[693] 疑問

投稿者:matatabi 投稿日:2001/02/17(Sat) 22:56

村上健司氏の『妖怪事典』にたまにでてくる、山田野理夫氏の『東北怪談の旅』を、先日図書館にて発見しました。
この本、創作が多いという指摘がずいぶんなされているようなのですが、一体全体どのくらい信用したらいいのでせう?
物語自体は本物だが、それにあてはめた妖怪が幾分山田氏の独断が入っている、といった解釈でいいのでしょうか?


[694] Re[693]

投稿者:タキタ 投稿日:2001/02/17(Sat) 23:46	

山田野理夫氏の『怪談の世界』(昭和53年、時事通信社発行)を入手しました。
ここに「コナキジジイ」という項目があり珍しい記載があったのですが、いったい信用してよいのかどうか疑問です。
どうして、山田氏は評判を自ら落としているのでしょうか?
というか「全国妖怪事典」という功績のある千葉幹夫さんも、少年向きの本で「コナキジジイ」を記載しているのですが、抱き上げると赤ん坊の顔がシワだらけのお爺さんになるとかって記載してあります。
こういう創作って困るなあ。でも少年向きの場合には創作っておおよそ判断できるけども、大人向きの『怪談の世界』の記載って困る。
せめて我々は、これらを他山の石として、出典元や話者の年齢や取材地の地名の記載を後世のために併記して記載するべきだと思います。
なお、山田氏は「コナキジジイ」には陰毛のあるものもあると記載しています。
そんなことを記載する必要があるのだろうか?


[695] 山田氏の一連の著作物

投稿者:屶丸 投稿日:2001/02/19(Mon) 00:22

 なんか山田野理夫氏の著作物で話がふくらんでいるようなので、参加させてください。
 まずは『東北怪談の旅』。昭和49年に自由国民社という会社から出されたこの本の前書きには、【東北ほど怨念のみちあふれているところがないだろう。それで怪談の数が多いのだ。私は数多い怪談から一冊を編んだ。】という箇所があります。
それから後書きには【私の怪談収拾ノートにはまだねむっている全国の怪談が数多くある】云々という箇所があります。この他には、これが創作であるとか、実際に現地で調査した云々ということは書かれていません。
 この本に収められた怪談がすべて聞き集めたものだとしても、そのタイトルにあるウワンとかオトロシ、赤舌、ドロ田坊、小雨坊、コクリ婆、イヤミ、インモラ、古篭火、網切りといった妖怪は、いずれにしろ山田氏がつけたものだということ
は明らかだと思われるのです。
 僕はシロウトながらも十数年にわたって妖怪を調べていますが、これら石燕の描いた妖怪たちの話を見付けたことはありません。それはただたんに僕の調査不足といわれそうですが、どんなに探しても出てこないのです。ですから、話そのものは創
作ではないとしても、ある程度の脚色はしているでしょうし、タイトルもそれらしくつけてあるのだと思うのです。
 まったくの創作ではないとわかるものもいくつか含まれていまして、山形県山形市のアコヤ松の話や、盛岡の三ツ石神社にまつわる羅刹鬼は、現地で民話・伝説として語り継がれています。
 このように、山田氏の妖怪に関した著作物には、実際にある話と疑わしい話が同席しているのです。地方出版の『アルプスの民話 アルプス妖怪秘録』(株式会社ナカザワ)に至っては、もうメチャクチャです。参考までに前書きと後書きを引用します。
まえがき
【日本アルプスは
さまざまな幻談が成る
山の頂きに
山麓の小さな部落に
わたしは
それをポケットに入れて
小諸在所に持ち帰り
綴ったのが本書である】
後書きには
【日本アルプスの怪談集をおくる。口碑と文書からの再話である。】
とあります。
 その内容は、北アルプスのホウコウや、オシロイババア、山オトロシ、中央アルプスのジャ骨ババア、手ノ目、南アルプスには滝霊王やノビアガリ、ブラリ火、火前坊……と、石燕妖怪のオンパレードになっています。これはもう、あきらかに創作でしょう。どう考えても、口碑を集めたものとは信じられません。
 ただ、これだけいい加減な(ここまでいうと失礼ですが、あえて言わせてもらいます)仕事をこなしている反面、喜田貞吉編山田野理夫補の『憑物』(宝文館出版)のように、キチンとした仕事もしているのです。ですから、山田氏の著作だからといって、すべてにおいて出鱈目だとはいえないのです。
 そういう目で見ると、タキタさんのいう『怪談の世界』も、マユにツバをつけてみないと、ヤバイ気がするのですが。ちなみに前出の『東北怪談の旅』には、津軽地方の話として児泣き爺ならぬ児泣き婆の話があります。石にではなくカボチャに変
身するという……。これも本当に集めたものかどうか……。以上、長くなりましたが、僕が抱いている山田氏への疑問を書いてみました。


