「おっはよー」
少女は元気よく跳ね起き、部屋の窓を全開にして空気を入れかえた。トリーシャはそこでカチンコチンに硬直した。20秒くらい、言葉もまばたきも、呼吸ですら忘れて外を見続けた。
「はあ、はあ、はあ」
苦しい。息を止めていたのだから当然だ。
「って、どーなってるの!?」
にわかには信じられず、もう一度、外の景色をうかがう。だが、同じ。民家はどれも直方体で、トリーシャの知っている「三角の」屋根はない。しかも、家は桝目のように姿勢正しく並んでいて、ひとつとしてそこからはみ出ているものはない。
道も然り。将棋の桝を分ける線のように、交わるところは垂直に、交わらないところは並行に、精密に延びていた。
「こ、これは夢? そ、そうだ、夢、夢に違いない。んぐーっ」
力の加減もせずにほっぺたを抓って、ねじって、思いっきり引っ張ってみた。
「んくーっ、くーっ、うにゅーっ、うきゅーっ!」
言葉では言い表わせない痛みに、トリーシャは呻いて、目に涙を浮かべる。少しは加減すればよかった。後悔しても痛みは消えない。
だが、百害あったが一利もあって、なんとかパニック状態から抜け出せた。
「落ち着いて考えよう」
とは言ったものの、いっこうにアイデアは浮かばない。
「とりあえず朝ご飯食べてから考えよっと」
そして何も考えずに部屋の扉を開けた。
開けた直後、トリーシャは石段を転げ落ちるように勢いよく転倒した。
「お、お父さん、なにやってんの?」
「ん? ああ、トリーシャか」
「いや、そんなに物腰落ち着かれても困るんだけど……」
トリーシャの父リカルドは、クッションみたいにやわらかそうな、多分二人掛けの椅子に寝転がってくつろいでいた。それがそこにあって当然といった様子で、いちいち驚いているトリーシャとは大違いだ。
「ところで、がらっと雰囲気が変わってしまったようだが、いつの間にここまで模様替えしたんだ?」
何の疑いもない。どこまでこの人は落ち着いているんだろう。ちょっとでも頭をひねれば……ひねらなくても模様替えの域を超えていることは明らかじゃないか。
そんなことをいくら考えていても進展はない。でもってこの父親の性格が変わるわけでもないし。
トリーシャはだんだん自分が馬鹿らしくなってきた。
そう、これは現実で、受け入れてしまえばそれまでじゃないか。深く考えることはない。これが常識だと思えば問題ない。
で……朝ご飯。
「はー、なんかお腹空いた。なんか作ろ」
そう言ってトリーシャは食材のあるべきところに手を伸ばした。だが、手に触れたのは卵やパンではなく、ひんやり冷たい金属だった。
「何これ?」
「何って、冷蔵庫だろう」
「れいぞうこ?」
聞いたことのない単語。例、礼、令、冷……冷たいってことかな。贈、像、象、増、造……造る、かな? 小、娘、子、個、戸、湖、粉、古、虎……何だろう?
とりあえず目の前にある「れいぞうこ」というものは、見た目から察するに、つまりは頑丈な箱みたいなものらしい。でもって、早速開けてみる。
「ひゃあ、冷たーい」
どういう仕掛けか、中は冬のように寒い。大きな氷でも入っているのかと思ったが、そんなものはどこにもない。よく見ると壁の内側から白い煙みたいなものが出ていて、それが中を冷やしているらしかった。
「なんだかよく分かんないけど、とりあえず便利そうだね。で、こっちは」
上下にふたつ開けるところがあって、もう一方を開けてみる。
「うわ、こっちはもっと寒いや」
水が凍る温度。つまり、氷点下!?
