Lawrence McCully JuddはA.F.Juddの六男、最後の息子として生まれました。
ペンシルバニア大学を卒業後、カーネギー製鉄などに勤めた後、ハワイに帰郷。
1929年から1934年までハワイ準州知事を勤めました。

1928年と3年後の1931年にアメリカ本土を巻き込む殺人事件が起こりました。一つは少年の誘拐殺人事件であり、日系人が犯人として死刑台に送られました。一つはレイプ事件に起因する殺人事件ですが、報復としてその事件の容疑者の一人(現地の若者)を殺害した白人は、アメリカ本土からの圧力により赦免となってしまいました。
 前者の事件で死刑命令にサインし、かつ後者の事件でアメリカ議会、大統領からの圧力に屈し犯人を赦免したのが、ときのハワイ準州知事、ローレンス・ジャッドでした。


フクナガ裁判

 1928年9月、10才の少年ギル・ジェミソンが誘拐され、1万ドルの身代金を要求されるという事件がおきました。ハワイアン・トラスト・カンパニーの副社長である父親が指定の公園にて覆面の東洋人に4千ドルを渡したが、犯人は逃亡、少年は戻りませんでした。

当初より犯人は東洋系、日系人らしいとの疑いから大々的な捜索が日系人に対しても行われました。

事件発生から三日後、ロイヤルハワイアンホテル近くにて少年の惨殺死体が発見されました。

その後、身代金として用いられた紙幣から容疑者が割り出されます。犯人はマイルス福永寛という日系二世の青年でした。当時まだ19才。

 福永は貧困な家庭にうまれ、ハワイ信託会社の集金人に親が辱められるのを見、同社への恨みをつのらせていたといいます。ただ、なんの罪もない少年を死に至らしめたことについては悔恨の念を示し、身代金の用途については両親を日本へ帰すために使いたかったと陳述しました。

 1928年10月、ホノルル巡回裁判所にて福永は死刑の宣告をうけます。まじめな文学青年である彼の態度や、動機への同情から日系人の間で再審運動か起こり、死刑執行は延期されます。しかし精神異常を理由とする再審要求は理由薄弱として却下、1929年10月、ワシントン.D.Cの大審院は再審要求を最終的にしりぞける決定をくだしました。同年11月12日、ハワイ準州知事ローレンス・M・ジャッドは死刑執行状に署名。

従来の例から県知事(準州知事)は、なかなか死刑執行状に署名をしないものなのに、判決から一ヶ月と経たぬうちに署名をしたことなどで、日系人間には「白人は日本人をバカにしている」と憤激した者が多かった。
(牛島秀彦著「行こか メリケン、帰ろか ジャパン」より)

 ジャッド知事が実際にこの事件についてどのような意見をもっていたのでしょう。彼の自伝を捜しても、この件についての記述は見当たりません。ただ、言えるのは緊密な白人社会において、福永にたいして有利な行動は取り難い状況だっただろうということです。

 これもこじつけになりますが、被害者の少年がハワイの名門プナホウ・スクールの生徒であったことは知事の選択の幅を狭めたことでしょう。以前に述べたとおり、知事自身がこのスクールの出身であり、また祖父が創立者の一人であったからです。
最近出版された「ハワイ日系社会の文化とその変容」にはこのプナホウ校についていくつかの言及があります。

アメリカ合衆国による併合(1898年)から約60年間ハワイを支配していたのは、ハワイの代表的産業である製糖業や銀行、日用生活品、輸送などの分野でビッグ5と呼ばれる5大企業であった。かれら支配層は共和党員、プロテスタント、会員制クラブ加入者、プナホウ校といわれる私立学校の出身者であった。
(「ハワイ日系社会の文化とその変容」p158)

 また、ジャッド知事の少年時代には被害者の父親が副社長をつとめていたハワイアン・トラスト・カンパニーの関係者が近所に住んでおり、その子どもと幼なじみであったことも影響を与えたかもしれません。

 1929年11月19日に死刑は執行されました。