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99.06.09

文学研究者と「ら抜き」

 石原千秋著『秘伝 中学入試国語読解法』(新潮選書)は、気鋭の近代文学研究者が息子との中学入試の体験を書いたということで、さっそく評判になっているようです。
 本編は2部に分かれています。第1部が体験記、第2部が国語入試問題の解法です。
 体験編では、大学という教育機構の頂点に身を置きながら、中学受験のために思い悩みつつ頑張る父親(石原氏)の姿がよく描かれていて、一気に読んでしまいました。
 解法編では、今まで僕もどれが正解か迷うことが多かった国語の問題は、実は近代文学を講じる著者でもやはり迷うのだということが分かって、ちょっと安心しました。「国語の問題の正解は一つではない」とよく言われますが、あれは正確には「問題の質が悪いため、一つに決められない」ということではないかと思います。
 また、著者は〈中学で教えている「国語」は、「文学」というような豊かなものではない、それは「道徳教育」だ〉といった意味のこと(たとえば p.174)を言っていて、面白い。よく、日本語の研究者は、「中学や高校で教えている文法は文法でない」などということを言いますが、文学研究者も国語に関して同じようなことを思っているんだな。
 それはともかく、ちょっと注意を引いた記述がありました。それは「ことばの乱れ」についての文です。「ことばが乱れている」なんていうのは、よくものを知らない人が自分の好みを押しつけているだけだ、と著者は言い、

最近話題の「ら抜き言葉」にしても、明治、大正の文献を読んでいるとよく見かけるものだし、僕が息子に読んで聞かせた井上靖の『しろばんば』にもちゃんと出てきた。(p.216)

 「ら抜きことば」というのは、「見られる」を「見れる」というようなものです。明治大正の文献で「よく」ら抜きことばを見かけるというのは本当でしょうか。
 僕の理解では、この言い方は昭和初期から広まったはずです。

この「見れる」「来れる」などの言い方は、話し言葉の世界では、昭和初期から一部に使われており、第二次世界大戦後は更に一般化し、最近では、話し言葉だけでなく、書き言葉としてもぼつぼつ使われだしている。(文化庁『言葉に関する問答集』大蔵省印刷局、p.540)

 また、見坊豪紀氏は、大正時代の次の例を挙げています。

見ろやい、ひと飛び、/俺{おり}は此所だ、/誰{だあれ}も来れまい、/俺{おれ}ひとり。(「お山の大将」)〔北原白秋訳『まざあ、ぐうす』大正十年〕(「放送文化」6月号24「「まざあ、ぐうす」に想う」平野敬一)(「言語生活」300, 1976.09 p.75)

(ちなみに角川文庫〈昭和5年アルス版全集が底本〉p.210によると「みろやい、ひととび、/おりゃここだ、/だァれもこれまい、/おれひとり。」)

 また、松井栄一氏は、『国語辞典にない言葉』(南雲堂 1983.04.25 p.130)の中で、明治時代の例を挙げています。

今に好{い}い旦那でも取る様になったら、花生さんも最{も}う席なんかへでなくッたって、左団扇{ひだりうちわ}と来{こ}れる様な訳なんだね。(永井荷風『をさめ髪』一、1899年)

 ただ、これらは稀少例とされているもので、数はそう多くないはずです。石原氏が「明治、大正の文献」に「よく見かける」というのは、筆がすべったのでなければ、あるいは重要な事実の指摘かもしれません。
 「しろばんば」は昭和37(1962)年の刊行ですから、ら抜きことばがあっても不思議ではありません。特に、舞台となった伊豆の方言には「ら抜き」があるようなので、出てくる可能性はあります。
 ただ、「しろばんば」は大部の小説なので、僕はまだ石原氏の指摘の裏付けを取ってはいないのです。


追記 次回に続きを書きました。また、こちらに後日談を書きました。

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