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旋律は時を越えて(前編)

浅桐静人

 エンフィールドに涼しい風が吹いた。風は街中を駆け巡り、人々に秋の訪れを告げた。
 暑かった夏もやっと終わりだ。心地よい風に、木々も草も花も揺られている。
 そんなある日の出来事。

 シェフィールド邸の2階から、途切れ途切れのメロディが流れていた。同じメロディを何度も繰り返しては、音が止み、また違うメロディが流れてくる。
 よく聞くと、全く同じメロディはなかった。音、リズム、テンポ、毎回何かが微妙に違うようだ。何が違うかという問いには答えづらいが、確かに違いがある。
 いくらか繰り返すと、今度は、誰でも今までと違うと分かるメロディ。それもまた、1回ごとに微妙に調子を変えては、何度も繰り返す。
 不意に音が止んだ。とはいえ、十数秒。
 その後に流れてきたメロディは、今までのものを順に繋げたものだった。季節の変わり目を表現したような穏やかな曲だ。
 しかし、曲は途中で突然終わった。直後、鍵盤をでたらめに、同時に叩く音。今までの曲を台無しにするような音だった。
 不協和音の後、ピアノの旋律は途切れたままだった。

 部屋には、黒く、重量感のあるピアノが1台。他にはこれといった特徴もないが、ピアノだけで十分な存在感がある。
 シーラは、ピアノのほうを向いた椅子を反転させた。
「うーん、いまいち良くないなあ」
 ピアノにはおたまじゃくしがぎっしり並んだ五線紙が立てかけられている。楽譜は何度も書き直した跡があった。所々、破けてしまっている部分もある。
「悩んでいても仕方ないわ、気分転換にお茶でも飲みましょう」
 ひとつのびをして、キッチンのほうへ向かった。
 まださっきの曲のことが気になって、悩みながら階段をゆっくりと降りる。無意識に足音がリズムを刻んでいた。が、それが災いして、足を踏み外した。
「きゃっ」
 幸い、段数は残り少なかった。
 しかし、シーラはずっと家に閉じこもってピアノを弾いていることが多かったため、運動神経はあまり良くない。というか、悪い。空中でバランスを取りなおすことも、手で体を支えることもできずに、そのまま派手な音をたてて倒れこんでしまった。
「いたたた……」
 立ちあがって、しばらく呆然とする。声はあげたものの、それほど痛いわけではない。痛みに慣れていない人間は、少しの痛みでも大きなリアクションをしてしまうのだ。
 ふっと我に帰り、キッチンの扉を開ける。
「ジュディ、紅茶を……」
 言いかけて、止める。そこにいるはずのメイド、ジュディがいない。そういえば、さっき倒れたときに誰も来なかったのも不思議だった。
「今日って、お休みの日だっけ?」
 壁にかかったカレンダーを見つめて、シーラは首をかしげた。休みの日は、まだ2日先だし、急用があったとも聞いていない。でも、ここにいないものはいない。
「どうしたのかしら、嫌な予感がするわ」
 ぞっと背筋を震わせるシーラ。こういう時の直感はよく当たってしまうことは、シーラ自身が一番よく知っている。
 シーラは不安をかき消そうと、自分で紅茶を入れようとした。
 ティーカップとティーポットを戸棚から取り出し、紅茶の葉をティーポットに……
「何杯入れればよかったかな?」
 普段、こういうことはジュディに任せているので、見よう見まねでやっているのだが、どうしても細かいことは分からない。
「うーん、とりあえず2杯くらいかな」
 考えてもどうしようもないので、適当にしようと決めた。常識的なことをやっていれば、そんなに悪い結果にはならないだろう。
「えっと、お湯は……沸かさないといけないみたいね」
 ポットに水を汲み、火に掛ける。
「あっ、紅茶の葉が湿気っちゃう。ふたをしないといけないわ」
 あわてて葉の入っていた缶にふたをして、ついでに缶を戸棚にしまっておいた。
 ひとつひとつの動作がゆっくりしているため、しまい終わった頃には、もうポットの水は沸騰しはじめていた。
「えーっと、カップを先に温めておくのよね。あっ、先に火を止めないと」
 シーラは、熱湯入りのポットを持ったまま火を止めにかかった。火を止めることに気が付いたのはよかったのだが、
「熱っ!」
 反射的に右手が痙攣する。反射的というか、熱に対する本当の反射だ。左手で持っていたポットに、右手が触れてしまったのだ。
 投げ出しそうになるのをなんとか抑えて、左手にもったポットは机においた。すぐさま右手人差し指を口にくわえる。本当は流水で冷やすのがいいのだが、それは思いつかなかった。
 当然、多少の違和感は残ったものの、熱さからくる痛みはだいぶ引いた。
 やっと思い出したかのように、シーラはお湯をティーポットに注いだ。限界の3分の2くらいまで注ぎ、余ったお湯は捨てる。
「んー、いつもどのくらい待ってたっけ」
 まだ指を口にくわえながら考える。
「あっ、カップを温めるの、忘れてた」
 まあ、温めなくてもそれほど問題はない。紅茶の味にこだわるなら別だが、入れる葉の量もお湯の温度も適当なのだから、いまさらという感じだ。
 数分ぼんやりと待って、ティーカップに紅茶を注ぐ。ジュディがいないと、紅茶を飲むだけでも大変だ。そんなことを思いながら、カップに口をつける。
「……」
 一口飲んで、シーラは硬直した。指先がわずかに震えている。目にはうっすらと涙を浮かべている。
 それほどおいしい……わけはない。
「やっぱり私はこういうことには向いていないのねっ!」
 叫びながらも律儀にティーカップを机においてから、キッチンを飛び出した。
 勢いよく飛び出したのだが、それからどこへ行くべきかシーラは考えた。そして、もう一度キッチンに戻るのだった。

