朝。
柔らかな暖かい朝の光がカーテン越しに部屋に射していた。
いつもなら、ここで彼は日課であるかのようにスッとベッドから降りると、壁に立て掛けてある棒を握る。
しかし、今日は違っていた。
彼は目が覚めても、ベッドの上から微動だにせず、ただ物思いに耽りながら天井を見つめているだけだった。
「アティス……アーシィラ、か……」
彼は、その物思いの中心である人物の名前を、ポツリと呟いた。
彼らは昨日、自己紹介の後で色々な話をした。
最初に話したのは彼女の住んでいる所。
この街は、この公園周辺の中央地区―正確には、この公園の近くに役所があり、そこが中心となっているのだが―を中心に、東地区、西地区、南地区、北地区の四つに分かれている。
中央地区は役所など、行政の施設が集まっている。
北地区は、今も遺跡などが残っており、博物館は勿論の事、美術館、国立の図書館、教会等が並んでいる。
南地区は商店街になっていて、大抵のものはここで揃う。
東地区と西地区は住宅街だが、東地区にはコロシアム、カジノなどの娯楽施設がある分賑やかではある。
西地区は閑静な住宅街と言った感じだ。
ちなみに、いくら住宅街だと言っても、どちらの地区にも病院などの福祉施設は存在する。
アルベルトが住む場所は東地区、彼女は西地区だそうだ。
双方とも、地区に分ければ違うものの、かなり中央地区寄りな場所に家がある。
この公園まで、歩いて15分といった所らしい。
アルベルトの家からも、同じくらいの時間がかかる。
距離的には同じという事だ。
それ以外にも色々と話したが、あまり頭には入っていない。
彼には、眼が見えない人に対する好奇心より何より、優しく見守っていてくれるような安心出来る温かなあの笑顔だけが頭にこびり付いていた。
そして、今日もまた、あの場所に行く事を決意するのだった。
「おはよう、アティスさん」
彼女は今日もそこにいた。
変わらずに、木陰で本を開いていた。
今日もやはり、風が心地良さそうだった。
「おはようございます、アルベルトさん。『アティス』で良いですよ」
彼女の笑顔も、何一つ変わってはいなかった。
昨日と同じ様に優しく包んでくれる。
「でも、呼び捨ては……」
「良いんですよ。歳も同じなんですから」
それを言われて、アルベルトはぎこちなく苦笑した。
ちなみに彼の実年齢は四歳である。
それに比べ、彼女は十三だそうだ。
どう間違おうとも、同年齢である筈が無い。
それなのに、彼女が同年齢だと言っているのは、アルベルトが嘘をついたからだ。
昨日、年齢を聞かれたとき、咄嗟にアティスと同じだと言ってしまった。
同じでありたかった。
もし、あまりにも離れている年齢のせいで、埋めようの無い溝が出来てしまったら、彼はどうしようもない脱力感と後悔、自己嫌悪、無力感に襲われる事だろう。
彼はそれが嫌だった。
この瞬間が好きだったから。
彼女とこうして一緒にいて、話しながら彼女の屈託ない笑顔を眺めるこの瞬間が。
これだけは壊したくはなかった。
何より失いたくないものになっていた。
これだけは『宝物』だった。
「今日は私に構わず練習してくださいね」
その屈託ない笑顔が言った。
昨日は彼女との会話で大半の時間を消費し、槍の練習を棒に振ってしまっていた。
彼女はそれについて、何度も謝ってくれた。
彼にとっては、槍の練習よりも、彼女と話しているほうが良いのだが、彼女が自分に気を使ってくれているという事実が嬉しくて、複雑な気分だった。
結局、彼女との会話は練習の後にまわすしかなかった。
練習の全過程を終え、最後の外周マラソンから帰って来た時、彼女はボーっと空を眺めていた。
木陰で、眼が見えないのに空をひたすらに見つめる彼女はどこか幻想的に見えた。
まるで、空の、その先にある、ずっと先にある何かを見つけようとしているみたいだった。
アルベルトもつられて、彼女が見ている空を見上げる。
「……」
あの空の向こうに何があるのだろうか?
アルベルトには、何の変哲も無い、澄んだ蒼い空に見える。
もしかしたら、眼の見えない人じゃないと見えない、特別な何か、なんだろうか?
