第一話 怪を語れば怪至る 浅井了意『伽婢子』十三巻より

 昔から、人が言い伝えている怖ろしいこと怪しいことを集めて、百物語怪談会をすれば、必ず怖ろしいこと怪しいことがあると言われている。

 百物語には決まったやり方がある。月が暗い夜、行燈に火をともす。その行燈には青い紙を貼り、百筋の灯心をともす。一つの物語に灯心を一筋ずつ引き抜いてしまうと、座中がだんだん暗くなり、青い紙の色が変化していって、何となく怖ろしくなっていくのである。そのまま語り続けると、かならず怪しいこと怖ろしいことが現れるのだという。

 下京辺りの人が五人集まって「さあ百物語をしよう」と言って、昔からの決まりの通りに火をともし、おのおの青い小袖を着て、並んで座って語ること六七十話に及んだ。そのときは十二月の初め頃で、風が激しく、雪が降って、日頃にもまして寒く、髪の根本が凍るようにぞっとするように思われた。

 ふと気づくと、窓の外には蛍が多く飛ぶように、火の光が幾千万ともなくちらちらとしていた。それがとうとう座中に飛び込んできて、鏡のように、また鞠のように、丸く集まった。そうかと思うとまた分かれて砕け散り、白く変化して、大きさ五尺ぐらいに固まったものが天井にとりつき、そのまま畳の上にどおっと落ちてきた。その音はいかづちのようで、火の玉はそのまま消え失せてしまった。

 五人ともうつむいて気を失っていたところを、家の中にいた仲間がいろいろと助け起こしたので、五人はよみがえって、それ以後別に何ごともなかったということだ。

 ことわざに言う「白日に人を談ずるなかれ。人を談ずれば害を生ず。昏夜に鬼を語る事なかれ。鬼を語れば怪至る」とは、このことであろう。この物語も、百話を満たさないで、筆をここでとどめておこう。

『伽婢子』は寛文六年(1666)三月刊行。今回収録したのは十三巻六十八話のうち最終話。妖怪百物語の最初ということで百物語怪談会の決まり事が書かれたものを選んでみました。


第二話 京東洞院かたわ車の事 『諸国百物語』一巻より

 京東洞院通りには昔片輪車という化物がでた。片輪車は夜な夜な通りの下(しも)から上(かみ)へ登るのだと言われていた。だから日暮れになると人はみな恐れて、この通りを行き来する事はなかった。

 ある人の女房がこれを見たく思って、ある夜、格子の内から外の様子をうかがっていると、夜半過ぎ頃、下から音を鳴らしながら片輪車がやってきた。車を引っ張る牛も人もいないのに、車の輪が一つだけ回ってやってくるのを見ると、そこには人の股の引き裂かれたのが下げてある。

 女房は驚いて恐れていたところ、その車がまるで人のように「そこにいる女房よ。私を見ようとするより家の中に入っておまえの子を見ろ。」と女房に話しかけた。

 女房は怖ろしく思って家の中に駆け込んで見ると、三つになる子が肩から股まで引き裂かれ、片方の股はどこかへ持って行かれたのだろうか、見つからなくなっていた。女房は嘆き悲しんだけれども元には戻らなかった。あの車にかけてあった股はこの子の股だったのだ。

『諸国百物語』は延宝五年(1677)四月刊。五巻、各巻二十話の怪談集で、唯一の百話を収める百物語怪談集。この怪談集に取り上げられた内容は後の鳥山石燕などにも大きな影響を与えました。


第三話 天狗祟りをなせし事 『太平百物語』五巻より

 ある国の殿様が、領地の山々の樹木をたくさん切らせていた。その中に天狗の住処がたくさんあったので、この天狗たちはこれに怒って「この恨みに仕返しをしてやろう」と、下屋敷にいた女房たちの黒髪を、夜毎に一人ずつ、髻から切るようになった。

 女中たちは集まって、皆怖れ嘆いて途方に暮れていた。殿様はこの事件のことを聞いて驚き、これは天狗の仕業であろうと考えた。

 それで、今後樹木を切り取ることをやめるようお触れをお出しになったところ、天狗たちはこれに満足したのだろうか、それ以後、この災いも起こらなくなったということだ。

『太平百物語』は享保十七年(1732)三月刊。五巻、五十話。天狗が人の髪を切り取るという珍しい話。「黒髪切」という妖怪もいますよね。

この話について、山野野襖さんがメールで考察を寄せて下さいました。
以下はメールから引用させていただいたものです。

 太平百物語の天狗が髪を切った話ですが、捜神記(東晋)から室町期の「建内記」の室町殿の女房の髪が切られた事件、耳袋の記事等を見るとまず狐を容疑者としていた様です。特に「建内記」では舶来の書籍を基に判断材料としていました。