「はあ、もう何が何でもいいや。とにかく何か食べれそうなものはあるかな」
とりあえず凍ってるほうは置いといて、前のほうの扉を開けて中身の物色にかかる。
「卵、ミルク、肉、野菜各種、何か透明なもので包んである固形物……これはチーズだよね。うーん、だいたい何でも揃ってるって感じだね」
とりあえず卵とミルクとチーズ。あとはパンがあれば……あ、あったあった。
「手っ取り早くフレンチトーストにしよう」
すぐに調理に取りかかる。調理器具は少し手間取ったが、これはあんまり大差ない。ボタンのついた金属の頑丈そうな箱は何に使うのか分からないが、フレンチトーストには必要ない。
手っ取り早くというだけあって、ものの数分でできあがった。
「お父さん、朝ご飯……って、あれ?」
トリーシャの父親リカルドは、家事はやらないし、もちろん食事も作らない。そういうことはすべてトリーシャの仕事なので、当然、フレンチトーストだって二人分作ったが、
「なに食べてるの?」
リカルドは脆そうな素材でできた器に入った麺を食べていた。
「なにって、カップラーメンだが」
また変なのが出てきた。まあ、カップに入ったラーメンであることは間違いなさそうだが、この男にラーメンを作るだけの家事技術があっただろうか? いや、なかった。あったとしてもめんどくさがって作るはずがない。
ふと机の上に置いてある、紙――じゃないけど、説明できない――でできたふたを見た。何やら調理方法らしきものがかかれていたが、それを要約すれば、
「ふたを開けてお湯を入れて3分。……はあ?」
試しに自分もやってみる。
「お湯を中のライン……これか……に入れて、あとはふたを閉めて3分待てばいいんだね。こんなに簡単でいいのかなあ……」
……
待つこと3分。
トリーシャは恐る恐るふたを開けた。かき混ぜて、やっぱり恐る恐る麺を口に運ぶ。
「あ、意外とおいしい。ちょっと味濃いけど。作るのも手軽だし、けっこういいかもね」
一口で気に入ってしまったらしい。もはやフレンチトーストなど忘却の彼方、冷めてしまうのもお構いなしだった。
「そろそろ仕事にかかるか」
「あ、いってらっしゃーい」
リカルドの何気ない一言に、何気なく送り出そうとしたが、
「仕事にかかる? 出かけるじゃなくて?」
案の定と言うか何と言うか、リカルドは玄関のほうではなく奥の部屋のほうに足を向けた。部屋で何の仕事をするのか気になって、トリーシャはそれについていった。
リカルドが取り出したのは小さなバッグくらいの大きさの、やはり金属のものだった。彼に言わせれば“こんぴゅーた”だそうだ。
「また変なのが出てきたなあ。ねえ、それで何の仕事をするのさ」
「会計、功績の集計、情報収集、会議、他にもいろいろあるが」
「やたらと豪勢な仕事だなあ。それ1つでそんなことできるの?」
「ああ、そうだが」
トリーシャの疑問はほとんど気にかけず、リカルドは“こんぴゅーた”を操る。はじめは全く理解不能だったが、時間が経つにつれだんだんと分かってきた。で、だんだんと飽きてきた。
ひとつあくびをして、
「ちょっと出かけてくるね」
リカルドの返事も待たずに家を出た。
「何か面白いことないかなあ……って、今は何でもかんでも不思議なものばっかりだから飽きないんだけどね。とりあえずさくら亭にでも行こうかな」
さくら亭の方角へ一歩足を踏み込んで、そこで止まる。どう行ったらさくら亭に着くのか分からない。第一、さくら亭が存在するのかどうかも怪しいかもしれない。
四階建て以上の家が規則正しく屹立している。かつてのエンフィールドの面影は残っていないし、もちろん道も全く分からない。
「あー、トリーシャさん」
「あれ? セリーヌさん、どうしたの……って聞くまでもないか」
「買い物が終わりましたので、教会へ帰ろうと思ったのですが、道に迷ってしまったようです」
もともと方向音痴なのに、この特徴のない道。迷うのは言われなくたって判る。セリーヌでなくたって迷う。自分だって迷う。セリーヌならなおさら迷う。
「うーん、教会は……えーと、うちの玄関がこっち向きだから……あっちのほうだとは思うんだけど……」
目に映るありとあらゆるものが今までの記憶と違って、方向感覚も狂ってくる。目の前の建物だって以前はなかったわけだし、教会が記憶している場所にあるという確証はない。第一、セリーヌに正しい方向を教えたからといって、無事に帰れるはずもない。
「あれ? 何の音だろ」
後ろから聞き慣れない音が聞こえてきた。ふっと振り向くや否や、猛スピードで大きな金属の固まりがトリーシャの横を通り過ぎた。
