「おっ、はじまるぞ」
アレフの声に合わせたわけではないが、豪華で重そうな幕が上がっていく。
隣に座っている女性とおしゃべりを楽しんでいたアレフは話を中断し、舞台のほうに向き直った。
今から始まる演劇を、アレフはすでに28回ほど見ていた。アレフには、劇のセリフの一言一句を暗唱する自信があった。役者の細かい身振り手振りすらも、難なく真似して見せることができるだろう。
正直なところ、アレフはこの演劇自体には飽き飽きしていた。
ここ1ヶ月だけで26回も見ているのだから、アレフが飽きっぽいと言うわけではないだろう。むしろ、よく1ヶ月に26回も見れるなと思うのが普通だろう。
(僕の愛は、君の為だけにあるんだ)
(そして女性はうつむきながら応える)
(だあーっ、いかにも作り話な展開……)
まだ劇が始まってもいないのに、アレフの頭の中では、役者たちがクライマックスを演じていた。
(さすがに何度も見てると、飽きてきたな)
口にはとても出せないことを思い浮かべながら、アレフは隣に座っている女性を見た。
(ま、ミリーちゃんが喜んでくれるならいいや)
……アレフはそういう性格なのだった。他人に喜んでもらえれば、それはすなわちアレフにとっての幸福でもあった。
言うまでもなく、その他人は女性に限られるのだが。
そんなことを考えている間に、幕は上がりきった。
「はあーい、みんな元気ーっ?」
ずでっ。
アレフはその場にずっこけた。
もちろん、演劇が「はあーい、みんな元気ーっ?」なんていうセリフではじまるわけはない。
「な、なんなんだ一体」
当然、アレフには何がなんだかさっぱりわからない。
しかし、そんなアレフの反応のほうが不思議だとでもいうように、この場にいる観客全員が歓声を上げている。
「ミ、ミリーちゃん……」
不可解な出来事に、アレフは隣に座っている最も身近な人物に声を掛けた。のだが、
「きゃーーーっ♪」
ミリーも、観客のうちの1人だった。
期待も虚しく、歓声をあげていた。
「なんなんだ、なんなんだ、なんなんだよーーーっ!」
それに答えるものは誰もいなかった。
異様な雰囲気の中、アレフは完全に孤立していた。
アレフの様子などお構いなしに、今度は光のイルミネーションが場内を埋め尽くした。
アレフははたと気付いて、今日の演劇のパンフレットを読み返した。
(10時から開始。もう10時だよな)
パンフレットには、アレフの思ったとおり、特別な内容は記載されていなかった。だとすると、目の前で展開されている出来事は一体何なんだ?
「ああ、頭痛くなってきた」
盛大な歓声は、アレフの思考能力を低下させていく。
「今日はわたしのために集まってくれてありがとーっ」
ステージからの声に、「わーっ」とか「きゃーっ」とか言う声が、さらに活性した。
(どっかで聞いたことあるような声だな)
その声は、ヒロイン役の役者ではないし、当然ながら男役であるはずがない。さらに当たり前だが、脇役でも進行係でもない。
「シーラでもない、シェリルでもない、ヴァネッサなわけないし、セリーヌも違うな、ミカでもレイナでもないし……」
自分を「わたし」と呼ぶような女性を次々と思い浮かべたが、ステージの声と一致しない。
しかし、アレフには間違いなく聞き覚えがある声だった。
「ん?」
派手なイルミネーションが、瞬時に消え、舞台は真っ暗になった。それにつられて、場内が静まりかえった。ざわざわというざわめきは聞こえる。
(なんだなんだ?)
