これは私が書いて各国の研究者に送り、2002年にいくつかの雑誌に載った原稿から、自由に日本語に直したものです。ここでは「死んだ後も心が残るのかどうか」は扱いません。「弁護士の論じる死後の世界」その他により、どうやら心は残り続けると考えるのが自然だ、と結論づけられたとして、残るのならどのような死後の世界が考えられるかについて論じていきます。


<現実そっくりの脳内世界>
 まず私自身の体験から始めましょう。アメリカにロバート・モンローという、今世紀最高とも言える体外離脱者がいました。この人の初期の離脱が脳内現象ではないことは数々の事実によって確認されています。その彼は、自分がなぜ突然体外離脱するようになったのかを考え、ヘミシンクという技術を作り上げたのです。これは左右の耳から周波数の違う音を聞かせると、その周波数の差にあたる脳波が生まれやすくなる、という事実に基づき、被験者の脳波をコントロールする技術です。彼はこの研究のためにモンロー研究所を設立し、そこで何十年も瞑想を繰返しているような人しか出せないような脳波を、比較的簡単に被験者に生み出させて、色々な実験を繰返しました。そしてその成果は、モンロー研究所のヘミシンクシリーズとして現在販売されています。
 私はここから、意識探究の入門編とも言えるGatewayシリーズのCDを購入しました。ちなみにこのCDは現在日本でも買えます(http://fushigi.accnet.co.jp/menu.asp)。聞き始めて半年くらいして、初めて意識と体の分離を経験しました。ところが変な感じで、自分がまるで点になったような感じです。視界ももうろうとしていてよく見えないし。それでも何度かこのような経験を繰返していると、その分離状態になったときでも視覚がはっきりしてきました。とは言っても、目で見えるのとは全然違います。どちらかというと、ある種の感覚(第六感?)を元にその情報を視覚化したり聴覚化したりしているような感じです。
 しばらくして意識が分離する状況に慣れてくると、私は情報を集め始めました。自分のいるこの世界が物理世界とリンクしているのか、それとも単なる脳内世界なのか。しかし、分離状態で訪れた知らない町で通りの住所番地を見ようとしても、相変わらず視覚がうまく働きません。それでも自分の部屋の決して開かない曇りガラスの窓から首だけを出してみて、そこから上を見た景色を覚えていながらすぐに肉体の目を覚まし、急いで外に出て窓の脇にしゃがんで上を見上げてみたりしました。そしてその結果は、残念ながら私がその分離状態で見ているものは、この物理世界ではない、自分の精神世界だという事実を示していました。肉体の目で見た景色は、分離状態で見たものとまるっきり違ったのです。
 この精神世界は離脱を繰返す度に現実味を増し、あるときは自分が物理世界に戻ったのか、それともまだ精神世界にいるのかがわからなくなるほどでした。そうは言っても、実はこの2世界の間には完全な違いがあります。精神世界内では五感が働かず、感じたものを五感の情報に翻訳しています。そのため、精神世界内では相手を見ながら自分の胸元が見えたりというような、変わった視覚化が行なわれがちなのです。
 何年も瞑想をしているような人は、瞑想中にこのような心象世界、あるいはビジョンを経験します。一方、このような世界は五感による情報を遮断することによって生まれやすくなるのではないかと考えて実験した人がいます。ジョン・C・リリーという学者はLSDによる意識探究などでも名高いちょっと亜流の学者で、彼はこんな装置を作り上げました。真っ暗で無音状態の部屋にカプセルを設置し、その中に自分と同じ比重で体温に合わせた液温を持つ液体を満たします。この中に裸で入り、呼吸ができるように工夫することによって、可能な限り五感の情報を遮断する環境ができ上がりました。彼はこれを数回試した後に、予想通り自分のありありとした心象世界の中に入り込んだのです。
 五感を遮断しなくてもこのような仮想現実世界にどっぷりと浸かってしまう人たちがいます。統合失調症という病気を知っていますか。これは自分の頭の中で作り出した心象世界と、物理世界の区別がつかなくなる病気で、以前は精神分裂病と呼ばれていました。統合失調症の人と話しているとたいていは話のどこかに矛盾点が出てきますが、中には全く理路整然としていて、その人の言っていることが物理世界で起きたのか、それともその人の頭の中だけで起きたのか判別がつかない場合があります。統合失調症の人は自分の心象世界で体験したことを、この物理世界と同じだけの現実味を帯びて体験しているので、その話に説得力があるわけです。理路整然と話す人は、実際にまわりの人にその人の話の裏をとっていった際にたくさんの矛盾点が見つかるまで、統合失調症であることは見分けられません。
 普通の人でもドラッグを常用することによって心象世界にどっぷり浸かることができます。昔中毒だった人に話を聞いたことがありますが、物理的な目で見ているものと、それに被いかぶさるようにして見えている心象世界の区別が、本当にまるっきりつかなくなってしまうそうです。普通に暮らしながら見ている風景に、自分の心が創り出した非現実的なビジョンが重なってしまい、今目に見えている中のどれが、実際にこの現実世界に存在するものなのかがわからないなってしまうのです。その一方では、心象世界特有の神々しいビジョンも見たりしています。
