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01.06.29

「やぶく」と「やぶる」

 参議院選挙が近くなり、街角に選挙ポスターの掲示板(掲示場)が設置され始めています。
 ふと見ると、板の片隅に注意書きが書いてあります。その中の一文に目が止まり、思わずまじまじと見入ってしまいました。

3.掲示場をこわしたりポスターをやぶいたりすると罰せられます。(中野区で 2001.06.28)

 「それがどうしたのかね」と言う人もいられるかもしれません。別に不審な点はないのですが、「やぶったり」でないところがおもしろく感じられたのでした。ここでは「やぶる」ではなく「やぶく」ということばを使っています。たしか、東京都議選のときもそう書いてありました。
 「やぶる」に比べて「やぶく」は意味が狭いことばです。柴田武編『ことばの意味2』(平凡社)は、「ヤブケルは抽象物が主体にはならない」と指摘し、「力の均衡・平和・静けさ・夢」などには「やぶれる」が使えるが、「やぶける」は使えないことを示しています。
 また、森田良行『基礎日本語2』(角川書店)では、「卵の殻・鉄管・堤防・囲み・バリケード・金庫」などに「やぶる」「やぶれる」は使えるが、「やぶく」「やぶける」は使えず、「紙・セロハン・ゴム・ビニール・布・網・畳表」など柔らかい薄ものに限られるとしています。
 選挙ポスターは紙ですから、「やぶる」ではなく「やぶく」を使った中野区選挙管理委員会の言語感覚は正しいといえます。
 ところが、ここでもう一つ注目すべきなのは、この「やぶく」「やぶける」は『新明解国語辞典』によれば「口頭語」で、書くときに使うことばではないとされているのです。僕の語感でも、「紙がやぶけてしまった」というと、「紙がやぶれてしまった」よりも話しことば的な感じがします。
 『新明解国語辞典』の基になったのは、1943年に出た『明解国語辞典』ですが、その時以来の「やぶく」「やぶける」の扱いをまとめてみると、以下のようになります。

辞書名発行年やぶくやぶける
明解 初版1943項目ナシ項目ナシ
明解 改訂版1952〔俗〕〔俗〕
新明解 初版1972〔俗〕〔俗〕
新明解 2版1974〔俗〕〔俗〕
新明解 3版1981〔俗〕〔俗〕
新明解 4版1989〔口頭〕
新明解 5版1997〔口頭〕

 なんと、今から60年近く前の1943年(太平洋戦争のさなか)には「やぶく」「やぶける」は辞書に無視されていた! それが、年月を経るにしたがって、「俗語」扱いとなり、ここ最近でようやく「口頭語」扱いとなったようです。
 選挙ポスターの掲示場の文章は、きわめて公的な性格が強いはずです。そのようなところで「やぶく」が使われているのを戦時中の人が見たら、僕のように「おやっ」と思うのではないでしょうか(僕は戦時中の人間だったのか)。
 少し前、東武鉄道の小川町駅で目にした注意書きのプレートには、

折れた券、破けた券では(定期券)自動改札、自動精算機のご利用は出来ませんので、ご注意ください。1999.06.19採集

と書いてありました。べつに東武鉄道に限らず、「破けた券」という言い方はどこでも使われているかもしれません。
 公共の場で「やぶける」はふつうに目にするようになっているようです。ということは、もう書きことばにも使えるふつうのことば一歩手前、いや、もうすでにそうなっていると言ってよいかもしれません。


追記 全国的にみたばあい、「公共の場で使える一歩手前」といえるかというと、ちょっと保留がつきそうです。
 くだんの参院選のとき、掲示板で注意書きがどう書かれていたか、みなさまに情報のご提供をお願いしたところ、三重県四日市市・伊勢市・大阪府茨木市・大阪市・箕面市・京都市左京区では「やぶったり」、東京都町田市では「やぶいたり」であったとのことでした。「やぶく」は東京方言だとご教示くださった方もいられました。
 近畿と東京以外の掲示板ではどうだったかは、不明のままです。(2002.01.23)

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