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ケーキの浮かぶ日

浅桐静人

 日曜日の夕方、ルシードは皿の上に乗っかったひとつのケーキに視点を向けていた。
 ここは新市街ボジェーロ・スクエアの一角にあるケーキ屋「クーロンヌ」である。値はそれなりにするが、お菓子については絶対に妥協を許さない主人と、看板娘的な存在でもあるリーゼ・アーキスのパティシエとしての腕前が客の心を掴んで、けっこう評判がいい。
 休日は店も混んでいるが、夕方となると空席が目立ちはじめる。この時間だとケーキを食べた後、あまり時間もたたないうちに夕食を食べることになるからだ。
 が、そんなことは全くお構いなしと言うのなら、おすすめの時間帯である。
「お前、今月の給料の何割使った?」
 この上ない幸せをかみしめるようにケーキを口に運ぶビセットを、自分もケーキを食べながらルシードは冷ややかに問いかけた。
 何割というのは、このクーロンヌでという意味を、暗に含んでいる。
「んっとね、八割ぐらいかな。あー、やっぱりリーゼさんのケーキは最っ高だね」
「あら、それは私じゃなくて店長が作ったのよ」
 ケーキを喉に詰まらせて、ビセットがむせかえる。
「何やってんだか。あ、リーゼさん、水かなんかもってきてくれないか」
「ええ、分かりました」
 リーゼが立ち上がると、咳を必死でこらえているビセットが引き止めた。大丈夫だから、そんな必要はありませんとでも言いたげに。
「リーゼさん、大丈夫らしいですから、お気遣いなく」
 ルシードが代弁する。余計なことを、とビセットは思ったが、リーゼさんの前でそんなことは絶対に言えない。
 ビセットの心中を知ってか知らずか、リーゼはくすっと笑った。
「ははは……」
 かのビセットも、クーロンヌの看板娘を目の前にしては一緒に笑うのが精一杯である。かといってそれが悪印象を与えるようなことでないのもちゃんと知っているので、見え見えの苦笑いにはならずに済む。
「それはそうと、お店のほうはいいのか、リーゼさん」
「大丈夫よ、お客さんはあなたたちだけしかいませんから」
 ルシードが店内を見渡すと、自分たちがいるテーブル以外は全部空席だ。あとは、レジで会計を済ませている学生がふたりだけ。
 時間も、もうすぐ夕飯時だ。ルシードは最後のひとかけらを口に運ぶ。
「それじゃあ、俺たちもそろそろ。ビセット、帰るぞ」
「あ、もうこんな時間か」
 ビセットも最後のひとかけらを、やっぱり極上の幸せを感じながら味わった。ちなみに、リーゼが作ったケーキだ。
「それじゃ、リーゼさん、ごちそうさま」
「ええ、またいらしてくださいね」
 ビセットはここの常連だった。最近では、ルシードもそうなりつつある。だが、ビセットには一生勝てそうにない。
 会計でビセットに提示された額は、ルシードの五倍。ビセットにふっかけているわけでも、ルシードだけ割り引いているわけでももちろんなく、ビセットが6個もケーキを食べた当然の代金ということだ。
 常連で、しかも大量に食べていく。これではルシードも敵わない。
「これで給料の九割がここかな」
「よくもそんな恐ろしいことができるもんだ」
 ルシードは、せいぜい一割くらいだろうか。それでも世間一般からは、きっぱりと多いと断言されるだろう。
「オレは大いに満足してるんだから、別にいいだろ〜」
 現に、声は浮かれている。
「ま、お前の金だ。とやかくは言わないさ」

