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Stalemate

浅桐静人

 メロディは未知なるものに好奇の目を輝かせていた。夜鳴鳥雑貨店の棚の上に置かれた、黄色と茶色の市松模様と、その上に乗っかっている小さな彫刻。白いのと黒いのが同じ数だけ向かい合わせに立っている。
 いろんなものが雑多に並べられた店内の中で、ひときわ高級感のある一品だった。もっとも、メロディがどう感じているかは定かではないが、メロディは無性にそれに触りたくなった。店の奥に足を踏み入れて、そっと手を伸ばす。
「ちょっと待った」
 この店の店長が行く手を阻んだ。
「まさか、こいつで爪を研ごうってんじゃないだろうな」
「メロディ、そんなことしないよぉ」
 メロディはやや冷たい眼差しで抗議するが、意に介せず「そうか、ならいい」とだけ言って狭い道を空けた。雑貨店の商品で爪を研ぐ、そんな非常識なことがあるわけないと思うかもしれないが、メロディには前科があるのだ。どうも、爪がかゆくなると理性を失うことがあるらしい。あのときは止めたって全く聞かなかった。
「ふみぃ」
 そーっと盤をひっぱり出す。少し埃をかぶったそれをじっと眺め、
「これ、なぁに?」
 初めて、これが何であるか知らない意を表明した。どこかで似たようなものを見たような記憶はあったが、名前や用途は知らなかった。
「チェスでしょ」
 メロディの足下から、不意に女の子の声がした。
「み?」
 驚いたメロディは、ふさふさの手を盤に引っかけて、乗っていたチェスの駒をばらまいてしまった。そして、散らばった駒は、当然、
「わっ、痛い」
 足下でかがみながらマジックアイテムを探っていたマリアに降りそそいだ。果てには、盤までもが頭上に落ちた。
「痛い……」
 こればっかりは本気で痛そうだった。
「ふみ、マリアちゃん、ごめんなさい」
 これがメロディ以外なら怒鳴りつけてやるところなのだが、メロディの声で素直に謝られては怒鳴るに怒鳴れない。
「気をつけなさいよ、ったくもー」
「はーい。ところで、チェスってなんですかぁ?」
「ゲームの一種だよ。マリア、やり方は知らないけど」
 次の言葉を出すのを、マリアはためらった。チェスと言えばエル。エルと言えばエルフ。エルフと言えば魔法。魔法と言えばマリア。そして、エルとマリアと言えば犬猿の仲。お互い、心から嫌っているわけではないのだが。
「そういえばぁ、エルちゃんがちぇすってゆーのをすきだっていってた」
 しかし、マリアが嫌々彼女の名を口にする必要はなかったようだ。
「それじゃー、さっそくエルちゃんにおしえてもらいに、しゅっぱーつ!」
 勇んで雑貨店を後にしようとしたメロディは、またもや雑貨店の店長に行く手を阻まれた。
「落としたら、買っていけとは言わんが、せめて元の場所に戻しなさい」
「ふみゅう、ごめんなさーい」
 メロディは、細かな手作業に向かない猫手で一生懸命駒を拾い集めて不格好に並べてから、やっとのことでエルのいるマーシャル武器店へと向かった。

