいんだ。だからかえって、みんな匂いとかかいでも分からないんだよ。もちろん生えてるのを見ても分からないんだけど、実は生えてるところがあるんだよね。それを昼間堂々と取りにいった。それを入れてクッキーを焼いたわけ。

 ――効いたでしょ。

 ――だろうね。

 ――でも、なんのためにやったの。宗教的な恍惚でも得ようというわけ?

 ――そこが今一つはっきりしないんだけど、『隊長』としてはそういうことだったんだろうな。・・・そこまで考えてなかったっていうのがほんとかな。何か面白いことやろう、っていうのが出発だったから。『隊長』っていうのは、子どもの頃からガキ大将だったんだよ。そして、何か事件を起こすのが好きだったんだ。

 ――じゃ、別に宗教には関係ないんだ。

 ――そう、その時はね。でも、あとで『教団』を作ったのは、その『隊長』だよ。

 ――ああ、分かったわ。その人ね。・・・で、その時はどうだったの、結果は。

 ――結果・・・は、別に、大したことなかった。僕としては一世一代の大仕事っていう気持ちだったんだけど、実際にはどうにもならなかった。ショックだったよ。いつも思ってたわけじゃないけど、僕には『神』がある、だから僕は特別だっていう思いはあったんだ。それが否定されたようなものだったからね。

 ――ううん。それで?

 ――それで・・・それで、大学に入ってから、『教団』にすすんだということだったかも知れないね。

                   9                   

 段ボールで囲まれた暗いジャングルの奥だった。半分しか乾いていない塗料の匂いと、だれかが大量に持ち込んだ竹の葉の匂いが奇妙だった。廊下のざわめきが奇妙なほど遠くから聞こえる。『隊長』のマリファナクッキーのせいで、遠近が歪み、自分のいるのが教室だとはとても思えなかった。

針金で吊り下げられた緑と茶を塗りたくった段ボールが、波のような規則性を保って揺れていた。みつめているとその波はどんどん増幅され、やがて床までがうねりのなかに取り込まれていく。大きく小さく、うねりは音楽のように流れて消えていった。様々な色が、集まり、別れ、混じり合った。

 誰かが近づいてくる。カサカサ、ジャングルを模した紙の葉がざわめく。ぶつぶつと呟く声が聞こえる。そして、姿が見える。制服を着た男子学生だ。

 「一、体を鍛えること。」

 清孝は重々しく言った。白いシーツをまとった彼の姿はフットライトに照らし出され、神様そのもののように浮かび出ているはずだ。明るい草原から暗いジャングルに入り、その奥の光の中に清孝は立っている。すべては『隊長』のアイデアだった。

 「え、なんだよそれ。クイズ?」目をとろんとさせた高校生が首をひねる。「いやー、よかったよ。結構複雑だよな、この迷路。よく出来てるよ。」

 「二、肉はなるべく食べないこと。」

 「お前、斉藤だろ、三組の?なんか、うまく出来てるなあ。頭の上のそれ、きれいだ。よう、なんとかいえよ。俺なんか気分悪いよ。いや、気分いいのかな。よくわかんねえや。ふわふわしててさ。」

 「三、清潔にすること。」

 「清潔?清潔・・・清潔が空飛んでるよ。フワフワって。見えるんだなあ、清潔って。よお、斉藤だろ?返事しろよ。」

 「四、困難は自分たちの力で切り抜けること。」

 「こんなん・・・?粉?『ん』がふたつあるときれいだ。お前、美しいよ。何言ってんだ俺?」

 「これらを守ったものは至福を見るであろう。」

 「至福って・・・ジャングルの中か?これ段ボールだろ、上からぶるさげてあるんだよな。うまく出来てるよ。これ、シフクだよ。・・・おい、なんとか言えよ。クイズ?答え?イエス・キリスト!違う?わかんない。なんかくれるの?あれ、今のがなぞなぞだったのか。もう一回言ってくれる、俺ちゃんと聞いてなかったから。この迷路複雑だよな、よく出来てる。」

 「・・・。」

 「なに、もう駄目なの?面白かったよ、もう一度来るから。なーんか、気持ち悪いよ。ちがうな、気持ちいいのかな・・・。」

 だれも清孝の『伝言』など聞いてはいない。しかし、清孝だってなんのためにやっているのか分かっていないのだから、それはそれで構わないのだ。要するに、小学校の頃のケンキンと同じことだ。アトラクションなのだ。

 それでもよかった。それよりも不思議だったのは、目の前の相手がだれであれ、あるいはその人が聞いていようがいまいが、とにかく『伝言』を口にすると気分がいいことだった。それは始めての経験だった。小学生の頃、そんな快感を感じた覚えはない。それ以降は・・・それより後には『伝言』自体言ってみたことがほとんどなかった。なんとか忘れようとしていた時期もあるくらいだ。『伝言』が昔から気持ちよかったかどうか、思い出そうにもその経験そのものがなかったのだ。

 気持ちよさは、たとえば歌を歌うときと似ている。誰かが評価してくれればとてもうれしいのだけれど、そうでなくとも歌うのは気持ちいい。歌っていれば、自分が気持ちいい、『伝言』もそれと同じだった。まして、それなりに聞いている人がいれば、もっとうれしいものだ。

 次が来た。小学生の女の子三人組だ。

 「一、体を鍛えること。」

 「え、なに、この人。」

 「見て、スリッパ履いてる。」

 「行こうよ、あっちが出口だよ。声が聞こえるもん。」

 「二、肉はなるべく食べないこと。」

 「肉は食べないことだって。」

 「学校の先生みたい。」

 「違うよ、学校の先生なら、肉を食べなさいって言うじゃん。」

 「そうだけどさ。」

 「三、清潔にすること。」

 「衛生検査だ。」

 「衛生検査だ、衛生検査だ。」

 「ねえ、いこうよ。私もう出たいよ。このお兄さん、きっとあとでおどかすんだよ。お化けやしきみたいに。そうでしょ。きっとそうだよ。」

 「四、困難は自分たちの力で切り抜けること。」

 「やっぱり学校の先生だよ。」

 「行こう、行こう。」

 「そうだね、行こう。」

 「これらを守ったものは至福を見るであろう。」

 最後を言った時には、三人はもう、竹の間を抜けて外へ向かったところだった。あーよかった、出られたね、面白かった。まーた来ーてねー。

 かさかさかさ。次だ。「一、体を・・・」

 「俺だよ、俺。ちょっと休憩だ。すごいぜ、盛況で。」『隊長』だった。日焼けした顔に短く刈った髪。背も高く、応援団長といった雰囲気で、結構すごみがある。転校生なのにいつの間にかクラスのリーダーになってしまったのも、ひたすらそのキャラクターのせいだ。「入口に五十人くらいの列ができちゃってさ、もうクッキーほとんどなくなっちゃったよ。木下たちが家で焼いて持ってくるって。でも、もうないんだよな、はっぱが。買ったらすごい値段だぜ、出血大サービスだ。」

 「今の子たち・・・」

 「あ、そう。分かった?あいつらには例のヤツやってないんだ。子どもだしね。やっぱ違う?」『隊長』が顔に似合わないいい声で言った。彼は軽音楽部のボーカリストでもある。英語が喋れるのが強みだが、歌も確かにうまい。なにをやっても、『隊長』はうまくて目立つ。

 「相当ハイになってるのもいるね。さっき来た奴なんか今にも泣き出しそうだった。感動してたよ、完全に。目が輝いてた。でもあれちょっとやばいんじゃないの。あのまま先生のとこにでも行ったらばれちゃうよ。酔っぱらってるとでも思うんじゃない?」

 「そう思ってくれればいいじゃん。」

 「でも、誰かがおかしいなとか思って・・・」

 「大丈夫だって。マリファナの匂いがわかるセンコーなんていねえよ。」

 「そうだけどさ・・・。」

 「それより、俺ちょっと考えたんだけどさ。困難は自分たちの力で切り抜けること、っていうのがあるじゃん。あれ、お前は祈るなっていう意味だって言ったけど、違うんじゃないかと思うんだよな。自分たちっていうのは、神と人間って分けて考えるんじゃなくて、人間のグループで考えていいんじゃないか。」

 「なに、『隊長』、本気で神とか考えてるわけ?」

 「面白いじゃん。本気だよ、もちろん。お前だってそうだろ。それに、俺たちが神様を持ってるんだったら、俺たちは他の連中より強いことになる。」

 「うん。・・・そうか?」

 「とにかくさ、俺のいいたいのは、自分たちの力で切り抜けろっていうんだから、自分たちの力を信頼していいってことだろ。神の世界に真実があるとか考える必要はないってことだ。それはつまり、自分の正しいと思ってることは遂行しろ、ととっていいじゃないかってことなんだ。」

 「ああ・・・そうか?」

 「な。だから、いいんだよ、今俺たちのやってるのは、まあ遊びだけどさ、結構正しいことなんじゃないかとも思うんだよ。」

 「正しいこと。」

 「正しいのっていいだろ。どうせやるならさ、正しいことをやってると思えば楽しいことも正しくできる。・・・ま、正しくやろうぜ。」

 じゃ、そろそろ再開な。『隊長』は近道をたどって、他にも何人か迷路の中にいる要員を激励するためにジャングルの中に戻っていった。

 『神』は本当にいるのだろうか?清孝はぼんやりとした頭で考えた。頭の中に染み込んでいた『伝言』が、いつもよりももう少し、しっかりした意味を持って頭の回りをまわっていた。すこししおれかけた木の葉の中にも『伝言』の意味が隠れているような気がした。それにしても、『隊長』の言った論理は正しいのだろうか。正しくなくても、正しいと思い込めばそれでいいのだろうか。清孝には分からない。分かったのは、『隊長』が『神』を意外に真剣に、論理的に考えているということだった。

 あの頃、『隊長』は、ほんとうは何を考えていたのだろう。あの頃だけではない。『隊長』は、『神』の存在をどの程度信じていたのだろう。さらに、『伝言』をどのくらい意味のあるものだと思っていたのだろう。

 当時の清孝にはまるで分からなかった。すべてはジョークなのか、意外にそうでもないのか。そして、今の清孝にも分からない。『教団』について、『隊長』は、どこまで本気だったのか。

                  10                  

 9月になって、クレアのアパートの一つが空いた。通称ツリーハウスという一軒家だ。一階がガレージになっていて、二階にベッドルームとリビング・ダイニング、それにオープンタイプのキッチンがある。リビングは、日本の基準で言えば二十畳以上あるだろう。外側をぐるりと広いバルコニーが囲み、ツリーハウスの名の元となった大きな楢の木がそのバルコニーを貫通してはえている。枝が屋根の上に広がって、家に傘をさしかけたような具合だ。肝心の雨のシーズンには葉が落ちてしまうので傘にはならないのだが、いかにも自然と一体になったつくりではある。外壁もアメリカの家には珍しく木肌そのままの色で、おしゃれではないけれどもログハウスの風合いを持っていた。

 ただし造りはよくない。誰が造ったのかクレアに聞いても分からなかったが、どう見ても素人造りで、板張りの壁や床のところどころからは隙間風が入ったし、レイニーシーズンには部屋中で雨が漏った。バケツや空き缶を総動員して、住人はその合間をぬって歩かなくてはならない。どういうわけか風向きによって雨漏りの場所が変わるので本やノートには必ずビニールを被せておかなくてはならなかった。

それでも環境といい広さといい、信じられないくらい素晴らしいアパートだった。なにしろ3エーカーの土地だ。バルコニーからは木々の間にクレアの住むメインハウスが見えるくらいで、その広々とした敷地と自然はまるで別荘地だ。家のわきにはレモンの木がはえていて欲しい時にはいつでもとれる。

 家賃がまた素晴らしかった。高いという意味ではない。その逆だ。二百ドル、一ドル百三十円で計算すれば二万六千円。二百円でも四万円。マギーの家では三人目のルームメイトが見つからず、ずっと二人で五百ドルを払っていたのだから、町から離れて車で行き来しなくてはならないという欠点を差し引いても充分お釣りがくる好条件だった。

 ツリーハウスという通称の由来。ツリーハウスというのは本来木の上に子供が作る小さな小屋のことだ。はしごやロープで上る仲間同士の遊び基地で、多くのアメリカ人にとってノスタルジックなものらしい。ハックルベリー・フィンとかトム・ソーヤーとか、あるいは子供の頃のサマーキャンプとかを連想させるようだ。もちろんこのツリーハウスは木の上に出来ているわけではなくバルコニーが逆に楢の木を取り込んでいるのだけれど、条件としてはよく似ている。楢の木を切らずに家を建てるという面倒なことをした人は、きっと子供の頃楽しい思い出を持っていたに違いない。そこで、ザ・ツリーハウスという名を付けて小さな表示板を張り付けたというわけだ。

 清孝は、食事作り、皿洗い、掃除に洗濯、なんでもやる。マギーがフェミニストだからではない。二人でこうして住むのには、それが自然だった。なにしろ清孝の方は芝刈りのアルバイトも少なくなり、暇な時間が多い。彼は正式な留学生ではなくて観光ビザを更新し続けているだけだったから、大学もフルタイムでは通えない。それを通えるようにするにはテクニックが必要だった。

 大学の受付で、彼は地域住民になったのだ。カリフォルニアのコミュニティカレッジでは、入学時に高校卒の資格は特に必要としない。ということは、どこの人間であるのか、どんな人かということは問わないということで、書類に書き込むことだけがすべてなのだ。地域住民であるという欄にチェックすれば、それで終わりだ。ちょっとした書類偽造だが、ともかくその御陰で彼は学生になれた。もともと目的があってアメリカに来ているわけでもなかったのだから、それがなければ清孝としてもつらいところだったろう。

 週に三回、半日づつコンピューターのクラスに通い、教養クラスでもあるバンドに参加し、人類学202というクラスでアメリカインディアンについての講義を受け、それ以外はアルバイトと家事という生活だった。

 

 マギーがシャワーに入っている間に清孝がハワイアン・ブレックファストを作った。

 卵が黄色くてトロピカルだ、というわけではない。しゃれた名だけれど、ようするに卵かけ御飯だ。卵をフライパンに落とし、黄身をフォークの先でつついて半分壊れた目玉焼を作る。完全に固まる直前に拾い上げてそれを夕食の残りのライスの上にのせる。それで終わりだ。あとは醤油をかけ、フォークで混ぜ合わせて食べる。清孝が以前日系二世の女性に教わったもので、ハワイの日系人が朝食べるのだそうだ。本当かどうかは分からない。ちなみに『ミソ・ブレックファスト』というのも教わった。味噌を小麦と混ぜて煎り、御飯にかけて食べる。ハワイアンが卵かけ御飯なら、こちらは味噌汁かけ御飯だ。試してみたことはない。

 ――今日はちょっと遅くなると思うわ。明日までにレポートをまとめなくちゃならないから、そのチェックがあるの。

 ――OK。構わないよ。夕食先に食べてる。

 ――夕食はなに?