 いつもより少し早めの夕食も、ビセットはあっさりと一人分たいらげた。一人分とは、つまり平均的な分量だ。
「あら、ビセットさん、今日は少なめね」
 育ち盛りのビセットの平均量とは、また違う。ビセットのは、およそ二人分。
「あ、い、いやあ……」
 ごまかそうとするが、
「さっき、ルシードとケーキ食ってきたから」
 とっさに言い訳が思い浮かばなかったらしい。まあ、休日に自分の金でケーキを食べて、何が悪いというわけでもないが。
「しかし、ケーキ食ってよくそれだけ食えるな」
 ルシードがそう言うと、ビセット以外の全員がルシードの手元を向いた。もちろんルシードは、いつもと変わらない分量の夕食を食べ終えている。
「そう言いながら、ルシードさんもちゃんと普通に食べてるじゃない」
 そうだそうだ、と周りが無言でメルフィの意見を支持する。彼女たちは、あのことをまだ知らない。そして、ルシードは“あのこと”を教えた。
「こいつ、6つも食ったんだぜ」

 夕食後、ルシードが部屋でくつろいでいると、唐突に誰かが突入してきた。
「ノックぐらいしろよな」
 ルシードはベッドに横になりながら本を読んでいた。扉のほうには目もくれないが、誰が入ってきたかなど先刻承知である。
 扉を勢いよく、音を立てて開けて進入してくる輩は、うちにはビセット以外にいない。
 当然、そこに現れたのはビセットだと思っていた。無視して読書を続けた。
「おい、ルシード! お前のせいで、っく、なあ、うぐぐぐ……」
 苦しそうなビセットだった。
 どうやら、無理矢理いつもの分量の夕食を食べさせられたらしい。ケーキ6個プラス2人前の食事、考えただけで胸焼けがする。だが、無視した。
「おい、無視すんな! ってなに読んでんだよ」
 あたかも今、ルシードが本を読んでいるのに気がついたという感じだった。自分のことで精一杯だったのかもしれない。
 まだ無視を決め込むルシードの手から、本をかすめ取る。つもりだったが、予想以上にルシードの握力が強かった。
「何か用か、ビセット」
 とりあえずルシードの無視をやめさせるのは成功した。が、怒る気力は残っていなかった。ルシードの勝利。
「さっきからなに読んでんだよ」
「これか、例のおっさんの」
 沈黙。“例のおっさん”とは誰か、ビセットにも通じたからだ。
「例のって、あの?」
「正真正銘、あのおっさんだ」
「あのおっさんのって、つまりその本は……」
「おう、フローネのだ」
 また、沈黙。あのルシードが、よりにもよって彼の本を読んでいることが、言葉も無くすような衝撃だったからだ。表紙にはタイトルと作者の名前、つまり“ニコラス・ピースクラフト”と、当然だが、書かれている。
 しかも、フローネに無理矢理読まされているわけでもなさそうだ。彼の態度は、ルシードが自発的に読んでいる、そう示していた。
「ええーーっ!?」
 ビセットの沈黙は終わった。幸い、ルシードの隣の部屋はビセットのもので、そのとなりはゼファー。即刻で苦情を言いに来そうな3名、つまりメルフィとバーシアとルーティの耳に届くビセットの声は、普通の会話レベルの音量だろう。たぶん。
 大きなリアクションも、ルシードは大げさだとは思わなかった。驚くのも無理はない、そんな感じだった。
「んな驚くようなことか?」
 と、とりあえず言ってみる。自分なら、返す返事はこうだ「ああ、大いに驚くようなことだ」
「まさかフローネの影響で……。いや、ルシードに限ってそんな……。いや、でも人は見かけに……。いや、でもあのフローネの性格を考えると……。いや、だからってそんな……」
 ビセットは放心状態でぶつぶつ言い出した。
「真に受けるなっ!」
 ゆっくりと首をルシードに向ける。ビセットの顔は血の気が引いて、表情はなかったが、数秒たつと血の巡りが戻った。
「そーだよな。んなバカなことあるわけないよな」
 ビセットはオーバーなまでに安堵のため息をついた。そして、今度は思いっきり不思議そうな顔をして訊ねた。
「だったらなんでルシードがそんなの読んでんだよ!」
「ああ、これか。例の俺らをモデルにした退魔師グループってやつ」
 なるほど、と今度はちゃんと納得したようだ。
「で、感想は?」
 興味津々で、緊張しながらビセットはルシードの反応を待った。
 ルシードは黙々とページをめくる。常人では考えられないスピードで。もちろん、ルシードは速読の技能など持っていない。つまり、
「露骨に無視すんな!」
「そんなに聞きたいか、俺の感想」
 不意に問い返され、ビセットは怖じ気づいた。
「なんか、聞きたいよーな、聞きたくないよーな……」
 ルシードはビセットが戸惑っているうちに、
「俺が読んだ中では一番マシだった」
 果たしてそれがいいのか悪いのか。「俺が読んだ中でも最悪だった」よりはマシだろうが。
 よく考えてみよう。ルシードは今までに何冊、かのピースクラフト氏の著作を手に取ったというのだろうか。
「なあルシード、これ以前に読んだのって、何冊?」
 ルシードはきっぱり答えた。
「恐怖の闇鍋パーティー、1冊のみ」
 どうやら、魔物がひとりで闇鍋をつつく様子を描写するよりは、常人に理解できるお話だったようだ。
「はは……帰る」
 戦意も興味も喪失して、ビセットはルシードの部屋の扉を力無く閉じた。すると、大量の食事が胃の中をうごめいた。興味は消えたが、戦意は取り戻された。
「おい、ルシード!」
 ルシードは再び、無視を決め込んだ。

