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日本漢字學史 岡井愼吾・昭和九(1934)年
高田竹山翁
 翁名は忠周、別に未央學人と稱するは後漢平帝の時に字學の達人を召出して未央宮の中庭で文字を説かしめられたをゆかしがられての事とか。其の著は漢字詳解、補正朝陽字鑑、古籀篇、學書發凡を主なるものとするが、東京帝大圖書館には其の説文講疏百七十卷、段注辯疑百三卷、説文要義四十二卷、字學淵海二十五卷をも藏せられる。今人。
 漢字詳解六卷は明治四十二ー大正元年の間に刊行せられたもので卷一は漢字系譜講義、卷二以下は一部に起りて龠部に終る本文で、尾に索引と漢字系譜と訂正説文聲讀表(苗夔の原作)とを附す。系譜は寧ろ講義の首におくが適當だが、其處には翁の古文研究や説文六書の説明等が有る。漢字の根本となるもの六十四形、その轉變五百六十二と定めて其の關係を示したのが系譜で先づ之を講じ、各字では古文小篆の形を定め説文の文章を引き其の間に段玉裁、桂馥、玉筠などの説を夾注し、其の轉義借用に於ては專ら朱駿聲の通訓定聲に据つた。翁は古文籀文を主として研究せられた結果、許愼を以て十分に古文を究めず偏に小篆につきて説を立てたるが故に時に失誤なき能はずとして之を言い直されたも多い。しかし今日までに説文につきて此の所の如く訓讀を附し解釋を加へたものが無いから許書唯一の參考書とも云はれる。説文に收めぬ字でも万乱等の通用のもの、又其の學説上有るべき文字も倶に之を採つて有る。
 補正朝陽字鑑は明治卅四年に出された朝陽閣字鑑を大正十年に補正せられた物、蓋し朝陽閣とは印刷局の別稱で、翁はさきに局に仕へてこの書をなしたので此く命名したが、官本だから十分に古人の説をもどくを得なかつた。然るに廿年の知見の進步は十分の自信を得られて此の補正本となつたが、もはや翁は局中の人で無かつたから書名も自ら改まつた。翁は始め古籀、篆隷、分楷、行艸の各〻に書を成される考で有つて古籀篇は別に成つたから、この書には古籀篇の外に繆篆古隷を附せられたので自ら篆隷篇の用をなす理で有る。本文は一部に始まりて龠部に終ること前書と同じく、其の手だれの筆致を以て古籀篆隷の各體を出して其の本づく所を註し前人の説に異議あるものは衷を折して之を斷じて有る。すべて三十七卷、首卷には序、例、引用書目等、第一乃至三十卷には本文、第三十一・二卷には再補、第三十三卷は再々補、第三十四卷には索引、第三十五卷には舊本の正誤、第三十六卷には説文字原系譜、附錄(書體要覽と古籀篇及び學古發凡の叙ーこの時には古籀篇等が果して世に出るや否や分らなかつたからとは云ひ乍ら、此かる物を附するのは如何だらう)收む。蓋し吉金樂石の研究は清朝の擅場とする所、この書は巧に其の成果を摘みて集大成したもので翁の氣根と聰明とには敬服せざるを得ぬ、況や中間大正癸亥の災に遇ひて原稿を燒失せられし不幸さへありしをやだ。
 古籀篇は首卷一卷、本文百卷、補遺二卷、轉注假借説一卷、篆文索引六卷、隷文索引二卷、學古發凡六卷すべて百十七卷の巨帙で稿を明治十八年に起し大正七年に成るまで三十五年の力を用ひられた。大正八年帝國學士院の賞する所となり、十一年その刊行會が出來たが、翌年其の原稿を委託せられた家は彼の震災に罹つたに倉庫一棟が全くして原稿の烏有に歸するを免かれたとは天も此の業績に動されたのだらう。

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