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 ことばをめぐるひとりごと  その19

「厭うて」か「厭って」か

 ちょっと中学校の国語のおさらいになりますが、「五段活用」の動詞は、連用形に助詞の「て」などがつくと、いわゆる「音便」という変化を起こす場合があります。特に、「食わ(ない)・食い(ます)・食う・食う(とき)・食え(ば)・食お(う)」のように活用する「ワア行五段活用」の動詞は、「食いて」が「食って」になるような促音便を起こします。
 ところが、この「ワア行五段」の動詞のなかには、例外的に、促音便ではなくウ音便を起こすものがあります。

おもえば険しいみちのりだった。とにかく難しい、わからないことだらけだった。
「わたしのこの石、生きてます?」
敵である相手に教えを乞うていた期間は、ずいぶん長かった。(下田治美「なんてったって」)

冷害に強いコメよりも、高く売れる「きらら」に力を入れる農家が増えている。今回の凶作は、飽食ニッポンを問うているようにも見えた。(「朝日新聞」1993.10.16)

 上の「乞うて」「問うて」は、ワア行五段動詞に「て」が付いたものです。機械的には「乞って」「問って」と促音便になるはずで、それゆえ単純なワープロで変換すると「乞うて」「問うて」が出ないこともあります。しかし、実際には促音便形はまず使われません。
 「乞う」「問う」のほかに、「厭(いと)う」「負う」「沿う」「のたまう」などの連用形にもウ音便が観察されます。これは一方では促音便形もあって、ゆれているかのようです。

 おっしゃる通りかもしれないが、それでは教員につきものの難儀をいとうてはいまいか。真の教育とは何を言うのか。四十五人を皆勉強のできる素行の立派な子供にしようというのか。(「朝日新聞」1984.11.1)

村山富市氏は、〔中略〕自ら防衛庁長宮を任命し、四兆六〇〇〇億円の防衛予算の執行に責任を負うただけでなく、(『日本の論点'95』久保亘)

が、旅客がさらに散歩をつづけて、道を百歩ばかり上ってゆくと、外観のかなりきれいな邸宅と、家にそうた鉄柵ごしにりっぱな庭園が眼につくにちがいない。(桑原武夫・生島遼一訳『赤と黒』)

あなたは面会にやってきた三氏に、こうのたもうたのです。(筒井康隆『将軍が目醒めた時』)


 「乞う」「問う」は「乞うて」「問うて」でいいとしても、ほかは「厭うて」か「厭って」か、どちらを使うか迷うところです。

 ワア行五段の動詞がウ音便をおこす理由は分かりにくいようです。ひとつ考えられるのは、動詞を活用した結果、もとの形態が分からなくなることを防ぐ気持ちがあるのではないかということです。「乞う」「問う」などというのは、実際の発音では [ko:] [to:] という長母音で発音されます。これが「乞って」「問って」になると、[kotte] [totte] に変わるのだから、もとの形と共通するのは [k] や [t] だけということになります。これでは頼りないので、「コーテ [ko:te]」「トーテ [to:te]」と長母音を保存するのではないか。
 よく使われる動詞なら、原形と活用形がさほど一致しなくてもかまわないんです。「来る」と「来て」、「する」と「して」では、だいぶ変化していますが、とくに困ることはありません。ところが、「乞う」や「問う」の場合は、現代では「頼む」や「尋ねる」に言い換える場合が多く、それ自体はあまり聞かれなくなってしまった。まして「乞って」「問って」などと、連用形に促音便形を使うと、なおさら分かりにくくなるため、それを避けようとするのでしょう。
 使用頻度ということでもう少しいえば、「追う」「負う」は、両方ともワア行五段の動詞ですが、「追う」はふだんよく使われるのに対し、「負う」の使われる局面は限られています。そこで、「追う」は「追って 」と活用するだけなのに対し、「負う」は、念のため、「負って」以外に「負うて」の形をもつのでしょう。
 「厭う」のばあい、現代では似た意味の「嫌う」がよく使われるので、たまに「厭う」を使うときは、「厭って」よりも「厭うて」のほうが聴覚的には分かりやすいかもしれません。

(1997.02)

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