 いつの間にか眠っていたらしい。
 ビセットが五分ぐらい怒鳴っていたのは覚えているのだが。時計に目を向けると、一時だった。
「こんな時間に目が覚めるってのも不思議だな」
 ルシードは仰向けの体を九十度傾けた。
 そこには、ケーキが浮いていた。
「あ?」
 問答無用で、本来空を飛ばない物体が、空中に浮遊している。
「つまり、なんだ。俺は起きたわけじゃなくて、ここが夢ん中ってわけだな」
 その一言で片付けて、また仰向けになって目を閉じた。
 なんとなく、ルシードは虚しさを感じた。夢の中でまで眠ろうとするのか、俺は。考えてみれば妙な話だった。
 ルシードは横になった。飾りの付いた白い三角柱が浮いている。白いのは、表面に塗られたクリーム。ケーキが空気の中を漂っている。
 はてさて、この確認済み飛行物体をどうすべきか。
「どっからどう見てもケーキだよな、これは」
 しかも今日、正確には昨日の夕方、ルシードがクーロンヌで食べたものと同じだった。それが分かったところで、この状況が変わるわけではない。
 無視して寝ようとしても、気になって仕方ない。なんてったって、そばでケーキが地面から数十センチのところに静止しているのだ。無性に気になってしょうがない。
「今日食べたヤツと同じケーキ。もしかして俺に『食え』とでも言いたいのか」
 手を伸ばして口に運べば、万事解決……するかもしれないが、理由もなくそこにあるものを何の疑いもなく食べようと思うほど、人間の頭は単純にはできていない。
 だが、食べなくても、掴んでどこか台の上にでも置けば気にならなくなるかもしれない。ルシードはケーキに手を伸ばした。
 すると、静かにケーキは水平に十五センチ平行移動した。
「……」
 ケーキとルシードの人差し指との距離は、たった1センチ。ルシードがさらに5センチ手を伸ばすと、ケーキは4.5センチ遠ざかった。
「なんだよそりゃ」
 ケーキとルシードの人差し指との距離は、たった5ミリ。ルシードがさらに5センチ手を伸ばすと、ケーキは4.75センチ遠ざかった。
「おいおい」
 ケーキとルシードの人差し指との距離は、たった2.5ミリ。ルシードがさらに5センチ手を伸ばすと、ケーキは4.875センチ遠ざかって、ルシードはベッドから落ちた。
「おわっ、ったたた……」
 ルシードは斜めに天井を見上げた。やっぱりケーキはそこにあった。
「とりゃっ!」
 やけになって手を振り回したが、全く無駄のない動きでことごとく回避され、ルシードの気力が尽きる三十分後まで捕まることはなかった。
 あきらめてからも、空に浮かぶ洋菓子が頭の片隅から消えることはなく、とうとう一睡もできぬまま夜が明けた。

