1998年5月6日           
              陳述書           
                   脇田 暢子                        
 

 一 経歴および保育所とのかかわりについて

 生年月日
 本籍地
 学歴・職歴

 二 転換する前の長岡京市立新田保育所の保育について

 1 保育所と保護者が密接に交流・連携した時期

 長男が1、2歳児の頃は、朝、別れ際に泣く子どもを見て、3歳未満児にとって集団保育が必要かと、迷いながら私立の二葉保育園に通園していました。長岡京市立の新田保育所に転園した当時は、「アットホーム」な私立保育所と比べて、公立保育所は、ガサガサと落ち着かない雰囲気や「外遊び」を重視した保育内容に当惑しました。
 しかし、1985年から1986年頃には、保育所と保護者の間で保育についての多様なコミュニケーション手段がありました。つまり、
 (1)ほぼ毎日、担任保母と交換した「連絡ノート」、
 (2)毎日の保育様子が書かれている「クラス日誌」
 (3)月に2、3回発行された「クラスだより」(甲第36号証)、
 (4)年齢に応じた、毎月の子どもの様子・活動を詳しく知らせる「乳児部だより」と「幼児部だより」(甲第35号証)、
 (5)毎月の保育体制と行事等、園全体の保育の方針を知らせる「園だより」(甲第32号証、第34号証)、
 (6)保護者と保母の間でお互いの生活や子育てについての考えを交流する「クラス回覧ノート」
 などです。
 さらに、保母と保護者が、子どもの見方、保育のねらい、発達の見通し等について話合う機会として、次のような多様なものがありました。すなわち、
 (1)年数回の「クラス参観」、
 (2)「プール参観」、
 (3)年に数回、子どもの様子や保育のねらいについて保母と保護者が話合う「クラス懇談会」、
 (4)保母も出席し、小人数で保護者の居住地域別に集って保育所保育や子育てについて話合う「地域懇談会」(グループ交流会)、
 (5)随時の保母と保護者の「個人懇談」
 などです。
 また、保護者会のクラス委員が「クラス交流会」を開催し、保育時間外の休日などに保母と保護者が子どもと過ごす機会もありました。この「クラス交流会」も公式の「園だより」に予定行事として記載され、保育所保育のなかに位置づけられていました(甲第32号証)。
 こうしたなかで、保育所から、自分自身の子育てを見直し、学ぶ機会を与えられ、保育所に対する信頼を深め、保育所での集団保育の積極的な意義について確信をもちました。
 2 保育所と保護者会が相互に協力・共同した時期

 1985年当時、新田保育所は、施設利用をはじめ保護者会の活動を尊重し、様々な便宜を認めていました。たとえば、保護者会の「総会」(年2回)は、夜(午後7時30分頃から)、保育所の遊戯室を使って開催されていました。総会以外にも、保護者会の「役員会」、「クラス委員会」や、保護者会主催の「学習会」(年1回)も、土曜日の午後(2時から4時頃まで)に、子どもを保育してもらいながら、保育所内で開催できる等の便宜が認められていました。他に、「合宿保育実行委員会」、「バザー委員会」、「文集委
員会」などの保護者会の諸委員会にも保育所施設の利用が広く認められていたのです。
 また、保護者会主催の行事であった「納涼大会(夏祭り)」(夕方から夜まで)、「新春お楽しみ会」(日曜日の午前中)も保育所の施設を利用して行われていましたし、保育所行事の「もちつき」等にも保護者の父親が参加して、保育所と協力・共同していました。
 当時、新田保育所保護者会のニュースや連合保護者会ニュースなどは、保育所の公的文書を個々の保護者に配布するためのポストを使って配布できていました。
 1985年当時、新田保育所では運動会にあたって前年までとは異なり、「弁当持参で保護者、保母、子どもが過ごせるようにしたい」という保育所側からの申し出がありましたが、この申し出をめぐって、従来と異なる保育所の運営については、保育所側が一方的に進めるのではなく、保護者との合意を得て実施することが改めて確認されました。

