15歳の頃・・この頃は音楽に興味は全然持っていませんでしたが、17歳頃に友達のバンドでマイクを持ったのが、
音楽の道に進む事に・・・ロックやリズム&ブルースのボーカルとして歩み始め、その後ベースを
手にするようになる。ある意味で、一番夢中にさせてくれたのも音楽活動だった。


1969年にベースを始め、すぐにクラシックの交響楽団(オーケストラ)の首席ベーシスト,林先生に師事する。
この3年間は毎日のように一日中ベースを弾いていたような気がする・・・よく夢を見ました・・・ 
夢の中でベースを自由に弾きまくっている私、目が覚めたら、全然弾けない私がいる・・・! 
なんとも大変でした、そんな中でジャズに向わせてくれたのは周りが上手い人ばかりで
厳しい人ばかり・・・? 環境が良かったのかも・・・


●1971年〜73年頃 東京にて、菅原洋一、西条秀樹、ザ・ピーナツなど当時のアイドルの
バックやスタジオワークの仕事をする。

●74年〜75年 北海道に帰り、ソウル&ジャズのバンドを結成する。
なんと、この時にギターの宮野弘紀が参加している。
札幌でちよっとしたムーヴメントを巻き起こす・・・
しかしながら人数が多いため維持困難のため
約1年半ぐらいで解散。

●76年 この頃からジャズ喫茶などでライブを積極的に行うようになって来た。
メンバーはその都度ピックアップで!

●77年 北海道での最初のジャズ活動を行うためトリオを結成・・・約半年で解散
札幌を拠点に道内各地にて活動。

●77年後半〜78年 カルテット結成・・やはり1年続かず。 
道内だけでなく東北方面にも活動の場を求めて足を運ぶようになる。



旭川「メキシコ」での演奏スナツプ・・・トリオ、カルテットと解散し、最初から活動を共に
してくれてた,渥美孝昭(ds)、カルテットで活動してくれた、高橋賢志(ts)、そして宮野弘紀(g)、
竹内素夫(tb)、ピックアップメンバーにて活動を続けていく・・・しかしながら、収入は全然なし、
竹内氏の所に居候。私にとって、このメキシコはジャズ活動を行なっていく勇気を与えてくれた
場でもあった、今でも覚えているが、マスターが語ってくれた言葉、ジャズはベースに始まり、
ベースに終わる・・・なんと深いメッセージか・・・!!
 


1977年〜1979年まで北海道を拠点に活動、樋口高志(p)、渥美孝昭(ds)とのトリオ、
高橋賢司(sax)、桜庭篤司(p)とのカルテット、そして宮野弘紀(g)との活動。
79年に宮野弘紀(g)、渥美孝昭(ds)と3人で東京に進出する。
北海道から船に乗って、出航する時のドラが鳴り響くのが、
今でも忘れられません・・・とても感動的でした。

北海道での活動を共にしてくれた素晴らしい友人達。
自分は何もなかったけれど,誰にも負けないほど、
夢と希望とエネルギーに溢れていました。



1980年横浜桜木町ヤマハホールにてお披露目コンサート
宮野弘紀(g)渥美孝昭(ds)安田天海(perc)


1982年デビューアルバム「北の大地」のレコーディングスナップ・・今田 勝氏と・・・



1983年
5月ニューグループ結成!タキシードでバシっと決めてます・・・決まってるかな?

 

1986年春、ドン・フリードマン(p)との
デュオ活動を開始する。
約4年間に渡ってツアー、アルバム製作と行う。


1986年秋ニューヨークにて・・・
ローランド・ハナ(p)と曲の打ち合わせ・・
後ろはリチャード・デヴィス(b)・・
1986年秋ニューヨークにて・・・


   

1988年、私のプロデュースにてこの3人の
ツアーとレコーディングを行う。リチャード・デヴィス、
ローランド・ハナ、フレデリック・ウエィツ、
ステージでは私も数曲プレイしました・・・


1990年、私の友人であり、ジャズベースの巨匠、
リチャード・デヴィスと2ベースヒットとタイトルして
ツアーを行う。
 

1991年から、デイック・オーツ(as)、ピータ・マドソン(p)、エリオット・ジグモンド(ds)を

メンバーに従え、中山英二ニューヨーク・カルテットを結成する。

5年間に渡って6回の日本ツアー、アルバム3作、ビデオと製作,不動のメンバーにて活動を行う。

 

1990年からローランド・ハナとのデュオツアーが始まる。
2002年10月・・7回目のデュオツアーが最後のツアーとなってしまいました。
2003年6月ローランド・ハナの追悼の意を込めて、子息マイケル・ハナ(vo)を迎えて
メモリアルコンサート  ツアーを行う。


 

2005年から2011年と、ピーター・マドソン(p)とのデュオツアーを開始する。
1991年「中山英二ニューヨークカルテット」に参加してからの長い付き合いとなる。