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99.06.15

ご苦労さま

 「ご苦労さまでした」と目上の人にあいさつするのは失礼になる、とはよく言われることです。しかし、大きな国語辞典でも「他人の骨折りを感謝するていねいなことば。」(『日本国語大辞典』)とだけ説明してあったりして、このことばを使うときの相手のレベルについて、辞書の編者は必ずしも注意していないようです(追記2参照)
 僕などは、ついつい言ってしまいそうなことばです。「ご苦労さま」が失礼なら、「お疲れさまでした」「お世話さまでした」もだめなような気がしますが、これは特に問題がないらしい。
 相手が「苦労する」と表現すること自体が失礼だ、というのは大野晋氏の発言です(『日本語相談 4』朝日新聞社、p.257)
 また、中田祝夫氏によれば、目上の人から「ご苦労さま」と言われるのも、場合によってはいやな気がするということです。たとえば、上役の家族が急病になったと聞いて、入院のために奔走してあげた。すると、あとでその上役から「ご苦労さま」と言われた、というようなときです(「言語生活」170 1965.11)。中田氏によれば、「ご苦労さま」には発言者が相手にお世話を受けたというニュアンスが感じられない、「もともと授受の関係がないらしい」からということです。「授受の関係」でものをいうことは、敬語の基本の一つです。
 「ご苦労さま」は、他人の苦労を高みから見物しているような語感があります。夏目漱石の「行人」では、兄嫁が髪を結っている場面で主人公が言います。

 自分は湯に入りながら、嫂(あによめ)が今日に限ってなんでまた丸髷なんて仰山な頭に結うのだろうと思った。大きな声を出して、「姉さん、姉さん」と湯壺の中から呼んでみた。「なによ」という返事が廊下の出口で聞こえた。
御苦労さま。この暑いのに」と自分が云った。
「何故」
「何故って、兄さんの御好みなんですか、そのでこでこ頭は」
「知らないわ」
(『行人』漱石全集8 p.107 仮名遣い等改める)

 これは、いくぶん冷やかしの気持ちもあるようです。
 「ご苦労さま」に、あまりねぎらいの気持ちが入っていないということを逆用すると、次の投書にあるようなあいさつになります。投書主は草野球を見に出かけています。

 正午になると、女房が今度は昼のにぎりめしを運んできてくれる。市電で二十分はかかったかな。ちょっとばかり気がひける。しかし、ここで弱味を見せては、次回からのサービス低下は目に見えている。口まで出かかった「すまんなあ」をぐっと押えて、一言「ゴクロウ(暮しの手帖 2-50 1977.10 p.161)

 「すまない」と「ご苦労」とを使い分ける、このあたりの言語感覚はなかなかのものではないでしょうか。
 青島幸男・前東京都知事は、いつも記者団の前に姿を現すとき、「ご苦労さんです」と言っていたそうです。夕方以降には、これに「遅くまで」がつき、必ず「遅くまでご苦労さんです」となったということです(「毎日新聞ほっとNEWS」1995.07 p.2)。これは失礼な印象を与えただろうか。

(2002.02.04一部改稿)

追記 出版社の高橋書店のホームページ、2001.01の「今月のおやくだち」に、

「ご苦労様」は、骨折りをねぎらうていねいな言葉ですが、昔、主君が家来をねぎらうときに使った「ご苦労であった」が転じたものですから、目上の人に使うのはタブーです。

とあります。「昔」とはいつのことでしょうか。少なくとも室町末期〜江戸初期の狂言「右近左近」では「是は何れも様、近頃御苦労に存まする」とあって、主君が家来に言っているわけではないようです(『日本国語大辞典』)。なお、高橋書店のページのこの説は、『知りたいことがすぐわかるマナーBOOK』(高橋書店編集部)から引用したとのことです。(2001.07.01)

追記2 「ご苦労」が使われる相手のレベルについて、以下の国語辞典には言及がありません。『日本国語大辞典』(初版、第2版)、『広辞苑』(第5版)、『講談社カラー版日本語大辞典』(第2版)、『新潮現代国語辞典』(第2版)、『新明解国語辞典』(第5版)、『岩波国語辞典』(第5版)、『新選国語辞典』(第7版)など。
 言及している国語辞典もあります。『大辞林』(初版、第2版)には「目上の人には使わないのが普通」、『学研国語大辞典』(第2版)には「目上の人に対して言うのは失礼とされる」、『集英社国語辞典』(初版)には「本来は同等以下の者に対して使う」、『三省堂国語辞典』(第5版)には「目上の人が、相手の苦労を尊敬した言い方」とあります。(2002.02.04)


関連文章天皇に対する敬語

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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