16世紀後半、戦国時代も終わりに近付いてきた頃のことである。当時甲州では関東方面から塩を購入していたが、今川氏、北条氏らによって経済封鎖を敷かれ塩が手に入らなくなってしまった。甲州の人々にとっては深刻な問題である。ところがこれを聞いたライバルである越後の上杉謙信は甲州の苦渋を見かねて、「それならば俺が塩を売ってやる」と「価を平にしてこれを給し」た。つまり普段の流通価格で塩を販売したのである。彼は、困っている者がいたら、たとえ敵であっても、救いの手をさしのべた上で正々堂々と戦おうとした。ここから「敵に塩を送る」という言葉が生まれた。
「義の謙信」とは言われたが、戦国時代の常識から見れば「甘い」「お人好し」としか言い様がない。兵糧攻めどころか謀略、闇討ちなんでもありの時代である。しかし、「敵に塩を送る」という言葉に悪いイメージを抱いている人は少ないだろう。秀吉や家康にはまず当てはまらない言葉である。(別に彼らを非難するわけではない)「義の謙信」があくまでも「義の謙信」の姿勢を貫いたことによって「敵に塩を送る」という言葉が今に残ったと言える。「義の謙信」を証明し尚かつ強調する言葉なのである。
上杉謙信という人物は戦国武将としては他と変わったスタンスを持っていた。信玄、信長、秀吉、家康、みな形は違うにせよ各々が天下統一を目指し戦いに身を委ねていった。ところが謙信は「この乱世を鎮めるには将軍の権威回復が第一である」と考え、またそのためには「自分が将軍の天下平定を助けなければならない」と考えていた。権威も実力も失った幕府など誰も顧みないという風潮の中で、謙信独りが己の関東管領という職に拘っていたのだろうか?いや、そうではない。この理由としては当時謙信の所領であった越後という国が持つ大きな力が考えられる。越後は農業生産力に富み、また貿易港として栄え、そして冬の間に積もる雪は数万の兵による防衛力に等しいと言われた。これらの総合的な国力は当時では一つの独立国家として成立する程であったらしい。こういった国力を背景とした一種の余裕のような物によって謙信という人物のスタンスが支えられていたのではないだろうか。