| その後のマキャベリズム |
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マキャベッリの「君主論」など、主要著作が出版されたのは、彼の死後数年経った1532年頃のこと。ローマで印刷本として公刊された。
そして、1572年、フランスで聖バルテミーの虐殺事件が起きる。数千人のユグノー(新教徒)が虐殺された事件である。
この一件の黒幕は、フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスだと言われている。彼女は、マキャベッリが「君主論」を捧げた、あの(小)ロレンツォ・デ・メディチの娘である。こうした関係から、虐殺と「君主論」が結びつけられてしまった。新教徒が虐殺されたのはマキャベッリのせいだ、とする思想家も現れる。
こうしてマキャベッリは、カトリック、プロテスタントの両派から「悪魔」扱いされることになった。
この「悪魔」のイメージに逆らい、再評価してくれたのがフランスの啓蒙思想家たちである。マキャベッリの熱烈な共和主義、法王庁に対する批判精神に共感するところがあったのだろうと思われる。
19世紀になると、国家統一が遅れたドイツ、イタリアで、マキャベッリが再評価されるようになる。
マキャベッリは、外国勢力によるイタリア蹂躙に対し、絶えず危機感を持ち続けていた。ここで、愛国者としてのマキャベッリがクローズアップされる。ドイツ、イタリアのナショナリズムによって、彼の思想が好意的に見られるようになった。
さて、ドイツ、イタリア、そしてマキャベッリとくれば、どうしてもファシズムの台頭を連想しないわけにはいかない。マキャベッリの評判が良かった国でファシズムが生まれ、”マキャベリズム”が実行されたのだから。
かくして、マキャベッリ=「悪魔」のイメージは今も健在。
マキャベッリという人は、生きていた間も不運の連続というか、何とも巡り合わせの悪い人だった。死んだ後の歴史をみても、巡り合わせの悪い人だったとつくづく思う。