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好書品題 コ富^一郎(蘇峰)・昭和三(1928)年
支那古文字の研究
高田竹山翁の古籀篇
今や我國に於ては、漢字制限が殆んど輿論となり、あらゆる方面より、漢字を放逐するを、先務とするの場合に、漢字の本原に遡りて、之を研究するなどとは、如何にも極寒中に氷屋を開店するが如く、炎暑中に暖爐屋を新設するが如く、時節柄不相應の樣であるが。然も學問の進步は、周邊に無頓著にして、一心不亂に、其の主とする所を極むるに在りとすれば、吾人は高田竹山翁の如き學者が、斯學の爲めに努力しつゝあるを、推奬禁ずる能はざるものがある。
東洋の學問の中にて、其の中樞の重なる一は、支那に關する研究である。而して支那學の研究に於て、其の中樞の重なる一は、文字である。此の文字の研究は、東漢の許愼が、説文を著はして以來、歷代其人なしとせず。就中南唐に於ては、徐鉉及び弟の徐鍇ありて、各〻其文を搶Cす。而して清朝に至りては、首に顧炎武出て、許愼に説著し、乾年間惠棟之を鼓吹し、戴震に至り、而して其の門下段玉裁の、説文解字段氏註三十卷出でゝ、大いに斯學の津梁となつた。而して嘉慶年間には、孫星衍の宋本説文の重刊出で來つた。
篆學に至りては、阮元の積古齋鐘鼎欵識出で、光緒九年に至りては、呉大澂の説文古籀補出で來り、許愼の未だ見ざる所の物を見、許愼の未だ究めざる所の物を究め、斯學の爲めに、新生面を開くに至つた。彼は曰く、
爰に古彝器の文を取り、其の顯れて而して明らかにし易く、視て而して識る可き者を取りて、三千五百餘字を得たり。彙錄して編を成し、參るに故訓を以てし、附するに己れが意を以てす。名けて説文古籀補と曰ふ。
と。而して我が高田竹山翁の古籀篇は、駕して之に上る、幾層なるを知らず。
翁は實に明治十八年より大正七年に至る、三十四年間の精力を、此に集中し、古籀篇一百卷と、其の摘要とも云ふ可き、學古發凡八卷を完成し、更らに爾後古籀篇補遺十卷を著はした。大正八年帝國學士院が、翁の著書に對して、帝國學士院賞を授けたのも、決して等閑ではない。
高田竹山翁の古籀篇は、現在此の類の著作中に於て、最も完備に庶幾いものと云はねばならぬ。何となれば翁は前人の研究の結果を、殆んど悉く綜合し、更らに前人の見聞する能はざる出土の金石文字、若しくは殷商の故墟より發掘したる龜甲獸骨の文字を參稽し、槪ね之を採錄したからだ。
乃ち古文のみにても、一萬二千字以上を揭げ、然も各種の變體を悉く載せ、時としては一字の變體三百字を出づるものがある。而して從來字書に無き文字だけにても、約七百字を採錄してゐる。其の精訪、博捜、及ばざるなく、至らざるなし。是れ固より前人研究の恩惠にョるもの多しと雖も、翁が其の學問に對する、忠實なる努力の致す所と云はねばならぬ。
我國に於ても説文の研究は、狩谷棭齋、市野迷庵、山梨稻川、松崎慊堂の諸學者によりて、開始せられ、就中棭齋の如きは、其の著述も若干ある。されど爾來之を紹成する學者の多くなかつたのは、遺憾であつたが、竹山翁に至りては、單に斯學の爲めに、貢献したるばかりでなく、亦た日本の學者の爲めに、大に氣焔を騰げたる者と云はねばならぬ。博洽篤學の松崎慊堂をして、今日に在らしめば、如何に欣賞すべきであらうよ。
支那の歷史では、唐虞三代は、宛も我が神代卷の如く、何れまでが史實で、何れよりは小説であるか、殆んど其の區別が判然でなかつた。されば支那の正史は、何れも周代より起ることゝしてゐる。而して其の以前は、寧ろ小説の部類に片附けて仕舞うてゐる。
然も文字の研究は、從來暗Kの世界に、一道の光明を點導し來つた。呉大澂の如きは、其の先驅者の一人であつた。彼の説文古籀補によりても、是迄文献の徵するに足らざるものを、徵し得たるものあり、爲めに許愼の誤謬を訂正し得たるもの、少くなかつた。而して更らに羅振玉氏に至りては、殷墟出土の龜甲獸骨の文字研究の、殆んど第一人者であつて、此の方面から、未墾の地を開拓し得たるもの少くなかつた。而して我が竹山翁に至りては、更らに絶倫の精力を以て、其の大なる局面の開展に努めた。
支那の文字は、所謂る六義と稱して、指事、象形、形聲、會意、轉注、假借と分つが、然も其の根本は、指事、象形の二者であらう。指事とは其の事柄を指事する意味にて、象形とは其の形體を、其儘に寫すもの、云はゞ指事は無形の形にして、象形は有形の形と云ふ可き歟。
然るに此の支那字が、埃及の象形文字や、巴比侖の楔形文字と、果して如何なる關係ある乎。抑も支那では黄帝軒轅氏の時に、史官蒼頡が文字を創造したと云ふが、果して然る乎。竹山翁は、未だ必らずしも是ならず、其初めは☰☷八卦の文から萠し、それを蒼頡が工夫したのであらうと云うてゐる。
何れにしても支那文字は、決して一人一個の製造ではない。此れは必然の要求に應じて、自から此に至つたものであらう。されど其の文字は、時代と與に、漸次に變化し、此れが爲めに、古文は愈よ堙沒し、從つて其の徵す可き馮據を失墜するに至つた。されば孫星衍が、
唐虞三代の五經文字は、暴秦に燬けて、而して説文に存す。説文作らざれば、六義を知らざるに庶幾し。六義通ぜざれば、唐虞三代の古文復た識る可らず、五經其の本解を得ず。
と云うたのは、理りある言だ。
されど其の説文が、往々誤謬を傳へてゐる。漢代に於ては、古を距る遠からざるに拘らず、却て古の遺品は、喪失、埋沒して、復た見る可きもの少かつた。而してそれが却て古を距る遠き今日に出で來つた。是れ今日の研究が、古人に優る所以の一である。
從來支那の文化は、周代を以て、極盛としてゐた。孔夫子が郁々乎として文なるかなと、周代の文化を嘆美したるを見ても、斯く思はれた。されど古文字の研究の結果は、殷代の文化が、決して周に劣らず、更らに溯りて夏代の文化、亦た見る可きものがあつたことが判明した。されば此の古文字の研究は、單に古史の逸文を補ふに止らず、併せて上代文化の歷史の秘密を發く、最好の鍵と云はねばならぬ。
現に竹山翁の學古發凡を一讀しても、經を證し、經を正し、經を補ひ、史を證し、史を正し、史を補ひ得たるもの、少しとせず。乃ち孔子をして、今日に出でしむるも、斯言に首肯せしむるに足るものがある。此れが吾人の近代人たる幸福の一である。
今や竹山翁の古籀篇は、特志者によりて、豫約刊行せられつゝあり。其の頒布部數、一百部限、而して全十二帙、百二十二卷、六十五冊、一萬数千頁。而して一部豫約金二百八十金と云ふ。然も其の本書の價値は、決して不相當と云ふ可らず。
看よ區々たる一幅の書畫にさへ、尚ほ幾百圓を擲つにあらずや。況んや此の樸學者、畢生の心血を注いだるものに於てをや。(大正十四年四月十二日)
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