 濃すぎて苦味しか感じない紅茶を、好んで飲もうとする人は、まずいない。少なくともここには。
 今度、ジュディに紅茶の入れ方くらい教えてもらおうと強く思ったが、この紅茶は捨てるしかないことは変わらない。
 シーラは、特大のため息をつきながら、ティーポットを傾けていた。
「あーあ、気分転換にもならないわ。今日は何もしないでゆっくりしましょう」
 普段の何気ない一言に、自分の殻に閉じこもりがちな性格がよく表れている。いつもパティやアレフに指摘されているものの、性格なんてなかなか直せないものだ。
 ぼんやりと窓越しに空を見上げると、落ちついた気分になれる。何の変哲もない、澄んだ青空を眺めるだけで。
 薄くかかる雲や翳る太陽、ありふれた風景が目の前にある。それが一番いいとシーラは思っている。ずっと今のままでいれたらいいなと思う。こうしていると、この時間が永遠に続くような錯覚に陥る。
 シーラは窓を全開にした。部屋の中まで入りこんでくる微風は、心地いい。つい昨日まで夏だったような気がするのに、今はもう秋だ。
 風の音だけが耳に届く。他に音はない。
「あれ?」
 すぐにシーラも違和感に気付いた。あまりに街が静かすぎる。
「何かあったのかしら」
 こういうときの反応は、意外と速い。無意識のうちに足が家の外へと動き出していた。
 それに気付くと、ふと顔を赤らめて、ゆっくりと歩き出した。もちろん誰も見ていなかったのだが。

 シーラはまず、第一の親友であるパティのいる店「さくら亭」に向かった。
「誰もいないわ」
 大衆食堂でもあるさくら亭に人がいないなんて、普通は考えられない。定休日でなければ、たとえ客がいなくてもパティかパティの父親は常にいるはずだ。
 玄関には、営業中の札が掲げられている。
「パティちゃん! パティちゃーん!」
 誰か人の姿を求めて、厨房の奥に叫んだ。しかし、店内は静まりかえったままだ。
 シーラは考え込んだ。考え込んだが、答えはいっこうに出ない。考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。
 ここにいるのは自分だけ。ここにあるのは孤独だけ。あまりに突然すぎる出来事に、涙があふれてくる。
「泣いてる場合じゃないわ」
 そう言いながらも、頬を伝う涙は止まりはしない。でも、ずっと寂しさに打ちひしがれているわけにもいかない。
 シーラは、足をジョートショップへ向けた。