 ――『クレアスープ』が来ると思うよ、火曜日だから。

 クレアスープというのは、彼女が毎週作る、イタリアのガスパッチョに似たスープだ。ホールトマト缶をベースにして、とにかく野菜ならなんでも煮込む。レタスでもセロリでも、カブに似たターニップでもきゅうりの親戚ズッキーニでも、小さく刻んでゆっくりと煮る。キドニー・ビーンズも入ってるから、栄養価も高いベジタリアンメニューだ。ただし、クレアは別にベジタリアンではない。彼女はこれと厚いハムステーキを組み合わせて食べる。

 ――ああそうね。スープの日ね。素晴らしいわ。

 ――彼女が忘れなければという条件付きでだけど。まさかこっちからは言えないし。

 ――それじゃ困るわ。欲しそうな顔してお鍋をのぞいてきてよ。これおいしいんだよねとでも言って。マギーも好きなんだ、とか。

 ――出来る限りやってみるよ。

 ――そうよ。楽しみにしてる。そしたらワンダーブレッドの安売りを買ってくるわ。

 ――OK。

 マギーは自分のワーゲンワゴンで慌ただしく出掛けて行った。清孝はまず皿を洗い、ゴミをまとめると庭に出る。ゴミを捨てがてら庭のチェックだ。

 外の道路に続くドライブウェイでは生け垣の枝が伸びていた。高さ五十センチくらいのところで平らに切り揃えるヘッジングというヤツだが、あちこちに伸びていていがぐり頭のようだ。クレアは見ていないようでいて結構見ている。もうこれ以上は放ってはおけないだろう。あとで手入れをすることにしよう。

 リスがドライブウェイを横切った。一旦真ん中で止まり、立ち上がって清孝の方を見て、それから走り去った。シマリスのような可愛いリスではなく、灰色リスという子猫ほどの大きさのやつだ。楢の木をすみかにしていて、朝になると屋根の上で走り回る。天井のないツリーハウスの屋根は特に響く。クレイジーマンかインベーダーかポルターガイストか。最初の朝、清孝とマギーは、ベッドの上で抱き合って息をひそめていたものだ。

 そのポルターガイストには、ベランダの楢の木の下で出会ったのが最初だった。清孝とマギーが出てきたので急いで木にかけ登ったのだが、逃げてはいかない。人間の手の届かないところに後退してキーキーと歯をむきだして鳴く。威嚇しているのだ。今にも飛びかかられそうで――まさかリスが人を襲うこともないだろうが――あまり気持ちのいいものではない。そこで二人は先住民に敬意を払うことにした。御機嫌を取るためにテラスのテーブルの上にむいたウォールナッツを置いてみた。しばらくするとリスが二匹下りてきて、それを口一杯に頬張って帰っていった。効果のほどはわからないが、それ以来それほど敵意を抱かれなくなったような気がする。マギーは今でも時々ウォールナッツを置く。今のリスもきっと、いつもマギーのナッツを食べているやつだろう。

 ドライブウェイから庭の方に折れる。角にごみバケツが四個置いてある。そのひとつにぶるさげてきたゴミを入れた。ニュワー、奇妙な声をだして一匹のネコがすり寄って来る。『ゴミちゃん』、またの名を『ミスター・トラッシュ』。白黒ぶちの元ノラネコだ。今では庭の真ん中の『カバーニャ』と呼ばれるアパートに住むカップルが定期的にエサをやっているし、おとなしいし人なつこくてすぐにすり寄ってくる。ただ、ノラネコ時代を懐かしんでかこのごみバケツ――トラッシュカン――が好きらしく、いつもこの上で暮らしている。名前の所以だ。つけたのはマギーで、和訳したのが清孝だが、クレアウィンも他の住人も、みんな『ゴミちゃん』と呼ぶようになった。日本語の勝利だ。

 この庭には全部で四匹のネコが住んでいる。このゴミチャン、二軒が合体したようなアパートハウス『ツインハウス』の南側の方に住むカップルの飼う親子のシャムネコ、それからおもに清孝らの『ツリーハウス』を根城にしているチェルシーの四匹だ。チェルシーのエサはウィンがやっているのだけれど、どういうわけか『ツリーハウス』が好きでよくうろうろしている。じねずみを捕って来るのがうまくて、夜中にそれをくわえて来てはドアをかりかりやる。清孝らに見せにくるのだ。清孝らが見てやると安心して食べ始める。時に頭を残して行くのが掃除係である清孝の悩みだ。

庭のあちこちに、スズランを大きくしたような葉が伸びてきている。クレアがグリーンデビルと呼ぶ草で、本当の名はなんというのか分からない。根が茎のように深くはっていて、生命力が驚くほど強い。夏には赤い不気味な花を咲かせ、それが終わるころにはまたたく間に広がってしまう。

 芝生の広場にこれが入り込むとやっかいだ。抜いても抜いても生えてくるから、根から掘り起こさなければならない。それが成功したとしてもそこの芝生は当分駄目になるし、完全に駆逐することは殆ど不可能だ。同じように芝生を駄目にするタンポポをアメリカ人はデビルズフラワーと呼ぶ。そこでグリーンデビル。少しでも減らすのが庭管理人の仕事だ。効果ははなはだ疑問だけれど、やらないわけにはいかないだろう。今日の午後はここのグリーンデビル抜きだ。

 その時向こうで動く人影が見えた。クレアだ。薄いワンピース姿で、腰に片手を当て、もう一方を目の上に当てて上を見ている。両足をふんばって、こうしてみるといかにも頑丈そうに見える。このあたりが日本のおばあさんと違うところで、枯れたり悟ったりしたところがまったくない。おばあさんとは言ってもまるで違う人種のようだ。まったくその通りで、人種が違うのではあるのだけれど。

 ――ハイ、クレア。どうしたの?何を見てるの?

 ――ああ、ハロー、マイ・スイート・ディア。ほらあれよ。見て。あー、ふくろう。そうよ、ふくろうがあんなところに。

 ――ほんとだ。ふくろうだ。生きてる?

 ――さっき動いたんだけど、もう動かないわ。どうしたのかしらねえ。

 庭で一番広い芝生広場に面した太い楢の木は、かつて雷でも落ちたのだろうか、下から十メートルほどのところでその上がなくなり、庭を支える柱のような恰好で立ち枯れしている。幹だけ見るとなかなか頼もしいのだが、なんだか不思議な光景だ。

 クレアが見上げていたのはその楢の木のてっぺんで、確かに、ふくろうが置物のように立っていた。夕方大きな羽音をたてて飛び出すのを見たことはあったから住んでいるのは知っていたけれど、こうして朝方見るとは奇妙だ。一体どうしたのだろう。

 ――本当だ。なんだか変だね。・・・ところでクレア、今日はどう?

 ――ええ、素晴らしいわ。あなたはどう、マイ・ディア。

 ――OKさ。ゆうべはちょっとした騒ぎがあったけど。

 ――騒ぎ?

 ――そう。『ツリーハウス』わきのレモンがそろそろ大きくなってきたでしょう。それで僕が取ってきてね。

 ――そうよそうよ、どんどん取って使ってちょうだい。どうせ他には誰もとらないんだから。

 ――うん。それで、思い切って十個取ってきて、スライスして風呂に浮かべたんだ。

 ――お風呂にね?

 ――日本ではこの時期、英語での名前は分からないけど、甘橘系の果物を風呂に入れる習慣があるんだよ。体が暖まって健康になるっていって。

 ――それはよさそうね。私もやってみようかしら。

 ――ところがね、それが大失敗だったんだ。レモンって刺激が強いんだね。二人で入ったんだけど、体がチクチクして、そこで止めればよかったのに体にこすりつけたりしたの。そしたら大変、体中真っ赤になっちゃって、かゆくてかゆくて。

 ――あらあら。

 ――シャワー浴びてもだめで、体が腫れたような感じで。ローション塗ったけど、数時間は二人とも体よじってた。レモンの匂いが染みついたみたい。こうしてても匂わない? ――少し風邪気味だから分からないけど・・・それにしてもそれは大変だったわね。

 ――まあね、大騒ぎだったよ・・・。

 その時だった。目の隅の黒いものが空を横切った。アッ、清孝は空を見上げ、それから反射的に頭を腕で覆った。ふくろうが大きく羽ばたき、そのまま清孝とクレアの方に急降下してきた。降下ではない、翼を広げたまま落下してきたのだった。鳥が気を失うなんて聞いたことがないが、まさにそんな具合だった。頭にふくろうの翼が当たり、清孝は引っ掻かれるのか空に釣り上げられるのかと体を硬直させた。パニック状態だった。しかしクレアはもっと大変だった。ふくろうの体を抱き止めるような形になってクレアはその場に転倒した。

 ふくろうは翼を広げたまま地上をはっていたが、それどころではない。クレアはその場に倒れていた。眠っているようだった。清孝はクレアを抱きかかえて揺さぶった。クレア、クレア、大声で呼んだ。クレア、大丈夫?クレア、OK?

 大丈夫ではなかった。クレアは口を半分開き、目が開いたまま白目になっていた。大変なことになった。こんなことがあるんだろうか。体が震え、頭に血が上った。くらくらして清孝まで気を失いそうだった。こういう時は頭を下にするんだ、清孝はとっさに思ってクレアの頭を下ろした。そして足を上げるんだ。下に何か入れなくてはならない、毛布かなにか、昔貧血で倒れた女の子がそういう風に手当てされているのを見たことがある。それからまた思い直した。違う、クレアは貧血ではない。ショックで倒れたのだからこんなことをしても意味がない、とにかく病院だ。

 清孝はクレアを抱き上げた。思ったよりも重かった。足下を確かめながら歩くと意外に時間がかかった。足が震えて真っ直ぐに歩けない。早く早く、清孝はそれだけを思った。ようやく『カバーニャ』の前に来た。オレンジ色のニッサンサニーが停まっている。アンがいるんだ。そういえばアンはなんとかセラピストだった。清孝は大声をあげた。アン、いないの?アン、クレアが大変なんだ。出てきてアン。

 赤毛で大柄なアンが顔を出し、それから飛び出して来た。キヨ、どうしたの?大変、どうしたのクレア。事故?ふくろうがぶつかった?息はしてる?心臓も動いてるわね?けがはない?

アンはクレアの口のそばに耳をつけた。OK、大丈夫だわ呼吸は止まってない。あなたのところのワーゲンバンは?ない?じゃいいわ、私の車で行きましょう、後ろに寝かせて。今キーを持ってくるから。えーと、キーはどこだったかしら、そうだジャケットだったわ・・・。

 アンは頼もしかった。清孝がクレアを後ろの座席に寝かせている間に、アンは一番近い病院に電話していた。今すぐ行きます、準備お願いします。清孝がクレアの頭を抱きあげるようにして座り、アンが運転した。病院に着くまでがやけに長く感じられたが、実際には十分ほどだった。病院では玄関前に、白いユニフォーム姿の大柄な男性看護士二人と看護婦一人が脚付きの担架を持って待っていた。車が着くと同時に看護士が駆け寄り、クレアを軽々と担架に乗せた。あとはもう、することもなかった。

 清孝はほっとして、それからひたすら眠くなった。きれいな待合室で待っている間、清孝は本当に眠ってしまった。とりあえず心配ないと聞かされたのはそれから三十分ほどしてからのことだった。

                   12                 

診断はハート・アタック、心臓発作だった。ショックによるものだから意識が回復さえすれば問題はない、すぐにでも退院出来る。そう言われて清孝とアンはその日はとりあえず安心したのだったが、その後が大変だった。

 入院は長引いた。以前の脳卒中とは関係無いはずなのに、言語障害が一段とひどくなった。気力が出ないらしく、いつまでも起き上がれなかった。

 入院の間クレアの面倒はもっぱら清孝とアンがみた。足が悪いウィンでは病院に来ても足手まといになるだけだったろうし、ウィン自身も来たがらなかった。第一気がついてみると、ウィンは買い物にも一度も出たことがない。それどころか、清孝の知る限り敷地外に足を踏み出したことさえないのだ。

――もしキヨとアンがよければ、とウィンは例のシューシューいう発音で言った。――クレアの面倒は二人に見ていて欲しいんだけど。私はすることがたくさんあるから。掃除だけで半日かかるし、銀食器は毎日磨かないといけないし。

OK、と清孝は言ったけれども、考えてみるとそれも妙な話だ。使いもしない銀食器を、主人が病気だというのに磨く必要があるのだろうか?その疑問が解けるのはもっとあとになってからだ。その前に、クレアの家には異変が起こっていた。ある日突然、おかしな男が現れたのだった。

 クレアが入院して十日ほどたったある朝、『ツリーハウス』の前に青いピックアップ・トラックが止まった。マギーが出掛けた直後のことだ。ベランダでウェイトトレーニングのまねごとをしていた清孝が顔を出した時にはピックアップから出て来た男はもう、『ツリーハウス』一階のガレージを開けて中に入っていた。

 清孝はウェイトで心地よくだるくなった腕を振りながら下に降りた。白昼堂々と乗りつけてくる男が強盗だとはまさか思わなかったけれど、まともな人間でない場合にはそれなりの対応はしなくてはならない。清孝は体を緊張させながらガレージを覗き込んだ。小太りのセーター姿の男が棚の荷物を点検しているところだった。

 ――ハイ。えーっと、何か御用ですか。清孝は気楽な調子で、しかし威厳を失わない程度に声を抑えて言った。ヘルプという語のH音がうまく出なかったが、どうやら通じはしたようだった。しかし男はそれには構わず、清孝のことを上から下へと眺め回した。

 ――ハイ。君はここに住んでるの?黒い髪にやけに白い肌、薄く、不機嫌そうにへりが下がった唇。短くはっきりとした物言いは清孝をたじろがせた。

 ――そう、清孝はここの二階に住んでいる、清孝は言った。――この庭の管理も任されています。

 ――クレアにね。男は表情をまったく変えずに言った。

 ――そう、クレアに。清孝は言った。男はじっと清孝の顔を見つめる。なんだか居心地が悪かった。クレアを呼び捨てにするくらいだから、少なくとも勝手な侵入者でないことは分かったが、それにしても態度が横柄だ。何かの業者でもないようだし、一体何者だろう。

 三十過ぎくらいだろうか、それほど年取っているわけではないのに大きな距離を感じるのは、清孝がよく知っているイージーゴーイングな学生たちとまったく違うからだった。スクエアだ。とても「まとも」で、自分の世界を築きあげているオトナだった。

チコの住民の半分は学生で、あとの半分の多くも元学生だったり半学生だったりするから、どこへ行っても気楽な気分に満ちている。一歩町を出ると、今度は日焼けしたファーマーが住み、そのどちらもスクエアとはかなり掛け離れた存在だ。清孝にとって気安い存在でもある。しかしこの男は違った。保守的で、まともだ。清孝はあまり会ったことのないタイプだった。そして多分、東京ではマジョリティを占めるタイプだろう。清孝が苦手とする種類の人間でもある。

清孝は困っていた。何を言ったらいいか分からなかった。そんなしばらくの沈黙のあと、男はそれを払いのけるようにパン、パンと手をはたき、それから右手を清孝に差し出した。

 ――私の名前はボブ・ゴッドスピード。ここの所有者だ。

 ――所有者?清孝は聞き返した。意味がよく分からなかったからだ。

 ――そう、所有者。私がこの土地を所有してるんだ。

 ――あなたが・・・所有してるって?だけど、クレアは・・・。

 ――彼女はここに住んでる。それだけさ。

 ――だって・・・。

 清孝は首をひねった。清孝は家賃を確かにクレアに払っている。この庭の管理代はその中から差し引いてもらっている。このアパートが空いた時に入るよう取り計らってくれたのもクレアだし、契約書こそかわさなかったけれど、ほかのオーナーがいるなどという話は一度も聞いていない。それは・・・一体どういうことだ?

 ――クレアは私の叔母にあたる。だからここに住んでる。だけど彼女は法的な所有者じゃない。法的な所有者は私なんだ。

 ――ああ・・・。なるほど。清孝は言った。I see.ちっとも話は見えなかったけれどもそれ以外の言葉も思い付かなかった。

――このガレージにある物もみんな私のものなんだ。あそこに本があるだろう?あれはみんな、私が学生時代に読んだ本だ。クレアがだいぶ動かしたみたいだけれど・・・。

 指差した方向を見て清孝はドキリとした。そこには確かにかなりの本があった。結構新しい小説もあったし、『ハンドガン・ダイジェスト』とか『シェラネバダの植物』とか『野生カモハンティング』などというタイトルもあったからクレアの本だとはまさか思っていなかったけれど、それでも何冊かそこから抜き出して読んだりしていた。しかし、勝手にやったわけではない。クレアがいいと言ったのだ。ガレージの物で使える物があったら自由に使っていいわよ、クレアは言った。セカンドハンド・ショップに行って売ったりさえしなければね。

 ――ええと・・・。そこにテレビがあったけど・・・。

 ――ゼニス社のカラーテレビ。あれも私のさ。持ってるのか。

 ――そう。申し訳ないです。今、上のベッドルームに置いてある。知らなかったんだ、クレアが持っていっていいっていうから・・・。

 ――それはOKさ、ボブ・ゴッドスピードは表情も変えずに言った。――使わないからガレージに入れて置いたんだ。でも、映ったかい。かれこれ十年以上前のだけれど。

 ――大丈夫、画面の下半分がつぶれて、モーガン・フェアチャイルドの脚も短く映るけどね、清孝は言った。ボブが初めて笑った。清孝はちょっと考えて思い出した。埴輪だ。なにかの写真でみた、埴輪の口を縦にむりやり伸ばしたような笑いだった。

 ――ともかく、とボブは言った。――キミは気にしなくていいよ。私は自分のものを取りに来ただけなんだから。

 ――はい、分かった。清孝がそう言うと同時にボブは後ろを向いた。話は終わり、の合図だ。清孝はまだ釈然としないまま、引き下がらざるを得なかった。

 その日、ボブ・ゴッドスピードは、あれこれガレージから引っ張り出し、ピックアップ一杯の荷物を運んでいった。それだけではない。『メインハウス』のリビングルームにあったカウチやコーヒーテーブルも運び出した。ウィンと話しながらだから盗んで行ったわけではないのだろうが、それにしてもなんとも奇妙な具合だ。クレアが入院したのを見計らって取りに来たとしか思えない。それに、もしも本当にこの土地の正当なオーナーなのならば、どうして今まで現れなかったのだろう?どうして家賃がクレアのふところに入るのを許しておくのだろう。ウィンに聞いてみてもはっきりせず、どうにも解せないことばかりだった。

                 13                   

 ――具合どう?清孝はいつもどおりに挨拶した。血色はいいけれど、化粧っ気もなく伸びきった髪をたばねただけのクレアは普段よりずっと年取って見える。はだけた胸の皮膚はたるんでいて、まさに老女のそれだ。清孝の視線を感じたのか片手でパジャマの襟を立てて隠したけれど、その動作も妙に間延びしていた。

