一方通行二車線の道路に、ジプニーが連なって排気ガスとロックミュージックを撒き散らしている。派手な装飾をつけた銀色の乗合バス、日本製の小型トラックエンジンを積んだジプニーは、そのどれもが満員だ。乗客は、わずかな空きを見つけては飛び乗り、また飛び降りる。
道路の両側には赤や青のネオンサインをつけたバーが並んでいる。「プッシーキャット」「ドラゴンレディ」「ブルーフォックス」「ローズガーデン」。店の中には小さな舞台があって、ビキニ姿の女の子たちが、所在なげに体をくねらせている。舞台を囲むカウンター席に陣取っているのは、欲望をたぎらせた男たちだ。様々な国の、様々な体格の男たちがそれぞれに女の子たちの品定めをしている。
マビニ通り。マニラ随一の夜の街だ。呼び込み、両替屋、たばこ売り、物乞い、たくさんのフィリピン人と、それに劣らずたくさんの外国人が行き来している。
きょうから一週間の休暇でフィリピンにやってきた桧山夏雄も、その外国人の一人だった。
あちこちのバーの呼び込みから声をかけられるのだが、どこに入るわけでもなく、そうこうしながらもう、かれこれ同じ通りを三往復している。ユウジュウフダン、子どもの頃からいつも母親に言われてきた彼だ。職場ではもう若手でもなくなりつつある夏雄だけれど、こういう場所では子どもの時と変わらない。
夏雄は、白いシャツを着た客引きの男と目があったところで足を止めた。骨張った黒い顔に口髭をはやした男が、他の客引きと比べて特によかったというわけではない。ただ、さすがの夏雄もそろそろ疲れてきていた。そろそろユウジュウフダンに決着をつけたかった。
――しゃちょう、わかいオンナたくさんたくさん、スケベスケベ。どーぞどーぞ。客引きは、立ち止まった夏雄に勢い込んで言った。
そんなにスケベな子ばかりじゃ怖いけど......。夏雄は自分に向かって小声で呟く。
――ほんとよ、しゃちょう、ナンバーワン、ナンバーワン。いいこたくさん。みんなスケベ。みんなスケベよ。
スケベ、スケベに押しまくられて、夏雄の心臓の鼓動は三十パーセント増しの速度で打ち始めた。下半身の方はもう五十パーセント増しでうずいている。夏雄は高まる欲望と期待と恐れとに足をふらつかせながらその店に足を踏み入れようと一歩踏み出した。
ちょうどその時だった。夏雄のわきで、すさまじい日本語の怒鳴り声が爆発した。
――きさまら、いやしくも帝国海軍の末裔だろうが!こんなんとこでわがヒノモトの恥をさらすようなまねをして、天皇陛下様に申し訳ないと思わんのか!
大きな声だった。夏雄の鼓動は二百パーセント増しだ。あやうく転びそうになりながら、夏雄は一メートルも飛びはねた。
驚いたのは夏雄だけではない。客引きの男も同じだ。彼は機敏に退いて、夏雄の鼻先でほとんどドアを閉めかけたほどだった。
セーラー服は、幼稚園児のようなそろいの帽子をかぶった、日本の自衛隊員だ。まだ少年の体型をしているし、顔つきも幼い。こんな場面にどう対処したらいいのか分からない様子で、四人が四人とも、両手をだらりと下げ、口を半開きにして立ち尽くしていた。
怒鳴られたのは自分じゃなく、あいつらだ。そう気づいた夏雄は、ほんの少し余裕を取り戻し、その異様な男を観察する。
小柄な、そのくせやけに頭の大きな男だ。頭二つ分高い四人のセーラー服姿と向かい合って、胸を張り、肩をいからせて立っていた。
Tシャツの上に青いハッピをだらりと着て、下は半ズボン、足にはゴム草履。若くはないが、しかし年寄りでもない。ぼさぼさ髪に黒ずんだ顔。下手な漫画家の描く悪役のようにつり上がった眉。大きな口。
夏雄は、どこかでこんな人物を見たことがある、と思った。よく知っている人物だ。暗さの漂う、眼光鋭い人物。こわそうで、それでいて限りなくユーモラス。夏雄は印象を記憶の中にたどる。森の中......ねじくれた木の生い茂る、もやもやと妖気ただよう森の中に住む、あの人物は......。
ゲゲゲの鬼太郎。夏雄の頭に、漫画の主人公の名前が浮かんだ。最後の妖怪を父とし、人間の母から生まれた少年、ゲゲゲの鬼太郎。
そうだあれだ、夏雄は思った。歳はくっているけれど、霊力をもった下駄とチャンチャンコを身に着けたあの主人公に、この人物はそっくりだ。
こんなところで鬼太郎を思い出すとは思わなかった。そういえば、隣のアパートのお兄ちゃんが鬼太郎が好きだった。子どもが生まれたら鬼太郎と名付けるんだ、などと言っていたけれど、一体どうしただろう。
そんなことを思い出して一瞬ボーッとした夏雄はしかし、次の瞬間、当の鬼太郎に思い切り肩を叩かれていた。
――おいカンジ、事務所行って、若い衆集めてこい。ドスしょってな、俺がこの恥さらしどもに天誅くわえたる。
あ、ああ?突然舞台に引きずり上げられて、夏雄の鼓動は一挙に五百パーセントになった。――なにが......?突き飛ばされた恰好の夏雄が顔を上げると、泣きべそをかく寸前のセーラー服と目があった。セーラー服は、鬼太郎と夏雄を見比べながらあとずさる。
――バカヤロウ、早く行くんだよ。こんな連中は日本帝国海軍の恥だ。天皇陛下様のおんために、腹切らせにゃどうにもならん。おれが介添えしちゃる。チャカも忘れんなよ。
そうか。そう言われれば鬼太郎対自衛隊員、自衛隊の方に肩入れするいわれはない。夏雄はとまどいながらも役割を果たした。――ワカリマシタッ、行ってきます!
さて次にどうするべきか、夏雄が悩むまでもなかった。もう事件は解決していた。四人の自衛隊員は、フィギュアスケートのようなターンを見せて、素晴らしいスピードで走り出した。陸上トレーニングのように真剣だ。一度も振り返らず、両足が宙に浮いている。四人はたちまち人混みの中に消えていった。
アハハ、アハア、アハハハハハ。鬼太郎が陽気な声で笑った。鼻の上に皺をよせ、太い眉を上下に踊らせている。――ざまあみそしる、とんちんかん。諸君の母君、へそおかし。神州日本の恥さらしめ、もう馬鹿な気を起こすんじゃないぞ。
夏雄も愉快になって、ハハ、と小さく笑った。――逃げてった、夏雄は呟いた。
――いや、あなたのおかげだ、礼を言います。ゲゲゲの鬼太郎は、急に真面目な顔をして夏雄の方に向き直った。――私は瀬戸山省三、通称パンダと申します。このたびは危ないところをお助けいただきまして、まことにありがとうございました。両手を膝にそろえ、頭をあげたままのヤクザ式のお辞儀だ。――これも何かの縁、是非一献さしあげたく存じます。
――とんでもない、夏雄はあわてて言った。おかしなことに巻き込まれてはかなわない。ゲゲゲの鬼太郎は、マンガだからいいので、実際に知り合いたい人物ではない。――いいんですよ。それに、僕は何もしてないし。
――そんなことはない、充分助けていただきましたよ。それともなんすか、あんさんも、女買いに来たから忙しいというわけですか。ゲゲゲの鬼太郎、通称パンダの黒い額に、くっきりと太いしわが三本浮かんだ。暗闇の黒い顔に、真っ黒なしわ。
そうだ、とは夏雄には言えなかった。かといってそうでないとも言いにくい。ここはそのための街なのだ。この男は何なのだろう、やはりこの街を取り仕切るヤクザなのだろうか?とにかく、無用なトラブルは避けたい。夏雄は、セーラー服と同じように、そろそろと後ずさった。一歩、二歩。あと一歩。
その時夏雄は、ちゃんちゃんこの鬼太郎のすぐ後ろに、女の子が立っているのに気付いた。さっきからそこにいるのは分かっていたけれど、目を向ける余裕もなかったのだ。しかし見たとたん、足が止まった。あと一歩のかわりに、体が浮き上がった。
ジーンズに大きめの白いシャツを着て、ボブを伸ばしたようなロングヘア。前髪をやや短くして、分け目から額を見せている。素朴で、それでいて理知的な顔立ち。派手ではないが、大きな瞳の落ちついた表情は、今の事件でもまったく動揺していない。しかも、信じられないことだが、その様子からするとパンダ鬼太郎の連れであるらしい。
――あ、紹介しましょう、夏雄の視線に気付いたパンダが言った。――この方は、農村再建運動の活動家で、エスター・ロマノさん。私のガールフレンドです。とはいっても私の場合、誰でも勝手にガールフレンドと呼んでるんですが。
――あ、どうも。えーと、檜山夏雄です。夏雄は日本語でそれだけ言って、その女の子の顔を見た。しかし、考え深そうな黒い瞳はしずかにまたたいただけだ。
――アー、エスター、この人は、日本から来た、ミスター・ナツオ・ヒヤマ。パンダが、日本語そのままのような英語で彼女に言った。
そうか、やはり英語でないといけないのだ。夏雄は背筋を伸ばして身を引き締めた。この日のためにこそ勉強してきた英語だ。仕事の合間をぬって会話学校に通ったのも、がんばって英語で小説を読んだりしたのも、こんな時のためだった。パンダ鬼太郎の紹介が終わらないうちに、夏雄は口を開いた。
――私は、ナツオ・ヒヤマです。仕事は薬剤師で、日本の港町である横浜の公立病院に勤めています。フィリピンへは観光旅行できました。マニラには今日着いたばかりです。マニラは、いい町です。
夏雄は何度も自分でうなずきながら言った。朝から何度も口の中でリハーサルしていた言葉だ。
ああ、分かりました。エスター・ロマノも、今度はうなずいた。――エスター・ロマノです。
やや低い声。口もとに小さく微笑をたたえている。古い日本画にありそうな、静かなものだ。おとなしげな少女にも見えるし、とても意志的な感じもする。子どもにも見えるし、かなり年上であるような気もする。夏雄にはよく分からない。ただ、活動家という語は似合わない、と思う。
じゃ、立ち話もなんすから、食事でも。そう言ったパンダに逆らうだけの言葉も思いつかず、夏雄は結局一緒に食事をすることになった。
パンダに連れて行かれたのは、一本奥に入った通りの、小さなレストランだった。観光客相手ではないが、庶民向けというわけでもない、適度にこぎれいな店だ。席につくと、白いシャツ姿のボーイが来て、てきぱきとオーダーを聞いて下がった。
ビールを注ぎ、乾杯のポーズをとりながら、パンダは言った。
――あらためて、ご挨拶申し上げます。本日はお助けいただきまして、まことにありがとうございました。私は瀬戸山省三、わけあってこの地を第二の故郷と定め暮らしております。ここではパンダで通っておりますので、そうお呼びください。ほんとはそのあとにKがついて、パンダクいうんですが。
パンダック。隣のエスターが、正しい発音を知らせる義務でもあるかのように、はっきりと発音してみせた。
――はあ、パンダック。あの、動物じゃないんですか。大熊猫。
――あなたも面白いこといいますね、パンダが笑った。――でも、違うんです。タガログ語でチビって意味で。ヨリマシです。人に覚えてもらますから。
はあ、なるほど。ヨリマシ。......ヨリマシ?
――それでパンダさん、こちらはかなり長いんですか。夏雄は言った。
――それがね。そうなんすよ。鬼太郎パンダが機嫌良く顔にしわを寄せる。――いやなんとも、そろそろ八年になりますか。居心地がよくて、ついついいついてしまいました。
――はあ、そうですか。すごいな。じゃあ、お仕事は......
――ヤクザです。パンダはちょっと威嚇的に目を見開いてみせて言った。ヤクザ。その言葉を拾ったエスターが、小さく繰り返す。ほらきた、パスポートをはさみこんだ腰ベルトをそっと確かめながら、夏雄は思う。やっぱりね、これだから関わりあいたくなかったんだ。
その夏雄の様子に気づいたパンダが、今度は顔をくしゃっとゆがませた。精一杯の笑顔ではあるらしい。――へへ。ま、ご心配なく。ヤクザとはいっても、売春やクスリを渡世にしてる連中とは違いますから。暴力はふるいません。小指もあるし。
ほら、とパンダが両手を見せた。指が短くて、分厚い手だった。鬼太郎というよりはドラえもんに近い。
そのパンダによれば、あそこで自衛隊員とケンカしたのは初めてではなかったのだという。彼はかつてから、海上訓練と称して集団で買春に来る海上自衛隊について腹を立てていて、日本大使館の駐在武官にまで「話をつけに」いったこともあるそうだ。
――駐在武官。そんなのがいるんですか。
――いるんですかじゃないよ、いるんだよ。どこにだっていますよ。失礼ながら、日本の若い人は現実が分かってない。眉根にしわを寄せたパンダにそう言われて、夏雄は何度目かに首をすくめた。――しかし、特に我慢ならなかったのはですね......。
我慢がならなかったのは、あの「ガキ兵隊」が、パンダと話しながら歩いていたエスターに声をかけて来たことだった、とパンダは言った。パンダが目に入らなかったはずはない。とにかくあたり構わず、フィリピンの女の子と見れば売春婦だとしか思わない、その精神構造が許せない、と彼は言った。
――別に、そばにいた私をなんだと思ってるとか、玄人ならいいんだとか、そんなことじゃないんすよ。そういう問題じゃないんだ。相手の人間性とか状況とか、そういうものをまったく無視して、金を持った日本人なら通りすがりの人間でもなんでも心と体を自由に出来ると思う、その精神構造が許せんのです。制服姿で闊歩して、大日本経済帝国の軍隊が、なんの後ろめたさも持ってない。許せん、まったく許せん。
そうですね、まったく。夏雄がうなずいた。パンダの声がますます大きくなる。
――でしょ。だからね、私は、自衛隊はまず歴史教育をやれと言っとるすよ。駐在武官にも言ってやりました。わが同胞の軍隊はアジアで何をしてきたのか。それをどう隠してきたか。日本はたかだか友好条約と援助金で、それを精算した気になってる。アジアの人たちはそれについてどう思ってきたのか、日本人はどう見られてきたのか、ね。そういうことを学べば、少なくとも日本海軍の制服で、こんなところへ女買いになんて、来られるわけないんすよ......。
食事が運ばれてきた。ようやく話に一段落つけると、パンダはエスターに向き直った。夏雄は硬いベンチの上で尻をもぞもぞと動かし、ほっと溜息をつく。目の前に置かれたスープに手を出すと、レモンのような酸味があった。
入り口のところから、男の子たちがのぞき込んでいる。ボーイに止められながらも、手に持ったものを振りかざしてなにか叫んでいる。雑誌のようなもの、タバコ、かごに入った食べ物、様々なものを中の客に売ろうとしているのだ。夏雄は大きなターゲットであるらしく、彼と目のあった子が一際大きく手を振った。
フィリピンだ、夏雄は思う。僕はフィリピンにいるんだ。あの退屈な日本じゃない。奇妙な鬼太郎、ミステリアスなエスター、トロピカルな食べ物。濃い味付けの豚肉を、夏雄は頬張る。外側が甘酸っぱくカリカリしていて、夏雄には、とにかく異国の味だ。
――エスターさんのこと、話しましょうか、パンダが言った。夏雄はうなずいた。大歓迎だ。――彼女は、さっきちょっといいましたけど、農村再建運動の活動家なんです。
――ルーラル・リコンストラクション・ムーブメント、通称RRM、エスターが英語で付け加えた。――オルタナティブな開発をすすめる、社会開発NGOです。
――そこであなたは働いているんですね、夏雄は直接エスターに言った。
パンダとエスターが顔を見合わせる。パンダがうなずき、エスターが説明を始めた。――RRMは、農村の持続可能な開発を目指して援助を行う団体です。つまり、外部から資金などを投入しなくても村が村として自立できる状態が、持続可能ということです。
なるほど。
――議長はフェリペ・リサール氏で、本部は隣のケソン市にあります。私はそこのメンバでー、コミュニティ・オーガナイザーという役柄です。
分かります。
――私自身は、このルソン島中央部のイフガオ州の出身で、現在そこの支部のうちの五つの村を受け持っています。そこのコミュニティが自立した、安定した状態でやっていけるように、村の人々と話し合って問題点を探ります。そして、必要とあれば資金援助を行い、持続可能な開発をすすめていくのです。
ああ、分かりました。
エスターは、整然と説明を進める。夏雄は自分でも満足のいく的確な応答をしながらも、どことなくすっきりしない。一体何を、どうするんだって?第一、どうして僕に、こんな話をするのだ?
――こうして説明していてもわかりにくいだろうから、RRMの事務所をのぞいてみるといいんじゃないですか、パンダが英語で言った。――ね、エスター。そうしたら、ミスター・ヒヤマも理解しやすいと思うから。
――そうね、エスターがにこりとした。――そうすればいいわ。そうすれば、色々見てもらえるだろうし、もっとちゃんと説明もできるし。
そう......ですね。夏雄はとまどいながら答えた。
金か?宗教か?何をどうしようというのだろう。夏雄の心の中で、怪しい、怪しいという言葉が走り回る。しかし、と夏雄は思う。明日以降の予定があるわけでもない。面白そうなことがあればどこにでも行くつもりだった。
事務所をのぞくくらいなら大丈夫だろう、夏雄は自分にそう確認する。パスポートとクレジットカードさえあれば、あとはどうにでもなる。
――明日の二時、どうですか?説明が出来るようにアレンジしておきますから。エスターが夏雄をじっと見つめて言った。穏やかな目だった。
はい。夏雄は答えた。
そりゃよかった、そりゃいい、パンダが上機嫌で言った。まどうぞ、遠慮せずに。
夏雄は豚肉をつまみあげ、半分かじる。レチョンというのだ、とパンダが言った。――おいしいでしょ。私の大好物でね。来ていただけることになったし、ここは私がおごらせてもらいますから。
大いにあやしい、夏雄はもう一度、思う。
2
なんとはない幸福感で背中が暖かかった。
夢が持続している。どんな夢だったのか、夏雄は、かすかに残るやさしい思いのようなものを振り落とさないように、ゆっくり起き上がる。背筋を暖かな心地よさが通り抜けていく。糊の効いたシーツがかさかさと音を立てる。
アイム・オフ・トゥデイ、夏雄は呟いてみた。英会話教室で繰り返し練習したフレーズだ。アイム・オフ・トゥデイ。アイム・オンザ・ホリディ。ホリディ、アイム・オフ。ホリディ。
背伸びをし、両足を揃えてベッドから飛び降りる。厚手のカーテンを開いてみると、もう太陽は高く上っている。下に見る街は人と車で溢れている。
テレビをつけ、完璧なアメリカ発音でなされる英語のニュースを聞きながら、シャツとアンダーパンツを脱ぎ捨てる。ガラス越しの日差しは暑いけれど、エアコンが効いているから気持ちがいい。腕を曲げ延ばししてみると、自分の体も久し振りに充実しているような気がする。
夏雄はシャワーを浴び、真っ白いタオルをふんだんに使って頭と体を拭いた。
ジーンズにヘインズのTシャツという落ち着ける格好で廊下に出ると、エレベーターのボーイが、愛想よく笑いかけてきた。ハァイ、夏雄も気軽に挨拶をする。
カフェテリア式レストランの朝食も充実していた。何種類ものジュースとフルーツが並び、パンケーキもあれば中華風チャーハンもある。普段はせいぜいパンを一枚口につっこむ程度なのだけれど、今日は違う。夏雄はあれこれ豪華に皿に盛り、コーヒーとオレンジジュースもとって席に運んだ。
まず、マンゴー。青臭さが口に広がる。パンケーキはアメリカ式の薄いタイプだ。夏雄はナイフで十字に切り、重なった四枚をいっぺんに口に入れる。ケチャップをかけたスクランブルエッグ、それからカリカリに焼いたベーコンも、夏雄の好みだ。それらを頬張り、フレッシュジュースを流し込む。
夏雄の隣の席にはアメリカ人の観光客夫婦が食事していた。気楽な服装をした体の大きな人たちだ。ナイフでパンケーキを切り、笑う。フォークでさし、何か言葉を交わし、口に入れ、牛のようにゆっくりと口を動かす。夏雄は比べるともなく、自分の食べている速度を意識してしまった。その夫婦が一口食べ終わるまでに、夏雄は五口、口に運んでいた。 子どもの頃は、食べるのはむしろ遅い方だった。せっかちな母親とよく食べる妹にせっつかれ、父親に怒られた。昼休みの校庭を眺めながらもぐもぐ口を動かしていたのは、小学校一年の頃だ。
中学時代にもゆっくりだった覚えがある。友人たちが弁当を食べ終わったあと、居場所がなくて、一人で窓際に移動して食べ続けていた。
早く食べられるようになったのは、仕事についてからだ。大学を卒業し、市立病院の薬剤師として勤め始めたのが、ほぼ十年前。はじめはのんびり食べていたのに、段々と早く食べるくせがついてきた。やるべきことが次に控えている、そう思うとゆっくりするわけにもいかなかった。早く食べて次の仕事にかかる、そんな習慣が体に根付いていった。
仕事の合間の昼食はもちろん、ゆっくり食べられるはずの遅番の日の朝食も、仕事が終わったあとの夕食も、いつもせわしい。食事だけではなく、なんでもせわしく、忙しかった。
勤務形態の問題ではない。誰に命令されるわけでもないし、休むつもりになれば、きちんと昼休みもとれる。残業も多くはないし、夜間当直はあるけれど、その分の休みも確保できる。
それでも、いつも忙しかった。患者の集中する午前中はもちろん、暇になる午後も、何かの加減であまり忙しくない日でも、休みの日でさえも、夏雄は忙しかった。
毎日毎日、何かに追いまくられていた。急がなくてはいけないといつも思っていた。立っていると座りたくなり、しかし座るとその途端にやるべきことを思いだした。そうしていてもいつも、やるべきことは減らなかった。足りなくなった薬袋を二階に取りに行くこと、ボールペンのキャップを探すこと、伝票の束を事務に届けること。洗濯物を干すこと、しまうこと、カレンダーをめくること、汚れた手を洗うこと、トイレに行くこと、シャツのボタンをはめること。何もせず、のんびりしたつもりで過ごした休日には、時間がまたたく間に過ぎてしまい、さらにせわしい気持ちだけが残った。
時間はある、夏雄は自分に言い聞かせる。今は充分時間はある。あわてることはない、ゆっくり食べよう。そしてゆっくり行動しよう。
食事を終え、ロビーで新聞を読んだあとは、ホテルのプールで泳ぐことにする。
さっきと同じように廊下のベルボーイの挨拶を受け、同じように笑顔の挨拶を交わして部屋に帰る。水着の準備をし、今度はいささかの煩わしさを感じながらまたまた挨拶をしてプールサイドに出ると、はるかな街の喧騒と太陽光線が強烈に夏雄を襲った。二月だというのに、外は、暑い。これが南の国だ。これが、フィリピンだ。
学校のプールよりは一回り小振りだけれど、プールサイドが広い。中国人らしい初老の男性が一人、白人の中年カップルが一組。それだけだ。デッキチェアにタオルを置いて、思いのほか冷たい水にはいる。あとの誰も泳ぐ気配はなく、プールは夏雄の専有物になった。
クロールで数往復、平泳ぎで呼吸を整えて、またクロール。顔が紅潮してくるのが感じられる。呼吸が荒くなる。しかし、苦しくはない。顔を上げた時の太陽の熱さと、水の冷たさが心地よい。体と一緒に流れていく、水のうねり。ゆらゆらとプールの底に映る自分の影。
夏雄は六往復までは数えたが、そのあたりで分からなくなった。こんなところでまで数えることはない、と夏雄は思った。数字は薬局だけで、充分だ。
箱の数を、数える。薬剤を箱から出し、また数える。カプセルを数え、粉薬は分包機に入れ、カウントする。袋書きをしてもう一度数え、それから呼び出しボードに数字を入力する。数字、数字、数字だ。
薬局には何百種ものストックがあるのだが、ドクターのカルテに書かれてくるのはほとんど同じで、せいぜい数十種の薬剤を組み合わせるに過ぎない。まったく症状の違う患者に同じ処方で出すドクターもいて、薬局から問い合わせを出すのだけれど、それは必ず無駄に終わる。夏雄はこの十年間に、薬剤師の意見を取り入れたドクターに会ったことがない。今回っている一九三一一加賀さんの処方ですが、トリフェイン三十ミリグラムというのは何かのおまちがいではりませんか。あー、それは、それでいいんだ、夏雄の耳の中で、若いくせに髪の薄いクターの声が響く。しかし、この方には前回トリクロイドが処方されていますよ。いいんだよ、分かってるんだから。忙しいんだから、いちいち文句つけるなよ。薬局は指通り出せばそれでいいんだ。
そういうことにも慣れて、いつも忙しくていつもせわしなくて、昨日と今日の区別が段々つかなくなってきて、そして夏雄もいつの間にか、薬局の中でも古株になっていた。
当初一々書き留めていた薬剤使用記録をチケット式にすることを提案したのは、勤め始めて三年目のことだ。色分けしたチケットをさらに分類した箱の中に放り込めば、記録の替わりになる。主に購入のために使う記録だから、それで充分だ。比較的時間の空く夕方チケットを整理することにすれば、仕事の均分化にもなる。その頃は、そうした仕事の改善に意欲を燃やしていた。
組合の役員として病院長と交渉し、妊娠した女性を薬局担当から外させたのも、その頃だった。薬局には細かい薬剤が浮遊している。それが妊娠した女性にどんな影響を与えるか分かったものではない。しかしそれまでは、そうした考慮はなされていなかった。それが心配な女性は、退職する以外になかったのだ。夏雄はたった一人のストライキ宣言までして、ついにそれを認めさせた。大して感謝もされなかったけれど、夏雄は満足だった。それが正しいことだったのだ。
