若い頃は「鍵盤の獅子」と讃えられたほどのヴィルトゥーソで鳴らし、ドイツ系のピアニストとしては異例なほど、テクニシャンであったようで、一九二〇年代から三〇年代の頃の録音、例えばショパンのエチュード全曲などは、実に爽快なテクニックのキレを味わえます。
こういったレパートリーから、ベートーヴェンやブラームス、シューマンといったウィーン古典派からドイツろロマン派にかけての幅広いレパートリーでヨーロッパを制覇した、大ピアニストがバックハウスでありました。
こういったレパートリーは、同時期に活躍したもう一人のドイツ系ピアニストのウィルヘルム・ケンプからも聞かれるものですが、全く違ったタイプの音楽性、そしてテクニックを持っていました。
ちなみに、ケンプは多くのドイツ系ピアニスト同様メカニックにやや問題があったのか、技巧的な作品、技術的な完成度を高く要求する作品では、その高い音楽性だけでは物足りない世界も聞かれるのですが、しかしシューベルトのソナタなどからは、それこそ神懸かり的な神々しいとでも言いますか、素晴らしい世界を表現し、私たちを感動させてくれます。
しかし、バックハウスはそんな神懸かりではありません。充分に即興的ではあり、瞬間的なインスピレーションの煌めきにも決して欠けてはいませんが、明らかに構築的でありました。インテンポで押し進めるというのでもありません。例えばベートーヴェンの有名なピアノ協奏曲第五番「皇帝」では、ピアノの即興的なテンポ・ルバートが、とても効果的に使われ、演奏にゆとりと悠揚迫らずといったスケール感を出しているという離れ業を披露もしているのです。
更に、ベートーヴェンのソナタの演奏では、ケンプなどよりも更に大きな感情のうねりを捉えていて、その解釈はシュナーベルなどよりもはるかにロマンティックな世界に踏み込んだものであります。
したがって、音の質も全体に重いもので、ハイドンやモーツァルトにもいい演奏を残してはいるのですが、それはベートーヴェンやブラームスに更に向いていたと言えます。
彼のベートーヴェンの全集がジュネーヴのヴィクトリア・ホールで録音されているのはご存知でしょうか。スイスの録音ホールの項でも触れてはいるのですが、何故バックハウスがこのホールを選んだかは、そのホールの響きの良さに拠っていることは明らかですが、当時バックハウスはスイス国民であったということも知っていると、なるほどという気持ちになってきます。
一九三三年にドイツでナチスが政権を握ると、それを嫌ってさっさとスイスに移住してきて、一九四六年には国籍を取得しているのです。ショルティの自伝に拠るとルガーノに住んでいたそうですから、あの辺りにお墓もあるのでしょうか?
ショルティが優勝したジュネーヴ国際コンクールの審査員もしていましたね。
ユダヤ人がスイスになだれ込んで来たのは一九三八年頃ではなかったでしょうか。そういったユダヤ人だけでなく、良心的なドイツ人もたくさんスイスに移住しています。そして彼らはほとんど死ぬまでスイスに居続けています。
スイスが音楽家をいかに大切にしたかということだけでなく、当時のスイスの音楽界に良心的な人たちがたくさんいたのだということの証であるのです。こういったことは、ショルティの自伝などを読むとよくわかります。無名の駆け出しのユダヤ人の音楽家がスイスでどれだけ辛い日々を送っていたかを知るとスイスの持っているもう一つの保守的な(それもとんでもないほどに頑強な保守!!)側面をよく書かれています。
まあ、スイスの色々な面を見、それでも多くの音楽家がスイスに居続けた事実。クーベリックなど、その後共産主義に反してやって来た人たちや、シューリヒト、シェルヘン、フルトヴェングラー、ヒンデミット(アメリカに渡り、その後ドイツに戻った)といった人たちがスイスを本拠として、ドイツ各地のオーケストラに客演したり、そこの音楽監督として活躍したりした事実、そしてこのことをとってみても、彼らにとってスイスが、大変魅力に溢れた国であったことの証であるように思えます。
そう言えば、ベルリン・フィルとの、ブルックナーなどの素晴らしい演奏で有名な、名指揮者のギュンター・ヴァント氏も、ゴールデン・パスのどこかに住んでいらっしゃるそうですし、ドイツの音楽家はスイスにあこがれているのでしょうか。
ともかく、スイスに腰を落ち着けたバックハウスは戦後もすぐに活躍を始めたのですが、ケンプはドイツに残りました。いろんな意味で、対照的な二人のピアニスト。そのどちらもがベートーヴェン弾きとして名声を得ていたというのも面白いですね。
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