そう思うと、少し悔しかった。
「俺達は……違うのかな……?やっぱり……」
その呟きが、意識的にか無意識的にかは、彼自身も判らなかった。
ただ、その疑問が頭の中で虚しく響くと、堪らなく切なくなった。
そして、空を見上げる彼女の表情が、酷く儚いものに見えた。
「アルベルトさん、終わられたんですか?」
さっきまで、空をとらえ様の無い表情で見上げていたのとは対照的に、いつもの笑顔でやんわりと言うアティス。
「え?あ、うん」
アルベルトはそれに曖昧に返事をした。
今の彼の呟きは、何となく彼女にだけは聴かれてはマズイ気がしていたから。
聞かれたかな……?
そんな自問自答をいくら繰り返そうとも、答えなんて出ないし、ましてや彼女に聞く勇気も無いので、すぐに止める。
そんな事より、彼女と話をしたかった。
と言う訳で、彼女にも、自分にも間髪入れずに木陰に入り、腰を下ろす。
「……」
そこで彼女に向き直ると、彼女と目が合った。
彼女はじっと、その色の無い目でアルベルトを見つめている。
アルベルトはまるで何もかもを見透かされているような気になって、顔を赤らめながら口を開いた。
「な、何?」
「……」
彼女は最初、それには答えなかったが、少し間を置いて答える。
「アルベルトさん……こんな事を言うのも、その……何なんですが……」
「?良いよ、言ってくれて」
「そうですか?」
そう言いながらも、彼女の表情から不安が消える事は無かった。
恐る恐るといった感じで、口を開く。
「あの、アルベルトさんは……小柄な方、なんですか?」
「……なんで?」
一瞬、歳がばれたかなと思ったが、彼女の次の発言で、その疑問は掻き消される。
「アルベルトさんが横に腰を下ろした時、こっちに来る風が小さかったから」
「……」
それでも、アルベルトには黙り込む事しか出来なかった。
その沈黙に、彼女の表情は徐々に不安、と言うか泣きそうになっていく。
「あ、あのっ!気に障りましたか?ごめんなさい。私、無神経な事を……」
どんどん声が小さくなってゆく事は、誰が聞いても明らかだ。
アルベルトもそれを感じ取って、慌ててフォローに回る。
「あ、でも本当にかなり小柄な方だから。気にする事ないよ」
「そう、ですか?」
「うん」
「……良かった。てっきり私は……」
「はは……」
はっきり言って、アルベルト自身は素直に笑えなかった。
年齢の問題を、こんな形でも突きつけられる事となったのだから。
そんなこともあってか、彼はすぐにでも話題を変えたい衝動にかられた。
「そう言えば、さっき風って言ってたけど」
その話題変換に、彼女も笑顔で乗ってくれた。
「ええ。私、風を感じる事が好きなんですよ。だからいつもここにいるんです」
そして、空を見上げるアティス。
アルベルトもそれに続く。
「目が見えなくても、他の人と同じ様に出来る事といえば風を感じる事くらいですから……」
「アティス……」
そう言う彼女の表情は、酷く儚いものに見えた。
そう、さっき空を見上げていた時のように……。
「人や風景は皆変わっていくんです。私には、四歳の頃……目の見えていた頃から変わってはいないのに……。いえ、変われない。でも、風は違うんです。ここの風だけは……。同じ土の匂いで、同じ暖かさで、同じ様に包んでくれて……。ここだけは、私と同じでいてくれる」
「……」
アルベルトは、何も言う気にはなれなかった。
やり場の無い無力感だけが、彼を支配していた。
「んぐ・・・ごくごく」
家に帰った彼は、真っ先に牛乳を飲み干していた。
何が何でも、彼女に近づきたかった。
彼女と『同じ』でありたかった。
こんな日々がずっと続いた。
相変わらず、アルベルトが練習を終え、その後木陰で時間を忘れて雑談をする。
そんな日々。
幸せだった。
彼にとって、最高の時間だった。
風の話など、盲目の事実に触れる話をする時の彼女の表情は儚い感じで変わらなかったけど、それでもその後、ちゃんと笑ってくれていた。
それがすごく嬉しかった。
そして彼は帰ると、真っ先に牛乳を飲んでいた。
「おはよう、アティス」
「あ、おはようございます、アルベルトさん」
今日も挨拶は変わらなかった。
アルベルトが息を切らしながらも―彼はいつもアティスに早く逢うために走って通っている―、そんな素振りを見せないように押し隠しながら発する挨拶に、アティスがやんわりとした笑顔で答える。
そして、アルベルトがトレーニングをしている間、アティスは本を読む。
それが終わった後は、木陰で日が暮れるまで会話する。