パートで働いている人たちの労働条件改善も熱心にやった。それまでいい加減だった院外研修の制度を確立させたのも夏雄の功績だ。日々の仕事に追いまくられていただけでは、決してなかった。毎日、工夫と進歩の連続だった。
それでも、この十年間、と考えてみると、夏雄の頭には暑い電車の中の人いきれや、昼休み後の眠たい薬や、夜勤当直室の小さなテレビや、他の部署に転勤していった人たちや、どちらかといえばまごましたことばかりが浮かんでくる。朝の天井。昼休みのテーブルの隅。ロッカールームで脱いだときに見える、お馴染みの白衣の汚れ。
夏雄はプールから上がり、デッキチェアに横になった。久し振りのハードワークだから少しフラフラする。しかし心地よい疲れだ。
白い制服姿のこれも愛想のよいボーイが、ドリンクを聞きにくる。夏雄はビールを頼んで、空を見上げた。澄んでいるとは言いがたいマニラの空だけれど、日差しは強烈だ。
朝、電車に乗る。病院に入り、白衣を着て、薬局に立つ。窓口と薬棚の間を行ったり来たりしているうちに、昼だ。昼食。そして午後、無表情に待つ患者たちと、同じような挨拶を交わし、繰り返し同じことを説明し、同じように一日が終わる。夕食は外で食べ、時は自分で作り、新聞を読む。テレビは見ることもあるし、見ないこともある。そうしてすぐに夜だ。そして一月がすぐ二月になり、三月になる。
夏雄は学生時代のある日のことを思い出している。女の子を誘い、見栄を張って大枚はたいて出かけたホテルのプールだ。ハワイアンが流れ、白い制服のウェイターたちが行き来していた。
横長の白いサンシェードの下で、夏雄はよく分からないままに注文したカクテルを飲んでいた。暑さと酔いで少し気持ちが悪かったけれど、いい気分になっていた。早くおいでよ、気持ちいいよ。その年初めて泳ぐと言っていた女の子は、花柄のビキニ姿だ。鼻にしわを寄せて笑顔をみせている女の子に、夏雄はゆったりと手を振った。このあとどうやって彼女をものにするか、それが夏雄のその時の課題だった。
カクテルのグラスの中を眺めていた夏雄がふと顔を上げると、目の前にサングラスをかけた髪の長い女が立っていた。胸元が大きく開いた黒っぽいワンピースを着ている。一瞬の後、美しいけれど人形のような顔をしたその女性は、夏雄に顔を近づけ、表情をニヤリと崩した。口がざくろのように赤い。豊かな胸元が挑発的に夏雄の目に入った。その女性は、夏雄の耳元に口を近づけると、こう言った。
――こんな人生が送れたらいいと、思ってるんでしょう。
夏雄はひどくうろたえた。うろたえて、あたりを見回した。自分たちを見ている者はいない。前髪をそろえたおかしな女の顔は、まだすぐそこにある。夏雄は自分の両手を見た。指が震えていた。それを握りしめ、体を固くして目をつぶった。汗が体中から吹き出した。サウナに入った時のように汗がぽたぽた流れ落ちた。頬が火照り、体中が赤くなっているような気がした。
目を開いた時、もう女はいなかった。近くにいた形跡もない。それがさらに夏雄を不安にさせた。夏雄はトイレへ行き、個室に閉じこもった。水着を下げ、性器をしごいてオナニーを二回した。ついでに大便までして、さらに一時間近くそこに座っていた。
それからもう、十年以上たってしまった。夏雄には今ではそれが懐かしいくらいだ。ほんのちょっとしたことで、色々なことが変わっていくと思っていた。壊れやすい、変化しやすいものが、回りにも、自分の中にもあると思っていた。
人生は、と夏雄は思う。楽しいと思ったことの化けの皮が次々にはがれていく過程なのかもしれない。
3
RRMの本部は、ケソン市の中心部、フィリピン大学のそばにある。夏雄はホテルで教わってフィリピンらしいマーケットを歩き回ったあと、ジプニーに乗り、指定された場所で降りた。建物はパナソニックのビデオの看板が目印だ。
階段を上がると、小さなオフィスがあった。夏雄はタイプを打っていた若い女性に声をかけて、自分の名とエスターの名を告げた。女性は愛想よく立ち上がって、奥に引っ込む。
さあエスターが出てくる、夏雄は胸をときめかせながら待っていた。昨晩の様子が思い出される。彼女は可愛かった。落ち着いた静かさがあった。もう一度会えるとは、ラッキーだ。わくわくした夏雄は、ドラえもんに出てくるのび太のように、両手を胸の前で握りしめた。
しかし、話はそううまくはいかなかった。出てきたのは、エスターではなかった。瀬戸山省三、パンダだった。
――や、ゆうべはどうも。RRM本部へようこそ、と言っておきましょうか、パンダははれぼったい顔でそう言った。寝起きなのか、それともゆうべもこんな顔だったのか、夏雄はどうも後者であったような気がする。
――あ、どうも。夏雄は失望の裏返しの、おおげさな笑顔で挨拶した。――パンダさんも、ここのメンバーだったんですか。
――メンバーってわけじゃないんです。ま、ヤボ用でたまたま来てて、とでも言っておきましょか。パンダは¢野暮用」という言葉をやけに丁寧に発音した。
――はあ、なるほど、夏雄はつぶやいた。――野暮用ですか。
今日のパンダは、衿のないシャツに、ダブダブの茶色の背広を着ている。どういうわけか、首から小さな革製のペンケースをつるしている。履物は昨日と同じゴムそうりだ。
一見して、昨晩のゲゲゲの鬼太郎は、眠たいフーテンの寅になっていた。
――ここは力持ってますからね、出入り御免になっていると何かと便利です。こういった方面に興味がなければしょうがないですけど。
――いや、興味あります、夏雄は言った。ロボコップのジェットエンジンのようにとってつけた返事だ。
――一応ね、ここの副議長と会えるようにアレンジしてありますから。色々説明してくれると思います。
――それはどうも。夏雄はとまどいながらうなずいた。しかし、副議長が?説明してくれる?僕はただ、エスターと会う約束をしただけのつもりだったのだけれど......。
――簡単に説明しときますが、このRRMいうのはですね......。夏雄のとまどいは意に介さずに、パンダが説明を始めた。
彼の説明は、カバのように繊細で、ゾウのように大胆だ。夏雄は黙って聞くしかない。概要はこうだ。
フィリピンにはたくさんのNGOがある。それらは寄付や公的資金を受けて、教育や衛生、生活改善の運動を行っている。RRMはそういった組織の一つで、主に農村をターゲットに活動している。その活動は幅広く、出版もすれば医療も行う。しかしなんと言っても、活動の中核はオーガナイザーで、地域に入り込んでの仕事の重要さと大変さは並大抵ではない。オーガナイザーは時間をかけてその土地の人たちと話しあい、意識を喚起して民衆組織を作り上げる。オーガナイザーはみなエリートといってよい大学出で、その人々がこんな運動を作り上げている。
――ほら、昨日会った女の人、覚えてますか。エスター・ロマノさん。紹介しましたよね。彼女なんかも、そういう活動家の一人なんですよ。
覚えてるもなにも、僕は彼女に会いに来たというのに。ゆうべ僕は、あなたと会う約束なんてしてませんよ。もともと、エスターの仕事場を見せてもらうという話だったんですよ。夏雄はもう少しでそう口に出すところだった。もっとも、出しそうになるのと実際に出すとではだいぶ違う。夏雄はそういう時に、出してしまう人間ではなかった。そうだとしたら、何年も病院の薬局でなど働いてはいなかっただろう。ドクターと派手にけんかして、立派に失業していただろうから。
――その、エスターさんたちオーガナイザーは、どうしてそれをやってるんですか。つまり、それが仕事なんですか。それともボランティアなんですか。
――ボランティア?パンダがゆっくりと聞き返す。
――ええ、報酬をもらっていない......
その途端、パンダの太いまゆげが、歌舞伎役者のように上下した。
――あのね、ボランティアというと無料奉仕みたいに考えるのは、日本人の悪い癖すよ。パンダが、それまでより一・五倍くらいの時間をかけた、抑揚を消した調子で言った。――ボランティアってのは、自発的に運動している人ってことで、だからといって、それで実際の生活が成り立たなくちゃ意味ないでしょ。
――あ、いや、すみません。そういうことじゃないんですけど、そりゃ、もちろん給料はもらってると思いますけど、......
――何も食べられなくちゃ飢えちゃうでしょ。飢えないような収入くらい得られなくてどうするんですか。
――はあ、そりゃそうですよね。夏雄は話が妙な方向に進むのに、波間のクラゲ程度にうろたえた。
――ま、一応の生活ができるくらいは、得られなくちゃね。パンダの調子が少し戻った。――どんな運動体でも、専従活動家というのが必要になることはあるんですよ。その人たちの給料が低くていいということにはならないでしょ。びっくりするほど高い給料を得てたら、そりゃ問題すけどね。RRMの活動家は、みんな実によくやってますよ。給料の十倍は働いてます。
そりゃあもうまったく。夏雄はわけのわからないことを言って相槌をうった。パンダは機嫌を直したようで、また講義を始めた。
――フィリピンという国は不思議な国でね、五十年代には東南アジアで一番進んだ国だったんすよ。もともと資源的には豊かな国なんです。それが今では、給与水準一つとっても、最低レベルになってる。それに失業率も高い。マルコスがいけなかったとか、土地改革ができなかったからだとか、色々議論はあるんだけれど、いずれにしても社会が大きな矛盾を抱えてるから、大学を出たばかりの人たちが運動に飛び込んでいく、下地は充分あるんすね......。
手描き地図が壁を飾る細長いレクチャールームで副議長を待っている間も、パンダの話は続いた。フィリピンの社会構造の矛盾から始まって、マルコス政権と日本企業の関わり、日本の対外援助の行方。
約束の副議長が入ってきた時には、夏雄はもう、いっぱしのフィリピン通になっていた。
副議長は、夏雄と同じくらいの歳の、いかにも育ちがよさそうな、爽やかな雰囲気の青年だった。年配の人物を想像していた夏雄は、ちょっと面食らった。青年は、初代の国連事務局長にあやかって父親が名付けた、と自分の名を紹介してから、RRMの概要を説明し始めた。
RRMには3つの柱がある。それは地域開発プログラムと、政策研究プログラム、それに国際協力プログラムであり、設立当初から踏襲されている。また、RRMは民衆銀行でもある。資金が必要になったコミュニティーに低利で金を貸す。各コミュニティでは、持続可能な農漁業を実践するかたわらマイクロビジネスというビジネスを行っていて、自営への道を探っている。斜面ではAフレーム方式という農業をやっていて、焼き畑農業を定地農業に戻そうとしている。そして、そして、そして......。
知的な感じの目を輝かせながら生き生きと説明してくれる副議長だったが、夏雄は次第に奇妙な思いに捕らわれ始めた。段々と現実感がなくなり、自分が嘘の世界にいるように思えてくる。最初から最後まで、これはウソなのだ。真面目な顔をした冗談。大掛かりな虚構。
製薬会社の営業マンが、毎日仕事場にやってくる。彼らはいつも愛想よく、元気だ。忙しい時には薬局まで入ってきて手伝ってくれるし、ちょっとした用を足すのもいとわない。
さすがは檜山先生頭の回転がお早い、顔中笑顔のしわでくしゃくしゃにさせた営業マンが近づいてくる。そうなんですよ、クロプシンの代替ということではなくですね、サブとしてですけど抗体機能を回復させる目途にも処方できるんですよ。そちらも臨床治検300重ねてますし、むしろ積極的にお使いいただきたいんですよ。来月には吉田先生にも薬審の方で回っていただくことになっていますし......
でも、トリルシンみたいなことがあるとね。
いや、檜山先生、そこをつつかれると、ほら、この通り、関ちゃん耳が痛い。しかし、しかしですな、一目でそれを見抜かれるとは、まったく恐れ入ります。大きな声じゃ言えませんが、私も方々の先生方におつき合いいただいていますが、正直なところ、そうやって一目で見抜かれた方は、檜山先生だけですよ。
いや、見抜いたって......
ほんとに。感服いたしました、関本正三郎、こちらに出させていただいて、身の幸運を噛みしめている次第でございます。
夏雄は思う。僕は、薬剤師だ。そして関本正三郎氏は営業マンだ。だけど、この薬剤師は、僕か?そしてこの営業マン氏は、一体だれだ?この人は僕のなにを見ているのだ?僕はこの人間のなにを見ているのだろう。
虚構。本当は、違うこと。役割だけが、なにかを覆い隠している、と夏雄は感じる。それは本当かもしれないし、そうではないかもしれない。
疲れているんだ、と夏雄は思う。
――......。......?
副議長が、張りのある、自信に満ちた声で何か言った。微笑んでいる。夏雄は二秒ほどの沈黙の後、自分が何か問いかけられているらしいことに気がついた。盗み見たパンダの視線も夏雄に注がれている。 ――ああ、そうですね、夏雄は言った。――えーと......
夏雄は何を言ったらいいのか分からずに、ただ何度もうなずいて見せた。何度うなずいても、言いたいことは出てこない。夏雄の意識は副議長の講義からは離れていた。ぼんやりしていても分かるのは日本語の場合で、英語ではそうはいかない。
――案内の方はエスターさんがしてくれると思います、パンダが日本語で言った。――心配はありませんよ。
エスターが、案内?
――いいチャンスでしょう、ねえ、檜山さん。
――はあ。夏雄はうなずく。エスターが案内してくれるのなら、それはきっといいチャンスだ。――でも......?
夏雄の返事を待たず、パンダが副議長に手振り身ぶりで説明し始めた。そうそう、副議長はいかにもうれしそうな様子で首を振った。――それはよかった、私たちも助かります、副議長はそれからにこやかに言った。――みんな歓迎するでしょう。
――どうも。ありがとうございます。夏雄は反射的に言った。結構いい子だった子ども時代の名残りだ。
――じゃ、切符の手配はやっときますから、パンダが言った。――交通費はRRMで負担すると言ってますから、もう大船に乗った気でいてください。明日の朝、七時に迎えに行きます。
はい......。切符の手配?朝七時??迎え???
こうして、夏雄は次の日から、ルソン島の中央部にあるイフガオ州で過ごすことになった。
4
マニラの国内空港から空港とは名ばかりのカワヤン空港まで、小型の双発機に乗って約一時間。そこからさらに、四時間ジプニーに乗ってイフガオに着く。簡易舗装の地方道をメーターの壊れたジプニーで飛ばすスリルは、並の遊園地どころではない。
同行者はパンダと、RRM議長のリサール氏、議長アシスタント秘書のマユという若い女性の三人で、誰一人として似たところのない組合せだ。リサール氏は、アメリカのビジネスマンのようにさえ見える、五十歳くらいの立派な男性。マユはフリルのついた白いシャツにカルバンクラインのジーンズをはいた、おしゃれな女性。一番汚いのはもちろんパンダで、次に情けないのが夏雄。
――リサール氏っつうのはね、とパンダは夏雄に説明した。――えらい人なんすよ。家は名門、フィリピン独立の父と同じ名字でしょ。ハーバード大のグラジュエート出身で、てことは超エリートコースで、一時はマルコスのところの若頭やってたんすよ。今じゃマルコスったら悪の帝王扱いだけど、昔は希望の星だったですからね。だけどその後おかしくなったでしょ、憲法を自分に都合がいいように勝手に改造しちゃったりね、そこで袂を分かって、地下活動に転身した、と。獅子身中の虫どころか、買い獅子に脚を噛まれたというかね、マルコスは怒りました。ついには逮捕で獄中六年。よく殺されなかったって、ほんとのことですよ。
――それがようやくコリー・アキノのピープルレボリューションで出てきたっていうんすから。それで、ちょっとはアキノのところにワラジを脱いだらしいんですがね、なにしろお嬢さんでしょアキノは。格が違いますわな。もちろん、こっちが上ですよ、こっちが。で、それはともかく、また風に吹かれて、タンブリンウィード浮き草稼業、ようやくRRMの組を継いで、それをここまで立派に仕立てあげたというわけなんすね。
そのリサール氏は、背が高く、ハンサムで、立派で、陽気だった。名前からするとスペイン系らしいが、レイバンの青いシューターサングラスをした姿はむしろアメリカ人のようだ。気楽なジョークを言っては明るく笑うその姿も、話す英語も完璧なアメリカ風に夏雄には聞こえた。ただし、夏雄の耳だからあてにはならないが。
しかし、その立派で忙しそうなリサール氏が、イフガオまで何をしに行くのか。夏雄の役割はなにか。パンダまでが一緒に行くのはどういうわけか。夏雄には分からなかった。夏雄は、耳より少し長い髪を斜めに分けた、ちょっと不良がかったモダン中学生という感じのマユに話しかけた。
――僕は日本から来ました。仕事は薬剤師で、日本の港町である横浜の公立病院に勤めています。フィリピンへは観光旅行できました。マニラにはおととい着いたばかりです。マニラは、いい町です。
――そう?
――ええ。暑いけれど、その暑さが好きだ。
――暑いのが好きなのね。
――ええ。僕は泳ぐのが好きです。昨日、ホテルのプールで泳いで、とても気持ちよかった。
――ああ、なるほど。そうね。泳ぐのは気持ちいいわ。
――あなたも、泳ぎますか?
――子どもの頃は、よく川で泳いだけど......もう何年も泳いでないわ。
――そうですか。フィリピンは暑くて、泳ぐのにはいいですよね。
マユがほんの少しだけまゆをひそめて言った。――そうね。でも、マニラは慢性的な水不足で、飲み水の確保も大変なのよ。泳げるところはあまりないわ。
――ああ。そうなんですか。......でも、マニラ湾がありますよね。
――マニラ湾で泳ぐ人もあまりいないわね。
――どうしてですか。
――海岸に行ってみた?
――いや、行ってはいませんが。
――見てみれば分かるわ。どこの海岸も、ごみだらけだし、水は汚いし。町の汚水がそのまま流れ込んでるから、泳ぐ気にはちょっとなれないと思うわ。
――そう......なんですか。
熱い南の国で、泳ぐことがぜいたくなことだったとは。夏雄は、話を続けることができなくなった。マユは、夏雄にほほえみかけてから、バックパックから書類を出して読み出した。夏雄はほっとすると同時に、高校時代のガールフレンドを思いだした。動物園のベンチで国語の教科書を取り出した女の子は、黙ってそれを読んでいた。髪の長い、まるい目をした女の子だった。最初はその子の方からつき合ってくれと言ってきたものだったのに、ダメージを受けたのは夏雄ばかりだった。
ジプニーは、時速百キロ以上くらいで飛ばしていた。くらいというのは、運転席のスピードメーターが壊れていたからで、一度のぞきこんだ夏雄は唖然とした。メーターのあるべきところには、ただポッカリと穴があいていた。メーターがない、と言う夏雄に、パンダは言ったものだ。――ハンドルがあるだけ、ましだと思いなさいよ。
道路はなだらかな草山の間を走り抜けていく。畑が広がり、その向こうにみずみずしい緑の山が見える。きれいですね、と夏雄が言うと、パンダが言った。――あそこは墓場です。荒涼たる日本社会主義経済大国が通り過ぎていった跡なんすから。夏雄が何のことか分からずに曖昧にうなずくと、パンダがジプニーのドライバーに声をかけた。タガログ語で少し話したあと、また夏雄の方を向いた。
――七十年代の初めだそうです。昭和じゃないすよ、二十年数年前のこと。このあたり一帯の密林を、日本の商社が片っ端から買い取って切り倒してったんですよ。数年たてば元の森に戻るって言って、小さな苗木を植えてね。それきりすよ。苗木は枯れて、あとはあの通り。熱帯雨林ていうのは、意外に根が浅いこともあって、一旦切り倒したら戻らない。それに、地元の人間の焼き畑も加わってね。あとで見ますけど。あの草山はだから、累々たるコダマのシカバネなんすよ。
――コダマ?
――木の霊です。うめき声をあげてる。山全体が、うめき声で満ちてるでしょう。ジャングルは、生命の海。あの禿げ山は、コダマの霊場。
はああ。夏雄は困ってマユの方を見た。何、と首をかしげるマユに説明しようと思ったが、難しそうなのでやめた。とても説明できるとは思えない。
会話にも疲れ、夏雄はうとうとした。しかしジプニーの振動がすごく、ぼーっとしていると体のパーツが外れていきそうな気がする。気温もだいぶ下がって、夏雄は背中を丸め、気がつくと歯を食いしばっていた。
あたりに本当の密林が増えてきた頃、イフガオ州に入った。小さな橋を渡り、どんどん登る。いかにも山の中に入ってきた感じで、シャツ一枚では耐えきれないほど寒い。
なにしろジプニーには閉めるべき窓がない。風がそのまま入り込む。夏雄は日本で着ていたセーターを着込み、その上にジャケットまで着て体を丸めていた。そうして昼過ぎに、一行はRRMのイフガオ支部に着いた。
イフガオ支部は、木造の、素朴だが気持ちのよい、開放的な建物だった。四人がジプニーから降りると、スタッフが開け放たれたドアから次々に出てきた。みんな朝から待っていたということが、すぐに見てとれる。それはそうだろう、なにしろ本部の議長がわざわざ支部にやってきたのだから。
ジーンズをはいた男性。ワンピース姿のほっそりした女性。皆若く、まるで学校の休み時間のような雰囲気だ。マユとは顔見知りらしく、久し振りに出会った高校生のような騒ぎだ。その最後にドアから出てきた人物に、見覚えがあった。それどころではない、髪の一部が見えた時から夏雄には分かっていた。エスターだった。
どういう顔をすればいいのか分からない。そんな困惑は久し振りのことだ。夏雄は慌てた。実は今朝飛行機に乗り込んだときからずっと考えていたことであったのに、準備不足であるような気がした。
夏雄は荷物を放り出し、スタッフに挨拶しながら、エスターをちらちらと見た。
エスターはTシャツの上に大きめの長袖シャツをふわっと着ている。袖をまくって、何か作業でもしていたのだろうか。ジーンズに白いテニスシューズはこの間と同じだ。とても生き生きとしている。彼女は、都会の人ではないのだ、と夏雄は思った。こうした緑豊かな中でこそ、元気に動き回れる人なのだ。
スタッフと一通りの挨拶を済ませた夏雄は、ようやくエスターの前に出た。――こんにちは、ナツオ。エスターは、夏雄の名を正確に発音した。――またお会いできてうれしい。エスターの大きな目が、じっと夏雄を見つめている。何を言おうか、夏雄の頭の中では言葉が駆け回ったのだが、出てきた言葉は何の変哲もない挨拶だった。――こんにちは、エスター、と夏雄はオートリピートの三角印を頭に思い浮かべながら言った。――またお会いできて、うれしい。。
――長い旅だったでしょう、エスターが言った。――この支部にも一台車はあるんだけれど、リサール議長は迎えは無駄だからいらないと言って、来させなかったの。落ち着いた、やや低い声が心地よく響く。
――リサールさんはそういう人だね。僕は大丈夫、スリルを楽しんだから。それに、結構眠れてよかったよ、夏雄は言った。
――眠った?随分揺れたでしょう。
――日本の通勤電車では、みんな立って寝てるんだ。あのくらい何でもない。
エスターが口を開いて驚いてみせる。横で聞いていたリサール議長が、ハッハ、と笑った。エスター、このナツオはすごいよ。こうやって、道路のデコボコを右に左に避けながら眠ってるんだ。リサール議長が体を揺すってみせると、周りのスタッフも一緒になって笑った。夏雄は満足だ。ちょっとは僕のペースだ、夏雄は思った。
スタッフが準備してくれていたサンドイッチの昼食は楽しかった。リサール議長とその一行を迎えて、支部はちょっとしたお祭騒ぎだ。支部コーディネーターと紹介された男性が夏雄の好きなコーラの栓を抜いて勧めてくれる。エスターとマユと、その他の若いスタッフに囲まれて、夏雄は自分が遠来の客としてもてなされているのを感じていた。つっかえながら話す今までのマニラでの経験を、みんながニコニコしながら聞いてくれる。片手にサンドイッチ、片手にコーラを持ち、若いフィリピン人の中で話をしている自分を夏雄は誇らしく思った。ちょっと特別の人間になったようで、このことを誰かに知ってもらえたらと思う。なかなか出来ない経験をしている自分。それこそが、夏雄の欲していたものだ。
昼食後、夏雄はリサール議長らと一緒に、地域の村を見に行くことになった。同行する現地スタッフの一人はエスターだったので、夏雄としては願ってもない話だった。エスターは生真面目な調子でこれから行く村のことなどを説明してくれる。そこがまさしく彼女の担当区域なのだそうで、イフガオ州の中でも特に貧しい地区の一つだとエスターは言った。
――RRMでは、イフガオ州を十の地区に分けて考えているの。行政単位とは別で、川を中心にしたエコロジカルな分け方なんだけど。その一つ一つに組織担当者が割り振られていて、私もその一人というわけ。私のところは山がかった地域で、見てもらえば分かるけど、イフガオ州の中でもかなり貧しい方なの。基本的には自給自足なんだけど、それでもいくらかは現金も必要でしょう。服もいるし、教育や保健にもかかるし。それで、基金を貯めてクレジット制度のようなものを作ろうとしているというわけ。それが今の問題なの。
――うまくいってないの?
――そういうわけでもないけれど......本部で説明を聞かなかった?
