カンカンカンカンカンカン……。
忙しそうに慌てた看護婦が、目の前を走って通り過ぎて行った。
静か過ぎるほどの静寂の中、その足音は嫌なほど、病院内に響き渡る。
これで看護婦が忙しなく通り過ぎるのは五回目くらいだろうか?
病院内は静かだが、看護婦たちは忙しそう。
それは患者の様態をそのまま示していた。
これで五回目くらいだろうか?
しかし、アルベルトにはその音も、看護婦も目に入らなかった。
彼は今、手術室の前に設けられた長椅子に座り、何とも言えない無力感に身体を震わせていた。
元々、彼に原因がある筈は無い。
彼の目の前で、いきなり彼女は倒れたのだから。
それでも、彼は責任みたいな罪悪感を感じずにはいられなかった。
その時、アルベルトの横に誰かが腰を下ろした。
顔を上げ、そちらを向くアルベルト。
目の前には、無精髭を生やし、優しそうに微笑む男性がいた。
「君が心配することはない。きっと大丈夫だろうから」
アティスの父親だ。
俺を初めて見た時は、少しきつい目で誰だと聞かれた。
アティスの友達だと答えると少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく、そうかと言ったっきり俺の素性を聞こうともしない。
良い人間のようだ。
娘が心配で、それ所ではないだけかもしれないが。
手術室のドアの前で、うろうろしているのは母親だ。
彼女こそ見た目通り、娘が心配で、それ所ではないようだ。
手術室のドアが開いたのは、それから一時間後の事だった。
白衣を着た、二十歳前後の医師が出てきて言った。
「無事ですよ」
と……。
俺を含め、三人とも胸を撫で下ろした。
それを確認すると、医師は無事だという言葉に、「しかし……」と付け加える。
「何か?」
母親が、身を乗り出して聞く。
医師は少し間を持ち、口を開いた。
「手術というほどの事ではない事は、あなた方ご両親ならお分かりでしょう?それよりも、問題は別にある訳ですから……」
その言葉に、父親は黙って頷いた。
俺には何の事だか判らなかったが、それをここで聞く訳にもいかず、黙っている事にした。
「お嬢さんはやはり精神的に病んでいる訳ですので……。我々も出来る限りの事はしたつもりですがね」
「……」
沈黙が廊下を征服する。
それを破ったのは母親だった。
「アティスは……今?」
「今は投与した鎮静剤と睡眠薬で、ぐっすりですよ。起こさないように行ってあげて下さい」
それを聞くと、母親はすぐに手術室に入っていった。
それを横目で確認し、今度は父親に向き直る医師。
「で、お嬢さんの事なんですが、ちゃんと奥さんには話されましたか?」
「いえ……」
力無く首を振りながら言う。
「そうですか」
「まだ助かる可能性は五分五分だ、とか嘘付いてます。話すとあいつまで精神を病んでしまいそうで……」
「……確かにね」
「どうなんですか?実際の所」
「……大変危険な状態、を越してしまってます。前も言った様に、彼女は大変重い自閉症にかかっています。何か行動する度に、精神に鉄球を吊るすようなもの。どんどん彼女の精神は蝕まれていく訳です。それがまた脳に負担をかけているようで……」
「そうですか……」
父親は今にも消えて無くなりそうなくらい、力の無い表情をしている。
これ以上この話しを聞いていて、俺に理解も出来ないし、ましてや、この話を聞いていて何かが変わる訳でもなさそうだ。
俺は、背中に今も聞こえてくる医師の一方的な会話から逃げ出すように、手術室のドアを開けた。
中は、息づかいさえ聞こえるほど静かだった。
大きなベッドの横の机には、銀色の器具がたくさん並んでいた。
見た事のある物もあるが、ほとんどが見た事も無い物だ。
そして、大きなベッドの上には、アティスが安らかに寝息を立てていた。
まるで無垢な天使の様に……。
アティスの母親は、ベッドの横の椅子に腰掛けながら、その寝顔をじっと見つめていた。
彼女は俺の存在を目で確認すると、俺の方に向き直った。
少し震えている様にも見えるその唇がゆっくりと開かれる。
「……アルベルト君、だったわね」
「はい……」
俺も少し緊張しながら答えていた。
握っている手に汗が滲んでいるのが判る。
「私達はね、アティスの本当の両親じゃないのよ」
