追悼、メニューイン |
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メニューインが亡くなられました。ベルリンの病院で最後の時を迎えたそうです。先日、メニューインの生涯というTV番組を見ていて、実に素晴らしい音楽家だったのだと、改めて感動した次第です。 彼がスイスに山荘を構え、グシュタートにも音楽院を作り、若手の指導に情熱を燃やしていたことなどを思えば、スイスとも深い縁で結ばれていたことに気づきます。そのことについては、すでに触れましたが、追悼の気持ちも込めて、再度ここにメニューインについて書いてみたいと思います。 戦後、ナチに協力した音楽家が、多く楽壇から追放されました。そのことの是非についてここで論じる場面ではないので、控えたいと思いますが、戦後になってから、ナチ協力者ということで、祖国を追われ、スイスに逃れて来た音楽家は、メンゲルベルク、コルトー、フルトヴェングラーなど大変な人たちも含まれていました。 中でも、フルトヴェングラーはドイツ文化の象徴であり、ナチのドイツに留まり、音楽活動をしたということで、演奏活動停止という処分を戦後受けていました。 戦時中、ナチス当局と、音楽文化を守るために、命を賭けて対決したフルトヴェングラーが、戦後、今度はナチスに加担したとして裁かれるという、何とも理不尽な状況に対し、アメリカ出身のユダヤ人のメニューインが、積極的にフルトヴェングラーの弁護をし、彼の無罪を導き出したのです。 戦後のフルトヴェングラーの、素晴らしい名演の数々を聞くことができる私たちは、そのために奔走したメニューインに深く感謝しなくてはなりません。 そのフルトヴェングラーと積極的に共演したことで、メニューインはアメリカ(自由の国は、一方で何と狭量なのでしょうか!!)の音楽界から閉め出されてしまいます。 しかし、人道主義の立場から、積極的に彼自身が正義と信じる道を、メニューインは突き進んだのです。 最近もとある超メジャーなクラシックのレコード月刊誌に、フルトヴェングラーがナチスの前で演奏していたことを非難するが如き文章が載っていましたが、メニューインを始めとして、これほど多くの人たちが、フルトヴェングラーが当時おかれていた立場、戦時の状況、ナチスが彼を自らのプロパガンダとして利用しようとしたこと、そして、それに抵抗しながらもフルトヴェングラー自身が愛して止まなかったドイツの為に妥協し、取引をし、ギリギリの選択をしていったことを、切々と訴えていることを、無視したこういう文章を読むと悲しくなります。 そんなことはともかく、メニューインは人道主義者として、正義を貫くという姿勢を全うし、彼はフルトヴェングラーの無実を信じ、その音楽の精神性の高さに驚嘆し、彼と共演を繰り返し、音楽上の大きな損失を救ったのです。 中でも、ルツェルン音楽祭における一九四七年、フルトヴェングラー復帰直後のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏は、実に感動的な演奏で、音の悪さ(ライブ録音なので…)を気にしなければ、この曲の最高の名演ではないかと考えます。 (彼が望んだの訳ではないのでしょうが)アメリカのユダヤ社会と訣別し、一九五九年にロンドンに居を移しています。そして、イギリスの国籍を一九八五年に取得しています。一九六五年にはまだイギリス人でなかったので、名誉ナイトになっていたのですが、一九九二年には貴族のロードに叙されています。 この人道主義の生き方は徹底していて、イスラエルで大歓迎を受けたその足で、パレスチナ難民の為の慈善演奏会を開くという、平和主義で 一貫していたのです。 更に一九九八年には、平和と国際理解の為の活動についての表彰を設けるという徹底ぶりだったのです。 また、ハンガリーの大作曲家バルトークが、そのプライドの高さから一介の教師になることを拒絶し、アメリカで困窮の中に居た一九四三年に彼の元を訪れ、無伴奏ヴァイオリン・ソナタの作曲を依頼、初演し、各地で演奏をして回り、更にフルトヴェングラーまで担ぎ出して、ヴァイオリン協奏曲の録音を行うということなどは、彼が音楽の歴史に、大いに貢献したこととして、決して忘れることの出来ない事柄であります。 自身が天才少年としてデビューし、その後大人の成熟したヴァイオリニストに成長していく苦労を知っているので、自費でロンドンとスイスのグシュタートの近くに音楽院を作り、(無償で!!)才能ある若手を育てる事業を成功させました。彼のおかげで世に出たヴァイオリニストは、あまりにも多く、デビュー録音でメニューインの指揮するオーケストラと共演したなんていうのは、枚挙に暇がありません。 若手の音楽家達のオーケストラを組織したり、室内楽をしたりと、メニューインは音楽の伝道師としての素晴らしい生き方を示しました。 また、ジャズ・ヴァイオリンのシュテファン・グラッペリとの共演でのジャズ?・アルバムがあるかと思えば、ラヴィ・シャンカールというインドのシタール奏者と共演して録音したりと、その交友範囲、音楽の守備範囲は大変広いものがありました。 グラッペリとのアルバムは今も愛聴盤となっています。 「ザルツカンマーグートを見たことない者に、ベートーヴェンの田園は解釈できない」と言ったメニューインはこのアルプス地方を、心から愛していました。イギリス国籍を取得した後も、スイスの山荘に出かけ、一九五六年以降、グシュタートで音楽祭を行っていました。一九五八年からはイギリスのバースでの音楽祭、一九六九年から三年間、ウィンザーでのメニューイン音楽祭と、多くの彼の名を戴く音楽祭が行われています。 その中からは、今年、香港ナクソスからCDデビューしたメニューイン音楽祭ピアノ四重奏団があります。 モーツァルトの二つのピアノ四重奏曲を演奏しているのですが、ドイツ人のピアニストでヴィンタートゥーアの音楽院の先生をしているフリードマン・リーガーと、カリフォルニア出身で同じくヴィンタートゥーアで教えているノーラ・チャスティンというヴァイオリニスト、スコットランド出身で、スイスのメニューイン音楽院でマスター・クラス(レンクとヴィヴェイ)で教えているヴィオラ奏者のボウル・コレッティ、フランス、リヨン出身のチェロ奏者、フランシス・ゴートン(ローザンヌでシュタルケル、ジュネーヴでフルニエに師事したそうです)というメンバーの音楽は、メニューインのもう一つの大いなる成果と言ってもいいでしょう。 彼らの演奏するト短調の四重奏曲を聞きながら、メニューインの冥福を心からお祈りしたいと思います。 |
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