「話は分かったけど、なんでアンタが一緒にいるわけ?」
 突然のメロディの訪問の理由を聞いたあと、エルはメロディの後ろでさも当然といったように立っているマリアに声をかけた。
「別にいたっていいじゃない。ただ、なんとなくおもしろそうだったから来ただけだよーっ」
 マリアは舌を出して、嫌な態度を露わにする。
「ま、マリアなんて別に何してようが構いやしないさ」
「なによぉ、エルが聞いてきたんじゃない」
 マリアは露骨に無視しようとするエルに腹を立てるのだが、エルは自らの態度を改めようとはしない。
「で、チェスを教えてほしいだって?」
「ちょっとエル、マリアの話を聞きなさいってば!」
「ふみゃあ、そうなのぉ」
 とは言っても、メロディはマリアに賛同しているわけではなく、教えて欲しいのかというエルの問いに答えているだけだ。
 マリアの怒鳴り声をBGMに、エルとメロディの会話は進み、最終的にメロディの要望は叶えられることとなった。
「相手もいなかったことだし、メロディに教えるのもおもしろいかもね」
 そう言って、エルは自分のチェス盤を持ってきた。メロディが雑貨店で見たものよりもひとまわり大きく、作りもしっかりしている。チェスという趣味に対する、エルのこだわりだ。縦横各45センチ。1マスの対角線の長さとポーン(卒)の高さが同じで、1辺はポーン2つ分。キング(王)はきっちり10センチだ。いわゆる公式サイズなのだ。
「それじゃ、全然知らないってことだし、駒の動かしかたからはじめるとするか。まずこのポーンだが……いや、こいつはちょっとばかし特殊だから後にするか。じゃあまず、キングからだな」
 盤上にキングひとつだけを置いて、進める場所を指示する。すると、エルの予想より遥かに早く、メロディは納得した。
「おーしょーとおんなじ」
「おうしょう? ああ、将棋の王将か」
「えへへ、メロディ、しょーぎならまけないよぉ」
 チェスと将棋は、ルールの相違はかなりあるのだが、ルーツは同じだ。自分では将棋がけっこう上手いと思っているのなら、意外とチェスでもそれなりに見込みがあるのかもしれない。
「将棋を知ってるんなら説明も減らせるな。このルーク(城)ってのが飛車で、こっちのビショップ(僧正)は角行と同じだ」
「るーくがひしゃで、びしょっぷがかくなの? わっかりましたぁ。それじゃあ、このおうまさんはけいまなの?」
 メロディがナイト(騎士)の駒をひとつ掴んで盤上で桂馬跳びさせてみせた。
「まあ、似たようなものだな。ただし、前側だけじゃなくて、横にも後ろにも進めるけどな。あとはクイーン(女王)だが、これはルークとビショップを合わせたってとこだな」
「くいーんがひしゃとかく。うみゃあ、わかったのぉ」
「最後にポーンか。こいつは前に1歩だけ動けるんだが……」
「ふみぃ、ほへいとおんなじ」
「ただし、最初だけは2歩動いてもいい。あと、他の駒を取るときは前じゃなくて、斜め前のを取るんだ」
 メロディがすぐに理解するので、手短に説明すればいいかとエルは思っていたのだが、ポーンの動きはもうちょっとゆっくり説明するべきだったか。
「ふみぃ、メロディ、よくわかんないのぉ」
「ああ、悪い悪い。とにかく、初めて動くときだけは1歩か2歩か、どちらか好きな数進めるってことだ」
「さいしょだけ、ふたつうごける」
「そうそう。あと、相手の駒を取るっていうのは、将棋知ってれば分かるよな?」
「はぁーい、しってまーす。とったこまは、すきなときにつかえるんだよ」
「いや、チェスでは使えない。取ったらそれで終わりなんだ」
 メロディは少し首を傾げたが、チェス盤に乗った駒とエルの顔を見比べているうちに納得した。将棋の駒は向きを変えたら敵味方が変わるが、チェスは白と黒の戦いなので、ひっくり返して区別することはできない。
「それで、ポーン以外は将棋みたいに駒を取れる。だけど、ポーンは前じゃなくて、斜め前のを取って進むんだ」
 こんどは口だけじゃなく、駒を手にとって動かして教える。エルは、まだ分からなくても仕方ないと考えていたが、
「みゃあ、こんどこそわかったのぉ」
 正直、エルはメロディの理解力に驚かされた。将棋がうまいというのも、あながち嘘ではないかもしれない。(もっとも、どちらにせよメロディ自身は嘘をついているつもりはないのだろうが)
 この後、メロディは、アンパサン(ポーンが一度に2歩動いて隣の列のポーンとすれ違おうとした直後、相手側のポーンは「ポーンが1歩しか動かなかった」とみなし、そのポーンを取って斜め前に進めるというルール)やキャスリング(キングとルークが一度も動かず、その間に駒がない場合、キングがルーク側に2歩、ルークがキングの元位置と動いた後の位置の間に動くという動作を一度に行うこと。ただし、キングの移動経路に敵の駒が利いているとダメ)さえも、あっさり理解してしまった。
「エルちゃん、どうもありがとーございましたぁ」
「別に礼なんかいいさ」
「そうそう。こんなやつに礼なんて……いったぁい、何するのよ、エル!」
 余計な事を言ったマリアに、エルのげんこつが飛ぶ。それ以上の反応はない。無意識ながら、メロディの目を気にしていた。
「それでは、さよーならーっ」
 メロディは元気良く駆け出していった。気にする物のなくなったエルは、頭を押さえているマリアを視界に入れる。
「で、お前はいつまでそこにいる気なんだ」
 言いながら振り返ると、意外にもマリアはチェス盤を眺めていた。
「あん、オマエもやりたくなったか?」
「そんなんじゃなくて、ただ、メロディってすっごく物覚えいいなあって」
「そりゃあ、マリアの物分かりの悪さは一級品だからな。余計にメロディがよく見えるんだろ」
「全然関係ないでしょ、それはっ! それにそのセリフ、そのままそっくりエルにお返ししてあげるんだからね」
「なんだと」
 メロディのいなくなって、この場に残るのはエルとマリアの二人だけ。となると、後は悪口の応酬が飛び交うばかりだった。