そんな日々が続いていたし、これからも続くと思っていた。
そして、そんな日々が続く事を切願していた。
彼は、今日も変わらないと思っていた。
風も雲も無い、静かすぎて耳鳴りがしそうなほど、静かな青空だった。
透き通った蒼。
蒼を隠すものは何も無かった。
「……」
ある所に、大きなお城がありました。
そこのお姫様は、いつも何かを待つように、ベランダで頬杖をついていました。
今日も例外ではありません。
そして、今日も、彼女が待ち焦がれていたものが来てくれました。
男の子です。
とてもとても小さな男の子。
彼女とは十歳は離れていそうなくらいに。
それでも、彼女は彼が好きでした。
そして、彼も彼女の事を好きでした。
今すぐここを出て、彼に会いに行きたいのですが、ある理由により出ることは許されません。
彼女は病気だったのです。
外出は許されないくらい、重い病気。
男の子は、いつも彼女のいる二階のベランダまで上って来ようと試みます。
しかし、一階のベランダに着いた所で、足止めを食らうのです。
ベランダの上にある、出っ張ったレンガまであと少しという所で、手が届かないのです。
あと、三十センチ、背が高かったら……。
彼はいつも、悔やんでいました。
そうすれば、君の所に行ける。
そうすれば、君と同じ目線になれる。
そうすれば、君の見ている景色が見れる。
そうすれば……。
そして、彼は今日も一つの約束を残し、去っていくのでした。
大人になったら……大きくなったら迎えに来るから、それまで待っていて。
たった一つの約束。
いつも変わらない、約束。
毎日交わされる、約束。
それは、つたない約束……。
「……はぁ」
そこまで読んで、私は本を閉じた。
理由は簡単、少し休むためだ。
指で突起の連なりから字を読み取り、その字を文に構成し、その文を理解する。
二度手間ならぬ、三度手間である。
目で読むのなら、文を読み取り、理解する、というだけで済む。
三度手間となると、疲労も倍になるわけだ。
そして、そんな時、いつもアルベルトさんが外周マラソンから帰ってくる時間になった。
「あ、アルベルトさん、お疲れ様」
私は、日ごろの経験と息使いでそれを悟り、およその方向に声をかける。
「あ、ああ」
曖昧に返事ともつかない返事が聞こえた。
どうやら方向に間違いは無かったようだ。
風が、こちらに吹き、止まり、今度は横から吹き付けた。
彼が小走りで木陰へと入ったのだろう。
いつも思うのだが、小走りで無くとも良いのに……。
でも、彼のそんな所が、何となく私に自然体を与えてくれているような気がする。
「ふぅ」
彼が息をついた。
汗ばんだ体には、この少し冷たいくらいの風が心地良いのだろう。
私には、少し寒い気もするんだけど。
「ここは涼しいねぇ」
「ええ……」
「ん〜……」
彼が横にいて、風が吹き、共に包まれる。
そんな幸せに、私は浸っていた。
いつまでもこんな事は続くのだろうか?
願わくば……。
しかし、良く考えてみると、ここに彼が来なければ、こんな瞬間は無かった事になる。
大体、私は目が見えなくなって少し経ってからここに通うようになったが、彼と出逢ったのはつい最近の事だ。
それまでは、私は独りだった。
ある日突然、彼が槍術の練習をしていたんだ。
彼は何故、槍術の練習を始めたんだろうか?
「そう言えば、アルベルトさんは何故、槍術の練習をしているんですか?」
そんな事を考えていると、いつの間にか、口に出していた。
「……」
沈黙。
考えているのか、声が届いていないのか、かなり不安になる瞬間だ。
小さくではあるが、う〜ん、とか考えているような声が聞こえたから、多分考えているんだろうけど。
それでも、あまりに時間が掛かりすぎると不安になる。
しかし、彼が答えるのに、時間は掛からなかった。
彼は嬉しそうにその動機を口にした。
「俺、ハンターになりたいんだ」
「……ハン…ター…?」
私はそこで怪訝な表情を浮かべた。
ハンター。
忘れていた名前。
忘れようとしていた名前。
彼との時間のおかげで忘れていられた名前。
何かがドッと、私の中に押し寄せてくる感覚に襲われた。
忌々しい記憶。
薄気味悪い笑み。
紅く光る刃。
血の匂い。
そして……。
―そして私は、大切なものを失った……。
「あっ……」
私の口から、小さく声が漏れた。
それと同時に、頭が大きくゆれ、重心が一気に前に向き……。
「アティス?アティス!アティ……」
頭の中で、彼の声がくるくると、まるで永遠であるかのように回っていた。