 さっき寝たばっかりのはずなのに。
 ルシードにごたごたと文句を並べた後で、すぐに布団にもぐったのもはっきりと覚えているのだが。時計に目を向けると、夜中の0時半で電池切れを起こしていた。秒針が止まっている。
 さすがに目覚まし時計が止まっていると困るので、電池を入れ替えた。だが、相変わらず今現在の時刻が分からない。
 談話室の時計に合わせようと、お気に入りの目覚まし時計を手にとってベッドから飛び起きた。
 そこには、ケーキが浮いていた。しかも5つ。
「夕方食べたやつから、あの店長が作ったってのを外したやつだな」
 分析終了。
 ビセットは目覚ましを持って部屋の扉を開けた。
「ってぇ、なんでケーキが浮いてんだよ」
 チョコケーキ、イチゴショート、レアチーズケーキ、モンブラン、抹茶ケーキがそれぞれひとつずつ。どれもリーゼさんの手作りのものと見分けがつかない。
 大きさ、形、飾り、雰囲気、彩り、匂い、味、どれをもってしてもクーロンヌの商品に違いなかった。
「なんでこんなとこにケーキが浮いてんだ?」
 ビセットは、空中に静止している4つの三角柱を見比べながら、頭の上に大きな疑問符を浮かべた。
 とりあえず手にとって徹底分析してやろうと、ビセットはイチゴショートに手を伸ばした。
 すると、静かにケーキは水平に二十五センチ平行移動した。
「……」
 イチゴショートとビセットの人差し指との距離は、たった3センチ。ビセットがさらに15センチ手を伸ばすと、ケーキは13センチ遠ざかった。
「なんか不気味」
 抹茶ケーキとビセットの人差し指との距離は、たった2センチ。ビセットがさらに15センチ手を伸ばすと、ケーキは13.5センチ遠ざかった。
「夢でも見てんのかな、オレ」
 チョコケーキとビセットの人差し指との距離は、たった1センチ。ビセットがさらに15センチ手を伸ばすと、ケーキは14センチ遠ざかって、レアチーズケーキとぶつかった。
 よく見ると同時に4つのケーキがぶつかっていて、ぐちゃぐちゃに混ざって、撃ち落とされた小鳥のように床に落ちた。
「うわ、もったいねえ」
 こうなってはさすがに食べられない。ビセットはぶつぶつ言いながら、四色のクリームとクリームチーズの匂いの漂う塊を、片付けてから眠りについた。
 ただ、モンブランはおいしかった。
 翌日、目覚まし時計は約1時間遅れてベルを鳴らした。

