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第163回  工房の もう、歌声は聴こえない。


「輝豸雄さん、、、。
 輝豸雄さん、、、。  どうかしたのですか?」

    その、心の底を見透かされる様な声に、輝豸雄の足は前に進む事を諦めてしまった。

「いえ、別に、何も。」

「そうですか? 何かずっと。
 そう、昨日からずっと、何かをお考えの御様子でしたが、、、?」

「いえ、、、、そんな、、、別に、何も。」

「故郷を思い出していたのではないですか? もう、随分と長い間 帰っていないのでしょう。
 あの日、私を助けて下さったばかりに、 こんな所に足止めをしてしまって、、、、。
 本当に、何と御詫びをしたらいいのか、、、、。」

「そんな事を言わないで下さい。」

「でも、、。」

「あの日以来、一度だってそんな事を思ったことはありませんよ。」

「そうですか、、、。」

「えぇ。  此処に居るのは私が選んだ道なのです。
 決して貴方のせいではありませんよ。」




    そう言うと、輝豸雄はゆっくりと車椅子を押し始めた。




「此処は、善い所ですね。」   輝豸雄が口を開く。

「え?    えぇ、善い所ですわ。」   彼女がかえす。

「本当に、善い所だ。」   輝豸雄は、空を見上げた。

「本当は、帰りたいのでしょう?」   彼女が振り返って訊く。

輝豸雄は答えなかった。



    やがて、2人は裏庭へ出た。  溢れんばかりの薔薇が2人を出迎えていた。




    輝豸雄は、薔薇を観ていた。

    彼女も、薔薇を観ていた。

  


「もう、私には帰る家は無いんです。
 家も、人も、想い出も、もう僕には何も残っていないのです。」

「そ、そんな、、、。」

「もう、私には、あの頃の歌は聴こえないのです。
 ましてや、唄う事など、してはならないのです。」

「て、輝豸雄さん、、、。」

「私は、此処へ逃げ込んできた只の弱虫ですよ。」



    薔薇園の中を2人の車椅子はゆっくりと進んでいた。



「輝豸雄さん、、、、。 泣いているのですか?」

「・・・・・・・・・・・・・。」




    輝豸雄は泣いていなかった。工房を出たあの日以来、輝豸雄は泣く事が出来なかった。
    悲しくても、苦しくても、決して泣く事が出来なかった。
    本当の事はもう何処にもない。 そんな思いだけが輝豸雄の心に積もっていた。




「それでも、私はこう思うんですよ、輝豸雄さん。」  

    彼女が泣いている事に、輝豸雄は今気付いた。

「・・・・・・・・。」

「歌いましょう。 笑いましょう。 そして 泣きましょう、輝豸雄さん。
 そして、貴方の大切なその場所へ帰りましょう。
 たとえそれが、今は棘の道を行く事よりも辛く思えても、
 其処に貴方の本当があるのだから。」



                                                   第164回に続く かどうか自信が無い。