バイロ・アルト、FADO、サウダーデ
(月刊ミュージックタウン/96年11月号掲載)
FADOは、例えれば演歌であり、ブルースであり、歌謡曲であり、フォークソングであり、民謡であるのだが、しかし毅然と区別されたそれ以外の何ものかである。そして、そんなFADOに出会いたいのなら、まずは本場ポルトガルのバイロ・アルトに飛ぶのが一番早い。主都リスボンの中心街に位置するその地区には多くのFADOの店(Casa
do Fado)が点在し、毎夜ファディスタ(歌手)とギタリスト達(通常はポルトガルギターとギター)がFADOを堪能させてくれる。
若きアマリア・ロドリゲスの録音が行なわれた《カフェ・ルーゾ》、FADOの開祖マリア・セベイラの名に因んだ《セベイラ》、充実した演奏を聞かせてくれる《オ・ファイア》etc…。それら有名店以外にも、小さな店だが家族的な雰囲気が嬉しい《ノノ》、場末の酒場風が妙に哀感をそそる《アデガ・リバテージョ》など、バイロ・アルトを30分も散策すれば、幾つものFADOの店の看板を目にすることが出来る。
バイロ・アルトで出会うのは、夜毎の客を相手に歌ういわば名もないファディスタ達のFADOだ。それは、自ら求めて会場に足を運ぶ『アマリアのFADO』ではなく、たまたま入った店のFADO―。アマリアを前提にして行くと、当然いささか違和感を憶えよう。しかし、逆に言えばアマリアこそが突出した存在だったわけで、本来FADOは酒場の雰囲気が似つかわしい。
バイロ・アルトではアマリアとはまた違った意味でのFADOの魅力を見いだすことが出来る。俗にFADOは暗いとよく言われるが、暗いのは演奏の際の照明であって(冗談ではなく伝統的にそうする)意外にリズミカルで、実に力強い表現である。その力強さには、その夜限りの客に芸を売る生活感があふれ出している。客の中には話に打ち興じ歌を聴かない者もいる。しかし、ファデイスタ達は歌うことをやめない。その姿は逞しくもあるが、何処かもの哀しくもある。
バイロ・アルトは、そんなファデイタとギタリスト達の仕事の現場なのである。ともかく、そこには現在FADOが生き延びて行ける環境がある。いろいろな見方があろうが、まずは喜ばしいことだと思う。
今回の渡ポでは、リスボンにある『FADOとポルトガルギター』を愛する2つの団体に加入した。ひとつは『ACADEMIA
DA GUITARRA PORTUGUESA E DO FADO/ポルトガルギターとファドの協会』、もうひとつは『ASSOCIACAO
PORTUGUESA DOS AMIGOS DO FADO/ファドの友ポルトガル協会』である。その2つの団体は、いわば毅然と区別された『FADO』を求めるものである。
メンバーはプロの演奏家もいれば、愛好家、詩人、ギターのコレクター、関係資料のコレクター、自称FADO評論家など種々雑多だが、一様に彼等は自らの為に演奏し歌い『FADOとポルトガルギター』について語り合う。運営は月1回程度の会合と会報が中心だが、活動は多岐にわたる。自主的な演奏会は勿論、様々なイベントプロデュース、またしばしば地方で催されるFADOの祭があれば新人の発掘あるいは指導にあたることもある。そこには『FADO』に関わることから派生する実にきめの細かい人間関係のネットワークが出来上がってゆく。その意味で、彼等にとって『FADO』は単に音楽表現だけではなく、より良く生活して行く為のコミュニケーションの手段でもある。そして演奏家の表現は、それらの状況を踏まえることでより鍛えられ厚みを増し、また、聴く側の感性も磨かれてゆく。実際、彼等の批評はなかなか手厳しい。初めて聴く歌手などには、声は良いか、メロディーを持っているか、リズム感は?、言葉は正しく理解されているか、心はあるかetc様々な議論となる。そして特筆すべきなのは、彼等の感受性がセンチメンタルかつ繊細な表現に対して実に鋭いというこ
とである。以下はそのことを私が実感したある夜の事だ。
それは今年6月、私たちも参加した『フェスタ・デ・リスボア'96/ポルトガルギターの夜』と題されたイベントでのことである。場所はパレシオ・パンカス・パーリャと呼ばれる公共の建物とおぼしき所。通常コンサートは夜9時半から2〜3のグループが出演し11時頃には一度お開きになるのだが、今回の話はその後に中庭で行なわれる、いわば打ち上げコンサートのことである。
本番のコンサート終了後、三々五々会場から出て来る客の為に、ささやかながらワイン、チーズ、パンが用意されている。レンガ大の石板が敷き詰められた中庭は、夜ともなると日中の暑さが嘘の様にひき、誠に涼やかである。心地よい夜風にあたり、客たちはしばしワイン片手の談笑となる。程なく、ポルトガルギターの調弦が始まり、話し声も低くなる。実に良いタイミングで柔らかく照明が入り、いよいよアフター・コンサートが始まる。その日の仮舞台は建物2階から中庭に降りる階段の踊り場だ。曲はコインブラのセレナーデ。黒マントの男性3人が大理石の階段に腰掛け、静かに演奏を始める。ポルトガルギターの音は石の壁を伝い、乾いたリスボンの夜空に抜けてゆく。その響きは実にセンチメンタル。そして、限りなく優しい―。
やがてそこには、演奏の善し悪しでは測れないある状態が立ち現れる。その状態は、その時と場所、その空気がなければ不可能だ。また演奏者も聴衆も、その状態を内側に共有していなければ立ち現れはしまい。その状態は例えて言えば「悲しいよろこびのような、祈り歌うような」「まぶしい光だけに心湧きたたせている人たちに対置する、淡いランプの明かり、ともしびへの限りない親近の情」(注)にあふれ、その情感の共有を彼等はその場で強く了解し合い、静かに音に聴き入るまなざしには、侵されることを許さず、守り育もうとする意志すらうかがえる。その意志の根拠を未だ私は解き明かしてはいないが、ともかくその夜の出来事は、私にある完璧な何かを実感させた。果して、それは『サウダーデ』の入口であったのだろうか? 今はまだ正確には答えられないが、考え感じてゆくきっかけは見つけられた様な気がする。
ところで後でわかったことだが、この一連の企画をした『ACADEMIA〜』の会長ペネンド氏は、我が相棒・吉田に「最後に外でやるコンサートは申し訳ないが君たちは弾けないんだ。それは私たちのものだから…」と告げていたそうだ。さもありなん、まずは納得するしかないだろう。『サウダーデ』はなかなか手ごわい。私にとっては今後ますますの課題であり続けるだろう。
(注)与田準一氏著『五十一番目のザボン』(講談社文庫)の吉田定一氏の巻末解説より