一刀流

 「一刀流」と言うと、よく素人(?)の人が勘違いするのが刀の数だと思ってしまうことである。「二刀流」は確かに二刀使用するが、「一刀流」とは実は人名に由来するもので、戦国期にさかのぼり、伊東一刀斉という人物が始祖にあたる。但し、この時はまだ「一刀流」とは謳っていない。一刀斉の門人である神子上典膳改め小野次郎右衛門忠明が旗本として幕府に仕えてから以降「一刀斉流」→「一刀流」と銘打つようになったらしい。さらに門人達によって細分化されている。(一刀流系譜参照

 一刀流の極意とは「相手の太刀を一度かわしてから斬りかかるのではなく、相手の太刀起こりを見抜いて、相手の太刀の運剣に拘らず、自分側から進んで打ち込む」のだそうだ。某誌の史談会で次のようなことが述べられていた。

 「浅野内匠頭の剣術が一刀流であったなら、吉良上野介を一撃で仕留めていたことだろう。」

 浅野家の流派はわからないが、その流派が劣っていると言っているのではない。しかし、この辺りに一刀流の極意があるのではなかと思う。他の流派に比べて、防御よりも攻撃を重視する度合いがより強いといったところか。

 二本松藩にこんな話が語り継がれている。松の廊下事件の際、藩主は4代目の丹羽秀延で、初代の光重は病床に就いていたが、事件の報告を受けた光重は「長矩公はなぜ突かなかったのか。突けば思いが達せられたのに。」と口惜しがったと言う。この話が代々語り継がれ、時は幕末、少年隊士成田才次郎が出陣の時、父の外記右衛門に「敵を斬らず、突け」と教えられ、落城間際に重傷を負いながらも西軍兵の一隊の大将を突きで仕留めるのである。突きをくらった西軍兵の大将は「子供と思って油断したのが間違いだった。わしはこのような勇敢な少年に殺されて本望だ。」と訓して死んだ。才次郎も間もなく息を引き取った。才次郎、時に14歳であった。

 闘う者にとって一刀流の突きは特に恐れられていた。一刀流とは直接関係はないが、新選組最強の沖田、永倉、斉藤の3人も突き技を中心とした剣法だったようである。

*参考文献*

「新日本剣豪100選」(秋田書店)

歴史読本「新選組・彰義隊・白虎隊のすべて」(新人物往来社)

「古流剣術」(愛隆堂 )