図:駒の初期配置
         
         
         
         

上側が黒、下側が白。 :キング、:クイーン、:ルーク、:ビショップ、:ナイト、:ポーン。
左列から順に、a列、b列……h列。下行から順に、1行、2行……8行。

 数日後。
「ふみゃあ、こんにちはなのー」
 そう言いながらマーシャル武器店の扉をくぐったのは、言うまでもなくメロディだ。
「まだ朝だぞ」
 特に不機嫌というわけでもないが、抑揚のない声。むろん、エルが朝に弱い体質というわけでもない。
「それならぁ、おはよーございます!」
「ああ。で、今日は何の用だ、メロディ」
「それはぁ……チェスをさしにきましたぁ! エルちゃん、おしごとちゅうですかぁ?」
 店内にマーシャルの姿が見あたらないことに気づいたメロディは、少し不安になった。
「そうだ」
 エルはあっさりと答える。
「まあ、ここを離れるわけにはいかないが、それでもいいのなら相手になってやるぞ」
 ぱっとメロディに明るい表情が戻る。エルにしても、チェスの相手がいなくてつまらないと思っていたところなのだ。一人きりで局面を考え、筋を考えるのもチェスの楽しみのひとつだが、やはり対局相手がいないと物寂しい。
 互角の相手が最高ではあるが、そこまでは望みすぎだろう。実力に格差があっても、趣味が同じ友達がいるというのは嬉しいことだ。
「きょうはぁ、メロディのをもってきましたぁ」
 エルが首を傾げたが、メロディが手に持っているものを見てすぐに納得した。それは、少し小さめのチェス盤だった。
「結局それ、買ったんだ」
 今までどこにいたのか、マリアが会話に加わった。
 メロディのチェス盤が夜鳴鳥雑貨店に置いてあったものだと知っているのは、おそらくメロディ自身とマリアだけだった。
「みゃあ、ゆらおねーちゃんにかってもらったの、だーっ!」
「へー、あの由羅がねえ。……で、オマエはいつからそこにいたんだ?」
 感心しながら、訝しげな表情でマリアを睨む。
「ぶー、『ふみゃあ、こんにちわはなのー』って頃からいたよっ!」
「そうか。メロディに隠れてちっとも気づかなかった」
 ちなみに、メロディとマリアの身長は1センチしか違わない。ただ、マリアのほうがかなり細くて軽い。マリア自身、そのことを少しばかり気にしている。
「何が言いたいのよ」
「さあね」
 エルの態度は気に入らないが、今はこれ以上突っかかったら余計に腹が立ちそうだった。マリアはぷいっとそっぽを向いた。
「それでは、さっそくスタート、なのだぁー」
 メロディの声につられてチェス盤を見たときには、すでに駒が初期位置【→上図参照】に配置されていた。少し雑ではあったが、メロディの手では仕方ない。
 メロディは、そのやや不器用な手で、ポーンをくいっと突き出した。いつの間にかメロディが白(先手)になっていたが、あえて詮索はしない。今は勝敗というより、メロディがルールを覚えているかが一番の問題なのだ。
 エルも、熟考せずに無難な手筋で駒を動かしていく。それでもやはり初心者と熟練者、あっさりと白のキングが追いつめられていく。早い段階でキャスリングされているものの、それだけでは勝てるはずもない。
「うみゅ〜、とーりょーなのぉ」
 場は、残り三手で確実に決着の付く状態だった。ここからチェックメイト(詰み)までの全パターンを、既に頭の中にイメージしていたエルは、メロディの投了(負けを認めること)に、少しだけ驚きの表情を見せた。
「へー、ここからは負けるしかないってのが分かるのか。ルールも間違って覚えてるところはないし、なかなか見込みがあるんじゃないか?」
 そう賞賛するエルの視界を遮るように、マリアがチェス盤を覗き込んだ。しばし戦局を眺めたあと、訳が分からないというふうに首を傾げた。
「これで終わりなの?」
 エルは、そう訊ねるマリアに軽蔑の眼差しを送った。
「メロディは、こいつに比べたらよっぽど賢いみたいだな」
「なによー、マリアはチェスなんてほとんど知らないんだから当たり前じゃない!」
「だったらアタシとメロディの対局なんか見てたって、何も分からなくて、おもしろくもなんともないんじゃないのか? それにしちゃ最初から最後までじっくり見てたみたいだが」
「うっ……」
 四つの年の差か、種族の違いか、そんなことはあんまり関係ない気もするが、とにかくエルのほうが相手の心を読む能力に長けているようだ。怒りやすさは同程度……いや、最近ではエルに進歩が見られるが、マリアのほうは全く変わらないのでマリアのほうが上か。
「ふみぃ、エルちゃん、もーいっかいなのだぁ」
「ああ、分かった」