 あまつきつねを説いたのも大陸の僧でしたが、どうも日中の怪異は共通すると考察されていた様です。まず髪切りの風説が立ち、その後狐と伝えられるべき所を誤ってあまつきつね(天狗)の仕業とされたのではないでしょうか。あるいは当時山林伐採に対する反発があり、天狗の祟りといわれ、髪切りの事件とむすびつけられたのでしょう。

「百怪図巻」では髪切りが怪人型で登場していましたが、原型は室町期の「土蜘蛛草子」と「百鬼夜行絵巻」の様ですから、「百怪図巻」もそれ以降の成立でしょう。(以下略)


第四話 冷泉院東洞院僧都殿の霊の事 『今昔物語集』二十七巻より

 今ではもう昔のことだが、冷泉院よりは南、東の洞院より東の角は、僧都殿というきわめて不吉なところだった。だから、そこにくつろいで人が住むようなことはなかった。

 その冷泉院のすぐ北は、左大弁の宰相源扶義という人の家であった。その左大弁の宰相の舅は、讃岐守源是輔という人である。

 その人の家から見ると、向かいの僧都殿の戌亥の角にはとても高い榎の木があった。黄昏時になると、神殿の前から赤い単衣がその榎の木の方向に飛んでいって、木の先まで登っていくのだった。

 だから、人はこれを見て怖れて近くへも寄らなかった。ところが、讃岐守の家に宿直していた武士が、この単衣が飛んでいくのを見て「自分ならば、あの単衣をきっと射落とすだろうよ。」と言ったので、これを聞いた者たちが「絶対に射ることはできないだろう。」と言い争って、その男をけしかけた。

 男は「必ず射よう。」と言って、夕暮れに僧都殿に行って南向きの簀子にそっとあがり待っていたところ、東の竹が少し生えた中から、この赤い単衣が、いつものように飛んできた。

 男は矢を弓につがえて強く引いて射た。単衣の真ん中を射抜いたと思ったが、単衣は矢を立てたまま同じように木の先に登っていってしまった。その矢が当たったと思われる所の土を見ると、血が多くこぼれていた。

 男は讃岐守の家に戻り、言い争った者たちに会って、この次第を語ったので、争っていた者たちはとても恐ろしがった。その武士は、その夜寝たまま突然死んでしまった。これを聞いた人は皆「無意味な事をして死んだ者だなあ」と馬鹿にした。

『今昔物語集』の巻二十七は本朝付霊鬼編。鬼や霊、狐などの怪が数多く収録されています。


第五話 疫神の便船 『万世百物語』四巻より

 天正八年、天下に疫病が流行して、多くの人が病気にかかった。ある時、瀬田の渡し場に、大津のほうから都の者と思われる身分の高そうな若い女が一人やってきて、未の刻(午後二時ごろ)、渡し船を雇って乗り込んだ。

 向こう風で舟は速く進むことができず、波に揺られてゆっくりとしていた。舟に乗ると女はそこらの苫をかぶり、入ってくる波を防いで横になった。女はそのまま寝入ったようでいびきはするものの、苫の下にものがあるようにも見えない。

 船頭は不思議に思い、そっと苫を覗いてみたところ、たくさんの蛇が重なり合っていた。全部数えると千匹ほどもいるようだ。船頭は大いに驚いて額に汗をかき、背筋も寒くなって何とも言いようがなかった。

 だんだん向こう岸も近くなったので声を出して気づかせると、目を覚まして起きあがるのはさっきの女である。女が船賃を払っても、船頭は遠慮して取る様子も見せない。女はほほえんで「どうしたの」と問うと、船頭は返事のしようがなく、これこれしかじかと語って震えた。

 女は面白がり「さては見たのか。絶対人には言うなよ。私は蛇疫の神だ。私は今から都を出て草津の里に入る。一ヶ月ぐらいで帰るつもりだ。」と言って、竹の茂みに入っていき、それっきり跡形もなく消えてしまった。

 その夏、草津の村々の内、一村も残らず疫病が流行し、七百人以上の人が死んだ。その春から夏の頃までは、京で疫病が流行して多くの人が死んだが、それからは都ではおさまっていった。

『万世百物語』は寛延四年(1751)正月刊行。疫病は村から村へ移動するものと考えられていたようで、疫病送りをする年中行事が多くの地域で今でも伝わっています。自分の村からほかの地域へ疫病を送り出すのです。


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