白いライトがいくつか光った。そして、場内を駆けめぐり、ステージの中央に集結していく。いわゆるスポットライトというやつだ。
ステージに、くっきりとしたシルエットが姿を現した。
その瞬間、場内から完全に音が消えた。
ばっ、という効果音がどこからか聞こえて、全てのライトがステージを向いた。
また、大きな歓声が場内を包み込んだ。
スポットライトに眩しく照らし出された人物は、
「はあーい、みんなのアイドル、パティちゃんよーっ」
盛大な歓声と拍手の嵐の中、アレフは盛大にずっこけた。さらに、座席に足を引っ掛け、ステージの台に頭をぶつけた。
アレフの目の前にあったのは、フリルの衣装にまとわれたパティの足……
ではなく、質素な木製のベッドの脚だった。
「痛ててて……」
アレフは、ベッドから転落して壁に頭をぶつけていた。
「しかし、なんだってあんな変な夢……」
アレフはスポットライトに照らされたパティの姿を思い出した。
「うっ、気分悪い……」
思い出すんじゃなかったと後悔した。頭をぶつけて痛いというのに、さらに吐き気に襲われるのは辛い。
しばらくして吐き気はおさまったが、頭はまだ痛い。頭をどこかにぶつけた痛みではないのに気付くまで、いくらか時間を要した。
「頭痛だな。風邪でもひいたかな」
熱にうなされて、あんな変な夢を見たのだろうか。
「う、考えるだけで頭痛がひどくなる。とりあえず水飲んで寝なおそう」
夢の中で叫んだからではないだろうが、のどがからからだった。
アレフは部屋から出て水道のある場所へ向かおうとした。
「あれ?」
アレフの手はノブを回そうとしていたが、肝心のノブがない。いや、扉すらない。
よく見ると、ここは自分の部屋ではなかった。
ドアや窓の位置、ベッドの配置、壁にかかった絵、どれをとっても自分の部屋のものではない。
窓から見える風景など、上から見下ろすような……つまり、ここは2階だ。
「どこなんだ、ここ」
いつもなら、窓から見える風景で建物の位置が分かる。つまり、ここがどこなのかが分かるだろうが、頭痛が邪魔をして考える気も起きない。
手っ取り早くここがどこかを知るには、ドアを開けて外に出るのが一番だ。どっちみち水を飲むには部屋からでないといけない。
アレフは、ノブに手をかけた。
扉の向こうには、見慣れた風景があった。
「あ、アレフ。やっとお目覚めかい?」
リサだ。だとすると、ここはさくら亭の客室か。
見たところ、客らしき人はひとりもいない。
さっき窓から見た景色は明るかったから、おそらく昼前だろう。
アレフはカウンター席に腰掛けた。
「つっ、まだ頭痛がしやがる。リサ、ちょっと水くれないか」
「あいよ、ちょっと待ってな」
リサは厨房のほうへ入っていった。
静まりかえったさくら亭は違和感を感じるが、今のアレフにとっては、それ以上にありがたい感があった。頭痛のするときに大声や騒音は辛い。
「ほらよ」
リサから水を受け取ったアレフは、それを一気に飲み干した。
「しかし、よく寝てたもんだな」
リサは呆れたような表情をしていた。昼前まで寝ているのがそんなに呆れられるようなことなのだろうか?