 ジョートショップの扉が、取り付けられた鈴を鳴らしながら開いた。案の定、中には誰もいない。
「アリサおばさま……やっぱり、いないわよね」
 テーブルには、皿が並べられている。それを見て、シーラは、みんなは出かけたのではなく、突如としていなくなったことを確信した。
「アリサおばさまは、後片付けをしないで出かけるような人じゃないわ」
 皿には料理の食べ残しや、かすが残っている。一番散らかっているのは、おそらくテディのものだろう。
 いつものエンフィールドの様子がありありと浮かんでくる。それと、今見ている街をくらべて、はあ、とため息をついた。
「みんな、どこへ行ってしまったのかしら」
 シーラの目は、遠くを見つめていた。しかし、焦点は定まっていない。現実を受け止められない、受け止めたくない気持ちでいっぱいだった。
 みんな、どこへ行ってしまったの? どうして行ってしまったの? どうして私だけを置いて? どうして……
 あてのない疑問はシーラの心の中で何度も繰り返された。その答えが返ってくることもなく、同じ疑問を繰り返した。
 そして、無意識に思ったひとつの疑問によって、シーラは現実世界に引き戻された。
 どうして、私はここに残っているの?
 昨日まではいつものように街は活気にあふれていた。おかしいのは、今日の朝からだ。自分だけ特別な行動を取ったために消えなかったのなら、昨日の夜からやったことを思い出せば、その中に何かが見つかるはず。
 昨日は、特に寝る前に何かをした覚えはない。なら、今日起きてからの行動が鍵だ。
「とりあえず、私の家に戻って考えましょう」

 家までの道のりも、シーラは辺りを見回していた。誰かがいるかもしれないと考えられずにはいられなかった。

 家に帰ってきたシーラが最初に見たのは、キッチンだった。
「あっ、後片付けするの忘れてたわ」
 孤独感も忘れて、後片付けに取りかかった。慣れない手つきで、何度も手をすべらせて棚をひっくり返しそうになったが、なんとか納得がいく状態になった。
「私がやるとすごく手間取るのに、いつもジュディは手早くやっているわ。ジュディってすごいわ」
 人はシーラのピアノの演奏を聴いてすごいと思うが、シーラから見れば、料理だとか後片付けだとかいう家事一般が出来ることのほうがすごいのだ。
 シーラは感嘆の声を上げていた。そして、後片付けに手間取った自分をちょっとだけ情けなくも思った。
「ジュディ……」
 何かを考えるたびに、ジュディの姿が思い浮かぶ。いつも近くにいるはずのジュディ。今は、ここにはいない。
「そう、こんなことしている場合じゃないわ。ええと、あとは私のお部屋を調べなきゃ」
 キッチンに下りてくる前は、ずっと部屋の中にいた。寝ている間に何かをしたとは思えないから、おそらくシーラの部屋に何かがあるのだろう。あるはずだ、あってほしい。
 シーラは祈るような気持ちで階段を上っていった。

 穏やかな風が舞い込む部屋は、今日の朝とほとんど何も違わない。風向きも家具の位置も黒いピアノも、当然だが、朝とまったく同じだ。
 シーラは、朝と違ったものを探した。
「朝起きて、朝食をいただいて……」
 今日、自分がとっていた行動を再確認するように呟いた。
 朝起きてから、何をしていたっけ?
 そう、今日は朝からずっと曲を作っていた。はかどらず、ただ時間だけが過ぎていった気がする。次に何かをしたときは、もうこの事態の中だ。
 シーラは部屋を見渡した。肩を風が流れていく。長い髪がなびくぐらいの風だった。普通ならば心地よい秋風も、真夏の風に匹敵するほどうっとうしく感じてしまう。
 シーラはとっさに窓を見た。自分で開けた覚えはないが、全開だった。言うまでもなく、風はここから入ってきている。
 とりあえず窓を閉めようと窓際に立つと、異様な光景が眼下に広がった。2階から見渡すエンフィールドの街並みは、相変わらず静まり返っている。
 異様な光景に向かって、楽譜が飛んでいく様子が脳裏に浮かんだ。直感だ。何かを考えたわけではない、突然ひらめいた。
「楽譜、楽譜がないわ」
 ピアノに立てかけてあったはずの楽譜がない。風に飛ばされたのだろうか。
「もしかして、外に?」
 もう一度、シーラは窓を開け放った。風がシーラを包み込んだ。これほどの風なら、紙を飛ばすことくらい容易いだろう。
「探さなきゃ」
 シーラは階段を駆け下りて扉を開いた。
 目の前にあったのは、もちろんいつものエンフィールドではない。それどころか……
「これは、どういうことなの?」
 唖然とするのも無理はない。扉の向こう側には見知らぬ世界があった。
 パステルトーンの空、その空へ繋がる道、それを別世界と言わず何というのだろうか。
 シーラは、最初、夢かと思った。夢であってほしいとも思った。だが、頬をつねれば痛みを感じるし、目に映る光景は、夢であるにはあまりにはっきりしすぎている。
 シーラは一歩、不思議な空間に足を踏み込んだ。なぜかこの先に何かがあると思えてならない。また一歩、足を前へ進ませた。
 進んでも進んでも、景色が変わらない。まるで無限の闇のようだ。それでも足を止めることはしない。前へ進んでいれば、いつかはどこかにたどり着くはずだ。

