「桜下漂流」「わたしが一番きれいだったとき」の誕生まで


 「桜下漂流」「わたしが一番きれいだったとき」の2曲は、まずはテレビドラマ「砦なき者」のために作曲されたものです。結果的には「わたしが一番きれいだったとき」が使用されたのみで、全面的には宇崎竜童さんの曲が使用され、私どもの参加は、本来的には宇崎竜童の曲を弾く器楽奏者として位置づけられるべきものでした。本編でのクレジットは、「音楽/宇崎竜童・マリオネット」となっていますが、これは宇崎さんの我々への最大限のご厚意で、さすが一流所の懐の深い配慮を感じます。「桜下漂流」が使われなかったことにも「実によかったンだけど、細かい音譜のツブツブが、セリフにかぶっちゃって・・・」などと貴重なご意見も頂戴し、大いに今後の参考となりました。

 「桜下漂流」の最初のイメージは、闇夜に明滅するバベルの塔でした。(今なら六本木ヒルズのような?)「塔」は、つまり「砦」です。この「塔/砦」は、中心がなく巨大な円筒状です。「砦なき者」たちは、無論「砦」の外ですが、内にいると思っている者も、実は「砦」の壁面に巣食っているだけで、「砦」の構造に関与しているわけではありません。「砦」は、時代の欲望が造り上げた外・骨格態で、まさしく昆虫の様に、特定の用途に優れ、目的達成のためのルートを躊躇なく選択します。「闇夜の明滅」のイメージは、陸生のホタル、通称「姫蛍」です。「姫蛍」は「森の蛍」とも呼ばれています。その明滅は、一個体に限ればチカチカと神経質ですが、明滅の周期を集団が獲得し始めると一瞬「光と闇」がダイナミックに交差します。そして周知のとおり、その明滅はホタルの終末の時です。

 「桜下漂流」の命名の由来は、たまたまそのとき読んでいた、なかにし礼先生の小説「さくら伝説」の影響です。読むにつれ、禁断のエキゾチシズムに引き込まれ、私の中で「闇夜に明滅するバベルの塔」のイメージが「真夜中の桜の花吹雪の下の彷徨」に転化していきました。そして、闇の中、青白くもあり、桜色でもあるその風景の色調を踏まえて、副題に「Sangue Azul」(青い血)とつけました。「サング・アズール」とは、意味転じて「貴族」を表します。私的には、西欧の不可能性の象徴であった「青いバラ」の喚起を目論んでいます。「おうか」は普通「桜花」ですが、阿木燿子さん曰くの「花なら桜」と個人的に好きな「花下遊楽図屏風」にあやかり、あえて「桜下」としました。

 「桜下漂流」の冒頭の和音は、1987年に初めてポルトガルに渡ったとき、思いついたものです。当時の私は、世界標準から測れば、現地のファド(カスティーソ)の実に貧困な和音の響きに絶望しておりました。しかしながら、その奥の圧倒的にネイティブで、且つジャンルたる自信に満ち溢れた表現に感服もし、だからこそまた、決定的に辿り着けない「現地」に二重の意味で絶望しておりました。そんな異国の孤立感が、私に件の不安定で乱反射するような響きを引き寄せたのでした。この和音は、かつて京都の桧垣バレエ団の創作劇「雨月物語」の音楽を担当したときに使用したのですが、以後、奏法上の困難もあり使われることはありませんでした。

 「わたしが一番きれいだったとき」は、「桜下漂流」のデモ録音が完成した直後、ほんの30分足らずで出来た曲です。「桜下漂流」は実験的な曲で、音も多く指使いもイレギュラーです。逆に、「わたしが一番きれいだったとき」は、シンプルでメロディーも単純です。結果、「砦なき者」には、この曲が使われたのですが、このようなタイプの曲は、「桜下漂流」のような幻術的な曲を、捨石にしなければなかなか出てこないことが多いのです。

 「桜下漂流」のデモ録音が完成した直後、私は吉田に「桜下の正反対の感じでコード伴奏とリズムを・・・」と依頼しました。プレゼンには、タイプの違う曲が幾つか必要だからです。また、「桜下漂流」の実験的性格を補完する必要も少なからず感じていました。さて、デモ録音とはいえ、他人に聞かれることが前提の録音は気合が入ります。実験的な「桜下漂流」を補完する風景を作るには、そうした緊張と火照りが身体にリアルな残像としてあるうちがチャンスです。機会を逃す手はありません。然り。作戦は功をそうし、「わたしが一番きれいだったとき」は実に安寧に誕生しました。曲調は端正な、しかしミネラル分の多い、食べ飽きない作品になりました。吉田の言を借りると「短時間で料理したものは素材の味がそこなわれない・・・」

「わたしが一番きれいだったとき」の命名は、大阪・ミナミ「ルル」での恒例のイベントがきっかけです。その日、飛び入りで参加した女優の日色ともゑさんが、茨木のり子先生の名作「わたしが一番きれいだったとき」を朗読、いつものように私たちが音楽をつけるということになりました。普段なら、「わたしが一番きれいだったとき(詩)」には「光の中で」を弾くのですが、その日は、すでに「光の中で」を弾いてしまった後でした。そこで、出来たての曲「わたしが一番きれいだったとき(そのときは無名)」を弾いたところ、実に具合もよく、それ以来、曲名として拝借しているのです。この件は、本来なら茨木のり子先生にも了解を得なければ礼を失することです。CD化されるとき、改めてご挨拶に参じたいと思います。

 いずれにせよ、何か作品が生まれるときには、様々な奇跡的な出会いがあります。マザー・テレサは「今日の目覚めは奇跡です」と言いましたが、日々刻々が少なからず出会いならば、今あることも奇跡的なことです。逆に、小さな出会いを丁寧に重ねて行くと奇跡もあり得るということかもしれません。今回、掲示板に寄せて頂いた誠意あるご意見は、まさしく「小さな出会い」です。心より感謝申し上げます。


湯淺 隆