――聞いたと思うけど、夏雄は素直に言った。――よく聞いてなかった。つまり、よく分からなかったんだ。
――あら。それじゃあなたは、よく分からないでここに来たのね?エスターがちょっと驚いた表情で言った。
――そういうことかもしれない。
――それって、面白い。
――そう?夏雄は言いながらほっとしている。エスターは興味深いと言ってくれたのだ。普通だとか、つまらないとか言われるのとくらべたら、はるかにいい。――だったら、いいけど。......でも、僕はなにをすればいいんだろう。
――そうね。エスターがほんの少し頬をふくらませて、パンダ、パンダク、と呼んだ。ホイホイ、別のスタッフと話していたパンダが、調子よく日本語で答えてやってきた。エスターがタガログ語で話す。夏雄は自分が急に愛想のいい犬になったような気分だ。笑顔で舌でも出している以外、することがない。
夏雄が本当に舌を出してハアハアやってみた時に、パンダが日本語で言った。――ま、檜山さんにはいてもらえばいいんすけどね。
――はあ。いて、どうすればいいんでしょうか。
――ほら、ガイジンのお客さんが来たって、そういう感じすから。
――じゃあ、なんにもしなくてもいいんですか。
――そうすね。まあ、日本人らしい感じを出してくれればいいんすけど。
――はあ......。夏雄はすっきりしない。日本人らしい感じというのは、あまりいい感じではなさそうだ。どうも期待されていることがありそうなのだけれど、よく分からない。自分の誕生パーティ準備に閉め出されたムーミンのような気分だ。ムーミンと違うのは、プレゼントがなさそうなことくらいか。夏雄は助けを求めてエスターの方を向いたのだけれど、彼女もまた、曖昧な顔をして二人の顔を見比べているところだった。
――大丈夫すよ、パンダは言った。――まかせてください。
簡易舗装の道路から外れて、道ともいえない脇道を十分ほど走る。背の高い竹の一種が生い茂っていて見通しが悪い。夏雄も、リサール議長もマユも、そしてパンダもエスターもみな、ドア上の把手にしがみついていた。
そうして着いたのは、戸数二十軒という小さな村落だった。ナヨップ村、とエスターが言った。
村落とはいっても、はっきりした集落にはなっていない。向こうに一軒、そのまた向こうに一軒と小屋のような家が見えているだけだ。ブロックを積み重ねた倉庫風の建物の前に、五人の乗ったジプニーが到着した。
軒下には、半乾きのコンクリートブロックが並べてある。奥のものはほとんど乾いているが、手前のはまだ濡れた色だ。できたばかりらしい。ボソボソしていて、触れると崩れそうに見える。砂が多いのか、あるいはコンクリートの質が悪いのかもしれない。
あちこちから光のもれこむ建物の中には木のベンチがいくつかあって、十人ほどが座っていた。ベンチの回りにはブロックが並べてあって、かなり雑然としている。空気もほこりっぽい。本来はブロック作りの作業場なのだ。
汚れたパンツに穴のあいたTシャツを着た男性もいれば、赤いチェックに白いフリルのついたブラウス姿のおばあさんもいる。不思議な格好だが、精一杯のおしゃれなのだ。
村人たちは、立ったり座ったり、かなり緊張していた。エスターが何人かに声をかけているが、表情は固い。夏雄は、目のあった女性に微笑んだ。ナイス・トゥ・ミーチュー、英語で言ってみる。しかし返ってきたのは曖昧な表情だけだった。警戒している。英語も通じないらしい。これは困った。夏雄が振り向くと、エスターが近づいてきて何か声をかけた。
――土地の言葉なの、エスターが短く夏雄に説明した。
――タガログじゃないんだ。
――イゴロットの言葉だから、エスターが言って、それからちょっと声の調子を変えた。エスターは、この土地の言葉が喋れる。あたりまえだけれど、夏雄はわけもなく誇らしい気分だ。――それでは紹介します。こちらは、マリア・ボニエンラさん。ここの民衆組織の代表です。
こんにちは、と言ったらしい。チェック模様の細身のスラックスにグレーのシャツを着た五十がらみの女性で、見事なシルバーヘアだ。頬骨の張った、意志的な顔をしている。しわがれた声は夏雄に、黒人のソウルシンガーを思い出させた。
その女性は、ずっと話すことを考えていたらしい。意を決したようにしっかりと、しかし言葉を選んでとつとつと話し始めた。とても真剣で、エスターがまゆに皺をよせてじっと聞き入っている。女性は独り言のような調子で、延々と話し続けるかと思われた。エスターが声をかけなかったら、いつまでもその調子で喋り続けていたかもしれない。
いつのまにかリサール議長も隣にきていた。彼もまた、エスターの通訳を待っている。イゴロット語は、彼にも分からないのだ。
――私たちの村には現金収入がありませんでした。現金は、普段はそれほどいりませんが、薬などが買えないので、病気になると困ります。医者はいないので、病気になると遠くまで行かなくてはなりませんが、一日がかりで診療所のあるトロンポへ行っても、処方箋をもらうだけでまた帰ってきます。しかも、トロンポの診療所にも医者はいないことが多いのです。......これに関しては今、RRMでは別の衛生開発プログラムを進めています、エスターが、そこだけちょっと早口に説明を加えた。――それに、子どもたちは学校へ行けません。しかし、それが解決できる問題なのだと気付かせてくれたのがRRMのスタッフ、特にこのエスターでした。
エスター自身のことだ。夏雄はエスターに笑いかけた。エスターの目が瞬いて、夏雄にかすかなサインを送る。その瞬間、夏雄の体全体が幸福な繭に包まれた。夏雄は一気に雲の上だ。
マリアが決然とした調子で話を再開した。エスターが訳す。
――私たちは話し合いました。何度も話し合いました。そして、二十一人の賛同者を得て、民衆組織を発足させました。私がその代表者になりました。
――私たちは現金収入を得る道を探りました。付近の民衆組織とも交流しました。そうして、このコンクリートブロックを作ることにきめました。
エスターは肌がきれいだ。夏雄はそう思った。褐色で、輝いていて、そしてアジア系の肌だ。妄想に傾きかけて、ふわふわと頭からそれを振り落とす。いけない、今はそれどころではない、かもしれない。夏雄はなんとか地上に足を下ろす。シルバーヘアのマリア・ボニンエラさんが、足元にある汚れたものを持ち上げたところだった。
――これが金型です。この中に、コンクリートを流し入れます。上から棒でこうやってつつき、しっかり詰まるようにします。大体固まったところでこの部分を押し上げて、外にだし、あとは日陰で乾燥させるのです。
なるほど、なるほど。夏雄がうなずく。エスターが繰り返した仕草は、何とも言えずチャーミングだ。
――ただ、問題は、借金が多くて、なかなか現金収入に結びつかないことです。私たちはもう半年以上働いていますが、いまだに無給です。材料費を払い、利子を払うと、手元にはほとんど残りません。
はあ。そうですか。
――私たちは最初、節約を重ねて、村の広場になるポモロの実を売ったりして、一年で千二百ペソ貯めました。そして、それをもとにしてRRMから一万二千ペソ借りました。そのお金でこの金型と材料を買ったのです。
千二百ペソで、一万二千ペソ、借りたのですね。夏雄は彼女の答えを繰り返した。エスターがそれは訳さずに、直接返答した。――RRMの民衆クレジット制度です。貯めたお金の十倍まで貸付をします。
――あ、そうですか。なるほど。で、利子は、払うんですよね。当然。
――利率は三十五パーセントです。エスターが自分で答えた。
――三十五パーセント?夏雄は聞き違えたのかと思って聞き返した。あまりにも高い。それでは日本のサラ金以上だ。しかしエスターはうなずいた。
――今、フィリピンはインフレ率が二十パーセントを超えています。それに、町中で借りると、利子は百から二百パーセント取られます。銀行なら低いのですが、金持ちにしか貸しません。今、RRMでは、このクレジットのお金を元にして、正式な民衆銀行を作ろうとしています。それが出来たら、もう少し利率も下げられると思います。
そうですか。それにしても、夏雄はちょっと首をかしげる。そうだとしても、やっぱり、それは随分高いような気がする。
――それで、経費と儲けはどのくらいになっているのですか。
エスターが真面目な顔で通訳する。それを聞いたマリアが他の人の方を振り返り、回りに座っていた人たちも一斉に話し始めた。話が核心に触れたらしい。マリアはしばらくの間みんなの声を聞き、それからそれらをまとめる感じで発言した。
――ブロックは、一個あたり七ペソで売れます。それが、一ヵ月に大体千個作れます。
――それで、経費は。
マリアがまた振り返る。髪の長い、もうすぐ子どもがうまれるらしい女性と、長いスカートをはいた初老の女性が勢いづいて声高に喋った。エスターがそれに応答している。なにやら、込み入っているようだ。
夏雄はその間に、頭の中で計算してみた。一万二千ペソ借りて、三十五パーセントの利子。ということは、利子だけで四千ペソ以上になる。単純に換算すれば二万円だけれど、倹約してやっと千二百ペソ貯めた人々にとっては、小さい額ではないだろう。それに対して、七ペソのブロックが、月に千個、ということは......。
――セメントが、一個あたり四・五ペソかかる、と彼女は言っています、エスターが言った。彼女と言われた妊娠中の女性が、それが分かったかのように大きく首をたてに振った。――それに、運搬に一個一ペソとられます。
――ということは、儲けは一個あたり一・五ペソということですね。
――その通りです。エスターが答える。村人たちも一緒になってうなずいた。
――一ヵ月に利益が千五百ペソです、エスターが、横でノート片手に訴えている女性の言葉をそのまま訳した。少なくとも夏雄にはそう思えた。そこでまた、夏雄の計算が始まる。一年で一万八千ペソの利益。難しい計算ではない。
――それで、その借金は何年で返すんですか。夏雄は、今度はリサール氏に聞いた。みなが一斉に彼の方を見る。みなの視線が集められたリサール氏は、オウ、と陽気に驚いてみせた。だって貸してる張本人なんだから。夏雄は少し挑戦的な気分だ。しかし、代わりに答えたのはエスターだった。彼女はとても冷静に、こう言った。
――RRMは、一年単位で資金を貸し出しています。
一年単位?ということは、元利合わせて、一万六千ペソを返すということか。それは苦しい。それでは無給になってしまうのも当然だ。そのどこが、高利貸しと違うというのだろう。その夏雄のとまどいに気付いたリサール氏がやや早口の英語で言った。
――今は準備段階です。RRMも資金的には豊かではない。ある程度お金を貯めないと、民衆銀行は作れません。彼らにとって大変なのは承知していますが、私たちNGOだけでこうした事業を進めることはできないのです。それでは意味がありません。主役はここにいる人たちです。彼らと一緒に、作り上げていくのです。
――......それで、返せない場合はどうなるのですか。
――その場合は、それはそれで相談にのることになりますが。ここの人たちには、それは言ってありません。
そうですか。夏雄はなんだか釈然としないまま、質問の矛先をマリアに戻した。
――それで、そのブロックは誰に売るのですか。作れば売れるのですか。
――それも問題があるのです、マリアがエスターの通訳を介して言った。――最近、ここから車で一時間ほどのところに、マニラの実業家がブロック工場を造り始めました。私たちのブロック作りの成功を見て、商売になると考えたらしいのです。どのくらいの規模なのか分からないのですが、本格的に工場で作られたら、私たちはかないません。
――......。
――近隣の村は、私たちのブロックを買ってくれると思います。みんな、分かっていますから。でも、現在まとめて買ってくれている建設会社は、どうなるか分かりません。もしも安く売られたりすると、私たちのブロックは売れなくなる可能性もあります。
そうですね。夏雄は考えた。なるほど、もしも7ペソ以下で売れたら、あまり質のよさそうに見えないこの村のブロックは対抗できないかもしれない。でも、値段を下げられるだろうか?もともと、この村では給与をもらわないで働いている。設備投資もほとんどないわけだし、ここよりも安く作ったとしたら、利益が出るわけがない。
その疑問を口にすると、エスターは時間をかけて村人に説明した。人々が、真剣な顔で聞き、真剣な顔でノートを覗き込んでいる。リサール氏はと見ると、意外なことに、ニコニコと微笑んでいた。やんちゃな子どものいたずらを楽しんでいる父親の顔だ。
なんのかんのと、村人同士の会話が五分も続いただろうか。夏雄は間に割って入るつもりで、次の質問をした。
――さっき聞いた、セメントが4・5ペソというのは、どういうわけですか。
――そういう契約なのです。マリアが言った。
――契約?
――ブロック1個につき、4・5ペソを払うという契約です。
――それはまた、奇妙な契約ですね。夏雄がエスターに言った。エスターが首をすくめる。どういう意味だろう。それにしても、一個あたりで原料費を払うのでは、そのセメント業者の下請けをやっているのと同じことではないか。
――運賃の方は。
――そちらも契約です。
――一個あたりの。
――一個あたりの契約です。この村には車がないのです。
ふうん。つまり、経費の削減は契約次第ということか。それならば、他の契約相手を見つければいいではないか、夏雄はそう思った。車を持っている人は一人だけではないだろう。セメントだって、そんな奇妙な契約をする相手ではなく、まとめてでもなんでも安く買い取ればいい。RRMがなんとか追加融資をしてやれば、その資金になるだろうに。夏雄はエスターにそう言ったが、エスターは訳さない。村人は自分たち同士で話をしていた。ノートを覗き込みながらの会話に、次第に熱がこもってくる。リサール氏はずっと同じように微笑んでいた。夏雄と目が合うと、満足そうにうなずいてみせた。
あ、そうか。夏雄は突然気付いた。なるほど、こういうことだったんだ。突然、昨日ケソンの事務所で受けた説明の一節が浮かんできた。若い副議長は、人々に考えさせる、と言ったのだ。外から来たNGOが教えこんでも長続きはしない。NGOのオーガナイザーは、土地に入り込み、民衆組織を作る。その組織が健康やら収入向上やらの必要性について話し合う。NGOにできるのは条件を整えることだけなのだ、と。
そうかそうか。夏雄はなおも微笑みながら村人たちを見ているリサール氏を見て思った。多分、他にも解決法はあるのだ。まだいくらでもやりようはある。ただ、壁に突き当たったここの民衆組織の人たちは、それを自分で考えなくてはならないのだ。
きっと、なんでもそうなのだろう。何かを親切にやってあげるだけでは、本当の解決にはならないのだ。大切なのは、本人なのだ。本人がやるようにすること、それが大事なのだ。そして、それは自分にもあてはまる。うまくいかないことがあるならば、もっと自分が動かなくてはいけない。そういうことだ、そういうこと、と夏雄は思った。
――それでは、村の他のところも案内してもらおうかな、リサール氏が頃合を見計らって言い出した。
あ、ちょっと、夏雄はもう少し話し合いの中身を聞いてみたかったのだが、リサール氏はもう、戸口に向かっている。エスターが村人に話しかけ、村人たちもこころもちさっぱりした表情で立ち上がった。エスターと陽気に笑い合う人がいる。ノートを抱えていた女性が、ニーッと夏雄に笑いかけた。夏雄も笑う。さっきの冷たさは溶け、ほっとした気分が漂った。
村人も含めて十数人のグループは、誰が先に立つというわけでもなく、三々五々移動し始めた。子どもたちが数人、物珍しげな顔で夏雄を見つめながら一緒に歩く。十才くらいだろう、夏雄の胸くらいの男の子は、体をひねるようにして、腰の上に小さな女の子を抱いて歩いた。堂に入ったものだ。多分いつも面倒を見ているのだろう。別の、同じくらいの女の子は頭の上に大きなカゴをのせている。中には緑色のナツミカンのような果物が入っていた。多分これがポモロだ。
――ポモロ?これ、ポモロだろう?ポモロ?
女の子ははにかんで目を伏せた。とても純粋なはにかみかただ。きれいな肌に、きれいな目をしている。生き生きとして、とてもかわいい。前を歩いていく初老のマリアといい、他の村人たちといい、目がみなすがすがしい。こんな山の中で、毎日明るい緑の山を見ているからだ、と夏雄は思った。
夏雄は自分の住んでいるワンルームマンションを思い浮かべた。交通至便、十階建ての十階で、一階にはスーパーマーケットが入っている。向かいには二十四時間営業のファミリーレストラン、その隣がこれも年中無休のコンビニエンス・ストア。そして、その間に一晩中トラックの走り抜ける産業道路が通っている。見えるのは、灰色の建物に灰色の舗装道路、黄色や緑やオレンジの看板と、薄汚れた空気。それでは、目がきれいになるわけがない。目は疲れる、頭も体も疲れる。そんなところで生活しているのが普段の僕なのだ。
なだらかな山道だ。草深いというほどではなく、密林でもない。ただ、緑の色が深い。どこの緑も深く息づいている。やわらかい風は、緑の中を抜けてくる。
夏雄のマンションに東から吹く風は、精油工場の豆かすの臭いだし、西から吹く風はディーゼルエンジンの排気ガスだ。
歩くにつれて、右に左に掘立て小屋のような家が現れた。どこの家にも子どもがいて、その若い親と老人たちが、物珍しげに夏雄たちを眺めている。一人の老人は、美しい模様入りのフンドシに厚手のシャツを着て立っていた。痩せこけた尻は丸だしで奇妙な姿だけれど、同時に夏雄には懐かしい思いも起こさせた。日焼けした、痩せた尻。それは、夏雄の祖父のものでもあった。記憶の底で、祖父は素っ裸で日本酒を飲んでいた。大きな門構えの農家で、五衛門風呂が土間の隅にあった。隠居したものの毎日山で作業をしている祖父は、真っ黒に日焼けしている。その祖父は、年に一回だけ訪問してくる息子の嫁、つまり夏雄の母にも構わず、裸のまま酒を飲むのが好きだった。
――あれ、バハグ。後ろから歩いていたエスターが言った。優しい、慈しむような声だった。――男たちの伝統的なウェアなの。
――気持ちよさそう、夏雄が言った。――僕のおじいさんも、あんなパンツをはいていた。日本のは、綿の真っ白のだけれど。
――そう?エスターがちょっとびっくりした顔をした。それはそうだろう。夏雄も不思議だ。フンドシをしている人など、今の日本では万に一人もいないだろうから。
――僕のおじいさん、農村に住んでたから。まだ伝統的な風俗が残ってたんだ。僕が七歳の時に亡くなったから、あまり覚えてはいないけれど。
ふうん。エスターがちょっと目を伏せた。
日本も、少し前まではそうだったんだよね、夏雄は声には出さず、エスターに話しかける。みんな忘れているけれど、日本もそうだったんだ。
――そういえば、エスター、さっきここの言葉喋ってたけど、夏雄は言った。――君はこのあたりの出身なんでしょう。
――そうよ、エスターは答えた。――私の村は、もう少し高地の方だけれど。
――どんなところ?やっぱり小さな集落なの、ここみたいな?
――私の村は、山の斜面の中腹にあるの。石を組んで作った小さなたんぼが階段状になっていて、それがずっと頂上まで続いてる、そんなところ。歩いて登るのよ、もちろん。 ――きれいだろうね。
――貧しい村よ。子どもが多くて、死亡率がとても高い。でも、月の夜なんて、たくさんあるたんぼがキラキラ輝いて、それは美しいわ。
夏雄はその様子を思い浮かべてみようとする。夏雄の頭には、足をのせるたびにズブズブと沈む奇妙な階段が浮かんだ。そんなはずはない。
――分からない。見てみたいな。夏雄はそう言った。
――そうね。
――遠くはないんでしょう。エスターは、帰らないの?
――ほとんどね。私はマニラの高校に入ったから、それから住んでいないし。今はオフィスの近くに友だちと家を借りて住んでる。
――ご家族は?
そうね。エスターが曖昧な表情をした。――両親はいない。祖母がいるわ。それと姉。今もその村に住んでる。
――ああ。ごめんね、プライベートなことに立ち入って。
いいのよ。エスターはそう言っただけで、あとは黙ってしまった。何か話しかけたかったが、思いつかない。夏雄も黙って歩く。
エスターがどういうコースをたどってここまで来たのか、夏雄は思いをめぐらす。めぐらしても分からない。あたりまえだ。夏雄には想像しようもない、異国での出来事なのだ。
その時何気なく横を向いた夏雄は、ぎょっとして跳ね飛んだ。エスターの肩にぶつかって、エスターを驚かせた。
なに?
いや、その......。
夏雄が驚いたのは、道端の大きな物体が突然動いたからだ。岩かと思えたその物体は、泥水の中にうずくまっていた。黒い肌、大きな二本の角、小さな目。
ああ、カラバオ。エスターが再び優しい表情になって言った。水牛だ。
カラバオ?エスターの言葉を聞いて、前を歩いていた女性がうれしそうに振り向く。何、どうしたの。あの日本人がカラバオ見てびっくりしたんだ。多分そんなことを言っているのであろう笑い声が後ろでも聞こえた。
――カラバオは、優しいのよ。エスターが水牛の鼻先をなでながら言った。――絶対怒らない。そして、忍耐強い。
ああ。夏雄はうなずき、エスターのまねをしてカラバオの鼻に手を伸ばす。黒い瞳がじっと夏雄を見つめていた。しっかりとした、理知的な雰囲気さえある目だった。強そうな、しかしどことなく繊細そうな半月形の角がゆっくりと揺れる。頭を下げたので、夏雄はとっさに赤い布を持った闘牛士を思い出して体を引いたが、カラバオはただ、静かに頭を回しただけだった。カラバオは怒らない。カラバオは、優しく、大地に根をはっている。カラバオは哲学者だ。
もしかしたら、と夏雄は思った。エスターは、カラバオに似ているのかもしれない。感受性の強そうな、しかし芯のしっかりしたその表情。足を地につけた、ゆったりとした落ち着き。カラバオのような女の子なんて褒めたことにならないだろうけれど、と夏雄は思う。僕にしてみれば最高の褒め言葉だ。エスターは自分自身を分かっている。とても自分らしい。
そう思ってみたらまた、カラバオがとても愛らしい生き物に見えた。
――このカラバオはなんのためにいるの。夏雄は照れ隠しにそんな質問をした。カラバオは農村の貴重な労働力で、移動手段にもなるし、エスターがていねいに説明してくれる。それを聞きながら、夏雄は祖父が生きていたころの田舎の風景を思い出していた。
小さな、数十歩で向こう側まで渡ってしまえる小さな田んぼと、稲を干すのだろう小さな藁屋根のついた竹組み。やせた犬と子どもが無効を走っていく。しっとりとした暖かい風。サラサラとなる木の葉の音。
フィリピンの小さな農村の、ほんの小さな田んぼの脇を歩きながら、夏雄はほんの一瞬、自分がこの村で生まれた人間であったような錯覚を覚えた。都会など知らない、雑踏とも、忙しさとも無縁に生きてきた人間。ここで生きていることを疑うこともなく、これからも生きていく人間である自分。稲と野菜と果物と、木々や草花と、犬と猫とカラバオと、水とも泥とも親しく生きていくこと。もしそうであったのなら、と夏雄は思った。それはとても、幸福なことだっただろうに。そうしたら僕は、もっともっと自分らしかっただろうに。
――ここにいると、日本を思い出す、夏雄は言った。
――そう?エスターが意外そうに顔を上げた。当然だ。
――つまり、昔の日本っていうこと。僕もよく知らない、でも昔はこうだったろうっていう日本なんだ。
エスターが軽く首をかしげた。
――日本も、何十年か前はこんな風だったはずなんだ。日本中どこでも、こんな風景だった。父の田舎だって、おぼろげに覚えている風景はこんなところが確かにあった。自然の川があって、川原では牛が草を食べていた。水に入れば魚やドジョウやカワエビがいて、僕はソフト網を持って取りに行った。祖父が川辺の草の中に網をつっこんで、僕が川下側から追い立てていくと、大抵なにか入った。......死んだ人が帰ってくるという日には、家の前で焚き火をするんだ。動物を型取った野菜を置いて、そばで小さな焚き火をする。墓参りに行く近所の人が、みんな声をかける。僕も祖父と一緒になって、土地の言葉で挨拶を返す。それが、少し前の、日本だったんだ。
――アジアの国なんだものね。エスターが控え目に言った。
――そう。同じアジアの国だったんだ。夏雄がつぶやいた。だから、僕は......。
夏雄は黙った。どうしてそんなことを言い出したのか、自分でも分からなかった。自分がそんなことに懐かしさを感じているなど、今まで考えたこともなかった。とても意外だ。そして、それが意外であることが、意外だった。自分の生きていた町が、宙に浮いたものであったこと。そんな今の感じを、これまで感じたことがなかったこと。
景色が変わる。小さな池のほとりに、リサール氏とマユが立っている。夏雄は手を振った。マユが手を振り返した。エスターが笑っている。みんなが笑っている、夏雄は思った。そして、僕も笑う。
5
――私はね、天皇制論者なんですよ、パンダが上機嫌で言った。熊のような顔が真っ赤だ。手に持っているのは、土地の酒だという甘めのライスワイン。もうかなり酔っていて、つい今まで讃岐うどんの話をしていたのに、天皇制の話になってしまった。いや、ちがう。また、吉永小百合の話だ。――天皇は、ただし、吉永小百合様。ね。そんなら日本はうまくいく、ね。
そんなもんですか。夏雄は、食べかけのバルーをスプーンですくいながらうなずいた。アヒルのゆで卵なのだが、うすい醤油味がついている。しかし一番違うのは、それが孵化寸前のものだということだ。ほぼ出来上がったヒヨコが入っている。おなかのところに黄身をつけて、体はもうヒヨコだ。最初は気味が悪いように思ったが、これがおいしかった。柔らかくて、臭みのない鳥肉の味がする。ようするに、とパンダは言ったものだ。親子丼といっしょでしょ。生卵を食べるのはただの野蛮。一個で親子丼が食べられる、これが文化。
――天皇制というのは、実にうまいシステムですよ。一番上の人には責任を取らせない。次の人も責任は取らない。その下の人は、上の命令を聞かなくてはならない。ね、誰も生意気言えないし、誰もが命令は聞かなくてはならないし、そして責任はとらなくていい。みんなの心がひとつになる。戦後憲法の象徴天皇制なんて、ちゃんちゃらへそが茶を沸かすってなもんで、天皇陛下はもともと象徴なんす。ね。戦争責任論議なんかから、超然としてるのが、それが天皇。天皇は、いいことしかしない。だから、そこに吉永小百合様。ぴったりでしょ。日本人なら文句は言えない、吉永小百合様なればこそ、神州日本は永遠に栄える。
うん。そう。
――そう思う?え、ほんとに、そう思います?
