時代も場所も全く違い、何ら関係のない出来事ではあるが、徳川家康と近藤勇が同じような心境でこの各々の戦いに挑んだという点に注目してみた。
三方ヶ原の戦い…1572年(元亀3年)12月、遠江三方ヶ原で徳川家康が初めて武田信玄に戦いを挑み、そして大敗を喫した戦いである。
元亀3年10月、武田信玄は甲府を発し上洛の途についた。そして12月、家康の居城とする浜松城を尻目に東三河に入ろうとした。家康、当時31歳。己が城下を素通りされて黙って見ておれるはずもなく、八千余の兵を率いて三方ヶ原にうってでた。迎え撃つのは戦国史上最強の騎馬軍団と言われた武田軍二万余。結果は周知の通りである。
この戦では家康の失態ばかりが目に付くが、実は家康にとっては大きな意義のある戦だった。戦国時代の風潮である「強い者になびく」いわゆる寝返りというケースは日常茶飯事で、この頃は徳川家臣団も多分に漏れず寝返る者が多い時期だった。この戦は家康の主君としての統率力・勇気・決断力が試される舞台となったのである。結果的に戦に敗れはしたが、家康自ら最前線で指揮を執ったことが家臣団から高く評価され、これ以後寝返る者はいなくなったという。
「天下分け目の関ヶ原」とはよく言われるが、家康にとって三方ヶ原もある意味で「天下分け目」の戦場だったと言っても過言ではあるまい。
池田屋事件…1864年(元治元年)6月、近藤勇率いる新選組による尊攘過激派浪士襲撃事件である。
6月5日、京都御所焼き討ちを企てる過激派浪士二十数人が今宵集合するという情報を得た新選組は二手に分かれ、祇園祭を明日に控え賑わう京都の町を探索する。近藤隊が池田屋に辿り着いたのは午後10時頃である。近藤は出入り口を固めさせ、わずか四人で屋内に踏み込み、激闘二時間の末、九人の浪士を討ち取り二十余人を捕縛する。ここに新選組の名が天下に轟くのである。
この頃近藤は、三方ヶ原の戦い以前の家康と同じような状況下にあった。新選組の地位・方向性もまだ確立しておらず、脱走者が相次ぎ、近藤のリーダーシップどころか新選組の存在までもが問われる時期に来ていたようである。この事件を契機に、「新選組」「近藤勇」の名は幕府の中でも重要な地位を占めるようになった。それとともに時代は明治維新へ向けて急加速していくことになるのだが…。