 次の日曜日、やはり魔法登録を済ませてから、空席が現れ始めたのを見計らって、ルシードはクーロンヌに入り、ケーキを注文した。
「たしか先週も同じでしたよね」
 ケーキを運んできたリーゼが微笑みかける。
「ビセットさんも。あ、そういえばこの前はもうふたつ多かったかしら」
 ルシードはフォークを構えたまま顔を上げて、
「お前、いつからそこにいた」
「うん、ついさっき」
 いつの間にか、自他共に認めるクーロンヌの常連客がルシードの向かいに陣取っていた。しかも、もうすでにケーキを注文し終えた後だった。さすが、給料の九割をつぎ込むだけのことはある。
「今日はまた一段と少ないじゃねえか」
 ビセットの前にはレアチーズケーキとイチゴショートと抹茶ケーキとチョコレートケーキが並んでいたが、皮肉混じりに言った。
「いや、経済的にこれ以上はちと厳しいかなって」
 つまり、もうすぐ給料の十割をクーロンヌのレジに貢ぐことになるようだ。
 本当にそれでいいのかと問いかけたくなるが、それでいいと返されるのは目に見えている。果たして経済的に余裕があるときはいくつ食べるというのか。ルシードの頭の中では、テーブル中に隙間なく並べられたケーキを満面の笑みを浮かべて眺めるビセットの顔が浮かんでいた。さすがにそれはないだろうと思いつつ、もしかしたらあるかもしれないという考えもよぎる。
 提案したら、「それ、いいね」とでも言われそうだ。
「もし、もしもの話だ」
「いきなりなんだよ、ルシード」
 いつになく真剣な表情で話しかけられ、フォークを持つ手が止まる。沈黙の数秒で、また元気に動き出したが。
「好きなだけ食っていいっつったら、ケーキ何個食べる?」
 真顔でこんなことを訊かれたらどう反応してよいものか。顔は真剣だが、内容は真剣じゃない。……ルシードには真剣なのかもしれないが。
「そーだな」
 やっとその答えを得た。本音を語る、それだけ。たぶんそれで解決する。
「辺り一面埋め尽くされるぐらいのケーキに囲まれるってのもいいよなぁ。そう思うだろ、ルシード。あ? 何やってんだ、ルシード」
 予期した以上の返事に、ルシードは利き手にケーキ皿を持ち上げ、左手にあるフォークを紅茶のカップに浸して茫然自失のていでいた。
「おーい、ルシード?」
「あ、ああ」
 我に返ったルシードは、まず右手でケーキを掴んで一口かじり、紅茶をフォークですくって飲み始めた。ケーキは速くなくなるが、紅茶はいっこうに減らない。
 紅茶が二割ほど消失し、皿を噛んだところで、本当に我に返った。
「ルシード、行儀悪い」
「誰……」
 誰のせいだ、誰の、と言いかけてやめる。言ってしまったらそれこそ馬鹿みたいだ。もっとも、自分のことながら、すでに馬鹿なことだったが。
 ともかく、ルシードがそんなことをやっている間、ビセットは自分のケーキに手を付けず、目を細めて、あるいは点になっていたかもしれないが、それを眺めていたので、ケーキは三つ残っている。
「……リーゼさん、ショートケーキ追加、頼む」
 抑揚のない声で呟く。が、他に客もおらず、しっかりと注文は聞き取っている。
「はい、承りました。次はフォークを使ってお召し上がりくださいね」
 注文しなきゃよかった、とルシードは顔を真っ赤にしてため息をついた。ビセットは盛大に笑いたいところだったが、リーゼさんの手前、少しだけ声を立てるぐらいまでこらえた。
 もちろん、全く笑わないのもリーゼさんに失礼だ、と考えての算段だった。
 とはいえ、頭の中では豪快に爆笑する自分がいる。それを隠すのに必死で、ケーキにはまだ手をつけていない。
 笑いが収まった頃には、ルシードも平常心を取り戻していた。場の雰囲気は、やっといつもの日曜日と同じになった。
 が、それもほんのちょっとだけの時間。
「きゃあっ」
 店中に響くリーゼの悲鳴が、ありふれた休日をぶち壊した。反射的に厨房に駆け込んだビセットとルシードが見たのは、物理的な原因もなく、無生物が空中を動き回る現象。
「ポルターガイスト?」
 ビセットが立ち止まり唖然とする。
「って言うのか、これは」
 ルシードも歩みをやめる。家具などの代わりに、様々なお菓子が飛び回っている。パフェやケーキは言うまでもあらず、チョコやエクレアなど種類問わず、そこにある全ての食べものの群が例外なく浮遊している。
「ルシード、任せた」
 ビセットはあっさりと任務を放棄した。
「おい、なんで俺だけで対処しなきゃなんねえんだ」
「だってオレ、素手だもん」
 武器を持たないビセットにとって、クリームとかそういう類のものは魔物より強敵かもしれない。だが、剣でお菓子を斬りつけるのもあまりうれしいことではない。
 ちなみに、突然のことで魔法許可は取っていないし、今から許可を求めても受理してもらえそうな状況とは言い難い。それでいて、放っておいても処理はブルーフェザーにまわってくるだろう。
 そうこう考えているうちに、チョコケーキがルシードに向かって加速してきた。反射的に剣を閃かせ、一刀両断する。つもりだったが、チョコクリームが飛び散り、ぐちゃっと嫌な音を立ててケーキが床に落ちただけだった。
