スイスの音楽家パウル・ザッヒャー

 ザッヒャーは、スイス音楽界に止まらず、今世紀の音楽史において特筆される役割を果たしました。一九〇六年の生まれですから、二〇世紀と共に歩んだといってもいいでしょう。
 彼の後ろ盾によって、多くの重要な作品がストラビンスキー、バルトーク、マルティヌー、オネゲル、マルタン、ヘンツェ、デュティユー、ルトスワフスキー、ベリオ、ブーレーズ、ホリガーといった作曲家から生み出されていったことは、特筆大書しておかなくてはなりません。

 これは彼が、大変な音楽の目利きだったということの証明でもあります。大変親しい音楽家、演奏家にはロストロポーヴィッチをはじめ作曲家ヒナステラやピアニスト、ハスキルなどいずれも音楽史に名を残す人たちが多くいます。

 ザッヒャーは、バーゼルとチューリッヒに室内オーケストラを創設しました。バーゼル室内管弦楽団とチューリッヒ・コレギウム・ムジクムです。弦を主体にしたアンサンブルで、チューリッヒの方はかつてヴィヴァルディのフルート協奏曲などをリンデ(バーゼル音楽アカデミーのフルート、ブロックフレーテの先生)と録音したものなどを聞いたことがあります。また、デュティユーの「瞬間の神秘」という曲のCD等を聞くと、そのアンサンブルの堅実で、技術的なほころびがまるでなく、素晴らしい出来に舌を巻きます。
 チューリッヒ・コレギウム・ムジクムは一九四一年の創設ですから、バーゼル(一九二六年創設)よりも少し新しいのですね。第二次世界大戦の真っ最中に創設されたということは、ひょっとするとスイス国内への亡命者の受け皿作りとも思えるのですけど。とは言え、ハンガリー動乱でてきたオーケストラ・フンガリカとはまた違うのかも知れません。(詳しく調べようにも資料がほとんどないので…。詳しい方がいらっしゃればお教え下さい。)

 一九七六年、盟友ロストロポーヴィッチの提案で、ザッヒャーの七〇才の誕生日に、ザッヒャーと親交のあった作曲家十二人が、ザッヒャーの名前を音楽の中に音列として織り込んだ新作を作り、四月の誕生日にその演奏会が行われました。
 これほどの人の祝賀記念ということで、大変なイヴェントとなり、ピエール・ブーレーズが駆けつけバーゼル室内管弦楽団を指揮して演奏会を開催したのを皮切りに、ザッヒャー第二の本拠地チューリッヒのトーンハレでロストロポーヴィッチによって出来立てのザッヒャーの名による新作十二曲が演奏されたのです。
 ザッヒャーの名(SACHER)を最初のSをドイツ音名でEsと読んで変ホの音に、最後のRをイタリア語読みでReと読んでニ音にし、後のA−C−H−Eはイ音−ハ音−ロ音−ホ音というようにしてベンジャミン・ブリテンが(彼は一九五九年、ザッヒャーの依頼でバーゼル大学創設五百年を記念した「カンタータ・アカデミカ」を作曲している)音列を作り、他の作曲家達は、それを自由に扱いながら、自分の語法に乗っ取って無伴奏のチェロを前提に作曲したのです。

 楽譜は、いろいろな契約の関係もあったとは思いますが、ウィーンのユニバーサルから出ています(ファクシミリ版)。

 十二人の作曲家の名前を列記すると、アルベルト・ヒナステラ、ヴォルフガング・フォルトナー、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、コンラート・ベック、アンリ・デュティユー、ヴィトルド・ルトスワフスキー、ルチアーノ・ベリオ、クリストバル・ハルフテル、ベンジャミン・ブリテン、クラウス・フーバー、ハインツ・ホリガー、ピエール・ブーレーズとなります。ブーレーズの作品だけが七本のチェロを必要としますが、後は独奏チェロ(無伴奏)の作品ばかりです。

 このメンバーは、それこそ今世紀後半を代表する作曲家の名前ばかりです。そして、ここに集まった作品の中のいくつか、例えばアンリ・デュティユーの「ザッヒャーの名による三つのストロフ」、チェロの新しいレパートリーとして定着しつつあるのです。
 また、この中にベックやフーバー、ホリガーといったスイスの作曲家たちが含まれることに、ザッヒャーが自国の作曲家をいかに大切にしてきたかということの証明でもあります。

 国際色豊かな作曲家達の名前と、それを提案して初演したロストロポーヴィッチという現代屈指のロシアのチェリストの存在、そしてそのテーマを出したのがイギリスを代表するブリテンであること。あとフランス、ドイツ、イタリア、ポーランド、ブラジル、東西の区別なく(今は本当に区別がつかなくなってしまいましたが)偏らないことに、スイスの音楽家ザッヒャーの面目躍如たるものがあると思います。

 このような音楽家がスイスにいたことをスイス好きな皆さんにも知っていただきたいな、と思います。