音楽教育家ダルクローズ
 一八六五年七月六日、ウィーンで生まれたスイスの作曲家・音楽教育家エミール・ジャック・ダルクローズは、ジュネーヴで音楽を学び、その後パリに向いフォーレラヴィニャックなどに師事します。更にウィーンに赴きロベルト・フックスやアントン・ブルックナーにも学び、再びパリに行きレオ・ドリーブ他に師事したのですが、これによって彼は大変幅広い音楽スタイルを身につけていったと考えられます。この二度目のパリではマティアス・リュシーというリズムの理論家と出会ったことも重要な出来事でした。
 ジュネーヴに戻ったダルクローズは一八九四年にジュネーヴ大劇場で初演された歌劇「ジャニー」の成功によって注目を集めます。一八九六年に開かれたスイス国際博覧会のために作られた「山の詩」や抒情劇「サンチョ」などの作品で作曲家として認められていったのです。
 すでに一八九二年よりジュネーヴ音楽院で和声とソルフェージュを教えていたダルクローズはその門下から多くの作曲家を輩出しました。
 しかし、今日ではこうしたことは、ほとんど忘れ去られていると言って過言ではないでしょう。音楽教育に関わる人で彼の名前を知らない人はいないでしょう。運動感覚とリズムを結びつけた独自のリトミックの理論をうち立て、音楽教育の世界に革命をもたらした人物であります。
 一九一一年に、ダルクローズはドイツのドレスデン郊外ヘスラウにリトミックの学校を創設。ヘスラウの学校は一九一四年に第一次世界大戦が始まったために閉鎖され、学校は大きく頓挫してしまいます。しかし、このヘスラウの学校からノイエタンツ(新舞踏=表現主義舞踊)の第一人者のウィグマンが育ったことは特筆大書するべきでしょう。ウィグマンはヘスラウでダルクローズの学校で学び無音楽舞踊を提唱したりした人で、一九三六年のベルリン・オリンピックの式典の演出をした舞踏家で、アメリカのモダン・ダンスも彼女の影響を受けて発展したと言われています。
 ダルクローズの学校はホームグランドのジュネーヴにすぐさま再建されます。この中、各地を転々としていたマルタンがジュネーヴでダルクローズと出会い、彼の信奉者となりました。二十世紀スイスを代表する作曲家であるマルタンは、一九二八年から十年あまりの間、その研究所で即興演奏法やリズム理論を教えています。
 ダルクローズのリトミックの理論は世界中に広まっていきました。それは二十世紀の大きなムーヴメントでありました。この日本でも、すでに三十年の長きにわたり日本ダルクローズ音楽教育学会がその普及につとめています。これは、彼の理論がこの百年の間に、音楽教育のスタンダードになっていることを物語っていると思います。
 ダルクローズは、フランスの作曲家で「魔法使いの弟子」で有名なポール・デュカスと同い年でドビュッシーの二歳下です。作曲家としての彼の作風は、学んだドイツとフランスと合わせたようなというよりも、よりフランス風であると考えられます。彼の弦楽四重奏曲を聴いてみると、そのスケールの大きい入念な展開とドイツ仕込みとも言える緊密な構成で圧倒されますが、一方「ピアノ・トリオのための8つのノヴェレットとカブリース」などの洒脱な味わいは、明らかにフランス近代のスタイルであると考えられます。
 熱心なダルクローズ信者が世界中にいるので、今も時折演奏されることもあるようですが、彼の音楽教育におけるあまりの大きな業績の陰に隠れて、その作品の多くが忘れられてしまっているのは、実に残念なことです。
 ダルクローズは一九五〇年七月一日、ジュネーヴでその偉大な生涯を閉じました。

 十九世紀はじめのネーゲリ等の行った合唱運動が、ダルクローズに与えた影響については、大いに興味深い研究課題ではないかと思われますが、あまりに専門的になりすぎるのでこのくらいにしておくことにしましょう。しかし、十八世紀のルソー以来、リストの滞在やジュネーヴ音楽院の創設などがあった以外、レマン湖畔を中心とするフランス語圏では、あまり特記するような出来事がなかったありませんでした。しかし、ダルクローズの登場はその静かな時代に終止符を打ちます。
 彼以後、二十世紀の到来とともに音楽史に大きくその名を刻む音楽家が出現します。その人の名はエルネスト・アンセルメ。彼の登場以降、レマン湖に吸い寄せられるようにストラヴィンスキーやマルタン、マルティヌー、といった大音楽家たちが集まっていきます。そうしたことは、また別項で・・・。