「……?」
私達、と言う事は、外にいる父親も指しているのだろう。
「本当の、両親じゃない?」
俺にはそのまま聞き返すくらいしか出来ない程度にしか理解できていなかったけど、それでもその意図は通じたかのように、彼女は力なく首を縦に振った。
実際、通じていなくとも彼女は話を進めていただろうが……。
「私達は本来叔父と叔母の存在なの。八年くらい前かしら……。確かそのくらいの時にアティスの両親が亡くなって、身寄りの無いアティスを私達が預かったのよ」
「……」
全てが理解できる訳ではない俺は、静かに聞いているしかなかった。
理解出来たとして、俺が出来る事など、ほとんど皆無だという気もしていた。
「その時からね。もう既に私達が預かったその時からアティスは心を病んでいたの」
「心を?」
「ドクターが言ってたでしょ?自閉症って。あれよ。今でこそマシにはなったものの、最初は何も話さず、ただ虚ろな瞳で何かを見つめていたわ。私達が何を話しかけようとも駄目。ずっと何も話さない。ただ、何処かをひたすらに見つめているだけだった。病院に連れて行って初めて判ったの。目が見えない事と自閉症の事」
「……そんな、でも、俺といる時は普通だったけど……」
そう、確かにアティスは俺と公園でいる時はごく普通に接していてくれていた筈だ。
そんな話、まったく信じられないほどに自然だった。
「だから……、だから君にはアティスの過去を聞いてあげて欲しいのよ。君といる時だけ、アティスは『アティス』でいられるの。お願いね」
「は、はい」
言い終わると、彼女はドアに歩いて行った。
そして、ドアノブに手を掛けながら一言呟いた。
「私達では、あの子の瞳が何を捕えているか確かめる事さえ出来ないから……」
お姫様は今日もベランダで頬杖をついていました。
今日は風が一段と冷たく感じられます。
と、そこに彼がやってきました。
彼は今日も例外なく、一階のベランダまで登ってきました。
そして、また手を伸ばします。
今日は昨日より少し背が伸びたから届くかな?
なんて思いながら。
しかし、届く筈はありませんでした。
あと、三十センチ……。
そう悔やみながら、また彼はあの約束を口にします。
これで何度目か判らない約束を。
大人になったら……大きくなったら迎えに来るから、それまで待っていて。
そう、手の届かない、高い所に言います。
そして、また彼は去って行こうとしました。
しかし、彼は足を止めてしまいました。
彼の足を止めたのは、彼女の反応でした。
いつもは、一言、うん、と言ってくれるのに、今日は違いました。
彼女は何も言わず、力無く首を横に振るだけだったのです。
彼は、そこから動けませんでした。
ずっと、ずっと……。
夜になっても、彼は彼女を見上げたまま、動きませんでした。
彼女も、彼を見下ろしたまま、動きませんでした。
だんだん辺りからフクロウの声が聞こえてくる時間になりました。
普通なら、子供は寝ている時間です。
そんな時間になっても、ふたりは見つめ合っていました。
そして、子の沈黙をお姫様が少し濁しました。
もう、寝ないと……。
その言葉を聞いた男の子の目から涙があふれて来ました。
何故泣いているかは、彼にも彼女にも判りませんでした。
そして、彼は決して届く事の無い場所に一言、こう言いました。
おやすみ……。
「あ、アティス。目が覚めた?」
アティスが目を開いたのは、手術後から約二時間後だった。
外はもうすっかり暗くなっている。
俺も家に帰らなくてはいけない時間なのだが、どうしてもアティスの傍から離れられなかった。
何故だか、今日という時間をずっとアティスの傍で過ごしたかった。
「アルベルトさん、もう、夜ですか?」
「うん……」
安心した。
目を開いた時、どんな風に俺に接して来るのかと心配だった。
アティスが目を開くまでの時間、俺はその事ばかりを考えていた。
大丈夫。
いつものアティスだ。
いつもの……。
「……」
「……」
その会話が途切れた後、部屋は沈黙に包まれた。
俺も、アティスも、何を話す訳で無く、それぞれ思い思いのものを見つめていた。
俺はどうだか知らないが、アティスは凄く儚げな瞳をしていた。
その瞳は、何を映しているのだろう?
