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第6回
「紅白歌合戦」との出会い

 あなたが「紅白歌合戦」を初めて見たのは何歳の時でしたか。僕が自分の意志で「紅白」を最後まで見たのは、たしか小学校4年生の時でした。1977年の第28回。ピンクレディーが初出場した年です。それ以前の年の「紅白」はまったく記憶にないところから考えると(衛星放送での再放送を見たことはある)、ほとんど興味を持たなかったようです。

 「紅白」を見る1つのきっかけになったのは、ある書物でした。別に「紅白」について書かれた本ではありません。それは子どもの作文集で、全国のコンクールに入賞した優秀作を収録していました。小学校を通じて毎年販売されていたものです。その作文集の売り上げ金が、たしか慈善事業に寄付されることになっていたと思います。

 僕は、その作文集を学校で買って、家で読みました。優秀作だけあって、どれもなかなかうまく書けている。その中の1つに、正月の初詣に行った様子を書いた作文がありました。今はもう手元にありませんが、だいたいこんな感じでした。

テレビの「こう白歌がっせん」も終わり、お母さんにせき立てられながらようやく身じたくをすませ、家族と一しょに表へ出ました。

 何ということはない記述です。しかし、僕はここで少なくとも2つの衝撃を受けました。ひとつは、「子どものくせに『紅白』をしまいまで見て、夜更かしをしてやがる奴がいる」ということ。もうひとつは、「こう白歌がっせん」なるテレビ番組が、公的性格を持った作文集に堂々と載るような、国民的な番組であったということです。

 僕は、この作文を書いた子に嫉妬しました。なにしろ彼は、自分が国民的番組「こう白歌がっせん」を最後まで見られるような大人であることを、あろうことか、文部省公認(?)の公的な作文集を通じて、誇らしげに満天下に公言しているのです。このときから、僕にとって「紅白」とは、飲酒や喫煙よりもいっそう魅惑的な、大人への通過儀礼として認識されるようになったのです(と思います)。

 その年、1977年に、始めて〈通し〉で「紅白」を見ました。僕の「紅白」の見始めは、このように自分の決心によるものであって、家族の影響その他の要因は薄かったようです。むしろ、父は歌謡曲に興味がなくて早く寝てしまうし、老人も早く寝てしまうし、起きている家族といえば正月料理の準備に追われる母ぐらいのものでした。わが家の「紅白」は、一家団らんで和気あいあいと見るものではなく、母子家庭のごとく母と寒い台所で見るか、または、彼女が寝に行ってしまってからは独りでガンバッて勝敗を見届けるというような具合でした。どこが「大人への通過儀礼」だか分かりゃしません。大人はみんな寝てるじゃないか。

 それからおそらく毎年、僕は「紅白」をほぼ欠かさず見ていたはずです。もはや「通過儀礼」としてというよりも、純粋に「紅白」の魔力にからめ取られてしまったのです。小学校6年生のとき(1979年)には、カセットテープに音を録音しました(これはすぐに紛失しました)。翌1980年にはビデオに録画してみました。このときは、家族に「高いビデオテープに下らんものを録画して、何度も見てるんじゃない」と軽蔑され、自分でも反省して、別の番組を上書きしてしまいました(大人の不用意な一言は、子どもの可能性を摘んでしまうと言う一例です)。

 高校受験と、大学受験の時には、涙をのんで「紅白」を見るのを自主規制しました。合格のための一種の「茶断ち」みたいなものです。それでも気になってしかたがないので、勉強を中断しては、ときどき座敷に走って行き、暗い中でテレビをつけて(家族はもう寝ている)、「紅白」の雰囲気を体内に吸い込んでは、また勉強部屋に戻っていました。

 現在のように、万難を排して「紅白」を見るようになったのは、大学に合格した1986年以降のことです。

 1977年に初めて見た「紅白」はよく覚えています。喜劇王チャップリンが死去した年でした。白組の応援団長・三波伸介が、チャップリンの格好をして踊っていました。紅組の中村メイコが、「チャップリンは享年88歳、本日のチャップリンは88キロでございました」と言ったら、三波さんはコケていました。この光景を、最近になって再放送で見られたときは、感慨無量でした。ちっとも色あせていないVTRが、僕をそのまま当時に連れていってくれたような気がしました。

(1998.11.17)


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