シオンのティボール・ヴォルガ

 ヴァレール丘教会とトゥルビヨン城の二つの岩山が、ジュネーヴからの列車の車窓に見えてくると、エランの谷への玄関、シオンであります。最奥のアローラへ行くにはここからバスに乗り換えて行かなくてはなりません。
 廃墟となったトゥルビヨン城がかつてここを旅した新田次郎氏には寂しげな光景に写ったようですが、歩いてみると、なかなか魅力的な町であることがわかります。

 司教座が置かれていることからもわかるように、ヴァレーの谷の中心となる町なのです。なかなか美味しいワインが採れるところでもあるそうで、ビジター・センターもあるそうですが、私はまだ行ったことはありません。
 ここにハンガリーから移って来たティヴォール・ヴォルガというバイオリニストが住んでいます。そして、そのヴォルガを中心に音楽祭やヴァイオリン・コンクールが開催されます。
 日本のヴァイオリニスト景山誠治氏もコンクールの審査員として招待されたことがあるそうですし、ここのコンクール出身のヴァイオリニストも少なくありません。

 このような音楽祭がグシュタートにもありますね。メニューイン音楽祭です。メニューインもバイオリニストですから、本当によく似てますね。

 古くからのクラシック音楽好きにとってはヴォルガの名前は随分懐かしい名前に響きます。あまり国内盤は多くなかったのですが、レコードを集め始めた頃、ポピュラーな協奏曲のレコードを何枚か持っていました。今はどこへいったのかしら?
 フリッチャイがベルリン・フィルを振ったバルトークのCDで、ヴァイオリン協奏曲第二番のソリストとしてヴォルガが共演しております。フリッチャイの力強い共演(フルトヴェングラーの時代のベルリン・フィルですよ!)で、実にのびのびと、ハンガリーの音楽を主張しています。あまり媚びることのない、結構毅然とした、正攻法の演奏で圧倒されます。

 彼のCDは、今ではほとんど廃盤となってしまっていますが、スイスのクラヴェースから出ているものが現役でカタログに載っています。また、最近スイスのティボール・ヴォルガ協会のCDが大量に出て、長年の餓えをいやしてくれています。シオンに移る前のデトモルト(ドイツのです!)での演奏やら、戦前のSPの復刻なども貴重ですし、シオンでの室内楽演奏や自分のフェスティバル・オーケストラを指揮したものなども大量に含まれています。中には、ユーゴスラビアのミラン・ホルヴァートといった、マニアックな指揮者とザグレブのオーケストラと演奏したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲などといった、ヴォルガに興味がなくっても、聞いてみたくなる面白いものも含まれています。

 中では、バッハの二つのヴァイオリンの為の協奏曲の演奏の素晴らしいこと!息子のギルバートとの共演ですが、実にしっかりとした演奏で、シェリングがリバールとヴィンタートゥーアで録音した演奏に匹敵する出来であります。
 また、ラヴェルのピアノ・トリオも不思議な色気が全体に発散された演奏で、面白いものでありました。この辺になると好みを分かつでしょうね。ピアノが昔、グラモフォンからスクリャービンのピアノ・ソナタ全集なんかを出していたシドンであるところなどが、ちょっと面白いですよね。三楽章のパッサカリアなどの厳かな雰囲気も大変良く出ているのですが、全体に多用されるボルタメントがロマンチックなデフォルメになっています。チェロも同傾向の演奏で、アンサンブル自体の同質性は良く保たれているのですがね。
 恐らく、ヴォルガ自身がラヴェルに古典的な構造の裏側のロマンティックな、あるいはジプシー音楽などへの嗜好を感じ取っているのではないかと思われます。実際、ラヴェルの作品を淡々と弾かれた日には、退屈で退屈で…。
 同じ盤にはスメタナのトリオは、曲が彼らの音楽的特質に、更に合っているように思えます。盛り上がりも含めてスラブ的な様式であったり、ハンガリーやチェコなどの民族的な音楽様式に対する理解度も、ヴォルガは通り一遍で無い深さを感じさせるヴァイオリニストでもあります。

 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、録音データが不明なのですが、スイスの指揮者でフルニエらとも共演していてシューリヒトやアンセルメのもとで修行したオーバーソンの指揮もうまくつけているので、まずまずの出来となっていますが(これがスイス・ロマンド管やトーンハレだったらとは思います。オケの中でのバランスが少々悪いのです。弦が鳴っていないためでしょうが管が飛び出る傾向が全体にあります。)ヴォルガのヴァイオリンはロマンティックな表現で、スイスのモントルーで書かれたこの名作を、実に美しく再現して聞かせてくれます。カップリングされているブルッフの一番のヴァイオリン協奏曲も名演です(ヴァイオリンに限って言えばですがね)