あ、いや、その......。
ハハハハ、パンダは鼻の上の皺をもう2ミリほど深くして笑った。――フィリピンの不幸はね、ニノイ・アキノの細君が小百合様でなかったことです。せいぜい内藤洋子様だけど、こりゃまだ役不足ですわな。それに、内藤洋子様が自分で泥をかぶりだしちゃいけません。内藤洋子様は、あの偉大なオデコと脚とで、十九才で引退しなくちゃならなかったんす。
ナイトウ......ヨーコ?
――あれ?知らない?こりゃ天誅ものすよ。でも、吉永小百合様知ってりゃまあいいか。これで小百合様も知らなかったら、天から関の孫六が降ってきます。関の孫六。知ってる?あの、三島由紀夫大先生が自死なさった時の名刀すよ。
ああ、あの、首が落ちてる写真の。見たことあります。
――こら、お首と言え、お首と。あ、そんな言葉ないか。ま、三島なんざ所詮ブルジョアですからどうでもいいけど。旧弊な貴族社会にノスタルジー持ってる人間にヤクザなんざ出来ませんですけどね。ヤクザは、心に虚無を秘めて、浅草十三階に殴り込むんす。蒼ざめた馬がね、心の中に走ってるの。分かる?それが、ヤクザというものすよ。
パンダは上機嫌だ。きっといいことでもあったのだろう。夏雄は勝手に決めて、木の器に盛られたポモロに手を出した。こんな宿でも、食事はともかく、フルーツは豊富でうまい。とくにポモロはみずみずしくて、いくらでも食べられる。
下の方で何か光った。夏雄はテラスから乗り出して下をのぞく。なんだろう、懐中電灯か、ろうそくか。夏雄がいるのは崖の上に突き出したホテルのテラスで、明るいと向こうに段々の田んぼがずっと見えるのだという。エスターが言っていたライステラスだ。しかし今は何も見えない。下がどうなっているのか、家があるのか森なのかさえ分からない。夏雄はしばらく見ていたが、明かりはそれきり現れなかった。何かに反射した光だったのかもしれない。このあたりでは、とパンダは言っていた。普通の人は、日没とともに寝るんです。だって、起きてたって、子どもがますます増えるだけでしょ。
RRMイフガオ支部から三十分、バナウエという町のホテルに、一行は泊まっている。このあたりでは一番賑やかなところだそうで、市も立つし、なによりもホテルが三つもある。観光客も訪れる。とはいっても、夏雄たちのホテルには二部屋の客室があるだけで、それぞれに二段ベッドが十二入っている、それだけだ。男性用と女性用で、それぞれに二十四人づつ泊まれるという計算になる。
今日の泊まり客は、マユがイフガオ支部の女性スタッフの所へ泊まりにいってしまったので、パンダと夏雄とリサール氏の三人だけだ。さきほどまで、支部のメンバーが来て一緒に食事をしたのだが、もう帰ってしまった。
部屋にはシャワーはあるが湯は出ないし、トイレは水洗式だけれど水はバケツで流す。それくらいは覚悟していたからなんということはないが、夏雄にとって残念なのは、エスターがいないことだった。今ここにエスターがいれば、と夏雄は思う。たくさん話したいことがあるのだけれど。
――あの、エスター・ロマノさん、夏雄はパンダに言った。ほんとはあまり話題にしたくない相手だが、それでも誰かと、彼女のことを話したかった。たとえパンダでもというわけだ。
――はいはい、エスター・ロマノさん。
――彼女はどういう人なんですか。昼間ちょっと聞いたら、御両親はいないとかで、まずいこと聞いたかな、と思ったんですけど。
――あ、そう言ってました?そうですか。じゃあ、そうなんですね。パンダがあごを突き出してニヤリと笑った。
――そうじゃないんですか?
――もちろん、そうなんでしょ、自分でそう言われるんなら。私は知りませんよ、彼女の御両親のことなんて。
――そうなんですか?でも、結構親しそうだったし、ガールフレンドとか......。
――私は誰とでも親しいんですから。それに、言ったでしょ、私は誰でもガールフレンドにするんです。
――......マニラの高校へ行ったとか、言ってましたね。
――おや、そんなことまで聞き出して。隅に置けない燃料屋の俵、と。
――......そういうのって、普通なんですか。
――燃料屋の俵?
――いや、そうじゃなくて、山の中の村の出身で、マニラの高校に行くってこと。
――それはエスターさんが優秀だってことの証明すよ。彼女は優秀も優秀、秀の前に優がつくってくらいで。
――優秀だと行けるってことですか。
――奨学金をもらったんでしょ。そうじゃなければ、いけませんよ、イフガオの村の子がマニラになんて。いけるならRRMの活躍する余地もなくなる。ちょうどね、この五・六年、奨学金が格段に充実したんですよ。功なり名をあげた人たちが、奨学金をつくるというブームでね。彼女はそれにのったんでしょう。
――ああ。そうなんですか。それでね......。夏雄は少し分かってきた彼女の秘密がうれしくて、満足そうに首を振った。
――彼女に興味、ありますか。パンダが断定的な調子でそう言った。
――いや、興味ということもでもないんですけれど、夏雄は慌てた。――ただ、......なんというか、彼女は僕がフィリピンで知り合った最初の女性だから。
――なるほど、パンダが急に表情を崩して言った。――そりゃ、あなたはラッキーだ。フィリピンの女の子は、みんなとてもいいですけどね、エスターさんは特に、いいですよ。
はあ。
――ま、私には関係ないですが。
関係ない?
――私は今、男同士の愛に目覚めつつあるところで。
男......同士の......。
――ラブ・ビトゥイーン・メン。いいすよ、気兼ねないし。どうすか、この私。結構かわいいとこ、あるんすけど。
いや、そう、その......。
ハッハハハ、パンダが大声で笑った。――困ってらっしゃる。いいすよ、人の恋路は邪魔しませんから。無理にとは言いません、よかったらいつでも、お申しつけ下さい。檜山さん、結構筋肉質だし、おいしそうすから、いつでもお待ち申し上げております。
どうも。......やだなあ、なんか。本気ですか。
パンダがぎょろりと目をむいた。――私はいつだって本気。何だって本気のパンダクです。
それは、すみません。
――なんてね、ま、男同士で愛が語れるようになると、相手は一挙に二倍!ですからね。こりゃいいすよ。放っておく手は、ないすね。
そう......ですね。でも、あの、吉永小百合は......
――小百合様は特別です。あの方は、ウンコもセックスもしない方ですので。地上に舞い降りた天使様ですな。ファファファ、パンダが今度は抜けた前歯から息をもらすような笑い声を立てた。うーん、不気味だ、夏雄は頭の中でつぶやく。もちろん、声にだしたら大変だ。
――ま、そろそろ寝ましょうや。一緒に、一緒に。明日もありますから。
はあ。そうですね。
夏雄が一抹の不安を感じながら男性用のベッドルームに戻ったのは、十二時を少し過ぎた時間だった。
6
次の日の午前中には、別の村を見に行った。
一つは日本の商社の伐採によって消えてしまったかつての入会地の森を蘇らせようとしている村だった。さまざまな種の苗木を植えてみたが、なんとかいう広葉樹の一種が適応しそうなので植林したい。そんな説明を受けた。
とにかく昔の森を取り戻したい。村人の話はそれに尽きた。昔は森があったから、燃料にも、食料にも困ることはなかった。薬だって、子どものおもちゃだって森に行けば手に入った。それを伐られてしまってから、すべてがおかしくなった。商社は伐採しても三年で元に戻ると言って植林して言ったけれど、それは一ヵ月で枯れてしまった。昔のような暮らしがしたい。町へ出て行かなくても暮らせる状態を、取り戻したい。
なにしろ、悪いのは日本の商社なのだ。夏雄は身の置きどころのない感じで神妙に聞いていたが、その態度がよかったのかもしれない。前日のナヨップ村と同じく、帰りには夏雄は村人みなに笑顔で送り出された。
午後はRRMのイフガオオフィスに戻って、ケサール氏とスタッフとのミーティングだった。なにが話し合われるのか分からなかったが、パンダが出ないようなので、夏雄も遠慮することにした。パンダは、オフィス外のベンチでいびきをかいて昼寝している。夏雄はひとりで付近を歩いてみることにした。
イフガオ支部は、川沿いに建てられている。海岸からは離れているから、半分渓谷のような深い川だ。その川に沿って一本の道路が通っている。昨日も、今日も行き来した道路だ。夏雄はそこをぶらぶらと歩き出した。特に目当てがあるわけでもなかったが、下の方にもパラパラと家が並んでいたのを思い出したのだった。
五分ほどで、下の集落についた。集落とはいっても、二軒の家が並んでいるだけだ。その前の道路で、数人の子どもたちが遊んでいた。手作りのスクーターのようなものを引っ張り上げてはそれに乗って滑り降りる。スピードがついて、勢いよく転倒したりしているのだが、その五才から十才くらいの子どもたちは、転んでもすりむいてもニコニコ笑いながら起き上がってはスクーターを引っ張り上げていた。
一人の子どもが、少し離れたところの夏雄に気付いて何かを言った。他の子どもたちもみな、好奇心一杯の目で夏雄を見つめる。夏雄はその視線を照れくさく感じながら、子どもたちのところに近づいた。
――それ、なあに。夏雄は子どもたちのスクーターを指して英語で聞いた。――それ、なあに?
スクーターを持っていた一番年かさらしい男の子が、今気付いたとでもいうようにスクーターを眺める。英語が通じているのかどうか、よく分からないが、隣にいた、おなかを丸出しにしたシャツを来た子が乗って走るまねをした。こうか。こうやって、乗るんだね。夏雄がジェスチャーで応じると、うんうんとうなずいた。
アノン・パンガラン・モ?なんていう名前?聞き覚えたタガログ語で言ってみると、子どもたちが笑顔になって口々に喋り出した。このあたりの人は、タガログ語が分かるらしい。しかし残念ながら、子どもたちの名前そのものが聞き取れない。――アコ・アイ・シ・ナツオ。ナツオ、ナツオだってさ。子どもたちの方では、夏雄の名前を発音している。ナツオという名前は覚えやすいのだろうか。他には、他には......。それ以外にタガログ語を覚えていないのが残念だ。
乗ってみろ。スクーターを持っていた男の子が、夏雄にそれを差し出した。乗って、この坂を下りてみろ。
見ると、随分がっちりと作られたスクーターだ。継なぎ目は組み込んであって、歪みもない。廃材らしいが、太い木材はきれいに処理されて角面もきちんと落としてある。タイヤは古い自転車のものだ。小さいながら、大人が乗っても充分大丈夫そうだ。ようし。やってみるからな。こうかい。こうやって、こう、それでこの坂を下るんだね。夏雄は英語でそう言いながらまたがってみる。ホホーイ、ホーイ、子どもたちが囃したてた。さあ、いくぞお。
斜面は最初はゆるやかだったが、そのうちにスピードがついてきた。舗装などしてない道路だから、ざらざらとタイヤが滑る。片側は川へ落ちる崖だから気は抜けない。両足を上げていた夏雄は、その川の方へ向かい始めたのをみて、川側の足をつっぱった。その途端、スクーターがわだちの上に乗り上げてバウンドした。おっと、おっととと。ざざっ、埃が舞い上がり、気付いた時には夏雄は、スクーターを投げ出すようにして転倒していた。
子どもたちが走ってくる。夏雄は愉快だった。失敗失敗、アハハ、アハハハハ。彼が笑うと、子どもたちも一斉に笑った。夏雄のジーンズの埃をおとしてくれている子がいる。長い髪に目をキラキラさせた女の子が夏雄の腕につかまった。年かさの子がスクーターを引っ張って坂を上がる。チナ、ジャポネ、口のまわりに汗だかよだれだかの跡をつけたいたずらそうな顔の子が夏雄を見上げた。チナ?あ、そうか。中国人か。ジャポネ、ジャポネ。日本人だよ。日本、知ってる?そりゃ知ってるよな、ソニーとか、トヨタとか。他には?そうだ、戦争中は、どうだったんだろう。このあたりだって、日本の兵隊は来たんじゃないのかな。夏雄は半分独り言のように話している。子どもたちは子どもたちで、それぞれがワイワイと喋っていた。
そんなことを何度か繰り返して坂の上に戻ると、小柄な男性が、わきの物置のような建物の前で夏雄を見ていた。曖昧な表情ながら敵意はなさそうだ。夏雄はそのまま近づいて英語で話しかけた。
――こんにちは。
こんにちは。男性もうなずいた。
――私の名前は檜山夏雄です。日本から来ました。そこのRRMの人たちの知り合いで、昨日からここにいます。
ああ、RRM。男性の顔から残っていた険しさが消えた。そうかそうか、RRM。
――はい。エスター・ロマノさん、知っていますか。RRMのコミュニティ・オーガナイザーです。私は彼女の友だちです。RRMの人たちと友だちになりました。
目の横に大きなあざのある男性は、笑顔で何度も首をたてに振った。エスターを知っているのかどうかは分からなかったけれど、いずれにしてもRRMとは悪い関係ではないらしい。夏雄もほっとして笑った。
ふと見ると、その人の立っている小屋の奥が板張りになっていて、その床に大きな鳥が翼を広げた形の木製彫刻がおかれている。棚にはもう少し小さめの彫刻も見えた。木彫の作業場らしい。そういえば、ゆうべエスターが言っていた。木彫はこのあたりの特産物の一つなのだ。
――あれは、あなたが作ったのですか。夏雄は小屋の中を指差した。
あ、あれ。そうそう。男性は何度もうなずき、体を開いて夏雄を招きいれる動作をした。入っていいんですか、夏雄もジェスチャーで聞き返しながら、小屋の中に足を踏み入れる。つい今までその人が独りで作業をしていたと見える小屋の中は、意外に整然としていた。
床には鹿の木彫もあった。立派な角を持った鹿だ。隣には、虎が肩を怒らせて吠えかかっていた。どことなく中国風のデザインだが、完成されたデザインらしく、そのミニチュア版らしいものが棚にも並んでいる。そして同じ棚には、羽飾りをつけた、上半身裸のアメリカインディアンも並んでいた。鷲鼻に意思の強そうな唇をしたアメリカの先住民たちは、とても立派だけれど、それがフィリピンの、こんな山奥の村に並んでいるというのは......?
――この人たち、......アメリカ人でしょう?
――それは売れるのである、男性が説明した。――まとめて買ってくれる人がいるのだ。
へええ。夏雄が驚いて声を上げた。一体誰が、アメリカ先住民の木彫をこんなところで......
――アメリカで売るのであろう。アメリカの、インディアンの住む地域で。
ああそうか、夏雄が言った。――つまり、アメリカで売っているインディアン民芸品を、ここであなたが作っているというわけだ。
――そう、その通り。口許に微笑みを浮かべて、その小柄な男性はうなずいた。
へええ。そうなのか......。夏雄は複雑な思いを感じながら、その他の棚に目を移した。――それにしても、素敵な木彫ですね。このデザインは、誰が考えたのですか。
――いくつかは、仲間が考えた。私が考えたものもある。
――どれ、ですか。
――その鹿のブックエンドがあるだろう。それは私のデザインだ。薄く口髭をはやし、綿の作業着を着た男性は誇らしげにそう言った。夏雄はそれを手に取ってみた。ちょっと太めの鹿が頭を下げて、角を突き出している。真ん中の板を中心にして、前半身だけが左右対称に両側に作られているのはなんだか奇妙だが、これを二つに割ればブックエンドになるということだろう。しかし、本来ブックエンドというのはこうして作るものなのだろうか?左右別に作った方が、ずっと簡単だろうに。
そう思いながら手に取ってみていた夏雄は、少しばかり驚いた。台の部分と体の部分の木目が揃っている。ということはつまり、この未完成ブックエンドは、一本の木を丸ごとくり抜いて作ってあるということだ。胴体の部分も足の部分も、分けて作って嵌め込むのではなく、最初からつながった、一本の木なのだ。
――これって、......一本の木なのですね。夏雄は言った。
――そう。このくらいの木を切って、乾かして、それを彫って作る。
――あなたが。
――もちろん。私が。
なるほど。夏雄は自分の目の前に持ち上げて、その一体型未完成ブックエンドを見つめた。全体のバランスで考えると、ちょっと頭が大きいような気がする。足がやや短くて、強そうとも言えるし、スタイルが悪いようにも見える。何の種類なのか、白い木を彫ったなりで、仕上げもしていない。しかしその素朴さが夏雄にはとても好ましかった。欲しい、と思った。自分のものにして、本棚に飾りたい。そうしたら、フィリピンの優しい思い出になる。
――これ、売ってくれませんか。夏雄は言った。――いくらですか。
――これは......男性は口ごもった。――ほんとは150ペソなんだけど......。
――OK、それでお願いします。
――そうはいかないんだ。なぜかといえば、まだ完成してないから。このままじゃブックエンドとしては使えない。ここを、半分に切らなくてはいけない。
――いいですよ。このままでも充分飾りになります。
――そうはいかない。これはブックエンドなのだから。しかし、ここで切ってあげたいのだれど、実は唯一ののこぎりが今朝折れてしまったのだ。だから、今は切れない。だから売るわけにはいかない。
――でも、これはとても素敵だ。あなたが作ったということもわかった。フィリピンとイフガオのことが思い出せる。是非譲ってほしい。
――いや、それはだめだ。
――譲ってほしい。半分に切るのは、日本ででも出来る。私が自分でやってもいい。自分の机の上に飾りたい。どんなものだろうか。
夏雄は、もう少しのところで、金はいくらでも出す、と言いそうになるのをこらえなくてはならなかった。150ペソは、日本円にして750円だ。それが1000円であろうが2000円であろうが、大した違いではない。しかし、そんなことを言ってはいけない。それでは札束で顔をはたいていく日本人になってしまう。
その時、突然、男性が自分の名前を名乗った。――私の名前は、マチョガノだ。あなたは、なんだったろう。
――私は、ナツオだ、夏雄が言った。――アコ・アイ・シ・ナツオ。
――ナツオだな。ナツオ。私は、マチョガノだ。言ってみろ、ナツオ。
――マチョガノ。
――そうだ。そしてあなたはナツオだ。
――その通りだ。
――私の名前は覚えたか。
――覚えた。マチョガノだ。夏雄はそう言って、相手の胸のあたりを指した。――あなたは、マチョガノだ。
――その通り。マチョガノが大きくかぶりをふった。――よし、ナツオ。私は、あなたの名前を覚えた。あなたも、私の名前を覚えた。そうだな。
――そうだ、マチョガノ、夏雄もなんとなくうれしくなってかぶりをふりながら言った。――私たちは、お互いに甘えを覚えた。
――よし。マチョガノが重々しく言った。――それでは、私たちは友人になった。二人は友人だ。だから、これは友人になった印として、私があなたにあげよう。プレゼントだ。持っていって欲しい。
プレゼント。プレゼント?夏雄は意外な成り行きに驚いて、口を開き、考えた。でも、......それは、......。
――私は日本人に友人が出来て、とてもうれしい。だから、私はあなたにこれをあげるのだ。名前を覚えてくれた、そのお返しとして。
あ、ああ。夏雄は急いで考えた。僕の方で、あげるものはないだろうか。あいにく、今夏雄は手ぶらだ。それに、支部に置いてある荷物にしても、大したものはない。着替えと、それに洗面用具と、あとは、あとは......。
マチョガノは、両手で鹿のブックエンドを差し出していた。ああ、あああ。夏雄はうなった。ありがとう、ありがとう。えーと、ありがとう。
――来てくれて、ありがとう、ナツオ。マチョガノが言った。小柄なマチョガノが、とても立派に見えて、夏雄は唇を噛んだ。自分も立派な顔をしたい、夏雄はそんなことを思った。マチョガノが右手を差し出す。ありがとう、夏雄も右手を差し出して、その手を握った。ザラザラとした手が、暖かかった。戸口のところで、子どもたちがニコニコと覗き込んでいた。
ありがとう、マチョガノ。夏雄は言った。ありがとう、子どもたち。ありがとう、ありがとう。
7
イフガオの朝は早い。まだ暗いうちから往来の音がする。
イフガオ支部のソファで一晩すごした夏雄は、大きな寝息をたてているパンダを起こさないよう、そっと立ち上がった。今日は彼は行かないことになっているが、パンダのことだ、やはり行くことにした、などと言い出しかねない。
バケツに溜めてある水で顔を洗い、スタッフが買っておいてくれたパンを口につっこんで、夏雄は表に出た。もう気温は充分高く、そしてほこりっぽい。汗がじわじわと肌からわき出してくる。支部前の未舗装道路をトライシクルが行き来し、カラバオに引かれた荷車が通り過ぎる。農作業に出掛ける人、商売に出掛ける人が次々に通っていく。
こちらをじっと見つめながら歩いていく人がいる。夏雄は、背伸びとあくびを同時にしながら微笑んでみせた。まだ若い、農民らしいその人は、警戒しながらもにやりとした。そうだ、夏雄は思う。僕はイフガオにいるんだ。
エスターと約束した七時のジプニーも、生き生きとして、混雑していた。
夏雄が覗き込んだ後部の入口には、大きな竹の籠を抱えた人が座っていた。中身は数羽のニワトリだ。バタバタと羽を散らして暴れている。夏雄はそれを避け、体を小さくして乗り込んだ。女性がほおかむりをして、やはり大きな竹製バッグを抱えている。そのニワトリと竹のバッグに挟まれて、Tシャツ姿のエスターが座っていた。
膝の間に布のバッグを持っている。気づいた隣の人が空けてくれた席にすべり込むと、エスターは白い歯を見せて小さく笑った。おはよう、マガンダン・ウマガ。夏雄はタガログ語であいさつする。マガンダン・ウマガ、エスターも答えた。
――よく眠れた?エスターが聞いた。もの静かな、しかし夏雄にはとても親しい声だ。
――ちょっとソファが硬かった。それに、パンダのイビキがうるさかったし、朝は早いし。夏雄が答えた。気付いた女性が詰めてくれたので、彼はエスターの隣に座ることができた。
――元気ない?
――それは大丈夫。エスターの村に行くのを楽しみにしてるから、とても元気だよ。
――よかったわ。エスターが微笑むと、となりの女性も一緒に微笑んだ。優しい恋人たちに向ける微笑みだ。僕たちが、と夏雄は思った。金に飽かせて女を買っている日本人とフィリピーナに、見えなければいいのだけれど。しかし、何気なく自分のTシャツを見た夏雄は、愕然として、それからほっとした。昨日から着たきりのTシャツは、土ぼこりで茶色く汚れ、汗の染みが白い波になっている。これなら大丈夫だ。どう転んでも、金持ち日本人には見えない。
ジプニーは丘を上り、下り、そしてまた上った。
小さな集落で、また人が乗り込んできた。ジプニーはもう満員だ。人々が席を空けようと体をさらに小さくする。
その時エスターが、夏雄の肩を叩いて、指を立てた。天井を指している。なに、夏雄が聞いた。エスターはいたずらっぽく笑って腰を浮かせた。そのまま後ろに移動する。どこへ行くの、夏雄が聞くと、エスターはまた、天井を指差した。
ジプニーの振動はすごい。後輪が道路のわだちをひろって揺れている。その揺れの中で、エスターは後ろの出入口に体を乗り出した。なんだい、どうするの、夏雄がそう聞く間もなく、エスターは鉄棒の要領で、体をはね上げて屋根の上に消えてしまった。
――エスター!どうするの、大丈夫なの?夏雄は見えないエスターに向かって、うろたえて声をかける。顔を出してみると、ジプニーがかなりのスピードで走っているのが分かった。ほこりが舞い上がり、小石が音を立てて飛び跳ねている。
エスター!エスター?
――上がっておいでよ、ナツオ。エスターの声が聞こえた。おそるおそる伸び上がってみると、長い髪を風になびかせて、屋根の上に座ったエスターが笑っていた。
――大丈夫なの?
