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01.06.25

黒煙を立てて

 何かに打ち込んでいる様子を言い表すとき、現代語では「一心不乱に」とか「目の色を変えて」とか言いますが、昔は「黒煙を立てて」という言い方がありました。
 「源氏物語」若菜の巻では、重い病の床に臥した紫の上のため、験者が「頭(かしら)よりまことに黒煙くろけぶりをたてて」加持祈祷するところがあります。「まことに」と言っても、「本当に煙が出そうなほど」というほどの意味でしょう。
 鎌倉時代の「宇治拾遺物語」では、干魃でみんなが困っているとき、「僧ども黒煙をたてて、しるしあらはさむと祈りけれども」晴れるばかりだったとあります。(岩波文庫上巻 p.58)
 どうにかして雨を降らせようと、しまいにある僧がお香を焚く器を額に当てて――つまり本当に頭から黒煙を立てて祈ったところ、みごと大雨が降ったとか。「頭から黒煙を立てて」というもののたとえを実践したわけです。古い言い回しを知っていないと、話の面白さがよく分かりません。
 このほか、謡曲の「道成寺」、近松門左衛門の浄瑠璃「用明天王職人鑑」といった作品にも「黒煙を立ててぞ祈りける」と出てきます。
 とすると、この言い方はどうもただ一心不乱というだけでなく、祈りの場面にかぎって使われるように思われます。
 ところが、『日本国語大辞典』には上の「源氏」および「宇治拾遺」の例以外に、「太平記」の戦闘場面から引いてあります。それはこういうのです。

大塔の宮、今は逃れぬところなりと思し召し切つて、〔……〕敵の棚引きて控へたる中へ走り懸かり、東西を払ひ、南北へ追(お)ん回し、黒煙を立てて切つて回らせ給ふに、(巻七)

 一生懸命に敵の中に攻め込む描写と受け取れなくもないですが、これは実際に煙が立っているのでしょう。「馬煙を立てて馳せ来たる」という言い方もあります。つまり、馬の立てる土ぼこりのことを「煙」と言っているのでしょう。頭から煙を立てるのとは、区別すべきだと思います。
 鎌倉時代の「とはずがたり」では、後深草院の中宮がお産をする場面で、験者が一心に数珠を揉みながら祈ったというところがあります。

 すでにとみゆる御けしきあるにちからを得て、いとどけぶりもたつ程なる。(巻一)
 (もう生まれそうなご様子に力を得て、本当に煙が立つほどに祈った。)

 明治書院『とはずがたり』の注を見ると、この「けぶり」は「湯気」と書いてあります。しかし、湯気ではないな。ここはやはり黒煙のことでしょう。

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