 シーラは延々と歩き続けた。状況は依然として変わらない。もはや、進んでいるのか戻っているのかだって分からない。
 心は不安でいっぱいだ。掻き消そうとしても、だんだんと、そして確実に不安の渦に巻き込まれていく。
 そんな中、
「音がするわ」
 シーラの鍛え抜かれた聴覚が微かな空気の振動を捉えた。耳をすませると、音が何らかの曲を構成していることが分かる。
 初めて聞く曲。それでも聞き馴染みがあるような気がする。そんな不思議な曲だった。


 シーラは音のする方向に向かって歩き始めた。
 だんだんと音が近づいてくる。それだけで、前に進んでいるという確信が持てる。シーラは俄然やる気を出して進んでいった。
 音はだんだん大きくなって、耳をすまさなくても聞こえるようになる。旋律は、確かなものに変わる。
「この曲、どこかで聞いたことがあるような気がするわ。でも、思い出せないわ」
 なんとなくそんな気がした。曲は知っているのかもしれないが、音を奏でる楽器はシーラにも分からなかった。
「何かしら。聞いたことのない音色だわ。弦楽器でも管楽器でもないみたいだし」
 疑問を抱きながら、一歩一歩、確実に音に向かって進んでいく。
 音がすぐ近くに感じられる一歩手前というところで、突如、音が止み、視界が光でいっぱいになった。

 とっさに腕で目を覆ったが、強烈な光は一瞬だけだと分かり、目を開けた。そこには見慣れたエンフィールドの街並みがあった。
 振り向けば、ちゃんとシェフィールド邸がある。さっきの変な空間は跡すらない。そして、
「ジュディ!」
 目の前にジュディがいる。だが、ジュディは動こうとはせず、表情も薄く笑みを浮かべたまま変化の色を見せなかった。
「どうしたの、ジュディ」
 シーラが近づいても、何も変わらない。まるで精巧に作られた人形か彫像のようだ。それに触れると、確かに体温が感じられる。決して人形なんかじゃない。
「ジュディ、ジュディ!」
 目に大粒の涙を浮かべて、大声で何度もジュディの名を呼んだ。
「お嬢様、どうなされました?」
「えっ!?」
 不意の返事に驚く。見ると、ジュディは何事もなかったかのような表情で首をかしげていた。シーラはしばらく声を出せなかった。
 しかし、ジュディには、シーラがなぜ驚いているか分からない。さっきまで自分がどういう状態だったかなど知らないのだ。朝起きて、ここを掃除していたという記憶があるだけだ。
「あれ? さっきまで街にいたのは私だけで、他に誰もいなくて、変な場所を通ってたら曲が聞こえてきて、気が付いたらジュディがいて、でも、ジュディは動いてなくて……」
「よく分かりませんが……」
 混乱するシーラと困惑するジュディ。不調和な空気が2人を取り巻く。
「そうだ! みんなは?」
「みんな?」
「いいから、外へ」
「は、はあ……」
 ふと思い立って、シーラはジュディの手を引いて街へ駆け出した。
 なんにせよ、ジュディはここにいる。とすると、街の人たちもいるかもしれない。
 自分が見た光景、自分だけが持つ記憶、それが幻であると片付けられてしまうのは納得がいかないが、孤独よりは遥かにましだ。
 みんながいつもと何ひとつ変わりない表情で自分に話しかけてくれれば、今はそれ以上に求めるものはない。
 人たちが、もしかするとさっきのジュディのように身動きひとつしない状況かもしれないが……
 家の外に出た2人が見たものは、いつものエンフィールドの街を絵に描いたような風景だった。まさに、絵に描いたような。
 予感は的中した。小さな期待と、悪い予感、その両方が。

