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ジュネーヴとリパッティ、ハスキル、アンセルメ

第二次世界大戦が、多くの不幸と悲惨を巻き起こし、ヨーロッパ中を焦土と化した頃、多くの音楽家がスイス・レマン湖地方に逃れていったことは、以前にも書きました。その中にはルーマニアからフィアンセと一緒に逃れてきたディヌ・リパッティも居たのです。

 ジュネーヴに着いた時の全財産がたった5フランだったと言われていますが、ジュネーヴの人たちはこの天才に対して親切でした。

すぐさまジュネーヴ音楽院のマスター・クラスの教授として当時20代の若者を迎え、ジュネーヴ郊外のフランスとの国境に近いあたりに(残念なことに住所がわからないのです。しらべているのですが…)今世紀最大のレコーディング・プロデューサーのウォルター・レッグがトシープシェンリ荘とルツェルンのワーグナーの家に似ていることから名付けた家に住んでいたのです。
フランスから、これまた同郷の天才ピアニスト、クララ・ハスキルも亡命して来て、一緒に演奏会にでたりもしています。

 幼少の頃から病弱であった彼の主な活動の舞台は、この時からほぼスイス国内、それもジュネーヴ、ルガーノ、ルツェルン、チューリッヒといったところに限定され、録音のために数回ロンドンを訪れるに限られていました。
 病気が進行し、演奏会も思うままにならなくなった1948年以降は、わずかに病状が好転した時を縫って、録音を行っていったようです。
 1950年には、多くの音楽家達の寄付で、新薬コーチゾンの投与が始まり、二ヶ月あまり病状が快復した時、レコーディング・スタッフがロンドンから駆けつけ、7月、ジュネーヴでショパンのマズルカや、バッハのコラール前奏曲のピアノ編曲版を録音しています。
  しかし、9月、フランスのブザンソンで行われたコンサートを最後に、12月2日亡くなりました。33才。あまりにも早い死でした。

 さて、もう一人。この頃亡命してきた同郷の女流ピアニスト、クララ・ハスキルを忘れることはできません。
 彼女は、チャップリンが生涯に会ったたった三人の天才のひとりにあげられたピアニストです。あとの二人はチャーチルにアインシュタインです。

 ある逸話があります。名指揮者のジュリーニがロンドンのロイヤル・フェスティヴァルホールに、ショパンのピアノ協奏曲第二番のリハーサルのため訪れた時のことです。まだ時間も早くだれ一人いないはずの舞台で、一心にピアノをさらっているピアニストがハスキルでした。
 彼が入ってきたことに立ち上がったこの小柄で、繊細すぎる精神のピアニストに対して、ジュリーニは「まず最初に何をしたらいいでしょう」と尋ねました。そこで、ハスキルは「では自分がまず全曲を弾くので、後で意見を言って下さい」と言ってショパンの協奏曲をオーケストラのパートまで全てを、最初から終わりまでピアニッシモ(最弱音)で弾き通したのです。ジュリーニによると、ダイナミクスレンジは狭いのだが、音楽に込められたあらゆる思い、情感が全て完璧に表現されていたそうで、それは正に奇跡のような体験だったと、後に自分自身の音楽体験の中の最高の出来事として述懐しています。

 このような逸話がそれこそ数限りないほどあるピアニストがハスキルです。最後の十年が彼女のキャリアの最高のものでした。人を押しのけてでもということとは、全く無縁で、わずかなサークルでの演奏が彼女のキャリアのほとんどでした。

 クララ・ハスキルと言えば、ルーマニア出身のピアニストです。その彼女が何故スイスに来なければならなかったのかと言えば、ナチスによるパリ侵攻がきっかけでした。
 一九四一年の春、占領下のパリから非占領地区のマルセイユに向けて、国立管弦楽団のメンバーと共に逃避行の危険な旅を決行したのでした。夜、モンパルナスの駅を列車で出て、夜明け前にアングーラムでおりて、ほとんど徒歩で森の中を、ドイツの秘密警察の目をくぐり抜けてリモージュを経由してマルセイユに着いたのでした。

 そこで、知り合いの伯爵夫人の招きでリサイタルなどに出演していたのですが、ドイツの秘密警察に捕まるという事件に巻き込まれたりします。
 運良くドイツに送られるのを逃れたのもつかの間、偏頭痛と視力障害に悩まされることになります。
 そこで、彼女に治療を受けさせようと、スイスの友人たちが高額の医療費を負担し、パリから高名な外科医ダヴィド博士が秘密裡に呼ばれました。
 彼女の偏頭痛の原因は脳に出来た腫瘍でした。これを手術で取り除くという、大変な危険を乗り越えた三ヶ月後、彼女は演奏会に復帰しました。モーツァルトのニ短調のピアノ協奏曲などを弾いたのですが、それは素晴らしいものだったことでしょう。

 しかしドイツ軍がフランス南部まで占領すると、危険は更に身近なものになってきました。またまた、スイスの友人(ヴィンタートゥーアのヴェルナー・ラインハルトではないでしょうか?)たちが、彼女のためにスイス入国のためのヴィザをとれるよう奔走して、スイスへやっとたどり着いたのでした。