 人が、この現実世界と同じほど現実的な心象世界を、その心の中に作ることができるのは明らかです。そしてドラッグや度重なる瞑想、脳の疾患がなくても、五感を遮断することによってこの世界が割と楽に形成されると考えるのは妥当でしょう。
 人が死んで心だけが生き残った場合、当然そこには五感がありません。その心は始め、私のように視界も何もかもはっきりしない状態に陥り戸惑うかもしれません。それでも、割とすぐその心象世界に慣れ始め、その中に、まるで物理世界にいるような感覚で住み始めるわけです。これが死後の世界の原形でしょう。


<テレパシー>
 高校時代、私の考えていたメロディーをそばにいる人が歌いだすという経験が三回ありました。しかもそれは、当時特に流行っていた歌というわけではありません。この現象が三回目に起きたときはさすがに「あれっ?」と思い、テレパシーの存在を考え始めました。その後、偶然以上の確率で会いたい人とばったり出会うことが数回起こります。例えば、ミゲールという名のビートルズ好きの友人がいます。ある年、年末にビートルズのおおがかりな特番があり、私は「ああ、ミゲールにこれを教えてあげないと」と思いながら忙しい日々を送っていました。そして年末、仙台の実家に帰る新幹線に、「結局電話できなかったな」と思いながら乗ろうとしたら、なんとそのドアにミゲールがいるのです! 彼はちょうど宇都宮の知人の家に行くところでした。お互いに「ちょうど君の事を考えていた」と言葉を交わした後、ミゲールはさりげなくこう言いました。
「会いたいと思っている人に、よく思いがけないところで出会うよ」
 思わず私も
「自分もそうなんだ」
と答えたものです。
 テレパシーの実在を考えさせられるもっと強烈な体験があります。ある日職場でパソコンに向かっていたとき、私の頭の中で突然「メリーさんの羊」が鳴り始めました。私は音楽に関わって生きているので、頭の中に突然メロディーが流れ始めること自体は不自然なことではありません。しかしそれがなぜ「メリーさんの羊」なのか。何年も聞いたことも歌ったこともなく、特に好きでもないこの曲が、なぜ仕事中の頭の中に流れてこなければならないのか。この状況に当惑して立ち上がったそのとき、前の席の同僚が手でリズムをとっているのが目に入りました。そしてそのリズムは、いまだに頭の中で鳴り続けているメロディーと一致するのです。
 「Mさん、ちょっと変なこと聞いていい?」
 怪訝そうな顔でこちらを見る同僚に私はこう聞きました。
 「今、ひょっとして、心の中でメリーさんの羊を歌っていない?」
 「なんでわかるんすか!」
 彼は一瞬唖然としていました。
 知人でこんな人もいました。ある夜彼女は実家が火事になる夢を見ました。その夢がいつになくリアルだったので、思わず家に電話をしたところ、昨夜確かに消防車が来たそうです。しかしそれは、たき火の火が強すぎて、近所の人が思わず呼んでしまっただけでしたが。
 私自身とその周りに限らなくても、テレパシーの存在を納得させるだけの例はたくさんあります。ユングをはじめとしてたくさんの超心理学者が、人間は誰でもどこか深いところでつながっているのでは、と考えています。この無意識レベルの情報網は、人の死後どうなるでしょう。こうした感覚、とりあえずテレパシーと呼んでしまいましょうか、これは明らかに五感に根ざした感覚ではありません。ということは、五感がなくなるとこの感覚は発達してくることが予想できます。例えば、視覚を失った人が聴覚を異常に発達させたりすることを考えてみてください。人間は何かの感覚を失うと、それを補う為に他の感覚を発展させます。
 死んで心だけになり自分の心象世界に落ち込んだ人間は、自然に増幅されるテレパシー能力で心象世界を共有していくでしょう。ただし、誰とでも共有できるとは思えません。この世でもとても仲の良い夫婦とか、双子は、なんとなく意思が通じ合い、情報を共有します。あの世ではここまで近しい間柄でなくても、それなりに考え方の似通っている人たちだけが、それぞれの心象世界を共有するでしょう。そして無限と言えるほどたくさんの多様な死後の世界が、共有心象世界として形作られていきます。人生に完全に絶望して自殺した人は、自分のことに精一杯で、誰とも心象世界を共有できずにずっとひとりぼっちで孤独に暮らすかもしれません。人を騙すのが好きな人は、そのような人たちの共有心象世界に行き、騙し騙されて過ごすことでしょう。この共有心象世界こそが、死後の世界そのものだと思います。
 さて、結局は心の世界なら何でも自由に出来るのではないか、とここで疑問に思う人がいるでしょう。その疑問について考察する為にいったんこの世に話を戻します。


<意識は物理現象を起こす>
