HOME主人敬白応接間ことばイラスト秘密部屋記帳所

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ三省堂国語辞典
email:
02.10.22

ハツイさん

 北朝鮮に拉致された被害者の方たちに関する連日のニュースに心を痛めています。とりわけ、高齢のご家族の心情は察するに余りあります。

 新潟県柏崎市から拉致された男性にようやく再会がかなったお母さんの名はハツイさん、お祖母さんの名はキクイさんというそうです。漢字で「初井さん」とか「喜久井さん」とか書くのかと思ってしまいますが、そうではなく、さしずめ「初江さん」、「菊江さん」でしょう。

 柏崎市は、「イ」「エ」の発音が同じになる地域に含まれます。『講座方言学1 方言概説』(国書刊行会)の加藤正信「音韻概説」の図によれば、北海道の南部や東北地方(特に太平洋側)、東関東、新潟(上越・佐渡以外)、富山、能登、出雲地方などでは「イ」「エ」を区別しません。これらの地方では、「初江さん」を発音するとき、「ハツイサン」「ハツエサン」の中間的な音になると思われます。

 もっとも、単独の母音「イ」「エ」の区別はなくても、子音と結びついて「キ・シ・チ……」(イ段音)となる場合と、「ケ・セ・テ……」(エ段音)になる場合とはきちんと区別されています。つまり、「駅」と「息」とは混同して「イキ」と「エキ」との中間的な音になるのに対し、「アニサマ(兄様)」の「ニ」と「アネサマ(姉様)」の「ネ」とははっきり発音し分け、聞き分けます。新潟の方言集をぱらぱら見たところでは、「キナレー」と言えば「来てください」ということですが、「ケナリー」といえば「うらやましい」ということで、意味が異なります。

 では、この地方で、単独で「イ」もしくは「エ」が発音されるのを耳で聞いたとき、その音は、「アニサマ」の「ニ」の母音と、「アネサマ」の「ネ」の母音と、どちらのほうにより近い音になるでしょうか。加藤正信氏の説を参考にすれば、答えは「アネサマ」の「ネ」の母音に近いということになりそうです。つまり、「イ」のほうから「エ」に接近して、1つになっているわけです。新潟・栃木・茨城などの地方では、単母音の体系は「アイウエオ」から「イ」が落ちた「アウエオ」になっていると考えられます。

 体系上は「アウエオ」なのですから、新潟では「イ」というカナは不要になってしまいます。「駅」も「息」も音韻体系に忠実に書くならば「エキ」であり、「初江さん」も「ハツエサン」と書けばいいことになります。しかし、それでは「イ」のカナがもったいないので(?)、/e/ の音韻を表す個所に「エ」の代わりに「イ」を使うこともあるのでしょう。

 つまり「ハツイさん」は、仮名遣いとしては「イ」を用いているけれども、事実上は「エ」と同じであって、アナウンサーが「ハツエサン」と発音してもなんら差し支えないことになります。

 「イ」と「エ」とを区別しないという話で思い浮かぶのは、取り調べや裁判での差別性が問題になったいわゆる「狭山事件」です。1963年に埼玉県狭山市で起きた殺人事件の容疑者として逮捕された被差別部落出身の男性は、支援者と共に裁判で無実を訴えましたが、無期懲役刑が確定しました。ところが、長年の闘争の末、1994年に仮出獄が決定され、現在、なおも裁判のやり直しを求める請求が続けられています。

 男性が犯人とされた決め手の1つに、被害者宅に送られた脅迫状と、男性が書いたアリバイ上申書等との筆跡に一致が認められたということがありました。国語学者の大野晋氏は、弁護人の依頼を受けて「脅迫状は被告人が書いたものではない」との鑑定書を提出しましたが、裁判所は簡単にこれを退けました。

 大野晋『日本語と世界』(講談社学術文庫)に収録された脅迫状の写真と上申書などの写真とを比べてみると、ごく自然に、脅迫状は男性が書いたものではないだろうという考えが起こってきます。

 とりわけ注目されることの1つは、「イ」と「エ」の問題です。脅迫状には、「車出いツた(車で行った)」「いツてみろ(行ってみろ)」「車出いツた」「とりにいツて(取りに行って)」と、4回「行った(て)」が使われています。いずれも「行く」には「い」の文字が使われています。

 ところが、男性が上申書で書いた文章の表記は、これとは異なります。「どこへも行ってません」が「どこエもエでません」となっています。「エ」が使われています。被差別部落に生まれた男性は、当時、満足な教育を受けることができず、書写能力を高める機会が十分に与えられませんでした。そのため、文章を記したときに、「イ」と「エ」とを区別しない埼玉方言の音韻の特色がそのまま現れる結果になったのです。

 大野氏は、男性の漢字能力、促音や拗音を記す能力などについて仔細に鑑定していますが、脅迫状が男性の手になることを疑わせる要素は少なくありません。裁判所がその鑑定を重視せず、反対に被告を有罪とする材料としてしまったのは不可解というしかないでしょう。

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。
email:

Copyright(C) Yeemar 2002. All rights reserved.