 三 新田保育所の保育の転換

 1 保護者への説明ぬきの保育所運営への転換

 1987年頃から、新田保育所の保育内容が徐々に変化していきます。
 カラー帽子着用については、1985年当時の確認に反して、1987年に、保護者の合意を得ることなく一方的な説明だけで実施されました(甲第40号証)。とくに、1988年になって、カラー帽子の代金の支払をしていなかった保護者に対しては、長岡京市から「立替えて市が支払っているので、納付するように」という督促状が直接に送付されました。そして、所長から、1988年9月には、未納付のある保護者に対して「支払わないときには、市のほうとしても、『次のこと』を考えざるを得なくなる」と、不措置や移園を示唆する発言がありました(新田保育所保護者会文集『あゆみ 1988年度』掲載)。
 また、1989年5月には、帽子代未納の別の保護者が、所長から、「市の方針に従えないのなら、保育所を移ってはどうか」と言われています。この保護者の勤務先が市出入り業者であったことから、この勤務先にまで帽子代納入の圧力がかけられています(新田保育所保護者会文集『あゆみ 1989年度』掲載)。
 また、子どもの様子や保育の内容・方針についての保育所が保護者に知らせる機会が徐々に減ってきました。
 まず、保育所は、「園だより」と「クラス日誌」が、子どもの様子を保護者に詳しく知らせるものから、園やクラスでの全体的行事や保育についての事務的な記録に簡素化しようとしました。
 次に、「クラスだより」の発行回数が月2、3回の発行から徐々に減り、1990年代には年に3回程度にまで激減しました。
 さらに、「個人ノート」が幼児については1987年以降、公的には原則として廃止され、「乳児部だより」「幼児部だより」も廃止され、「園だより」だけになりました。
 他方、1988年頃から、「地域懇談会」が保育所の公的な行事として認められなくなり、園だよりなどの予定行事に掲載されなくなりました。
 とくに、1989年9月には、新田保育所運動会の開催場所が、従来の隣接の市立新田公園から保育所園庭へ変更されました。ほぼ全員の保護者からの話合いを求める要望署名があったのに、柴田美代子所長は、保護者に十分な説明をすることなしに、保育所として一方的に開催場所の変更を実施しました(甲第53から59号証)。
 保護者にとっては、子どもを託している保育所とのコミュニケーションが十分にとれなくなり、また、所長さんをはじめ保育所側が、保護者の声を聞こうとしない態度に納得のいかない思いを強めることになりました。

 2 保護者会との協力拒否

 1987年頃から、保育所側から「保育所の方針に従わない保護者会には、保護者会の諸委員会などを開催するための会場を貸すことはできない」旨が伝えられました。
 まず、1987年9月、当時の新田保育所所長は、カラー帽子問題について、保護者会のニュースに疑問や反対の意見が掲載されていることを理由として、保護者会の役員に対して「クラス委員会の開催場所に保育所施設を貸さない」と発言しました。そして、保護者会関連の会議や保護者会主催の行事は、1988年頃から1989年にかけて、ほぼ保育所を利用しては行うことができなくなりました。
 さらに、保護者会のビラ配布に対しても規制が加えられました。1989年9月22日、所長が、運動会開催場所問題についての保護者会ニュースの配布中止を求め、当時の松村尚洋福祉課長から直接に、保護者会長の職場まで「保育内容に介入してもらっては困る。話がしたいので福祉課まで来るように」と強圧的な電話がかかりました(甲第57号証)。
 1989年には、当時の新田保育所保護者会長に対して、所長から、保護者会は「保母の職場会と会ってはいけない」、「連合保護者会とは手を切ってもらいたい」などの発言がありました(新田保育所保護者会文集『あゆみ 1989年度』掲載)。

 3 保育内容・保育体制の悪化

 長岡京市立保育所では、1980年代から、保母が入れ替わる「こまぎれ保育」が行われていました。
 この保育体制については、まず、子どものケガや病気のときに、適切な対処をしてもらえるのかについて、大きな不安がありました。とくに、長女はゼンソクがあったため、発作のときの対処が心配でした。
 さらに、「こまぎれ保育」の体制は、とくに乳児に大きな影響があると思いますが、行政としてのきちんとした調査も行われないまま、1993年10月からの週休2日制完全実施にともない一層「こまぎれ」が強化されてしまいました。
 このときには、すでに長女は幼児期にあったので、目に見えた影響はありませんでした。しかし、乳児のクラスに子どもがいる保護者から、「過敏でよく泣く子で保育所生活に適応するのに大変時間がかかる」という声がありました。
 こまぎれ保育については、子どもが対人関係で安定しいないという弊害が危惧されるので、正確な調査と検討が必要だと思います。

 四 保育料の一方的な値上げ

 1 1988年の最後の説明会

 長岡京市は、保育料値上げについて連合保護者会に話合いを申し入れる態度を取っていました。1984年度の保育料値上げについては、1983年9月に値上げ案が連合保護者会に申し入れられ、3回の交渉がもたれています。ところが、1986年度の値上げについては、1月30日に突然値上げの申し入れがありましたが、それでも市としての説明会が1986年3月19日に開催されました。この説明会では、年を越して値上げ案を連合保護者会に提示したことについては誤りであること、保護者会とは誠実に話合っていくことを長岡京市側は確認しています(甲第8、9号証)。それ以降、2回の説明会があり、同年4月7日の説明会には助役も出席しました(甲第10号証)。
 それにもかかわらず、1988年度については、値上げ案を、1988年1月末になって連合保護者会に提示しました。1988年2月19日に市の保育料値上げ説明会が行われ、保護者80名が参加しましたが、この説明会で当時の松村尚洋福祉課長は、児童対策審議会答申の具体化に基づき、毎年値上げをルール化したことを表明し、説明会はこの1回で終わりました。
 この1988年2月以降、長岡京市は、保育料値上げについて、連合保護者会との話合いや説明会をまったく行わなくなりました。