 第二戦は、さっきよりちょっとだけ長引いた。とは言ってもメロディはまだまだエルの比ではない。一回目よりすこしだけ粘ったというくらい。たったそれだけ。
 たったそれだけだが、メロディの成長には目を見張るものがある。
「ふみぃ、エルちゃん、もーいっかいなのだぁ」
「ああ、分かった」
 さっきと全く変わらない応答で、次の対局へと進む。
「はあ、つまんないなあ」
 端から、チェスの知識なしで見ているマリアにとっては、戦局も読めずにただ退屈を弄ぶだけだった。なんとか駒の動きぐらいは分かってきたが、どちらが優勢だの、どれが好手だのといったことは全く分からない。辛うじて、チェックメイトの状態が分かる程度。
 だが、そもそもチェックメイトになる前に投了で終わってしまうので、やっぱり全然分からずじまいなのだ。
「はあ、つまんないなあ」
 やっぱり同じ独り言を繰り返し、また盤上に目をやる。なんとなく、さっきよりかは白駒も黒駒も少なくなっているような気がするが……。
「みゃ、うごけないのぉ」
 メロディがしゅんとなっていた。一方、エルは驚いていた。
「なに、どうなったの?」
 改めて戦局を見ると、メロディの言うとおり、白の駒はどれも動かせなくなっている。かといってチェックメイトでもない状態。
「ステイルメイトか。引分けだな」
 エルがぽつりと言う。
「ふみ、すているめいと、ひきわけ?」
 すているめいと、すているめいとと反芻し、その意味をつかみ取る。一歩も動けない、でもチェック(王手)はされていない状態。そして引分け。
 エルは、もちろん本気を出しているわけではないが、それでも引分けにまで持ってこられるとは思わなかった。そもそも、ステイルメイトを誘うのは、けっこう高度な技なのだ。
「もう一回やるか?」
 今度はエルのほうから誘ってみる。ひさびさに本気でやってみようか、と。
「おねがい、しまーす!」
 と、先手を打とうとしたメロディを制止して、エルは白黒それぞれ一つのポーンを取って、両方の手に一つずつ握った。
「チェスはこうやって先手後手を決めるんだ。取った方の色で、白が先手、黒が後手だな」
「じゃ、こっち」
 マリアがエルの左手を指さして言った。
「オマエには聞いてない」
「うみゅ〜、こっちなのぉ」
 と、メロディはエルの右手に手を載せた。エルが手を開くと、黒のポーンが顔を出した。
「ほら、やっぱりマリアのほうが当たってたじゃない」
「マリア、チェスは後手のほうが有利だって言われてるんだぞ。まあ、ホントかどうかは知らないけどな」
「……」
 マリアが黙ったところで、今度はエル先手での対局が始まった。今回はエルの思考時間が長い。さっきまでなら即断するところを、十秒くらい悩んでみせる。
「もしかして、本気でやってる?」
「うるさい」
 チェスは最善手、好手、妙手を探すのが醍醐味なのだ。ある意味、勝敗よりも大切だ。メロディは迷いもなくすぐに次の手を打ってくる――それより、駒を動かすのに手間取っている――のだが、まるでフローチャートを見ているかのように、そこそこいい手を打ってくる。
「初心者とは思えないな」
 いつもと変わらないメロディの顔を見ながら、そう思う。やっぱり将棋も強いのだろうか。でもってここで負けたら、「えへへぇ、メロディ、チェスも強いんだよ〜」と公言するだろう。
 立場上、そしてここにいるマリアの手前、負けることは許されない。……と考えること自体が驚くべきことなのかもしれない。
 そんなプレッシャーを感じてしまって、エルは二、三の判断ミスを犯した。「あっと、今のはなし」と言うのも情けないので、次からの対応策を練ることにした。
 戦局は、メロディが若干有利。マリアが状況を読めなくて、本当によかったと感じる。
「うーん、緊迫した戦線」
 マリアのさりげない一言に、エルは一瞬体をこわばらせたが、
「なのかな?」
「うるさい」
 やはり全然分かっていないようだった。とはいえ、以前として不利な状況が続く。が、そこに妙手が浮かんだ。ためらいながらも、すぐに実行に移す。
「み?」
 メロディには妙な手に見えたのだろう。初めてメロディは少しだけ悩んで見せたが、結局エルの読んだとおりに駒を動かした。
「引分けだな」
 今度はエルがステイルメイトを誘ったのだ。
「なーんだ、つまんないの」
 戦局を読めず、結果だけで判断するしかないマリアにとって、引分けは一番中途半端な終わりかただった。
「なかなかいい一戦だったな」
「ふみぃ、メロディもたのしかったのだぁ」
 と、意気投合する二人に挟まれて、結果的にマリアだけが浮いていた。
「つまんないのーっ!」
 誰に対してでもなく、マリアはそう口走った。
 もちろん、エルとメロディはそんな叫びは完璧に無視して、次の対局の約束をするのだった。