そのとき、期を察したように時報の鐘が鳴り響いた。
がーん、がーん、がーん。3回の鐘は、3時を表す。もうとっくに昼時は過ぎてしまっているのだ。しかし、それ以前に、
「頭がズキズキする……」
鐘の音はアレフの頭痛に共鳴していた。
「悪い、俺、もう1回寝てくる」
「ああ」
リサの声を聞いた後、アレフは立ちあがった。相手が見慣れた相手でも、女性には礼儀正しい。もちろん例外はあるが。
「眠れねえな」
さっきまで眠っていたのだから当然といえば当然だが、アレフの目は冴えきっていた。
目をつむっても、全然眠くならない。
しまいには、羊を数え始めた。
「羊が1匹、羊が2匹……」
しかし、羊を数える声は、すぐに途切れた。
すぐに眠気が襲ってきた、そんなわけはない。
「羊が4匹、羊が……ううっ、数えるだけで頭痛が……」
なんとも情けない。
「いいや、寝れなくても横になってればまだマシだろ」
あっけなく、アレフは寝るのをあきらめた。
……
がたんっ。
「んっ?」
いつの間にか、眠っていたようだ。眠りが浅かったのか、小さな物音で目を覚ましてしまった。
耳を澄ますと、下のほうからざわざわと声が聞こえる。
「なんだ、いったい」
アレフはノブに手をかけて扉を開けた。
そこには……
「アレフ、まだ寝てたの!?」
料理を片手に持ったパティがいた。店内はたくさんの客で賑わっている。
(そっか、ここってさくら亭だったな)
今ごろ気付くアレフ。
「あんた、ぼーっと見てないで手伝いなさいよ!」
「あ? なんで俺が……」
突然、パティの怒鳴り声が自分に向けられた。アレフは合点がいかない。
「一晩泊めてあげたんだから、それくらい当然でしょ」
「ま、そういうことだ」
リサもパティの肩を持つ。アレフは、泊めてくれと頼んだ覚えはない、とも一瞬思ったが、パティにそれを言う勇気は持っていなかった。
「リサ、そういうお前こそ見てないで……」
「私はちゃんと運んでるよ」
後ろ手に隠した食器を見せて、リサは厨房のほうへ入っていった。
「それじゃ、これをあっちのテーブルに、これはそっちね」
「へ?」
「つべこべ言ってないで運ぶの! まだ仕事はあるんだから」
パティらしい、有無を言わせぬ口調だ。こういうときのパティには逆らわないのが利口ってものだ。
アレフはしぶしぶ、料理を運んでいった。
「それにしても……」
「どうしたんだい、アレフ」
「こんだけの仕事、よくパティひとりでこなせるよなあ」
注文の途切れた合間に、アレフはリサとカウンター越しに話していた。
なぜカウンター越しなのかというと、ただ単にアレフ水を飲んでいるという理由だ。普段、それほど肉体労働をしないアレフには、結構きつい仕事量だった。
「私は仕事をしていないとでもいいたいのかい?」
冗談めかしてリサが言う。
「あ、そうか。リサもいるんだよな」
こっちは真面目な顔をして言う。直後、リサの鉄拳制裁が放たれた。
「いてっ、なにすんだよ、リサ」
アレフは頭を押さえてうずくまっている。相当効いたらしい。
「おーい、定食1つ追加ーっ」
奥のテーブルから声が上がった。それと同時に、
「はーいっ」
厨房からパティの声がした。そして料理を抱えたパティが出てくる。
「はい、リサ」
「分かった」
リサはパティから料理を受け取り、奥のテーブルへ向かった。正確には、向かおうとした。
「あれ? アレフは?」
アレフの姿が見当たらないことに気付いたパティ。
「こ、ここだ」
カウンター席の下から、情けない声が上がった。もちろんアレフだ。
「……馬鹿なことやってないで、早く手伝いなさい」
冷たい口調でパティが言う。アレフは即座にその口調から怒りを読みとって、立ちあがる。
アレフはリサに視線を向けたが、リサはすました顔であさっての方向を向いていた。
(まだ頭が痛むな、リサのやつ、ほんとに手加減ってものをしらな……)
そこまで考えて、アレフは違和感に気付いた。頭痛がしない。まあ、治ったのならそれに越したことはないので、別にどうだっていいのだが。
「早く運ぶ!」
「はいはい……」
パティの声に背中を押され(というか圧され)、アレフは手に持った料理を運ぶために足を動かす。
「なんだかなあ……」