――平気よ、ほら。エスターが体をひねって手を放してみせる。――気持ちいいから。
よおし。
高いところは苦手だけれど、この際そんなことは言っていられない。相変わらず籠の中で暴れているニワトリを避けながら、夏雄も小さなドアに足をかける。いくぞお、一、二、三!夏雄は勢いをつけ、屋根の上にはい上がった。
揺れがすごい。振り落とされそうだ。上半身は乗ったものの、どうなっているのだか、足をかけるところがない。うろたえている夏雄に、エスターが片手を差し出した。夏雄はそろそろと顔を上げる。屋根の上には、気付いてみると、荷物用らしいレールが縦横に渡されていた。夏雄は右手のひじをレールの間に入れて、バランスをとった。足がなにかにかかった。入口の手すりらしい。次は左手で......ガタン。ジプニーが大きく揺れて、夏雄はウワッと声を出した。その夏雄の手を包み込むように、エスターの手が触れた。
――あ、ありがと。夏雄ははいつくばったまま、それだけ言った。素直に引っ張ってもらうことにする。エスターの手がたよりだ。片側が崖になったところを走っているので、下を見ると今にも転落しそうな錯覚に陥る。
エスターが笑っていった。――大丈夫よ、ナツオ。ほら、こうして手を放したって平気。ね。
まった、放さないでよ、エスターの手にすがるようにして、夏雄は彼女の手を握りしめる。アハハッ、エスターが明るく笑った。エスターの、多分とてもエスターらしい声だ。夏雄はほんの一瞬、自分が小さな子どもになったような錯覚を覚えた。母親の手にすがっている自分の姿がそこにあった。
ようやく並んで座る。右に左に、エスターと一緒に揺すられてしまうのが、おかしい。おっと、夏雄の腕がエスターの肩にあたった。ごめん、夏雄が言う。その夏雄の顔に、エスターの髪がかかった。気持ちがよかった。屋根の上の風と太陽と、そしてエスターのせいだ。
足を前に伸ばす。運転席の上の位置にスペアタイヤがあって、かかとを落ち着かせるのにちょうどいい。夏雄がポンポンとタイヤを蹴って足を乗せると、エスターが同じようにして足を伸ばした。振動に合わせて、二人の足が同じように飛び跳ねる。
夏雄は両手を後ろについて、顔を上げた。行く手の木々の間を風が通り抜けている。深い緑だ。大きなシダらしい葉が迫ってきた。あ、葉っぱが......。そう言う間もなく、二人は顔をはたかれてしまった。ワオ、大丈夫、エスター?イエス、私は......あ、まただっ。
二人が笑い合う。長い笹のような葉、細かい葉のついた枝。屋根の上の乗客には、次々に障害物が訪れる。それを避けるのも楽しみだ。
体制を立て直して足を踏んばる。上半身は楽に。足を棒のような物体にして、振動を体の中に吸い込んでしまうと楽になる、夏雄はそう言おうと思ったが、やめた。英語にするには難しすぎる。それが英語で話すときの問題点だ。普段自然に出てくる大して意味のない言葉も、頭の中で反芻してからでないと話せない。結果的に、すべての言葉が重くなってしまう。
夏雄はそんなことを考えながら小さな谷の向こうに目をやった。ぼんやりと霞んでいる。それによく見ると、谷の間をぬって、雲のようなものさえたなびいている。深い谷でもないのに、不思議な光景だ。桃源郷、などという言葉が頭に浮かんだが、これも口には出せなかった。英語に出来ないからではない。気恥ずかしかったからだ。
――あれ、雲かなあ。夏雄が独り言のように言った。
――霧、でしょう。エスターが答えた。――少なくとも、煙とは言わないわよね。
――そうかな、煙じゃない?人家があるようにも見えないか。光があたって、きれいだね。
――そうね。光がきれい。
太陽の光が、いくつもの筋になって、谷の底に流れ込んでいる。柔らかな光だ。熱帯に近いというのに、ふんわりとしている。刻一刻と、その光は風にあおられて移動していく。柔らかく、ゆるやかに。
夏雄は、エスターを見て、向こうの光を見た。エスターも、夏雄を見て、それから一緒に谷の向こうに目をやる。同じものを見ている、夏雄はそう思った。それだけで、暖かく、胸苦しい気持ちだった。何もかも自分とは違っているエスター。育った環境も、喋る言葉も、やっている仕事も、みんな違う。その彼女が今、僕の隣に座って同じ風景を見ている。一緒に揺れて、一緒に木の枝をよける。
それがうれしいことだ、と感じたことはなかった。夏雄にとっていつも、人はうっとうしいものだった。他人の中ではいつも、早く独りになりたて仕方なかった。人の集まる場所には行きたくなかったし、多くの人がやることは、避けたかった。だからこそのフィリピン旅行だったのだ。そうでなければ、アメリカかヨーロッパに行っていただろう。
相手が女の子であっても、同じことだった。女の子だとさらにそうだったような気もする。女の子が嫌いなわけではないが、相手に合わせるのは苦痛だった。気詰まりなこと、恥ずかしいこと、それらを、早く離れて清算したいと思った。自分はいなかったことにしてしまえばいい。そして自分は、自分でいられる。
しかしそれが、今は違っている。普段よりさらに言葉の通じないエスターが一緒なのに、居心地の悪い感じがない。それは風景のせいだろうか。フィリピンのせいだろうか。それとも、それがエスターだから、なのだろうか。
パパーッ、ジプニーのホーンが足元で鳴った。夏雄はびっくりして体を緊張させる。前方を見ると、ブタが道の左右を走っているところだった。
――ブタだ。夏雄は茫然として言った。――何頭もいる。
――そうね、ブタだわ。エスターが優しく言った。
――ブタだ、夏雄は繰り返した。ブタが走っている。――野生のブタ?......じゃないよね?
ジプニーが、またたくまにブタを追い越した。屋根の上から見える、慌てたブタの背中がおかしい。
――人家があるわ。まばらにだけど、崖の下側に家があるの。向こうへせり出すように作ってあるから、こっちから見えないだけ。親ブタに、子ブタが......八頭?十頭くらいいたかしら。かわいいかったでしょう。
うん、そうだね。夏雄はそう言いながら、土ぼこりの中に取り残されていったブタの親子を振り返った。あわてて走っていたブタたちは、今はもう、走るのをやめてジプニーを見送っている。一瞬前の事件が何もなかったようにのんびりした表情だ。
――ブタの飼育も、RRMは奨励してるのよ。エスターは生真面目な調子で解説した。
――へえ。そうなの。
――もちろん、ニワトリとか、ヤギとかも。そんなに多くはいらないの。一家に、たとえばブタなら二頭。種ブタが、村に一頭。ニワトリなら雄鶏一羽に雌鶏五羽。それでタンパク源になるし、現金収入も得られるし、フンは肥料になるし。それにね......。
夏雄にとってそれほど興味のある話ではなかったけれど、エスターが熱を込めて話すのを聞いているのはうれしかった。先生に初めて認められた生徒のような気持ちだった。夏雄が質問し、エスターが答える。それが何度か繰り返された。
――それで、エスター。あなた自身のこと、聞きたいんだけれど。あなたは、どうしてRRMで働くようになったの。夏雄は一段落ついたところでそうたずねた。風とエンジン音の中で、夏雄の耳にはいかにも間抜けた発音に響いたけれど、エスターは理解してくれたようだった。
――色々あるんだけれど、そうね、......。エスターは空を仰いで、考え込む素振りだ。そのあごの線がきれいだと夏雄は思った。出来ることなら、触れてみたい。きっとなめらかで、流れるような感じがすることだろう。――直接の理由は、私たちの村がRRMに助けられたことね。私が子どもの頃は、村にはトイレがなかったの。みんな、たんぼの間とか、家の裏とか、適当なところで用を足してたんだけれど、下痢はしょっちゅうで、死ぬ子どもも多かったの。そこに、RRMのコミュニティ・オーガナイザーがやってきたというわけ。私はほとんど入れ違いに村を出たのだけれど、彼は住民組織を作り、保健委員会を組織して、みんなの意識を高めた。最初は警戒していた村の人たちも、だんだん自分たちのことが分かってきて、それは劇的だったわ。自分たちがどういう人間なのか、とか、今何をすべきなのか、どういう権利があるのか、帰るたびに変わってくるのがわかった。やがてトイレも作られて、みんなが保健衛生に気をつかうようになったから、死亡率もぐっと下がったし。その時のオーガナイザーが、今イフガオ支部長をやってるエステバン。彼はとても立派だった。それで、私も彼のように働きたいと思ったというわけ。
エスターは、落ち着いた声で話している。風の中にその声が溶けていく、と夏雄は思う。自分の声は、風の中に散っていくだけ。大きな違いだ。エスターのように喋れたら、と夏雄は思った。
――大学では、何を勉強したの。
――社会学。調査分析が専門なの。保健調査なんかに役に立つのよ。
――じゃあ、将来こんな仕事をしようという気は、最初からあったんだ。
――それは......そうでもないわ、エスターがちょっと肩をすくめた。今まで見なかった、親しげな仕種だ。――最初は漠然と、将来はオフィスワークをするとしか思ってなかった。......違うわね。本当のことを言えば、なんとかしてこの村から抜け出す、それだけが目標だったかもしれない。せっかくいい成績をとって奨学金を貰えたんだから、このチャンスを生かしたい。きれいな服を着て、エアコンの効いたオフィスで働ける身分になりたい。そう思ってた。ちょっと違っちゃったわ。
――奨学金を貰うのは、大変なんでしょう。夏雄は少し安心して言った。エスターも普通の女の子だ、ということが分かったからだ。
――私の村では、私が二人目の高校入学者なの。カレッジは初めて。ちょうど奨学金が充実し始めた時だったから、ラッキーだったわ。そうでなければ、とても行けなかった。ほんの少し前までは、大学へ行けるのは、エリートの子どもだけだった。
――じゃ、村の人は期待していたんだろうね、夏雄は言った。本当は、御両親は、と言いたかったのだけれど、それはやめた。
――そうかもしれない。だから、私だって、RRMのオーガナイザーになると報告に戻った時にはドキドキした。少なくとも、お金になる仕事じゃないから。でも、祖母もエステバンには感謝してたから、反対はしなかった。お金を稼ぐより大事なことがある、と理解してくれたわ。祖母は......私の母の失敗を見ていたしね。
お金を稼ぐより大事なことがある。小学生の夏雄には、偉い人になることだった。偉い人というのは、偉人伝にのっているような人のことだった。中学生の夏雄にはそれが少し色褪せた。自分自身の問題で手一杯になった。その色はそれからもどんどん消えていって、ついには跡形も無くなってしまった。
素直にそう言えるエスターがうらやましい、夏雄は心からそう思う。
それにしても、エスターのお母さんの失敗とは、何だろう。話が続くのかどうか、夏雄は待っていたけれど、エスターの話はそれまでだった。そんな時、あえて聞くことは出来ないのが夏雄だ。夏雄は別の話にもっていくことにした。
――この間から思ったのだけれど、RRMには若いスタッフが多いね。つまり、年配の人があまりいないみたいだけれど、エスターはどうするの。ずっとRRMに勤めているつもり?
――そうね。それなんだけど。エスターがちょっと考え込む仕種で宙をにらんだ。――私は今、医者になりたいと思ってるの。私には、エステバンのように優秀なオーガナイザーにはなれない。私に出来ることは、もう少し直接的なことだと思う。それには、医者になることだわ。医者が足りないのよ。これから行く私の村では、RRMのトレーニングプログラムで誕生した保健婦が一人いて、その人が力を発揮してはいるのだけれど、でも、やはり本当の医者が必要だわ。なにしろ普通の診察をしてもらうのにも、ジプニーで二時間の町まで行かなくてはならないし、ようやくそこの診療所にたどりついたって、医者は週に一回、半日来ているだけなのよ。まして手術の出来る病院は、この間ジプニーを乗り換えた、あのサンディエゴの町まで行かないとないし。医者が、必要だわ。人の命の問題だから。
ああ、医者。夏雄はちょっと複雑な思いでそう言った。高級取りで、病院の花形で、尊大で、独善的な医者たち。なんであんなヤツが、としか思えない医者が、病院には何人もいた。常識がない、人間を人間とも思わないドクター。自分だけがすべてを分かってると思い込んでいるドクター。やたらと複雑な処方をするドクターや、なんの病気にも同じ処方しかしないドクター。......でも、違う。エスターは、もちろんあんな医者にはならない。人間にとって大事なことを大事だと言える、困っている人を助けられる、優しい医者になるのだ。
――いいね。とってもいいね。夏雄はそれだけ言った。エスターがちょっと恥ずかしそうに笑った。
一つ峠を過ぎると、明るい風景が広がった。細長い田んぼが、何段にも重なって斜面に張りついている。きらきら輝く水と青々とした稲の色が谷底から山の頂上まで続いている。生気に満ちた風が、田んぼを渡っていくのが見える。それはやがて、ジプニーの屋根にまで、吹き寄せてきた。
――うわあ、きれいだ。夏雄は言った。――これがライステラスだね。
エスターは答えるかわりにニコッと笑った。満足と、誇りの入り交じった笑顔だ。
小さな集落を通り過ぎる。遊んでいた子どもたちが立ち止まって屋根を見上げている。夏雄は手を振る。反応はないが、いい気分だ。自分が風景に溶け込んでいると感じる。自然に振る舞っている。
町で、通りで、どこかの店の中で。自分はそこにいるべき存在でない、夏雄はいつも、心のどこかでそう感じていた。目立って飛び出しているというのではない。その反対だ。誰も自分に気付いてくれないのではないか、そんな種類の恐怖だった。明らかに違う自分の存在が、風景の中でシミのようになっている。みんなが違和感を持ち、しかも誰にもその元がわからない。
自分を見ている人も、自分と話している人も、実は僕のことが見えていないのではないか。その風景の中で、ぼんやりしている部分。その時間の中で、ぽっかりと抜けてしまう部分。誰の印象にも残らない部分。自分は、どこにもいない。自分だけ、溶けこめない。八年間勤めてきた病院の薬局でさえも、夏雄はそんな感じを持っていた。
楽しそうに話す人々。それに加わってみるとしかし、話は楽しくなくなってしまう。夏雄が加わると、その言葉だけがそぐわない。夏雄はそれに気付くのだけれど、他の人々には分からない。ただ、風景が変わってしまう。風景の中で、夏雄だけが、邪魔な存在としてある。
それが今、ない。夏雄は風景の中だ。言葉のもどかしさはあっても、エスターは夏雄を認めてくれている。
濃密な緑と太陽の中、ガタガタとジプニーが走る。風が熱い波のように道を横切っていく。やわらかな光と濃い土の色と、ほこりまじりの道路の色が交錯する。その中で、夏雄は風景に溶ける。緑に溶け、日光に溶ける。風に溶ける。
8
小さな集落でジプニーを降り、そこでトライシクルに乗り換えた。
ホンダ製小型バイクの横に赤いサイドカーをつけて、トライシクルはディズニーランドにでもありそうな乗り物に見える。頭を低くして乗り込むと、映画で見た人力車や駅馬車を思い出して心ときめく思いだったが、乗り心地はそれどころではなかった。
ショックアブソーバーなどないらしく、道路のガタガタが直接体に響いてくる。乗用車の座席より一段低くて、崖を下に見ながら急カーブを曲がったりすると、頭が左右に揺れてどちらが上か分からなくなる。エスターと体をつけて親密に話をするシーンを考えていた夏雄は、舌を噛まないようにするのが精一杯だった。
トライシクルは、山あいの道の途中で止まった。左側は、木々がかなり密生した森林。右下は谷になっていて、小さな流れが見える。向こう側の山にはライステラスが切ってあり、それが頂上にまで続いている。それだけだ。他にはなにも......いや、あれは?あの中腹に見えるのは......。
――さあ、夏雄。着いたわ。
着いた?君の村かい?
――そう。キリガン村へ、ようこそ。とはいっても、少し歩いてもらわないといけないけど。
少し、というのは、一旦谷底に下り、人一人がようやくの木の橋を渡って棚田の間を上る、三十分ほどの行程のことだった。勾配はきついし、ちょっとしたものだ。夏雄は息が切れ、汗が体じゅうを流れた。しかしエスターは平気な顔だ。この頃運動をしていないと言いながら、大して汗をかいているようにも見えない。
前を行くエスターの足が、軽快に坂道を蹴る。ジーンズに浮かび上がる形のいいお尻の線が、気持ちよく動く。しかし夏雄には、それを眺めている余裕がない。この村の人たちは、ここを行き来する他に下へ行く道もないのか?それは......困る。これは大変だ。夏雄はそんなことを思いながら、エスターに置いていかれないように懸命に歩いた。
――さあ、着いたわ。あ、バグオー。元気だった?エスターが言ったのは、夏雄のももの筋肉がしびれ始めて、休んでくれ、と声をかけようとした時だった。ほっとしながらも夏雄は、挨拶しようと息を整える。しかし、そこにいたのは人間ではなく、黒い物体、カラバオだった。
――それ、カラバオ......だよね。バグオーって?名前?夏雄は息を切らしながら言った。
――そうよ、バグオー。私が小さいときからいる、年寄りなの。
へえ。そうなのか。カラバオにも名前があるのか。夏雄は意外な感じにとらわれた。彼にはどのカラバオも区別がつかない。しかし、考えてみれば人間も同じだ。アメリカ人にはアジア人はみな同じに見えるらしいし、日本人にとっては白人はみなアメリカ人だったりする。アジア人にもそれぞれ違いがあるように、カラバオにだって個性もあり、顔も違い、名前もあるだろう。しかしそんな当たり前のことにも、気付くのは難しい。
そんなことを考えた時、ニコニコした子どもたちの顔が夏雄の目に入った。みんなエスターを目指して、口々に名を呼んでいる。たちまち彼女は十人以上の子どもたちに囲まれてしまった。人気者だ。エスターが声をかけると、少しはにかんで、しかしうれしそうに子どもたちが答える。
手振り身振り、真剣に話す表情が豊かだ。小さな子どもをおぶっている女の子や、胸の前に赤ん坊を抱いている男の子もいて、それが自然なことなのだろう。どの子もみな、エスターと同じように歯が白く、真っ黒な髪をしている。確かに、と夏雄は思う。エスターはこの村の民だ。しかしまた、エスターだけが顔の輪郭が少し違うような気もする。もちろん年齢が違うし、やっていることも違う。それが都会で暮らしていたということなのかもしれない。
エスターは、子どもたちが話しているのをうなずきながら聞いている。彼女にもたれかかって顔を見上げている男の子は、安心しきった様子で、半ば放心状態だ。高校時代からこの村を出たというのに、どういうわけだろうか。エスターが好かれているのは確かにしても、それだけでもなさそうだ。もしかすると、初めて大学まで行ったエスターは、村の子どもたちのまぶしいアイドルなのかもしれない。
一行が移動する。ちらちら視線を送ってはくるものの、夏雄はほとんど無視された格好だ。しかし気にはならない。ここはエスターの村なのだし、エスターは夏雄の大事な友人だ。
小さな小屋のような家の前で、おなかの大きな女性が出迎えた。目がエスターに似ている。背中にも小さな子どもをおぶったこの女性は、優しさと無表情さの入り交じった、ちょっと不思議な表情でエスターを見た。そのままの視線が夏雄にも注がれる。
ナツオ、とエスターに呼ばれて近づいた。エスターがその女性を紹介して言った。――私の姉、ルシア。ずっとここに住んでいるの。私たちは仲がよかったわ。
マガンダン・ウマガ、夏雄はタガログ語の挨拶をした。ナイス・トゥ・シー・ユー、なまりの強い英語で返事が帰ってきた。英語が分かる、夏雄はほっとした。言葉が通じるというのは、何にしても心強い。エスターが夏雄のことを話している間、奥から薄いワンピース姿の老婆が顔を出してすぐ引っ込んだ。エスターが声をかけて中に入る。エスターのお祖母さんだ。
――おばあさんは出てこないと思います。あなたは気にしないでくださると、うれしいです。ルシアが几帳面な感じの英語で言った。多分、小学校で勉強したのだろう。悲しいことにフィリピンでは、英語を聞いただけでその人の受けた教育程度が判断出来てしまう。
――分かりました。でも、どうして出てこないのですか。
――ある理由によってです。
そうですか。分かりました。夏雄はそれだけ言って、うなずいた。ルシアがもう一人の子どもの手を引いて一緒に中に入ったのを機会に、夏雄はそこを離れた。
さっきの子どもたちが遠巻きに夏雄を見ている。エスターが消えた今、夏雄は珍しい人としての地位を獲得しつつあるらしい。スターになったような、珍しい動物になったような変な気分だ。その向こうで白い布をかぶったおばあさんが優しそうにうなずいているので、夏雄はその人の方に進んだ。子どもの群れが一緒に動く。
丸い顔に優しい目をしたおばあさんは、しわだらけの顔で笑っている。可愛く見えたのは、小さな唇が真っ赤だからだ。歯まで赤い。なにか赤いものを食べているのだった。
――それは、何ですか。夏雄は英語で言った。通じたのかどうか、おばあさんは、横に置いてある小さな竹の筒を示した。中に棒がつっこんであって、紙てっぽうのように見える。中が赤い。おばあさんは、その棒を引き抜いて手に赤い粉のようなものをのせた。
――それは、何ですか。夏雄は繰り返した。粉末ジュースのようにも見える。ピタナッツ、と聞こえた。――ピタナッツ?
おばあさんが、腰につけた竹の小さなバッグから、木の葉を出した。夏雄が見つめる。小さな緑色の実をそれに乗せ、それから赤い実を混ぜた。これを食べるのだ、という身振りをして、夏雄に差し出した。これ?僕に?夏雄はその葉を指差し、自分を指差す。まわりの子どもたちがクスクス笑った。一人の子が、真面目な顔で何か言っている。やってみろと言っているらしい。
よし、分かった。夏雄は口の中にそれを入れる。舌で笹のような感触を確かめてから、思い切り噛んでみた。葉っぱの青臭い汁と、それに加えて強烈な苦さが口の中に広がった。ウエッ、思わず喉から声が出た。子どもたちが笑う。もどしそうになるのをこらえて、さらに口の中で噛んだ。押さえた手を見ると、なるほど真っ赤になっている。どうもほかのものと反応して、さらに赤くなるらしい。
おばあさんがにこにこ笑っている。苦い、というよりは渋い。口の中に膜ができる。喉の奥から鼻にかけて、渋さが突き上がってきた。鼻血が出たときのように、ねっとり熱いものが鼻の奥に充満する。後頭部も熱くなって、夏雄は耳を押さえた。目がぐるぐる回る。
――これは苦い、夏雄は英語で言った。――これは、ビターだ。
ピタナッツ。おばあさんが、子どものようなかわいい声で繰り返した。あ、そうか。ビターナッツか。苦い実、そのままじゃないか。ホーイ、ホホーイ。夏雄の渋い顔を見て、回りの子どもたちが囃し立てた。変な顔、困ってるよこの人。夏雄にはそれがよく分かった。
しばらくして、エスターが呼びに来た。昼食を村長の家で食べさせてもらおう、とエスターは言った。そうして連れだって行った家の入り口には、大きく医療センターと英語で書かれた紙が張ってあった。
――医療センター?
――村長のインダイは、この村の保健婦でもあるの。RRMのプログラムに最初に賛同して、トレーニングを受けたのが、インダイなのよ。
紹介されたのは、色の黒い、三十代半ばくらいの女性だった。初めまして、夏雄が言うと、インダイは黙ってうなずいた。骨の張った、キリッとした顔だ。厚手の、山吹色と紅色のざっくりとした織りの巻きスカートをはいていた。土地の民族衣装だ。二人の女の子が、スカートの裾を握って後ろに隠れていた。インダイも含めて、三人とも裸足だ。
こんにちわ、夏雄は、大きな方の子に日本語で声をかけた。五・六歳だろう。話しかけられた子の目がまん丸になった。あなたの、お名前は?
――さっき話した、エステバンが入ってきて保健委員会が出来るまで、このあたりには伝統的な治療師しかいなかったの、エスターが言った。――あとは、出産専門の産婆ね。保健委員会が出来てみると、どうしても医者の代わりが出来る人が必要になった。それで、インダイは自分で志願して保健婦のトレーニングを受けた。それからのこの村の保健関係の変化は、目を見張るものがあるわ。今ではこの村の守り神よ。それとも守護天使かな。でも場所がないから、こうして自宅の一階を保健室にしているというわけ。
なるほどね。夏雄は部屋の中を見回した。コンクリートブロックを積み重ねただけの壁で、床はなく、土間になっている。片隅にはちょっと場違いな白い棚があって、中には脱脂綿や消毒薬の瓶が入っている。小学校の保健室のようだ。反対側の壁には、手を洗っている図や煮物をしているらしい図が、素朴な絵で描かれていた。
――おなかが空いていませんか。インダイが片言の英語で言った。
――ああ、はい。もうお昼ですか。夏雄が言うと、インダイがうなずいた。――頭は痛いけど、お腹は元気です。
――それでは、お昼ごはんにしましょう。もし食べられるなら、来てください。大丈夫、あなたの分も充分あります。
――いただきましょう、夏雄。エスターに促されて、夏雄も立ち上がる。保健室の隣は、そのままインダイのダイニング兼キッチンだった。
ダイニングは粗末な板を張り合わせたテーブルで、キッチンは、これもコンクリートブロックを積み上げたかまどだ。大きなお鍋から湯気が立っている。きっと何日分か一緒に調理してしまうのだろう。
壁に大きな栄養分析表が張られている。夏雄たちは、それを見ながら、インダイの女の子と一緒に赤い御飯と酸味のあるスープの昼食を食べた。かなり歯ごたえのある御飯だったが、インダイもエスターにならって色々な野菜の入ったスープをかけて食べるとそれがおいしい。
――どう、このスープ。おいしいでしょ。これ、このインダイの自慢メニューなの。エスターがインダイにうなづきながら説明した。
――うん、おいしい。ずいぶんたくさんの種類が入ってるね。
――そうでしょ。栄養満点なのよ。この実、この小さい実ね、ここではカモックと呼んでるんだけど、これが不思議な食べ物で、タンパク質をたくさん含んでいるの。木の実でタンパク質を含むものって相当珍しいらしいんだけれど、このあたりでは自然に生えているのよ。で、これを煮込むスープをこのインダイが普及したの。おかげで随分、この村の子どもたちの栄養状態が改善されたのよ。
――ふうん。すごいんだ。感心した。インダイ、僕は感心しました。
インダイは英語があまり理解できないらしい。エスターがそれをインダイに訳す。これも、土地の言葉だ。口の奥の方にこもるような発音で、夏雄は高校生の頃一人で行った恐山のいたこの口調を思い出した。
――RRMの指導のおかげです、インダイが片言の英語でそう言う。夏雄は大きくうなずいてみせた。そのままインダイとエスターが話し出したので、夏雄は、ちらちらと様子をうかがっている女の子たちに、視線をうつした。下の子は、目が合ったとたんにびっくりしたように首をすくめ、それでもいたずらそうな笑顔をつくる。夏雄は、御飯粒を舌先に乗せたまま、ぺろっと出してみた。その子も笑いをこらえながら舌先を出したり引っ込めたりする。たしなめるような表情をした大きい方の子も、やがて笑いをこらえながら同じことを始めた。小さな共犯者をつくって、夏雄は食事を楽しんだ。
インダイに礼を言って、昼食を終え、外に出る。
小さな広場では、見覚えのある子どもたちが、輪になって小さなボールを蹴って遊んでいた。
結構硬くて重そうなボールなのに、足の裏や内側を使って空中に蹴り上げている。落としてはいけないらしい。バレーボールを輪になってトスしあう要領だ。
――シパっていうの、エスターが説明してくれた。――今やっているのは、ビランガン、とこのあたりの子どもは呼んでる。決まった回数を蹴って、それからパスするの。日本でもやるかしら。
――ないと思う。昔の貴族は、似たようなゲームをやったらしいけれど。
――どの位昔?