 この状況を見て、どちらのほうがショックが大きかったかと言えば、答えあぐねる。
 ジュディは目の前の光景が信じられず取り乱し、シーラは期待を打ち砕かれて座り込んでしまった。
「お嬢様、これはどういうことなんです?」
「私に訊かれても困るわ。私が知っているのは、さっきまで街には誰もいなかったことだけ。あとは、知らないわ」
 ジュディがいるため、落ちついた様子でシーラは話す。1人のときよりは冷静に物事を見ることができる。
 しかし、にわかには信じがたい状況であることには変わりない。
 シーラは、さっきジュディにしたように街の人に触れてみた。だが反応は無い。どうしてジュディだけが元に戻ったんだろう。
「あの、お嬢様」
「えっ? なに?」
「少しばかり気になっていたのですが……」
 ジュディは、シーラをこれ以上不安にさせないように穏やかな口調を心掛けて話した。何かに気付いた、そんな様子で。
「皆様が止まっているというよりは、時間そのものが止まっているようですが」
 はっとシーラは空を見上げた。
 薄い雲は動こうとしない。そういえば、あれだけ吹いていた心地よい秋風も、今は全く感じない。ジュディの推測はおおかた当たっているのだろう。
 どうしてだろう。時間の停滞の中で、自分とジュディだけが時間軸を移動している。動いていないはずの時間軸を進んでいる。
「時間……。なにか手がかりになるもの、あるかな」
 誰ともなく、シーラは言葉を洩らした。
 落胆を必死に隠そうとするジュディの様子に、いつしかシーラも自分を取り戻していた。今、何ができるだろう。どうすれば止まった時間を元に戻せるだろう。
「もうちょっと、街を歩いてみましょうか」
「ええ、そうね」
 シーラの独り言をジュディは聞いていた。シーラが落ちつきを取り戻したらしいことに気付いて、ジュディは安心した。
 手がかりは、きっとどこかにある。

 街を歩こうとすると、ついさくら亭に足が向かってしまうのはどうしてだろう。今日の朝もそうだった。さくら亭の前でふとシーラは考えた。まあ、これといって当てがあるわけでもないのだから、どこでも構わないわけだが。
 とりあえず、シーラは『営業中』の札がかかっている扉を押した。
 いつもならカランカランと鳴り響くはずのカウベルの音も、カツッと音を立てただけだった。押された反動で扉が元に戻る様子もない。
 時間の停滞を証明する、小さな出来事だった。
 さくら亭の中は、人でいっぱいだった。しかし、そこにいる誰もが人体模型と化しているのだから、異様の一言では済まされないものがある。
 パティでさえもそうだ。今にも動き出しそうな親友が目の前にいるのに、言葉を交わすこともできない。
「お嬢様、こういうときは魔術師組合のほうがいいのではないでしょうか」
「そう、ね」
 シーラは動きの無いパティを振りかえりながら、さくら亭を後にした。