アティスの叔母は言っていた。
私達では、あの子の瞳が何を捕えているか確かめる事さえ出来ないから……。
俺なら確かめる事が出来るというのだろうか?
「……あの日、私と、お父さんとお母さんで、森にピクニックに行ったんです」
「え?」
俺は、今までの沈黙を破る突然の音に驚いた。
そんな俺をよそに、彼女は話し続けた。
「緑の道を抜けて行けば、少し広場になった所があるんです。そこでお弁当を広げて、三人で笑って食べて……。楽しかったんです、本当に」
「でも……」
アティスはそこで一度言葉を遮った。
見ると、彼女の表情は酷く強張っている。
それでも、彼女は話を続けた。
「突然目の前にモンスターが現れたんです。父と母は私を背中に隠し、モンスターと睨み合っていました。そしてガアッとモンスターが飛び掛ってきて……。私は怖くて目を閉じていました。そして、目を開けてみると……」
そこまで話して、彼女の身体が震えている事に気付いた。
額に汗を流しながら、それでも話す彼女は、凄く力強くも感じれて、同時に、今にも壊れてしまいそうな弱々しさも感じた。
「父と母は赤い水溜りの上で横たわっていました。そして、そのすぐ横にモンスターの死骸。その後には見知らぬ男が立っていました」
「薄気味悪い笑みでこっちを見て、何処に言う訳でもなく、彼はこう毒づきました」
「ちっ、やっちまった。モンスターを倒す時に邪魔な所にいるからだぜ。一瞬他のハンターかと思って思わず殺しちまったよ。この獲物は横取りされちゃ困るんでな。邪魔する奴は殺すしかねェんだよ。これは良い金になるからな」
「そう言って、去って行きました」
「それから……」
「もう良いよ」
俺はそこで彼女の言葉を遮った。
これ以上彼女に喋らせてたら、本当に壊れて無くなってしまいそうだったから……。
「そう、ですか……」
彼女は少し安心したかのように身体を落ち着けてそう言った。
震えも止まっている。
「叔母さんに言われたんだ。聞いてやってくれって」
「ええ……」
アティスは全てを理解しているかのように答えた。
それが嬉しくもあり、悲しかった。
窓の外を見ると、綺麗な満月が漆黒の中から顔を覗かせていた。
星はあまり見えない。
満月の強すぎる光に、かき消されているのだろうか。
「……眠いですね」
アティスが呟いた。
「寝る?」
「いいえ、あともう少しだけ……」
「……そう」
「……あの、私が前に読んでいた本」
「え?ああ」
公園でいつもアティスが読んでいた本。
どんな本かは、俺には点字が理解出来ないから判らないが。
「あの本、点字じゃなく、普通の文字の方も出版されているそうですから、今度読んでみて下さい」
「……うん」
そう言うと、彼女はゆっくりと目を閉じた。
もう寝るのか。
その時、酷く孤独感に襲われたが、それ自体が何なのか、具体的には判らなかった。
「あの本のタイトル、Good Nightって言うんです。図書館ででも探してみてくださいね」
「うん」
「もう寝ますね?」
「……」
「……」
「……おやすみ」
「えっ?」
短い悲鳴のような声が耳に入り、すぐにアティスを見た。
彼女の、その儚げな瞳から、涙がこぼれていた。
「何で、泣いてるんでしょうね?私……」
「……嬉しいから、とか」
「……そうかもしれませんね」
「おやすみ、アティス」
「おやすみなさい……」
そう言って、目を閉じたアティスは、睡眠薬と鎮静剤で眠っていた時のように安らかに寝息を立てていた。
まるで無垢な天使の様に……。