ラフの音楽 -05- 交響曲第4番、第6番 |
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今回は、ラフの交響曲第四番と第六番について書いてみたいと思います。この二作品は第二番の交響曲と共に、ラフの交響曲中で数少ないタイトルを持たない、絶対音楽として作曲されたものです。 一八六九年に作られた第三番「森にて」から二年、第一楽章は堂々たるソナタ形式で出来た音楽で、短調でありながらあまり深刻ぶらないのがラフ流というべきでしょうか? ちょっとメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」に似たこの楽章を聞いていると、この作品があまり知られない、秘曲のような存在になっていることが意外な気になります。 木管楽器による明るい第二テーマとの対比も鮮やかで、交響曲のソナタ形式の書き方のお手本のような作りれであります。まあ、そういった点はラフの他の作品でも言えることでありますが、特に中期の作品は、実に無駄のない、充実した構成と精密な主題設定が特色となります。 オーケストレーションはイマジネーションに溢れていて、特に管楽器の扱い(ブレンドの仕方)にラフの豊かな技術がよく出ていると思われます。 第二楽章のメンデルスゾーン風のスケルツォは、いつものことながら水際だったものがあります。細かい動機を積み重ねていく手法は、メンデルスゾーンの手法そのものでありますが、トリオの部分の伸びやかなというか、ややのどかなテーマは明らかにラフ独自の味わいがあり、借り物(習作)のレベルなどでは決してありません。私の持っているCDの演奏(ウルス・シュナイダー指揮スロヴァキア国立フィル=輸入盤マルコポーロ8.223529)は、明らかによく健闘しているのですが、こういうテクニカルな音楽になると、どうしてもアンサンブルの切れがやや物足りないのが惜しいと思います。 第三楽章のゆったりとした楽章(Andante non troppo mosso)は、ファゴットが奏する美しいメロディーが印象に残ります。荘重な足取りの音楽は、ベートーヴェンの第七交響曲の第二楽章のようにダイナミックな足取りへの壮大なクレッシェンドを伴って伴って現れます。その後の構成もベートーヴェンのこの作品に似ているようで、ベートーヴェンへのオマージュといった感じの楽章だと私は考えています。 さて終楽章は、第一楽章のテーマを思い起こしつつ、それをチェロのレシタティーヴォが否定して、明るく快活なテーマが引き出されるという、もうベートーヴェンの第九交響曲そのもののような開始部でありますが、もちろんこの曲には合唱も歌手たちも、二重フーガもトルコ風のマーチもありませんが、このあまりに偉大な楽聖に対しての、敬意がこの作品のベースとなっていることは疑えません。 対位法的な発展の場面では、その技術の高さを遺憾なく発揮していますが、それはベートーヴェンの第九を意識したものであることはまちがいないでしょう。 ただ、ベートーヴェンのように長くはなく(たった七分足らず)の曲ですので、真似をして作ろうというのではなく、それを引用して自分の音楽の中で、この偉大な先輩に対する敬意を表現したかったのでしょう。 次に、ラフの交響曲第六番についてです。 第六番の交響曲は、もともと「生きる−抗争−戦い−受難−死−再生」といったプログラムが初演の時にはあったのですが、出版に際して除かれています。ということは、リストが始めた、明確なプログラムを持ったロマンティック(叙事的という意味で)な交響詩の延長の上にある作品だということです。 あえて、それを出さないことで、音楽的にも広がりを持たせようと思い直したのではないかと、私は考えていますが、これはあくまで推測であります。 作られたのは一八七二年。作曲者五十才の時の作品です。 この作品は、恐らくラフの交響曲の中でも最も重く悲劇性を内在させられた音楽だと思われます。とは言え、それが単なる感傷的なものではなく普遍性を獲得している点は特筆すべきことであります。タイトルがついていない為に、比較的マイナーにラフの作品の中でも、特にマイナーな存在に甘んじている曲ですが、それが、ラフの音楽の特性にないものを精一杯描ききろうとしたところに、やや無理があったように思えるのです。どの部分も大変よく書けていて、良いのですが、どこかで無理をしているように思えます。 それは、ベートーヴェンの英雄やリストの交響詩「前奏曲」や「タッソー」などの残像が、曲の彼方ではありますが、時々浮かび上がってくるところに、やや限界を感じてしまうのです。 他の交響作品にもそれは聞かれるのですが、このように、重いテーマというか、普遍性を悲劇的なものの中に求めようとすれば、どうしても気にかかる存在となってしまうのです。 第一楽章は二短調のソナタ形式で良く書かれた音楽。悲劇性と力強い生命力をよく表現しています。いつもの事ながらテーマの展開は実に入念で、二つのテーマの間の対比も楽章全体をよく引き締めています。 第二楽章はスケルツォ風。2拍子で書かれ、明らかにこの曲ではメンデルスゾーンの影響から抜け出て、民族的な舞曲としての生命力を獲得した、独自の世界を楷書で描ききっています。 この作曲家が、ドヴォルザークやグリーグといった国民楽派の先鞭をつけていたのだとも言える、それほど面白い音楽に仕上がっています。トリオで出てくる弦楽器の流れるような美しいメロディーとリズミカルな舞曲のテーマとの対比が実に鮮やかで、これはとてもよく出来た音楽となっています。 第三楽章は葬送行進曲。ラフの音楽の中で、最も深く悲劇性を表現した音楽の一つです。あまりベタベタしない、乾燥したメロディーの運びの中に、深い悲しみが宿っています。 時折、ベートーヴェンの英雄の二楽章の有名なメロディーに似た節回しが出て来ます。ラフ流の楽聖への敬意の表現でもあったのかも知れません。フガートでの展開もベートーヴェンのやり方を踏襲していますが、味わいは当然のことながら全く違ったものになっています。 葬送行進曲の名作としてはベートーヴェンのものの他に、ワーグナーのジークフリート葬送の音楽や、モーツァルトのフリーメーソンの葬送音楽などが連想されますが、ああいった名作に比べると、やや劣るのは仕方ないのかも知れません。 終楽章は勝利の音楽なのでしょうか?力強いテーマがティンパニの連打とともに堂々と現れます。このテーマは最初の楽章の冒頭に出てきたメロディーを同主調のニ長調に変化させたものです。 一聴して、循環主題のフランクなどに繋がる交響作品の系譜を思い浮かべずにはいられませんでした。こういった作り方の最初の例はベートーヴェンの第九であり、ベルリオーズの幻想交響曲のですが、よく使われるようになったのは、チャイコフスキーの第五交響曲などの頃であり、ブラームス、シューマンといったところは、もう少し屈折していて、このようにややあからさまに主題を回帰させることには抵抗があったようです。 いろんな動機が、少々変えられて戻ってくる様子は、明らかにチャイコフスキーやドヴォルザークの前触れであり、チャイコフスキーには、ラフの影響は明らかだと思えます。 さて、この作品のCDも輸入盤のマルコポーロ・レーベルでスイスの中堅というかベテラン指揮者ウルス・シュナイダーの指揮するスロヴァキア国立フィルで、なかなかの健闘をしています。(CD番号8.223638) スイス好きのみなさん、いかがでしょうか? |
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