「どなたか、いらっしゃいませんか?」
 どんどん、という音とジュディの声だけが存在する。それに対する返事も、他の物音すらもない。
 魔術師組合。普段は追い返されるのがオチだろうが、今日ばかりは彼らとしてもそうはいかないはずだ。時間の停滞という状況が軽く見られるはずがない。となると、返事がない、イコール、彼らの時間もまた、停滞しているということだろう。
 魔術師たちでも逃れられない現実。その中に、ただ自分たち2人だけがいるのだ。誰かに頼ってはいられない。自分でどうにかしなくてはならない。
 それは知っていた、分かっていたつもりだ。でも完全に理解していなかった、理解したくなかった。
(どうしてこんなに苦しまなきゃいけないの?)
 声にならない辛さ。口に出さない苦しみの言葉。そればかりがシーラの頭をうずまく。
(どうして私がこんなに辛くなきゃいけないの?)
 今までにこれほど辛かったことはなかった。あったとしても、誰かと話したりして気を紛らわせることができた。それもできないのならどうすればいい?
(どうして、どうして……)
「どなたか、いらっしゃいませんか?」
 シーラの思念は、開かない扉に向かって発せられるジュディの声で中断された。ジュディの声は必死だった。いつも見ているジュディとは違った姿だった。
(……)
 シーラは首を少し傾けて口をすぼめた。他人を諌めるときの癖だ。だが、今日は自分に向けての行動だった。苦しみを訴えたって何も変わらないのだ。どうにかして状況を打破しようとしているジュディを目の当たりにして、そう考えられずにはいられなかった。
 思いきって、シーラは立ち上がった。
「お嬢様?」
「ジュディ、手分けして手がかりを探しましょう」
 はっきりとした口調で話すシーラにジュディは戸惑ったが、折角シーラが1人で出した決断を断ることはできなかった。もちろん、断る理由もなかった。
 無言の了解を受け取ると、シーラは駆け出した。どこへともなく、ただ目の前の道をたどって。
「お嬢様……と、私も行かなきゃ」
 ジュディもまた、シーラの向かった方向と逆向きに歩き出した。申し出を承諾した以上、それに従うのみだ。

 陽のあたる丘公園、遊んでいたたくさんの子供たちがいる。黄色い魔法生物テディの姿もあった。
 ジョートショップ、料理をするアリサさん。
 ラ・ルナ、さすがにがらんとしたテーブルに、休憩を取る料理人や皿洗いのバイト。
 災害対策センター、非常事態だが、今は意味を成さない建物だ。とりあえず人は何人かいるものの、騒いだり慌てたりすることもない。
 何もないまま、アトラ橋を渡る。眼下に流れる水の流れだけは、ゆっくりと時を刻んでいる。これが手がかりになるだろうか?
「ローズ、レイク?」
 この川はローズレイクに流れこんでいる。水の流れの影響を受ける場所に、何かあるかも知れない。わずかな手がかり、これに賭けてみる価値はある。賭けが外れても事態が悪化するわけでもない。
 目的が定まれば、まっすぐに向かえばいい。あてもなく行動するよりは遥かに簡単だ。
 シーラの足取りは、無意識に速まった。

 シーラと反対の道を進んでいたジュディは、道をまっすぐにウィンザー通りを抜け、学問の小道へと南下していた。
 何か手がかりがあるとも思えない。シーラは何か見つけただろうか。
 そんなことを考えていると、建物の影から人の影が姿を現した。
「!」
 誰だろうと思い、目を凝らしてみる。が、すぐにそれがシーラだということに気付き、がっかりする。
 しかし、そのシーラの様子がおかしいと気付くのにも時間を要さなかった。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
 シーラはこちらに気付いていなかったのだろう、ふっと顔を上げると、ジュディのほうへと近づいてきた。

「聞こえる?」
 シーラの最初の発言はこうだった。
「何がですか?」
 いきなりの問いかけに、ジュディが言えた返事はこれだけだった。
 どんな返答を期待していたのかはしらないが、シーラは首をかしげ、また口を開いた。
「楽器、だと思う。でも弦楽器でも管楽器でもないし、ピアノでも、もちろん打楽器とかかでもない。なんだろう、知らない楽器」
「私には何も……あ、いえ、聞こえる。小さな音」
「うん、それ」
 2人は音の聞こえるほうへと、耳を澄ませながら歩いた。その先にあるのは、ローズレイク。間違いない。その方向に何かがある。

