Rodos
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ロードスの歴史
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B.C.12世紀ごろにロードス島にはドリス人が住み着き、太陽神ヘリオスの子孫が築いたと伝承される、カメイロス、リンドス、イアリソスの街を作り上げた。B.C.408年に、この3都市が共同でロドスの街を建設し、その後はロドスが島の中心となり、同時にエーゲ海、地中海においても、重要な海軍都市となっていった。
このころ、フィロンの世界七不思議の一つであるヘリオスの巨像(コロッソス)が建造された。ギリシャの彫刻家カレースの作品だと言われる青銅製の巨像は、高さ30メートル以上で、足の間を船が往来していたと伝えられるが、実際の形は不明である。B.C.226年に地震で崩壊した、あるいは人為的に破壊されて売り払われたなど、様々な説がある。
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ロードス島はB.C.1世紀よりローマの支配下となり、4世紀にはビザンチン、7世紀にサラセン、11世紀にはヴェネチアと、次々に支配者が変わっていった。1306年、エルサレムから、イスラム勢力におわれて逃れてきた聖ヨハネ騎士団(ロドス騎士団)がロードス島を支配し、対イスラムの前線基地として、ロードス島に城塞や要塞、修道院などを建設した。
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1523年、オスマントルコのスルタン・シュレイマンが聖ヨハネ騎士団を追い出し、ロードス島はトルコの支配下となった(聖ヨハネ騎士団はマルタ島に逃れた)。オスマントルコ全盛期のシュレイマンは、圧倒的な戦力でロードスを無血開城させたと言われている。聖ヨハネ騎士団により、フランス風の建造物が並んでいた街の中に、トルコ風のモスクやハマム、噴水などが造られた。
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1911年、トルコに対して反旗を翻した混乱期のロードス島を、イタリアが占領し、イタリア語を強要した。このころ、道路、官庁施設、ホテルなど、現在の新市街が造られた。1943年から45年まではドイツが占領し、イギリスの管理下におかれた後、1948年にギリシャとなった。
セント・ニコラス要塞
マンドラキ湾の風車の先に見える要塞 |
マンドラキ湾の防波堤の先端にある、聖ヨハネ騎士団が造った要塞。コンサートなども開かれる有名な場所だが、中に入れる時期や時間が限られるらしく、入り口がふさがれていた。 |
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イポトン(騎士団)通り![]() |
ロードスの街の中心を貫く、まっすぐの騎士団通り。騎士団の住みかは、言葉別に分かれていたという。 今でも建物の入り口にフランス語やイタリア語の表記がある。保存地区かと思いきや、自動車やバイクの交通量は結構多い。騎士団通りなどの主な通りは、ロードスの海岸にある小石で舗装してある。 |
小さな丸い石を敷き詰めた舗装道路 |
騎士団長の宮殿 旧市街北東にある巨大な建物 |
一時期ムッソリーニの別荘としても利用されたため、内部はイタリア風のインテリアで豪華すぎるほどに飾られている。子どもの背丈ほどある日本の陶磁器(おそらく有田焼)もある。コス島より持ち込まれた床のモザイクが見事。だが、コス島の建造物は廃墟と化しているのではないかとやや心配にさえ感じる。 |
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考古学博物館![]() |
なんの壁画か知らないけど、この博物館で最も気に入ったもの。暗く冷たい石造りの博物館は、古い彫像や壁画がよく似合う。管理のおばちゃんたちはパワフルで、おしゃべりがよく響くけど、かつては聖ヨハネ騎士団の病院だった建物に似合わなかった。 |
古代ギリシャ、ローマ時代からの彫像が豊富 |
実際に病院として使用されていた建物を、まるごと考古学博物館とりて利用 | イタリア南部やアラブに多い中庭式の建物。この写真は大部屋。この部屋の端には木のドアで隔てられた、窓のない病室がずらり並んでいる。隔離病室だろうか。 |
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シュレイマニエ・モスク![]() |
オスマントルコのスルタン、シュレイマンが、聖ヨハネ騎士団をロードスから無血開城させた。その時代に造られたモスクは、意外と質素で、中は工事中で入れなかった。今でもムスリムがいるはずなのに、ロードスのモスクは、祈りの合図(アザーン)を流すことはない。 |
オスマントルコの名残 |
旧市街 迷路のような通路が |
ロードスはギリシャ、ローマ、十字軍、トルコ、イタリアなど、国際色豊かな街。そんな街は、大部分が石組みの建造物におおわれた迷路。トンネルを抜けると、噴水がある広場に出るなど、迷子になるのが楽しい街。 |
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アクロポリ(スミス山)![]() |
B.C.5世紀ごろの古代都市遺跡。写真はアポロン・ピュティオス神殿。石垣を下ると、劇場、競技場がある。出入り自由の馬蹄型競技場では、陸上の練習をする姿が見られた。 |
ロドス市街地から約2kmの山頂 |