1701年(元禄14年)3月、殿中松の廊下での刃傷事件で、浅野内匠頭長矩は切腹、家名断絶、城地公収、そして吉良上野介義央にはおかまいなしとの裁決が下された。翌元禄15年12月、吉良邸に討ち入り義央を討ち取った赤穂浪士達は、翌年2月、幕府の断が下されて切腹して果てた。
これら二度に渡る幕府の裁定には、実は一貫性がある。法をとるか道徳をとるかという点において、法を選んだのである。
まず長矩に対する裁定については、殿中での刃傷沙汰ということを考えれば極刑はまず免れられない。幕府はこれを長矩の一方的な傷害事件とみなし、長矩の側だけに処分を下した。ところが世間ではこれを長矩と義央の私闘とみなし、「喧嘩両成敗が武家の定法のはず」と幕府の一方的な裁定に対する不満の声が沸き上がる。しかし「喧嘩両成敗」とは言うものの、貞永式目や戦国期の分国法にうたわれていた文句で、いわゆる武士の道徳のようなものであった。まずここで道徳を以て裁くという方法が切り捨てられた。
そして元禄15年12月15日に赤穂浪士が討ち入りを果たしてから翌年2月4日に切腹して果てるまでの期間、幕府内外で正邪議論が沸き上がる。荻生祖來、室鳩巣、林鳳岡などといった当代一流の儒学者達までもがこれに加わるほどであった。大きく分けて、一つは「仇討ちを果たしたことは武士の本分である義を貫いた行為に他ならない」という武士の道徳を主幹とした助命論。もう一つは「深夜に徒党を組んで他家に押し入ることは法を無視し秩序を破る行為である」という法を主幹とした極刑論。ここでも幕府は法を以て裁くことを選んだ。選ばざるを得なかったのかもしれない。それは時代がそうさせたのではないだろうか。家康が江戸に幕府を開いて百年の月日が流れ、先代の幕閣達によって数々の法律や制度が整備されてきた。レールが敷かれ、「さあ、これからこのレールの上を進んでいこう!」という時代ではなかったか。しかし、幕府は浪士達の武士の誇りを守ることを忘れはしなかった。斬首ではなく切腹を申し付けることによって。