 ――ハイ、ディア。あなたこそどう?クレアはゆっくりと言葉を探しながら言った。――それにマギーはどうしてる?そうそう、マギーは昨日も来てくれたわよ。忙しいそうなのにね彼女も。

清孝はクレアが差し出したクッキーをひとつ口に入れながらうなずく。オランダ・エルケン社のアソーテッドクッキー、クレアの大好物だ。マギーが持って来たものだとしたらつい昨日のことなのに、もう大きな缶の半分ぐらいしか残っていない。クレアが一人で食べたのだろうか。すごい食欲だ。

 ――コーラ持って来たよ。清孝はダイエットコーラの六本入りカートンを差し出した。 ――ああ、ほんとにありがと、マイディア、よく気が付くわ。クレアは『you 』に他の三倍くらいのアクセントをつけて言った。――この病院はひどいのよ、私がコーラ好きなの知ってるくせに、なかなか飲ませてくれないの。禁止されているわけじゃないのよ、ただめんどうだからなの。

クレアはゆっくり、ゆっくりと文句を言った。飲ませてくれないというのはどういうことだろう、個室で冷蔵庫も看護婦もついているのだから、飲ませてくれないということもないだろうに。そう思うが事情はよく分からない。ひとつのことを聞くと、答えを待つだけでその十倍の時間がかかるのだ。

 それにしてもクレアはコーラが好きだ。清孝も好きだけれど、彼女のはいささか度を超している。中毒と言ってもいいくらいで、夏には五百CC入りのビン一ダースのカートンがほぼ一週間でなくなってしまった。一日1〓近く飲んでいる計算だ。気温が下がってようやく減ったけれど、それでも毎日一本は確実に飲んでいる。

 そういえば夏の暑さがようやくおさまった頃のことだった。まだチコに住んでいた頃のことだ。ある晩クレアから電話があった。ひどく取り乱した声で、今すぐ来られないだろうか、と言う。用件を聞いても言わない。清孝は夕方からビールを二缶ほど飲んでいて動きたくなかったけれど、クレアがそう言うから仕方がない、コーヒーを飲み、頭を叩きながら車を運転してデュラムまで来た。そうしてやっとの思いで『メインハウス』につくと、クレアがそわそわしながら言った。『マイディア、私はほんとうに困ってるの、助けてはくれないかしら。コーラをね、一本落として割っちゃったの、そしてそれが最後の一本だったのよ。もう無いの、明日昼あなたと買い物に行くまで、一本もないのよ・・・。』 清孝がチコのダウンタウンの24時間ストアまで――デュラムのストアは夜七時までの営業だ――買いに行ったのは言うまでもないことだ。『どうもありがとマイ・ディア』クレアは言った。『コーラ無しで一晩過ごすのかと思ったら気が狂いそうだったわ。』

 枕元にはインテリア専門誌が何冊か重ねてある。それからクレアの好きなジタン香水が一瓶。以前二人であちこち訪ね歩いてようやく見つけてきたものだ。値段は香水としては大したことはなかった。もしかするとかなり大衆向けのものなのかもしれないが、クレアは喜んだ。スペインの市場で擦れ違った女性の匂いがする、とクレアは言った。ただし今、瓶には半分も入っていない。クレアは買って来た晩にあおむけのままで匂いをかごうとして自分の顔に浴びてしまった。なにしろ揮発性の液体だから大変だ。クレアはすっかり風邪を引いてしまった。年取るとほんとに情けない、とクレアは繰り返した。まさかそんな馬鹿なことで風邪ひいたなんて言えないじゃない。おかげで好きな香水が少しだけ嫌いになったわ。

 例のクッキーの缶。まが玉のような形をした、カラフルなジェリービーンズのボトル。たいしておいしいものではないと思うのだが、クレアは好きだ。それからクレアの古い写真が入った大きな紙箱が三つ。殆どはスペインでのもので、クレアが病院で整理すると言うので清孝が持って来た。

 クレアはボールペンとメモ用紙を手に持って、マーケットの広告ビラを見ながら買い物リストを作っているところだった。買い物をするのはもちろん清孝。ここにいれば必要なものは大してないはずなのだが、クレアにとってはそうはいかない。彼女には買い物だけが外界との唯一の接点なのだ。

 ――こういう形の、木のフレームが欲しい。クレアはそう言いながら図を見せる。以前買ったのは普通の形だったが、今度のクレアの図は殆ど真四角だ。

 ――OK。こういう形の木のフレームね。でも、何を入れるの?

 ――この写真。クレアが差し出したのは、確かに真四角の写真だった。クレアが右端に立っている。その右が切られているので真四角なのだ。そこに誰がいたのだろうか、クレアが言わない限り聞かないのが清孝だ。

 ――スペインだね。

 ――そう。この丘は・・・えーと、えーと、んー、トレドの、毎日行ってたのよ、景色が抜群によくて・・・あー思い出せない、damn!

 ――いいところみたいだね。後ろに見えるのがトレドの街だね。

 ――えーと、えーとね、・・・ああ駄目だわ、こんなに好きだったところが思い出せないなんて、damn, クレア!彼女は自分を怒鳴りつける。

 ――今度地図かなにかで調べてくるよ、清孝は急いで言った。これを始めると色白の顔が興奮で赤くなってくる。そうならないうちに忘れさせてあげた方がよい。

 ――そうね・・・。毎日行ってたのよ、本当に毎日。とってもとっても好きな丘だったのだけれど・・・。

 ――OK。それから、他に買う物は?

 ――ええと・・・ああそうね、ええと、クラッカー・ジャックが食べたいわ。知ってるわよね、クラッカー・ジャック。

 ――もちろん。クラッカー・ジャックというのは商品名で、ポップコーンをキャラメルコーティングしたようなお菓子だ。クレアの大好物で今までにも何度も買いに行っている。

 かつてクレアは、大発見をしたかのように言ったことがある。『あのね、クラッカー・ジャックは体にいいのよ。コーンというのはとてもいいってラジオで言ってたわ。クラッカー・ジャックはコーンで出来てるのよ。』運動不足で太り気味のクレアにキャラメルコーティングの糖分がよいわけはないのだけれど、クレアはそれ以来そう信じこんでしまった。あるいは信じているふりをしているだけなのかもしれないけれど。

 ――わかった、クラッカー・ジャック。メモに書いてあるね。それから?

 ――それから電池二本。サイズはAAかしら?・・・あなたの方が分かるわね、このラジオの電池よ。どうも最近聞こえにくい気がするの。

 ――3Aだけど、この前換えたばっかりじゃない?まだ大丈夫だと思うけど・・・まあ念のために買っておこうか。それから?

 ――それからこの、プランティン固形肥料。持って帰ってサンルームの植木にやってちょうだい。クレアはビラの写真を指差す。

 ――前のがまだたくさん残ってるよ。

 ――そう?でもいいわ、これ安いから買っておいてちょうだい。

 ――OK。それから?

 ――それからね・・・

 クレアの買い物メモは延々と続いた。清孝は彼女の書いているメモを見ながら相槌を打つ。反対するような事柄でもない。クレアは買いたい。それが一番重要なことだ。

 以前マギーと口論したことがある。キヨはクレアの言うことをハイハイ聞きすぎる、とマギーは言った。『無駄遣いしそうになったらアドバイスしてあげるのがほんとの友人でしょ。言われた通りにするんじゃ召使と同じだわ。』

 そんなことはない、と清孝は言った。『クレアのは無駄遣いじゃないんだ。お金を使うことで社会に関わっている感じが得られるんだから、それでいいんだ。そんなことにまで口をはさんだらかわいそうだよ。』

『そんなことないわよ。それは妥協よ。そんなことでしか社会と関われないなんて、人生から逃げてるんだわ。』

『逃げてる?クレアがどこから逃げてるって?逃げ場なんてないだろう。逃げ出すべきところもないんだから。』

 ――・・・それから?

 ――今日はそれでおしまい。たくさんあるけどよろしくね、なにしろ買っておきたいものばかりなのよね。

 ――分かった。まかせといて。

 ――ところで家の方はどうなってる?大丈夫かしら。

 ――そうだね。清孝はクレアの顔を見た。とても機嫌がよさそうだった。これ以上気分のいい時はないというくらいの顔をしていた。そこで清孝も気分がよくなり、言わないつもりだったことを口にしてしまった。――隠しておこうかとも思ってたんだけど、この前ある人が『ツリーハウス』に来たよ。誰だと思う?ボブ・ゴッドスピードっていう人。クレアの甥にあたるんだって?

 ――ボブ・ゴッドスピード。途端にクレアは顔をしかめ、ゴッドの頭のGとスピードのSをことさらに口を歪めて発音した。後悔したがもう遅い。その話はクレアには伏せておいた方がよいという点ではマギーとも一致していたのだが。

 ――ボブが来たのね。あなたのところへ?なにか取りに来たんでしょう。クレアは言った。

 ――まあね。だけど別にそんなにたくさん持って行ったわけじゃないよ。あ、ちがうちがう、二階のものはなにも持ってってない。一階のガレージのだけ。

 ――彼はそんな権利持ってないのよ、クレアは強い調子で言った。――一階でも二階でも、あそこにあるものは全部私のものなんだから。

 ――うん。・・・なにか、自分の本とか言って・・・。

 ――ボブの本があるのは知ってるわ。でも動かす権利なんてないのよ。みんな私のなんだから。

 ――うん、そうだね。

 ボブが『メインハウス』のカウチを運びだしたことなどとても言えなかった。退院して家に帰った時にクレアがどんなに怒るか心配ではあったけれど、それでも言えるような様子ではなかった。

 ――あの、ならず者。クレアは小声で、しかしはっきりとそう言った。――地獄へ行けばいいんだわ。

 じゃあね。清孝は聞こえないふりをして急いで買い物にでかけた。クレアはなおも何かつぶやいていて、清孝が部屋を出るのも気付かない風だった。自分の気持ちの中に沈んでしまったような様子で、十才も年をとったようだった。

 ――それでどうしてた?キヨがもう一度病院へ戻った時。

 ――なんてことなかった。もう忘れてたようだったけどね。

 ――そんなわけないでしょ。

 ――そんなわけ、ないね。ほんとに忘れてたらかえって心配だ。

 ――・・・それにしても、クレアの具合はどうなの。どこが特に悪いってことはないんでしょう。

 ――そのはずなんだけど。入院なんかしてないで、むしろ運動しろと医者には言われてるんだけどね。

 ――無理にでも連れだしちゃったら?

 ――クレアが居たいっていうんだから、いいんじゃないの。

 ――それ、よくないと思うなあ。結局クレアのためにならない。

 ――好きなようにさせてあげればいいんだよ。病院にいたければいさせてあげればいいよ。自分の体のことは、自分が一番分かるんだから。

 ――そうとは限らないわ。他人の方が分かることだってあるわよ。

 ――とにかく今は駄目だ。帰ってカウチとコーヒーテーブルがないことを見つけたらひっくりかえるのは目に見えてる。

 ――それに関しては賛成。ボブってひどいわよね。今度来たら、あれだけでも返せって言ってやったら。

 しかし実際にはそれどころではなかった。その何日か後、ボブ・ゴッドスピードはまたやって来て、今度は『メインハウス』のゲストベッドルームのエクストラベッドやらしゅろの鉢植えやら、やたらに大きなものを持って行ってしまった。ファミリールームの食器棚もだ。清孝はいなかったので状況がよく分からないのだが、アルバイトだかなんだか、若い手伝い二人を連れて来たらしい。そればかりではない。庭の物置からは清孝が庭を掃除するのに使っていた伝動カッターも、枝を払うのに使ったチェーンソーまで持って行った。他にもなにやかにやと持って行ったらしく、『ツリーハウス』のガレージも一挙に片付いてしまった。

 ウィンはこう言った。――ボブは食器棚の上にあった銅のお鍋も持って行ったわ。シチューを作るときにはいつも使ってるものだったのに。それとも今度来るときにシチューを入れて持って来てくれるつもりなのかしらね。

 清孝が知る限り、ウィンの最初で最後のジョークだった。

                                   

                  14                  

 秋も深まり、クレアの庭は落ち葉で埋め尽くされていた。ウォールナッツの大きな葉も、楢のクシャクシャになった手袋のような葉も、毎日庭に落ちた。芝生の広場も放っておけば二日で木の葉に埋まってしまう。清孝は落ち葉を掻き集め、車が通れる通用路まで一輪車で運び、そこから古いトレーラー付きの車で裏の方に運ぶという作業を繰り返していた。クレア以外には歩く人もいない庭だけれど、それでも清孝はさぼらなかった。彼が手を抜いたら最後、この庭は森になってしまう。清孝はクレアに頼まれたのだ。そうするわけにはいかなかった。

木の葉だけではなかった。木の枝もまた随分と落ちた。

 一度はドライブウェイを横に塞いでしまうくらいの枝が落ちたこともある。直径で二十センチもある楢の枝だ。人や、そうでなくても建物の上にでも落ちたらおおごとだったろう。清孝はいなかったのだが、ツインハウスに住むメキシカンのマリア=ルペは、雷が落ちたのかと思った、と言っていた。だって、すごい音だったのよ。ガリ、ガリ、って音がしたかと思ったら、それからガラガラガラーン、グワシャーンて上の方で鳴るでしょ。私は家の中でチリコンカーン食べてたんだけど、スプーン持ったまま飛び出しちゃったわ。屋根の上に火でもついたんじゃないかと思って。見たら青空じゃない。屋根はどうにもなってないし、びっくりというより、怖かったわ。ポルターガイストかと思ったから。ポルガーガイスト、知ってるでしょ。映画見た?そう、それよ、それ。ほっとしたわ、木の枝だとわかって。私が外にいる時でなくてよかったって気付いたのはその後。ぞっとしたわ。そうだったらもっと怖かったわね、ポルターガイストよりずっと怖かったわ。

 普通だったら当然、アパートの大家か、でなければ管理人に連絡するところだが、今はどうしようもない。ドライブウェイはメインハウスとツリーハウスの他にツインハウスの二軒の住人も利用している。その枝の処理も当然清孝の仕事になった。枝をチェーンソーで四つに切断し、それから運ぶのはほとんど半日仕事だった。なにしろ、いいチェーンソーはボブが持っていってしまい、残っていたのは歯が半分欠けたような古びたものだけだったのだから。

 クレアは快方に向い、来週には退院というところまで漕ぎつけていた。実は来週まで待たなくても、医者によればいつでも出られる状態ではあったのだが、クレアが、自信がない、もう少しいたい、と言い続けていたのだ。本当のところは分からなかったが、クレアは家に戻るのがいやになっているらしかった。

 ――ここにいるとね、とクレアは言った。――気が楽なのよ。家に帰るとつまらないことでもしなくちゃいけないことが多くて。

 ――つまらないこと?

 ――そう。色々あるじゃない。食事の支度とか、税金の支払いとか。

 ――ああ。そうだね。

 ――他に、ほら、ボブのこととか。クレアが意を決したように言った。

 ――ああ。

 ――あれからボブは来てる?

 ――いや、この頃は来ないよ。ただ・・・

 ――ただ、何?

 ――うん。おとといだけど、ドライブウェイ掃除してたら、BMWに乗った背の高い男が来てね。またいつもみたいに道を間違えて迷いこんだだけなのかと思ったんだけど、そうじゃなかった。あの男だったよ、前に行ったことのある、あの弁護士。トミー・グレアムって言うんだって。

 ――ああ、あの男。クレアは顔をしかめた。――それで?

 ――クレアは今病院だと言ったら、それは知ってる、今はこのどっちがクレアの家なのかって。僕らのツリーハウスとメインハウスとを指してね。それでメインハウスを教えたんだけど。

 ――そしたら?

 ――メインハウスの前に車を止めて、家の回りを回って。ツリーハウスを下から見て、それから庭の中もしばらく見て歩いてた。

 ――中へは入らなかった?

 ――そう。中へはね。外を見て歩いただけ。

 ――そう・・・。クレアは険しい顔をして頷いた。

 ――クレア・・・ちょっと聞いてもいい?

 ――もちろん。クレアは唇を引いて無理に笑顔を作った。

 ――一体、何が起きてるわけ?

 ――ああ、damn、私にも分からないわ。ホントに分からない。みんなよってたかって私をいじめるのよ。

 ――・・・。

 ――ボブは私をあそこから追い出したがってるのよ。

 ――追い出す?

 ――そう。追い出して、あそこを売り払うつもりなんだわ。

 ――うん。

 ――ひどい男なのよ。

 ――ボブには権利があるの?