 2 保護者の負担感と不服申立て

 1988年以降、長岡京市の保育料は、毎年の値上げで保護者の生活実態や感情に合わない高額の保育料に変わっていきました。
 保護者のなかには、「保育内容が悪くなっているのに保育料が上がるのはおかしい」、「説明ぬきに一方的に保育料をあげるのはひど過ぎる」、「隣の向日市や大山崎町は、保育内容が良く、保育時間も長いのに保育料が安い」などという保育料についての強い不満が潜在していました。
 保育料値上げについては、保護者の声を市に伝える手段がなくなったので、不服申立てをすることになり、私も参加しました。
 この口頭意見陳述は、小さい子どもがいるのに保育体制もとってくれす、平日の夜で、しかも、食事の時間帯にあたるために保護者としては参加するのが難しく、また、自由に話すことができる雰囲気がなかったと思います。
 しかし、こうした口頭意見陳述でも、保護者の切実な声が出ていました。たとえば、「高額の税金を納めているのに、保育料まで高い」、「乳児が2人の場合には、月8万円を超える額になり、保育料が家計にとって大きな負担になっている」、「乳児保育が十分で
ないため、無認可保育所に預けざるを得ないため、2人の子どもを合わせて月8万円の保育料(ただし、1万円は市から補助)となり、夫婦2人で月30万円の収入では生活が精一杯になっている」など保育料についての保護者の思いが表明され、強く印象に残りました(甲第46、47号証)。
 ところが、懸命に陳述したのに意見を述べるだけで、まともな市側の回答もなく、12月には毎回同じ内容の形式的な棄却の決定書が送付されてくるだけであったため、空しい思いがしました。

 3 児童対策審議会の非公開

 1995年9月、保育料など市の保育のあり方について審議するために10年ぶりに長岡京市児童対策審議会が再開されました。
 1996年2月9日、私は、第4回の児童対策審議会の傍聴をしたいと福祉課に電話で問い合わせました。福祉課の担当者から、「審議委員に諮ってから傍聴許可について答えるから開催場所に来て下さい」との返答がありました。開催時間の午後2時前に、市役所に出かけ、しばらく待っていますと当時の福祉事務所長ら市の職員から「審議会委員で傍聴の要望について審議した結果、傍聴があると自由な議論が出来ないから、9対1の多数で傍聴は認めないという結論になった」との説明があり、結局、審議会の傍聴は拒否されました。
 私が、「それなら、審議委員の名前を公開してほしい」と求めると、「氏名を公開すると、審議委員のところに直接意見を言いにいく人が出て、迷惑がかかるので公開しない」との返答がありました。
 また、私が「議事録は、議会議事録のように公開されるのですか」と尋ねたところ、「議事録はありません」「審議会は委員に審議を委託しているので、公開などは審議会の判断によります」との回答がありました。私が、厚生省の審議会では情報公開を原則にして
いることを示したところ、「長岡京市は独自の方針があります」との回答がありました。 多くの市民や保護者の声を反映した審議をするためには、公開された審議が必要であるのに、密室のなかで議論が行われるのではないかと不安に思いました。1996年5月30日には、長岡京市長と児童対策審議会会長に対して、同審議会の公開を請願しましたが(甲第109号証)、傍聴はもちろん議事録を含めて、私が希望するような審議の公開は一切ありませんでした。

 五 最後に

 保育所とのコミュニケーションが十分とれていた時代は、保護者も保育所保育の意義に確信をもっていました。
 しかし、1989年の新田保育所保護者会文集『あゆみ』に見られるように、多くの保護者が、「親から子どもの保育所生活が見えない」、「子どもの成長を先生とともに喜びあえる場がありませんでした」、「担任の保母さんとの話合いが随分減りました」、「思い出になるものが少ない年長組の保育でした」など、保育所全体が大きく変わっていることについての不満を異口同音に述べて卒園していきました。
 保育所保育では、子どもを中心に置いて保育者と保護者が信頼関係をもって一致して保育にあたることが不可欠です。児童福祉施設最低基準や保育所保育指針も、こうした考え方から制定されています。長岡京市には、こうした考え方に反する「こまぎれ保育」や保護者を無視した保育所運営を改めてほしいと思います。
 また、保育料についても、保護者の声を十分に聞き、市民に開かれた手続で決定するべきだと考えます。

                             以上      


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