――千年、夏雄はつぶやいた。――ほんとだよ。
――それは古い伝統ね。それならあなたにも出来るでしょう。子どもたちが待ってるわ。
僕は貴族じゃない、そう言いながらエスターに押し出されて、夏雄も子どもたちの輪に入る。さっそくパスだ。空振り。ボールは夏雄の出した足の横に、ペタッと音を立てて落ちた。ワーイ、ヘタクソオ、そんな感じの笑い声が上がった。
なんで出来ているのか、黒いボールは、弾力があるようなないような、蹴るのはとても難かしい。子どもたちは両足を使って二度蹴りをしたり後ろ向きに蹴ってみたり、様々な技があるようだ。夏雄も真似をして、二度三度と失敗しながらおどけたポーズをしてみせる。夏雄はいつのまにかヒーローだ。子どもたちは、夏雄がうまいといってはどよめき、失敗したといっては大笑いだ。
ヨシヨシヨシ、夏雄の口癖が、子どもたちにもうつって、気がつくとみんながヨシヨシヨシ、と言いながら蹴るようになった。ひょうきんな子が、これも夏雄の真似らしい、腕を曲げ伸ばしする仕種でみんなを笑わせる。
夏雄の子ども時代にも、あんなひょうきんな子がいた。あんな風に恥ずかしがって、見知らぬ年上と遊んだことがあった。夏雄はいつか、自分が子どもの一人になっているのを感じている。僕はこの村の子どもだ。外国人が来て、一緒に遊んでいる。どこから来てどこへ行くのか、僕は知らない。ただ、不思議な言葉だけが、友達の中に広がっていくのだ。
シパがなんとなく終わると、子どもたちは、ガキ大将風の男の子を先頭に、棚田の中の畦道を走り出した。夏雄の尻を押してくる子がいて、夏雄も走らされる。エスターも女の子の一人と競走するように走り始めた。
子どもたちは身が軽い。夏雄があえぎながら上る横を、子どもたちは上がっては下り、また駆け上がっていく。エスターが子どもたちと一緒に楽しそうに登っているところをみると、ゼーゼーいっているのは夏雄だけだ。この人、もうハアハアしてるよ、多分そんなことを言っているのだろう、子どもたちが、夏雄を押したり引っ張ったりしながら、鳥のように叫ぶ。
――夏雄、大丈夫、エスターが言った。エスターにそう言われるのは何度目だろう。
――大丈夫じゃない。みんな元気だね。
――ここの子どもたちは、毎日荷物をかついでここを行ったり来たりしてるんだから。当然だわ。
――そりゃ、そうだ、けど。夏雄は汗をぬぐった。
――私もここで育ったんだもの。この子たちと同じように、ここで毎日遊んだのよ。
――そうだね。そう、だね。夏雄繰り返して行った。自分の懐かしさと、エスターの子ども時代がどこかで重なるような気がした。僕は子どもだ。エスターも子どもだ。僕たちはみんな、この村の子どもだ......。
――どう、ここから見るライステラス。これも立派でしょう。エスターは、子どもたちに声をかけて立ち止まった。振り向いて見る夏雄の目に棚田が波のように重なって見える。緑の波は山の奥深く分け入り、それが向こうで顔を出す。整然としていて、しかも自然に溶け込んでいた。山が生きている。木を切って人工的に作ったものではあるけれども、しかし自然を裏切ってはいない。とても自然な成り行きとして、ライステラスになっている。美しい、と夏雄は思った。それは多分、すべてが人の手によって作られたからだ。自然の一部としての人間が、それを作ったからだ。
――ある時期、私はこの風景が嫌いだった、エスターは言った。――寂しい風景だと思ったわ。
――寂しい?夏雄は聞き返した。
――そう。地理の教科書で、一面の平野に農作物が植わっている、アメリカの農場風景を見たの。大きな農場で、コーンを、大きくてきれいな機械で収穫している風景。農民が帽子をかぶって、誇らしげに機械を運転している、そのはるか向こうまで、コーン畑は海のように続いている。それと比べて、と思ったわ。私の村のライステラスは、山の間に閉じ込められてせせこましい。狭くて、どこにも出られない。「遠く」がなくて、「近く」ばっかり。すぐそこは、もう向こう側。今でも覚えてるわ。教科書の写真を見た時の、胸の鼓動。ライステラスを思い浮かべて、息苦しくなった。私はよくあんなところで呼吸が出来ていたものだ、とさえ思った。そして、なんとかして広いところに出たいと願った。
ああ。そうか。夏雄はうなずいた。それはきっと、狭い村のようなものに対する反発だったのだ。自分の故郷に自信が持てない時期というのが、誰にもあるのだろう。自分の故郷。僕の故郷は、待てよ、......僕の故郷はどこだっただろう?
――でも、今は誇りに思ってるわ。だって、先祖代々、少なくとも五百年にわたって造り上げてきたライステラスなんだから。途方もない時間と人間が作ってきた文化。それは多分、アメリカの、機械が作ったコーン畑よりも、ずっと「広い」ものなのだと思う。美しいと、今は思う。どう、夏雄。自然の中で、自然を最大限利用して、人間が自然になって造ってきたの。この風景を見るたびに、私はここから出てきたんだって、誇りを持って思うわ。
うん。そうだね。夏雄はそう言いながら、日本の、自分の回りの風景を思い浮かべている。スーパーマーケット。舗道の敷石の間から生えている雑草。チェーンの固定された、十六インチの自転車。通路を占領する、グレーの変圧器。階段の途中の、段ボールの山。
青い電車の列。鳩の群れ。ある日隣のアパートで起きた、大きな火事。学校の帰り、乾物屋の店先にあった小豆の箱。すさまじい音で反響する、国電のガード下。
夏雄の頭の中に浮かぶ情景は、どれも舞台の描き割りじみている。ブロック塀の上から柿の木が垂れ下がり、洗濯物が揺れる。駅前には自転車が並び、パチンコ屋の前で等身大のボール紙の女の子が愛想笑いをしている。病院の前には駐車禁止のポールが立ち並び、その向こうに救急車が黙って停まっている。
描き割りでない、本当の風景。それはたとえば、長い長い、誰もいない土の道。畑の間に続く、暑い夏の道だ。道の両側には雑草が生えている。田んぼもあり、小川もある。山の影があり、遠くに入道雲が見える。
それはしかし、夏雄の風景ではない。夏雄は知っている。それは昔、父親の見た故郷の風景だ。祖父が父で、父が子どもであった頃の風景なのだ。だから、と夏雄は思う。僕の故郷の風景は、どこにもない風景だ。どこにもあった、そしてどこにもない風景だ。
――あなたのこと、嫌いだったわ。エスターが唐突に言った。あ、夏雄はどう答えたらいいのかわからず、とまどってエスターを見る。エスターは、挑戦的な表情で続けた。――どうしてだと思う?
――そう、......マビニ通りにいたから?......ただ、あれは、言い訳してもしょうがないけれど、誰かと知り合いたかったんだ。だって、ああいうところへ行く以外に、フィリピンの人と知り合う方法が思いつかなかったから......
――そうじゃないの。私があなたを嫌いだったのは、あなたが日本人だったからよ。エスターは、ちょっと声を硬くして言った。
――ああ、そうか。日本人が、嫌いなんだね。それは理解できる。
――そう?
――僕だって、日本人は好きじゃない。傲慢で、尊大で。この国で見る日本人は特にそうだ。ビジネス優先のビジネスマンと、ヤクザばっかりだ。多分パンダを除いて、だけれどね。
――あなたも除いていいわ。......でも、そうじゃないの。他の理由があるの。日本人が嫌いで、でも好きな理由。......私のこと、よく見て。何か分からない?
え、なに?
――私の顔。どう思う?好き?
夏雄はドキドキした。そんな風に直接聞かれると、答えにつまる。ごまかした答え、真面目な答え、ジョークでかわす答え、十個くらいの答えが頭の中を横切っていった。しかし、その答えを待たずにエスターが続けた。
――私、日本人に似てるでしょう。
――そう......だね。そうかもしれない。夏雄は言った。瞳が特徴的だ。たしかに、エスターは日本人に似ている......
――似ているのよ。だって、私、ヒノマルベイビーだから。
ヒノマルベイビー?
――そうよ。ヒノマルベイビー。ジャパニーズ・フィリピーノ。私は、半分日本人なの。ワタシノオトウサンハ、ニホンジンデス。
エスターの口から突然日本語が流れ出て、夏雄は茫然とした。頭の中が大混乱を起こしている。自分とはまったく違っていると思っていたエスターが、......半分日本人?
――母はフィリピン人、父は日本人。ヒノマルベイビーってずいぶんからかわれたわ、子どもの頃。だからその音がとても嫌いだった。ヒノマルが何だか分かる前にね。
エスター、ほんとに......という言葉を夏雄は飲み込んだ。もちろん嘘でも冗談でもない。口の端をちょっとちょっと折り込むようにして、エスターは真剣な、少し恥ずかしそうな、そしてとても心細そうな表情をしていた。
夏雄は今度こそ、エスターをじっと見つめる。濃いめの眉毛、大きいれど単純な形の一重の目。ゆったりとした、ほおからあごにかけての線は、多くのフィリピンの人にはみられない柔らかさをもっている。そして、鼻だ。エスターの鼻は、フィリピン人、特にこの村の人々の鼻とは明らかに違う。鼻筋が通っていて、小さめだ。そこかしこに、日本人の特徴がでている。そうか、と夏雄は思う。だからこそ、初めて見た時に、不思議な親しみを感じたのだ。それにしても......。
――私の母は、この村で育った。でも、見ての通り、この村は貧しいわ。九人兄弟の七番目では、いつまでも家にはいられない。耕す畑も田も限られてるから。それで、十五才の時に町に出たの。最初はウェートレスをやっていたらしいわ。そのうちに、日本に行かないかという話がでたのね。まだ、ジャパユキとかなんとかいう言葉もない頃のことだから、日本に行く第一世代になるでしょう。その頃にはむしろ、中東とか、香港が主流だったのだけれど、とにかく母はトーキョーに行った。十八才の時。
――ショーのダンサーだったということだけれど、トレーニングを受けたわけでもないし、どういう仕事だったかは見当つくでしょう。始めから覚悟の上だったのかもしれない。でも、非難するわけにはいかないわ。その仕送りで、他の兄弟たちがここで生活できたのだし、多くのフィリピン人が、そうして世界中に出ていって、フィリピンを支えているのだから。......で、そうこうしているうちに、妊娠して、フィリピンに戻って子どもを産んだ。それがあの姉。だから、姉もジャパニーズ・フィリピーノ。私とお父さんは違うけれど。でもまた母は日本に戻った。姉を祖母に預けてね。そうしないわけにはいかなかったのだと思うわ。一家を支える働き手だったのだから。もちろん、姉の養育費も必要だったし。......そして、日本に帰って、二年もしないうちにまた妊娠。姉の時と同じように、母はこの村に帰ってきて、出産したわ。それが私。エスター・ミユキ・ロマノ。
エスターは、誇らしげに胸を張ってみせた。ミユキ、という名を、夏雄は秘密の言葉のように唇にのせてみる。その秘密は大きすぎて、夏雄の他の言葉を失わせるに充分だ。
――私はジャパニーズ・フィリピーノとしてはラッキーな方だった。今フィリピンには、ジャパニーズ・フィリピーノが五千人いるのだけれど、ほとんどは最初から父親がいない。私の父は少なくとも数年は仕送りをしていたし、写真もある。名前も、本名じゃないけれど、分かってる。......母は、それが本当の名前で、その父が今に私たちを引き取ってくれて、日本で一緒に暮らせると信じてた。父親の分からない姉共々ね。もしかすると、父は本当にそうするつもりだったかもしれない。結局、私が物心ついたころには、行方知れずになっていたけれど......。
――お父さんの名前は、なんていうの。
――シンジュク・タロウ。日本に行って探せば、見つかるかもしれないと思ってた。最近まで。でも、それはないわね。ありえない名前でしょう。
ううん、夏雄はうなる。新宿太郎......。
――いいの。分かってるわ。パンダが教えてくれた。
パンダが?彼は知っていたのか。夏雄は軽い嫉妬を覚えた。もっとも、知らないと考える方が不自然だ。マビニ通りで日本人ビジネスマンを探していたのは、エスターとパンダなのだから。
――母は、私が二歳になった時に、もう一度日本に行ったの。今度は働くためではなくて、父に会うために。でも、父には会えなかった。頼りにしていた住所には、見知らぬ人が住んでいた。今考えると、その人が父の知り合いだった可能性はあると思うのだけれど、とにかく母は、手掛かりも掴めずに、また働きだした。そして、おかしくなってしまったの。
おかしく。
――そう。そのまま帰ってくるわけにもいかずに働きだしたのだけれど、今度は悲惨だった。母もやけになっていたのかもしれない。ヤクザにひっかかったらしくて、麻薬中毒になり、性病にかかった。そしてまたこの村に帰ってきた時には、もうどうしようもなかったわ。......だから私は、母が怖かった。キライだった。だって、分かるでしょう。母は、いつもほとんど喋らずに、じっとしていた。そして時々、脅えて大声をあげて走り回るの。私の役目は、そんな母が崖を落ちたりしないように監視することだったの。だから、私が十歳の時に母は死んだのだけれど、悲しくなんてなかったわ。むしろホッとしただけ。......今話したようなことは、あとになって祖母がポツポツ話してくれて分かったの。その時になってやっと、母がかわいそうだと思ったし、母のことを受け入れる気にもなれた。そして、母のような人たちをこれ以上増やしてはいけないと思った。そういうことなのよ。
今はまたおだやかな表情に戻ったエスターを、夏雄はじっと見つめていた。
エスターが、とてもおとなっぽく見える。おとなしい、もの静かな女の子に見えたエスターが、今はまったく違った女性に見える。
きっと僕は間抜けた顔をしている、と夏雄は思う。独りでエスターを身近に感じていたのは、自分の勝手な空回りだった。エスターはそうじゃない。エスターは、もっともっと、手の届かないところにいる......。
9
キリガン村に電気はない。明かりは灯油ランプだ。その灯油も、あの谷の向こう側から人力でかついでくるのだから、浪費するわけにはいかない。だからであるかどうかは分からないが、村の人々は、暗くなるなり寝てしまった。それはあっけないほどだ。夏雄が夕食を再びインダイの家で御馳走になり、エスターとインダイと話し、そしてあてがわれた空き家に戻った頃には、村はもうまったく寝静まっていた。近くのブタ小屋からブタのねぼけた声が聞こえるだけで、人の気配もない。時計はまだ八時だったのだが、他にすることもなくて、夏雄もそのうちに眠ってしまった。
その代わり、朝は早い。まだ陽の光も差し込まないうちから、子どもたちが村の広場に集まっていた。夏雄が出てみると、十人くらいの子どもたちが交代で、杵を振り下ろしていた。杵は、おとぎ話の月のウサギが持っているような、両側が太いタイプのもので、臼もまたウサギ型のものだ。そして中には、籾殻のついた米が入っていた。脱穀だ。
――マガンダン・ウマガ、夏雄は元気に言った。マガンダン・ウマガ、マガンダン・ウマガ、顔見知りの子どもたちが一人一人順番に答える。共通語のタガログ語もここの子どもたちにとっては外国語と同じだから、日本の小学生がハローと言ってみるのと同じことだ。――まだ朝早いのに、みんな偉いね。今度は英語で言った。子どもたちが土地の言葉で夏雄に答える。どこで寝たの、今日は何するの、また一緒に遊ぼうよ、そんなことを言っているのだろう。子どもたちも朝から元気だ。
ふと気付くと、臼の隣に老婆がしゃがんでいた。見覚えがある。昨日と同じワンピースを着た、エスターの祖母だった。しゃがんだ足の深いしわが、見事なほどだ。彼女は顔も上げずに、臼からこぼれ落ちる米を拾い集めていた。殻を一方に集め、米粒だけを拾いあげる。指先が器用に動いて、土の中から、きれいな米粒が拾い出されている。小さなざるの上には、ごみもなく、小さなきらめく米の山が出来ていた。
――マガンダン・ウマガ、夏雄はおばあさんの隣にしゃがみこんで言った。老婆は足を開き、さっとよける。その素早さは子どもと同じだ。夏雄が手伝おうとして米粒を拾いあげたら、彼女はギョッとした顔をして、さらに数歩後ずさった。夏雄の手に、数粒の米が残った。あのう、これ。一緒に入れちゃっていいですか。夏雄はそう言おうとして手を差し出したのだが、彼女は横っ飛びに飛びのいていた。
あ、これ......。老婆は恐ろしいことが起きるかのように、そのまま、顔を上げず、音も立てずに走り去ってしまった。ざるは置いたままだ。どうしよう。夏雄が茫然として振り返ると、子どもたちがワイワイはやしたてて笑っていた。逃げた老婆を笑っているのか、間抜けな感じで立ち尽くしている自分を笑っているのか。夏雄は後者だろうと思った。夏雄は、敵に逃げられたジャングルの王者ターちゃんのように、間抜けな状態だったのだ。
――アハハ、嫌われた。夏雄はそう日本語で言って、手にした米粒をざるの米粒の真ん中に落とした。白い粒が、光りながら跳ねた。――まいったね。ま、いっか。
マイッカ、マイッカ。子どもたちの間に、瞬く間にその言葉が広がった。子どもたちは、夏雄の面白い音をすぐ拾ってしまう。あごを突き出し、下唇を噛んでみせるのも、夏雄のまねだ。
老婆の逃げた方を見ると、ちょうどそこにエスターの姿が見えた。入れ代わりに出てきたに違いない。胸の前で小さく手を振って、夏雄に合図を送っている。小さな微笑み。自分にだけ送られている合図だ、そう思い、夏雄はうれしくなって同じように指先で挨拶を送る。おはよう、エスター。僕は元気だよ。
――グッドモーニング、ボーイズ・アンド・ガールズ、エスターは英語で子どもたちに声をかけてから、夏雄に言った。――おはよう。そして、ごめんなさい。おばあさん、悪気はないんだけど。分かるでしょう。
――ああ、いや、おはよう。もちろんいいさ。でも、よっぽど、......日本人がいやなんだね。
――日本人という言葉は、鬼とか悪魔っていうのと同じ意味だったのよ。五十年ほど前のことだけど。子どもを叱る時には、日本人が来るぞって言ったという話を聞いたわ。それに、この村にも色々あって、それから私の母のことや私のことがあって。だから、仕方ないと思ってね。エスターがさりげなく、しかしはっきりとそう言った。そのおばあさんのもとで生まれ育たなくてはいけなかった彼女とお姉さんは、だとすると、相当の苦労をしたはずだ。しかしそれはエスターの顔にはなかった。彼女は世間話のように話し、それから本当に世間話に入っていった。――それで、どうだった、よく眠れた?ホテルのベッドとはかなりの違いでしょう。
――大丈夫、僕はこう見えても、結構タフだから。それよりも、夜静かなのにはびっくりしたよ。
――そう?結構色々な音がしてるんだけれど......それはきっと、ナツオがぐっすり眠ったということね。
――それに、ほんとにみんな、朝が早いね。
――大人たちはもう農作業に行っているわ。涼しいうちに作業して、それから朝食を食べるの。私たちもあとで一緒に食べましょう。バナナのパンみたいなものよ。コーヒーもあるわ、インスタントだけど。
――それはうれしいな。コーヒーが飲めないのはつらい。
――そうね、エスターはうなずいた。――あれは毒よ。でも、人間にはきっと、毒も必要なんだわ。
――薬はみんな、毒でもあるのさ。
そうね。それはあなたの専門だものね。エスターがうなずきながら立ち上がった。子どもたちがしきりにワイワイ言っていたからで、一緒に杵つきをやろうということらしい。
分かった分かった、そんな調子で子どもたちに声をかけて、エスターが、杵を握りしめる。右足を前に、左足を後ろに。向かい側に、子どもたちの中で一番大きい、小学校六年くらいの男の子が立って、同じように杵を振り上げている。
いい、いくわよ、そんな感じの言葉をかけてエスターがつきはじめた。ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、二人が交互につきおろす。リズミカルな音が響く。杵を肩の上に高く上げて、体重をかけて力強く下ろす、そのエスターの姿に夏雄は思わずみとれてしまった。なよなよしたところがまったくない。軽く結んだ口許も、その動きも、敏捷な少年のようだ。瞳は真剣に臼の中をにらんでいる。額に、うっすらと汗がにじんでくる。
半分日本人でもある彼女が、と夏雄は不思議な思いでエスターを見ている。父親の分からない、もしかしたら僕の隣人が父親であるかもしれない彼女が、ここでこうして育っていた時。僕は日本で、ぬくぬくと育っていた。あのコンクリートの箱の中で、ぼんやり籠のカナリアを眺めて。それが今、目の前にいるエスターと、この僕だ。
それがつまりどういうことになるのか、夏雄には分からないけれど、エスターを見ているだけで懐かしい気持ちになってしまう。違う人生を生きてきた、でもどこかでつながっていた。つながりがある、そしてまったく違う世界を持っている。
――どう、夏雄もやってみない、エスターがいきなり杵を渡してきた。え、これ重いんだなあ。ワーイ、やれやれえ、子どもたちがはやし立てる。
よし、やる。夏雄は立ち上がって夏雄は杵を握りしめた。両手で挟み込む。意外に太くて、持ちにくい。なんか変だな。これでいい?よし、それじゃあ。ワン、ツーッと、あれ?ちょっと待って。もう一度、ワンツー、ワンツー、ワンツー......。
夏雄は子どもたちに囲まれて、陽気に杵を振り上げた。足腰の位置が定まらっていないのがよく分かる。いくぞ、今度こそ。こうかな、こう?こんな具合?
山の端から、日が差し込んできた。体がふわっと暖かいものにくるまれる。顔を上げると、谷の向こうがわで棚田が一面に光っていた。キラキラとまぶしい。そうして杵を持つ手をちょっと休めると、まわりの子どもがまたはやし立てた。わーい、どうしたの、もう疲れたのかい。こうだよ、こうやってやるんだよ。まだまだ、さあ、もう一度いくぞ。
杵を振り上げた夏雄の目の端に、エスターの祖母が映った。腰を少しまげて、家の前に立っている。立ち上がり、歩き出す数瞬前のような、中途半端な姿勢だ。しかし僕のことを見ている、と夏雄は感じた。二つの目が、じっと僕のことをとらえている。なんなのだろう、とにかくしっかりやらなくては。
夏雄は気持ちがきっと引き締まるのを感じたのだが、これは失敗だった。バキッ、いやな音と共に杵が臼の端をかすめて、中に木片を削り落とした。オウッ、相方になっていた子どもが頬をふくらませて表情をつくった。おっと、ゴメンゴメン、夏雄は陽気にあやまる。アーア、ダメジャナイカ。そんな風に隣にいた男の子が真面目な顔で夏雄を叱った。
――私もやるわ、エスターが、相手の男の子の方の杵を受け取って、夏雄の正面に立った。なんだかチュン・リーに試合を挑まれている武道家ケンのような気分だ。――こうよ、こうやって持って。足は少し前、こんな風に。そう。じゃ、いくわよ。エスターは言うと、杵を振り下ろした。イチニの、サン。はい、ワン・ツー、ワン・ツー。ワン・ツー、ワン・ツー。
エスターが夏雄のペースに合わせてくれるので、とてもやりやすい。いいわ、夏雄、ワンツー、ワンツー。こうだね、こんな具合だね。
シャッシャッシャッ、サワッサワッサワッ。いい音だ。今度はいい調子だ。杵の先が確実に米をとらえている感じがする。うまく入ると中が波立たず、腕にまでしっかりした音が響く。エスターと夏雄のつくる渦巻きが臼の中で回転する。シャッシャッシャッシャッ。ワンツー、ワンツー。ハドーケン、ハドーケン、ハドーケン。武道家ケンの波動拳が、ちょうどいいリズムだ。
しかし、武道家ケンは情けない。すぐに腕が痛くなってきた。お尻の後ろあたりの筋肉も変な感じだ。息が荒くなり、汗がどっと吹き出る。
エスターの息も少し荒い。ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー。ハドーケン、ハドーケン、波動拳。こぼさないように、変なところを打たないように。シャッシャッシャッシャッ。
――はい、いいわ。これはもうできた。エスターがそう言った。フーウ、夏雄は杵をおろした。もうだめだ、腕がだるい。下ろしたら最後、杵は上がらない。子どもたちがさっと寄ってきて、中の米と籾殻を大きめのざるに移した。ザッと振ると、どういう仕組みか取れた殻の方が上から落ちる。うまいものだ、夏雄は感心してその手元を見ていた。
その時、夏雄はさっきと同じ姿勢で米を拾っているエスターのおばあさんに気がついた。いつのまに戻っていたのか、音もなく元に戻った感じだ。ニワトリと争うように米粒を拾っている。多分放っておいたらすべてニワトリに取られると判断したのだろう。右手と左手の指先は、まったく別の生物のように動き、きれいな動作でさっきのザルに米粒を投げ上げている。夏雄は気付かない振りをした。
代わろうか、他の男の子が手を出したけれど、夏雄はもっとやらせてもらうことにした。エスターは、今みたいにやるんだよ、というようにちょっと得意気に子どもに杵を渡す。夏雄はまた、足を踏ん張り、杵を振り下ろした。
ワンツー、ワンツー。ワンツー、ワンツー。だんだん腰が決まってくる。腕で振るのではなくて、体重で落とす、その感じがつかめてきて、いい感じだ。いいじゃないか、うまいじゃないか。子どもたちがそう言っている、と夏雄には思える。ワンツー、ワンツー。
次に仕上がった時には、夏雄はもう、汗でびっしょりだった。気温はそれほどでもないはずなのに、額から落ちた汗が目に入って痛い。ああ、もうダメだ。そう言って座り込んだ夏雄に、エスターがタオルを差し出した。
――あ、ありがとう。うまくいかないもんだね。
――よくなったわ。あと一週間やれば、もうベテランよ。
――そりゃ無理だ、その前に足腰立たなくなる。
――多分ね。エスターが肩をすくめてみせる。ふと気付くと、そのすぐ隣に、いつからいたのか、おばあさんが体を固くしてうずくまっていた。
エスターが、気楽な調子でおばあさんに話しかける。おばあさんが、ぼそぼそと何かつぶやいた。ほとんど言葉には聞こえなかったのだが、もちろんエスターには通じている。二言、三言。そして、エスターは夏雄に言った。――おばあさんが、あなたに聞きたいことがあると言うんだけれど。
うん。夏雄は緊張しながら、エスターに合わせた気楽さで答える。おばあさんが、またボソボソと何か言った。
――おばあさんは、あなたが何をしに来たのか、聞きたいんだって。
――僕は、フィリピンに興味がありました。それで一週間、仕事の休みに観光に来ました。......それじゃいけない?