 先にも触れた、ミラン・ホルヴァート指揮ザグレブ・フィルとのベートーヴェンは、このヴァイオリニストがいつもロマンティックに崩して弾くのだという先入観を見事に粉砕してくれる演奏として、先のバッハと共にぜひ紹介したい演奏のひとつです。熱く燃える演奏であるのは間違いありませんが、折り目正しさはシェリングのイッセルシュテットとの名演に迫る出来であります。

 シェーンベルクの「浄夜」やシューベルトの弦楽五重奏曲、レスピーギの「夕暮れ」などの室内楽演奏も、実に見事な演奏で驚きました。
 指揮したものでもシオン・ティボール・ヴォルガ・フェスティバル管弦楽団でのシューベルトの交響曲第五番や、モーツァルトの交響曲第三六番「リンツ」などもなかなかの出来ですが、臨時編成故が、ややアンサンブルが雑になり、アインザッツの揃わないところがあるのは致し方ないのでしょう。しかし、さすがヴァイオリン奏者で、ピッチは実にしっかりしていて、その音楽の解釈の妥当性とともに、立派な演奏であると思います。
 オケのメンバーもシオンでの弟子たちの育成も兼ねての音楽院の生徒の参加はともかく、結構インターナショナルなメジャー・オケのメンバーも参加しているようで、弦楽アンサンブルでの演奏、例えばレスピーギの「古代舞曲とアリア」第三組曲の演奏など、単なるユース・オーケストラのレベルを遙かに越えてしまっています。

 器楽奏者が、ソリストを引退?の後も、オーケストラなどの指揮をして演奏活動を続けるということは、弦楽器に限らずアシュケナージやエッシェンバッハ、あるいはバレンボイムといった例を見てもわかるように、実に多くの例があります。
 しかし、器楽奏者として一流であっても、指揮もまた一流と言えるものには、なかなか難しいのではないでしょうか?ジェームズ・ゴールウェイ、フィッシャー=ディースカウ、マウリッツィオ・ポリーニ、プラシド・ドミンゴなど、たくさんの試みがありました。決して残された録音の全てがとるに足らないものとはもうしませんが、全体としては(指揮から)撤退せざるを得なかったわけで、アシュケナージ等の例は、一部のものなのでしょう。

 まっ、多くの録音が時代の波に洗われて消え去ってゆくのですが、ヴォルガのCDもそうなのかも知れません。しかし、彼の音楽祭は、単なる個人の音楽祭を越えて普遍的なものに変化しつつあるようです。
 それは、このフェスティバルのHPを覗いてみるとわかります。
 ここのフェスティヴァルのHPにはもうすでに来年のフェスティバルのコンサート予定が発表されています。ああこんな所で演奏会があるんだと、妙に感心したりしますが、来演するメンバーもペライアのピアノの弾き振りでのモーツァルトなど、なかなか心が動く内容となっているところに、音楽祭が広く受け入れられ単なる個人を離れて、一人立ちし始めている様子を見ることができると、私は考えます。

 この町には先ほど述べたヴァレール丘教会に演奏可能なものとしては最古のパイプ・オルガンがあることでも知られています。私の持っているCDの中に一曲だけこのオルガンで演奏したものが入っています。単に古いから貴重というのではない、名器の音でありました。演奏はそれほどでもないのに、いきなりしっかり聴かせるほどの生命力のある美しい音でありました。ぜひ一度、生で聴いてみたいものだと思っています。
 このオルガンを聴かせるオルガン・フェスティバルも、このシオンで行われています。さすが司教座の町ですね。

 三年ほど前の夏、ヴァレールの丘からの帰り、駐車場から下ったところに、ちょっとした広場があり、そこで一休みしていた時、ピアノの音やヴァイオリンの音などが、折り重なってそよ風のように吹いてきました。一瞬私の大学時代に戻ったかのような気になってしまいました。
 後になって知ったのですが、ここシオンには音楽学校があるそうです。その一角だったのでしょう。(音楽関係の留学案内によると)夏期講習もやっているそうで、その学生さんたちの練習していた音だったのですが、私にとっては、夏の日のシオンの思い出の全てのような気がしています。

 彼らのホーム・ページにフェスティバルの詳細が載っています。興味を持たれた方はどうぞ。