 私は誰にでも、意識が目に見える物理現象を起こせることを、自信を持って語れます。そうできる理由のひとつは、意識に応じてメーターが振れる念力計を持っていることです。これは仙台の佐佐木さんという物理学者が作ったもので、真ん中のターゲットに向かって右回りのイメージを送れば右メーターが、左回りのイメージなら左のメーターが振れるようになっています。
 20万円の念力計を購入するのはとても冒険でした。私の場合、幸いにして不思議研究所の森田さんがすでに購入していたので、お会いする際にそれを試す機会を得ました。森田さんとその他のニ人が会話に弾む中、私は黙々とその機械に取り組みました。まず右メーターを振ってみる。動く動く! 次に左回りにイメージを変えると、これがなかなか動かない。そこで森田さんに聞いたところ、「ああ、回転イメージをいったんキャンセルして方向を変えるのは、最初は難しいんですよ。いったん0点調整をし直してから左のイメージを送るといいです」と彼は教えてくれました。その通りにして再び0から始めたら、今度は左メーターがちゃんと動いていきます。その途中で三人の会話が私の注意を引きました。思わず聞き入って、ふと機械に目を戻すと、左のメーターレベルが下がってきていました。そこで改めて左回転イメージを送るとまたレベルが上がり始めます。これはどう考えても私の意識に反応しているとしか思えなかったので、私は早速その念力計を購入しました。正直言って未だに自由自在には扱えませんが、少なくとも自分の意識が作用しているのを確認するのには十分な機械です。
 これだけの費用を使わなくても、意識が物体に作用することを簡単に確認できる実験があります。森田さんの本に「よいお米と悪いお米」の実験が載っていました。二つのグラスに水とお米を入れ、片方には毎日「お前はよいお米だ」と褒め、もう一方には「なんて悪い米なんだ」などとけなします。すると、良いお米はいつまでたってもきらきらしているのが、悪いといわれたお米は早々と崩れ去ってしまうというものです。彼はこれを何度か試して、友人にも勧めたところ、みな同じ結果が再現できたと書いているので、これを私もやってみました。
 私はちょっとだけアレンジして、グラスを三つにしました。真ん中のグラスには何も声をかけず、右のグラスの米を褒めて左のグラスの米をけなしたところ、10日後には歴然とした違いが出てきました。右の米は若干崩れただけなのが、左は粒が半分以下になっています。ただ、真ん中の何の声もかけなかった米も、なぜか悪い米と同じほど、いや、もしかするとそれ以上に崩れていたのです。これを友達に話したら「それは気持ちをこめて言ったの?」と聞かれました。グラスの中の米に向かって毎日声をかけるのは、あまり日常的な光景ではありません。確かに、私は実験と割り切ってなんとなく声をかけていました。それを言ったら「これは、悪いでも何でも、毎日声をかけられているほうが無視されるよりもましだってことなんじゃない」と友達は答えました。早速私は二回目の実験に取り掛かりました。精一杯の気持ちを込めて取り組んだところ、10日後、良い米は今入れたばかり見たいにきらきらしています。そして悪い米は、もう砂粒のようにぼろぼろ。真ん中の米はある程度崩れていました。
 さて、この二つの結果の違いは、心を込めたかどうかだけにあるのでしょうか。私はおそらく、もうひとつの決定的な違いが、この二回の実験にはあると思っています。初回は、「森田さんがあれだけ確信を持って書いているのだから、きっとそうなるだろう」くらいの考えで取り組みましたが、二回目は、すでに一回目の実験を済ませていたので、確かにそうなることを「知っている」状態で実験しているのです。


<清田さんの話>
 ここで、スプーン曲げで有名な清田益章さんの話をします。清田さんに関して、その能力に疑問を持っている方もいるかもしれません。しかし私は約2年間、いろいろな話を聞きながら間近で何度もスプーン折り、ねじりを見て、彼の歌の伴奏を弾きながら若干個人的な話をしたり、みんなで酒を飲んだり、家族の方と話したり、そんな経験を通じてこう言うことができます。昔のことは知りませんが、現在の彼はとてもまっすぐな人で、その能力は確かに本物です。その上で下記の話を読んでください。
 彼はあちこちでスプーン折りの実演をやります。そして実演の後にみんなに自分でも試してもらうことが多いのですが、小学校6年生の前でやったときは、30人中17人がスプーンを曲げた事実があります。みんな最初は「おじさん、科学を知らないな。スプーンが思っただけで曲がるなんてあり得ないよ」などと言い、清田さんは「なまいき言ってんじゃねーよ。俺はお前らより科学を知っているぞ」とか思ったりするのですが、とにかく実際にスプーン折りを見せるとみんな夢中になるそうです。その結果として過半数の子供がスプーンを曲げました。同じことを大人の前でやると、そこにいた人たちは「トリックじゃないの」「彼は特別だよ」などさまざまな思いを抱えながらスプーン曲げに挑戦し、たいてい30人中一人曲がるかどうかの結果になります。居合わせたのが幼稚園生だと、スプーンを曲げる子はずっと多くなります。この事実は何を意味するのでしょう? 