 ――damn,damn !あのならず者は、ただ私を追い出すことだけを考えてるんだわ。悪漢なのよ。そう、あいつは、悪漢なのよ。

                  15                  

 マギーとの生活は、始まりと同じように、唐突に終わった。

 北カリフォルニアの冬は憂鬱だ。雨が降り、いつもどんよりと曇っている。気温はそれほど低くはならないけれど、明るい気分にはなれない。木製のデスクの引き出しは湿って開かなくなり、雨漏りのするツリーハウスでは、あちこちにバケツが出しっぱなしになっている。寒さは東京と同じ程度ではあるけれど、ツリーハウスの暖房は貧弱で、小さなファーネスと呼ばれる壁組み込み式のヒーターもあまりきかない。カリフォルニアと言えばいつも青空で明るいイメージがあるが、あれは夏の、それもどちらかと言えば南カリフォルニアのものだ。北カリフォルニアには森があり、川があり、水の冷たい海がある。南カリフォルニアが海と砂漠なら、北カリフォルニアは森林なのだ。

 その日曜日の午後、清孝はカウチに寝転がってマギーの写真集を眺めていた。『カリフォルニア・ワン』と名付けられたその写真集は、カリフォルニアの海岸線を縦に走り抜けていくアメリカ国道1号線の写真集だ。カラフルなサーファーたちが波間に浮いている南のラグナ・ビーチから、キャビンボートの並ぶニューポートビーチ。ローラースケートをはいたカリフォルニアガールズ、ピンク色に塗られたビーチハウス。そんな清孝の知らないカリフォルニアから、週末に一度行ったことのあるモンタレー近くの海草の打ち上げられた海岸、ハーフムーン・ベイ近くのカボチャの並ぶ農場、どんより曇ったパシフィカの海、苔むしたサンフランシスコ北のミュイールウッズの木々へと、ルートワンは夏から冬へ続いていく。季節は北へさかのぼる。北カリフォルニアは、冬なのだ。

 ――今、好きな人がいるの。

 午前中出かけていたマギーは、清孝のカウチの横に来てそうつぶやいた。

 ――キヨには悪いんだけど、私しばらくそっちに移るわ。

 ――移る。清孝は"MOVE"のVの音に意識を集中させて繰り返した。なんとなく予想していたことではあったけれど、それにしてもどんなニュアンスもこめたくはなかった。みんな、来ては去る。それだけのことだ。それだけのことにしたかった。

 ――ほかの人のアパートに引っ越すってこと。おかしな男なんだけど、今、その人に興味があるのよ。

 ――ふうん。

 ――あなたのこと、好きよ。だからケンカしたくはないの。何も言わないで。

 ――何も言わない。

 ――そう?ほんとうに?何も言わないの?

 ――キミがそう言うならね。

 聞いたようなセリフを、清孝は聞いた通りに言った。清孝にとって、英語の表現はどうせいずれどこかで聞いた表現なのだ。もしかすると英語で考えている時には、自分の頭でなど考えていないのかもしれない。あれもこれも、テレビや映画のパターンにあてはめてセリフを言っているだけなのかもしれない。

 ――そう。マギーは気楽そうにも見え、不満そうにも見えた。――急で悪いから、家賃の三ヶ月分、置いていくわ。その間に次のルームメイトでも探すといいわ。

 そう?清孝は肩をすくめた。――キミがそれでいいのなら。

 『ツリーハウス』はワンベッドルームだから、普通のルームメイトが入るわけはない。それはマギーも分かっているはずだ。しかしそんなことを論争する気にはならなかった。あたりまえだ。

 ――私のこと、いい加減だとは思わないわよね。マギーがためらい気味に言った。

 ――思わないよ。

 ――それならいいけど。そういうのって、内にこもらせるといけないのよ・・・。でも・・・でも、それなら、いいわ。マギーは口を開き、唇をとがらせた。そしてそれ以上何も言わなかった。頬が上気して赤かった。清孝も黙っていた。

 マギーはそれから、クローゼットから衣類を出し、かつてヨーロッパへ行ったときに使ったというバックパックに詰めた。もともと引っ越してきて数カ月しかたっていないのだから、パッキングは簡単だ。いくつかの段ボールは開かずにそのまま床に並べてある。マギーは大してためらう風もなく、手当たり次第に荷物を作り上げていった。

 波の頂上に舞い上がるサーフボード。白い壁に移るパームツリーの強い影。スクリーンドアの前にゴールデン・リトリバーが座る写真には、西ロサンゼルスと地名が入っている。前面一杯にバッジのついたジャケット。ベティやミッキーマウスといったマンガのキャラクターのバッジ、ロサンゼルス・ドジャースのバッジ、フットボールのロサンゼルス・エンゼルスのバッジもあった。ビーチで水着の女の子たちがお尻をこちらに向けている、多分ビーチクイーンコンテストの写真。ずらりと並んだ露店のサングラスは、ベニスビーチだ。

 清孝は決して、ウェストコーストの雰囲気を期待してきたわけではなかった。大体、アメリカに来たことだってほとんど偶然のようなものだ。日本以外ならどこでもよかったのだ。準備などする間もなく、たまたま英語なら少しは通じそうだと思った、それだけのことだった。しかしそれでも、こういう土地に住むのも少しはいいかもしれない。思い切ってビーチハウスに住み、サーフィンを覚え、観光客相手に商売でもする。清孝はそんなことをしないのは分かっていながらも南カリフォルニアにいる自分を想像した。いつも外に目を向けて、いつも海を見て、いつも太陽を浴びて生活する。毎日水着姿のビーチガールズと遊び暮らす。体を鍛え、肩の筋肉の盛り上がった体でビーチを走る。モーターサイクルを買って、爆音をひびかせてサンタモニカを走り回る。

 マギーのパッキングは三十分ほどで終わった。

 ――その本気に入った?とマギーは言った。

 うん。清孝は頷いてみせた。本当はどうなのか自分にも分からなかった。見ているとどんどん寂しくなっていくような気もしたが、ずっと眺めていて今さら気に入らないとは言えなかった。

 ――持っていていいわ。・・・今度会った時に返してくれてもいいし。

 OK。

 ――じゃあ・・・行くわね。

 うん。

 ――あの・・・またね。

 うん。

 マギーは悲しそうではなかった。いつものように明るく微笑んでいた。ただしゃべり方が少しためらいがちだっただけだ。身振りは大きく、足取りも軽い。清孝も軽く手を振ってみせた。清孝も悲しくはなかったのだ。ただ、独りになってしまうことがちょっと困るだけだった。

 マギーがいつものように階段を下りていった。かかりの悪いワーゲンバスのセルモーターがひとしきり唸り、それからようやくエンジンが回り出した。聞き慣れた音が懐かしかった。秋の昼下がりの日差しが柔らかかった。清孝はそれから、写真集を胸の上に乗せて眠った。目が覚めたのは、最後の夕日が隠れたあとだった。

                  16                  

 顔見知りの看護婦に挨拶をしてクレアの部屋のドアを開けると、中はまっくらだった。ツンと病人特有の臭いが鼻をつく。香水の匂いがそれをかきわけるように漂ってきた。清孝は明かりのスイッチに手を延ばし、クレアの寝息に気付いてやめた。街灯からの明かりで物の配置くらいは見分けることが出来る。夕食まではもう三十分、眠いのなら寝かせておくのがいいだろう。この頃よく眠れなくていつも頭がボーッとしている、というクレアだから。

 清孝は彼女の枕元の椅子に座る。微かに口を開いたクレアの横顔は、明らかに老人のそれだ。痩せてはいないのに、頭蓋骨の輪郭が見えるような気がするのはどうしてだろう。皮膚がたるみ、かろうじてしがみついているようにさえ見える。目の回りは深く窪んでいて、そのまま底の方まで沈んでしまいそうだ。卵の殻を伏せたように眼球をおおっている瞼。そのまぶたにも無数に刻まれた細かい皺。

 時折り息苦しそうに呼吸がひっかかり、それを振り払うように小さく顔が揺れる。口をもぐもぐと動かして、何かを訴えようとしているようにも見えるし、うまいものを食べる夢を見ているようでもある。唇に続く皺を見ていて、清孝はウメボシバアサンという言葉を思い出した。クレアは見たこともないだろう食べ物だ。

 清孝は思うともなくマギーの寝顔を思い出す。健康そのものでエネルギーに満ちている彼女も、寝ている時には年齢を感じさせた。表情のないマギーというのはほとんど見たことがなかったから、なんとなく寂しい気持ちになったものだ。マギーとは最後までベッドルームは分けていたから、寝顔を見たのも何回もあるわけではない。それだけにそのイメージが強く残っている。歩き回るマギー、笑うマギー。顔を曇らせ、困った表情のマギー。そのマギーの、いささか疲れた、少しだけ死に近い、力のない顔。

 僕は彼女が好きだったのだろうか。考えてもろくなことはない。そんなことは、考えないにこしたことはないのだ。でも、きっと、好きだったのだろう。清孝はちょっとだけそう思う。

 恭子のことは好きだった。少なくとも、好きだと思っていた。だからこそ、あんなにも急に結婚してしまうことになったのだ。しかしあれも勢いだったというのがふさわしいかもしれない。勢いで結婚してしまい、勢いにのって『教団』の教祖のような立場にまでなった。そして気が付くと、その勢いのまま彼は『教団』から追い出されていたのだ。

 「とにかく」と『隊長』が言った。「このままじゃ教理にはならない。清孝は甘過ぎる。どんな宗教だって、祈りの対象がなくちゃ成立しない。」

 「僕は宗教にする気は始めからなかったんだ」と清孝は言った。「『隊長』がここまでやってくれたことはありがたかったけれど、僕は間違ってた。僕の伝言は、ただの自己満足でよかったんだ。みんなで祈るとか、そういう性格のものじゃ始めからなかったんだ。『隊長』は、最初から僕と恭子を利用したんだ。」

 恭子は純粋だった。純粋すぎて、『隊長』に利用されているということが分からなかった。恭子はいつだって、清孝のために、と行動していた。それは分かっている。ただそれが、いつか彼自身のやりたいことと離れていた。清孝にはそれが説明できなかった。そのうちに、恭子が、なにか分からない、実体のない宗教的な感情に取りつかれてしまった、ということだ。

 『隊長』は、まず『神』を決定した。清孝の会った『神』は一体だれなのか?清孝にとってはどうでもいいことだったが、そうはいかない、と『隊長』は言った。祈りの対象が分からなくては祈りようもない。

 「僕らの『神』がキリスト教の神でないことは間違いない。キリスト教の神は、自分では人間の前には下りてこない。天使だった可能性はあるけれど、自分で『神』だと名乗ったのだからそれもない。日本の神道には肉食を禁ずる伝統は特にないから、神道系の神でもない。そうするとやはり、『神』は仏教の神だ。『伝言』が戒律というほどには強くないのもそれを裏付けてる。そして、そのくせ肉体を鍛えろなんていうものが入っているから、大乗系の神でもないと言っていい。大乗系の神は自分のことを先に持ってくるなんてことはしない。自分に関心がある仏教の神は、小乗の、直接語り合う密教系の神だ。容易に人間の目の前に姿を表せる神。それを僕はついに発見した。僕らの『神』は、『大安楽不空真実菩薩』という名前だ。」

 『隊長』が芝居気たっぷりに名を出した、本当に仏教にあるのかどうかも分からない神。こうして清孝の『神』は『大安楽不空真実菩薩』という名前になってしまった。彼が強烈な違和感を持ったのは当たり前だ。あのオジサンが、どうして『大安楽不空真実菩薩』なのだろう。そんな大仰な、真実味のない名前を持った神であるはずがない。『隊長』が深く調べたのではないことも確実だ。彼は宗教のことなど大して知っていたわけでもない。なにしろ遊び半分、というよりはほとんど全編冗談で始めた『教団』だったのだ。

 しかしこの時、『隊長』は強硬だった。とにかく名前がなくてはどうしようもないんだ、と彼は言った。『教団』の形を整えるにはしっかりした神が必要だ。他の神だっていい。神は信じれば神になるんだ。

 それから『隊長』は『伝言』を解釈し直した。というよりは、『伝言』のうちで商売になるところを抜き出して、『教団』を経営し始めた。それはうまいやり方だった。『伝言』が昨日今日出来たのでないことは、古い雑誌などでも証明できた。しかも、やってみると『伝言』は実に金になったし、時代にも合っていた。体を鍛えろ、という『伝言』はスポーツクラブになり、それはすぐにアスレチックジムの経営にまで発展した。肉を食べるな、という『伝言』を元にして大豆のハンバーグを導入し、ワカメを添えて直販を開始した。それがうまくいくと、そのルートを使って他の健康食品を売り始めた。

 みんな、学生の遊びだったのだ。だからこそ清孝も参加していた。清孝自身にしても、『伝言』をまともに受け取っていたわけではない。もともと守ったことなどほとんどなかったのだから、そんなのはどうでもいいことだったのだ。ただ、『隊長』に認められたのがうれしかった。小学校の頃のコンプレックスの延長だった。それがビジネスとして成り立ち、宗教法人としての形まで整え始めたとき、ようやく清孝は気が付いた。遊びが、遊びでなくなろうとしていた。清孝はビジネスのシンボルになり、『伝言』と『光輪』が金もうけの道具になった。それを嫌った時、清孝は追い出された。その頃にはもう代役がいたのだ。清孝に代わって、恭子が『教団』のシンボルになった。

 驚くべきことだった。結婚して数カ月たった頃、恭子の頭の上にも『光輪』が見え始めたのだ。他の誰もがそう言った。そして、それが清孝には見えなかった。清孝も混乱していた。恭子も混乱していた。混乱していなかったのは『隊長』だけだった。『隊長』は、冷静に、ビジネスマンとしての手腕を発揮しだしていた。

 『伝言』が汚される、などと思ったわけではない。『神』を冒涜する、などと思ったわけでもない。ただなんとなく、いやだった。彼の『伝言』は、たとえ自分が信じていなくても、それでも少なくとも嘘ではなかった。それはそれで、清孝にとって、数少ない本当のことであるはずだった。恭子と『伝言』、その両方が自分の手を離れていった。

 恭子は言った。――私にも分からない。あなたのことは好きよ。きっかけをくれたのもあなただし、あなたは特別で、とても大切な人だと思ってる。でも、今、何が大切なのか、それを考えると・・・。このままやめてはいけないんだと思うの。あなたと一緒にやっていければ一番いいんだけど・・・。

 しかし一緒にやっていくのは不可能だった。『隊長』のつくっている『教団』と清孝自身の感じているものとの距離がどんどん開いて縮まらなかった。そしてそれに合わせるように恭子との距離も開いていった。

 大学の学生会館の一角を使っていた集合場所はマンションの一室になった。テニスサークルを母体として始まった『教団』は、正式に『真実教』という名までつけて、信者を集め始めた。清孝の『伝言』を解釈し直した新しい教理集まで出来た。さらには、『伝言』とはまったく関係のない新しい『新伝言』までつくられ、それも『伝言』と同じ価値を持つものとして信奉され始めた。

 「なんでそんなものが信じられるんだよ」清孝は恭子につかみかかった。「知ってるじゃないか。あんなのがいんちきだって知ってるだろ。あれは『伝言』でもなんでもない。ただあいつが作っただけのものじゃないか。『清きものを求めよ』だって?そんなの僕の『伝言』にはないぞ。なんでそんなものを宣伝できるんだよ。」

 「『神』はあなただけのものじゃないわ」恭子が悲しそうな目をして言った。「私にだってあるのよ。」

 「じゃあ、恭子も『神』に会ったってのか?あいつも『神』に会ったのか?どんな恰好をしてた?キラキラきらびやかな衣装でも着てたか。真っ黒な服を着て、しっぽがはえてたんじゃないだろうな。僕は会ったんだぜ。だからそれを伝えただけなんだ。だけどそんなの意味ないんだよ。知ってるだろ。分かってるだろ。」

 「意味はあったのよ。それに、私も『神』に会ったわ。『神』は心の中にいるのよ。私には分かったの。そして彼にもね。彼も会ってるわ、心のなかで。『真実様』は、直接語りかけてきたのよ。」

 「うそだよ。そんなのうそだ。『神』なんて、もともといないんだよ。僕は子どもだったから、夢を見ただけなんだ。あいつはそれを利用して金もうけをしようとしているだけなんだよ。全部うそなんだ。恭子はあいつに踊らされてるだけなんだ。僕はようやくそれが分かった。その時になって、よりによって恭子がたぶらかされるなんて・・・」

 「もしかしたら私があなたにたぶらかされてたのかもしれない。あなたは『真実様』の『伝言』の意味がつかめなかったんだわ。だから『真実様』に見捨てられたのよ。あなたには見えてないんだわ。分かってないのはあなたの方よ。せっかく『真実様』が姿を表して下さったのに、それを理解せず、捨てようとまでしたんだわ・・・。」

 おとなしかった恭子は、一旦信じたとなると頑固だった。何ヵ月か前には優しく清孝をみつめていた黒目がちの瞳は、もう焦点があっていなかった。少なくとも清孝には焦点があわなかった。恭子の目は、ずっと『隊長』の方に注がれていたのだ。

 そして困ったことに、清孝はそれでも『隊長』を嫌うことは出来なかった。彼はいつも、清孝のボスだった。自分をコモンにしてくれた時からいつでも、『隊長』のそばにいると楽しかった。『隊長』といれば、なにをやっても安心していられた。そういう人だったのだ・・・。

 ――だれ?だれかいるの?クレアの声が聞こえた。小さな、夢の中の出来事のようなかすかな声だった。清孝はわれに返って答えた。

 ――あ?あ、ああ。そう、僕、キヨだよ。自分の声がかすれて聞こえた。

 ――だれ?だれなの?

