歴史2(東京篇)

 歴史1は、江戸東京の歴史を知らないと話にならないですね。
 『郷土資料事典13 東京都』からざっと拾います(人文社、1997年。p.17-23)

 石器
 土器が発見されるより古い地層から、黒曜石製の石器が発見された(1951、板橋区茂呂町)
 都内では板橋区根之上、練馬区東早淵、小金井市西之台・中町、国分寺市殿ヶ谷戸で同様な遺跡が発掘された。地層は上部立川層、出土品は黒曜石かチャート製のナイフで、土器が無い。

 縄文土器
 モースが貝塚を発見し、最初の考古学調査(1877、品川・大田区大森)
 貝塚は都内に 50 前後、縄文遺跡は 1000 を数える。
 早期では杉並区井草、昭島市拝島、土器は丸底や深鉢型が多い。前・中期になると竪穴式住居が見られ、土器は厚手で大きく、土偶や石棒・石皿も混じる。中期では町田市高ヶ坂、調布市深大寺付近、あきる野市西秋留。
 分布は、青梅・昭島・立川・国分寺・調布・世田谷を結ぶ武蔵野台地南縁と、瑞穂・村山・東村山を結ぶ狭山丘陵沿いに集中している。

 弥生土器
 有坂〓蔵が縄文と異なる土器を発見した(1884、文京区弥生)〓は金へんに召(しょう)。実はこの場所が正確に判ってない(笑)
 中期では北区亀山、大田区久ヶ原、荒川区道灌山、後期では文京区向ヶ丘、板橋区前野町。河川の沖積地上に分布する。地図を見れば判りますが、嘘です。沖積地に近い洪積地、つまり境目。馬場と同じ様な地形です。水稲栽培の遺跡は未発見です。
 早稲田グランド(現センター)の東戸塚遺跡はこの時代と思われますが、調査報告が見つかりません。

 古墳
 前期古墳では大田区亀甲山、台東区摺鉢山、港区丸山、後期古墳ではあきる野市大塚、狛江市亀塚、北区兜塚。
 山/塚を調べた古墳が多いです。馬場の古称「戸塚」を思い出すと、石扉の祠があったと言い、元々あった小山を高田富士に造ったと言います。古墳ではないかと、どなたか記してましたが、当の神社が移転(現商学部)…本当に何も出なかったのかな?

 国府
 大化元年(645)国郡を制定し国司が送られた。武蔵国府(府中市付近)が置かれ、50 戸を 1 郷として多摩郡(10 郷)豊島郡(7 郷)荏原郡(9 郷)があった。『延喜式』によれば調は朱紺の絹織物 60 匹、黄織物 100 匹、紫草 3200 斤。
 国府の位置も正確に判ってない(笑)郡名は誓閑寺の鐘銘に有り。郷名も面白そうですね。

 国分寺
 天平十三年(741)国分寺(国分寺市)建立。天平宝字元年(757)落成。

 平安時代が抜けますが、史料が少ないのでしょう。将門征伐(940)がトピックですね。調べてみたいけど、当面抜けたままで。

 江戸荘
 十二世紀初めごろ、秩父重綱の四子重継が館(千代田区)を置き、江戸氏を名乗る。
 武蔵では武士が荘司となる例が多い。他に豊島荘(豊島区)横山荘(八王子市)小山田荘(町田市)。

 鎌倉幕府
 北条氏が実権を握り、武蔵と上野は得宗(北条氏)となる。
 頼朝は鎌倉街道を敷き、方々の寺社縁起に名を残す。
 因に江戸氏は平家方らしく、安房から上る頼朝を国府台(市川市)で半月足止め(1180)。その後、頼朝は隅田川を渡り馬場へ。

 分倍河原合戦
 元弘三年(1333)上野国新田義貞が北条泰氏を分倍河原(府中市)に破る。新田方に江戸、豊島、武蔵七党が加勢。

 武蔵野合戦
 観応二年(1351)上野国新田義興、義宗が宗良親王を奉じ、尊氏に反す。武蔵国に入り、人見原(府中市)金井原(小金井市)に合う。新田方に武蔵七党、熊谷。尊氏方に江戸、豊島、石浜、河越。宝泉寺は新田陣営跡とか。むしろ尊氏方のような。

 江戸城
 康正二年(1456)太田道灌が構築し、長禄元年(1457)完成。旧本丸とその周辺といわれる。どんな城か不明。戦国初期の城なので、堀柵館ではないか。
 道灌没後、上杉氏に渡り、大永四年(1524)北条氏綱に落とされる。戸塚稲荷の縁起に見える上杉朝興。北条に渡り、大胡勝行が牛込氏を名乗る(1555)
 後北条氏の支城として遠山氏が居り、天正十八年(1590)小田原攻めで、家康の武将戸田忠次に落とされる。この折、信玄が馬場で馬試しとか。
 同年、家康入る。文禄元年(1592)修築し、寛永年間(1624-44)外堀(浅草橋)終了。

 江戸
 家康、青梅・五日市の二街道を設け武蔵野の開発に着手、神田上水を設備、日比谷入江の埋立に神田台地(駿河台)を崩す(1603)
 秀忠、家光と三代に渡り都市基盤を整備。五街道、大名屋敷、玉川上水、商人、職人の誘致。

 大火
 明歴三年(1658)の大火を機に都市計画を見直す。城内に火除地(防火帯)を作るため、大名屋敷と寺社を城外に移転、両国橋を作る。上屋敷では手狭になり、さらに外へ中屋敷、下屋敷を作る。馬場の屋敷地の理由。寺社は今の都内の寺社町すべて。馬場付近では護国寺、感通寺近辺。

 御維新
 嘉永六年(1853)黒船。慶応二年(1866)長州征伐。翌三年奉還。翌四年無血開城、東京(とうけい)と改まる。
 明治四年(1871)廃藩置県で東京府、明治十一年(1878)郡区町村編成法で十五区六郡。明治二十二年(1889)市町村制により十五区(旧江戸府内)が東京市となり、南豊島郡は内藤新宿町、淀橋町、大久保村、戸塚村、落合村、北豊島郡は巣鴨町、巣鴨村、高田村、長崎村に統合された。馬場は牛込区、小石川区、戸塚村、高田村に当たる。当時の区境は警察の所轄に残る。

 この本、出典不明が多いのですが、逆に最大公約数かな、と思います。このままだと突っ込み不足ですが、流れを入れておくには良いでしょう。


Fumi, 6 May 2001.