その後のマキャベリズム

「悪魔の思想家」の誕生

シニョーリア宮 マキャベッリの「君主論」など、主要著作が出版されたのは、彼の死後数年経った1532年頃のこと。ローマで印刷本として公刊された。
彼の著作には、辛辣な法王庁批判が含まれていた。法王庁としては許し難き書物という感じなのだが、どういうわけか、法王賛同の下で、そのお膝元ローマで出版がなされた。当時はまだ、お気楽なメディチ法王クレメンス7世の時代。まだ、ルネッサンスの風が吹いていたのである。
ところが、次第にマキャベッリに対する風当たりは強くなってくる。宗教改革の嵐が吹き、カトリック側でも改革の必要性が強く意識されるようになっていた。もはや、メディチ家流というか、イタリア的ないい加減さは、金の面でも、思想の面でも許されない雰囲気になっていく。
マキャベッリの著作は、カトリックの聖職者から「悪魔の書」という批判を浴びるようになり、1559年、法王パオロ5世は、ついにマキャベッリの全著作を禁書扱いにするに至った。

そして、1572年、フランスで聖バルテミーの虐殺事件が起きる。数千人のユグノー(新教徒)が虐殺された事件である。
この一件の黒幕は、フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスだと言われている。彼女は、マキャベッリが「君主論」を捧げた、あの(小)ロレンツォ・デ・メディチの娘である。こうした関係から、虐殺と「君主論」が結びつけられてしまった。新教徒が虐殺されたのはマキャベッリのせいだ、とする思想家も現れる。

こうしてマキャベッリは、カトリック、プロテスタントの両派から「悪魔」扱いされることになった。

マキャベッリ再発見

肖像絵 この「悪魔」のイメージに逆らい、再評価してくれたのがフランスの啓蒙思想家たちである。マキャベッリの熱烈な共和主義、法王庁に対する批判精神に共感するところがあったのだろうと思われる。
ルソーは、「社会契約論」の中で、マキャベッリをやけに褒めちぎっている。やや褒めすぎの感があって、見当違いな評価だと言う人も多い。
しかし、ルソーの「社会契約論」は、様々な政治システムを検討しながら自らの政治理論を展開するスタイルがとられているが、こうしたスタイルはマキャベッリの「君主論」「政略論」と共通している。ルソーが、マキャベッリの著作から政治学を学び、新しい思想の着想を得ていたことは確かだと思う。

19世紀になると、国家統一が遅れたドイツ、イタリアで、マキャベッリが再評価されるようになる。
マキャベッリは、外国勢力によるイタリア蹂躙に対し、絶えず危機感を持ち続けていた。ここで、愛国者としてのマキャベッリがクローズアップされる。ドイツ、イタリアのナショナリズムによって、彼の思想が好意的に見られるようになった。

そして、20世紀

第二次世界大戦時の空爆 さて、ドイツ、イタリア、そしてマキャベッリとくれば、どうしてもファシズムの台頭を連想しないわけにはいかない。マキャベッリの評判が良かった国でファシズムが生まれ、”マキャベリズム”が実行されたのだから。
そうしてみると、20世紀の大戦争、大量殺戮も、何となくマキャベッリに責任があるような気になってしまう。歴史は繰り返され、かつての聖バルテミーの虐殺事件のときと同じように、マキャベッリは、再び悪評のつきまとう思想家に転落してしまった。

かくして、マキャベッリ=「悪魔」のイメージは今も健在。
マキャベッリという人は、生きていた間も不運の連続というか、何とも巡り合わせの悪い人だった。死んだ後の歴史をみても、巡り合わせの悪い人だったとつくづく思う。