 私は昔からスプーンを曲げられる人がいることに何の疑いも持っていませんでした。当然自分でも何度か試みましたが、一度も曲がったことはなく、だんだんと、一部の能力の優れた人だけが曲げることができるのだ、という考えになってきていました。そんな私が初めてスプーンを曲げることができたのは、清田さんの実演を何度も見て、この小学校6年生の過半数が曲げたという事実を聞いた後です。
心が物質に影響するのは確かなことですが、そこにはある一定の法則があります。物質への影響という面で見れば、私たちの自我はそれほど大きな力を持っていません。本当に大きな力を持っているのは、一般的な言葉でいえば「潜在意識」、学術的にいえば「閾域下の自我」と呼ばれるものです。これについてもっとよく分かってもらうために、清田さんの経験を紹介します。
 彼は大学の実験に何年間も付き合い、あらゆるものを考えうる限りの状況で曲げてきました。その中にどうしても曲げられなかった素材としてガラスがあります。ガラスの場合にはどう曲げようとしても割れてしまうのです。これがなぜ、曲がらずに割れてしまうかについて彼なりの考えを話してくれたことがあります。
 清田さんは小さい頃金ヤスリを曲げていました。しかし、金ヤスリのような鍛え上げられた金属は、本来曲がるものではありません。曲げようとすれば絶対に折れてしまうものなのです。ある日、ある大学教授が清田さんのところに来て曲がった金ヤスリを見ました。当然のことながら彼は非常にびっくりして、現在目の前にあるそれが、いかに非常識な、科学的にあり得ない物質であるのかをとうとうと清田さんに説明してくれました。その結果、何が起きたと思いますか? 翌日から清田さんが金ヤスリを曲げようとしても、それは折れてしまうようになったのです。
 彼はガラスも同じだろうと言っています。寿司屋の息子として、お客さんがコップを落として割るのを小さい頃から何度も見ているため、ガラスに対しては割れるイメージしか持てなくなっているのではないかと、清田さんは考えています。
 物質に影響をすることができるのは基本的に自我ではなく、閾域下の自我だというのがわかってきたでしょうか。しかし、話はこれだけでは収まりません。事実はもっと複雑です。


<集合無意識>
 東北大学の教官だった早坂氏は、在官中に右回りのジャイロ(コマのようなもの)は軽くなるという衝撃的な結果を発表して注目を浴びました。早坂氏はこの論文を物理の専門雑誌『フィジカル・レビュー・レターズ』に投稿しましたが、通常の物理常識からかけ離れた結果だけになかなか掲載には到りません。しかし、異例の一年半という長期の審査を経て、誤りは認められないのでついに掲載されたのです。さあ、物理学会は騒然とし始め、たくさんの物理学者が「そんな馬鹿なことがあり得るのか」と思いながら、論文の実験手順に乗っ取って追試を始めました。そして、大多数の学者は、早坂氏と同じ結果を得ることができませんでした。そう、彼らは自分たちが望んでいた通りの、どっち方向に回転しようとジャイロの重さは変わらないという、物理常識に見合った結果を得たのです。早坂氏と同じ結果を得ることができたのは、ほんの一握りの、偏見を持たずに本物の科学を目指す学者たちだけでした。
ここまでの話は、実験者自身の思いもよらない閾域下の自我が、実験結果を左右してしまったということを示しています。このような例は他にもあります。「月のしずく」として有名な、高野山の近くで取れる脅威的なパワーを持った温泉水は、分析する人によってその分析結果が変わってしまうそうです。これだけならまだ、分析手法が違ったのではないかとなりますが、極めつけなのはある分析者の報告です。その人によれば、分析中に近くを人が通ると、その瞬間に分析結果が大きく変動してしまうのだそうです。今の科学が、それとなく気付いていながらあくまで無視し続けているポイントは「意識」です。これを考慮に入れない限り超常現象の研究も進みません。幸い、意識工学という学問が、今少しずつ世界中に浸透し始めています。この学問が、他の学者たちから亜流ではないと認められたとき、超常現象研究が初めて市民権を得るのでしょう。