[696] 『新耳袋』も困ったものです。

投稿者:タキタ 投稿日:2001/02/19(Mon) 03:59

出典や話者が不明で、後世の再確認作業が不可能な現在の新刊の『新耳袋』も困りものです。
読んで楽しいということと、後世のためになるという視点は別物ですね。
「第二の山田野理夫」ですね。まるで……


[697] 山田さんへの評価

投稿者:タキタ 投稿日:2001/02/19(Mon) 04:06

そうそう、山田野理夫さんのことが、喜田貞吉博士の御実家を一昨年に私が訪問させていただいたときに話題になりましたが、やっぱり、創作と実際に取材した伝承話を分離せずに記載して発表している本もあるので困ったものだという苦笑があったですね。


[698] 怪談

投稿者:化野 燐 投稿日:2001/02/19(Mon) 15:05

 山田野理夫氏問題に関連して、すこし述べさせていただきます。
 氏の著作に「創作」が混じっているという事実、妖怪伝承の分布や系譜を調べていく場合、氏の書かれたものを無批判に利用するのは危険であるという認識は、タキタさんや屶丸さん達と同じなのですが、あえて一言。
 氏の作品は基本的に「怪談」として評価されるべきなのだと私は思っています。
 『怪談の世界』の「あとがき」には「私は怪談の本質は美でなければならぬ、と信じている。」と意味深長な言葉があります。彼は「怪談の本質は聞いたままの記録である」というスタンスは取っていないようなのですね。
 怪談を愛する人達の多くには、聞き手・記録者であると同時に、語り手でもあろうとする傾向があるように思います(自分自身について振り返ってみても、創作の魅力には強く魅かれます。)。伝承に創作をまじえた著作を世に問うた人々、たとえば鳥山石燕や藤澤衛彦氏なども、そうしnス精神の持ち主だったのではないか、と思っています。
 そう、若き柳田國男でさえ、この語りの魅力の前に跪いています。『遠野物語』に収録の佐々木喜善から聞いたとされる伝承には、聞いたままではない彼ならではのアレンジが施されているのですから。このあたりのことについては、岩本由輝氏の『もう一つの遠野物語』、澁澤龍彦氏の「ランプの廻転」(『思考の紋章学』に収録)などを参照してください。
 誤解を招きかねない表現ではありますが、「怪談」は文芸作品です。民俗学者の聞き書きとまったく同じ条件で利用できる「資料」になりえないのはその性格上仕方のないことではないか、と思うのです。
 タキタさんや、屶丸さんがおっしゃる通り、我々は、文字になっている妖怪譚のすべてが、いわゆる「実話」や「民間伝承」の記録ではない、ということを意識しておくべきなのです(あくまで調査・研究をする場合ですが)。
 それに・・・
 学者による「民間伝承」の聞き書きにでさえ、語り手のサービスによるアレンジが含まれたり、誘導尋問によるバイアスがかかっていたりしないとは言いきれません。聞き手が興味をもっていない情報が記録されない可能性だってあります。すこし危険な発言ではありますが、学者の聞き書きでさえ、聞き手というフィルターを通した事実でしかない、純然たるフィクションでこそないが、創作と境を接した行為であるということもできるでしょう。
 だからこそ、厳密かつ実証的な研究を指向するならば、どんな資料についても、他の資料との比較や、現地での追跡調査などの批判的検討が不可欠になるわけです(って、実際にそれをするのはなかなか難しいけど。また、この意味も、タキタさんの「コナキジジ」現地調査は画期的な作業だと評価されるべきなのです。)。
 