「もー、何がなんだかさっぱりわかんないよ」
「そうですか。困りましたねえ。とりあえず、他の人に聞いてみます」
「うん、そのほうがいいと思うよ」
セリーヌの後ろ姿が高層建築物の影に消えていく。
「だいじょうぶかな……」
誰かがセリーヌを教会まで案内してくれることを祈る。自分自身はさくら亭に行くのを諦め、我が家に戻ることにした。……今出かけたら帰って来れなくなることは必至だから。
2時間後。
トリーシャはすっかりこの世界に慣れきってしまっていた。
「うーん、ここがこうだから、ここは大丈夫、と……ええっ!? ああっ、間違えてたーっ! あー、もー、折角うまくいってたのにー」
“ラップトップ”の“パーソナルコンピュータ”、通称“ノートパソコン”と格闘していた。画面上に映し出されているのは、“オペレーションシステム”に“プレインストール”されているらしい地雷駆除のゲーム画面だった。
地雷の総数は40。チェックは38個。盤面はもうクリア直前だった。トリーシャらしいが、本人にとってかなり悔しいことは明らかだ。
「うーん、もう一回」
「トリーシャ」
誰かが淡々と名前を呼んだ。
「あ、お父さん、いたの?」
呼ばれた本人は、たったの一言でそれを片づけ、地雷処理に没頭した。もちろん、彼女が操っているコンピュータは彼、リカルド・フォスターの所有品である。用途は当然、仕事だ。
「そろそろ代わってくれないか」
「えー。まだクリアしてないのにー」
トリーシャ恨みがましそうに父親を見る。いや、視線はゲーム画面に釘付けだった。
はあ、とため息を吐いて、リカルドは部屋を出た。よほどシリアスな状況でもないと、口論でトリーシャには勝てない。どちらが正しいのかと言えば、リカルドに違いはないはずなのだが。
そしてトリーシャは父親のため息すら聞き逃し、あるいは聞き流し、ゲームに集中する。爆弾はあと8個、7個、……、6個……。
キッチンに戻ったリカルドは、ゲーム関連のファイルは消しておけばよかったと後悔していた。一度見つかった以上、今から消しても遅い。まあ、トリーシャのことだからすぐに飽きるだろうと高をくくって、予定外の暇を過ごす。
自宅勤務は出勤しなくていいし、他人の時間に合わせなくていい。残っている仕事は、まあ、夜中にでも片付ければ問題ない。
「よしっ、クリアーっ」
トリーシャが叫ぶのと、ディスプレイの右下に移る時刻表示が18:00に変わるのとは、1/1000秒くらいしか違わなかった。その文字を見ながら、トリーシャはを時計と一体になったような気分だった。
そして、さらに0.001秒後、トリーシャはその24時間表記を12時間表記に切り替えた。表示設定を変えたわけではなく、頭の中で換算したのだ。18から12を引く、繰り下がりすらない、ちっちゃい子供でも出来る引き算の結果に、トリーシャは狼狽えた。
夕飯の支度してない。
「うー、今からじゃご飯も炊けないよねえ。かといってパンで済ますのも寂しいなあ。てゆーか、食材とかあったっけ?」
まず、夕飯をどうするにしても、何があるか分からない状況。朝見たとき、自分の記憶にあったものと全く違った覚えがある。と言うことは、キッチンに何があるか把握していない。カップラーメンはあったと思うけど。
トリーシャはキッチンを物色しに向かった。
チーン。
「は?」
聞き慣れない音だ。食器とか調理器具をぶつけても、キーンとかカーンとかパリーンとかは鳴るだろうが、おおよそ“チーン”となるものは見当も付かない。
頭の回りにクエスチョン・マークを回転させ、奇妙な物音の主を探る。
キッチンのテーブルには、無造作に並べられた“調理済み”食品が並べられていた。
「トリーシャか。ちょうど夕飯の支度が終わったところだ」
はあ、そうですか。とも言えず、無言のまま椅子に着く。
「これって、全部おと……」
チーン。
問題の奇声にセリフを阻まれ、何とも形容しがたい感覚になるトリーシャ。
その隣で、リカルドが謎の金属箱に歩み寄った。どうやら、あの音はそれから発せられたらしい。リカルドが取っ手を引くと、中から湯気を出しているフライを取り出した。
「まだ少し冷たいな。あと2分ぐらいか」
リカルドが目盛りを2に合わせスイッチを押すと、暗い橙色に発色して、箱の中のフライが回転しはじめた。
(なーんとなく、わかったような……)
トリーシャはその辺に転がっていた袋を手に取った。
『レンジで約5分』
壮大なマジックの種明かしが、あまりに馬鹿馬鹿しかったような、そんな情けなさに襲われた。あの父親が料理を作るという衝撃の現実の秘密は、つまりはこんなことだったのだ。
