リヒテンシュタインの作曲家ラインベルガー

 リヒテンシュタイン。この侯爵殿下の小さな国は、私はまだ行ったことがありません。いろいろな方の紹介文を読む度に行きたいと思うのですが、家族はあまり興味を示してくれず、またいつか行く一人旅の時に、まわってみたいものだと思っています。

 さて、この小さな小さな国の出身の作曲家、それもドイツ・ロマン派の中でも実に魅力的な作品を書き続けた作曲家がいることは、あまり知られていません。
 その作曲家の名前はヨーゼフ・ラインベルガー。 一八三九年三月十七日にファドーツで侯爵殿下の会計係りの息子として生まれました。幼少の時から並外れた音楽的才能を示したそうで、七才でファドーツのフローリン教会のオルガニストとして演奏を始め、作曲も早熟だったようで、オルガンの小品をいくつかと三声のミサ曲も残しているそうです。
 一八五一年、十二才となった年、彼はミュンヘンに移り、同地の音楽院に入学しました。ここでオルガン、ピアノ、対位法を学び、一八五九年には母校のピアノ科の教授になったのですが、この音楽院がなんと解散。
 翌一八六〇年に聖ミヒャエル教会のオルガニストに就任。一八六六年までその任にありました。と同時にミュンヘン合唱協会の指揮も任されました。

 しかし、彼にとって大きかったのは、一八五九年、詩人であり数々の翻訳もしているという才媛のファニー・フォン・ホッフナースと結婚ではなかったでしょうか。彼女は作曲家の大変に有能な秘書であったそうです。更に、文学的な素養も前述の如く深く広いものであったことは、ラインベルガーにどれだけ大きく影響を与えたか、想像に難くありません。
 彼は、彼女から多くの文学的な影響をうけ、彼女の詩に作曲をしたりもしています。(CDの)解説では、ローカルな意味で注目に値する仕事を達成したと、彼女のことを紹介しています。
 独signum盤が、ラインベルガーが妻ホッフナースの詩につけたソプラノとバリトンの為の二重唱曲が出ています。(SIG X88-00)

 一八六七年、あのビューローが音楽院を再建し、今度はオルガンと作曲の教授として母校に戻っています。そして更に一八七七年にはバイエルン宮廷楽長に任命されています。バイロイトでワーグナーが四部作を初演した頃のことですから、当時彼がどれほどの名声を得ていたかわかりますね。
 名誉としては一八八四年にベルリン学士院会員に推挙されています。
 亡くなったのは、一九〇一年十一月二十五日。ミュンヘンであったそうです。

 作風は大変わかりやすく、美しいメロディーにあふれた作品が多くあります。特にオルガンを使用した作品が多く残されていますが、変ホ長調のミサ曲や独唱、合唱、オーケストラのための大作「ベツレヘムの星」といった宗教作品、更に二曲あるオルガン協奏曲などに、本領を発揮したようです。
 こういった作品に名作がいくらあっても、キリスト教文化とほとんど縁の無かった日本では、有名になるはずがありませんね。
 ベートーヴェンの「第九」は聞いても、ベートーヴェン自身が最高傑作と考えていた「ミサ・ソレムニス」は、滅多に聞かない国民ですからねぇ。

 ラインベルガーの作品入門として、一曲あげるならば、ヴァイオリンとオルガンの為の「六つの小品」作品150を推薦したいと思います。
 この曲は、親しみやすく万人向きの美しい作品で、最近BMGグループの独Arte Novaからデニソヴァのヴァイオリン、スティルツェップのオルガンで出たものが、輸入盤ながらベストセラーとなっていました。
 第1曲の「夕べの歌」第二曲の「パストラーレ(田園曲)」第三曲の「エレジー(悲歌)」の三曲はチェロへの編曲でロストロポーヴィチとタヘッツィのオルガンという興味深い共演盤も一時テルデックから国内盤が出ていましたが、どうなったのでしょうね。

 スイスと深い関係で結ばれたリヒテンシュタイン出身の作曲家ラインベルガーを、ぜひロマン派の音楽史を語るときは、忘れないでほしいものです。