 話を早坂氏に戻しましょう。論文を出した後に、彼は実験の手法を若干変えて、彼の理論に見合った結果を出し続けました。しかし、その結果は日によってかなり違い、それがなぜなのかを聞いてくる学者たちに対して、彼は「原因はわからない」と答えていました。でも、私は彼がこの時点で、なぜ実験結果が毎日変動するのかをわかっていたと思います。なぜなら、早坂氏は後ほど、超常現象研究家として有名な秋山眞人さんに会ったときに次のような言葉を言ったそうです。
「集合無意識の恐ろしさがやっとわかったよ。最近は自分でも結果が出なくなってきた。」
 早坂氏は論文を出すにあたって当然何百回も実験を行ない、その結果を踏まえて、確かに右回りの方が軽くなるという結論を出しました。ところが、その結果が最近は出なくなってきて、その原因は集合無意識にあるというのです。
 人間の意識には、日頃表面に現れている顕在意識と、本人も気付いていない潜在意識があります。この潜在意識は、閾域下の自我、または無意識と呼ばれ、ユングなどは人間がこのレベルで互いにつながっていると考えていました。この無意識レベルでは常に情報が伝わり合っていて、その情報がたまたま顕在意識に現れてきたのがテレパシーなのだと考えられます。そして、もうこの先はわかっていただけるでしょう。人間の意識は実際の物理現象を起こします。ただし、その決定権を持つのは顕在意識ではなく無意識。となれば当然、その無意識の固まりである集合無意識は、この世の物理現象に大きな影響を与えるのです。

<共有心象世界の法則>
 結局、この世もあの世と同じように、共有心象世界のひとつと考えられます。この共有心象世界で起こる現象を決定付けるのは、各自の意識、そして集合無意識です。この他にも、異なった共有心象世界同士の影響が考えられなくはないですが、一番大きいのはこの二つでしょう。集合無意識が基本的な物理法則を決め、その法則を個人の意識(閾域下の自我)が崩すのです。
 人は死んだからといって、突然物分りが良くなったりするわけではありません。今生きている人たちとの違いは、単に、自分が一度死んだことを知っているだけなのです。亡くなった人々はそれぞれの波長に合った人々と共有心象世界を創り、彼ら自身の集合無意識が創る物理法則に支配されます。しかし、その法則が閾域下の自我と折り合わないとき、人は現世の苦しみを引きずり続けます。死んだらもう、肉体的な苦しみを続ける必要はないのに、そう思えない人たちは相変わらず、この世で苦しんでいた病気を死んだ後にまで持ち越すのです。この苦しみは、本人が、これ以上苦しむ必要がないのだと無意識レベルで納得するまで続きます。自殺者も、本人の潜在意識に罪悪感がある限り、居心地の悪い世界にいつまでも居続けます。


<結論>
 肉体を離れた心は、ごく自然な成り行きとして共有心象世界を形創っていきます。これが死後の世界であり、この世もひとつの特殊な共有心象世界です。共有心象世界の物理法則は、その世界を創り上げた心たちの集合無意識によって決まります。この法則は各自の意識によって変えることができますが、顕在意識レベルでは力を持ちません。
 真実とはいったい何なのでしょう。真実は基本的に各自の心の中にのみ存在します。集合無意識の求めるものは、それなりに一般的な真実として意味を持ちますが、誰でもそれを無意識によって覆せる可能性を持っています。
 世界には真実の名の下に戦う人がたくさんいます。でも彼らは、絶対的な真実など幻想に過ぎないことを知るべきです。もし絶対的な真実があるとしたら次のものでしょう。
「すべての現実は、多くの人々、そして存在たちの心の産物だ。これらの現実はいつでも、それを創造したものたちの心によって変えられる。」


※グリセリン結晶化の話が誇張されていることがわかり、それを削除しました(2015.7.31)。