「見て、あそこ」
 シーラはローズレイクの片隅を指差した。ジュディの目もそれをはっきりと捉えた。一言で言うならば、妖精?
「違う、僕は精霊族。音の精霊。まあ、人間には区別できないかもしれないけどさ」
 すうっと音も立てずにそれ、彼は目の前にやってきた。
「みんなの時間を止めているのはあなたなの?」
 シーラは恐る恐る訊ねた。
 彼は宙を飛びまわり、どこからか何枚かの紙を取り出す。
「僕は旋律を奏で、音を力に変えるだけ。時を止めてるわけじゃない」
 ひとりでに(おそらく音の精霊の力だろう)シーラの手に舞い降りる楽譜には、自分の筆跡で音符が並べられている。途中までで、途切れた楽譜。
「君たちのほうが僕たちの時間に紛れこんだんだよ。音の力でね。その楽譜に見覚えはあるでしょ?」
 何を言っているのか、シーラにもジュディにもよく分からなかったが、とりあえず今日、自分が書いた楽譜だというのは分かる。
「ええ、今日の朝に書いていたものだけど」
「君の音の力はかなり強いみたいだね。僕の時間にいられるくらいに。普通じゃ考えられないほどの力だよ」
 説明口調で音の精霊は言うが、どうしても理解できない。
「よく分からないけど。それより、私が人間の時間に戻るにはどうすればいいの?」
「そう、私もそっちのほうが気になります」
 ジュディもシーラに加担する。
「そうあわてないで。じきに僕たちの時間は終わるから。折角だからおもてなしするよ、みんなでね」
「そうそう、みんなでね」
 気付いたときには、ローズレイク一面が精霊たちの広場となっていた。その数は、優に百を超えている。そして、それぞれの手には楽器。どれも見たことのない楽器。
「僕たちは音の精霊。ようこそ、僕たちの時間へ」
 1人が音を出すと、皆、続いて音を出す。精霊たちの音はひとつの旋律へとつながっていく。それは、作りかけだった曲の続き。楽譜に書かれていない部分。
 不思議な旋律は、それでもゆるやかなハーモニーを紡ぎ出す。
 そして、いつの間にか目の前から精霊たちの姿は消えていた。

 カランカラン。
「はーい、いらっしゃ……?」
 さくら亭のカウベルが勢いよく音を立てて、パティが元気よく声をかけようとする。が、そこには誰もいなかった。
「あれ? 鳴ったよね、カウベル」
 その疑問に答える者は誰もいない。パティだけが不可解に首を傾げた。
「おかしいな、確かに鳴ったと思ったんだけど……」

「さてと、楽譜の続き、書かなきゃ」
 家に着くなり、シーラは楽譜にペンを走らせた。記憶の中に、鮮明に浮かび上がっている精霊たちの奏でた旋律は、シーラの頭の中で楽譜に変わり、そしてペンへと伝わる。
 それは不思議でゆるやかな旋律がいくつも重なり合うハーモニー。それはこの部屋の中で、音符の列へと変わっていく。
「お嬢様、紅茶が入りましたよ」
「あ、はーい」
 ジュディやみんながいることが普通と思える今が、シーラには一番幸せだと思える。あの事件があったから、そう思える。
 そんなことを考えながら、シーラは階段を駆け下りていった。
 そうそう、事件があったからできたことといえばもうひとつ、ジュディに「今度、私に紅茶の入れ方を教えて」と頼むことだ。


あとがき(前編)

 シーラが主役のSS「旋律は時を越えて」の前編です。
 だいぶ文章を書くのも慣れてきて、今度はちょっと量を多めに書いてみようということで、前後編です。
 今回はいつもに増して、感情を最全面に出そうという意識が強いです。セリフも少なく、地の文が主となっています。
 今までよりも自分で納得いくものが書けているのですが、その分、時間がかかってしまいました。
 この前編では登場人物がシーラしかいませんが、もちろん後編ではシーラ以外も出てきます。書く時間も短く……なればいいなあ(笑)

 そういうわけで、後編もよろしく!

あとがき(後編)

 ずいぶんと遅くなってしまった「旋律は時を越えて」の後編です。遅くなった分、内容は充実している、はずです。たぶん。
 それにしても、こんなに暗くなるはずじゃなかったんですけどね。最後の最後は明るくしましたけど。
 まあ、やっと納得のいくSSが書けたと思います。そして、すでに7作目。(先に8作目を書き終えてたりしますが) 3作目の「未来へのメッセージ」が一番気に入ってたんですが、それもこれまでですね。
 と、そう言える作品がどんどん書ければいいんですけどね(笑) もっといい作品を目指して、次回もがんばるぞーっ。


History

1999/05/22 前編を書き始める。
1999/06/09 前編を書き終える。
1999/06/10 後編を書き始める。
1999/07/04 後編を書き終える。
2000/02/26 前後編をひとつに統合。

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