エスターがおばあさんに話す。そしてまた、おばあさんが呟く。
――あなたはフィリピン人を殺したことがあるかって。ごめんね。
――もちろん、ありません。僕は、誰も殺したことはない。夏雄は突然の質問に息をつまらせながら答えた。
――あなたは、......なに?ああ、カトーという人を知っているかって。
――カトー?加藤か。よくある名前だから、何とも言えない、小学校の友だちにはいたけれど。でも、日本には何十万人もの加藤がいると思う。それが?
――その人が、おじいさんを連れて行った。エスターが淡々と言った。
おじいさんを?連れて行った?......どこへ?
ミヨトーカイノソラアケテー、キョークジツタカクカガヤケバ、テンチノセイキーハツラツトー......
おばあさんが突然歌い出した。夏雄は茫然として聞いている。歌えないまでも、よく知った日本の歌だ。
――そのカトーがおばあさんに教えたの。カトーは、ケガをしていた。それで、おじいさんはその人の傷の手当てをしたの、エスターが、これはおばあさんの言葉を訳すのではなく、自分でそう言った。――それは多分、もう日本軍の敗走が始まったころだと思うのよ。ジェネラルヤマシタって知っているかしら。日本軍の、この地域での司令官。彼はこの近くで捕まったの。その少し前のことなのね。そんなある日、そのカトーは、自分の軍隊と合流したいと言い出した。おじいさんは、その道案内をして、カトーを日本軍のいるところまで連れていった。そして、そのまま帰ってこなかった。
突然飛び出してきた五十年前の戦争。そんな話は、本やテレビの中の話のはずだった。スクリーンの中で、撃ち合い、殺し合うのを、ポップコーン片手に座ってみている、それが戦争だったのに。それに、大体日本軍はこんなところで何をしていたというのだろう。こんな山の中を日本の兵隊が歩き回って、どんないいことがあるというのか。
――おばあさんの話を訳すわ。カトーは肩のここに、ひどい怪我をしていた。血だらけで歩いてきた。丸めた日の丸の旗を持っていた。武器は持っていなかった。おじいさんは傷の手当てをして、御飯を食べさせた。カトーはしばらく家にかくまわれていて、それからある日、おじいさんと一緒に出かけて行った。......その人は、軍人ではなかったのじゃないか、と私は思ってるの。武器を持たない兵隊って変でしょう。......でもとにかく、おじいさんは、それきり帰らなかった。
――殺されたのだろうか。カトーに。
――おばあさんは、日本に連れて行かれたと信じてるの。そこで奴隷にされたって。私は子どもの頃、そう聞かされた。私は多分、アメリカ軍か、もしかすると何かの理由で日本軍か、そのどちらかに殺されたのじゃないかと思う。でも、帰って来なかったのは確かなの。行方不明。それっきり。
日本軍。ジャパニーズ・アーミー。それは、ほとんど冗談のように響く。そんな歴史がここにはあった。その日本へ、数十年後、おばあさんの娘であるエスターの母が出かけて行った。そして今度は魂の抜けた体が帰って来たのだ。日本人の血を半分引くエスターとお姉さんを連れて。
――分からないけど......僕は、......だけど、おばあさんが日本人が嫌いなのは、当然だよね。夏雄は重い気持ちでそれだけ言った。
――おばあさんは、それ以来、日本人を見たことがなかったの。私と姉は日本人でないとして、だけど。でも、私はおばあさんに特に嫌われた記憶はないわ。だから、おばあさんの反応は私にもショックだった。驚いたわ。エスターが小声で言った。
――だけど、当然だよ。夏雄は繰り返した。
――きっと、あなたと会いたがらないだろうとは思ったの。だって、当然私の母のことを思い出すでしょう。だからあんまりあなたを連れてきたくなかった。ただ、ね......。
うん。
――でも、きっとよかったのだと思う。おばあさん、あなたのことは嫌いじゃないと思うわ。だって、こんな風に出てきたくらいだから。......一生日本人を怖がって生きるよりは、この方がよかったわ。
そう、だといいけれど。夏雄は、さっきと同じような姿勢で米粒を拾っているおばあさんの首筋を見つめる。日焼けして、深く刻まれた皺と、そこから伸びている、薄い、真っ白な髪の毛。半分日焼けした頭の地肌も、夏雄には、歴史だ。
――おばあさんに、ごめんなさいって、言ってください。夏雄はそう言った。――僕は、......どうしたらいいのか分からないけれど、でも、ごめんなさいって。
――言うわ。でも、あなたのせいじゃない。あなた一人が日本の色々なことに責任持つわけにもいかない。だから、あなたがここに来たことで、充分よかったのだと思うわ。
うん。夏雄は泣きたいような気持ちで、顔を上げた。脱穀作業を終えた子どもたちは、もう向こうで遊んでいる。太陽が、あたり一面を照らしていた。農作業を終えた人々が、三々五々戻ってきた。
――さ、それじゃ、朝食を食べましょう。
朝食のあとは、川のさらに上流まで歩いて、一面に棚田の眺められる丘に登った。子どもの頃、よく一人で来たというその場所で、夏雄はエスターをとても身近に感じることが出来た。
その近くの村で、エスターの幼なじみだという陽気な女性に会い、共同の養鶏場を見た。RRMのプロジェクトの中でも成功例だというプロジェクトを見ながら、エスターとその女性は楽しそうに語り合っていた。
昼過ぎにキリガン村に戻り、二人は荷物をまとめて坂を下りた。エスターのお祖母さんも、お姉さんも手を振ってくれた。頭に布を巻いた、ビターナッツをくれたお婆さんの再度の親切を断り、代わりに、と小さな竹製のおまもりをもらった。
このままエスターと別れていくのも辛かったのだが、それはRRMの事務所で解決された。マニラの南、カビテ州にある農業研究所に誰かが行かなくてはならないのだという。それにエスターがあてられていた。パンダか誰かのはからいかもしれない。
夏雄はもう一日事務所に泊まり、次の日、またエスターと待ち合わせて、今度は南に向かうバスに乗った。
10
四日ぶりに戻ったマニラは喧騒に満ちていた。排気ガスの刺激臭が町中を漂い、視界は悪く、人々はとげとげしかった。おかしなことだ。ほんの四日前には緑の多い広々した町だと思ったのだが、今となってはすさまじい大都会に見える。この分では、と夏雄は思う。東京に戻ると、東京湾のガスにやられて気を失ってしまうかもしれない。
半分出張、半分遊びのエスターは、本を買うために、ショッピングセンターへ夏雄を誘った。アメリカ風のしゃれた名前のついたショッピングモールで、フィリピンでも随一の大きさだという。バッグや化粧品や家庭雑貨がたくさんあって、映画館も併設されている。アメリカ風どころか、まるっきりアメリカだ。違うのはあちこちに精密な肖像画を描く人がいることで、マルコスやイメルダの肖像でお馴染みのタッチは、こんなショッピングセンターで生産されているらしい。
目当ての大きな本屋で本を買い込んだあと、二人はブラブラと店を見て歩いた。アメリカそのままの商品もあるし、日本製の電化製品もある。ジーンズもあれば、ファミコンもカメラもある。特に安いというわけでもなく、日本で買うのと大して変わらない。一般の人の平均収入で考えたらとても買える値段ではないはずだ。しかし、当たり前だけれど買っている人がいる。フィリピンというのは、貧富の差のすさまじい国なのだ。
ショッピングモールのあとは、石鹸の買物だった。支部の石鹸がそろそろなくなってきたから、とエスターは言う。どこでも買えるだろうに、と思っていた夏雄は、店へ行ってみてそのわけが分かった。そこはスラムの一角で、一軒の家を改造してつくった石鹸工場だ。カソリックのシスターが、スラムの人々の働く場所をつくるために始めた共同作業工場なのだった。
ドラム缶の中でグツグツ煮立っている臭いがすごい。そのドラム缶に棒を突っ込んでかき混ぜている人、木枠を作っている人、その木枠に石鹸を流し込んでいる人。小さな作業場で、多くの人々が真面目な顔で働いていた。小柄で、一見小学生に見えてしまうシスターは、子どもたちが麻薬に手を出すのだけはなんとしても止めたい、と夏雄に言った。多少のことがあっても仕方がない、人間は生きなくてはならない。でも、シャブはいけない。あれに手を出すと、またたくまに転げ落ちてしまう。シャブ?そう、シャブ、とシスターは言った。何語かしら、インドあたりから来たのかしら。最近はあちこちに出回っていて、生活に疲れた人々がすぐ誘惑される。持ち込んだ人を私は憎むわ、シスターは低い声でそう言った。
クシャクシャの袋に石鹸を一杯入れて、次に行ったのは、ビルの一室だった。ちょっとしたオフィスがあって、その奥で、さっきのシスターと対照的に大柄なフィリピン女性が、髪を振り乱したやせた女性と話しているところだった。エスターによると、ここは女性の救援センターになっていて、暴行を受けたり夫から逃げてきたりした女性の面倒をみるのだということだった。
ジャパニーズ・フィリピーノのプログラムもやっている、とエスターは言った。ほとんどのジャパニーズ・フィリピーノの子どもたちは、父親を知らない。その父親を探し出して引き合わせるのも、ここの仕事の一つだという。それから往々にして貧しい環境にあるジャパニーズ・フィリピーノの子どもたちを集めて、年に数回パーティを開くのだそうだ。去年のクリスマスパーティには私も参加した、とエスターは言った。私だって、その子たちの一人なんだしね。
救援センターの事務局長であるその女性、カメリータは、きちんとした、しかし気さくな感じの人だった。カメリータは淡々と、今面談していた女性について話してくれた。それによると、その女性はマニラ市内で日本人と結婚したのだけれど、つい最近、相手の男性が日本でも結婚していることが分かったのだそうだ。いわゆる二重結婚というやつだ。始末の悪いことには、その男性に罪の意識はまったくなくて、困っている女性を助けてやっただけだと公言するのだという。
二重結婚は結構多い、とカメリータは言った。――フィリピン人なら誰でも日本人と結婚したがると思っている日本人がたくさんいる。そういう人はフィリピン人が人間だと思っていないのかもしれない。いい日本人もたくさんいるけれど、悪い日本人がマニラには多すぎる。
昼食をそこでごちそうになっているところへ、パンダが現れた。
農業研究所は、マニラ湾をはさんで南のカビテ州にある。車が必要だ。その運転手がパンダだった。
――お久しぶりでございます、パンダはカメリータに手をあげて挨拶してから、改まって夏雄に言った。――その節は、大変お世話になりました。
――やだなあ、パンダさん。久しぶりなんて。それに、お世話になったのはこっちじゃないですか。
――いや、人間、仁義を欠いちゃ生きては行けません。
――はあ、夏雄は曖昧な返事をした。――そりゃそうですよね。
――そうでしょ?仁義とインキンは、欠かすことのできないものなんす。
はあ。わけも分からずうなずいている夏雄を、パンダが車に促した。――順調に行けば一時間ちょっとで着きます。アポもとってありますから、大船に乗った気でどうぞ。
市内から南に向かう道路はきれいな舗装道路だけれど、かなりの渋滞だった。
しばらく行ったところで地方道に入る。今まではどこでも一本外れると途端に簡易舗装になったものだが、ここの道路は悪くない。
――カラバルソン計画が進んでるんすよ、パンダが言った。――大日本経済帝国の、工業植民地開発計画。
――はあ。そんなのがあるんですか。
――JICA、知ってます?日本の国際開発事業団。計画を作るところからローンまで、一手引き受けの外郭団体す。つまり日本政府がやってるってことすね。できた暁には、大工業地帯になって、日本の工場がたくさん立ち並ぶんす。
――そうなんですか。それってつまり......悪い話なんですか。
――そりゃ、エスターさんに聞いてみましょう。エスター、カラバルソン計画について、君の意見は。
――カラバルソン、エスターが言った。――それは、難しいわ。いいニュースと、悪いニュース、ね。
――言ってみてください。
――そうね......。この計画を待ち焦がれている人はたくさんいるわ。マニラの政治家はもちろんだけれど、市内にあふれる、たくさんの失業した人々も期待してる。働き口が出来ると思ってるから。とにかく仕事がないのよ。もともと働き口が不足しているところに、農村で喰いつめた人々が入ってきてる。なんでもいいから働きたいという人はたくさんいるわ。そこにこのカラバルソン計画でしょう。これが本格的に動き始めれば、何万という人が仕事を得られるでしょう。それがよいニュース。
――うん。悪いニュースは?
――悪いニュースは、......たくさんあるわ。エスターはそう言ってちょっと肩をすくめて見せた。――まず、この計画が、今住んでいる人たちのことを考えてないってことね。このあたりはもともと、近郊農業地帯なの。割と豊かな土地なのよ。だからたくさんの農民がいるわけで、その人たちを追い出さないと工業地帯は造れない。
――でも、補償はするんでしょう。
――補償はするわ、土地の持ち主に。ただ問題は、住んでいる人が持ち主とは限らないということ。フィリピンにはもともと、土地の所有という考え方があまりなかった。だから、代々住んでいても土地は誰かの持ち物っていう場合がかなり多いの。そういう人は、法律上は不法居住者だから、追い出されてそれでおしまい。それに、補償されたとしても、漁業で身を立ててた人に山の中の代替地を世話するとか、現実を考えていないことも多いから......。
――それから、公害ね。日本の昔とおんなじでしょ。公害対策なんて悠長なことはやっていられないということで、被害が広がっているわ。ここからはちょっと離れてるんだけど、ある火力発電所の近くへ行ってみるとすごいわよ。風が吹くと、空が真っ黒。石炭の粉が舞い上がる。地面も黒くなってるし、もちろん煙突から出る煙もひどいし、海もどんどん汚れてるし。あんな状態があちこちに広がっていくのかと思うと、恐ろしいわよね。
――根本的に悪いのは、とパンダが英語でつけ加えた。――この国を経済大国競争に巻き込んでいくことでしょう。フィリピンに小型日本を輸出する、一大拠点になっていくんです。
建設中の現場だけでも見ていこう、というパンダの提案で、そのカラバルソン計画の中心地、カビテ輸出加工区の現場を見に行くことになった。近郊農業の畑が途切れ、次第に土ぼこりの舞う殺風景な風景が展開し始める。トラックが行き来し、あたりは土色一色だ。土地はバリケードで囲われ、雑草の合間にはどす黒い水たまりが出来ている。
車が停まった。検問所のようだ。ガードマンらしい人が車を覗き込んだ。パンダがなにやら偉そうに話している。夏雄のことを指して、ヘルメット姿の相手に説明する。やがてまた、走り出した。
――なんですか、夏雄が聞いた。
――立ち入り禁止だそうです、パンダが平然と言った。――そうだろうとは思ってましたがね。
――大丈夫なんですか、入っちゃって。
――見たでしょ、ちゃんと通してもらったんだから。私は運転手、檜山さんはソニーの技術の人だ、と言いましたからね。
――ソニーの技術者?僕が?
――もちろんです。
――そんなあ。こんな汚いTシャツにジーンズの人間が、ソニーの技術者に見えるんですか。
――悲しいことに、見えるんですね、それが。
――参ったな。日本人は、ここに来ると、すぐ仕事の人にされる。
――マニラにいる日本人は、ビジネスマンかヤクザのどちらかです、パンダが言った。――私はあとの方です。
ううん、夏雄は唸った。
走り出した車から、見えるのは荒涼とした大地だ。バリケードで区切られて、その中でそれぞれ工事が進んでいる。黄色いヘルメットをかぶった人々が行き来している。
死んだ土地だ。多分数年前までは、緑の美しい丘が続いていたのだろう。あちこちに見えるのは、荷物を運びボルトを締める姿ではなく、農作業の合間にのんびり憩う姿であっただろう。しかし今は、その痕跡もない。わずかに埃をかぶった雑草があるだけで、どこまで行っても土色が続くだけだ。延々と続く裸の土地。醜い光景だ。パンダの言う木霊の漂う場所もない、寂しい光景だ。
そしていつか、と夏雄は思う。あのイフガオにも、こうした波が押し寄せるのだろう。キリガン村に立派なサッシ付きの家が立ち並び、人々はもう臼と杵を捨てて、電気釜を使ってスーパーで買った米を炊くのだろう。階段は整備され、日本製の車があそこまで上がっくるようになるかもしれない。子どもたちは家に閉じこもり、ファミコンに熱中する。そして、ライステラスの山を削って造られた工場に働きに出るのだ。
キリガン村の子どもたちは、いつも笑っていた。着替えるTシャツもなく、靴も履いていなくても笑っていた。ゲームボーイを持って塾に行くようになっても、あんな風に笑っているだろうか。重いランドセルをしょってうつむいて歩いていく小学生。夜のコンビニで雑誌の立ち読みをしている小学生。夏雄の頭には、そんな姿しか浮かばない。
自分はどうだったろう。夏雄は考える。思い出すのは中学三年の冬のある日のことだ。
深夜一人で風呂に入り、自分の顔を鏡で見ていて気がついた。夏雄はその日、一度も笑っていなかった。その日どころではない、思い出す限り何日も、一度も笑っていなかった。夏雄そこで、鏡に向かって笑顔をつくってみた。
ところがどうやっても笑顔にならない。口元はひきつり、まぶたが震える。笑えない、夏雄は大きなショックを受けてさらに鏡をのぞき込んだ。下がり気味の眉毛に細い目。大きなニキビが一つできた、丸い鼻。厚ぼったい唇。そのどれをとっても、自分のものとは思えなかった。
僕は、とその時夏雄は思った。誰にも笑いかけず、誰にも笑われない。もしかすると、僕はこの世にはいないんじゃないだろうか。
それは衝撃だった。そして、夏雄は思った。僕は、笑わなくちゃいけない。
母親は、よく笑う人だった。いつも鼻歌を歌いながら体を動かしていて、座って休んでいるところを見たことがない。ぐずぐずするのは大嫌い、そんな歌詞の鼻歌もあって、畳に転がっている夏雄の上を、母親が飛び越していった。
それから夏雄は、友だちと話をすることにした。そして、だじゃれを言って笑うことにした。そこで気づいたのは、友だちもみんな、あまり笑わない、ということだった。夏雄は苛立った。苛立って、教室の中で飛び跳ねた。
そこで発明したのは、うどん、という踊りだった。うっどーん、と叫びながら、体ごと斜め横にジャンプする。夏雄と数人の友人たちは、何度も何度も、うっどーん、と言いながらジャンプした。高校受験を目前にした教室で、うどんは感染し、休み時間には数十人の生徒が一斉にうっどーんと叫んで飛び跳ねたものだ。それは、やればやるほど絶望的な気分になる踊りだった。
イフガオの子どもたち、と夏雄は思う。そのうちの何人かは、ソニーやパナソニックやトヨタやニッサンの工場で働くのだろう。その時も、あんな顔で笑っているだろうか。作業服を着て、安全靴を履いて、それでも笑うだろうか。
――オー・マイ......。その時、エスターがつぶやいた。
視線の向かう先、道路のわきで、人々が動いている。荒れ果てた、草しか生えていない土地の、そこだけ古材が置いてある場所だ。
――なんだろう、夏雄がつぶやいた。
――ブレイキンダナ・ハウス、エスターが言った。
――ブリキのハウス?夏雄が首をかしげた。人がいるらしい。何か作業をしている。それが家の取り壊し作業だ、というのはもう少し近づいて分かったことだ。
そこだけ埃が舞い上がる中、数十人の男たちが動き回っている。タオルを首に巻いた男が、四角い物を道路際に置くのが見えた。そして、そのわきに立っている数人の男たち。肩から後ろに下げているのは、かなり大きな銃だ。迷彩色のズポンにTシャツを着て、よく見るとその家を取りまくように銃を持った男たちが立っている。
――あれ、銃ですね、夏雄が呟いた。
――M16、軍用ライフルす、パンダが言った。――制服じゃないけど、あれはフィリピン国軍すね。
パンダが車を停めた。少し先にトラックと、それに軍用ジープも見えた。
パンダは厳しい表情だ。初めて見る表情に、夏雄もさらに緊張する。
パンダがエンジンをかけたまま、ドアを開けて外に出た。夏雄とエスターも続いて出る。
こちらが見えていないはずもないのだが、男たちはまったく気にしていないようだ。
その時、近くの草むらから何かが飛び出した。夏雄はあやうく尻もちをつくところだった。
飛び出してきたのは、ワンピース姿に裸足の女性だった。
女性はなにか叫んでいる。両手を上げ、スキップでもしているかのように飛び跳ねている。エスターがかけ寄り、女性を抱えるように抱きとめた。髪を振り乱した女性は、その場にヘタッと座り込んでしまった。
エスターがかがみこんで話を聞いている。大きくうなずき、時に家の方を見て、そしてまた女性の顔を覗き込む。夏雄はその後ろで茫然と立ち尽くしていた。
エスターが夏雄の方を見た。この人の家なんだね、夏雄が言うとエスターが唇を噛んでうなずいた。
――バレスさんっていうんだそうよ。おじいさんの代からここで畑を作って暮らしていたんですって。それが急に立ち退きを迫られたんだって。バレスさんが、すがるような目付きで夏雄を見て、それから喋り出した。エスターがうなずきながら訳す。――あと一ヵ月待ってくれって言ってあったんだって。畑の収穫を待ってくれって。それがさっき、突然男たちが来て、そのまま取り壊しが始まったんだって。
女性は膝を折り、両手をだらんとたらして話している。ほこりだらけの顔のわきを、汗とも涙ともつかない何本もの筋が通っている。ワンピースの裾がももまでめくれ上がっているのを、エスターがそっと戻した。
その時、メリメリッという音が聞こえた。夏雄が顔を上げると、数人の男たちが家から伸びたロープを引っ張っているところだ。あ、ああっ。夏雄の口からそんな声がもれる。
ロープの先は柱につながっていて、それがもろくも引き倒されていく。バキッ、何かのれ折れる音がして、その途端屋根が下がった。壁が倒れ、ほこりが舞い上がる。真ん中を中心に折れ曲がった屋根が、地面に落ちて崩れていった。簡単な作りの小さな家だ。たちまち反対側の一部の壁と柱を残してつぶれてしまった。女性の泣き声が大きくなる。
――何も持ち出せなかったって。せめて服と食器だけでもって頼んだけれど、だめだったんだって。エスターがくぐもった声でそう言う。
大きく誇らしげな、日本の工業メーカーの看板が向こうに立っている。そのさらに向こう側の敷地には、もう大きな建物がほぼ完成して、家電メーカーの名前が誇らしげにつけられている。
きっとあの敷地でも、同じようなことが起きたのだろう。父祖伝来の土地を、同じように、たくさんの人が追い出されていったのだろう。夏雄の胸に、悲しさと、それから怒りがわき起こる。マチョガノや、バハグをつけたおじいさんや、下を向いたエスターのおばあさんや、そんな人たち。金と暴力で支配しようとする、自衛隊員、日本の商社マン。
どうしてそうなんだ。どうしてそんなひどいことが、平然と出来るんだ。夏雄の胸の中を、熱いものが貫いていく。どうして、そんな......。
突然、ワンピース姿のバレスが身をひるがえして走り出した。作業員が小さなタンスのようなものを運び出しているところだ。どこへ持っていくのか、先の方のトラックに積み込むらしい。バレスが何か大声で叫んだ。振り向いた夏雄に、エスターが言った。子どもの、服だけは置いてってくれって。お願いだからって。エスターの目に涙が光った。夏雄は体が震えた。見ると、作業員にしがみついたバレスが、地面に蹴り倒されたところだった。
次の瞬間、夏雄は走り出した。バリケードを乗り越え、彼は小さなタンスを抱えた作業員に迫る。やめろーっ、日本語で叫ぶ。やめろよーっ。足がもつれさせながら、前のめりになって走っていく。
夏雄を見て驚いた作業員が、タンスを地面に下ろした。夏雄を見つめ、立ち尽くす。どうしていいか分からない様子だ。その作業員に、夏雄が迫る。
作業員は逃げ腰になった。タンスをはさんで、夏雄の様子をうかがっている。
しかし、外側にいた兵士の動きはすばやかった。バレスに向かって歩いていた小柄な兵士は、夏雄に向かって走り始めた。
さらにもう一人、黄色いバンダナをつけた兵士も走っていく。オーノゥ、エスターが言った。夏雄はひたすらタンスに向かって突進する。作業員が逃げ出した。夏雄はさらに追う。
いかん、パンダが呟いた。いかん、いかんぞ。瀬戸山省三の頭の中で、なにかが爆発した。スピーカーの声が響く。
戦いを、離脱した、裏切り者の、集団、警察の、イヌどもが、われわれの、敵である、......