(一日でまともに料理、作れるわけないよね。しっかし、こんな簡単にできちゃったら、ボクの立場はいったい……。さくら亭とかラ・ルナとか経営危うくないかな)
頭の片隅では批判的なことを考えつつ、視線は目の前の品々に吸い寄せられていく。要するに、トリーシャは新しい物好き、珍しい好きなのだ。
「いっただっきまーす」
何がどんな味なのか見当も付かないものから、適当に食べていく。そのスピードは普段の3倍を超えているかもしれない。その勢いに、父親を唖然とさせながら、着実にテーブルから食品を減らしていく。
「うん……これくらいなら……んぐんぐ……ボクの……んぐぐ……作った……」
「……食べるのもいいし、喋るのもいいが、どちらか片方にしたらどうだ?」
「……んぐぐ……それも……んぐっ!……」
「はあ……」
「ぐはーっ、あー、死ぬかと思った」
案の定、のどに詰まらせた。エビフライとシュウマイとカニクリームコロッケを同時に食べてエビのしっぽをのどに詰まらせるのは、エンフィールドをくまなく探してもトリーシャくらいであろう。
「これくらいなら、ボクの作った料理のほうがおいしいね。これならさくら亭とかもやっていけそうだね」
「その割には食が進んでいるようだが」
「そういえば、満腹になった気がする」
そりゃあ、そうだろう。リカルドの言うとおり、トリーシャは3人前(リカルドはどのくらいの分量を用意すればいいのか掴めていないのだった)の料理を平らげようとしていた。まるでリサだ。
「……気にしない、気にしない。さーて、ゲームの続きやろっと」
と言いつつ、一番気にしているのはトリーシャ自身だったりする。最近は、カロリー控えめ・分量控えめが信条だったから。
「またゲームするのか!?」
「当然っ」
トリーシャはきっぱり断言して、コンピュータのある部屋へ消えた。
リカルドは○イン○ウズ、そして○イクロ○フ○を恨んだ。どうして仕事用のOSにゲームが入ってるんだ、と。
もし、これをトリーシャが聞けばこう言うだろう。「いらないソフトを消さなかったお父さんが悪い」
その晩、ディスプレイの前で眠りにつくまで、トリーシャはゲームをし続けた。リカルドが仕事に取りかかれたのは、3時をまわった頃だった。
「ふあああ……眠ーい……」
4時間の睡眠の後、なんとかベッドから這い上がった。睡眠不足は自分の責任だ。とりあえず朝ご飯の用意だけして、もう一回寝よっと。
トリーシャはいつものように目玉焼きとトーストを並べ、
「ふあー、ボク、もう一回寝るから戸締まりよろしくー」
とだけ伝えて自室に帰った。
カーテンから入る光が眩しい。でも閉めるのも面倒くさくて、何の気なしにぼーっと窓を眺める。道のそばに植えてある木がきれいな緑色をしている。
「はれ?」
寝ぼけながら、トリーシャは昨日の外観を記憶から呼び起こした。高層の住宅、完全整備の道路。緑色なんてどこかにあっただろうか?
そういえば、目玉焼きとトーストなんていうのも作ってたっけ?
リカルドは外へ働きに行くんだっけ?
現実と空想と夢うつつが入り混じったような感覚になったトリーシャは、眠い目をこすりながらキッチンに赴いた。テーブル、椅子、食器棚、たぶん二日前まで当たり前だった物、そして配置。冷凍庫も電子レンジも全自動洗濯機も食器乾燥機もない。それでもって、昨日嫌と言うほど遊んでいたコンピュータも、この家にはなかった。
「なんだかなあ……」
眠いのも忘れ、トリーシャはがっくりと肩を落とした。今日からは昼食も夕飯もちゃんと作らなきゃいけない。洗濯も自分の仕事だ。当たり前にこなしていたはずの家事が、肩に重くのしかかる。
便利には1日で慣れたが、不便に慣れるには何日もかかるのだった。
あーあ、とぼやいていると、扉を叩く音が聞こえてきた。ローラだった。
「ねー、トリーシャちゃん、セリーヌさん知らない?」
「さあ……」
家の前で迷っていた記憶はあるが、こういう境遇にある以上、何とも言えない。もはや、記憶という記憶があいまいで、自信がなくなっていた。
ローラは続けた。
「昨日、買い物に出かけたっきり、帰ってこないんだけど……」
かなり遅くなってしまった。書き始めて、はや1ヶ月、反省。
未来旅行という割には規模があまりに小さかったりするんですが、タイトルと内容のギャップが激しくて、個人的には気に入っていたりする。
今回は全体に関連を持たせることを意識して書いてみました。まあ、あんまり露骨に関連させるのもよくないんで、こそこそとなんですが。セリーヌは伏線、のつもり。
1999/10/09 書き始める。
1999/11/11 書き終える。