やっと、さくら亭から人がほとんどいなくなった。残っているのは酒飲みたちだけだ。もうアレフに残された仕事はない。
「しかし、なんだって俺はここで寝てたんだ?」
アレフは独り言とも問いかけとも取れるような声をだした。パティにもリサには完全に聞こえたのだから、とりあえず問いかけと取っておいてよさそうだ。
「あんた、覚えてないの?」
パティは呆れかえった表情をしていた。リサもまた、同じような表情だ。
気まずい雰囲気に、アレフはうろたえた。
「俺、何かしたかな」
昨日、何かしたような記憶はない。自分がここで眠っている理由になることも覚えがないが、そもそも、昨晩何をしていたかも覚えていない。
カランカラン。
不意のカウベルの音に、3人の視線が扉のほうに集まる。
「はあーい、みんな元気ーっ?」
そこには上機嫌な由羅がいた。手には、由羅のトレードマーク、酒瓶が握られていた。
「あ、アレフくんもいたの。今日も飲んでくー?」
「今日も?」
アレフは由羅のセリフに疑問を感じた。それはすぐに、不安に変わった。
「もしかして……」
ぼそっと呟く。
「由羅、今日はアレフには勧めないで!」
パティが慌てて由羅を止めた。それは同時に、アレフの疑問に対する答えにもなった。
「ってことは、あの頭痛は単なる二日酔い……ってことか?」
いがみ合っている由羅とパティを見つめながら、リサは笑いをこらえながら縦に首を振った。
「それであんな変な夢なんか見たのかなあ」
夢の内容を思い浮かべたアレフは、それを掻き消そうと頭を左右に振った。ふと、アレフの視界にパティが入った。
由羅に「アレフ(つまりは未成年)に酒は飲ませるな」と言っているパティの姿と、夢で見たフリルの衣装のパティが重なる。
「ぶっ」
アレフはこらえきれずに吹きだした。
それを見て、一瞬、誰もが唖然となった。
「あんたねえ、人の顔見て笑うなんて失礼よ!」
アレフが自分を見て吹きだしたと気付き、パティは怒鳴った。
「い、いや、これには理由が……」
アレフは弁解しようとするが、口元が笑っているので逆効果になるのは確実だった。まあ、そうでなくともパティは弁解を聞こうとはしないだろうが。
「パティ、お、落ちついて……」
「うるさいっ!」
同時に、パティの鉄拳制裁がアレフに叩きこまれた。
「い、痛そう」
リサと由羅が同時に同じセリフを口に出した。2人とも、アレフに同情はしたが、パティに抗議しようとは少しも思わなかった。それはアレフの自業自得と思っていたわけではなく、おそらくパティを恐れてのことだ。
「がはあっ」
直撃を喰らった張本人のアレフは、カウンター席を転げ落ちて、後方に飛ばされた。
その距離、数メートル。
「パティって……強い……」
リサと由羅は背筋を凍らせた。
で、後方に飛ばされたアレフはというと、そのまま壁に頭から激突していた。
「痛ててて……」
アレフは、ベッドから転落して壁に頭をぶつけていた。
見慣れたベッド、小物、部屋。間違い無く自分の部屋だ。
「夢の中でもこんなシーンあったよな」
アレフは情けなく思いながら呟いた。
その顔の上に、2枚の紙切れがあった。
「何だこれ?」
アレフは落ちてきた紙を眺めた。
「……」
アレフの顔色が、一気に青ざめた。
10時から始まる演劇のチケットだ。もちろん、ミリーと待ち合わせもしている。
今は、もう昼過ぎだ。
「だああーっ、どうしよう」
今日のアレフの苦労は、まだまだ続きそうだった。
アレフの(変な)夢のお話です。このネタを思いついたきっかけはというと……パティの1枚絵付きキャラ別エンディング。踊り子のやつです。
タイトルは、かなり悩みました。最終決定案もあんまり気に入ってません(笑)
「クラウド医院の魔法戦争」と並行して書いてたうえ、魔法戦争のほうに神経を注いでいたんで、2日ほど書かない日が続いて……でも6日。(ちなみに、魔法戦争のほうは2日だからもっと速い)
悠久SSも、すでに5作目になりました。(ボツになった2作は除く)
だいぶ慣れてきたことだし、次回あたりちょっと長めのものも書いてみようかなあと思ったり思わなかったり(笑)
「悠久SS投稿の旅」も、企画倒れにならないようにがんばろうっ(笑)