あいつらの言うことを聞く必要はないっ、資産を守るブルジョア運動に手を貸しているに過ぎない、リーダーは甲高い声で叫びながら走る。
背後から大きな石が飛んできて、腰のあたりにあたった。笑い声があがる。
怖い、怖い、怖い、瀬戸山省三は震える膝を殴りつけながら必死で着いて行った。挑発に乗るな、権力の手先の前衛壊滅作戦にのせられるな。
暗い路地。街灯の下の人影。裏切り?裏切りじゃない、これが正しい選択だ、省三の頭の中で、二人が言い争っている。背中にしょっていたはずのリュックが、いつのまにか空だ。武器もなにもない。逃げてるんだ、省三はそう思う。俺たちはやっぱり、逃げてるんだ。
兵士が夏雄の背後に近づいた。声を出していないから、夏雄は気づかない。いかんぞ、省三はそう口に出してから、弾みをつけてバリケードを乗り越えた。足に当たるトゲの感触が懐かしい。バリケード。机。ポスター、材木。
こらあー、こらこらこらあー。おれが相手だあー。パンダは兵士に向かって怒鳴った。脚を高く上げて走る。この、くそガキがあ、なめるんじゃねえぞお。
夏雄が方向を変えて、兵士と、それからパンダを見た。ほんの少しためらい、作業員が逃げたのを見て、タンスに戻った。両手でタンスをかつぎ上げる。そこに兵士が追いついた。おらああああ、パンダが叫ぶ。そいつに手をだすんじゃねえぞおおお。人を襲う熊のような姿勢で、兵士に向かった。振り向いた兵士が、肩からライフルをおろした。あっ、タンスをかついだままの夏雄が叫んだ。あっ、あっあっあっ。兵士は左手で銃身を持ち、構えた。向こうから走ってきたもう一人の兵士が何か叫んでいる。熊のパンダが、なおも両手を上げた姿勢で近づいてきた。
パン、乾いた音がした。そのとたん、パンダがスイッチを切られたおもちゃのように、地面に倒れ込んだ。ノーッ、プリーーッズ、エスターの声が遠くで聞こえる。うわわわっ、夏雄はタンスごと転がった。後頭部が奇妙な音をたてた。夏雄は喉と鼻と口とに溢れかえる血の臭いをかんじた。地面が回り、空になった。撃たれる、撃たれる、夏雄は転がったままタンスにしがみつく。体を小さくしてもがいている。エスターの叫び声が聞こえる......。
11
パンダは意外に元気そうだった。胸の前に日本の週刊誌を置いて、上半身を起こしてベッドに座っていた。
――カンツウジュウソウ、とパンダは言った。
――え?
――貫通銃創。素敵な響きです、うっとりしますな、パンダはそう言って、肩のあたりを示した。――兵士は必殺の腹部を狙うんすよ。とにかくあてなきゃ話んならないから、相手を止めるためにね。それがあんな近くで外しやがった。トーシロだね、ありゃ。
――何言ってるんですか、外れてなかったら大変だったでしょう。
――そのきっかけをつくってくださったことについては、大変感謝してるんすよ。
あ、夏雄は慌てて言った。――それは、ごめんなさい。ただ僕は、カッとなって......。
――いや、いいんす。はっとしましたけどね、檜山さんが飛び出した時は。でもうれしかったすよ。その正義感、爆弾三勇士もびっくりでしたよ。
――本当にごめんなさい。なんか、いても立ってもいられないという気持ちになっちゃって。なにしろ、ほら、ずっと見てきたでしょう、日本がフィリピンを壊してるって感じがしたから。それに、エスターさんも、泣いてたし。
――それはあそこだけで起きてることじゃない、毎日あちこちで起こってますよ。だけど、その檜山さんの純粋な気持ちは大切だ。わたくし瀬戸山省三、微力ながらその檜山さんの行動に感銘を受け、一緒に参加させていただきました。結果は少々情けなかったですがね。
――ごめんなさい、夏雄が言った。ほんとうに、ごめんなさい。
夏雄はエスターの方を振り向いた。――大したことがなくて、よかったわ。あなたたちは、とエスターは優しい笑顔で言った。――間抜けで勇気ある、ドンキホーテよ。
夕方の街は、活気に満ち溢れていた。車が行き交い、人々が歩き回る。歩道には飲み物やら食事やら、たくさんの屋台が出ていて、それぞれに人が集まって憩っていた。立っている人、座り込んでいる人。満ち足りた笑顔が見える。ふわりと湯気が立ち昇り、豊かな匂いが歩道に流れ出す。
マニラは都会だ。人々は忙しい。けれど、人々に表情がある。人の顔が見える。人が、人らしい顔をしている。バッグを持つ手の、靴を履いた足の、その動きが街をつくる。汗をかく、その汗がしっかりと街そのものをつくりあげている。
ビルの間に夕焼けが見えた。車の向こう、ビルとヤシの木のシルエット。明るい青を中心にした、暑く乾燥した夕焼けだ。空に風が見える。街の熱気が舞い上がり、空に広がっていく。
この街は人工的だ。けれど、この街は広い自然の中にある。豊かなフィリピンの空と大地と、その間に束の間存在している街。たとえ空気が汚れていても、木が切り倒されても、人々を追い立てて日本の工場が建設されたとしても、細切れにされ、囲われ、覆われて呼吸も出来なくなってしまった日本の都市とは違う。マニラは生きている。まだ、生きている。
――大変だった、夏雄が言った。――大変な一日だった。
――そうね、エスターも言った。――一時はどうなるかと思った。あなたが撃たれでもしたらと思うと、今でもぞっとするわ。
――パンダが撃たれたよ。
――もちろん、大変だわ。でも、あなたは旅行者だし、この件に引きずり込んだのはもともと私だし。
――大使館に連絡しなくて、ほんとによかったのかな。
――そうね。でも、して欲しくない理由も彼ならたくさんあるんだろうし。
――連中の引き上げ方は見事だったね。
――うん。パンダは、あの兵隊は素人だって言ってたけど、私はそうは思わない。あの手際よさは本物よ。正規軍に決まってる。
――そうだね、夏雄は呟く。大して騒ぎもせず、表情も変えずにささっと消えていった、その静かさの方が、さらに怖かった。あの時の恐怖感が、また背中を震わせる。――あれで収まってよかった。あぶないところだった。
――実際、ああして撃たれて殺された農民が、この半年で十人以上いるのよ、エスターが静かに言った。――一週間前にも、あの隣の村のリーダーが、誰かに背後から撃たれて死んでるの。それは多分軍じゃない。雇われギャングね。悲しいことだけれど、フィリピンには、金さえもらえば人を殺すというような連中もいるから。
――でも、と夏雄は言った。――僕はフィリピンが好きだ。フィリピンは、とても......とても、生きてる。とても魅力的だ。
――そう?並んで歩いているエスターが、夏雄を見上げるように言った。
――キリガン村の子どもたちは、みんな楽しそうだった。目が明るかった。笑顔が、本当に笑っている顔だった。
――本当に笑ってる?どういうこと?エスターが、ちょっとおどけた風に言った。エスターの笑顔も楽しそうだ。――本当に笑わない顔ってどんな顔?
――きみの目も。輝いてる。そして静かだけど本当に笑ってる。それってほんとに、どうしてか分からないけど、僕をうれしくさせるんだ。夏雄はつぶやくようにつけ加える。僕は、笑えなかった。日本にいた時。もう何年もずっと。自分の笑った顔がとても嫌いだったし、どうやって笑ったらいいかも分からなかったし。自分だけじゃなくて、笑った顔の人たちが嫌いだった。東京で笑っている人は、いつだって誰かを意識してる。曖昧に、妥協的に笑ってる。よろしく取り扱ってくれっていうしるしに笑うんだ。だから僕は笑えなかった。
――あなたの笑った顔好きよ、エスターが遠慮がちに言った。
――そんなこと言われたの、初めてだ。
夏雄はエスターを見た。口許の優しい微笑み。きみの笑顔も好きだ、と夏雄は思う。控え目な、しかし暖かい心がそのまま表れている微笑み。ずっと見ていたい、と思う。唇の柔らかさ。真っ白な歯。その頬の輝き。そして真っ黒な髪。
夏雄は足元を見た。夏雄の右足、エスターの左の足。夏雄はスキップするように飛び上がり、エスターと足を揃えた。同じ歩幅で歩くようにして、それからもう一度エスターを見る。エスターも足元を見て、それから夏雄を見上げた。何、という表情。何でもない。本当に、何でもない。
町の角を曲がる。ちょっと引っ込んだところに、小さな屋台があった。数人の客が並んで座っている。いい匂いだ。二人は顔を見合せ、それからベンチに座った。いらっしゃい。愛想はないが気さくな雰囲気の主人がタガログ語でそんな感じのことを言った。
――シネガンスープが食べたい、夏雄は言った。――それから、レチョン・デレチェ。グリルドポークだよね。あるかな。
――聞いてみるわ。エスターがうれしそうに言った。シネガン・ナ・バボイ、あるかしら、それからレチョン・デレチェは。あるさ、もちろん。うちの店をなんだと思ってるんだね、屋台の主人は、まるで自分の娘に話すようなそんな調子でエスターと話をしている。その二人の会話を、夏雄は大切なものとして聞いている。夏雄の好きな、エスターとマニラの屋台の主人。自分もその一員であるような、マニラでの会話。
すでに暗くなったビルの陰でベンチに座っていると、街を行く人がまた違って見える。会社帰りらしいスーツ姿の女性は、ちょっとばかり早足だ。ジーンズにTシャツの女性二人組は、これから遊びに行くところだろうか。行くあてもなさそうな、汚れたポロシャツの男性。しかしその誰も夏雄の方を見ない。夏雄は、マニラの人だ。エスターと一緒にここで食事をする、マニラの人だ。
車がわきを通り過ぎていく。窓を閉め、エアコンを効かせた日本製の車だ。静かで落ち着いた空間をまとって、ドライバーが無表情な横顔をみせる。あんなヤツ、と夏雄は思う。まるで車の部品になってるみたいだ。マニラはジプニーがいい。窓もなくて熱い空気を感じながら走るのがいい。食事はこんな屋台で、人々のお喋りと街の騒音とほこりに囲まれて食べるのが楽しいんだ。
――日本では、風が感じられない、夏雄が言った。――電車の窓も閉め切りだし、建物にはエアコンが効いてるし。どこにいても、同じ空気が流れてる。みんな同じ顔をしてて、同じ話しかしない。ここは......
――たくさん問題はあるわ。ここでは場所によって全然違うけど、それも困ったことよ。ある場所ではエアコンが効いて、清潔な空気が流れていて、別の場所では濁って淀んだ空気しかなくて。
――そうだけど、それでもここがいいな。みんなが生きてると思う。僕は、ここがいいよ。
エスターが困ったような顔で笑った。その顔を目に焼き付けたいと夏雄は思う。力強さを感じさせる、しかし形のいい眉。笑うと細くなる、黒目がちの目。それらすべてに、もう二度と会えないのだから......。
そうだろうか。どうしてそうなのだろう、夏雄はこの数日考えていたことを掘り起こす。僕は、日本に帰る必要があるのだろうか?
たとえばこのフィリピンに残ったら、と夏雄は考える。まともな仕事は得られないかもしれない。それでも日本にある貯金で、何年か、つつましく暮らせば五年以上ここで暮らすこともできるだろう。RRMのオフィスで、何か手伝いくらいはさせてもらえるかもしれない。つまり瀬戸山パンダになってしまうのだ。
このまま、日本に帰らない。ということは、もう朝起きて、あの最悪の時を満員電車の中で過ごすこともない。時間に追いまくられることもないし、毎日忙しい思いをする必要もない。病院の薬局に閉じ込められ、カルテと時間と患者の機嫌に振り回される毎日。あれをすべて捨てて、まだお釣りがくる。
――日本に帰らないで、ここに住んだらどうだろうって、ちょっと思うんだ。夏雄はためらいがちにそう言った。――日本にあるものは、僕の薬剤師としてのキャリアと、小さな賃貸マンションとオートバイ。両親と妹が一人。でもそれって、今は放っておいてもいいものであるような気もする。
――あなたのキャリアは、捨ててはいけないものだわ。エスターが言った。――それは特別な技能だし、人の役に立つものだし。
――そんなことないんだよ。誰の役にも立つものじゃない。そんなこと、威張って説明しても仕方ないけれど、でもそうなんだ。日本ではその程度のものなんだ。
そう......。エスターがちょっと目を伏せた。あたりまえだ。そんな言い方をしてはいけないのだ、と夏雄も思う。自分のことを、そんなにつまらない人間だと思っているわけではない。でも、日本で、人の役にたつことなんてあるのだろうか。自分の仕事が人の役に立つなどと思って働いている人が、一体何人いるだろう。
屋台の主人が、そっけなく、しかし充分人間的に皿を二人の前に差し出した。ありがとう、夏雄は言って、自分の分を受け取る。エスターはエスターで、片手で料理を、もう片手でスプーンとフォークを受け取って自分の前に置く。それではいただきます。酸味のきいたシネガンスープを、夏雄は口に運ぶ。今はもう慣れた、魅力的なカラマンシーの香りが口の中に広がる。
フィリピンで暮らす。日本に戻らない。夏雄はなおもそれについて考えている。
考えれば考えるほど魅力的なアイデアだ。たくさんの自然に、たくさんの風。たくさんの人々の笑顔。そしてもしかしたら、もしもきっかけが掴めるのなら、エスターと一緒に暮らす、などというのもいい。イフガオに行って、一緒にRRMで働くことも出来るかもしれない。農業のことは何も知らないけれど、保健指導ならなんとかなる。あるいは大学のある街で、エスターは医者になる勉強をする。僕は、たとえば日本語を教えるなどというのはどうだろう。薬学部で雇ってもらって、日本語の出来る薬剤師としてチューターの役くらいにはたつ。お金が足りなくなったら、日本に帰り、しばらくアルバイトでもして、またこちらに来るのだ。エスターと一緒に日本で暮らし、エスターと一緒にフィリピンに戻る。そんな生活だって出来るかもしれない。
食事を終えて、二人はまた街を歩いた。広い道路のわきの歩道を歩く。車に乗っていると分からないが、木陰には路上生活者たちがテントを張って暮らしている。通り過ぎるだけで、その生活のすべてが見えてしまう。しかしそれはそれでいい。単純な生活だ。必要最低限の品物だけで、純粋に生きる。夏雄にはそれすらも、羨ましい気がする。
通りを折れて、賑やかな通りへ向かう。シャッターの向こうに電化製品の並ぶ電気店。ディスプレーの美しい、小型百貨店。既に閉まっているジーンズショップの中をのぞくと、リーバイスはもちろん、リーもラングラーも、カルバンクラインも並んでいる。歩いている人々の衣服もきれいだ。
フィリピンはこんなにも違う。ビジネス街とスラム街、白いシャツのまぶしい私立高校生と、道路の真ん中で新聞を売る貧しい子どもたち。そのどちらもフィリピンだ。そしてそのどちらも好きだ、と夏雄は思う。アメリカそのままのようなフィリピンも、貧しくたくましいアジアのフィリピンも。
夏雄は喋らない。こうしてエスターと歩いているだけで満足だ。夏雄の体にエスターの髪が触れ、腕や体が触れる。エスターも喋らない。二人はただ歩く。すっかり日は落ちて、街はもう夜の装いだ。人々の様子が段々に華やかになっていく。
そうして三十分も歩いたころ、二人は一軒の店の前に着いた。レストラン・アンド・バー「ホビットハウス」。エスターが看板を確かめてにっこりとした。――入りましょう。あなたに聞かせたいから。
――何を?
――レジー・アギナルド。民衆の歌を歌う、人気歌手よ。
――民衆の歌にしては、高級そうな店だね。
――今に分かるわ。
ドアを開けると、中にはボーイが立っていた。すぐさま席に案内される。客席はかなり暗い。一段上がったステージでは、アメリカのカントリーバンドそのままに、いい感じのバンドが演奏していた。
――ワァ、いいね、夏雄が言った。――まったくカントリーじゃない。
――そうだけれど、私が聞かせたいのはこのグループじゃないの。とにかく何か、飲み物を注文しましょう。
そう言われて振り向くと、そこには背丈の極端に低い、多分身長百センチもないウェイターがニコニコと立っていた。夏雄は仰天しながらドリンクメニューを受け取った。気がつくと、白いシャツに黒い蝶ネクタイという姿のウェイターとウェイトレスは、すべて体の小さい人たちだった。
――分かったでしょ。だからホビットハウス。批判もあるけれど、私は悪くないと思ってる。みんな明るく元気でしょう。こんな店がなかったら、仕事もなく、家のすみで憂鬱に暮らしている人たちなのよ。
ふうん。そうか。夏雄は優雅な素振りでそこに立っていたウェイターの一人に、ピナ・コラーダを注文した。エスターも同じものを頼んで、それからステージ上の歌手の声に耳を傾けた。
ウィリー・ネルソンに似た鼻にかかった声で、いい雰囲気を出している。なにしろ元アメリカの統治領だ。日本人のカントリーなんて、足元にも及ばない。
夏雄はいい気分で肩をゆする。エスターも一緒に指でリズムをとっている。目と目が合い、微笑み交わすと、夏雄には知り合ってたった一週間しかたっていないとはとても思えない。ずっと以前から、もしかすると子どもの頃から知っていたような気がする。そして、これきり会えなくなるというのも信じられない。そうはさせない、夏雄は思う。今日は放さない、今晩は帰さない。
その時、大きな声が聞こえた。日本語だ。何やら怒鳴っている。見ると、中年の男性が、さっきの愛想のいいウェイターに向かって文句をつけているところだった。注文が遅いと言っているのか、あるいは違うものを運んできたと言っているのか。途切れ途切れでよくは分からないが、威圧的で傲慢な調子で、それらすべてを日本語で言っているようだ。一瞬のうちに、夏雄の心の中に暗雲がかかった。まただ、夏雄は思う。日本人は一体どうなっているのだ。本当に、日本人は......。
いくらもしないうちに、マネージャーらしい人が表れてその場を取りなし、なんとか収まったようだった。日本語の高笑いと、傍若無人な応酬が歌の間をぬって聞こえてくる。三人連れの男性たちだ。よく日焼けしている。そして、よく見ると、その一人一人が隣にフィリピン人の女の子を座らせ、肩を抱いているのだった。
夏雄はエスターの方を見る。エスターは、そうよ、というように小さくうなずいた。――彼らは、彼女たちを買ってる。インスタント・ワイフなの。ゴルフに行ったのでしょう、ワイフ付きで。
そうか......。夏雄は目を凝らしてその女の子たちを見た。ギラギラと油ぎった男性たちと対照的に、彼女たちはみな、沈んだ顔色に見える。本当はかなり若いのだろう、時々見せる表情は子どものそれだけれど、疲れた顔で、明らかに懸命に笑顔をつくっている。
カントリー歌手が、まばらな拍手とともに引っ込んだ。照明がちょっと明るくなり、舞台の上が片付けられる。続いて別のバンドが出てきた。拍手が大きくなる。まず、ドラマー。今までのセットに小さなシンバルを増やし、シートの高さを調節する。次に出てきたベーシストとギタリストがチューニングをしている。
やがて、何の前触れもなく演奏が始まった。これもカントリーっぽいリズムだけれど、その前とはまったく違う。やや郷愁に満ちた、懐かしい音だ。幸福な、そう、まだ見ぬ故郷の音。
そして、レジー・アギナルドが出てきた。黒っぽいシャツにジーンズ、頭には大きなテンガロンハット風の帽子をかぶっている。細くて背が高い。多分四十代後半にはなっているのだろう。落ち着いた風貌で、吟遊詩人といった雰囲気だ。ギターを抱え、無造作に演奏の中に入り込んで歌い始めた。
張りのある、ややハスキーな声だ。タガログ語だから意味は分からないが、調子はとても懐かしい。はっきりしたメロディラインは、優しい感情を呼び起こす。初めてなのに、よく知っている歌のような気がする。夏雄はなんとなく、その優しいメロディを口ずさんでみる。
アコースティックギターの、暖かい響き。切れのいいリズム。いい気持ちだ。
夏雄はエスターを見る。こうして二人で音楽を聞いていること、と夏雄は思う。それは二人で、気持ちを分かち合うこと。キリガン村のこと、エスターのお父さんのこと、お祖母さんのこと。カラバルソン計画のこと、家を壊された女性のこと、夏雄の止むにやまれぬ思い。エスターだって分かっている、と夏雄は確信する。エスターだって、夏雄のように、うれしく、楽しく、寂しく、悲しい。エスターの気持ちが、夏雄の気持ちになる。夏雄の気持ちがエスターの気持ちだ。
「今の曲は、フィリピンの山岳地帯に生えている花を歌ったものです」レジーが英語で説明した。見回すと一見して外国人と分かる人が半分以上なので、そうした説明がいるのだろう。「次は、ラブソングです。フィリピンに古くから伝わる伝説をもとにした、悲しい恋の歌です」静かな声でそう説明して、次の歌が始まった。
――私のお祖母さんも話してくれた、エスターが夏雄の耳元に口を近づけて言った。――子どものころだったけれど、悲しくて泣いてしまったわ。
トレモロ調のイントロから、すぐに歌が始まった。淡々とした調子だけれど、その悲しさは伝わってくる。ふう、夏雄は溜め息をついた。夏雄はすぐ隣のエスターの顔を盗み見る。エスターも、静かな表情で、両ひじをテーブルにつけて、じっとレジーの歌を聞いている。
民衆の歌、帰らない息子の歌、美しい海の歌。レジー・アギナルドの、力強く、しかし繊細な歌声が響く。時に騒々しい男性客の間をぬって、静かに流れていく。
「マグダレーナ」レギーが言って、次の歌が始まった。説明がない。とても静かな、諭すような曲だ。向こうでまた、日本人男性の大笑いが響く。お前の女、アイアンが、おっぱいの、値段が高い、切れぎれの言葉だけで想像はつく。そのわきで、連れのフィリピン女性三人は、いずれもじっとステージを見つめていた。
――マグダレーナ。マグダラのマリアのことよ。エスターがささやいた。
――聖なる娼婦。
――そう。これは、ここにいる女の子たちへのメッセージなの。
――うん。夏雄がエスターを見つめる。
――この歌は、売春婦の歌なの。苦しい生活を支えるために売春婦になった女の歌。体を売って生活するのは、悲しいこと。でも、だからといって魂まで堕ちたわけではない。見知らぬ男に抱かれながら、魂は自由を求めている、そうすればいつか、いいこともあるさって。
夏雄はやっと納得がいった。だから、レジー・アギナルドは、この歌だけは歌詞の解説をしなかったのだ。このバーで、金を持った異国の男たちに連れられている悲しい女性たち。レジーは、知らん顔をして、その女性たちだけにメッセージを送っているのだ。
――そうよ。痛烈な皮肉でしょう。だから彼は、民衆の歌の歌い手であり続けられるわけ。
バーの中を見回すと、どの女性たちもみなステージを見つめている。日本人だけではない、アメリカ人もいればフランスの水兵もいる、多くの男たちは、その意味も分からずに、ただバラッド調のレジーの歌を喜んで聞いているだけだ。薄汚れた男たち、悲しい女たち。まてよ、僕もその男たちの一人だろうか?
「次は、わが祖国フィリピンの解放を願う歌です。苦しかった時代に、人々はこの歌を歌ってお互いを励ましました。『バヤンコ』」レジーが言った。オォッという一際大きな歓声と拍手。ウェイターとウェイトレスが、大喜びしている。
――マルコス時代にはこの歌は禁止されてたの。あのアキノの時に、黄色いシャツを着てみんなが歌っていたのが、この曲よ。エスターはそう言って、夏雄の肩に両手をのせた。夏雄はドキリとしたが、エスターはそうして夏雄の耳に唇を寄せ、歌詞を訳して聞かせたのだった。
わが祖国フィリピン 黄金と花の国
やさしい人の心 美しく輝く
しかし異国の船が この平和侵して
祖国を奴隷の苦しみにつなぐ
かごの鳥は 自由もとめて羽ばたく
とらわれの祖国もまた 解放を求める
フィリピン 涙と悲しみの国
われら解放の日を 待ち望む
祖国に生きるこのつらさ
外国のため奴隷にされて 苦しむ国
闘いに立て
東に自由の夜明けがくる
エスターのささやき声が、夏雄の深いところに響いてくる。暗い店の中で、僕のすぐそばに、暖かいエスターの声。夏雄はじっとそのエスターの吐息と声を感じている。僕は結局帰るだろう。日本へ帰る、なぜかといえば、僕はここにいても何もできないから。僕は多分、故郷を捨てるのではなく、故郷をつくらなくてはならない。そんな気負いがなんの役に立つのかわからないけれど、それでも、僕は、帰る。
短調から長調へ、何度目かに転調するところで、エスターの声がふと途切れた。唇だけが、ゆっくりと動いて、タガログ語の歌詞を歌っている。
エスターの国、僕の国。エスターは、ここにいる。そして僕も。僕らの故郷。僕はまた来る。今度はもう少し、違った自分になって。もう一度、誇らしくエスターに会うために。
エスター、夏雄は心の中で呼びかける。僕は立派な人間になりたい。どうすればいいのか全然見当もつかないけれど、でも、僕は役に立つ人間になりたい。エスター、君がそう思っているように、僕も。エスター、君がそうなろうとしているように、なにかしら、僕も。
了