 ――僕だよ。キヨだよ、クレア。ともだちのキヨだよ。

 ――そこにいるのは、だあれ?

 ――僕だよ。僕。キヨタカ・サイトウ。聞こえる?聞こえないの?

 ――見えないわ。あなたは、だれなの?

 声が広く暗い病室の中に吸い込まれていく。どこにも響かない、どこにも届かない。クレアは独りで喋っている、僕の言うことを聞いていない。清孝は背筋に冷たいものが走るのを感じた。クレアがおかしい。どうしたのだろう。まだ目が覚めていないのか?

 ――あなたはそこにいるの?見えないわ、暗いわ。私の手が見える?私の手、ここにある?あなたはそこにいるの?

 ――いるよ。ほら、僕の手はここだよ。キヨだよ、僕はともだちの、日本から来たともだちのキヨだよ。

 清孝は手を差し出して、クレアの手を握った。指先がぶつかり、そして重なり合った。カサカサとして、しかし柔らかく、暖かく、そして汗ばんでいた。生きている。言葉が通じ始めた。指の先を通して。

 ――ああ、キヨ。分かったわ。暖かいわ。クレアがそう言った。ふう、清孝は小さく溜め息をつく。クレアの声も少し落ち着いて、いつもの声に近くなった。――もっと握って。怖いのよ。なんだかとっても怖い。キヨ、キヨ。あなたなのね?マイ・ディア?

 ――そうだよ、クレア。僕だよ。清孝はそう言ってクレアの顔に自分の顔を近づけた。クレアの目がうつろにきょときょとと動き回っていた。唇が震え、そして体も震えていた。――ちょっと待って、明かりをつけるよ。

 ――だめ!思いがけず鋭い声でクレアは言った。――手を放さないで!握ってて!

 あ、うん。清孝はゆるめかけた手の力をまたこめる。スイッチを押すのには反対側に回らなくてはならない。手を握った状態ではそれもできない。

 深い呼吸が聞こえた。嗚咽のように不規則に震え、かすれた息が清孝の手にも感じられた。悪夢から覚めきらない子どものように、クレアは頭を枕にこすりつけていた。清孝はそっと片手を放し、クレアの髪に手を伸ばす。細いシルバーブロンドの頭は思ったよりも小さく、頼り無かった。

 ――大丈夫だよ、クレア。夢でも見た?ここは病院、今は夕方の五時半くらいかな。クレアは眠ってたんだよ。起こしちゃ悪いような気がして、ここで見てたんだ。大丈夫だよクレア、なにも心配することはないよ。清孝は話しかけながら、頭をなでる。クレアは小さく何度もうなずいた。

 ――怖いの、とても怖かったの。今も怖い。寂しかった。私には何も頼るものがないって、生まれてから死ぬまで、そう・・・。おお、キヨ。あなたなのね。あなたなのね。

 クレアの手に力が加わってくる。必死に助けを求めている手だ。斜めにつかまれて指が痛い。

 そうだよ、クレア。僕だよ。清孝は頭をなでていた手を、クレアの首の下に滑り込ませて、頭を抱き上げた。乾いた汗と香水の匂いがふわりと流れた。懐かしい匂いだ。クレアのもう一方の手の力がゆるむ。清孝はその手も彼女の肩の下に入れて彼女を抱き起こした。ずしりと重かった。恭子やマギーの感触が一瞬思い出された。

 クレアの両手は胸の前で合わされていた。マイ、ゴーッド、クレアがゆっくりとつぶやく。アメリカ人がよく使う感嘆詞ではない。古きよき時代に育った彼女はそれは使わない。彼女が言ったのは、文字通りの意味でだった。

 ――キヨ。見えるわ。あなたの頭の上に、天使の印が見えるわ。

 天使の印?『光輪』?清孝はあわてて自分の頭上を見た。もちろん何も見えるはずがない。自分では見たことはないのだ。『光輪』は光でもない。他を照らすこともない。しかし、どうして今?『伝言』を口にしなくても見えることがあったのか?『光輪』には、他の意味もあったのか?

 ――知ってたわ。どうしてか、最初から知ってたわ。あなたは天使なのよね。私はずっと知ってたわ。クレアの声はさっきとはうって変わった落ち着いた声になっていた。今度はまるで、僕の方が勇気づけられているようだ、と清孝は思う。――私の天使。ここにいるのね。迎えに来たの?私は死ぬの?あなたはずっと優しかったわ。あなたはずっと天使だった。私の天使。もう怖くないわ。しっかりつかまえてて。いいわ、私は準備が出来てるわ。

 ――違うよ、クレア。僕は迎えに来たわけじゃないよ。クレアはまだ死なないよ。まだまだ生きるんだよ、クレア。清孝はあわててクレアの体を揺すぶる。頭が力無く揺れて、本当に彼女が死んでいくような感じだ。違うよ、違うよ、と清孝は繰り返した。――僕は生きてる。クレアも生きてる。大丈夫だよ。大丈夫。

 外のドライブ・ウェイを通る車の音が大きな音で響いてきた。廊下を行き来する足音も聞こえる。クレアがひゅうと息を吐き、そしてまた吸い込む音も、清孝の頭の上を見つめてまばたきをする音も聞こえた。音だけが耳に残る。クレアは何も言わない。外の明かりが揺れる。気が付かなかったが外を走る車のヘッドライトがどこかに反射しているのだ。 ――とにかく灯りをつけようよ、と清孝は言った。今度はクレアもなにも言わない。彼はそっとクレアをベッドに戻し、立ち上がって病室の入口のドアのわきにあるスイッチをオンにした。蛍光灯のまぶしすぎるくらい明るい光が部屋を満たす。世界が一気に現実に戻ったようだった。クレアは茫然として天井を見つめていた。

 ――キヨ。クレアは惚けたような表情のまま言った。

 ――うん?なあに?清孝は出来るかぎり明るい声を出す。そうしないとクレアと一緒に知らない世界に飛ばされてしまいそうな気がした。

 ――あの・・・私は・・・。

 清孝はクレアを見る。彼女もおそるおそる清孝の方を見た。またちらりと清孝の頭上を見て、それから彼の顔に視線を戻す。清孝は微笑んだ。うんうん、頷いてみせる。クレアも微かに笑った。

 ――もう見えないでしょ。あれは、なんというか、僕にも説明が出来ないんだけど、ただ天使だとか、そういうものでもないんだ。僕の『神』が、・・・えーと、いや、僕の神であるわけじゃないけど、あー、・・・ちょっと込み入った話もあるんだけど、その・・・。

 ――知ってたわ。私は大丈夫。そして、ありがとう。

 その時、廊下の足音がパタパタと聞こえた。人の声も聞こえる。すぐ向かいの部屋の話し声も響いてくる。音がはっきりと流れこんできた。さっきまでとは聞こえ方が違う。それまで閉ざされていた外の世界とのドアが開かれたような具合だった。

 ドンドンドンドン、ノックの音が聞こえた。はい、清孝は跳び上がって答える。すぐにドアが開き、白いユニフォーム姿の小柄な女性が入ってきた。テレサという名の、部屋の扱いなどをする黒人女性だ。てきぱきとベッドテーブルをセットし、夕食の準備をすすめながらクレアに話しかける。陽気な声が響いて、クレアの病室が今の世界に戻ってきた。 ――どう、クレア。元気?いいわね、いつも来てくれるともだちがいて。あなたはラッキーなレディよ。どう、ベイクドポテト。体にいいわよ。こっちはコーン・チャウダー、ヤーバダバ・デリシャス。テレサがテレビのコマーシャルをまねておどける。クレアはほとんど身動きもせず、ただそれを見ている。

 ――えーと、キヨ、だったわよね。あといいかしら、おまかせして。テレサが清孝に向き直って言った。

 ――あ、ええ。もちろん。

 ――じゃ、またあとでね。テレサはジャネット・ジャクソンのようにリズミカルに歩いて入ってきた時と同じように忙しく出ていった。

 ――さあ、クレア。おなか空いてるんでしょう。食べなよ。清孝は言った。これもパターン言語だ。他に言うことが思いつかない。しかしそれでいい。パターン化された言葉を話していれば、少なくとも間違えることはない。

 ――ええ、そうね。クレアはそう言ったが、手を伸ばそうとはしない。

 ――食欲ない?そんなことはないんでしょ?

 ――ええ、私は具合いいわ。

 ――じゃあ食べなくちゃ。

 ――そうね、そうするわ。

 クレアはスプーンに手を伸ばし、コーン・チャウダーを食べ始めた。少しずつ、少しずつ口に運ぶ。

 ――えーと、クレア・・・

 クレアが決心したように顔を上げ、清孝を正面から見た。――マイ・ディア、ひとつだけ質問があるんだけど。

 ――うん。

 ――私は、死ぬの?

 ――ノー。死なないよ。清孝は出来るかぎり陽気に言った。テレビの三十分ものコメディだ。あるいは、クローズドサーキットのブラックコメディかもしれない。――僕がそう言うんだから信頼していいよ。大丈夫、クレアはこれで元気になるよ。

 ――そう。よかった。ありがとう。それを聞いて安心したわ。クレアはそれだけ言って、またコーン・チャウダーに手を伸ばした。――それじゃ、がんばって食べなくちゃね。

                  17                  

 広い大学のカフェテラスも、昼食時には一杯だ。カウンターにはちょっとした行列が出来ていて、トレイとフォーク・ナイフだけを持った学生が列の動くのを待っている。腕で汗をぬぐいながら応対しているのは、ここの学生なら誰でも知っている、カフェテラスのシンボル的存在のリンダ。小太りでいつも威勢がよい。大学は全館暖房だから、混んだカフェテラスは暑いくらいだ。

 濃いハーブの匂い。コーヒーの匂い。けものじみた、若い学生たちの汗の匂いも混じっている。高い天井に音が吸い込まれるから意外に静かなのだが、それでもたくさんの話し声が聞こえてくる。こういう時の英語はとっつきにくい。日本語だったら意味も分かるのだろうが、英語のかたまりははがせない。一つ一つの意味がまったく理解できない。ただ、意味の分からない音として耳に押し寄せてくる。

 清孝はカウンターからターキーサンドイッチとオレンジジュースを取って並んだ。天気のせいか、あまり食欲はない。

 テーブルの方では、そりかえって大声で話をしている者、眠そうな顔をしてボーッとしている者、いわゆるブラウン・バッグを出して持参のランチを食べている者、ノートと本を広げて勉強している者。金髪もいればレッド・ヘッドもいる。黒人も、東南アジア系もインド系も、中近東系もメキシコ系もいる。とにかく多彩だ。清孝は軽いめまいを感じて立ち止まった。どこへ座ればいいのか決められない。知った顔でもあるだろうか。空いている席も、グループで占められているところでは居心地が悪い。どこか、うまくあいているところ・・・。

 ――ヘイ、ここ、ここ。振り向くと、確かに知った顔が自分を呼んでいた。清孝は一瞬うれしくなり、すぐにそれが間違いだったことに気付いた。確かに知った顔ではあったが、喜んで話が出来る相手ではなかった。髪の薄い、鷲のような鼻をした男。ボブ・ゴッドスピードの弁護士だった。

 ――やあ、こんにちは。こんなとこで会うとはね。きみは、ミセス・クレア・ブリードのとこで会った・・・

 ――キヨタカ・サイトウです。

 ――そうそう、キヨタカ。覚えてるさ。僕はトミー・グレアム。ボブ・ゴッドスピードの弁護士だ。覚えててくれたかい。・・・まあ座りたまえよ。一緒に食べる相手がいなくて寂しい思いをしてたんだ。

 はあ。清孝は重い気分でトミー・グレアムの前に座った。まるで審問を受ける犯罪人の気分だ。トミー・グレアムはそう思わせるだけの何かを持っていた。ニヤリと笑った顔が異様に鋭い。鼻がくちばしで、どう見ても鳥類だ。一ヵ月ほど前から突然中年太りになったというようなとってつけたような太り方をしていて、痩せているのに肉がついている。あーあ、清孝は思う。僕はひとりで食事したかったのに。

 ――会えてうれしいよ、キヨタカ。トミー・グレアムはかなり正確な発音で彼の名前を呼んだ。――日本から来たって言ったっけ?君も学生だったんだね。それで、君はなにを勉強してるの。

 ――今受けてるのはコンピューターサイエンスと英語教育学と人類学と・・・。僕はパートタイム・スチューデントだから大した単位は取ってないんだけど。清孝は自分がなんとなく弁解じみてしまうのをうとましく思いながらそう言う。

 ――なるほど、なるほど。そりゃいいね。僕は、きょうは法律学の方の講師として来たんだ。週一回出てる。なんならキミも来ないかい。商法の判例研究というやつでね、具体的だから結構楽しめると思うよ。もっとも、基本的な法律の基礎が分からないとちょっと難しいかもしれないけれど。トミー・グレアムが笑っていない目で精一杯の笑顔をつくりながらそう言った。

 ――ああ、あなたは先生でもあるんだね。

 ――まあね。いや、僕もパートタイム・ティーチャーというわけだから。トミー・グレアムは、アハ、アハ、アハと咳き込むように笑った。あるいはほんとうに咳き込んだだけなのかも知れない。笑うのが下手な人だ、と清孝は思う。

 ――ほんとは、だから向こうの教員用の席が空いてるんだけど、トミー・グレアムは打ち明け話をするように声を少しおとし、顔を清孝に近づけてきた。――いごこちが悪くていやなんだよ。大学の教員の話なんて面白くないだろ、僕はもともとここの卒業生だから、こっちの方が落ち着くんだ。こうやって友人に会うことも出来るし。学生たちと話してる方が好きなんだよ、僕は。

 そう言われてあらためてトミー・グレアムの顔をみると、なるほど歳は清孝と大して違わないのかもしれない。ただ、全体の様子はあきらかに向こう側の人間だ、と清孝は思う。向こう側というのは、つまり人に指示をくだす側という意味だ。

 ――ところで、ミセス・ブリードはどうしてる?

 ――彼女はOKだ。もう体調はすっかりいいし。そろそろ退院できると思う。

 ――そうか、それはよかった。トミー・グレアムは、気のない調子でうなずきながら、それはいい、を何度も繰り返す。なにを考えているのか、とにかく退院がよかったと思っているのではないことだけは確実だ。

 ――ところで、キミはどのくらい状況を知ってるんだい。

 ――どのくらいって・・・まあ・・・よくは知らない。

 ――そうか。ボブ・ゴッドスピードには会ったんだったよね。

 ――そう、二度ほどね。

 ――そうか。トミー・グレアムは、難しいことを説明しようとするかのように宙をにらみ、頬をふくらませる。――たとえば、そうだな、ボブ・ゴッドスピードとクレアの関係は知ってるかい。

 ――いいや。

 ――そうか。じゃ、それを説明しようか。どうも、色々なことでキミの協力が必要になりそうだからね。・・・まず、ジェシカ・ゴッドスピードは知ってる?

 ――知ってる。クレアの亡くなったシスターだね。

 ――そう。ただし、正確にはハーフ・シスター。クレアの亡くなった御主人のシスターだったんだ。

 ――ああ、なるほど。それで、二人はあまり似てないんだ。

 ――そう、そうなんだ。写真で見たんだね。・・・で、もともとはあの土地は、そのジェシカと、クレアの御主人とウィン・ブリードの御主人と・・・

 ――ウィン・ブリード!?清孝は思わず頓狂な声をあげた。ウィンのファミリーネームはブリードなの?

 ――そうだよ。知らなかった?それは驚きだな。

 ――じゃあ、・・・ということは、・・・ウィンとクレアは姉妹ということ?

 ――そう、そのとおり。御主人同士が実の兄弟なのだから、血のつながりはないがね。法律的には姉妹になる。

 ――ああ・・・。知らなかった。ウィンは・・・住み込みのメイドなんだと思ってた。 ――それは失礼だよ。まあ、ミセス・クレア・ブリードは、そんな風に扱っているけれどね。ジェシカが一緒にいたころにはそんなことはなかったよ。

 ――あなたは・・・(「トミー。トミーと呼んでくれ」)トミーはジェシカも知ってたの?

 ――僕は、もともとジェシカの御主人の生徒だったんだ。ジェシカの御主人は、この大学の学長だったんだよ。経済学の方では知られた人でね、そのくせとてもフランクでいい人だった。学長が学生を自宅に呼ぶなんて、そうないことだろ?でも、僕らは二度ほど行ったこともある。学生にも人気があったんだ。・・・ああ、そう、僕は経済学と法律学のダブル・メジャーで勉強してたから、ミスター・ジェームズ・ゴッドスピードにも教わってたというわけ。

 ――なるほど・・・。清孝は混乱する頭を整理しながら考えた。――ということは、そのミスター・ジェームズ・ゴッドスピードは、あの『メインハウス』に住んでたわけ?