 ここまでは、タキタ・屶丸両氏が提示してくださった認識を、反対側の視点から小難しく書きなおしただけですね(苦笑)。
 が・・・
 私は文芸(書かれたものだけでなく口承も含む)としての「怪談」や、出典が曖昧な記述スタイルをとる「怪談集」の存在や意義を否定したり、マイナス評価したくはないのです。
 いや、積極的に評価する立場をとっているといってもいいかもしれません。
 なぜなら、 フィクションと「民間伝承」の間では、常にフィードバックが行われており、 「民間伝承」を素材にしたフィクションが伝承を変質させたり、フィクションの妖怪・幽霊が「民間伝承」に吸収され、あたかもあったことのように語られたりすることで、我々の怪談(妖怪)文化は、停滞することなく活性化され成長してきたものなのですから。
 過去数千年の間を通して、話者がはっきりとしたいわゆる「民間伝承」だけが、怪異や妖怪の棲息地だったわけではないと思うのです。
 三代続いた家に伝わるものと定義される民俗学的な「伝承」だけを重視し、出所が曖昧でいかがわしい「怪談」や、演劇、小説・マンガ等の持つ影響力を軽視しては、怪異妖怪の研究(と私などがいうのもおこがましいが・・・)は、このさき前進しないのではないでしょうか?(って、近年の民俗学では、このあたりの偏狭さは解消されつつあるようですが・・・)
 それに・・・
 ホントの話かウソの話かが判然としないのも、「怪談」の魅力です(って、ここまで書くとかなり野暮かな?)。
◎補足1 『新耳袋』について
 『新耳袋』は、実話に限りなく近い文芸的「怪談」で
しょう。 彼らの話とモデルになったはずの「実話」とは別の物と考えるほうがよいか、と。話者が特定できる少数の話以外のものについては、話者はあくまで
中山・木原両氏であるととらえるべきでしょう。
 何故なら、彼らは取材者であると同時に話者であり、きわめて現代的なスタイルの伝承保持者でもあるからです。(だから私は困りません。)
 どうしても怪異の体験者に対する調査の必要があれば、当人たちに取材するのがいいのかな? ニュース・ソースは明かしてくださらないようですが。
◎補足2 山田野理夫氏の「コナキジジ」について
 現地に「陰毛云々〜」の話が伝わっていないのなら(というか、伝わってませんよね?)、これは「創作」もしくは、現地には伝わらない「山田野理夫氏の再話によって生じた異伝」と理解するべきでしょう。現地に伝わる伝承とは別種の、商業的背景により成立した現代民話とでも言えばキレイでしょうか?
 でも、「コナキジジ」の彼処に毛を生やして、「怪談の本質は美」ってのもどうかとは思うな(爆)。
 おそらくタキタさん、屶丸さんのおふたりも、本来、私と似たような意見なのではなかろうかとは思うのですが、記事の表面だけを読むと、山田氏や『新耳袋』のおふたりの仕事のマイナス面ばかりが強調されてしまうのではないかと心配し、無用のレスをつけてしまいました。恐縮。
 みなさんの御意見、反論などを御待ちしています。
 以上、長々と失礼いたしました。
 さて、久しぶりにマイHPの更新作業に手をつけるとしましょう。
 今日中にはいくつかアップしたいのですが・・・。無理かな?