 彼女はヴェヴェイの楽器店でピアノを練習させてくれることになり、このレマン湖畔に身を落ち着けたのでした。彼女の最大の保護者はヴィンタートゥーアのヴェルナー・ラインハルトでした。彼が主催するヴィンタートゥーアの演奏会に招かれています。(小さいものですが、オーケストラもあり、LPの初期にいくつかの名盤を残しています。)ここには、今世紀最大のチェリスト、パブロ・カザルスも招かれていて、ハスキルの演奏を聞いて、山のような賛辞を残しています。 
 数ヶ月の間、ここでコンサートに出演したりして滞在した時、ロッシェ夫妻や天才バイオリニスト、ベーター・リバールとも交友を結び、スイスのショロスブルク・トゥールガウにある音楽学校の創立者でピアニストのアンナ・ヒルツェン・ランハンゲンとも交流を結び、ここの古城コンサートに出演し続けています。

 このスイスで、同郷のリパッティにも会い、彼の演奏会が開けるよう手を貸したりもしています。ピアニストで名教師のマガロフやチェリストのフルニエ、ピアニストのゲザ・アンダもこのスイスにいました。
 多くの音楽家に故郷やキャリアの中断を余儀なくさせた、戦争の時代のことでした。そして、戦争が終わっても、彼らは、苦しい時代に助力を惜しまず、世界の宝のような音楽家たちを保護したスイスを立ち去ろうとはしませんでした。

 そして、彼らの死後もクララ・ハスキル国際ピアノコンクールなどを開催し(ヴィヴィイ)その業績を記憶していこうとしています。

 そして、彼らを保護し助けたのはエルネスト・アンセルメ。
 スイスのオーケストラと言えば、真っ先にでてくるのがスイス・ロマンド管弦楽団です。
 このオーケストラを1918年に創設した指揮者が、エルネスト・アンセルメという人です。二十世紀の重要な作品の初演を数多く任され、「あなたがほしい」や「ジムノベティ」で有名なエリック・サティやラヴェルをはじめフランス六人組の作曲家たちなどのフランス系の作曲家たちだけでなく、スペインのファリャやロシアのプロコフィエフなどからも絶大な支持を受け、1969年に亡くなる直前の50年の長きにわたって、スイス楽壇のトップに立ち続けた偉大な指揮者でありました。
 
 また彼は、ピアニストのディヌ・リパッティやクララ・ハスキル、そして、ストラビンスキーといった、亡命者を保護し、家の相談にまで乗り、職を紹介し、自分のオーケストラの演奏会に出演させるなどして、経済的な支援を続けたのです。
 まさに、スイス楽壇の大親分といったところだったのではないでしょうか。

 エルネスト・アンセルメは、1883年11月11日レマン湖畔のヴヴェーに生まれたそうです。ヴヴェーの中学を卒業した頃は音楽よりも数学の方が好きで、ローザンヌの高校を卒業してパリのソルボンヌ大学とパリ大学で数学を学び、数学者として郷里に帰り、ローザンヌの大学で数学の教鞭をとっていたとありますから、音楽家としては随分変わった経歴の持ち主だったようです。
 そのかたわら音楽の勉強をしていたそうですから、大変な良い頭を持っていたようです。

 音楽家としてのデビューは1910年。モントルーだったそうで、ひょっとすると焼失する前のカジノのホールだったのではと考えているのですが、この時はベートーベンの「運命」を振ったそうで、大成功だったと、私の持っている資料には出ています。

 その後、徐々に認められ1915年、ディアギレフの主宰するロシア・バレエ団(バレエ・リュス)に指揮者として参加。1918年の秋、前に書いたように、ジュネーヴにスイス・ロマンド管弦楽団を創設しました。
 産声をあげただけでは単なる地方の三流オケでしかありません。彼は自分のオケの技術を磨き、世界一流のオーケストラにまで育て上げたのです。
 戦後、その膨大なレパートリーを録音するようになり、彼の芸術は今も日本のCDショップの店頭に並んでいます。

 1969年2月心臓麻痺で86歳の生涯をジュネーヴで終えましたが、彼が亡くなった後、スイス・ロマンド管弦楽団は当時の音を失い、長い低迷の時代に入ったことからも、いかにその存在が大きかったか理解できると思います。

 スイス・ロマンド管弦楽団のホーム・ページはhttp://www.osr.ch/です。興味のある方はどうぞ。

 こうして来ると、スイス・ロマンド(フランス語圏)の奥深さがわかるような気がしますね。


 追記
 1964年、イギリスの大レコード会社を辞任したウォルター・レッグは夫人のソプラノ歌手シュワルツコップフと共にジュネーヴに住んでいました。ディヌ・リパッティとの思い出を何度も講演してあるいたようで、彼のプロデュースした膨大なレコーディングの中でも、今も現役で売られているものの一つです。
 1979年に南仏で世を去ったのちも、夫人が確かジュネーヴに住んでいるはずです。
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