 ――『メインハウス』っていうのか。そう、あの建物だよ、今ミセス・クレア・ブリードとミセス・ウィン・ブリードが住んでる。

 ――なるほど・・・。

 ――それで、ボブ・ゴッドスピードはそのジェームズとジェシカの長男なんだよ。

 ――そうか・・・。それで、彼の持ち物が『ツリーハウス』のガレージに入ってるんだ。

 ――『ツリーハウス』って、その『メインハウス』の向かい側の建物だね。キミはそこに住んでるんだったっけ。

 ――そう。一階がガレージになってて、前にボブが来てものを持っていった。

 ――そうだろう。それは当然なんだ。だって、彼があの建物を建てたんだから。

 ――ボブが建てた?!

 ――そうだよ。文字通り建てたんだ。三年近くかけて、基礎からつくって。

――でも、前にボブが来たときにはそんなことは一言も言ってなかった・・・。

――そうかい。それじゃ、キミを警戒してたんだろう。

――警戒?そうかな・・・。

清孝は混乱していた。どれもこれも、今までまるで気がついていなかった状況だった。トミー・グレアムの言うとおりだとすると、ボブとクレアと、どちらがあの土地の本当の所有者なのか、よく分からなくなる。少なくともボブが来るのを拒む理由はクレアにはなさそうだ。今までずっとクレアが被害者だと思い続けてきたのだが、そうとばかりも言えないのかもしれない。

そう言えば、気がつくことがある。ウィンはかつて、敷地内の家のひとつ、『カバーニャ』に住んでいたと言ったことがある。メイドが貸家に住んだというのも不思議だと思っていたのだが、それはつまり、ウィンと御主人が敷地内に住んでいたということだったのだ。さらにまた、ウィンがクレアから金を受け取っている形跡がないのも変だとは思っていた。小切手帳を見ればウィンに向けて小切手が振り出されていないのはすぐ分かるし、クレアはいつもそれほどの現金は持っていない。別の口座があってウィンに振り替えたりするようになっているのかと思っていたのだが、そうではなかったのだ。なまじ姉妹だったから、金を払う、もらうというような関係ではなかったのだ。ただ、クレアが命令的でウィンが従順だから、いつのまにか主人とメイドのような関係になっていたのに過ぎないのだ。

――クレアがスペインから戻ってきたのは十年ほど前なんだ。ウィンはジェシカとはかなり仲がよかったらしい。だから、その『ツリーハウス』だっけ、今キミの住んでる建物、そこをクレアに提供することにしたんだ。ちょうど、それまで自分の部屋としてそこを使ってたボブが、結婚してオロビルの方に引っ越したばかりだったから。

――え、じゃあクレアも『ツリーハウス』に住んでたの?

――数カ月だけ。クレアが帰ってきて間もなく、ジェームズが亡くなった。あの広い家にジェシカ一人では寂しいというので、クレアが一緒に住むようになったんだ。しばらくして、すでに一人だったウィンも合流した。そして、その一年後、今度はジェシカも亡くなった。

――ああ・・・。それで、クレアとウィンがあの『メインハウス』に残った。

――その通り。分かっただろう。だから法律的には、あの家はもともとジェームズとジェシカ・ゴッドスピードのもので、その長男のボブ・ゴッドスピードが相続しているんだ。だからボブとしてはクレアには出ていって欲しいと思っている。なんといっても自分の育った家なんだから、そこで住みたいんだよ。

――・・・でも、ジェームズが亡くなった直後には帰ってこなかったんでしょう。本来なら、その時すぐに戻ってくるべきだったんじゃないの。

――確かにそうだけれど、ボブは当時自然保護官をやっていて、夫婦でヨセミテ国立公園に住み込んでたんだ。それが彼の夢だったから。

 ――今は?

 ――今は辞めた。離婚を経験しているし、色々と問題もあったのだろう。今はチコでピザの店を経営している。ダウンタウンのピザハットも彼の所有だ。

 ――ピザハット?そうか、クレアはそれで、あそこに行くのはいやだと言ったのか。

 今日はこの店で昼食にしよう、と清孝が言うのに対してクレアが唯一反対したのがピザハットだった。その時にはただ気が進まないと言っていただけだったのだが、クレアはそこがボブの店だと知っていたのだ。それで反対したのだ。それにしても、なぜそう言ってくれなかったのだろう・・・。

 ――クレアはそれなりに後ろめたいのさ、トミー・グレアムは清孝の動揺を見透かすように言った。――本当は自分には居座る権利はないって知っているから、それをキミに知られたくないのさ。

 ――で、僕は聞いてないんだけど、ボブ・ゴッドスピードの要求はなんなんだい。

 ――クレアがあの土地を離れること。それも無条件で。

 ――無条件というと?

 ――無条件は、無条件さ。トミー・グレアムは当然というように肩をすくめた。――とはいっても、それじゃさすがに動きにくいだろうから、引っ越し費用は出す。引っ越し先を探すのを手伝ってもいい。そういうネットワークはあるからね。しかし生活のことなら心配することはないんだよ。彼女は金は持ってるから。彼女の亡くなった夫は軍人だったから、年金は決して少なくない。生活には困らないはずだ。

 ――ウィンは?

 ――彼女も同じことだ。一緒に移ればいいだろう。彼女だって自分の年金があるんだ、一人で暮らしたいならそうも出来るし。

 ――でも、ボブにとって、二人は叔母さんにあたるわけだろう。そうやってあの歳の人を追い出すっていうのは冷たいよ。

 ――二人にとって、ボブは甥にあたるんだよ。その甥にいつまでも迷惑かける方が悪いことだと思わないかい。ボブには権利がある。二人には権利がない。そういうことだ。権利のない人間が居座るのは犯罪だ。それを許しているのこそ、こちら側の寛大さなんだから、それを忘れてもらったら困るな・・・

 清孝はその時、自分の心の底からなにかが浮かび上がってくるのを感じた。初めは小さかったもやもやしたものが、やがて黒灰色の大きなかたまりになった。喉にはりつく、けものの毛皮のようなもの。口から飛び出すとはじけてしまう、油じみた綿。押し返すとさらに大きくなる。それは彼の耳まで覆ってしまい、ボブの言葉をさえぎってしまった。

 風景が遠くなる。ボブがかなたに消え去っていく。これは覚えがある、清孝は思う。いつのことだったろう。こうして恭子が小さくなって消えていった夜。僕の頭の中が胞子で一杯になった。恭子が見知らぬ顔になった。唇がひびわれになり、目がナイフの傷痕になった。そうではない、恭子が変わったのではない。自分が袋になったのだった。口を開ければ崩れ落ちてしまうずた袋になって、それが恭子を見つめていた。恭子もそれには気付いたはずだ。いつしか喋りやめて、清孝を見返した。毛皮の袋になにを言っても無駄だ。テーブルの向こうにはただゆらゆらと動く物体があった。動いている。動いている。

 クレアに捨てられるような幻想があった。僕の知らないところで世の中は動いていってしまう。僕の知らないところに隠れた意味がある。僕は独りになってしまう。クレアも独りになってしまう。仕方がない。仕方がない。

 ――ボブ、気分が悪いので失礼したい。清孝はなんとかそれだけを言うと立ち上がった。分からない。グッバイ。物体が動かなくなった。二つの穴が清孝を見つめていた。ダイジョウブカイ、テープレコーダーの声が聞こえた。――申し訳ありませんが失礼します。さようならします。キヨタカキミハナニモ・・・

 さようなら、さようなら。清孝はカフェテリアをふらふらと出た。自分でもなんだかわからなかった。

                                   

                  18                  

 チコから雪の降るシエラ・ネバダに連なる山までは車で三十分だ。学生たちは冬になると大型トラックのタイヤチューブを載せて車を走らせる。いわゆるゲレンデではないが、雪の降り積もった斜面がどこにでもあって、そこでチューブを使ったそり遊びを楽しむのだ。大きなゴム製のチューブの上に座ったり腹ばいになったりして雪の斜面を滑り降りる。なかなかのスリルだ。夏には川に浮かべてのんびりと川下りも出来るし、チューブは遊び好きのチコの学生の必需品だ。

 しかしその日は学生たちはシエラ・ネバダまで出ていく必要もなかった。大学のキャンパスから町の公園につながる斜面で何人もの学生が冬のチュービングを楽しんでいた。チコの町に十数年ぶりという雪が降ったのだ。そしてどの記録にも見あたらないという十センチの積雪というおまけまでついた。地元のテレビやラジオはそれを大騒ぎで報道し、昼になっても空はブルーグレイにかすんでいた。

 クリスマスまであと一週間というこの日,クレアが病院を退院した。わざわざこの日にする必要もなかったのだが、一旦決めた以上はきょう退院する、とクレアは言いはった。きょう退院するつもりで寝間着も丸めちゃったから、いまさら病院に残れと言われてももういられない、とクレアは言った。――退院すると決めたら急に退院したくなったのよ。家へ帰りたいわ。どう、だめ?外は雪で危ないかしら。

 ――それほどじゃないけど。でも、寒いよ。清孝は言った。

 ――そのくらいは我慢するわ。私のボロ車のヒーターでも、少しは効くんでしょ。おかしいわね、ずっと帰りたくなかったのに。

 ――もちろん、退院したければ僕が責任持って運ぶよ、そのために来たんだから。清孝はそう呟きながら改めてクレアの身辺を見回す。なるほど、これではいまさら退院出来ないと言われても難しいだろう。ちらかっていた枕元の雑誌類も片づけられ、置いてあるのは三つの旅行用バッグだけだ。

 満足そうにうなずいたクレアが着替えている間に清孝が受付で精算を行い、もう一度戻った時には、クレアは着替えを終えて手持ち無沙汰気味にベッドに腰掛けて清孝を待っていた。緑色のコートに例の赤い帽子をかぶり、クレアは妙に小さく見えた。しかしやや緊張気味の表情は明るい。

 ――さ、いつでもいいわよ、とクレアは言った。――あなたの方がよければね。

 

 ゆっくりとしか動かないワイパーが、ひっかかりながらかろうじて雪をかきおとす。ヒーターは効いているのだが、クレアは車内が充分暖まってもコートを脱ごうとはしなかった。寒いわけではない、とクレアは言った。――ただ、なんだか不安なのよ。なにしろ二ヵ月近く外にでなかったでしょ。こうしてないといられないの。

 町の両端を結ぶハイウェイ上に出ても、走っている車は多くなかった。そしてその多くない車のほとんどが、制限速度の55マイルをはるかに下回るスピードしか出していなかった。スリップするほど積もってはいなかったが、清孝も注意深く40マイル程度で走らせた。重い車だから滑りにくいが、そのかわり万一滑ったらコントロールが効かない。もっとも、たとえクレアと清孝がここで死んでも、他の人にとっては大して影響はないかもしれない。不幸な事故として処理されて、数時間後にはまた普段どおりに車が走る普通の生活が続いていくだろう。清孝を待つ人はいないし、クレアの家は家具の半分が持ち出されてしまった。

――マギーはどうしてるの。クレアが突然聞いた。

――うん。彼女は・・・出ていった。清孝は言った。

――オウ、とクレアは言った。――そうよね、この頃来なくなったもの。なるほど。

 ――いいんだ。僕はどうでもいいんだ。

 ――ええ、そうよね。・・・人間には色々な歴史があるのよ。それを自分で作っていくんだわ。・・・あら、何言ってるんだかわからないわね。でも、そういうこと。気にすることないってことよ。

 うん。清孝はうなずきながら漠然と夜のことを考える。どうでもいいことであるはずだったのに、やはり夜はつらかった。僕はマギーが好きだったのだろうか?好きだと思ったことはなかった。それは考えないようにしていた。考えたくない。もう、そういうことは考えたくない。恭子との結婚生活は苦しかった。楽しかったのは最初の数ヵ月だけで、その後はずっと苦しかった。好きなのか、そうでないのか。そんなことを自問自答するのが一番苦しかった。

 マギーとは別に一緒にいたくはなかった。しかし一緒にいるのも悪くはなかった。それだけのことだ。そうであるはずだったのだが、虚しさはなんなのだろう。結局僕はマギーに懐柔され、傷つきやすい状態に剥き出され、そして放り出された。そういうことだったのか?

 ――私もたくさんの別れを経験したわ、とクレアがゆっくりと言った。――この年になるとね、ほんとにたくさん。会った人の数だけ別れがあったけど。・・・でも大丈夫よ。そういうものだって思ってるから。人間てそういうものよ。

 ――うん、ありがとう。でも僕は大丈夫だから。清孝は言った。

 ――そりゃそうよ。あなたは大丈夫よ。

 ――うん。僕は、大丈夫。清孝は繰り返した。

 ――そうよね、そうよね。

 ――そうなんだ。

 ――私にはもう何もないから大丈夫。あなたはたくさんの未来をもっているから、大丈夫よ。

 たくさんの未来。それはありそうな、でも、あるのかないのか分からないものだ。僕の未来を待っている人はどこにいるのだろう。母ももういない。恭子も僕を待ってなどいないだろうし、マギーも去っていった。今僕のことを待っているのは、クレアだけだ。クレアは、僕の未来だろうか?

 やはり『伝言』だろうか。清孝は自問する。『伝言』がとても大事だったときがあった。『教団』を始めた頃だ。『伝言』を伝えることが自分の使命だと思っていた。それは幸せな時期だった。しかし『伝言』を伝えたからといってなにも起きないことは分かっていた。少なくとも清孝個人にとっては『伝言』はなんでもなかった。人の役に立つこともなかったし、自分の役にもたたなかった。なるほど辞書を引く能力というのは使えないこともなかったけれど、しかしそれと『伝言』は直接の関係はない。しかし、その『伝言』がなんでもないとすると、僕はなんのためにこんなところまで来てしまったのだろう。それ自体はなんでもない、意味のないものでもいいんだ、と『隊長』は言った。分かりやすい教義があって、人が信じられるカタチになっていさえすればいいんだ。

 ――スペインにいた時にね、クレアが言葉を選んで話し出した。

 ――うん。

 ――とっても好きだった人がいたの。彼は独身だったし、私も夫が死んで何年もたってたから、一緒になるのに問題はなかったの。そして、ある日その人が私に結婚のプロポーズをしてくれたの。もう五十才近かったわね。

 ――うん。

 ――で、結局私は結婚しなかった。

 ――ふうん。

 ――どうしてだと思う?

 ――分からない。

 ――もう別れるのがいやだったからよ。その人のこと好きだったから、もう別れたくなかったの。だから、結婚しなかった。それはそれでよかったと思ってるわ。その人からは、最近まで手紙が来てた。私が返事を出さないから、この数年は来なくなったけど。いまさらペンフレンドでもないしね。ただね、今だったら違ってたわね。私はきっと結婚してたわ。どうしてかというと、人間は別れるものだって分かったから。人間は別れるものだから、会うのよ。そうでしょ?当たり!でしょ?

 ――僕には分からないよ、クレア。あなたが知っていることだよ。

 町外れでハイウェイを降り、デュラムへ向かうチコ=デュラム道路に入る。来るときよりも大分雪が積もっていて、轍の跡がはっきりついている。変にパワーをかけたらスリップは確実だ。アーモンド畑につっこんだらいい方で、木に激突しかねない。

視界も悪い。いつもなら何百メートルも見通せるはずのところが、ほんの二十メートルくらい先までしか見えない。こんな時スカンクでも飛び出してきたらとてもよけられないだろう。スカンクをはねたら大変だ。臭いが染み付いてなかなか落ちない。道路も一ヵ月は臭うだろう。そこを通るたびにはねたスカンクの冥福を祈らされるというわけだ。もっとも、こんな寒い時期にはスカンクも出てこないだろうが。そうか、スカンクも冬眠するのだったか?冬眠、冬眠。hivar...hivaration...hivernation. いや、vではない、bだったかもしれない。帰ったら辞書を開けて独りで調べてみよう。そして・・・それを報告する相手は・・・。

――僕の未来っていうのは、人と別れることなのかな。清孝はそう言った。

 ――ああ、そうかも知れないわ。それでもいいのよ。現に、私はあなたと会ってるわ。もうすぐ別れることになるでしょうけれど、それでも今、あなたといるとうれしいわ。

 ――別れないよ。

 ――私はもう、先が長くないもの。私は永久に、みんなと別れるの。それでもいいわ。色々な人と会って、あなたと会ったから。そしてマイ・ディア、あなたはもっともっと色々な人に会うのよ。

 ――そうだね・・・。

 色々な人に会う。それこそ、『教団』時代に清孝がやろうとしていたことだった。もともと大学のサークルだった『教団』は、人と会えることが楽しみだった。しかし、その結果は?僕は人々に利用され、放り出されただけだった。それでもよかったのか?会わないよりはよかったのだろうか?