「もったいない」
「そう思うなら片っ端から掴んで食ってろ」
「やだ。気味悪い」
「でも、こいつらはリーゼさんが作ったんだろ?」
「ええ」
 部屋の外から状況を見守っていたリーゼが頷く。どうしてこんな事態を招いたか、彼女に訊くのはあまり意味はなさそうだ。
 そんなことを考えているうちにも、お菓子は順序よく体当たりしてくる。順序よく……なぜか一気には来ない。
「おわっ! ふー、あぶねぇ。って、おわぁーっ!」
 ビセットは、ちまちまと回避に専念している。
「……てやっ! ……たあっ!」
 ルシードはその都度、剣で斬る。ぐしゃ、ぐちょ、ぐにゅ、と嫌な音がそのたびに耳を刺激する。
 次第に、ずっとこんなことを続けているのと、魔法で一気に片を付けて後で始末書を書くのとどちらがいいかと考えるようになってくる。
「なあビセット、魔法使うか?」
 ふと、何気なしに尋ねる。
「え? いいの? だったら使うぞ、あ、この件はルシードの責任っつーことで、始末書はお願いね。
 おっしゃー、スカー……」
 意気込んだビセットがケーキの大群の中に突っ込んだ。哀れにも、そのまま十個単位のケーキにうずもれてしまった。
「……てやっ」
 ルシードが回し蹴りの反動を利用して飛んできたケーキを斬りつけた。
 色とりどりのクリームにまみれたビセットが、凄まじいまでの形相でそれを睨み付ける。ビセットには4秒か5秒に一度、ケーキやアイスやシュークリームなどがぶつかっているが、もはや気にしていない。
「自業自得だ」
 ルシードが冷たく言い放つ。
「しかも最大級の魔法。お前はここをぶっ飛ばす気か」
 追加して反論を許さない。……つもりだった。
「馬鹿だなあ、ルシードは」
 ビセットはにこやかに笑っていた。誰でもそこに怒りが潜んでいると判る笑顔。いや、潜むというよりはっきり現れているというべきかもしれない。
「オレがそんな魔法使えるわけないじゃん」
 ルシードの動きが止まる。
「……わりぃ」
「言うことはそれだけか、ルシードちゃん」
「そうだな、折角だから怒りをこの浮いてる奴らにぶつけてくれ」
「いよっしゃあー!」
 あっさりと引っかかって、浮遊物体と格闘しだした。
 およそ50個ぐらい倒し、残りがもう数えるほどになった頃、
「って、なんでそーなるんだよ!」
 剣幕は崩れ、場はしらけていた。ビセットもだんだんと場の雰囲気に飲み込まれ、つまり情けなくなってきた。だが、一度煮たった激情はそうやすやすと消え去るものではない。
「遅えよ、気づくのが」
 ルシードの覚めた一言が、図らずも起爆剤となった。
「んだとー!」
 その顔面に、チョコケーキのタックルが直撃する。ぶつかってから気づいたのだから、避ける余裕なんて全くなかった。
 消えつつあった炎が、再点火され、さらに油を注がれた状態になったビセットは、まさに爆発寸前だった。
 それを尻目に、ルシードが最後のアイスケーキに剣を振るった。凍ってるだけあって、さすがに一刀両断。気分のいいラストとなった。
「ふー」
 と一息ついて、気分のいいラストもそこで終わる。
「これだけ戦って、臨時ボーナスも出ないんだよな。まったく、損な役だ」
 ブルーフェザーにとっては、魔法および超常現象に関する事件を解決するのが仕事だ。出来高払いではなく、固定給。つまり、より多くの事件が発生し、解決しようが賃金は増えも減りもしない。
 たとえケーキと死闘を繰り広げ、クリームまみれになって勝利を収めても、悲しさと寂しさと侘びしさと情けなさが入り交じった感情がこみ上げてくるだけなのだ。
「ボーナスは、なくもないですよ」
 ひさびさに聞いたパティシエの台詞。剣について茶色く濁ったクリームを拭うルシードと、全身を色とりどりに染められたビセットが、自然とそちらに目を遣る。
「お礼に、また事務所にケーキをお持ちします。……今日というわけにはいきませんが、さすがに」
 もちろん厚意だし、ルシードにもそれは判っているのだが、
「もうケーキはうんざりって気もするが……、ま、他の奴らは喜ぶな」
 隣では、怒りに震えるビセットがルシードを睨んでいた。
「オレは食うぞ」
 重い声に、確固たる意思がありありと見える。もしかすると、いや、もしかしなくても本気だ。
「あれだけやっといて、よく食う気になれるな、お前」
 ルシードは無惨に散らかされたケーキの数々を横目で見た。鋭い切り込みを途中まで入れられてから潰れたのが数割、あとはケーキの形をとどめていない。一刀両断されたアイスケーキも、半分以上溶けてクリームの上を流れている。
「こうなったら、とことん食ってやる!」
 ビセットの耳に、他人の声など届いちゃいない。
「他の奴らになんかやるもんか、全部オレが食ってやるぅ」
 声はかすれ、目は潤んでいた。ルシード、リーゼ、双方突っ込みを入れるに入れられず、ビセットの愚痴は延々と、閉店時刻の十五分後まで続けられた。