「さて」
 他に誰もいなくなったマーシャル武器店で、エルは自分のチェス盤を引っ張り出してきた。
「もっと研究しとかないと、いつかはメロディに負けたりするかもしれないぞ」
 しかも、その「いつか」が、そう遠くないかもしれない。そんな緊張を抱えながら、エルはチェスの関連書籍をいろいろと手にとって、熱心に目を通し始めた。
 負けるかもしれないという焦りよりもなによりも、チェスの相手ができたことが嬉しくて、チェス盤を眺める目が、普段より生き生きとしていた。

「さーて」
 他に誰もいるはずのないマリアの部屋で、マリアはどこからか買いあさってきたチェスの関連書籍を開いた。
「戦局を読めるようになって、エルをバカにしてやるんだから!」
 それだけを思って、読み進める。だが、手に取っている本は、マリアの実力では到底理解できないようなものばかり。マリアには、まず入門書が必要なはずなのに。むろんチェス盤もない。
 ……そして、マリアはものの数分で投げ出した。

「さーって」
 他に誰かいてもよさそうな由羅の家で、メロディは自分のチェス盤を眺めていた。
「またエルちゃんとたいせんするの、だーっ!」
 無意味に声を上げるメロディ。「“だーっ!”はやめなさい」と戒める由羅の姿はない。たぶん、さくら亭かどこかで酒でも飲んでいるのだろう。
 ひとしきり気合いを入れた後、メロディは次の対局に備えて、由羅に買ってもらったお気に入りのチェスセットに息を吹きかけ、丁寧に拭くのだった。

 戦績(エル・ルイス−メロディ・シンクレア)
 エル、2勝2引分け。


あとがき

 ふと本棚にチェスの入門書があったのを見つけ、そのときに閃いたお話です。チェスと言えばエル。で、メロディは将棋ができる。この二人を戦わせれば、それなりにおもしろくなるのでは? という発想でした。
 マリアも出したけど、今回は目立たなかったな。ま、いいか。
 終盤はもともとの構想から、がらっと雰囲気が変わりました。もともとの構想はというと、エルがメロディに負けてマリアに笑われたり、マリアとエルの激戦でメロディのチェスセットを灰にしたり、ぐちゃぐちゃになった武器店を見たマーシャルが愕然としたり……。
 なんかめちゃくちゃになりすぎたので、自制して無難なとこに落ち着けました。
 これを読んでチェスに興味もったりした人がいたりしたら、幸いです。(いるわけねーだろ、と自ら突っ込んでおきます)


History

2000/07/05 書き始める。
2000/07/25 書き終える。

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