 汽笛を鳴らして、すぐわきをアム・トラックの貨物列車が通り過ぎていく。西海岸を縦に結ぶ列車の線路が平行してここを走っているのだ。しかし昼間の便は旅客が二本、貨物が二本であとは深夜と明け方に三本しかない。見掛けることは少ない。

 夏の暑い日、デュラムの町を出るところでやはりこうして貨物列車に追い越されたことがあった。見るともなく見ていると、一番後ろの車両の連結部にいた人に、リンゴの芯をぶつけられた。列車放浪者、いわゆるホーボーという連中の一人だ。わざとぶつけたのではなかったかも知れない。ただ捨てたのが当たったのかもしれないが、清孝はなんだかうれしかった。その人と、ほんの一瞬でもつながりが持てたことがうれしかった。あの男は今頃どうしているのだろう。南の町の倉庫の片隅で暮らしているのだろうか。ニューヨークあたりの慈善宿にたどりついただろうか。それとも、しっかりと仕事を持って、例えばファースト・フードのバス・ボーイかなにかを真面目にやっているのだろうか。

 今の貨物列車にはもちろん、ホーボーなど乗ってはいない。冬はホーボーには過酷な季節だ。しかしそれを過ぎればまた春が来る。ホーボーたちが旅に出る季節だ。そうしたら、・・・。

 デュラム・シティ・リミット。人口550。制限時速25マイル。小さな橋を渡ってデュラムの町に入る。教会のわきに飾ってあるキリスト生誕場面の人形もうっすらと雪をかぶっていた。クレアがほんの少しだけはしゃいで言った。――ハロー、デュラム。アイム・ホーム。

 家具がなくなっていることにはショックは受けたはずだったが、予期していたことだったせいか、クレアは少なくとも清孝にはこぼさなかった。病院から帰ってきたクレアは意外に快活で、元気だった。

 クレアが帰って来て、ウィンもまた楽しそうだった。なにしろこのところウィンはずっと一人で生活していたのだ。言葉がよく聞き取れないこともあってどうも苦手だったから、なるべく話しかけるようにはしていたけれど、一日中誰とも話をしない日も結構あったのではないだろうか。それが大丈夫な人間はいないはずだ。ウィンにだって感情はある。あるはずだ。マギーが出ていってからますます喋ることの少なくなっていたウィンにとって――マギーはなんのかんのとウィンに話しかけることが多かった――クレアの帰宅は生活が帰ってきたようなものだったわけだ。

 ただ、ウィンはいまだにマギーが出ていったことが分かっていないようだった。それを匂わせるようなことも何度か言ったのだが、清孝が帰る時には必ず、マギーによろしく、と言うのだ。マギーの車もないし、もう一ヵ月以上会ってないのに気付かない。清孝は、ウィンはもう今の時間を生きていないのではないかと思うことがある。彼女にとっての時間は、別のところを流れているのだ。

 クレアは朝起きると、よく清孝に電話をしてきた。残った家具の配置換えを考えているのだ。清孝も時間がある限りクレアに付き合った。ソファを空いてしまったファミリールームに運び、コーヒーテーブルを整理する。使わない家具を納戸にまとめ、アール・デコ調の応接セットなどを集めて整えたら、前よりもかえっていい家になった。前は、とにかく家具が多すぎたのだ。

 チコのハード・ウェア・ストアで暖炉に設置する金具を買ってきて、それから薪も買った。薪の方は新聞の三行広告に電話して運んでもらったのだ。このあたりは山が近いから、薪は個人で商売にしている人が結構いる。たまたま電話した人は、やたらに唾をとばす、しかし気のよさそうな大男で、ピックアップトラック一台分の薪を軒下に並べていった。全部自分で切り出してきたそうだ。それで五十ドル。安い安い、と彼は言った。普通なら二百ドルはするぜ、こうして格安で手に入ったのを感謝して、残りの百五十ドルは教会に寄付でもするんだな。

 暖炉に火を入れてみると、ファミリールームはとても懐かしい、気持ちのいい部屋になった。クレアはテレビもライティングデスクもここに運び、もっぱらこのファミリールームで暮らすようになった。どうして今まで暖炉を使おうと思わなかったのかしら、とクレアは言った。こんなに気持ちのいいものってないわね、もっともっと早く使っていればよかった。こうしてみると、ボブもいいことをしてくれたわ。どうやって整理するか、ほとんど諦めてたのに整理してってくれたんだから。それもタダで。ハッハッハ。

 クレアの陽気さも戻っていた。すべてはうまくいき始めていた。清孝はそう思うことにした。

                  19                  

 クリスマス二日前のクレアの買い物は百ドルを越えた。大きな七面鳥に大きなカボチャ、バーボン『サザン・コンフォート』に、クランベリーの缶詰。そして前日の朝から、クレアはディナーの準備を始めた。

 パン粉のようなものを主体にしたスタッフィングをまず作り、七面鳥の腹の中に詰め込む。グレイビーソースを作って七面鳥にかけ、一時間毎にかけなおしながらオーブンで焼く。1ポンドにつき1時間が目安だそうで、クレアの買ってきた七面鳥は十一ポンドだったから、十一時間かかるというわけだ。

 パンプキンパイはカボチャを茹でてこしたものをクリーム状にして、パイ皮に入れて焼き上げる。クランベリーはもう一つ別のパイになった。コーンを主体にしたパンのようなものもオーブン料理で、オーブンはフル回転だ。

 ウィンは銀の食器を出してきて端から磨き、ガラスの大きな器やら銅のカップやらの準備に忙しかった。清孝は庭を掃除して回り、部屋のすすはらいのようなことまでやった。まるで日本の大晦日だ、と清孝は思った。彼の母はそんなことをする人ではなかったけれど、恭子はやった。子どもの頃からやってきてるから、と恭子は言った。――やらないと気持ち悪いの。朝の歯磨きみたいなものね。

 ウィンと清孝はクリスマスツリーの飾り付けをやった。樅の木は庭の一角に生えているうちの一本の先の方を切り、下に十字に組んだ足をつけ、それを大きな鉢に入れてアルミホイルで覆った。切ったのだから長くはもたないが、それでいいのだそうだ。この家では昔からこうやってきた、とウィンが説明した。それでも大丈夫なようにあそこには樅の木が百本も植えてあったのだ、とウィンは言う。今は大きいのが二十本ほどだから、八十回のクリスマスがそうして祝われたことになるが、その辺りはよくわからない。しかしウィンは真面目だった。真面目な顔をしてゆっくり、ゆっくりと箱を開け、飾りの一つ一つに小さなブラシをかけながら飾り付けた。

 ウィンはいつになくよく喋った。そうは言っても、ウィンの分かりにくい、独り言のような喋り方だ。コミュニケーションとしては難しく、会話というよりはウィンがつぶやいて清孝が聞くという体制だ。それでもウィンの話は貴重だった。必要な話以外ほとんどしたことがなかったのだ。

 ――この飾り。私が結婚した最初の年に夫が買ってくれたの。ウィンが持っていたのは、羽の部分が針金だけになってしまった天使の像だった。顔の部分も欠けてボロボロだったが、ウィンにとってはとても大事なものらしかった。

 ――優しい人だったんだね。清孝はウィンに言った。

 ――夫はイギリス海軍の将校だったの。写真見せたかしら。見せてない?そうだったかしら。クリスマスにも家にいないこともあったから、私はよくこれを一人で飾ったわ。そしてのちには娘たちと。

 ――娘さん?

 ――イェシュ、私の娘たち。三人娘がいたのよ。みんな幸せに結婚してるわ。

 ――イギリスにいるの?

 ――一人はレイク・タホのそばにいるわ。きれいな湖。キヨもいつか行くといいわ。気候もいいし。森がきれいだし。ギャンブルも出来るわ。私はしなかったけど。

 ――行ったことあるんだね。

 ――とてもいいところだったわ。もう一度行きたいわね。もうずっと前のことだけど。 ――今は?娘さんは・・・

 ――これはロンドンのデパートで買ったの。買った時も覚えているわ。ウィンは清孝の話には構わず、別の飾りを持ち出して話し出す。――右側にクリスマス・ブーツの飾りがあって、左側にこの教会があって。どっちにしようか、娘三人が喧嘩してたわ。そこで私が決めたの。これがいいって。私がそう言ったら、三人とも、すぐに賛成したの。それでみんなで交代で持ったのだわ。エミーが持って、クリスが持って、スーザンが持って、それから私が持った。それからまたエミーが持った。一番大きかったから、一番長く持つんだ、と言って。スーザンはちょっと持つとすぐ私に渡すの。あの子はかわいそうだった、いつも控え目で、おとなしかった・・・。

 ウィン、ウィン!クレアが呼んでいる。イエシュ、クレア。今行くわ。ウィンが立ち上がり、腰を伸ばす仕種をした。清孝も一緒に立ち上がる。――ウィンて、クレアと姉妹なんだって?清孝は聞きたかったことをさりげなく口にしてみた。

 ――義理の姉妹、ウィンが言った。――姉妹じゃないわ。義理の姉妹だわ。

 ――ああ、そう、義理の姉妹。清孝もそれにあわせて言い直す。――でも、それじゃあ・・・

 ウィン、ウィン!今すぐ来てちょうだい!

 イエシュ、クレア。今行くわ。ウィンはさっきとまったく同じ調子で返事をし、清孝に片目をつぶってみせた。またあとで、話しましょう。それからゆっくりとキッチンの方へ歩く。もしかすると、ウィンはメイドの役柄を自分に課して、それを楽しんでいるのかもしれない。清孝はその後ろを歩きながらそう思った。やらなくてもいいメイド役を自分で引き受けることで、自分を引き立てているのかもしれない。

 ウィン、この間出しておいてって言ったシルバーのミゾが見つからないのよ。出してくれたの?

 ――シルバーのミゾ。

 ――ノゥ、ミゾじゃないわ。分かってるでしょ。皿よ、皿。当たり前でしょ。

 ――シルバーの皿。

 ――まわりに天使のついた、大きな皿よ。あれに、このナプキンをあわせてみたいの。どこにあるの。

 ――まだ出してないわ。上の棚の中にあると思うわ。

 ――じゃあまだ磨いてないの?damn、それじゃ使えないじゃないの!早く出してちょうだい、そして磨き上げてよ。

 ――OK、クレア。

 ――あ、僕が出すよ。あそこの棚だね。いや、大丈夫、この上に乗っちゃえば。ほらね。こっち?これかな。

 ――ああ、サンキュー、マイ・ディア。親切ね。それ、いや、それじゃなくて、その大きい方。把手のついた・・・

 ――サンキュー、キヨタカ。ウィンも言った。――御親切に。

 ――どういたしまして、ウィン。はい、受け取って。

                  20                  

 イブの夜には清孝はトミコのところのパーティにでかけた。盛大なパーティで、五十人くらい集まっていた。その中にはもちろん、マギーもいた。マギーはヒスパニックと思われるボーイフレンドと一緒だった。トミコが気を遣って清孝とマギーを会わせないようにしていたけれど、マギーはまるで気にしていない風に清孝に話しかけてきた。

 ――ハイ、キヨ。どうしてた?

 まるで一緒に住んだことなどないような、気楽な調子だった。マギーにとって、友人は友人で、こだわりも何もないらしかった。清孝もそれに合わせるように返事を返した。――別に。元気だよ。

 ――そう、よかった。会ったら話そうと思ってたんだけど、あのメキシカンガールのこと覚えてるでしょ。家出して、心配していた子。見つかったのよ、サンフランにいたの。なにしてたのか、そのあたりはちょっと曖昧なんだけど、とにかくなんとか戻ってきたわけ。で、その子、結局私が引き取っちゃった。

 ――え、引き取った?

 ――そう。ほら、色々あったじゃない、もうあれ以上母親の元には置いておけないし・・・

 ――母親?

 ――そう、母親。あら?そうか、そのあたりから話してないんだね。そう、父親に問題があったのはもちろんだけど、母親にも問題があったのよ、色々と。だからこそカウンセリングに来てたわけでもあるんだけど。まあ、細かいことはおいといてもね、カウンセラーがクライアントの生活に関わっちゃうのなんて完全にルール違反なんだけど、まあ最初から私は冷静なカウンセラーじゃないから。とにかくそれで、今は突然寄せ集めのファミリー生活なのよ。

 ――ふうん。

 いつもよりほんの少し早口で喋るマギーは、いつもと変わらず元気で楽しそうだった。昔と同じだ。考えてみればこういう関係だった時が長かったのだ。というよりは、セックスするようになってからだって、ずっとこういう関係だった。マギーはいつでもマギーなのだ。以前も、今も、これからも。いい友達。なにをしてもそれ以上には近づけないけれど、楽しい友達。

 ――そうだ、ちょっとまって、レオに紹介するわ。レオ、レオ!

 レオ、と呼ばれてきた男は、近くで見ると、遠見よりもはるかにふけて見えた。優しさがそのまま目尻に張りついたような、物静かな雰囲気だ。プエルトリカンだろう。背はあまり高くなく、体格は清孝と同じくらい。清孝はなんとなくほっとした。親しみの持てる相手だった。

 ――キヨ、こちらがレオ。今の同居人。自然保護センターデボランティアしてるの。レオ、こちらがキヨ。私の前の同居人。

 やあ、こんにちわ。レオが手を伸ばしてきた。体に比べて大きな手で、厚みがあった。清孝はなんと言っていいか分からず、ただその手を握った。

 ――君のことは聞いてる、とレオは言った。――彼女にとって、君との生活は楽しいものだったらしい。いつもそう聞かされている。

 ――ああ、なるほど。

 ――君はよく、ベーグル・パンを焼いたんだって。

 ――ああ。好きだから。

 ――マギーはよく、キヨのベーグルは絶品だった、もう一度食べたいなんて言っているよ。二つに割ってクリームチーズをはさむのがおいしかったって。

 ――ああ、清孝は苦笑した。――あれは、新聞の記事を見てやってみたものなんだけど。マギーは気に入ってたね。じゃあ、また今度焼いて届けようか。

 ――ほんとうかい。ぼくも食べていいかな。

 ――もちろん。いつか作って届けるよ。ただ、問題があるんだ。ベーグルはネタを湯に入れて煮るんだけど、大きな鍋はマギーが持っていっちゃったから。清孝はマギーの方をちらっと見た。学生時代から使っているという古いアルミ製の鍋で、安物なのだが大きくて便利だった。マギーと清孝は、ルームメイトになった当初からそれでシチューやポトフを共同で作ったりしたものだった。マギーは台所用品は殆ど置いて行ったのだけれど、それだけはワーゲンバンに積んでいった。

 ――ああ、そうか。清孝に向かって、レオがちょっと困ったように笑った。マギーがその鍋を重用しているのはレオも知っているのだ。今はこの男がマギーと生活しているんだ、清孝が実感した瞬間だった。レオの視線が数秒間空中を漂った。目尻に深い皺。歳はマギーより上くらいかもしれなかった。――まあ、それにしても、いつか作ってくれよ。

 ――OK。

 二人は黙り、それからどちらともなく手を出した。その様子を見ていたマギーが自分の両手をこすり合わせて清孝に言った。

 ――さてと。これでサミットは終わりね。とにかくよかったわ、あなたとまた会えて。連絡取り合いましょうね。

 ――OK、清孝はもう一度同じ口調で言った。二度と連絡をとることもないだろう。ただそう言ってみるだけだ。

 トミコのパーティは続いていたが、清孝は十時前にはツリーハウスに帰った。真っ暗なエントランスに車を入れるとクレアのメインハウスの台所にまだ明かりがついているのが見えた。人影がゆっくりと動いていた。イブの夜、清孝は普段はあまり見ないテレビをつけっ放しにしてベッドに入った。

                  21

 クリスマスの朝十時、言われた時間に清孝はメインハウスに出かけた。クリスマスプレゼントは持ってくるな、とクレアに言われていたから、手ぶらで、いつもの格好でいつもの調子だった。しかしメインハウスはいつもとはかなり様子が違っていた。ウィンと飾ったツリーがリビングを彩り、暖炉の火が赤々と燃えていた。コーヒーテーブルの上に大きなろうそくと小型の金魚鉢のようなガラスの容器が置かれ、その中にはキャンデーが一杯に詰められていた。

 ――いらっしゃい、マイ・ディア。気取って言ったクレアは、緑色の地に赤い小花模様のワンピースを着ていて、これもまたクリスマスだった。

 ――わあ、すごい、クレア。クリスマスツリーみたいだ。清孝はびっくりしてみせた。よく見ると胸にはサンタクロースのブローチまでついているのだ。なかなか見事だった。 ――もう、二十年くらい前から着てるワンピースだからきつくなっちゃって。クレアは両手を腰にやるいつものポーズですこし反りかえって言った。――一年に一回だけ出してくるんだけど、それでもこんなに長く着るものじゃないわね。

 ――そんなことない、よく似合ってるよ。とてもクリスマスらしくて、いい感じだよ。清孝が言ったのは本心だ。

 ――そう?ありがとう。あなたがそう言ってくれれば、こうして恥ずかしい格好をしている甲斐もあったというものだわ。

 普段は買い物に行く時だけかけるチェーン付きの銀縁眼鏡をちょっと押し上げて、クレアはひとりで頷いた。それから、くるりと振り返った。よく手入れされたシルバーブロンドの髪に、ろうそくの炎が反射した。

 ――それではまず、食事前のアルコールといきましょうか。

 その声に合わせるように、ピンクのワンピースを来たウィンがお盆にグラスをのせて持ってきた。いつもよれよれのパンツにエプロン姿のウィンは、さらに新鮮だ。よくみると二十年どころではない、彼女が娘時代に着たのではないかと思えるくらいに古臭いデザインだったが、それでも背の高いウィンは立派に見えた。ウィンは頭も小さく、少なくとも体型だけはモデル並みだ。

 ――メリークリシュマシュ、キヨタカ。ウィンはそう言って、それからウインクした。片目だけをパチッと閉じる、チャーミングなウインクだ。

 ――これはね、サザン・コンフォートっていう、えーと、バーボンね、そう、それでつくったカクテルなの。あなたがバーボン飲まないのは知ってるけど、これはちょっと特別だから、飲んでみて。名前は、・・・えーと、名前は・・・なんだったかしら、ウィン?(「知らないわ」)そんなことないわ、あなたは知ってるでしょ、damn、まあいいわ、私の家では子どもの頃からクリスマスには欠かせないカクテルだったのよ。

 グラスに入った液体は、上が泡立っていて華やかだ。どうしてクリスマスにバーボンなのか、ちょっと不思議だったがとにかく清孝は受け取った。じゃあ、ね。軽くグラスを持ち上げて、口に含む。コーンでつくったバーボンの硬い感じの代わりに、喉を通ったのは柔らかく暖かいカクテルだった。

 ――クレア、おいしいわ。ウィンがクレアにそう言う。

 ――本当だ、おいしい。清孝も言った。

 ――この間あなたと買い物に行った時、ずっとこのバーボンの名前が思い出せなくてね、見つからなかったらどうしようかと思っちゃった。サザン・コンフォート。完璧でしょ。覚えたのよ。ばかみたいね、さっきからラベルを見ながら何度も口に出して練習しちゃった。どうせ何日かすればまた忘れるのに。さあ、じゃあもう少し準備をするから、そっちに座って待っていてちょうだい。ごめんなさいね、まだ全部準備が出来てないのよ。

 ――なにか手伝おうか。

 ――いいのいいの。今日はあなたは大事なゲストなんだから、そこのキャンディを食べてて。テレビつける?本読む?