 結局、二日後に届けられたケーキ、しかもビセットに全滅させられないようにと十分な余裕を持って仕入れられたために、その数、四十八あった。
 そのうち四十七個を単身で食い荒らし、白い目で見られながら、事件は幕を閉じた。
 そして、残りの一個をめぐる争い、さらにはたったひとつを残して去ったビセットVS他全員の熾烈な闘いの火蓋が切って落とされる。


あとがき

 浅桐はひとつの後悔を抱え、最後のワンフレーズを打ち込んだ。
「シェール出すの忘れてた……」
 その一言と共に……。
 ひとつの念願は叶えられた。この話を書くに至ったきっかけとは、他でもない、“リーゼ(さん)をSSに出したい”の一念だ。
 まず、BF事務所での話では、登場キャラが多すぎるため書きづらい。(Passport to Sheepcrest参照)
 だとすればクーロンヌを舞台にするのは必然と言えよう。そして日曜日、これも必至のことだろう。ルシード、ビセット、リーゼの3キャラと、いい構成になる。ここまでは問題ない。
 では、なぜバイトのシェールがいないのか。それはこのあとがきの二行目に集約されている。つまり、“忘れてた”のである。
 ……まあ、次の機会にでもシェールには大活躍してもらおう。
 で、今回は“リーゼさんを出す”ことから始まったのだが、その割には目立っていないというかもしれない。が、個人的にはそれで大満足なんです。理由は、リーゼさんは主役ではなく、名脇役のほうがいいと思っているから。
 ぬ、いつの間にか淡々とした解説口調が崩れている。ま、いっか。とりあえず満足なのです。それでよし。(シェール、ごめん)


History

2000/02/25 書き始める。
2000/03/18 書き終える。

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