[701] Untitled

投稿者:屶丸 投稿日:2001/02/20(Tue) 02:15

 いやいや、なんだか長〜い文章が続いてしまうようですが、みなさんすみません。
 化野さんのフォロー、実に有り難いです。先に書き込みした文章だと、僕は山田野理夫氏を悪者に仕立てているように読めますが、僕は怪談として見るならば、山田氏の文章はかなり出来のよい作品だと思っています。とくに東北怪談の旅は秀逸です(けなしたり誉めたり節操のない奴…とはいわずに)。僕がはじめて同書を読んだのは確か中学生のころだったと思いますが、淡々とした文章ではあるものの、ありありとその怪異の情景が浮かんできたのです。読了した人であればわかると思うのですが、それぞれの話はとても短いのです。しかし、その短い文章から喚起されるイメージは、とてつもなく大きかったのです。なんだか本当に映画でも見ているような……。
 化野さんのいうとおり、民間伝承での怪異譚といわゆるエンターティメントとしての怪談は違うものだと僕も思っています。怪談は文学だといっても過言ではないでしょう。どれだけ怖がらせるかということより、どれだけその文章から読者にイメージを呼び起こさせるかが鍵だと思うのです。そうした意味からいえば、山田野理夫氏は優れた作家だと僕は思います。実際に収集した話を載せるというスタイルをとっていても、怪談というカテゴリーからしていえば、脚色、創作はアリです。
 それから中山氏・木原氏の『新耳袋』の話も出ていますが、僕がはじめて読んだのは現在書店で並んでいる体裁ではなく、猫の写真が表紙に使われている旧版の方たったのですが、読了したときの感じが『東北怪談の旅』を読んだときと似ていたのです。淡々とした話から、かなり強烈なイメージが頭に浮かんできたのです。「本当にこんなことがあるんだ」と、一瞬でも怪異を追体験させてくれるような、そんな感じでした。
 『新耳袋』は体験者から取材するというスタイルをとっているので、やはり山田氏の怪談と共通する部分があるようです。これは資料というよりも、やはり文学として楽しむものなのだと思います。
 化野さんもおっしゃっていますが、問題なのはこうした怪談と民間伝承における怪異譚とを無理につなげてしまうことでしょう(もちろん、繋がるケースもあります。というよりも、根源は同じでしょうから。「どこそこの誰それがこんな怖い目にあった」という話を、そのまま聞書きして場所や話者を明確にしたものが資料であって、その話を脚色してより面白くしたものが怪談だと僕なんかは思います)。そこからはどうしても齟齬が生じてしまうのです。そのため「東北に赤舌なんて妖怪はいねぇよ!!そもそも赤舌と水争いなんて関係あんのか!!」などと怒り狂う僕のような人間が出てきてしまうのです。
 先に僕が書き込みしたのは、そうした違いを念頭にいれていないと危険だと思ったからです。本によって、著者によっていろいろなスタイルがあるということを知ってほしかったのです。
 ……ただ、こうした疑いの目で見て行くと、キチンとしていると思われている学術的な資料にも落とし穴があったりするのではないかと……。そのあたりのことはタキタさんが身をもって実証してくれているわけですし、そうした作業はもっと見直されるべきです(本来なら国からお金を貰ってやるようなことですよ)。
 もう、蟻地獄ですよ、妖怪の世界は。
 ああ、なんだかまた長くてくどい書き込みになってしまった……。


[703] 長!

投稿者:佐々木改め不思議庵丁稚 投稿日:2001/02/20(Tue) 09:50

ま、何を資料にするかは個人の判断にゆだねるしかないっしょ。そんなこと言ったら本家「耳袋」も「甲子夜話」も「老媼夜話」も「遠野物語」も「聴耳草紙」も、それこそ「古事記」や「日本初記」はどないよ?って話になってくるし。個人的には「新耳袋」やポプラ社の「学校の怪談」に寄せられた子供の声は一次資料と考えて差し支えないと思いますよ。事実かどうかなんて二の次で、そっから話が世間話として広がる可能性もある訳ですからね(って言うか、実際「学校の怪談」の中に「そりゃ星新一のショートショートじゃん!」とか「それ世にも奇妙な物語りでやってたやん!」ってのもあるし、最近では「伊豆の方に呪いのビデオってのがあって、見ると一週間後に死ぬ」といったモロ「リング」の話があったりしますしね)。


[704] だよね。

投稿者:悪路王 投稿日:2001/02/20(Tue) 20:38

不思議庵どののゆーとーりですね。
根拠なんて元々希薄だから伝説なんだし。
これが伝説と歴史のちがいなんだもんね。
ところでつまんない突っ込みだけど
「日本初記」でなくて「日本書紀」でしょ?

http://plaza7.mbn.or.jp/~denkidensetu/open.html