 清孝は古いソファに座って、部屋の中を眺める。もちろんいつも見慣れた部屋ではあるけれど、それでもクリスマスだというのは少しは特別だ。クリスマスの朝のプレゼントの包みだ。まだ暗いうちに目を覚ますと枕元に置いてあったプレゼントの包み。思い出すと、今でも心が暖かくなる。

 小さなネコのぬいぐるみ。「ぼうやとお菓子」という、多分販促用かなにかのレコード。「黒馬物語」という本。そういえば、「星の光ったその晩に」などというキリスト降誕を描いた絵本もあった。父親のことはほとんど覚えていないけれど、父のいたクリスマスというのもあったはずだ。それとも父は、クリスマスなど嫌いだったろうか?

 クリスマス。恭子と結婚したのは十一月で、クリスマスは楽しい時期だった。近くの肉屋で鶏のもも肉を買ってきて、恭子が作った、クリーム抜きのクリームチーズケーキを食べた。クリームは、健康上の理由などではなく、ただ恭子が入れるのを忘れただけだ。少し間が抜けていたが、さっぱりしていて悪くはなかった。そして何よりも、それから一週間は恭子をからかう材料にして楽しめた。年があけてしばらくすると、例の『教団』の問題が起こってくる。その少し前の、短い間の平穏な生活だった。

 ――マイ・ディア、ごめんなさい、やっぱりちょっと手伝ってくれる?

 クレアに呼ばれて清孝は立ち上がる。二日前に出した銀の食器が、ピカピカに磨きあげられてテーブルの上にのっている。よく見ると随分傷がついてはいたけれど、それにしても立派な食器だった。

 ――そのお皿のはじをちょっとおさえててほしいの。こっちだけでひっくり返ったら大変だから。そう、それよ。サンキュー、マイ・ディア。そう、そこよ。

 クレアがオーブンを開けた。白煙と共に、さっきから部屋中に漂っていたのと同じ香りが飛び出してきた。ジュジュッと油のしたたる音がする。クレアが厚いキルト製の手袋のようなものでベーキング・シートを引き出した。きれいな色の七面鳥の丸焼きだ。

 ――いい、移すわよ。そこ熱いから気をつけて。だめ、ウィン、違うでしょう、どいてちょうだい、いいから、私にまかせて、手をどけなさい。

 皿の真ん中に、ちょうどいい具合に七面鳥がのった。ウィンがボウルに入った野菜をそのまわりに並べていく。グリンリーフに、コーン。赤カブも飾りだ。

 さあ、これでいいわ。クレアが七面鳥にグレイビーソースをかけながら言った。あとは、コーンブレッドと、スープ。こっちがベイクド・ポテト。食後にはクランベリー・パイね。ごめんなさい、もっともっと準備したかったのに・・・。

 ――そんなことないよ、すごい御馳走。うれしいなあ、クレア。クリスマスをクレアのところで過ごせるのなんて、ほんとにうれしいよ。

 ――あなたが来てくれるようになってから、もう半年たったのよね、とクレアは言った。――あなたみたいな若い人をクリスマスディナーの今日こんなとこにひきとめて、ほんとに悪かったと思ってるわ。でももう、あなたがいなかったら、私はどうしていいか分からない。本当に、マイ・ディア、あなたに感謝してるわ。

 ――私もよ、キヨタカ、とウィンもゆっくりと言った。

 ――いやあ、別に、なにもしてないけど。清孝はどう答えるべきか迷いながら、結局日本風とアメリカ風をまぜあわせた返事をすることにした。――まあ、そう言ってもらえるならうれしいけどね。

 ――本当よ、マイ・ディア。あなたがいなければ・・・ああ、でもそんなこと言ったらいけないわね。私のことなんて気にすることはないのよ。そう、そうなのよ、マイ・ディア。いなければいないで、どうにでもなるわ。今までだってそうやって来たんだから。

 クレアは自分に言い聞かせるようにして、うん、うんと独りで頷いている。小さな子どものような仕種だった。

 ――大丈夫だよ、クレア。僕はどこにも行かないから。

 ――いいえ、いいえマイ・ディア。クレアは急に強い調子で言った。――そんなことは言わないの。あなたは去っていくのよ。私は知ってる。どうしてかと言えば、私がずっとそうしてきたからなの。私は何人もの好きな人や大事な人と別れてきたわ。そしてまた、今は独りになったの。それでいいのよ。人は、別れて独りになるものだわ。私は気にしないから、あなたはいつでも私なんか放り出して好きなことをしてちょうだいね。

 ――クレアったら。清孝は仕方なく首をかしげてみせた。クレアを放り出して、そして、日本に帰るか?日本に帰って、そして何をするのだ?何もすることはない。それとも・・・それとも、『隊長』の『教団』に対抗するために新しい組織でも作るか?

 ――さあ、とにかく食べて、食べて。クレアがすすめる。――ほんとは七面鳥は一家の主人が切り分けるのだけど、私はできないから、清孝がやってちょうだい。あなたはうちの一番大事な人なんだから。

 清孝は言われるままに七面鳥を大きな飾りナイフで切り分けた。十人は食べられる量だ。クレアとウィンの皿にそれを取り分け、自分の皿にも盛る。大盛りだ。

 クレアは彼が食べるのを見ているのが好きだ。男は食べるものだ、とクレアは思っている。多分に偏見っぽいのだが仕方ない。清孝のために支度したようなクリスマスディナーなのだから、清孝は懸命に食べる。

 ――今年のクリスマスは楽しいわ、クレアが言った。あなたがいてくれると本当に楽しいわ。

 ――僕も楽しいよ。本当に。

 ――日本でもクリスマスは祝うの、ウィンが言った。

 ――そうだね、祝うといっていいのかな。季節の祭りとしては、伝統的ではないけれど、クリスマスはみんな好きだね。ただ、ほら、日本はもともとキリスト教国じゃないから、クリスマスも宗教的じゃないんだ。もっぱらパーティの季節という感じかな。

 ――アメリカでだってそうよ。宗教的じゃないわ。だってほら、私だってもう何年も教会なんて行ってないのに、こうして祝ってる。

 ――イギリスでも同じだわ。クリスマスは宗教的ではないわ。

 ――そうなのか。じゃ、僕も楽しめばいいんだね。

 ――そうよ。大事な人たちが集まって楽しむ季節なのよ。

 大事な人たちが、集まって。清孝は少しだけ考える。大事な人。僕の大事な人たちは・・・。

 ――さあ、食べて、食べて。クレアが言った。ほら、もっと食べて。

 ――ありがとう。食べてるよ。とてもおいしいよ。

 

 いやな訪問者が来たのは、デザートを食べている時だった。清孝は普段の三倍近く腹に詰め込んで、それ以上食べられなかったのだが、それでも食べた。

 玄関のチャイムが鳴った。私が出るわ、口一杯にクランベリーパイを詰め込んでいたウィンを制してクレアが立ち上がった。とても珍しいことだが、クレアの、ウィンに対するクリスマスサービスなのかもしれない。シャンキュー、クレア。ウィンがもごもごと口を動かした。

 ――ウィン、誰だろうね、清孝は小さく切った七面鳥の肉をつつきながら言った。

 ――そうね、誰かしら、ウィンが清孝のまねをするかのように繰り返す。玄関の方では、低く喋る男の声とクレアの強い調子の声が聞こえてきた。

 あの弁護士の声だ。間違いない。清孝ははっと緊張した。――ウィン、弁護士だよ。ボブの弁護士のトミー・グレアムだ。

 ――ああ、イェシュ。ボブの弁護士のトミー・グレアムね。

 ――なにしに来たんだろう。

 ――そうね、何しにきたのかしら。クリスマスだからかしら。

 ――まさか。クリスマスにクレアのところに遊びにくるわけもないよ。

 ノウ、というクレアの声。そしてまた、ぼそぼそと喋るトミー・グレアムの声。ノウ、ノウ、ノウ。帰ってちょうだい。ゲストがいるんだから。きょうは大事なクリスマスディナーなんだから。

 クレアの声がだんだん叫び声に近くなってきた。清孝は落ち着いて食事をしているわけにもいかなくなって、玄関に出ていった。ウィンもあとに続く。グリーンが入ろうとするのをおしとどめるように、クレアが両手を腰に当てたポーズで入口をふさいでいた。

 ――お、やあ、キヨタカ。来てたんだね。トミー・グレアムがクレアの肩ごしに挨拶をした。

 ――やあ。清孝はちょっとうなずいた。

 ――そうか、君がゲストか。グリーンは、口のはしをちょっと曲げて笑った。

 ――そうさ。あなたは?歓迎されないゲストらしいね。清孝は言った。イエス、イエス。クレアが肩を怒らせる。あなたは歓迎されないゲストよ。聞こえた?あなたは、歓迎されない、ゲストよ。

 ――どうも、このクレアには嫌われちゃってね。困ったもんだよ。僕は決してクレアの悪いようにはしないつもりなんだけど。

 ――ああ、ああ、そうでしょうとも。クレアが怒鳴った。――ありがとう、ありがとう。とにかく今は帰ってちょうだい。あんたの顔なんか見たくもないわ。すぐに帰ってちょうだい。

 ――トミー、そうした方がいいと思わないか。清孝は肩をすくめてみせる。クレアが震えているのが分かった。顔は見えないけれど、興奮して赤くなっているのが手にとるように分かる。もともと血圧の高いクレアにとってはよくないことだ。

 トミー・グレアムは、はげ上がった頭を片手でもむような仕種をし、それから清孝に向かって言った。――オーケー、分かった。きょうは帰ろう。でも、別に僕はクリスマスディナーの邪魔をしに来たわけじゃないんだよ。クレアがもし寂しがってるようだったら、家のディナーに招待でもしようと思って来たんだ。まあ、君が来てくれているのなら安心だ。クレアも喜んでるだろう。キヨタカ、僕からも頼むよ。クレアにはよくしてやってくれよ。

 あんたの関係ないことでしょ!クレアが下を向き、体を震わせて叫んだ。

 ――分かった、分かった。じゃあ、僕はこれで。トミー・グレアムは少し慌ててクレアを手で制し、二三歩下がった。そしてすぐ前に停めたBMWに乗り込みながら言った。――だけどクレア、分かってるだろう。あなたにはもう、権利はないんだから。

 ――ああ、damn,damn,damn!

 部屋に戻っても、クレアはまだ興奮して肩を大きく上下させていた。顔が赤く、目も充血している。口を何度も開き、閉じる。口の中であくびをしているような感じで、清孝は今にもクレアが倒れるのではないかと心配した。

 ――クレア、落ち着いて。清孝は言って、クレアの肩を両手で支えた。――だめだよ、そんなことで興奮したら。クリスマスだからって彼も言ってたじゃない。本当に親切な気持ちで来たのかもしれないよ。ね、クレア、落ち着いて。

 頭が震えている。首筋に力が入っている。清孝はクレアを抱きしめた。わきの下に手をいれ、背中をさすった。クレア、大丈夫だよ。僕がいるから。知ってるだろう、僕がいるんだから。

 ふっとクレアの体から力が抜けた。清孝は、崩れ落ちるのかと思ってあわてて力を込めたが、そういうわけではなかった。見ると顔色も普通に戻っていた。そして、そうね、と小さな声で言った。とても小さな声だった。――マイ・ディア・エンジェル、あなたがいるのね。

 そうだよ、クレア。僕がいるよ。清孝はクレアを支える。おお、神様。すぐ横でウィンが呟いた。見ると彼女は、胸の前で両手を組み合わせて清孝を見つめている。違うんだ、ウィン。僕は神様じゃない。僕には何にも出来ないけど、でも・・・

 ――分かってるわ、分かってるわ。クレアが首を横に振った。――大丈夫よ。私は大丈夫。あなたは優しいキヨだわ。ほら。名前も知ってるわ。マイ・ディア・エンジェル。私は大丈夫。ただ、もう少しだけ、こうしていて。思い出すのよ。こうしていると。色々なことね。昔のクリスマスのこと。ハズバンドのこと。彼と一緒に食事に行ったこと。子どもの頃のことも。みんな、みんな思い出すわ。私は自分勝手だった。でも幸せだった。好きなことたくさんしたわ。私はずっと幸せだった。楽しいことばかりだった。みんなに迷惑かけたわ。色々な人に冷たくしたわ。それはいけなかった。でも、私は幸せだったんだわ、その人たちのおかげで。今も。今も幸せだわ。幸せなことを思い出せるのは、幸せだわ。あなたがこうしててくれれば。何も怖いこともなくなるし。マイ・ディア、少しだけ、私に夢を見させてね。

 清孝もまた思い出していた。自分を頼ってくれていた人のこと。そして去っていった人のこと。冷たい視線、暖かい視線。

 たくさんの人間たち。町の人たち。アルバイト先の人々。大学のキャンパスを行き来する無表情な顔、笑い顔、寂しい顔。ウィンが祈っている。僕はウィンの神様になっているのか。信じられる人。僕は信じる人がいなかった。でも僕は今、信じられている。

 僕は一人かもしれない。僕は、なにかをしなくてはならない。僕の人生はまだ始まっていない。始まらないうちから、逃げて来てしまった。冷たい日本、暖かい日本。たくさんの人が、僕の表面だけを見て、笑い、叫び、僕は逃げた。人がいる。僕のするべきこともある。僕はやはり、帰るだろう。いつか、やはり帰るだろう。

 清孝はクレアの部屋を見回した。光っている。確かに部屋が、光っている。『光輪』のせいだ。清孝には分かった。彼の『光輪』が、あたりを明るくしているのだ。そんなことはないはずだった。今まで、決して外に光を出さなかった。だから清孝は、自分で『光輪』の光を見たことがなかったのだ。それが今、部屋を明るくしている。

 クリスマスツリーが光っている。テーブルも光っている。テレビも光っている。しかし清孝には、そうおかしなこととは思えなかった。当然だと思った。今までもそうであるべきだったのだ。クレアに頼られて、僕は他のものを光らせることもできるようになったのだ。明るい。光とほんの少しの影。

 ――キヨタカ。テーブルに座ったままのウィンが呟いた。――あなたは、神様なの?

 ――もちろん違うよ。でも、そうなるのも、いいね。

 神様になる。それもいいことかもしれない。清孝は思う。できるかもしれない。僕は、そうなりたい。

 ――ああ、マイ・ディア・エンジェル、クレアがまたつぶやいた。

 ――行かないよ、クレア。僕はどこにも行かないよ。清孝は呟いた。――大事な家族なんだから。

 そう言いながらも清孝は考えている。自分の国。自分の未来。まだ知り合っていない人々。これから始まる。何かがある。何かが。

 部屋がますます光っている。

                  了