良心的文化人は映画「カサブランカ」のように亡命したりしましたが、国内にとどまった者には、等しくそのフィルターがかけられたのです。
さてコルトーの場合、ナチに加担するという選択をし、戦後、全ての音楽活動を禁じられ、失意の日々をおくることになります。当然、フランス国内に安住の地はなく、そういう音楽家の多くはスイスに逃げて来ています。
コルトーもまた、ローザンヌに籠もることになってしまいました。それは、彼自身がジュネーヴ近郊のニヨン(古代ローマの遺跡がある古い魅力的な町)の出身であったことも影響しているのでしょう。
絶頂期にあったコルトーはその後、フランスの国民感情が和らぎ、再び祖国の舞台を踏むことができたので、まだ幸せだったかも知れません。オランダの屈指の名指揮者メンゲルベルクは、再び舞台に立つこともなく、亡くなったのですから。
しかし、再び舞台に立ったコルトーはかつてのすばらしい音とテクニックを失いつつあったのです。
それでも、彼が友人のバイオリニストのティボーと共に設立した音楽学校のエコール・ノルマールの公開講座は、最晩年になっても続けられ、そこからは多くの音楽家を輩出しています。
寂しい晩年ではありましたが、このように多くの傷ついた音楽家を戦後、受け入れてきたのが、このヴォー州、レマン湖畔なのです。
ローザンヌから列車でパリに通っていたコルトーの目に、あの優しいぶどう畑や、ジュラのなだらかな山並みは、どのように写っていたのでしょうか。
戦後の一時期、あの辺りには、世界を代表する音楽家というか、今世紀を代表する音楽家がたくさん滞在して、それぞれの黄昏の時代を迎えていたのは、なんとも皮肉な歴史のいたずらのように思えます。
あの美しい風景の裏側に、戦争に参加しなかった国の中で起こった“戦後処理”の不思議な光景を、あそこを通る度に思い起こします。
戦争はその国、その時代の文化をも引き裂いていったのです。
車窓の景色を思い浮かべながら、そのようなことを思ってみました。
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